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鉄仮面令嬢は完全無欠の若き公爵閣下に溺愛される  作者: 松うみか


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22 エリシアとアマステラ

 夜会会場である大広間には、王家の紋章を織り込んだタペストリーが掛けられ、天井からは黄金のシャンデリアが揺れる光を放っていた。

 エリシアは給仕からグラスを受け取ると、会場の視線をかいくぐるようにそのままバルコニーへと向かった。


 今は誰にも会いたくなかった。

 一人になりたくて、バルコニーの欄干に手を添え、夜空を見上げる。


 けれど空は、まるで感情を閉ざしたかのような闇に覆われていた。

 月も星も厚い雲に隠れていて、夜の女神なんて最初からいないと言っているようだった。


 さっきのハルトヴィヒの様子が、どうしても頭から離れなかった。あの表情が、あの言葉のひとつひとつが、胸の奥に重く沈み込んでいく。

 確かに、エリシアが帰ったところで何もできないだろう。

 でも、だからといってリヴェール家で起こったことを、エリシアに隠すことはしないでほしかった。


 何かを隠していることは最初からわかっていた。

 ハルトヴィヒとの婚約も、父とハルトヴィヒとの間で、エリシアは知らなくてもいい取り決めがされているのかもしれない。

 それでも――。

 全てを話せなくても――。

 せめて、家族のことだけは話してほしかった。


 ハルトヴィヒと久しぶりに再会したあの夜、ほんの少しだけ距離が近づいた気がした。

 王都への外出も苦ではなかった。むしろ、ハルトヴィヒと過ごす時間が楽しくて、居心地が良かった。

 エリシアは気づかない内に、ハルトヴィヒに心を許していたのかもしれない。

 だからこそ、ハルトヴィヒに話してもらえなかったこともなんだか寂しくて――。


(――寂しい? どうして、寂しいのかしら)


 夜風が頬を撫でる。

 自分の気持ちがよくわからなくて、手にした葡萄色のグラスをそっと唇に運んだ。ハーブの香りがわずかに鼻先をかすめる。甘さは控えめで、舌に残るほのかな苦みが、どこか今の気持ちに似ている気がした。






 ふいにコツ、コツと軽やかなヒールの音が近づいてきた。誰かがやすらぎを求めて来たのかもしれない。そろそろ戻ろうかと踵を返すと、目の前に燃えるような真紅の絹糸がふわりと揺れた。


「あら、エリシアじゃない」


 聞き覚えのある声だった。

 一族を現す赤い髪に、豊満な身体を大胆にさらけ出した魅惑的なドレス。自信に満ち溢れた、強い眼差し。

 エリシアとは正反対のご令嬢が含みのある笑みを浮かべていた。


「……アマステラ様」


 そこには、マルコ・サルバドルの妹、アマステラ・サルバドルがいた。

 彼女も招待されていたらしい。となると、当然マルコもいるのだろう。

 正直、会いたくはなかった。

 この曇り空のように、エリシアの胸の内にも暗雲が立ちこめる。

 アマステラは閉じた扇子を口元に寄せると、品定めするかのようにエリシアを上から下までじっと見つめた。


「ふうん……? 相変わらず地味なドレスねえ。でもなあに、こんなに肩出しちゃって。エリシアのくせに、生意気ね」


 次の瞬間、肩に痛みが走った。

 加減したつもりだろうが、その冷たさと鋭さは骨にまで届くようで、思わず肩をすくめた。


「まあ完全無欠のハルトヴィヒ様が、鉄仮面のアンタなんかに本気なわけないものね。相手にされないから、色仕掛けのつもり? なんてみっともないのかしら」

「そんなつもりは……」


 このドレスは、自分が選んだものではないのだが。

 それをアマステラに言えば、どうなるかはエリシアにも想像がつく。

 アマステラはどんどん饒舌に、愉悦を含んだ笑みを浮かべながら続ける。


「アルベルト公爵家の御用達はカメリア•クチュールだったわね。ま、アンタじゃ到底着られないでしょうし、足を踏み入れることも許されないでしょうけど。だからって、よくそんな身なりで来られたものね。どこの大衆店のドレスか知らないけど、恥ずかしくないのかしら?」


 確かに、どれほど高級なドレスだとしても、それを纏う者がエリシアであれば分不相応だろう。

 だが、このドレスは紛れもなくカメリア•クチュールの一着。

 マダム・カミラとハルトヴィヒが熱心に話し合って作り上げた、この世界にただ一着しかない特別なドレスだった。

 気がつくと、エリシアの言葉が口をついて出ていた。


「……これはカメリア•クチュールのドレスです。私の侮辱は構いませんが、マダム•カミラとハルトヴィヒ様のお気持ちを踏み躙る発言はおやめください」


 はっとしてアマステラを見ると、まるで手なずけたはずの小獣に咬みつかれたかのような表情を浮かべていた。


「は? これがカメリア•クチュールのドレス? ハルトヴィヒ様のお気持ち? 何言ってんの、アンタ。見栄を張るのもいい加減に――――」


 アマステラの眉が険しく寄り、目元がわずかに鋭く光った。再びドレスをじろりと眺める。

 カメリア・クチュールのドレスには一つだけ特徴がある。

 どこかにさりげなく、カメリアの刺繍が施されているのだ。エリシアのドレスには、胸元に金のカメリアがひっそりと花を咲かせていた。


「カメリア…………金糸…………」


 アマステラはぶつぶつと何かを呟いていたが、言葉は聞き取れなかった。

 ただ、空気が変わったことだけは確かだった。


「アンタ、私に恥をかかせたわね!」

「そんなつもりは……」


 恥をかかせたつもりはない。

 けれど、そんな言い訳がアマステラに通じるはずもない。


「うるさいっ! エリシアのくせに、調子に乗らないで!」


 次の瞬間、アマステラの扇子がエリシアの手を打った。

 グラスを持つ手に当たった衝撃で、エリシアのドレスの胸元をじわりと濡らした。


「あははっ! 相変わらず無愛想で鈍臭くて間抜けなエリシア。自分でドレスを汚すなんて、そうそうないわよ? よっぽどハルトヴィヒ様に幻滅されたいのね。なんて哀れな姿なのかしら!」


 アマステラは、心の底から愉快そうに笑っていた。

 確かに――グラスを持っていたのは自分だ。中身をぶちまけたのも、自分の手からだった。

 いつも、いつも、こうだ。


「何の弱みを握ってハルトヴィヒ様の婚約者になったのか知らないけど、アンタが本当に愛されてるはずないでしょう? ねえ、弱みを握っているなら私に教えなさい。アンタじゃ釣り合わないのだから、私と代わりなさいよ」

「弱みなんて……」

「アンタ如きが、私に歯向かわないで。完全無欠の公爵に相応しいのは、同じく由緒正しく歴史ある我がサルバドル家に決まっているでしょう!」


 アマステラの言葉が静まり返った空気を切り裂く。

 そうは言っても、エリシアはハルトヴィヒの弱みなんて知らない。婚約の話だって、エリシアからしたわけではない。

 だが、アマステラがエリシアの言葉を信じるとも思えない。

 どう切り抜けるべきか悩んでいたその時、もう一つの重い足音が静かに近づいてきた。

 エリシアはほんのわずかな希望を胸に抱きながら、アマステラの肩越しに視線を向ける。


「アマステラ!」


 そこには、彼女によく似た赤い髪の男がいた。

 その瞬間、胸に灯った光はあっけなく闇にかき消された。


「お兄様」


 アマステラは嬉しそうに目を細めると、マルコに駆け寄った。

 マルコの瞳は鋭く光り、嗜虐的な喜びと歪んだ快楽が入り混じる冷酷な輝きを放っていた。彼の視線は一瞬も揺らぐことなく、エリシアを見据えていた。


「久しいな、エリシア。屋敷に行ってもお前がいないから、どこに行ったのかと探しただろう?」

「……その、婚約、しまして」


 そう言ったマルコの笑みが狂気を孕んでいるようで、エリシアの背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 声が震え、詰まる。鼓動が耳元でどくんどくんと響き、不快な緊張感が体を締めつける。


 だが、マルコとアマステラは顔を見合わせると、嘲るように声を上げて笑った。


「憐れで愚かなエリシアだわ。今だけでも、この束の間の夢を見ているといいわ」


 ひとしきり笑ったアマステラは、心底おかしいといった風に目尻に浮かんだ涙を拭った。

 嘲笑の余韻が残る中、マルコはじわりと口元を歪め、不気味な笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。


「それにしてもエリシア、お前汚らわしいなあ。また自分で汚したんだろう? よくそんな姿でいられるものだ。ここがどこだか知ってるのか? 王太子の夜会だぞ? お前のような薄汚い人間が足を踏み入れていい場所じゃない。見苦しい姿を晒す前に、さっさと帰ったらどうだ?」


 彼らの嘲笑が、バルコニーの静かな空気を鋭く裂いた。

 もう十分だ――マルコの言う通り、帰るべきだと痛感した。

 ここにいては、もうエリシアは壊れてしまいそうだ。

 覚悟を決めるというより、むしろ諦めに近い思いを抱え、エリシアは深く息を吸い込んだ。


「………………失礼します」


 震える声で頭を下げると、視線を落としたまま二人の横を静かに通り過ぎた。






 だから、エリシアは知らなかった。


 二人が顔を見合わせ、意味深な笑みを浮かべていたことを。

 もしここで帰る選択をしなければ、あんなことにはならなかったのに。

 けれど、この時には静かに波紋が広がり始めていた。

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