第68話 世界一の男
牧歌的な町だった。
豊かな自然に囲まれて、適度に都市化もされていて。
日用品を買い足しに寄った余所者の俺にも、住民たちは好意的に接してくれた。
でも……。
「一皮剥けば、地獄だった」
アマンダさんが言う。
「あの町は、カルカタル・カバルって組織に支配されていたんだ。全能の神様が名前の由来らしいけど、真偽はわからない。調べてみたけれど、それっぽいのは見つからなかったから。ただ泊をつけるために、適当なことを言っていただけかもしれない」
アマンダさんが過去を振り返るように、遠い目になる。
「今じゃマフィアやギャングに分類されて語られるけど……。まあ、やってたことがまさにだったからね。でも当事者からすると、あれは行政組織だった。権力者が後ろにいて、明確な指示系統のもとに成り立っていたから。もちろん表沙汰にはなってないけれど。裏にいた権力者たちが裁かれたのは、ずっと後になってからだ。そのことも、表沙汰にはなってないけどね」
微笑み。
「警察に賄賂を送って、なんてレベルじゃなかった。なんて言えばいいんだろう。地方公務員と国家公務員の関係みたいな。全然違って対立もしてるんだけど、仲間意識も確かにあって、みたいな。とにかく、誰も助けてくれなかったんだ。昔は住民の反発もあったみたいだけど……。全部、握り潰されてしまったって。声も、時には命も。だから誰も……。少なくとも私が物心ついたころには、誰も逆らわなくなっていた」
俺は思い出す。
あの町の、独特な空気感を。
「逆らわない限りは、大きな被害はなかったんだ。抗争なんてなかったし、町の住民に無闇に手を出すようなこともなかった。私が行政組織って表現したのは、その点が一番大きい。でも……。やっぱり、異常だったんだろうね。中にいたころは、わからなかったけど」
アマンダさんは、そこで黙り込んでしまう。
力だけじゃなく、魂まで抜けてしまったみたいだ。
今なら簡単に、この状況をひっくり返せる。
そう思ったけれど……。
でもできなかった。
彼女がまるで、傷ついた子供のように見えたから。
「エミリ」
やがて、彼女はそう呟いた。
「近所に、そういう名前の女の子がいたんだ。私の三つ下で、特別仲が良かったわけじゃないけど、すごくいい子でね。早くに両親を亡くして、目の不自由な祖父と二人で暮らしていた。貧しくて辛い毎日だったはずだけど、そんな顔は一切見せずに、いつも元気いっぱいで……。町のアイドルだったよ。彼女の笑顔に、みんな救われていたんだ」
でも、と彼女は声を落とした。
「ある日、カルカタルの連中がやってきて、エミリを攫って行ったんだ。身寄りは、目の不自由な祖父だけ。労働力にもならないから、売り飛ばした方がメリットがあるって考えたんだろうね。町の住民は……。みんな、見て見ぬふりだった。私もそうだ。当時の私は十代半ばの小娘で、いつ私がターゲットにされてもおかしくなかったんだ。……どうすることも、できなかった」
懺悔するように項垂れる。
俺の服を掴む手の、弱々しい震え。
「田舎町に似合わない、高級車のエンジン音が、いつも耳障りで耳障りで……。でもその時ばかりは、ありがたかった。エミリの悲鳴と、祖父の哀願を掻き消してくれたから。ショックだったけれど、不思議と憤りはなかった。……なんて説明すれば伝わるかな。例えば、親しい人が天災の被害にあったとして、それを悲しんでも、自然そのものを恨んだりはしないだろう? 私たちにとってカルカタルの存在は、それほど身近なものだったんだ。みんな息を詰めて、ただ巻き込まれないことだけを祈ってた。……車が走り去って、エンジン音が遠のいていく。祖父の声が鮮明になる。目が不自由だから、誰にってわけじゃないんだ。ただ喉が裂けそうなほど大きな声で、エミリを、孫を助けてくれと……。でも誰一人……。私も含めて誰一人、そちらを見ようともしなくて……。でも……」
アマンダさんが、微かに顔を上げる。
髪の隙間から、爛々とした目が覗く。
「遠い異国の青年だけが——君だけが、違った。脇目も振らずに、エミリを攫った車を追いかけて行ったんだ。みっともないほど、必死にね。……それから二週間が経って、カルカタルが壊滅したって話が流れてきた。エミリも無事に戻ってきた。いや、エミリだけじゃない。その場にいた子供たちだけでも、二十八人が解放された。強制的に働かされていた人や、性的搾取されていた人も大勢いたから、一体どれだけの人が救われたか、数えることもできない。……それをやったのは、たった一人の東アジアの青年だって。子供を庇って銃弾をその身に受けながら、それでも子供たちを守り抜いたって。……震えたよ。あの時の感動は、今でも忘れられない」
アマンダさんの手が、服の下に忍び込んでくる。
今度はもう、抵抗もできなかった。
「これが、その時の傷?」
愛しむように、俺の腹部を撫でる。
「政府が面子のために、君の手柄を横取りしてしまった。軍を投入して、カルカタルを潰したことにしたんだ。中には真実を語る人もいたけど……。たった一人で巨大な組織を潰すなんて、まるで映画だ。誰も信じなかったよ。だから君の存在が、表に出ることはなかった。……でも私は、生涯忘れない。あれ以来、私の人生は君一色だ。東アジアの青年って情報しかなかったから、日本語だけじゃなくて、中国語と韓国語も学んだ。ただ君に少しでも近づきたい一心で。君がダンジョン配信をしているのを見つけた時は、どれほど嬉しかったか……。私もすぐに、ダンジョンに潜るようになったよ。本当は、君のところに飛んで行きたかったんだけど……。当時の私には、それができなかったんだ」
「……どうして?」
「どうして? どうしてだって? そんなの、決まってるじゃないか」
アマンダさんの声が高くなる。
「世界一の男に釣り合うのは、世界一の女だけだろう?」
長い旅路を終えたように、
「本当に、大変だったよ」
と彼女は言う。
「君もよく知っているはずだ。『余所者が自国のダンジョンに潜ることを好まない』。あの風潮が、どれほど厄介か。私が君のそばに行くには、UDを作るしかなかったんだ。この十年……。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……。ただ、ただ、ただ、ただ、ただ——君だけを想って」




