文章だけの存在
文章だけの存在になりたいと思っていました。
どれだけまともに振る舞おうとしても、どれだけ自由奔放に振る舞おうとしても、人間としての自分の皮が邪魔をして、妙にダブついて不恰好な存在になってしまいます。
俺が俺としてこの世界に存在している以上、俺の言葉は全て、この不恰好な皮の隙間から漏れ出ます。それは、しぼみかけの風船の空気みたいに、弱々しくも確実に漏れ出てしまうのです。
そして、社会的な立場とか、生い立ちとか、容姿とか、経済力とか、そんな感じのよくわからないものが、俺の言葉や文章の価値を、勝手に決めつけようとしてきます。
やたらめったらに付箋が貼り付けられ、よくわからないところに二重線が引かれている俺の言葉は、おそらく本質的には俺の言葉ではないような気がします。
だから俺は「幕田卓馬」とかいう架空の存在を作って、それに成り変わりました。
それは文章だけの存在で、人間を装うダブついた皮も、言葉に勝手に張り付いてくる付箋もない、日常から独立した存在でした。文章だけで居場所を作り、文章だけで語り合い、文章だけで評価される、厳しくも公平な存在でした。
最近そいつが、俺が必死で守っている人間の皮を破り取ろうとしてきます。
それは困りますが、でもまあ、そうなったらそうなったで仕方ないかな、という諦めみたいなものもあります。
文章だけの存在が持つ心地良さは、日曜日の朝の毛布みたいに心地よくて、捨て去るのはとても難しいのです。
特に病んでるわけではないので、大丈夫です(*´Д`*)
言いたかったのは「文章だけの存在」となってる自分が、とても理想的で、心地いいなと感じているって事なんです。
そういう時間があってもいいじゃない。
面倒臭いに日常の、わずかばかりの逃避として……。




