20 デート
この日、エリシアの侍女であるチェルシーが、いつも以上に朝から張り切っていた。
というのも、今日はハルトヴィヒと共に王都へ行くのだ。
先日ハルトヴィヒと久しぶりに再会した際に、王太子主催の夜会へ来ていくためのドレスを作りに行くことになった。
ハルトヴィヒはずっと多忙を極めていたが、ようやく仕事が落ち着いたらしく、日程が決まったのはつい昨日のことだった。
衣装室には既に山ほどのドレスがあるため、エリシアとしては作らなくても良かったのだが、そこはアルベルト公爵家としての面子があるらしい。
だが、鏡を見て思う。これは流石に気合が入りすぎている。
髪はサイドをふんわりと編み込み、ハーフアップにまとめられている。そこから流れる髪は、毛先がくるんとやわらかく丸まるように丁寧に巻かれていた。
「……チェルシー。今日はただドレスを作りに行くだけよ。そんなに気合いを入れなくても、普段通りで構わないわ」
エリシアの言葉に、鏡越しに映ったチェルシーはカッと目を見開いて両の拳を握りしめた。
「なりません! エリシア様は今日のお出かけを何だとお思いなのですか!」
まるで、何か重大な勘違いを正すかのような勢いである。そして、なんだか前にも似たようなことがあった気がする。
そんな考えが浮かんでいたが、チェルシーのつり上がった目がエリシアを捉えて離さない。空気が凍りつくような視線。言葉がないぶん、なおさら怖い。これはあれだ。なぜチェルシーを専属侍女にしないのか、シェリーに訊ねた時のような空気感だ。
だが、いかに張り切られたところで、目的は決まっている。
「何って……夜会に来ていくためのドレスを作りに行くだけでしょう?」
そう応えたエリシアに、チェルシーは首を横に振った。
「違います! エリシア様、これはデートなのですよ!」
その言葉にエリシアは思わず息をのみ、目を瞬かせた。
――デート?
デートとは何だっただろうか。
確か、読んだことのある小説にはこう書いてあった。
恋人たちが並んで歩き、共に時を過ごす特別なひとときであり、互いに親密な関係を深め、互いの存在を確かめ合う甘い時間だと――。
(それを、ハルト様と私が……?)
思ってもみなかった単語に、心臓が飛び出しそうになる。
燃えるような熱が駆け巡り、顔が熱くなる。
「さ、そういうわけなので、とびっきり可愛くいたしますよ!」
チェルシーははりきった様子で髪飾りを手に取ると、真剣な眼差しでどれを使うか考え始めた。
(これは、”デート”)
エリシアはチェルシーにされるがまま、頭の中でその言葉の意味を反芻していた。
準備を終えたエリシアが屋敷の玄関へと向かうと、すでにハルトヴィヒが待っていた。
ハルトヴィヒの今日の装いは、薄手の藍色の外套を羽織って爽やかな印象である。縁や胸元には控えめに金糸の刺繍が施されており、上品に輝いている。袖口はゆったりと広く、白いシャツの襟が覗いていた。
薄手の手袋をはめ終えると、ハルトヴィヒはふと視線を上げ、エリシアを見つめた。一瞬だけ目を見開いたが、次の瞬間にはその表情はどこか柔らかくほどけていた。
「……驚いた。エリシアは毎日可愛さと美しさが増していくんだな。なんて可愛いんだ。これほどまでに美しい君の隣に立てるなんて、光栄だ」
相変わらず甘い言葉を恥ずかしげもなく紡いでいるが、今日はいつにも増して言葉の甘さが際立っている。
背後でチェルシーが得意げな顔で頷いている姿が目に浮かんだが、エリシアはあえて気づかないふりをする。
そのまま静かに歩み寄ると、ハルトヴィヒがそっと手を差し出してきた。
「今日はデートだから、こんなに可愛くしてきてくれたのかい?」
「っ!?」
ハルトヴィヒの言葉に、重ねようとした手が思わず止まった。
――これはデートなのですよ!
そして頭の中で、チェルシーの言葉が反芻する。
エリシアはただの用事、ただの買い物だと思っていたのに、ハルトヴィヒは”デート”だと思っていたことに気づく。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けるように広がった。
じわじわと熱がこみ上げてくる。心臓の鼓動が耳の奥まで響いてくるようだった。
否定したいのに、チェルシーもまたそのつもりで用意したがゆえ、否定できない。
なぜかハルトヴィヒの顔を見ることができず、視線は不自然に浮かんだままの手に注がれる。
「……本当、可愛いなあ」
ハルトヴィヒは呟くようにそう言うと、大きな手でエリシアの手をそっと包んだ。
*
王都までの道のりは、エリシアにとって苦行の一言に尽きた。
なにせ馬車に乗るまで気づかなかったのだ。
――待って。もしかして、二人きり?
それからはもうずっと心ここにあらずだった。
道中、ハルトヴィヒが何か話しかけてくれていたのだが、緊張のせいであまり覚えていない。
ただひたすらに、一刻も早く到着することを願っていた。
そう必死に心の中でやり過ごしているうちに、気づけば目的のドレスサロンに到着していた。
「ここは……」
エリシアは、店を見上げて思わず言葉を漏らした。
確か、予約が数ヶ月先まで埋まっている老舗のドレスサロン――『カメリア・クチュール』は、王都でも名の知れた一流店だ。さほどドレスに興味のないエリシアですら知っている。
そんな格式ある場所に、自分が足を運ぶ日が来るとは思ってもみなかった。
ハルトヴィヒのエスコートを受け店内へ入ると、一人の女性が姿勢を正して待っていた。
「いらっしゃいませ、アルベルト公爵閣下」
「やあ、マダム・カミラ」
赤みのある茶色の髪をきちんと後ろで束ね、細い丸眼鏡をかけた婦人こそ、このサロンの女主人。
マダム・カミラ――長い歴史を誇るカメリア・クチュールの現店主だ。
首には使い込まれた巻き尺をかけ、落ち着いた佇まいからは、長年の職人としての誇りと経験がにじみ出ている。
「こちらは僕の婚約者のエリシアだ」
「エリシア・リヴェールと申します」
ハルトヴィヒに紹介されたエリシアは、丁寧に頭を下げた。
「存じ上げておりますわ。エリシア様、ようこそお越しくださいました」
マダム・カミラは優しく微笑みながら、奥へと案内してくれた。
「今度王宮で夜会が開かれるのは知っているだろう? 今日は夜会用のドレスを作ってもらいたくてね」
ハルトヴィヒはサロン奥の長椅子に腰を下ろした。
この一角の壁際には、色とりどりの布地や刺繍見本が並べられており、特別な客人のために設けられた場所であることがひと目でわかる。
周囲を見渡していたエリシアはマダム・カミラに促され、ハルトヴィヒの隣に座った。
マダム・カミラは上質な羊皮紙と羽根ペン、それから厚紙に綴じられたデザインや色の見本の束を手際よく並べた。
「デザインやお色のご希望はございますか?」
視線はエリシアを捉えている。
エリシアの希望は、シンプルかつ地味な色である。だが、果たしてそれでアルベルト公爵家の面子が保てるのかどうかはわからない。
ちらりと隣の貴人をうかがうと、ハルトヴィヒはくすりと笑ってみせた。
「……我が婚約者殿は自分の魅力には無頓着でね。なので、僕の希望を伝えた上で、マダム・カミラに提案してもらいたいんだ」
なるほど。ハルトヴィヒとマダム・カミラで考えてくれるらしい。
その提案に、不思議と不安はなかった。衣装室に並んだドレスはほとんどがエリシアの好みに合ったものばかりだったからだ。
「承知しました。なんて腕が鳴るご依頼なのでしょう! 喜んでお受けしますわ」
明るい声と共に、マダム・カミラは背筋をぴんと伸ばした。その目に宿った静かな光は、誇り高き職人としての情熱と、創作への高揚を物語っていた。
そこから先は一気に作業が始まった。エリシアは静かに立ったまま、寸法を測り、何種類もの布地を次々と胸元に当てられていく。色、質感、光沢、装飾――すべてを細やかに見極めながら、マダム・カミラは指示を出していた。
まるで着せ替え人形のようである。
上位貴族のご令嬢は、ドレス一着にこれほどの手間と時間をかけているのか。
エリシア自身こういったことにほとんど関心がない。新調する際も屋敷に仕立て屋を呼んで、最低限のやり取りで済ませていた。
ふいにカミラがエリシアから離れ、ハルトヴィヒのもとへと向かった。
視線をやると、カミラとハルトヴィヒが布見本を手に、何やら熱心に話し込んでいる。色彩の相談か、装飾か、それともシルエットか――とにかく長くなりそうだと察し、エリシアは邪魔にならないよう少し離れた場所で休ませてもらうことにした。
「マダムのあんなにいきいきとした顔、久しぶりに見ましたわ」
店仕えの女性が、そっと紅茶を差し出した。
琥珀色の紅茶の表面には、鮮やかなバラの花びらが浮かび、ほのかに甘い香りが漂っている。さすがは老舗のドレスサロン。出される紅茶にまで気品が感じられた。
出してもらった紅茶を含みながら、ちらりとハルトヴィヒの様子を伺う。
エリシアのドレスのことなのに、あれほど真剣に相談している彼を見ると、なんだか新鮮な気持ちになった。
ハルトヴィヒは真剣な面持ちで布を見つめ、時折、指先で触れながら意見を交わしていた。時に首を傾げ、時に小さくうなずく。どう見ても、エリシアのために最善を尽くそうとしている姿だった。
その様子を目にした瞬間、胸の奥に、ぽうと温かなものが灯るのを感じた。
(……本当に、わたしのことを考えてくれている)
彼の言動は、最初から一貫していた。
強引に婚約を取り付けたことはともかく、屋敷に来てからはいつもエリシアのことを考えた行動をしてくれていた。
それは義理などでできることではないだろう。
この人の言葉や気持ちに嘘はないのかもしれない――そう思えてきた。
その思いは、口に含んだ紅茶のように、ゆっくりとしかし確かに心に染み込んでいった。
しばらくして二人の話し合いが終わったのか、ハルトヴィヒがこちらへやって来た。
「お待たせ。そろそろ行こうか」
ハルトヴィヒの言葉にこくりと頷き、立ち上がる。
カミラに見送られ、ハルトヴィヒと共に馬車へと戻った。
座席に腰を下ろし、ほうと息をつく。
「疲れた?」
「……いえ、問題ありません」
慣れないことで多少は疲れたが、嫌な疲労ではなかった。むしろ心のどこかで、ほんの少しだけ楽しかったと思ってしまった自分に気づき、エリシアは目を伏せた。
「じゃあ約束通り、この後はデートしようか」
「はい?」
そんな約束をした覚えはない。
というかこのドレスサロンへ行くこと自体がもうデートのはずだと思いながらエリシアが聞き返すと、ハルトヴィヒはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「行きの馬車で話しただろう? ドレスを買ったあと、二人でゆっくりしようって」
(……覚えていない)
エリシアは心の中でそうつぶやいた。行きは二人きりという状況に緊張しすぎて、ほとんど会話が頭に入っていなかった。
今は多少は慣れたが……ハルトヴィヒの「二人でゆっくりしよう」という言葉に、再び胸が高鳴るのを感じる。
「……どちらへ向かわれるのです?」
エリシアは恐る恐るハルトヴィヒに訊ねると、人差し指を唇に当てて片目を細めて答えた。
「着いてからのお楽しみだよ」
その仕草に思わず鼓動が強く波打った。
ただでさえ顔が良いのに、そんな仕草をされてしまえば、他のご令嬢ならば嬌声をあげているところだろう。エリシアだからそんなことはないのだが。
馬車は次の目的地へと進む。
まだ終わらない一日に、エリシアの胸にはざわめきと期待のような気持ちが芽生え始めていた。
*
街の喧騒から少し離れた場所で、馬車は止まった。
ハルトヴィヒのエスコートを受けて馬車を降りたエリシアは、目の前の建物を見る。
静かな一角に佇むその石造りの建物は、まるで時がゆっくり流れるような落ち着いた雰囲気を漂わせている。重厚な扉と高い窓が訪れる者を迎え入れ、周囲には色とりどりの花々や緑の木々が巧みに植えられ、隠れ家のような空間を作り上げていた。
ハルトヴィヒは慣れた様子で建物の中へ入ると、従者の男に何かを告げた。従者は穏やかな笑みを浮かべて頷くと、一礼してどこかへ去っていった。
「おいで」
ハルトヴィヒに手を引かれ、建物の奥へと歩みを進める。
案内された先には、鮮やかな色彩の花々が咲き誇る庭園が広がっていた。
軽やかな風が花びらを揺らし、清々しい香りが漂ってくる。緑豊かな木々は柔らかな日差しを受けて葉を輝かせ、小道は柔らかな草の間をすり抜けるように続いている。
中央には、柔らかな白色のパラソルが差された丸いテーブルと、クッションの敷かれた椅子が並んでいた。パラソルは庭園の花々を引き立て、静かな日陰を作り出している。
「さあ、座って。お茶にしよう」
ハルトヴィヒによれば、ここは貴族の中でも限られた者だけが使えるティーサロンだという。
今、この庭園にはハルトヴィヒとエリシア以外に誰もいない。
「王都なのに、こぢんまりとしているだろう」
確かに。王都のざわめきを忘れさせる、静かで落ち着いた空間だ。
それに、会話を聞かれる心配もない。
「エリシアの好きな雰囲気じゃないかと思ってね」
「…………嫌いではないです」
素直に「好き」と言えばいいのに。
心の奥でそう思いながら、口をついて出たのは、また曖昧な言葉だった。
どうして素直に言えないのだろう。
言葉がうまく紡げない。もどかしくて、こんな自分が心底嫌になる。
ハルトヴィヒはいつもエリシアを想って行動してくれている。
(それなのに私は――――)
無意識に俯いていた顔を、そっと上げる。
少しだけ、勇気を出して。
「……申し訳ありません。間違えました」
「え? 何が?」
何のことだかわからず戸惑うようなハルトヴィヒに、エリシアは震える声で答えた。
「…………きです」
「え?」
「好きです」
途端に、ハルトヴィヒの表情が固まった。
口元に運んでいたティーカップを思わず揺らしてしまい、危うくこぼしそうになっていた。
「そ、それは……」
「……こういう雰囲気は好きです」
こんな静かで穏やかな雰囲気は心地よいと思う。
だからそう素直に伝えることができて、エリシアは少しだけほっとした。
だが、ハルトヴィヒはどこか複雑そうに、口の端をぎゅっと結んだような顔をしている。
「あ、ああ、そう。そうだろうと思ったよ。エリシアを連れてきてよかった」
ハルトヴィヒはふっと息を吐くように笑いながらも、一瞬だけ、ほんのわずかに落胆の色を見せた。
どういうわけかは、エリシアには察しがつかなかったが――。
「今日はありがとうございます。初めてのことでしたが、その……楽しかった、です」
両手を握りしめ、もう一度勇気を出して胸の内を明かした。
ふわりと爽やかな風が、花の香りを携えて吹いた。
顔にかかった髪の毛をそっと耳にかける。
「ああ……僕も楽しかったよ。こちらこそ、ありがとう」
ハルトヴィヒは目を細めると、いつもとは違う甘い微笑みを浮かべた。
初めて見るハルトヴィヒのその表情に、胸の奥で早鐘のような鼓動が鳴り響く。
落ち着かせるように温かい紅茶を一口飲み込んでも、心はざわついたまま。
けれど嫌な感覚ではない。胸の奥がじんわりと温まり、いつもは固く閉ざしていた何かがそっと緩み、解けていくようだった。
香る花々に、頬をなでる陽のぬくもり、そして穏やかに微笑むハルトヴィヒ――。
言葉にせずとも、心に刻まれていくものが確かにあった。
だが、そんな穏やかな時間を過ごしていたエリシアは、まだ知らなかった。
リヴェール伯爵家が、何者かに襲撃されたということを――。




