第125話 エノフ、異常個体
ここはすでにダンジョンの深部だ。
だがエノフが出没するのは、本来もっともっと深い階層、それこそ最深部のはずだ。
パッケが忌々しそうに言う。
「なんでこいつが、こんなとこに……」
エノフの顔に放射状の亀裂が走り、ぱかりと開いた。
「ギィイイイイッ!」
とても生物の咆哮だとは思えない、錆びた金属を擦り合わせるような不協和音。
エノフが叫ぶ姿を見るのは、これが初めてだった。
咆哮を耳にして集まってきた殉教者たちが、ハッと息を飲む。
ダンジョンで得た情報は全て報告してあるから、彼らもエノフの存在は知っているはずだ。
それでも——いや、だからこそ彼らは驚愕する。
隊長のザガンがそっと歩み寄ってきた。
「申し訳ありません」
エノフの接近を許してしまったことに対してだろう。
「気にするな」
この人数で完璧に哨戒することなど不可能だ。
むしろよかった。
最初に遭遇したのが殉教者の誰かだったなら、犠牲者が出ていたかもしれない。
「本体は我々が相手する」
そう告げただけで、ザガンはヨルの意図を察したようだ。
エノフには拳ほどのサイズの心臓部がある。
それを破壊しない限り、ろくにダメージも与えられない。
腕を切り落とそうが頭を切り落とそうが、すぐに本体にくっついて元に戻ってしまうのだ。
あのノグ=サルアインでさえ、切り落とした部位が復活することはなかったというのに。
もちろん純粋な強さでいえばノグ=サルアインの方が圧倒的に上だ。
けれど厄介さでいえば、いい勝負かもしれない。
それに目の前のエノフは、これまでに遭遇したどの個体よりも大きかった。
相当な数の魔物を捕食してきたのだろう。
心臓部が体のどこにあるのかはわからない。
個体差があるのか、自由に動かすことができるのか。
確かなことはわからないけれど、闇雲に攻撃して場所もわからない心臓部を打ち砕くのは、不可能と言ってよかった。
(こんなとこで足止めを食うとは……)
これまでが順調だったからこそ、余計に苦々しく思う。
もちろんエノフは無敵ではない。
本体から切り離された部位は、エネルギーの供給を絶たれるからか、時間経過とともにボロボロと崩れ落ちていくのだ。
そうやって徐々に体積を削っていくと、やがて心臓部の脈動が視認できるようになる。
「我々は周囲の警戒と、ハグレ者の相手をする! ヨル様たちの邪魔はするな!」
ザガンが殉教者たちに指示を出す。
『ハグレ者』は本来、宗教の用語だ。
全ての生命は、いずれミレア様の元に還る——ただし、大罪人を除いて。
償えきれぬほどの罪を犯した者は、現世を永遠に彷徨い続けることになる。
エノフの切れ端も十分な脅威だ。
普通に動くし攻撃も仕掛けてくる。
『切れ端』というよりも『小さなエノフ』とでも呼んだ方が実態には近い。
だからザガンは『ハグレ者』という比喩を使ったのだろう。
その含意は他の殉教者たちにもちゃんと伝わったようで、彼らは緊張感を高めつつ、ヨルたちとエノフを取り囲むように展開した。
エノフが厄介なのは間違いないが、時間をかければ問題なく対処することができる。
切れ端の処理を殉教者たちに任せられるのも大きい。
一番の危険はむしろ、エノフとの戦いが長引き、別の魔物が乱入してくることだ。
そうなる前に早く決着を……。
「ギィイイイイッ!」
咆哮とともに、エノフが攻撃を仕掛けてくる——無数の腕で。
「っ!」
それはもう触手と呼んだ方が正しいかもしれない。
指も関節もなく、癇癪を起こした子供みたいに、闇雲に振り回している。
その一つ一つが、まともに食らえば致命傷になりかねない威力を持っていた。
「なんなんだこいつはっ!」
ダックが叫ぶ。
エノフにとって腕は武器であると同時に弱点でもあるはずだ。
切り落とされるリスクもあるし、腕を増やしただけ胴体の体積が小さくなる。
それは心臓部を——急所を危険に晒すことに他ならない。
これまでに出会ってきたエノフとは、まるで違う。
こんな捨て身の攻撃を仕掛けてくるなんて、明らかに普通じゃなかった。
陣形が乱れる——その瞬間、ヨルがエノフの間合いに踏み込んだ。
「お姉様っ!?」
カッシの声を背中に聞きながら、振り回される腕を掻い潜り、その根本を三つまとめて切り落とした。
すぐに本体に戻ろうとする腕を、大剣の腹で殴って弾き飛ばす。
追撃されて一本は本体に戻ってしまったが、二本を遠ざけることができた。
それをダックとパッケがさらに細かく切り刻む。
切れ端は小さいほど弱体化し、朽ち果てるまでの時間も短くなるのだ。
「落ち着け、やることは変わらん」
ダックが鼻を鳴らす。
「お前に恐怖心はねえのかよ」
ただの軽口だ。
でもヨルの脳裏には、あの男の姿が浮かぶ。
(……あれに比べたら)
ただでさえ厄介なエノフ——その異常個体ともいえる存在に、ヨルは躊躇わずに近づいていく。




