真中侑斗のシュガーレス
下駄箱で靴を履き替えながら、安田麻衣はマスクの下で咳をした。
昨日の夜から喉が痛くなって、持ってきたのど飴は昼休み前に底をつき、その後はずっとイガイガしたまま。ちびちび水分をとってやり過ごしたけど、喉がヒリヒリしてたまらない。
下駄箱を出ると、霧のような小雨が降っていた。
あいにく、今日は傘を持っていない。朝の天気予報でも降るなんて言ってなかった。無理をすれば駅まで歩けそうだけど、この体調で雨に打たれたら、本格的に風邪をひいてしまいそうだ。
−−今日は休めばよかった。
ゲンナリとした目で空を見上げる麻衣の隣で、ビニール傘がバンと開いた。
「安田さん」
「安田さん」
声をかけられたのが自分だと気づくのにしばらくかかって、ゆっくりと隣を見る。
「傘、ないの?」
話しかけてきたのは、隣のクラスの有名人、真中侑斗だ。
答えようとして、喉がつかえてまた咳き込む。
「風邪?」
少し涙目になりながら、うんうんと頷く。
真中侑斗はカバンをゴソゴソと探って、逆三角形ののど飴の箱を取り出した。
「これ、あげる。残りだけど。俺も先週喉痛くてさ」
受け取るかどうか、ちょっと迷う。
「いつも電子辞書借りてるし」
入学直後、たまたま電子辞書を貸してから、真中侑斗は辞書を忘れると、麻衣に借りにくる。なんで自分なのかはわからないが、おそらく電子辞書要員として登録されてしまったのだ。
「ほら」
そう言って、真中侑斗はのど飴の箱を麻衣に押し付けた。
こうまでされて断るのも申し訳ない。のどはヒリヒリ痛むし、飴をもらうと実際助かる。麻衣は目礼してのど飴の箱を受け取った。
箱の中には細長く包装されたのど飴が2袋。1袋に小さな飴が数個ずつ入っている。2袋のうち、1袋は既に開封済みで、ぐるぐると捻ってある。
「あ、それ、食いかけのやつ。その飴、よく効くんだけど、一回開けると、ベトベトになるんだ。そっちから食った方がいいと思う」
そう言われて、麻衣は袋をねじれと逆さまに捻る。中を見ると、やっぱりベトベトになっている。
「食える食える。下からぎゅっと押せば出てくるよ」
下からぎゅっと押し出すと、小さな逆三角形の飴が二つ、ギシギシと袋に引っかかりながら出てきた。
「傘ないなら、駅まで入っていきなよ」
真中侑斗が言った。
麻衣は、口に入れたばかりののど飴をあわや飲みこみそうになったが、なんとかこらえた。
−−真中侑斗と二人で帰る?
−−しかも、同じ傘に入って?
地味系女子を自認する麻衣にとって、それはハードルが高すぎる。
いくら真中悠斗の電子辞書要員とはいえ、ほとんどまともに話したこともないし、辞書を貸すときでさえ、別次元の存在だと感じているのに。
−−ないわ。
−−絶対に、ない。
しかし、真中侑斗は、もちろん入るよな? みたいな顔をして首を傾げて待っている。
−−ないない。
−−絶対に、ない。
麻衣が黙っていると、遠慮しないで、と肘の辺りを掴まれた。
そのまま侑斗は歩き出し、麻衣も引っ張られていく。
下駄箱から少し離れたあたりで、肘を離してはくれたけど、同じ傘の中にいるなんて耐えられない。ついつい侑斗から距離をとってしまう。
「安田さん、あんまり離れると濡れる。風邪ひいてるんだし」
そう言うと、侑斗は麻衣の方にぎゅっとよった。
麻衣が少し逃げる。その分侑斗が寄る。
そんなことを繰り返して、だんだん斜めに進んでいくと、侑斗がふふっと笑いだす。
「そんな逃げないでよ。辞書借りてるお礼がしたいだけだし」
飴を舐めたおかげで、喉が少し楽になって声が出た。
「いや、逃げるとか、そんなんじゃなくて」
ゴニョゴニョと麻衣が言うと、侑斗は柔らかく笑う。
その笑い方が入学した頃の侑斗とは全く違って、つい思ったことが口に出た。
「真中くん、すごく雰囲気変わったね」
言ってから、麻衣はしまったと思う。
入学直後の真中侑斗は、学校一のイケメンとして有名だったが、それ以上に、女子に対してひどい態度をとることでも有名だった。
侑斗の顔から笑顔が消えて、ちょっと困ったような、申し訳ないような顔に変わる。
「あー、それね。……やっぱり俺、感じ悪かった?」
麻衣に対して失礼な態度を取ったことはないが、それでも噂では聞いていたし、ちょっと怖い人なのかなと思ってたのは間違いない。否定も肯定もできずにいると、侑斗はそのまま話し続けた。
「なんか拗らせてたって言うか……。今覚えば、俺、中二病だったんだ。恥ずかしい。……もう、忘れて?」
そう言うと、侑斗は決まり悪そうに笑った。
とっつき難くて尖った人かと思っていたけど、なんだ、全然普通じゃんかと呆気にとられる。
そこから駅までは、結構会話が弾んだ。駅に近づくにつれて雨が上がって、傘も要らなくなった。
駅前のドラッグストアの前を通りかかると、侑斗がちょっと待っててと店に入っていく。
店から出てくると、侑斗は、はい、これ、と言って、色違いの逆三角形ののど飴が3箱個入った袋を麻衣に差し出した。
「今日、ホワイトデーだし、いつものお礼。三つとも違う味だけど、全部俺のお気に入りのシュガーレス」
麻衣はヘラっと笑って、ありがと、と言って袋を受け取った。
反対側のホームにいる真中侑斗が手を振ると、麻衣の乗った電車が走り出す。
さっき渡されたドラッグストアの袋を開いて、一つずつ箱を取り出す。
確かに、3箱ともシュガーレスと書いてある。
でも、こののど飴は十分に甘い。
シュガーレスなんて、名ばかりだ。
麻衣は思わず、イケメンの破壊力ハンパねぇと呟いた。




