病院の一室で
主人公:桜木 穂火
彼の住む町:さんかく町
男は目を覚ました。しかし、目を覚ましたといっても、寝起き特有のけだるさや目の重みを感じているわけではなかった。伸びをするまでもなく体はほぐれており、目を覚ました瞬間、ここはどこかと考える余裕もあった。
そして男は、答えにたどりつく。ここは、彼にとって見覚えのある場所で、といっても別に、思い出深い場所というわけではない。ただ、ここでお世話になった記憶があるということだ。ここはある記念病院の一室だった。
お世話になったというのも、彼は昔、指の骨を折ったことがあった。それは遠い昔のことで、よく覚えていない。ひとつ分かることがあるとすれば、この記念病院は少し前に改修されて、以前と内装が違うということだけだ。この病院は、この町に大きな病院を建てるという目的で、地元の有識者たちが資金を出して建設されたものだった。だから、特に栄誉や伝統があるわけではない。ただ、コロナ禍で多くの患者を治療し、流行病と懸命に闘っている病院であり、地域を越えて信頼を培っている。
だが、彼は病院にいる理由を思い出せなかった。病院が信頼を勝ち得ているとしても、そのわけを思い出す足しにはならなかった。寝る前はどこで、何をしていたのか。目に入ってきた天井の色と同じく、記憶はほとんど真っ白だった。
とはいえ、彼は記憶を失っているわけではない。何をしていたのかが漠然としているのである。例えば、今の彼は、寝たこと自体は覚えていても、何時に寝たのか、そしてどんな夢を見たのかを忘れているような状態なのだ。それでも、彼はこの例よりひどく思い出せない。
自分の名前、この町の名前《さんかく町》など、一般的なものは覚えているが、直近のことを何一つ思い出せないのだ。
彼は桜木穂火。高校二年生だ。両親がいる。サッカー部に所属しているが、特徴といえば体力ぐらいなため、いつもサイドを走らされている。そして部活で癖がついたのか、周囲をよく見まわす。
彼は目線を左右にやって、壁にかかっている時計を見た。16時30分だった。いつもなら部活をしているはずだ。
彼は、仲間と練習をして試合をすることが好きだったが、それ以上のものは特になかった。最近は部活動のあり方にも変化が生じているが、彼のような性格を過剰に保護する顧問もいれば、過度に難色を示す人もいるだろう。
それはともかく、やはり、普段なら部活動をしているはずなのに、現実にそうでないことが彼には引っかかっていた。しかし、忘れている内容を思い出そうとするのは至難の業である。彼は少しだけ記憶と戦闘した挙句、すっぱりと諦めて、寝ていたベッドからゆっくりと下りた。
窓の外からは、一面の曇り空が見えた。雲はかなり分厚いためか、下層は焦げたような見た目をしており、それが却って、町が妙に明るいことを強調していた。電灯も、信号も点いていない。桜木は、目を細めて遠くを見た。目線の先には、彼の通う学校があった。
別に、学校を見ているわけではない。学校の近くに町中へ電気を送るための鉄塔が建っているのだが、その奥の奥で煙が上がっているのを見ていたのだ。この灰景色の中、不思議と目立つ煙だった。煙の根元を目で辿ると、ほのかに赤みがかっている。何が起きているのかは、火を見るより明らかだった。
彼は神経が張り詰めるのを感じた。だが、それでいて冷静だった。
「火事だ。でも、火事だからといって、自分のこの状況とどんな関係があるというのだろうか?」と、このようなことを考えていたのだ。
こんな考えをする人間は、傍から見れば冷たい人間に見えるが、彼はそんな人間では断じてない。彼は火事を確信したとき、真っ先に被害に遭った人のことを心配したし、被害に遭った人の無事を本心から祈ったのである。彼は穏やかで人並みに優しい性格を持っている。だが、単に自分の置かれた状況と遠くの火事を結び付けることは、今のところ何一つないというだけなのだ。
とはいえ、理由も分からずに病院にいることに加え、火事や照明のない街を見た彼は心が動揺し、思わず部屋の中を見回した。けれども、見回したからといって状況が好転するはずもない。引きつった口角は元に戻らず、額には冷や汗が見えた。しかし、その冷や汗を手の甲で拭っているうちに、彼は奇妙な違和感に気付き始めた。
その違和感は、自身の記憶と戦っている時は取るに足らないほど微細なものだった。だが、彼が意識を「外」に向けた瞬間、それは町全体を覆うほどに膨れ上がったのである。その違和感というのは二つあって、どちらも簡潔に言いあらわせる。ひとつは、「音のしないこと」、もうひとつは「人のいないこと」である。
音のしない、というのは、何も耳が聞こえなくなっているとか、机を叩いても音がしないということではない。町の音がほとんど聞こえないということである。
今、桜木の耳に入る音といえば、自身の脈打つ音と、外で吹く風と、風が窓を揺らす音だった。対して、人の生活音はまったく聞こえない。桜木はもう一度、外を見ようとして窓の方を向いた。
そのとき見えた景色は、窓にへばりついており絵画さながらの静かで、ことによると不気味ともいえる佇まいだった。
彼のいる病室は、三階にあった。病院は丘の上に建っているので、空気が澄んでいれば遠くの山まで見通せる。近くには大きめの公園があり、豊かな木々と脇にある小さな神社が公園を見守っている。ここからは、普段なら美しい景色を見下ろすことができる。
人のいない、というのは、見えるところに人がいないというだけでなく、人の「気配」もうかがえなかった。例えば、家の電気が点いているとか、誰かの笑い声がするとか、それがまったくないのである。だから彼は、孤独を感じた。
それも、いつも感じるそれではない。普段、それらを彼が感じるとき、ある種の温かみがある。それは俯瞰的な温かみである。例えば、夜、扉や窓から漏れてくる灯り。それは孤独をくすぐるが、相対的なものである。誰かにいてほしいのに、傍には誰もいない。これは、他者の存在を願望するものである。だから、どこかに温かさがあることを欲しており、認めている。だが、ここにそれはなかった。
感じたことのない孤独。冷たい町を見て、桜木は愕然とした。
だが、見えてくるものもあった。
こういうとき、愕然としようがしまいが、いったん何かを事実と認めると、以前の認識には戻れないものである。認めた事実がどれほど曖昧であれ、それこそ感覚でしかないものであっても、以降の思考はその事実が前提になるのだ。
桜木にとって、「町の何かがおかしい」という、曖昧ではあるが確信を持った感覚がそれであった。そしてその目つきは、否応なしに町を非現実的なものに染めていった。
目つきは、さまざまなものに向けられていた。普段、多くの出来事が日常に希釈され、思い出や酒の肴となる。しかし今の彼には希釈してくれるものが何もない。だから、あらゆるものが非現実の様相を帯びて、鮮烈に返ってくるである。
桜木はうろたえつつも、そのことを理解していた。その理解は直感的なもので、特に理屈はなかったが、それでも冷静に理解していたのである。
だから彼は、突き刺さってくるその非現実をしっかりと受け止めた。それが唯一の対処法だからである。それをいつもの日常で薄めるのが常だからである。
だが、彼の受け止めた非現実は、より酷いものだった。
非現実は、ひとつの大きな塊として現れているわけではなかった。現れているのは、規模的には小さな個々の非現実だった。だが、それらは虫食い算のように日常を食い荒らしていたのである。
公園には誰もいない。駐車場には何台もの車が整然と停められている。しかし、いくつかガラスが割れているものがあった。信号はどれも消えていた。まだ日中だというのに、オフィスビルには人の影も電気が点いている様子もなかった。
病院の前には大通りとバスの停留所があるが、そこにも人はいない。ついでに、バスが停留所前で横転しているのを見つけた。近くにある鉄塔は雄大にそびえたっているが、切断された電線が蔓のように巻き付いていた。電線からは火花が断続的に出て、木々のざわめきと呼応していた。そうして、遠くには煙だけが上がっていたのだった。
「……いったい、何が起こっているんだ……。寝ている間に災害でもあったのか? それなら、人がいないのも町が荒れているのも納得できる。もしかしたら、みんな救助されたのかも……? でも、それなら僕も救助されているはずだ。そもそも、サイレンの音も人の声も聞こえない。晴れた日の午後に、ひとりで教室から外を眺めているのとはわけが違う……。もしかしたら、僕の知っている災害が起こっているわけではないのか? もっと別のもの……、何か、人智を超えた異変が起こっているのかもしれない……」
桜木はベッドに腰掛け、体を少しひねってから立ち上がり、机に近づいたと思えば今度は、病室の扉の方へ歩いていった。瞬きも場当たり的だった。彼はほとんど流されるように歩き、フラフラしながら自身の置かれている状況を考えた。
そうして、異変という滑稽な言葉が彼の頭に舞いこんできた。自分の許容できない現実に対して、その場しのぎの考えで不適当な答えを導くというのは、よくあることだ。
「……異変」
だが、その思考の滑稽さにもかかわらず、彼は動きを止めて、言葉を繰り返した。
「異変だ。まさしくそうだ。……綺麗な表現なんてない。これは異変なんだ! おかしなことが起きている。異変という災害が。何かは知らないが、他のどんな災害とも違う、異変が起きているんだ……!」
その二文字は彼の脳に突風を送り、瞬く間に雑考を吹き飛ばした。「異変」という考えが、たとえ見当違いだとしても、彼にはもう関係がなかった。彼は確信したのだ。
「ビルも、電気も、煙も空も、全部そうなんだ……! 雲だって、空を覆っているわけじゃない。町を覆っているんだ。スノードームとか、プラネタリウムみたいに、僕はその内側にいるんだ。中にいるんだ! 災害が起こったんじゃなくて、今も災害に覆われているんだ。その真っ最中なんだ―――」
異変が単に起こっただけでなく、今もなお起こっているという確信によって彼に生じたものは、他人行儀な恐怖でも、苛立ちや焦りでもなく、張り詰めた緊張だった。
彼は目を皿にしつつも、世界を凝視した。目線が左から右に、ちょうど耳鳴りのように単調に動いて、窓の外を舐めまわす。そうして、目に入ってきた景色は先ほどと同じだったが、印象はガラリと変わっていた。
けれど、自身がすっぽりと非現実に覆われていると知っても、彼は臆さなかった。というより、恐怖より先に緊張を覚えたおかげで、臆さずに済んだといった方がいいだろう。つまり、「現実」に対する姿勢のおかげなのである。すでにすっかり、非現実が現実に成り代わったわけだが、彼が恐怖を覚えていれば、彼の心は「現実」に押しつぶされて決壊し、今にも泣き喚いていたことだろう。だが、先に緊張したおかげで、彼はギリギリの均衡を保ち、そして病的といえども冷静な思考ができたのである。
結局のところ、桜木は町が異変に襲われていると理解した。
だから彼は、「……これからどうしようか」と頭を悩ませたのだった。恐怖するより、はるかに簡単な選択肢だった。