第108話 不明
母親の名前は菜々緒と言うそうだ。
鈴木菜々緒。
年齢は四十九歳。
誕生日は十月三日。
血液型はO型。
出身地は東京で、祖父母は健在だ。
海外旅行好きの両親に代わってアンリの面倒を見ていたから、祖父母とは私も面識があった。
実家はとても裕福で、小中高と名門の女子校に通っていた。
でも大学には進学せず、のちに夫となる男性と世界中を旅して回った。
二年後にお兄さんを妊娠し、現地で出産。
それからは日本に戻ってきて根を下ろしていたが、アンリを出産した数年後に、また夫婦で世界中を旅し始めた。
——普通だ。
面白い経歴ではあるけれど、別段おかしな点はない。
少なくとも、父親に比べたら……。
鈴木ダーリン。
年齢は五十二歳。
誕生日は六月十一日。
鈴木は母方の名前で、旧姓は——不明。
血液型——不明。
出身地——不明。
祖父母——不明。
経歴——不明。
——不明。
——不明。
——不明。
お兄さんとアンリから、両親の話を聞き出したんだけど……。
一番困惑していたのは、本人たちだった。
そりゃそうだ。
親のプロフィールなんて、いちいち気にしたりしない。
出身地を知らないのも、旧姓を知らないのも、それ単体ならなんら不思議でもない。
でもこうして羅列し、不明の数を数えると——
例え親だろうと、得体の知れない気味の悪さがある。
(こうなると、年齢や誕生日も怪しく感じる……)
そんなものは、いくらでも勝手に決めてしまえる。
もしかしたら名前だって……。
「ただの秘密主義かもしれない」
戸惑っている二人に気を使ったのか、アマンダさんがそんなことを言った。
「それか過去を語れない理由がなにかあるのか」
「……理由って?」
アンリの弱々しい声。
「もしかしたらヤクザの大親分の息子だとか。跡目を継ぐのが嫌で、駆け落ちして海外に逃げたのかもしれない。偽名を名乗ってね」
「そんな……」
「子育てのために日本に戻ってきたけれど、居場所がバレてまた海外に」
「子供を残して?」とお兄さん。
「あくまで可能性の一つさ。とにかく、ダーリン氏本人に聞けばわかることだ。連絡をとってもらえるかい?」
「それが……」
お兄さんが困った顔をする。
「連絡先、知らないんだよね。用事があったら、向こうからかけてくるから」
「なんですか、それ……」
「俺もどうかと思うけど。でもそれで困ったりはしてない——」
お兄さんの言葉が、ふと途切れる。
顔がみるみる青ざめていった。
「いや、違う。そうじゃない……。困った時は、いつも向こうから連絡があるんだ。気まぐれでかけてきたって感じだけど……。まるでタイミングを見計らったみたいに、必ず……」
アマンダさんが頭を乱暴に掻く。
彼女のそういう仕草を見るのは初めてだった。
「手分けしよう」
「手分け?」
「いつまた別世界の住人がやってくるかわからないんだ。時間を無駄にしている余裕はない。ジローにはラストヘイブンダンジョンに潜ってもらう。管理者に接触するには、ジローがいないと始まらないからね。私も同行する」
お兄さんとアマンダさんが二人きりに——
なんて突っ込みはできなかった。
そんな状況ではない。
ラストヘイブンはアマンダさんのテリトリーで、戦力的に考えても妥当な判断だ。
「ギン」
「はい」
「キャスパーと協力して、別世界のことを調べてくれ。私の名前をフルに使ってくれていいから」
「わかりました」
「アンリ」
「はいっ」
空気に飲まれたのか、アンリが背筋を伸ばして慇懃に応える。
「最近、ご両親からいつ連絡があった?」
「えっと……。一ヶ月ちょっと前かな。私がアメリカの生活に馴染めなくて、悩んでた時に」
「そうなの?」とお兄さん。「俺のとこには、もうずっと連絡がないんだけど……」
「そりゃお兄ちゃんは、ずっとダンジョンに潜ってるからでしょ」
アマンダさんもそれを見越して、アンリに尋ねたのだろう。
「その時はどこにいるって?」
「えっと。確かロシアの……。どこだっけ? ガギグゲゴとかザジズゼゾとかいう街」
なんだそれ。
まあおそらく、濁点がたくさんついた名前だったってことだろう。
「ふむ」
アマンダさんが顎に手をやった。
「ヴォルゴグラードとか?」
「……いや、違うかな?」
「ババエボ」
「う〜ん……」
「ヴェリーキー・ノヴゴロド。ゼレノグラード。ゴギガ・ガガギゴ。セヴェロドヴィンスク」
「……ごめんなさい。よくわかんない」
アマンダさんはロシアの地理にも詳しいのか。
一つ変なのが混じってた気がするけど……。
「仕方ないさ。それに一ヶ月も前じゃ、とっくに移動してるかもしれない」
とにかく、とアマンダさんは切り替えるように言う。
「アンリには、なんとかしてダーリン氏と連絡を取ってもらいたい。春奈はアンリのサポートを」
「わ、わかりました」
「連絡を取ってもらいたいって言われても……。そもそもお父さんが、なにか知ってるとは思えないんだけど……」
「それならそれでいいんだ。今はとにかく情報が欲しい。ダーリン氏が、ただ名前の変わった秘密主義者だったとしても、それがわかっただけで一つ前進だ。とにかく話を聞かないと、疑念も晴れないからね」
「だとしても、どうやって連絡を取ればいいの?」
「問題はそこだね」
「アンリを困らせたら、向こうから連絡が来るんじゃないですか?」
私は適当なことを言ってみる。
アマンダさんが笑った。
「それはいいアイデアだ。ほら、アンリ。困ってみて」
「いや、困ってみてって……」
「早く」と私も急かす。「時間がもったいないから」
「急にそんなこと言われても、困るんだけど……」
「お、いいじゃないか」
「その調子、その調子」
「いやいや……」
「今みんな、姉御の困り待ちですよ」
普段は真面目なギンも、こういう時はノリがいい。
余裕のない状況だからこそ、ユーモアは大切だ。
三人でアンリを追い詰めていく。
耐えかねたようにアンリが、
「お、お父さーんっ」
と叫んだ。
「——なに?」




