13 わがままなお客様
アルベルト公爵家に来てひと月が経ったある日のこと。エリシアはハルトヴィヒから応接室に呼ばれた。
「エリシア。今日は君にどうしても会いたいと言って聞かない、わがままな客人が来ているんだが……。君が嫌なら、ぜひともお帰りいただこうかと思うんだけど、どうかな?」
朝食の間、ハルトヴィヒは何かを言いかけては言葉を飲み込むようなそぶりを見せていたが、そのことだったらしい。
(わがままな客人?)
ハルトヴィヒの口ぶりからして珍しいが、あまり好ましくない客人のようだ。
”わがままな客人”と聞いて思い浮かぶのは一人しかいない。彼のことを考えるだけで心の奥がずんと重くなる。
「……どなたです?」
「それは……」
エリシアは嫌な予感を胸に抱きながら表情を変えずに問いかけると、ハルトヴィヒは視線を逸らした。その仕草がかえって不安を強める。
沈黙が落ちたその瞬間、応接室の扉が勢いよく開いた。
「わたくしよ! お久しぶりね、リーシャっ!」
待ちきれないとばかりに部屋へと飛び込んできたのは、カチューシャがよく似合う愛らしい女性だった。
ふんわりとした胡桃色の巻き髪に、淡藤色のカチューシャがよく映えている。ぱっちりとした丸い翡翠のような瞳に、ほんのりと赤みを帯びた頬。年齢を感じさせない可愛らしい顔立ちのお姉さんだ。
ふわりとかすかに懐かしい香りが鼻をかすめた。
「サラお義姉様。どうしてこちらに?」
「へへっ。遊びにきちゃった」
”わがままなお客様”とはエリシアの兄であるエドワードの妻、サラのことだったようだ。
サラは初めて会ったときから、鉄仮面で可愛げのないエリシアに対しても笑みを向け、変わらず丁寧に接してくれる。優しい人だ。
まさかサラが来てくれるとは思いもせず、内心驚いた。それと同時に、エリシアの胸には予期せぬ喜びが静かに広がり、鼓動がひそかに速まっていた。
「ごめんなさいね。まさかあの日に屋敷を出るだなんて思わなくて、エドと出かけてたものだから。本当どこぞの閣下はせっかちよねぇ」
サラはエリシアの隣にある一人掛け用の椅子に腰を下ろすと、ちらりとハルトヴィヒに視線を向けた。
どこぞの閣下とは、こちらにいる閣下のことだろう。格上のアルベルト公爵に対して随分と失礼ではないだろうか? 愛らしい義姉がハルトヴィヒの逆鱗に触れないか内心ハラハラする。
「……君たちがそんなに仲が良いとは思わなかったな」
「当たり前ですわ! わたくしたちは今や姉妹ですのよ? ねっ、リーシャ」
サラはにっこりと、エリシアに同意を求めた。
「姉妹? 君はエリシアの兄であるエドワードの妻。つまり義理の姉に過ぎないのでは? だろう? エリシア」
ハルトヴィヒもまたエリシアに同意を求める。こちらに振らないで欲しい。
「あら? 血の繋がりはなくても家族は家族ですわ。それにわたくしは、どこかの誰かさんと違って『リーシャ』と愛称で呼んでおりますのよ」
サラは扇子で口元を隠しながら、おほほと高笑いしている。
穏やかで心地良い春の温かさを感じていたのに、この部屋の温度だけ急激に下がった気がする。なんだか吹雪が吹き荒れているような冷たさがある。
「……お二人はお知り合いなのですか?」
どういう繋がりなのかはわからないが、初対面ではないだろう。初対面であれば、これほど互いにチクチクと針を刺すような言葉を交わすはずがない。
「わたくしのお母さまが、ハルトヴィヒさまのお母さまと友人だったの。それで旧知ではあるのだけれど……」
少しの沈黙が落ちた後で、サラは扇子をぱたんと閉じた。
「まあ、合わないのよね。これっぽっちも」
「合いませんね。ちっとも」
「合いたいとも思わないのだけれど」
「奇遇ですね。僕もですよ」
「まあ! 真似しないでくださる?」
「そっちこそ」
言葉の応酬が続く。二人が合わないというのは、この短時間でよくわかった。多分誰が見ても、親しさゆえのやり取りには到底見えないだろう。
リヴェール家では見たことのない義姉と、完全無欠で人好きの笑みを浮かべるハルトヴィヒが舌戦を繰り広げる姿は新鮮だ。けれど、なんだか胸の奥にすきま風が吹くような、冷たい何かを感じた。
「わたくしはリーシャと話がしたくて来たのよ。邪魔しないでくださる?」
「僕がいなければ、エリシアには会えないということをお忘れなく」
その場の空気が張り詰める中、ハルトヴィヒは静かに席を立つ。
「では、僕はエリシアの手前離席しますけど……手短にお願いしますね」
「そこは”ごゆっくり”でしょう? アルベルト公爵閣下は見た目だけは麗しいのかもしれないけれど、中身は狭量で狡猾な男なのね」
互いに笑みは浮かべているが、見えない火花が散っている。今にも燃え上がりそうなほどの火力を秘めている。
ハルトヴィヒは片手を上げエリシアに離席を伝えると、応接室を後にした。
「さて、ハルトヴィヒさまで遊ぶのはこれくらいにして、と」
サラは立ち上がり、エリシアの隣に腰を下ろした。そして細くて綺麗なサラの手が、エリシアの手を包んだ。
「お義父さまは、お元気よ。だから安心してね」
サラのその言葉にエリシアの心は少しだけ緩んだ。
あれ以来、父とは顔を合わせていない。手紙を書いても返事はない。
父の真意はわからないままだ。いや、本当は真意などないのかもしれない。本当に引きこもりがちなエリシアをどうにかしたくて結んだ婚約なのだろう。父と話せていない以上、本当のことはわからない。ただ、元気ならそれでいい。それだけでいいと自分に言い聞かせ、エリシアは静かに頷いた。
サラは柔らかく微笑むと、話題を変えるように口を開いた。
「それで、リーシャ。ここでの生活はどう? 困っていることはない?」
「あると言えばあります。その、ハルト……様が何を考えていらっしゃるのか全くわかりません」
まだ愛称は呼び慣れていない。なんだかぎこちなくなってしまったが、サラはからかうような素振りは見せなかった。
「まあ、ハルトヴィヒさまのことだから、何も考えていないことはないでしょうね。具体的には?」
「……毎朝、お花をくださるのです。庭園に咲いているお花で小さなブーケを作ってくださって……。それから毎日ドレスを褒めてくださいます。少しでも時間ができれば私の顔を見るためだけにいらっしゃるし……」
このひと月の間のハルトヴィヒの行動を思い返す。どれも決してエリシアを困らせようとしているわけではないことは、わかっているつもりだ。けれど、エリシアにはその真意が掴めない。
ハルトヴィヒの行動はまるで本当にエリシアのことを想っているようで――――。
「私はどうしたら良いのかわからないのです」
嬉しいと思っても、エリシアは喜びを表現できない。
心地よいと感じても、エリシアはそれを表現できない。
もう笑うことも泣くことも、どうすれば良いのかも忘れてしまった。
「ハルトヴィヒさまの行動は、嫌? リーシャが嫌なら、わたくしから止めるように言うわよ?」
サラの問いかけに、エリシアは心の中で考えた。
(私は『嫌』だと思っているのだろうか?)
思い返すとハルトヴィヒの行動は戸惑いをもたらした。だけど――。
「嫌……ではありません」
「そう。それなら『嫌じゃない』って、そのまま言えばいいのよ。ハルトヴィヒさまにはその言葉で十分ご褒美みたいなものなのだから。もちろん言わなくたっていいわ。言ってしまったら、あの人は付け上がるでしょうし。もしこの先もどうすれば良いかわからなくなってしまったら、『嫌か、嫌じゃないか』で考えるのも一つの方法よ。もちろんわたくしに相談してくれたっていいのよ?」
サラはそう言うと、片目だけを器用に閉じて見せた。
(『嫌か、嫌じゃないか』か……)
確かに、それくらいならエリシアにもできる。エリシアはサラの言葉に少しだけ心が軽くなるのを感じた。
ふいに、サラが両手を広げ近づいてきた。そして次の瞬間には、エリシアの周りの空気がふっと変わった。心地よいぬくもりがエリシアの身体に伝わり、サラが入ってきた時に感じた懐かしい香りが鼻をくすぐる。
「……サラお義姉様のその香り、お兄様と同じですか?」
優しく包み込まれる温もりがくすぐったくて、恥ずかしくて――思わず口をついて出たのが、その問いだった。もっとも、内心動揺していたとしても顔には出ないのだが。
サラはエリシアを抱きしめたその腕を緩めると、ポーチから刺繍入りのハンカチを取り出した。上質な薄桃色の布に、銀糸で繊細な刺繍が施されたハンカチからは、軽やかな清涼感と落ち着いた木の温もりが調和した香りが漂っている。
「外出するときは、いつもこうしてエドの香りを持ち歩いているの。そうすると、エドがそばにいてくれるみたいだから……」
頬を染め、恥ずかしそうに微笑むサラはどこか眩しくて、愛らしい。
こんなふうに人を想うことが、自分にもできるのだろうか。
その瞬間、ふとあの人の姿が浮かんだ。理由はわからない。けれど、そんな自分に違和感を覚えて、エリシアはそっと目を伏せた。
傾きかけた陽の光が庭の木々の影を長く伸ばし、屋敷に柔らかな夕暮れの気配を運んでいた。
心躍る時間はあっという間に過ぎていく。
サラの見送りのため、エリシアとハルトヴィヒは玄関先まで足を運んでいた。
馬車に乗り込んだサラは、ふとポーチを探る仕草を見せた。
「あら、大変。わたくしったら、そそっかしいわ。ハンカチを忘れてきたみたい」
サラのハンカチといえば、兄の香りと同じ香りのするハンカチのことだろう。
「本当そそっかしいですね。どんなハンカチですか?」
「あれは大切なものだから、他の人に触ってほしくなくて……。リーシャならわかると思うのだけれど」
ハルトヴィヒは使用人に探させようとしたが、サラはエリシアに頼んできた。
確かにエリシアは実際にハンカチを見せてもらった。どんなものかもすぐわかる。あのときポーチから出してしまったがゆえ忘れてしまったのなら、エリシアにも責任の一端がある。
「私が行って参ります」
「ごめんなさいね、リーシャ」
エリシアは小さく「いえ」と言うと、ハンカチが置いてあるであろう応接室へと向かった。
*
エリシアの背を見送ってから、サラはそっと唇を開いた。
「……ハルトヴィヒさま、わたくしとのお約束はお忘れにならないでくださいませね」
サラは扇子で口元を隠したまま、目線だけをハルトヴィヒに向けた。
「わたくしがお父さまにお願いしてあの舞踏会を開いてもらい、エドに嘘をついてまで欠席したのですから。わたくしとしても成果がないと困りますのよ」
サラはカルデコット侯爵の娘だ。カルデコット侯爵といえば、先日完全無欠の若き公爵閣下が鉄仮面令嬢に公開プロポーズした舞踏会を主催した人物である。
「分かっているよ。それにしても……あの日出かけていたのはわざとだろう? 僕のせいにしないでほしいな」
「まあ、何のことかしら? わたくしはたまたまエドとデートの約束をしていたに過ぎないわ。まさか誰かさんがリーシャを攫いにくるなんて知らなかったもの」
「攫うとは人聞きが悪いな」
どちらも笑ってはいるが、互いに目の奥は全く笑っていない。
「なにはともあれ。初恋の相手にはどうか誠実であってくださいませ」
「もちろん。心得てるよ、リヴェール夫人」
「なら、よろしいのですけど」
サラはぷいとハルトヴィヒから目を背けた。
リヴェール夫人という呼び方に、含みがある気がして気に入らない。
だが、これだけは伝えねばともう一度ハルトヴィヒを見る。
「なにか気になることでも?」
「……ええ。先日、灰にする価値もない手紙がまた届きまして」
一応、開封はした。だが、それまでだ。ただ――――。
「近いうちに、招かれざる客人がいらっしゃるかもしれませんわね」
「そのことか。こちらの掌の上で踊ってくれて何よりじゃないか」
ハルトヴィヒは人好きのする笑みを浮かべた。
サラはこの笑みの真意を知っている。知っているからこそ、この男がきゃあきゃあと社交界を賑わせているのが不思議でたまらない。
(いけすかない男)
けれど――この馬鹿げた計画に乗ったのはサラだ。
エドワードと結婚して半年が経つというのに、未だ結婚式を挙げられていない。すべてはリヴェール伯爵家を蝕む影のせいだった。
サラはぱたんと扇子を閉じると、ハルトヴィヒの後ろに視線を向けた。
”鉄仮面令嬢”と噂される義妹が、サラがわざと忘れてきたハンカチを持ってこちらへ向かっている姿が見えた。
いつまでもリヴェール家の評判を下げておくわけにはいかない。
愛する者のために、出来ることをやる――――それが今の自分にできる唯一のこと。たとえ自分の手に余ることであっても、協力は惜しまないつもりだ。
エリシアからハンカチを受け取ったサラは別れの挨拶を交わすと、御者に馬車を出すよう命じた。
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