第113話 ノグ=サルアイン
——神の血は赤黒かった。
蛇口を捻ったように、切断された腕から血が吹き出す。
地面に滴るそばから蒸発し、吐き気を催す臭気が立ち込める。
それでもヨルたちは、眉ひとつ動かさなかった。
相手から注意を逸らすのは、死に直結すると理解しているからだ。
ノグ=サルアイン。
ノグレシア帝国が、唯一絶対神として崇める神。
四対、八つの目。
肋骨の浮いた胴体と、アンバランスなほどに細長い手足。
つるりとした血の通わない白い肌は、凍え死んだ国民たちを思い起こさせた。
「はっ、なんだこの馬鹿。ノコノコ近づいてきやがって、まんまと腕切られてやがんの」
ダックがそんなことを言う。
「油断するな」
ヨルは大剣の血を払いながら嗜めた。
「侮っていい相手じゃない」
もちろん、そんなことはダックも重々承知しているだろう。
その証左として、彼が構えた大盾は微動だにしていない。
(軽口を叩きたくなる気持ちも、理解できるがな)
あまりにも簡単に、腕を切り落とせてしまった。
それは拍子抜けするほどに。
(……彼らの影響か)
ノグ=サルアインに視線を固定したまま、周辺視野だけで神殿内を見渡す。
転がった、十数体の死体。
おそらく——
いや間違いなく、下界の住民たちだ。
——ギチギチギチ。
ノグ=サルアインの顔が憤怒に歪んでいる。
八つの目が見開かれ、太い血管が顔中に浮かんでいた。
腕の切断面はすでに塞がっていて。
警戒して距離をとっていたノグ=サルアインが、踏み込んできた——
その機先を制するように、パッケが鋭い槍を放つ。
喉元を狙ったその一撃は、ノグ=サルアインの肩を掠めた。
「マジか。あのタイミングを躱すのかよ」
「今さっき、お姉様が油断するなとおっしゃられたばかりでしょう」
呆気に取られるパッケにカッシか噛みついた。
「別に油断はしてねえよ」
「言い訳です」
「でも今の反応は」ダックが苦々しげに口を挟む。「まんまと腕を切られたアホの動きとは思えんな」
このまま簡単に倒せるんじゃないかと、淡い期待をしていたみたいだ。
でも驚愕すべきことは、その直後に起きた。
肩の傷がぱっくりと裂けて、ぎょろりとした目が現れたのだ。
カッシが小さく悲鳴をあげ、
「……ずいぶんと、目が少ないなとは思ってましたけど」
と言った。
ノグ=サルアインは、無数の目を持つとされる神様だ。
その目で、過去も未来も含めた、この世界の全てを見通していると。
全ての信者を、見守っていると。
「なーにが慈悲の神だよ。ただの化け物じゃねえか」
「連中は、あれをノグ=サルアインとは認めないだろうがな」
「はは、違いねぇ」
ダックとパッケが、軽口を交わす。
あれは、あくまでヨルたちにとってのノグ=サルアインだ。
敵対国が崇める神様。
だとしたら——
ノグレシア帝国のダンジョンでは、ミレヤ様が待ち受けているのだろうか。
一体、どんな姿をしているのだろう。
「どうしますか、お姉様」
カッシが緊張した面持ちで問いかけてきた。
ミレヤ様を想い、散りかけた意識がすぐに戻ってくる。
ヨルは内心で自重した。
(聖女の冠は、ずっと昔に捨てたのにな)
パッケの完璧なタイミングのカウンターを、ノグ=サルアインはかわしてみせた。
反応速度が尋常ではない。
あの目は、飾りではないのだ。
ダメージを与えれば与えるほど、相手が強化されていく。
その事実が、どれほど厄介か。
百戦錬磨の彼らが理解できないはずもない。
だが——
「やることは変わらない」
ヨルは淡々とした口調でいう。
「見てみろ、腕の断面を。傷をつけてはいけないなら——致命傷を与えればいいだけだ」
どんな状況でも、どんな相手だろうと、常に冷静沈着で。
「全員、私のサポートに回れ。私がヤツを——神を刻む」
更新が遅くなり申し訳ありません。
少しずつ更新頻度を上げていけたらと考えています。




