14 招かれざる客人
リヴェール伯爵家当主ジェラルドは、羽ペンを滑らせていた手をそっと止めた。
穏やかな昼下がり。窓越しに見える庭園の緑は深みを増し、初夏の日差しを浴びて輝いている。だが、その景色の中で、かつてそこに咲いていた一輪の花がもうないことに、どうしても慣れなかった。まるで庭園の小さな宝石のように愛らしく、控えめでいてどこか凛としたかけがえのない存在。
それは何度夜を超え朝を迎えても、その空白だけはぽっかりと開いたまま、庭の彩りのなかで一際目立ってしまうのだ。ジェラルドは目を細めてあの子がよくいた場所を見つめたが、胸の中にこみ上げる静かな寂しさを紛らわすことはできなかった。
そんな折、廊下の先からざわめきが聞こえてきた。普段は穏やかな館内にそぐわない、その不協和音にジェラルドは「ついに来たか」と覚悟を決める。
やがて、ノックの音もなく重々しい扉が乱暴に開かた。
「おい、リヴェール伯爵!」
赤髪の若い男が使用人たちの制止を振り切り、ずかずかと足音を響かせながら室内に入り込んできた。
呼び捨てとは随分と礼節を欠いているものだ。だが、ジェラルドは眉一つ動かさず、ちらりと男に視線を向ける。
「何でしょう? マルコ様」
「あいつのあの話はどういうことだ!?」
喚くような声が、執務室の高天井に響いた。なるほど、よほど動揺しているらしい。ここまで取り乱したマルコの姿は初めて見た。
「あいつ……? あの話……? 何の話でしょうな?」
はて、さっぱりといったジェラルドの態度に、マルコは顔を真っ赤に染め、憤慨した。
「とぼけるな! エリシアの婚約の話だ! なぜ、あいつはアルベルト公爵と婚約したんだ!」
「なぜ、と仰られても……。私には拒否する理由はないのでね」
「なんだと? それはどういう意味で言っている?」
荒々しい追及にも、ジェラルドの表情は揺るがない。むしろ、わずかに微笑みを浮かべながら言った。
「そのままの意味ですよ。あれほどまでに品行方正なお方が、愛しい我が娘を好いてくれてるのに、突っぱねる親がいましょうか。彼ならどんなことがあろうと娘を守ってくれる。そう、信じたので託したのですよ」
心からの本音である。
マルコがぐっと息を詰めるのを、ジェラルドは静かに見つめた。
「はっ。リヴェール伯爵はよほど娘に甘いようだな。あのアルベルト公爵が本当にエリシアを見初めたとでも思っているのか?」
低く吐き捨てるような声。嫉妬と怒りが混じり合った挑発。しかし、ジェラルドはその挑発に乗らなかった。
「それはもちろん。ハルト様が誠実であることは、誰の目にも明らかでしょう」
ただ、穏やかに、だが断固として言う。
そしてさりげなく、娘の婚約者を愛称で呼ぶ。それに気づいたのだろう。マルコは不愉快そうに片眉をぴくりと上げた。
「そうか……。よく分かった。お前たちが我がサルバドル家に喧嘩を売ったというのがな!」
マルコの声は憤怒に震え、その瞳は獰猛な獣のように燃え上がっていた。だがジェラルドは少しも動じず、冷静に彼の激情を見据えていた。
「なぜ、そういう話になるのでしょう? 私は娘が幸せになる最善の道を選んだだけですよ」
「幸せ? 最善の道? そんなものは全部俺が教えてきただろう? その温情を無視してこんな愚かな選択をするとはな」
マルコはどこか嘲笑するように言った。
その顔には己が施した温情を踏みにじられたような、裏切られたような痛みが、怒りと入り混じっていた。
きっとこれまでの彼の人生は、何もかもがうまくいっていたのだろう。誰かを踏み台にして、傷つけて。それすらも正当化して。あたかもすべてがマルコを中心に回っているかのように。
ジェラルドは娘が受けた仕打ちを止めることができなかった。
あの瞳に狂気を孕んでいると気づいていたにも関わらず、子どもだからと見過ごした。その結果がこれだ。
エリシアは社交界で鉄仮面と揶揄され、屋敷に引きこもり、家族の前でも表情を見せなくなってしまった。
ついにはエリシアを支配するために、手段を選ばなくなってきた。
ジェラルドが愚かな選択をしたというのなら、あの時――父親の仕事で着いてきたマルコをエリシアに会わせてしまったことだろう。
それがすべての過ちだ。
マルコから狂気を向けられたことはあっても、優しさなど――一度たりともない。
「さあ……何のことだかさっぱり」
ジェラルドは軽く眉をひそめ、けれどどこか余裕のある微笑みを浮かべてみせた。
マルコはまんまとその挑発に乗る。
「いいからエリシアを出せ! 直接話して、わからせてやる!」
「残念ですが、どれだけ騒ぎ立てようと探し回ろうと、エリシアはもうここにはいませんよ」
激昂して声を荒げるマルコに対し、ジェラルドは微動だにしなかった。
そして再び窓の外を見やる。スズランのように清らかなあの子は、もうこの屋敷にはいないのだから。
「そんなわけないだろう。俺を欺こうたってそうは――」
「いえ、そうではなく。どうせ結婚するんですから、早く慣れた方がいいと思いましてね」
「は……?」
マルコの目に一瞬、動揺の色が浮かんだ。
何が言いたいのかわかったらしい。
「……それがどういう意味になるか、わかっているのか?」
驚愕と困惑が交錯し、マルコの言葉は震えていた。
どういう意味か理解していない者など、いないだろう。
結婚を控えた令嬢が婚約者の屋敷に滞在するのは、ただ一緒に過ごしたいという感情からではない。そこには、嫁ぎ先の家風や暮らしの作法に馴染み、貴婦人としての務めを学ぶという、花嫁修業の一環としての意味が込められている。結婚を目前に控えた準備期間として、多くのことを吸収する機会なのだ。
だが一方で、こうとも取られる。
婚約中でありながら婚約者の屋敷に長く滞在することは、節度を欠いた不節操な振る舞いと見なされ、品位を疑われる振る舞いだと――。
マルコは当然後者のように捉えたのだろう。
「もちろん。それに今更な話ですよ。なにせ婚約したのはひと月前ですから」
「なぜ…………俺に一言もなしに…………」
マルコの顔がみるみる紅潮し、言葉を詰まらせた。動揺が全身に走り、拳を握りしめて震えている。
ジェラルドはそんなマルコの動揺を見逃さなかった。怒りと困惑が入り混じるその表情を、静かに見つめていた。いまだかつて、これほどまでに彼が心乱す姿を見たことはなかった。
ジェラルドは奮い立つ心を落ち着かせるよう、薄っすらと笑みを浮かべ――。
「なぜ、我が娘の結婚のご相談を、マルコ様にしなければならないのでしょう?」
ジェラルドの問いかけに、マルコの顔は次第に歪んでいった。瞳の奥に狂気の影が垣間見え、やがて彼は堰を切ったように狂った笑い声をあげた。その響きは屋敷の静寂を切り裂き、周囲の空気を凍りつかせる。
「……よくわかった。お前たちは誰を敵に回したのか今に思い知るだろう」
マルコは鋭い視線を一瞬ジェラルドに向けると、周囲の使用人たちを押しのけるようにして無言で廊下へと歩き去っていった。
その異様な様子に、ジェラルドも使用人たちも言葉を飲み込んだ。
嫌な影がジェラルドの胸の中でじわりと広がっていく。しかし、それでもジェラルドの心は揺るがなかった。もう二度と道を誤らぬと、静かに決意を固めた。
たとえこの先、自分の身に何が起ころうとも――――。
*
「クソッ!!」
侯爵家の屋敷に戻ったマルコは、憎しみをぶつけるように近くの花瓶を掴むと、乱暴に床へと叩きつけた。花瓶は音を立てて砕け散り、鮮やかな赤い花びらが乱れ散った。
その大きな音に驚いた使用人たちは一斉に顔を強張らせ、身をすくめて目を逸らす。
「……お兄様?」
花瓶の割れる音を聞きつけたのか、妹のアマステラが勢いよく駆け寄ってきた。
マルコと同じ燃えるような赤い髪は、サルバドル侯爵家の証だ。ウェーブがかった巻き髪にボリュームのある真紅のドレスが、彼女の華やかさをより一層際立たせている。
その大きく澄んだ瞳がマルコをじっと見つめ、そっと背中に手が添えられた。何かを言うでもなく、ただそこにいる――その静かな気配に、不思議と胸の奥の苛立ちが和らいでいく気がした。
「どうなさったのです?」
「……エリシアのやつ、本当にアルベルト公爵と婚約したらしい」
マルコは噛みしめるように言った。腹立たしさを押し殺すように、唇の端を引きつらせる。 まるで自分の所有物を穢されるような嫌悪感が胸に広がった。
そんなマルコの言葉に、アマステラも表情を険しくした。
「どうしてエリシアが? 『鉄仮面』のくせに、身の程知らずにも程がありますわ! 身分的にも私が彼の隣に立っているべきだというのに……」
その胸の内に渦巻く怒りと屈辱が、言葉となって溢れ出た。悔しさを滲ませるように、唇を強く噛んでいる。
それもそうだろう。
アマステラはあの舞踏会の会場で、正当な疑問を投げかけたのだから。
――どうして……! どうして『鉄仮面令嬢』ですの!?
それなのに、アルベルト公爵はアマステラの悲痛な問いに答えることはなかった。
アマステラもあの場面を思い出しているのだろう。まるで傷を抉られたかのような表情で、憎しみを込めたまなざしを浮かべていた。
マルコはそんな妹の横顔をちらと見やりながら、静かに口を開いた。
「それにしてもおかしいと思わないか? 今まで接点も何もなかったはずの二人が、急に婚約だぞ? それもあんな大衆に見せつけるような公開プロポーズ。まるで誰かに見せつけるためのパフォーマンスのような、何か企みがあるようにしか思えないんだが」
マルコは眉をひそめ、顎に手をやった。
余裕綽々なリヴェール伯爵の様子も気になる。あれほどまでにマルコに対して、強気に出たことはあっただろうか。
「確かにおかしいですわね。少し調べてみましょう」
アマステラは頷いてみせた。
感情の高ぶりが少し落ち着きを見せたものの、その瞳には怒りと決意が燃え盛っていた。
だが、それはマルコも同じだった。
許せない。
勝手なことを自分に無断で決めたリヴェール伯爵も。
自分だけが結婚し、幸せを手に入れようとしているエドワードも。
マルコという男を差し置いて、アルベルト公爵の戯言を真に受けたエリシアも。
――許さない。
マルコの口元にゆっくりと歪んだ笑みが浮かぶ。
――待っていろ、エリシア。
マルコは遠くにいるエリシアを見据えた。その心には揺るぎない決意が満ちている。
絶対に逃さない。エリシアはこれから先、ずっと、その生命が尽きても、マルコの支配のもとにあるのだから。
マルコの瞳に宿る執着は、炎のように燃え上がっていた。その隣でアマステラも、静かに決意を固めている。
二人の思惑は異なれど、標的はただひとつ。
密やかに交わされた視線の中で、二人の新たな策謀が静かに動き始めた。
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