第109話 人間
椅子の足が床を引っ掻く音。
一体、どこから——
この部屋には扉と窓が一つずつあるだけだ。
窓は施錠されていて、扉は目の前に……。
私が気づかなかっただけなら、おかしなことでもなんでもない。
でも……。
驚いているのは私だけではなかった。
アマンダさんも、お兄さんも——
声をかけられるまで、相手の存在に気づいてすらいなかった。
(……出遅れた)
みんな立ち上がっているのに、私だけが椅子にどっかりと腰掛けたままだ。
運動神経と反射神経が悪いだけなんだけど……。
まるでこの程度じゃ動じない大物みたいになってしまった。
「父さん……」
お兄さんの口から、ぽろりと言葉が漏れる。
(じゃあこの人が、ダーリンさん……)
まず最初に思ったのが、
「若っ」
ということだ。
肩まで届くロングヘアに、シワひとつない整った顔。
おっとりとした雰囲気が、どことなくお兄さんに似ている。
とても五十二歳には見えなかった。
せいぜい三十後半……。
いや、それだって二人の父親だって先入観があるせいだ。
二十代だって言いはっても、たぶん普通に通用する。
ダーリンさんは、にこりと笑った。
「久しぶり。ジローラモ、アンリエッタ」
君たちも、とダーリンさんが順番に私たちを見る。
「春奈さん、アマンダさん、ギンさん。いつも二人が世話になってるね」
名乗る前から、当然のように私たちのことを知っていて——
ダーリンさんは、空いている椅子を引き寄せ、そこに腰掛けた。
マイペースなところも、お兄さんに似ていた。
「父さん……」
「なんだい、ジローラモ」
「どうして、ここに」
「久しぶりに、子供たちの顔が見たくなったから」
「ああ、そうなんだ」
そうなんだ、じゃない。
このタイミングで現れて、ただ子供たちの顔を見に来たなんてことはありえない。
そもそも、どうやって部屋に入ってきたのかすらわからないのに。
当然といえば当然だけど、お兄さんの混乱は、私たち以上のようだ。
助け舟を出したかったけれど、どうしていいかわからない。
私がまごついているうちに、踏み込んだのはアマンダさんだった。
「初めまして。お会いできて光栄ですよ、お義父さん」
「おい、アマンダ。どさくさに紛れてお義父さんって呼ぶな」
お兄さんが突っ込む。
「じゃあなんて呼べばいいんだい?」
「普通に名前でいいだろ」
「それはダメだ。私のダーリンはジローただ一人だから」
「こんな時になに言ってんだ……」
ダーリンさんが微笑む。
「好きに呼んでくれていいよ」
「そうか。じゃあお前」
アマンダさんは見下すように言った。
その攻撃的な態度に、部屋の空気が張り詰める。
でも当人たちは、気にした様子もなく会話を続けた。
「お前はなんだ」
「なんだって聞かれてもね」
「人間か?」
「ふむ」
ダーリンさんは顎に手を添えた。
「哲学的な問いだ」
「どうなんだ」
「さてね。私はそのつもりだけど、定義によるんじゃないかな」
「定義?」
「心臓が動き、全身に血を送っている。頭でものを考えて、人格だってちゃんとある。子供を作ることだって可能だ。ご覧の通り」
ダーリンさんは、お兄さんとアンリを手で示した。
「だから、人間だって?」
「君はどう定義する?」
「…………」
「沼男」
ダーリンさんが言った。
「有名な思考実験だから、聞いたことあるんじゃないかな。ある男が、雷に打たれて死んでしまった。それと同時に、別の雷が近くの沼に落ちる。そして奇跡的な化学変化が起きて、死んだ男と原子レベルで全く同じ人間が誕生する。その沼男は、記憶も人格も全てが死んだ男と同じで、死んだ男として普通に生活を送る。さて、死んだ男とこの沼男は、同じ人間だと言えるだろうか?」
「違う」
アマンダさんが言下に言った。
「原子レベルで全く同じなのに?」
「ああ」
「そうだよね。私もそう思う」
お兄さんが、ゴクリと唾を飲んだ。
「その話と、父さんにどういう関係が……」
「特に関係はないけど」
「じゃあなんだったんだよ、今の話は……」
「人間かどうかなんて問いには、意味がないって話さ。私は二人の父親で、二人のことを心から愛している。それで十分だと思わないかい?」
まあでも、とダーリンさんは続けた。
「普通かどうか、って意味じゃ、普通じゃないと言わざるを得ないだろうけど」
「……じゃあ、母さんは?」
お兄さんがおっかなびっくり尋ねる。
「母さんは、普通なの?」
「ああ。菜々緒は普通の人間だよ」
お兄さんとアンリが顔を見合わせて、泣き笑いのような、微妙な顔をする。
それを喜んでいいのかすら、よくわからないからだろう。
「じゃあ」とアマンダさんが言う。「首を刎ねれば、お前は死ぬんだな」
「面白い思考実験だ」
「どうなんだ」
「そうなるね、理論上は。普通じゃなくても、私は人間だから」
「それがわかれば十分だ」
そのやりとりを、私はハラハラしながら見守る。
(どうしたんだろう、アマンダさん……)
アマンダさんが初対面の相手に——
それもお兄さんの父親に向かって、こんな攻撃的な態度を取るなんて。
(アマンダさん、らしくない……)




