影武者の名誉と謀反
「影武者よ、お前の首がほしい」
扉が開く音がし、監禁された部屋に入ってきたのは陛下だった。
「私の首、でございますか?」
突然の来訪に、私は冷や汗を掻きながら受け答える。
「そうだ、お前の首だ。お前の命がほしい」
陛下は当然のようにそう答える。
陛下の表情は何一つ変わらない。
「何故、でございましょう?」
私は繰り返し問いを重ねた。冷や汗が止まらない。
私は突然の命令にただ狼狽え続けていた。
「わからぬのか? お前には。お前が閉じ込められた部屋では今まで何が聞こえていた?」
「鬨の声でございます」
「そうだ。ならばわかるであろう、この城は今敵に攻められており、そしてまさに陥落しようとしているのだ」
陛下の言葉に私は愕然とする。
この7日間ずっと、地響きが、爆音が、そして人の怒号が鳴り響いていた。
けれどまさかそれほどの危急になっているとは思いだにしなかった。
私はずっとこの城が不落の城塞であると陛下に教えられていたのだった。、
「相手はかの武帝と呼ばれる王だ。奴は今城を取り囲み、降伏を勧告している。そしてその条件として我が首を要求してきた」
陛下は滔々《とうとう》と説明を続けた。
その顔には一切の迷いがない。
けれど私は未だに事態を飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
私はこの役目に任命されて以来、ずっと陛下に付き従ってきた。
陛下の望むままに陛下の模倣をし、陛下の身振り手振りを覚えていった。
けれど実際に私が何らかの任務を命ぜられたことは今まで一度もない。
次第に私は「その日」に対する意識が薄れ、曖昧な日々を送るようになっていた。
そして「その日」は今日突然訪れたのだった。
「どうした、何を呆けた顔をしておる? お前が役目を果たす時が来たのだ。我は王としてお前に命じておる。お前の首を差し出せと」
その厳格さを持った言葉に一瞬で現実を突きつけられる。
そしてそれは私の全身を射すくめ、硬直させる。
私に最期の時をはっきりと感じさせた。
「ええ、はい、わかっております陛下。私は陛下に、首を差し出さねばなりません」
私は言葉をとぎれとぎれに返事をした。
けれど私は未だに自らの予兆を拒絶しようとしていた。
それは原初的な感情、死への恐怖であった。
そして自らの運命に対する不条理さの実感であった。
ーー何故私は死ななければならないのだろうか。
「ならばもうわかっているな。さあ床にひざまづくがいい。私自ら手を下してやろう」
私の束の間の疑問を遮るように、陛下は腰元の剣をすらりと抜いた。
そもそも私はどうしてこの任を務めるようになったのだろう?
私は元々は王宮と何の縁もない平民であった。
貧しい家の生まれであり、ただ労働と睡眠を繰り返す日々を送っていた。
それを陛下に顔立ちが似ているという理由で拾われたのだった。
陛下はその時言った。「これはお前にしかできぬ名誉な役目なのだ」と。
ーー名誉。
私は陛下からその言葉を聞くまで、そんな言葉を意識したこともなかった。
陛下が私の家に訪れた時、父も母も「有り難いことだ。有り難いことだ」と言って泣いて喜んだ。
陛下に仕えることはとても素晴らしいことなのだと、そう私に説明をした。
だから両の手を振って私は両親に送り出されたのだった。
父と母に送り出されて以来、私はその「名誉」という言葉だけを信じて生きてきた。
陛下の言うことに従うことが名誉。
陛下のお気に召すことをすることが名誉。
陛下の真似をすることが名誉。
陛下は私とともにいる時、幾度となく「名誉」という言葉を繰り返した。
名誉を守ることこそがお前の役目なのだと。
そして私自身その言葉に追いすがり、陛下から与えられるままに名誉に従ったのだった。
私自身が何かを考える余地などない。
ひたすら陛下が望むままに、私は名誉だけを追い求め続けていた。
「どうした、何をぼうっと突っ立っておる? 早くそこにひざまづくがいい」
しばらくの回想の後、私の耳に陛下の声が聞こえてきた。
陛下は剣を私に向けたまま、相変わらず表情を崩さず私の顔を見つめている。
しばらくの沈黙の後、私は口を開いた。
「陛下、一つお尋ねしたいことがあります。今私がここで死ぬことは名誉なことなのでしょうか?」
「ああそうだ。臣下が主君を守って死ぬことはとても名誉なことだ。お前は何も案ずることはない。これは名誉なことなのだ」
陛下はいつものように「名誉」という言葉を繰り返す。それが一番大事なものであるかのように。
事実陛下は私にそう何度も教え続けていたのだ。
ーー名誉? 名誉とは?
閃きのように私に疑問が湧いて出た。
私は今まで名誉のために役目を務めてきた。
ひたすらに陛下の望むがままに振る舞い、ひたすらに陛下の影であり続けた。
私はただ陛下から言われるがままに名誉に従ってきた。
けれどそこに私の意思があっただろうか?
私が追い続けていた名誉にはただ陛下だけの意思があった。
私はそこで考える。
名誉とは、誰かが求めることにひたすら付き従うことなのだろうか?
ただ誰かが欲するままに、誰かの望みを叶えることが名誉なのだろうか?
ならばその名誉とは、自分の意思を投げ捨ててまで、守るべきものなのだろうか?
私はそこで考えを止める。
しばらくの沈黙の後、私は再び口を開いた。
「陛下、ならばもう一つお聞かせください。今陛下が私を殺し、生き長らえることは名誉なことなのでしょうか?」
刹那、私の問いかけに陛下の顔は曇った。
やがて構えていた剣をそっとおろし、まっすぐに私を見据えた。
「お前は何が言いたい? お前は自分の任を忘れたのか? 私の身代わりになることがお前の名誉だ」
「はい、存じ上げております。私は陛下の影武者でございます。ですが、陛下は一体何者なのでございましょう? 陛下はこの城を今まさに失おうとしており、敵からも命を要求されている身でございます。例え逃げ延びたとしても、陛下はその時もはや王ではありません。陛下はその時どれほどの名誉を抱えていらっしゃるのでしょうか?」
そう言い放った瞬間、私は剣の切っ先を首元に突きつけられていた。
「貴様ッ、影武者の分際で私を愚弄する気か!! 貴様は私の身代わりだッ! ただ私の命令に従えばいい!!」
「ですが、私はこの役目は名誉なものであると陛下にお教えいただき今までこの任を務めて参りました。臣下の命と城をお捨てになる陛下に、名誉を捨てて逃げ落ちる陛下に、果たしてどれほどの名誉が残っているでしょうか? 名誉を失わんとするお方を守ることが、どれほど名誉なことであると言えるでしょうか?」
「黙れッ!! 貴様などに一握りでも情けをかけたのが間違いだった! 貴様などさっさと殺すべきだったわ!!」
瞬間陛下は剣を振り上げる。
咄嗟に私は陛下に突進して突き倒した。
カラカラと、剣が床に音を立てて落ちるのが聞こえる。
陛下の細い首に、十の指の腹の食い込む感触がまざまざと伝わってくる。
陛下は醜く顔を歪ませて、飛び出しそうなほど目を見開いて、そのまま絶命した。
やがて部屋に静寂が訪れる。何もない、何も聞こえない。
ただ一人の男と一つの死体があるだけの空間となった。
ここに名誉など存在しない。そして今までもそんなものは存在しなかった。
私は目の前の醜い肉塊を見下ろしてそう思った。
やがて私は肉塊から服を剥ぎ、自分の服を着せる。
落ちていた剣を拾い上げ、肉塊の首を刎ねる。
そして名誉を失った男の首を抱え、部屋を出た。