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鉄仮面令嬢は完全無欠の若き公爵閣下に溺愛される  作者: 松うみか


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19 静かな夜の穏やかなひととき2

ハルトヴィヒ視点です。

 それからというもの、夜明け前に屋敷を出ては、日付が変わる頃に戻る日々が続いていた。

 あと数日もすれば少し落ち着きそうだが、今日もまた遅くまで仕事に追われていた。

 家に戻ってきているはずなのに、もうひと月近くエリシアには会えていない。早く話がしたいのに、それがなかなか叶わないことがもどかしい。

 そんなことを考えながら執務室で残務を片付けていると、扉を叩く控えめな音が響いた。


「ベルタか? どうぞ」


 さっきベルタが茶を持って行くと言っていたのを思い出し、ハルトヴィヒは入室を促した。


「……失礼します」


 しかし、入ってきたのはベルタではなく――――あれほど顔を見たいと願っていたエリシアだった。


 ハルトヴィヒは思わず息を呑み、目を見開いた。まるで時が止まったかのように、視線はエリシアに釘付けになる。久しぶりに見るエリシアは、静かな夜の穏やかなひとときに相応しい、青みがかった灰色の軽やかなドレスを身にまとっていた。柔らかな生地は動くたびにそっと揺れ、キャンドルの揺らめく灯りを淡く受けて静かに輝いている。その装いは凛とした気高さを漂わせ、立ち姿は記憶の中の彼女よりも少しだけ大人びて見えた。

 エリシアの手には銀の盆があり、その上には湯気の立つティーカップが揃えられていた。


「お帰りなさいませ。遅くまでお疲れ様です」

「ああ、ありがとう……」


 エリシアは執務机のそばまで来ると、ティーカップに淡く色づいた湯を注ぐ。やわらかな香りがふわりと室内に広がる。どこか懐かしく、心をほどくような、草花の甘さとほのかな苦みが混じる香り――思わず深呼吸したくなるような、そんな穏やかな空気がそこに漂っていた。

 だが、いつもなら気にならない静かな時間が、このときばかりはどことなく重く感じられた。

 言葉を交わすことなく流れる空気はぎこちなく、ハルトヴィヒはカップに手を伸ばす。一口含むと、柔らかな温もりとほのかな苦みがじんわりと心を落ち着かせた。

 ハルトヴィヒは覚悟を決めて、最初に伝えるべきことを口に出そうとした。


「あの、エリシア――」

「……申し訳ありませんでした」

「え?」


 頭を下げ、謝罪の言葉を紡いだエリシアに、ハルトヴィヒは思わず戸惑いを隠せなかった。

 なぜ、彼女が謝るのか。その理由がまったく見当もつかなかったのだ。

 ゆっくりと頭を上げたエリシアが、口を開く。


「事後報告になりますが、私からブルーノとベルタにお願いして、公爵夫人のお仕事を少しずつさせてもらってます。本来ならきちんとお話してからやるべきでした」


 ――ああ、そのことか。

 あのブルーノのことだ。きっと報告したことは伝えているはずだが、それでもエリシアがわざわざ自分の口で話してくれたことに、ハルトヴィヒは胸を打たれた。

 さらにエリシアは言葉を続け、伯爵家でも簡単なことはやっており、自分にできることなら何でもいいからやらせてほしいと願い出たのだった。


「……その報告なら受けているよ。それに悪いのは僕だ。君の話を聞かず、君の気持ちを勝手に決めつけていた。なんて失礼な対応だったんだと、ブルーノに叱られてしまったよ。本当にすまなかった」


 ハルトヴィヒは言葉を紡ぎながら、真っ直ぐエリシアの静かな湖のように澄んだ灰色の瞳を見つめた。

 世間では”鉄仮面令嬢”なんてあだ名を付けられているが、そんな呼び方をする者は、宝石の輝きも見抜けないただの愚鈍な者だ。現に今は目を見開き、驚いた様子を見せている。

 もっと、彼女のいろんな表情が見たい。

 ふっと、ハルトヴィヒは表情を和らげた。


「……ブルーノとベルタがいたく君を褒めていたよ。いつの間にあんなに仲良くなったのか……。妬けてしまうな」

「そう、ですか」


 エリシアの表情は変わらないように見えたが、その瞳にはかすかな輝きが宿っていた。

 視線だけが静かに泳ぎ、胸に秘めた喜びがそっと声に滲む。

 そのささやかな変化を、ハルトヴィヒは見逃さなかった。


「僕が不在の間、屋敷を切り盛りしてくれてありがとう。これからも頼めるかな」

「はい」


 エリシアの返事は淡々としていたが、ハルトヴィヒにはそれだけで十分だった。その声色にほんの少しだけ柔らかさが混じっていて、それだけで彼女の覚悟と喜びが伝わってきた。





 ふいにハルトヴィヒは、エリシアの様子にわずかな違和感を覚えた。

 返事の後に続く静けさが、どこか落ち着きなく、張りつめたものに感じられたのだ。

 何かを言いかけては口をつぐみ、視線をそわそわとさまよわせる。絡めた指を何度も組み替えるその仕草には、何か言葉にできないためらいが見え隠れしていた。


 声をかけるべきか、待つべきか悩んでいた、その時だった。






「ハルト、様」


 それは、この屋敷で初めて名前を呼ばれた瞬間だった。

 静かに、しかし確かに胸の奥に小さな波紋が広がり、心が揺れる。


「ん」


 不意を突かれた驚きと、嬉しさが混じった微かな緊張が重なり、思わず喉から妙な声が漏れた。だが、エリシアはハルトヴィヒの反応を気にしていないようだった。

 エリシアは小さく息を吐き、覚悟を決めたようにハルトヴィヒの目を見た。


「その……ハルト様の幼少期のお話を伺いました。勝手に訊いてしまい、申し訳ありません」

「あ、ああ、そんなことか。知ってる人は知ってる話だし、気にしないでくれ。むしろあまり面白くない話だったろう?」


 ハルトヴィヒは一瞬言葉に詰まったが、すぐに見せかけの笑みを浮かべた。そうすれば相手に気を遣わせず、安心させることができる。

 しかし、エリシアの瞳はわずかに揺れていた。


「……いえ。ハルト様の印象が変わりました。正直今までは――――眉目秀麗で優秀な変人だと思っておりました」

「はははっ」


 あまりに率直な言いように、思わず声を上げて笑ってしまった。


「ですが、お強いと思いました。辛い過去があったことを微塵も感じさせず、いつも明るく振る舞っていらっしゃる」


 強い――その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。

 そう、強くなければならなかった。自分の大切なものを守るためには、力が必要だった。だが、剣や権威だけが力ではない。

 言葉も、態度も、そして――笑みもまた、ひとつの武器になり得る。

 ハルトヴィヒにとって、笑みは仮面だった。感情を悟らせず、自分を守るためのもの。時には、相手を欺くためのものでもあった。


「……これが、僕の武器だからね」


 一拍置いて、ハルトヴィヒは再び微笑んでみせた。今度は見せかけの笑みではない。

 そして、ハルトヴィヒが守りたいものの中には、確かにエリシアも含まれている。

 




「そうそう、これが届いてね」

 

 ハルトヴィヒは机の引き出しから一枚の封筒を取り出し、エリシアに手渡した。


「……王宮からの招待状ですか?」

「ああ、レオン――レオナルド殿下からだ。今度夜会があるらしい。そこへ”婚約者”と二人で来るようにと」

「……私でよろしいのでしょうか」

「僕の婚約者はエリシアしかいないじゃないか」


 ハルトヴィヒの言葉に、エリシアは一瞬目を瞠り、こくりと小さく頷いた。


「そこで一つ提案なんだけど。近々、ドレスを作りに行こう。王都に公爵家御用達の店があるんだ」

「……ドレスは山ほどございますが」


 エリシアは少し胡乱げな目を向けた。

 リヴェール伯爵やサラからも聞いていたが、エリシアはドレスにはあまり関心がないらしい。ただ、誰かから贈られたものとなると、きちんと袖を通すという律儀な一面もある。


「それは普段着だろう? それに衣装室のドレスは既製品を君のサイズに合わせただけだ。エリシア好みのドレスが足りなければ、買い足そう」

「十分です。むしろ多すぎです。作るなら一着で構いません」

「そういうわけにはいかないよ。それではアルベルト公爵家の面目に関わるからね」


 エリシアが困ったように眉を顰めるのを見て、ハルトヴィヒはくすりと笑った。


「じゃあ、既製品を買い足すのはやめようか」

「そうしてください」


 エリシアの声には、わずかな安堵が混じっていた。

 彼女は気づいているだろうか――わざわざ王都までドレスを作りに行くということが、すなわちデートの誘いであることを。

 

 ハルトヴィヒは心の中でその光景を描く。ふっと笑みがこぼれると同時に、早く片付けようと気持ちを引き締めた。

2025/7/4 王太子の愛称をレオ→レオンに変更しました。

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