第87話 ボーボボ
執務室の扉が開き、お兄さんが入ってくる。
「ジロー!」
アマンダさんがすぐに反応した。
張り詰めていた空気が弛緩する。
抱きつき、でも私の時とは違い、軽いハグだけで済ませる。
お兄さんは私よりも身持ちが硬いのだ。
「ごめん、アマンダ。無茶なこと言って」
「構わないさ。ダーリンの頼みだからね」
「いつ俺がお前のダーリンになったんだよ……」
この三ヶ月で、二人の距離は急激に近づいていた。
お兄さんは私にだけでなく、妹のアンリにすら丁寧な接し方をする。
それなのにアマンダさんが相手だと、かなり砕けた調子になるのだ。
(ずるい……。私もお兄さんに、お前って呼ばれたい……)
今のはツッコミだけど。
普段は、よっぽどのことがないとお前呼ばわりなんてしない。
だからこそレアで羨ましいのだ。
(アマンダさんも、なんかちょっと嬉しそうだし……)
もしかして隠れMだったりするのだろうか。
それはまずい。
私のアイデンティティの危機だ。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」
「両親を思い出して、微妙な気持ちになるんだよ」
「どういうこと?」
「いい歳してダーリン、ハニーって呼び合ってんの」
「素敵じゃないか。私たちも、そんなおしどり夫婦になろう。そして子供にボーボボと名付けるんだ」
「ジローラモの比じゃねぇ……。てかなんでボーボボ知ってんの?」
「日本語学習に、アニメを利用したから」
「ボーボボ教材にするのは、さすがにハジけすぎだろ……」
「もし私が謝ってこられてきてたとしたら、絶対に認められてたと思う?」
「ほらぁ。さっそくバグってんじゃん」
私はごくりと唾を飲んだ。
(す、すごい……)
ただの軽口に思えるけれど、それだけじゃない。
お兄さんにとってデリケートな『名前』ボケにツッコませることで、おしどり夫婦になることや子供を作るという話に言及させず、通してしまった。
そうやって少しずつ、お兄さんの潜在意識に刷り込んでいっているのだ。
(やっぱり、この人は……)
ただ幸いなことに、二人は男女の仲ではなく、あくまで対等な友人関係といった様子だ。
アマンダさんは顔を合わせるたびに、お兄さんにちょっかいをかけているが、どこか冗談めかしていて一線は越えない。
押し倒すことに失敗して、方針を転換したのだろう。
私たちの関係が破綻せずに成立しているのは、アマンダさんがその絶大な政治的手腕——国際ギルドを成り立たせるほどの——を惜しげもなく発揮しているおかげだ。
それに……。
立場はまるで違うけれど「並び立つ者がいない」という点では、お兄さんとアマンダさんは共通している。
そんな二人がお互いに気を許している様は、ちょっとした感動すら覚える。
とはいえ、私はドMだが脳を焼かれる趣味はない。
「アンリはどうしたんですか?」
二人の間に割って入った。
「ああ、今荷造りしてくれてるんだ。俺の分も」
俺の分も、ということは、アンリもついていくつもりのようだ。
アマンダさんが、愛玩動物でも愛でるような目を向けてくる。
「……なんですか?」
「必死で可愛いなって」
「ハッキリ言わないでくださいっ」
「ん? なにが必死なの?」
お兄さんが首を傾げる。
「お兄さんにですよ」
私はそう言ってのけた。
これまではアンリに気を遣って押し隠してきた気持ちを、最近は隠さなくなっていた。
アマンダさんがいるからだ。
アマンダさんに持っていかれるくらいなら、まだ私の方が……。
アンリはそう考えてくれるんじゃないか。
そんな情けない打算があって……。
アマンダさんは私にとって、必要悪ならぬ、必要恋敵だった。
「俺に……。頓知かな?」
まあ当の本人はこの様子だけど。
だから隠すのがアホらしくなってきたってのもある。
ただ、恐ろしいのが……。
アマンダさんは多分、私がそう考えることさえ計算に入れて、今の関係性を成り立たせていることだ。
それどころか、私の背中を押してくれている節すらあって……。
(本当に、なにを考えてるんだろ……)
アマンダさんは、ぱんと手を叩いて話を戻した。
「準備が済み次第、さっそく出立だ。春菜はどうする?」
「どうするって?」
「ついてくるなら、君も早く準備しないと」
「なに言ってるんですか」
アマンダさんは小首を傾げる。
「ついてこないのかい? まあ、それならそれでいいけど」
「違いますよ」
私は挑むように言う。
「手配したプライベートジェットに、とっくに積み込み終わってますから」




