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鉄仮面令嬢は完全無欠の若き公爵閣下に溺愛される  作者: 松うみか


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24/36

24 消えたエリシア1

ハルトヴィヒ視点です。

なお、前回24話として公開した「消えたエリシア」は、物語のテンポを考慮し、25話として再投稿しております。内容の改稿等はございません。

混乱を招いてしまった方には申し訳ありませんが、引き続きお楽しみいただければ幸いです。

 ハルトヴィヒの声はエリシアには届かなかった。

 一度も振り返ることなく、歩みを進めるあの背を追いかけるか一瞬迷って――伸ばしかけた手を止めた。


「……追わなくていいのか?」


 レオナルドの声が、背後から届いた。

 ハルトヴィヒは目を伏せ、しばし沈黙する。

 今の自分に、彼女を追う資格はあるのか――。


「もしかすると、誤解しているかもしれないぞ」

「誤解?」


 ハルトヴィヒは眉をひそめる。


「いつから聞いていたかはわからないが、彼女は『立ち聞きするような真似』と言っただろう? お前の言葉を、別の意味に受け取った可能性は十分にあるだろう?」


 ――別の意味?


 レオナルドの言葉を反芻し、先程までのやりとりを思い返す。


『……ああ、本当だな。あの場でプロポーズなんかしなきゃよかった。そうすれば――』


 もし、彼女がこの一文だけを耳にしていたとしたら?

 彼女がここだけを聞いていたらどう思うかは、考えるまでもなかった。


 ――最悪のタイミングだ。


 気づけば足が動いていた。

 胸の奥を何かが急き立てるように、勢いのままに走り出す。

 だが、姿が見えない。エリシアと別れてから、そう時間は経っていないはずだ。

 エリシアが通るであろう道を進み、王宮の裏手――客用の馬車が待機する場所へ向かって駆けた。


 幸い、公爵家の馬車はまだあった。

 その漆黒の車体を見た瞬間、わずかに安堵しながら御者に声をかける。


「エリシアは中か?」

「エリシア様ですか? ご一緒だったのでは?」


 御者は困惑した様子で首をかしげた。

 一抹の不安が、胸の奥を掠める。

 ハルトヴィヒが馬車の扉を開けると、中はもぬけの殻だった。


「い……ない……」

「まだお戻りではありませんが……?」

「どういうことだ?」


 ハルトヴィヒは、エリシアが通ったであろう経路を確かに辿ってきた。

 途中で見かけなかったということは、すれ違ったのだろうか。あるいは寄り道だろうか――と考えて、エリシアに限ってそれはないと首を振った。

 では、彼女は今どこにいるのか――。

 ハルトヴィヒは静かに視線を上げ、御者に目をやった。


「エリシアが戻ったら、彼女の願いだとしても馬車を出すな。僕を呼んでくれ」


 ハルトヴィヒは御者に告げ、踵を返した。














「エリシアがいない」


 大広間に戻ったハルトヴィヒは息を整える間もなく、夜会の主であるレオナルドに告げた。


「間に合わなかったのか?」

「違う。馬車には戻っていなかった。あれからもう一度庭園を探したが、見当たらなかったんだ。ここには戻ってないだろうか?」


 ハルトヴィヒは今一度庭園を探したが、エリシアはいなかった。入口で警備にあたらせていた公爵家の護衛にも確認を取ったが、エリシアは見かけなかったという。

 大広間に戻っているのなら、それでいい。

 わずかな期待を込めて訊ねると、レオナルドはすぐに銀混じりの侍従長を呼び寄せた。

 

「ハルトの婚約者のリヴェール嬢を見なかったか?」

「先ほどハルトヴィヒ様の所在を探しておいでだったので、庭園にいるやもとお伝えましたが、それっきりです」

「一度もここには戻ってきてないと?」


 侍従長は短く頷いた。

 ハルトヴィヒは歯噛みし、何か別の手がかりを求めて視線を彷徨わせた。

 その時、場違いなほど明るい声が無遠慮に割って入ってきた。


「あら、ハルトヴィヒ様っ。こんなところにいらしたの? 探しておりましたのよ」


 赤い髪を丁寧に巻き上げ、胸元を大きく広げたドレスを身に纏った女が、艷やかな笑みを浮かべて近づいてきた。

 ドレスの裾をちょんと摘み、レオナルドとハルトヴィヒに一礼する。高位貴族らしい、隙のないカーテシーだ。

 それは、礼儀というより計算された演技だった。わずかに傾けた顎の角度、指先に宿る柔らかな弧までもが完璧で――完璧すぎて、不自然だ。

 ハルトヴィヒは、無意識に目を細めた。

 この女のことは、よく知っている。

 サルバドル侯爵の娘――アマステラ・サルバドル。

 だが、今はかまっていられない。


「すまないが、急いでいる」

「もしかして、鉄仮面をお探しなのでは?」


 その場を離れようとしたハルトヴィヒに、アマステラは一歩前に出て、わざとらしい仕草で扇を唇に当てた。


 ――鉄仮面。

 その言葉に眉がぴくりと動いた。

 そんな侮辱を平然と口にできるのは、彼女がエリシアを快く思っていない何よりの証拠だった。


「……いや、僕の婚約者を探している」


 低い声で言い返すと、アマステラは目元を引きつらせた。


「あの子なら帰りましたわ」

「公爵家の馬車は出ていないが?」

「ええ。公爵家の馬車では帰っておりませんもの」

「じゃあ、どの馬車だ?」


 問い詰める声に、アマステラは一瞬間を置き、艶めいた笑みを深める。


「それは……お聞きになって、後悔なさらないかしら?」

「どういう意味だ?」


 ハルトヴィヒは目を細め、怪訝な表情を浮かべた。


「ほら、あの子ったらどこまでも愚図でしょう? 先ほども私と話している時に、()()()()()()でハルトヴィヒ様からいただいたドレスを汚してしまったのですよ。それで……酷く落ち込んでおりましたの」


 まるで芝居のように抑揚たっぷりに語りながら、アマステラは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。


「それで? 急いでいると言っただろう? 早く結論を言ってもらえるだろうか」


 ハルトヴィヒが冷ややかに告げても、アマステラは少しも動じない。むしろ挑発的な笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「構わないのですね。では、お教えしますわ。私、見ましたの――――あの子がお兄様にもたれかかって、我が侯爵家の馬車に乗るところを」


 その瞬間、ハルトヴィヒの体が強張った。

 視界が一瞬揺れ、血の気が引くのを感じた。


「……なんだって?」

「信じたくはありませんわよね……。ハルトヴィヒ様という素敵な方が隣にいらっしゃるのに、私のお兄様の優しさにつけ込んで。エリシアったら、本当節操がありませんわよね」


 アマステラは饒舌に、吐き出すように言葉を紡ぐ。

 その声にはどこか愉悦のような色が含まれていた。


「エリシアが、マルコ・サルバドルと出た、だと?」

「ええ。そうですわ! あの子は今頃お兄様と…………。ですからあんな子、探す必要なんてありませんわ。私と、今宵の夜会を楽しみましょう?」


 その声は甘ったるく、そしてほんの少しの毒を含んでいた。

 豊満な身体を押しつけながら、ハルトヴィヒの腕にそっと自分の腕を絡めようとする。






 けれど、ハルトヴィヒは微笑みを浮かべ、その手を静かに制した。


「サルバドル嬢。君は『エリシアは帰った』と言ったな?」


 もう一度、確かめるように訊ねる。平静を装ったつもりだったが、思っていた以上に低い声が出てしまった。

 もっともアマステラはそれに気づいていないらしく、ハルトヴィヒの甘い笑みに頬を染め、この先を期待するような眼差しを向けた。


「ええ。私のお兄様に甘えて、肩を抱かれて帰っていきましたわ」

「そうか……。では、エリシアはどこへ帰ったか知っているか?」


 ハルトヴィヒの問いに、アマステラは意味ありげに視線を逸らし、わざとらしく肩をすくめた。


「そうですわね……。まあ、年頃の男女がこっそり抜け出したようなものですから、どこへ向かったのかはわかりませんわ」


 その口調はあくまで上品ながらも、まるで察しろとでも言いたげな、微かな挑発を含んでいた。


「そうか」


 ハルトヴィヒは軽く目を伏せ、小さく息を吐いた。

 アマステラの曖昧な言葉が、逆に確信を強めていく。


「エリシアは帰る前、わざわざ僕を探してくれてね。その時に彼女はこう言ったんだ。『先に帰る』と。なぜだと思う?」

「さあ、わかりませんわ」


 まるでどうでもいいことを訊かれたかのように、アマステラはさっと視線を逸らした。


「僕が乗る馬車がなくなるからだよ」

「それが、なにか?」


 興味のない話を無理に続けさせられているような、冷たい視線がぶつかってきた。けれど、ハルトヴィヒは表情を変えず、毅然と続ける。


「まだわからないか? 彼女が先に帰ると言った以上、その行き先は当然公爵家だ。なにせ彼女は今、公爵邸に滞在しているからね。僕とエリシアは、一台の馬車で一緒に来たんだ。彼女が黙って先に帰ってしまうと、僕の足がなくなってしまう。彼女はそれを懸念して、僕を探してくれたんだよ」

「あ……」


 やっと言わんとすることが理解できたのか、アマステラの睫毛が揺れた。扇を閉じるその手が、ほんの僅かに震えている。


「ですが、お兄様と一緒に……」

「そうだろう。エリシアは今、君の兄――マルコ・サルバドルと一緒にいるのだろうな」


 まさか肯定されるとは思わなかったのだろう。アマステラの大きな瞳が一瞬見開かれたが、その瞳の奥には確かな期待の色が浮かんだ。


「え……ええ、そうですわ! 私、この目ではっきりと見ましたもの。ああ、お可哀想なハルトヴィヒ様。裏切られてもなお、エリシアを想っていらっしゃって……。これ以上、見ていられませんっ。私がお慰めしたいですわ」


 アマステラは瞳を潤ませ、上目遣いでハルトヴィヒを見つめた。

 すると、これまで静観していたレオナルドが堪えきれないとばかりに笑いを漏らした。


「殿下?」

 

 レオナルドの笑い声に、アマステラは一瞬だけ眉を顰め、怪訝な表情を浮かべる。


「……これは傑作だな。もう、いいか?」


 何とは言わなくても、ハルトヴィヒにはわかった。

 レオナルドの問いかけに、静かに頷く。


「サルバドル嬢を捕縛しろ」

「え?」


 レオナルドの命で、近衛騎士たちが一斉に動き出す。

 素早くアマステラを後ろ手に縛り上げ、膝をつかせた。


「ど、どういうことですの!? どうして、私が!」

「君はどこまでも愚か者なんだな」


 ハルトヴィヒは吐き捨てるように言った。

 『完全無欠の若き公爵』として名を馳せる、社交界きっての人気者であるハルトヴィヒの嘲弄に、会場には絶対零度の冷気が漂う。


「なんですって……?」

「エリシアが自分から、サルバドル令息と共に馬車に乗るわけがないんだよ」


 諭すつもりはない。

 いつもの淡い青の瞳を、凍らせたかのような冷たい視線で見下ろす。


「僕はエリシアの言葉を信じている。エリシアは『先に帰る』と言って、その足で馬車の待機所へと向かった。それはつまり、君の兄と帰るような予定など、最初からなかったということだ。共に馬車に乗ったのならば、何らかの理由で脅されたか、もしくは――――意識がないか、だろう」


 アマステラはひゅっと息を呑んだ。

 ハルトヴィヒは一歩踏み出す。影を落とすように、その存在感だけで彼女を圧する。


「それで――――お前たちはエリシアをどこへやった?」


 ハルトヴィヒは笑みを浮かべた。

 けれど、ようやくそれが微笑みではないと気づいたらしい。

 周囲の客人たちが息をひそめる中、アマステラは追い詰められた獣のように唇を震わせていた。







「それで? 俺の夜会で何をしてくれたのか、説明してもらおうかな」


 レオナルドは目の前の女に、柔らかな微笑みを浮かべていた。だが、その声にはほのかな怒気が滲んでいる。

 あの後、アマステラはすぐに控えの間へと連行された。椅子に座らされ、両脇には近衛騎士がぴたりと立っている。

 ハルトヴィヒは腕を組んだまま壁際に立ち、無言でアマステラを見下ろしていた。その隣には公爵家の護衛が、厳しい目つきで周囲を警戒していた。


 そんな張り詰めた緊張が漂う空間でも、アマステラは背筋をぴんと伸ばし、視線を逸らすことなくレオナルドを見返していた。


「私は、何も知りません」


 しらを切ったその声は、わずかに掠れていた。


「……まあ、話さないのならそれでもいい。王太子主催の夜会で誘拐を企てただけでも、王家に対する不敬だろう。なにせ俺の面目を潰されたのだからな。つまり俺の大切な招待客を誘拐したとわかれば、首謀者も協力者も当然処刑になるわけなんだが――」

「……っ」


 アマステラの肩がわずかに震え、喉がひくりと動いた。


「今、正直に話せば、君の命だけは保証しよう」


 王太子レオナルドからの寛大な提案に、アマステラの瞳が大きく見開かれた。

 わずかに揺れる呼吸に、迷いと希望が交錯しているのが感じられる。


「さあ、どうする?」


 しばしの沈黙の後、アマステラは口を開いた。


「……お兄様の命も保証してください。そうしたら話しますわ」


 甘く揺れる声の裏で、唇の端がほんの少しだけ歪み、瞳の奥にちらりと狡猾な光が宿った。

 そんなこと、許されるはずがない。

 彼女の挑戦的な言葉に、レオナルドの瞳が細まったのをハルトヴィヒは見逃さなかった。


「私の証言がないと、エリシアを探せないのでしょう? このまましらみ潰しで探すより、早く見つけられますわ」


 アマステラの声には確信が宿っていた。

 相手の弱点を突くその言葉に、ハルトヴィヒは今にも突っかかりそうになるのを必死にこらえた。


「君は――兄の罪を見逃せというのか?」

「人間誰しも過ちを犯すものですわ。それは殿下もハルトヴィヒ様も同じこと。一度だけ見逃していただけませんか」

「温情を見せろ、と」


 アマステラは上目遣いでじっとレオナルドを見つめている。

 ハルトヴィヒもまた、視線を向けた。こんな要求を呑むとは思えない――だが、返答はない。

 しばしの逡巡の末、レオナルドは口を開いた。


「……わかった」

「レオン!」


 怒鳴るように名を呼んだハルトヴィヒに、レオナルドはこちらを一瞥しただけだった。


 ――そうだ。たとえ不服でも、彼の決定に否やを唱えることはできない。


 それはハルトヴィヒとて、例外ではないのだ。

 抑えきれない衝動が胸を突き上げ、ハルトヴィヒは無意識に拳を握り締めた。爪が掌に食い込み、じわりと熱い痛みが滲む。


「この件については、サルバドル令息の罪を不問とする。ただし、君の発言に偽りがあれば、サルバドル侯爵家は一族すべて刑に処す」

「構いませんわ」


 アマステラのその顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


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