P.8 少女の願い
「ん……ふぁ、あ……」
暖かな陽の光で目を覚ましたヴァイオレットは、ぼんやりとした意識の中で、少し違和感を覚えた。
――いつもは聞こえない鳥の声が聞こえる。
「……?」
暫くして、それが意味する事実に気づいてしまったヴァイオレットは一気に目を覚まし、顔を青ざめさせた。
恐る恐る時計を見ると――十二時二十五分。
いつも起きなければならない時間は、八時。
…………寝坊した。
「うわぁぁああああああ!!!!!」
平和だった街に、少女の断末魔が響く。
そして時間は流れ、場所は変わり、此処はいつもの仕事場。
「お、お……おはようございます……」
「お早……くはないけど、おはよう……」
サリエルは顔を真っ赤にしてぜえぜえと息を切らしながら全力で走って来たヴァイオレットを見て、驚きを顕にしている。
それもその筈。サリエル的には「風邪かなぁ」と思い、お見舞いに行くか行かないかを考えていた矢先「寝坊しました!!!!」と勢いよく扉が開いたのだから。
「遅刻……してしまい……申し訳ありません……!!」
途切れ途切れに話すヴァイオレットに「取り敢えず座って落ち着いて……!」とサリエルが声を掛ければ、ヴァイオレットはよろよろと倒れ込むようにソファに腰掛けた。
ヴァイオレットの家から此処、ヴァイスハイト国立図書館まで徒歩で約15分程度、それを5分でやって来たのだから、こんな状態になってしまうのも仕方がない。
「あ、あともう少しここで休んだら、すぐに行きます……ふぅ……」
ようやく息が整ったようで、落ち着いた声を取り戻したヴァイオレットはサリエルにそう告げた。
「う、うん。でも、無理はしないでね?」
その言葉を受け、 微笑みながらそう返したサリエルは、いつの間に用意したのか右手に持っていた、紅茶の入っているカップをヴァイオレットの目の前に差し出すと「じゃあ僕は書物庫を整理してくるね」と部屋を出て行った。
相変わらず優しい人だ。とヴァイオレットは思う。
「……! これ美味しい……何の紅茶かな、飲んだことない味……」
サリエルは紅茶が大好きで、仕事中もよく飲んでいる。この国では珍しい、紅茶マイスターの資格を持つ程だ。
その腕と舌は流石としか言いようのないもので、サリエルの淹れる紅茶はこの街で売っている紅茶のどれよりも格段に美味しい。
いつもサリエルの美味しい紅茶を飲めるのは此処の司書を務めるヴァイオレットの特権であった。
「新しい味……って事なのかな、ま、美味しいんだけどっ」
ヴァイオレットはそう言いながらくすくすと笑い、カップの底に残る茶を飲み干す。
食器を綺麗に洗い、しっかりと水滴を拭き取り、ショーケースの中に一つだけ出来ていた空白の場所に食器を丁寧に戻した。
「よしっ」
一通りの片付け作業が終わり、司書室を出て、今日は再び東館へ向かう。
「今日は……よし、科学の本について読もうかなぁ」
大量の本棚の中から適当に一冊選ぶと、席に座り、難しい単語が並ぶ分厚い本をいとも容易く読み解くと、ページをぺらぺらと捲っていく。
「ん〜……なるほど難しいな……」
「ん〜なるほどむずかしいなぁ……」
「…………え?」
内容の難しさに、思わず漏らした声が目の前からも聞こえて来た。
先程まで周りに誰もいなかったため不思議に思って顔を上げると、可愛らしい少女がにこにことこちらを見つめていた。
「こんにちはっ」
「うわぁあ!?」
突然少女が現れた事によりヴァイオレットは大きく跳ね上がってしまった。
「えへへ、急にごめんなさいっ、こんにちは!」
「えっ? あ、えっと、こ、こんにちは?」
「ねぇね、お姉ちゃん何読んでるの??」
「えっ、と……今は、科学の本を読んでるの」
少女にそう聞かれ、ヴァイオレットは戸惑いながらもにこやかに答える。
「かがく?」
「えぇ、少し難しいかな?」
「えへ! そうかも!」
「あら、ふふふっ」
「ねぇねぇお姉ちゃん、お名前なんて言うの?」
「私はヴァイオレット。この図書館の司書をやってるの」
「司書?」
「む、難しいかな……司書って言うのはね、図書館にある本を管理したりするんだよ」
くりくりとした瞳の女の子に聞かれて、自己紹介をする。
『司書』という仕事を知らない所から五、六才といった所だろうか、と推測したくなるが、少女はどう見ても十歳くらいの見た目をしていた。
「偉い人?」
「う〜ん、偉くはない……かなぁ」
「じゃあ、文字は読める?」
「文字? うん、読めるよ」
にこりと微笑んでそう答えると、少女はぱぁっと顔を輝かせ
「すごい! じゃあお姉ちゃんは偉い人だ!」
と笑った。
「え、そ、そうかなぁ、照れちゃうなぁ……」
頬を微かに赤く染めながら少女と会話を交わしていく。
どうやらこの少女は文字を読めないようだ。
この国では、昔の考えがまだ残っていて、男尊女卑の思想を唱える者も多く、まだ年端もいかぬ少女が文字を読めないのは可笑しな事ではない。
寧ろ、当たり前ですらある。
男性のみの学校もあり、女性は勉強をする場すら与えられないのが現状だ。
ヴァイオレットはそれが悲しかった。
『女性』というそれだけで、何故虐げられなければならないのか。
「ね、ね、私にも文字、教えて!」
「文字を?」
「私も本が読めるようになりたい!」
「本……?」
こんな現状を『普通』だと思い、女性である自分は字が読めなくて当然、読もうとも思わない人が多い中、この少女は珍しく、まだ子供であるにも関わらず本を読みたがっていた。
「私ね、読みたい本があるの!」
不思議に思っていると、少女は目を輝かせたままヴァイオレットに語り掛ける。
「この本! お母さんが私にくれたの! でも私、なんて書いてあるか分からなくて……」
「お母さんに? なら、お母さんに教えてもらわなかったの……?」
ヴァイオレットが首をかしげながらそう問うと、少女は少し悲しげな顔をして
「お母さんとお父さんは、死んじゃったの」
と笑った。
「えっ……」
「だから私『こじいん』って所に入れられたんだけど、そこでは大人の人は皆忙しそうで、誰も教えてくれなくて……」
「そう、なの……」
少女に悲しい事情を話させてしまった罪悪感と、その内容の辛さからヴァイオレットは己の胸を苦しめた。
……この子に文字を教えてくれる大人はいないんだ。
孤児院の大人は、多くの子供の面倒を見なければならず、その忙しさは本当に酷いものだと以前孤児院の手伝いをしたアレンが言っていた気がする。
そんな中で一人に特別に構ってあげることは難しいのだろう。
だが、誰かは言ったのではないか。
図書館にいる偉い人になら教えて貰えると。
それ故に先程この子は、私に『偉い人』かどうか尋ねたのではないだろうか?
「お姉ちゃん、教えてもらえない……?」
しょんぼりとした哀しそうな眼に見つめられれば、ヴァイオレットに「教えない」という道は残されていなかった。
「そ、そんなのもちろん、私が教えてあげる! この本を全部読めるように協力するね!」
ヴァイオレットが力強くそう言って少女の手を握ると、少女は今まで見た中で一番明るい笑顔を浮かべ
「ありがとう!」
と返した。
その嬉しそうな顔を見て、釣られるように頬を弛めたヴァイオレットは突然「あっ」と声を上げ、続けた。
「あ……そうだ、そういえばあなたのお名前は?」
名前を聞き忘れたままになっていた事に気が付き、再び忘れてしまわないうちに少女に問う。
「わたしの名前?」
「うん、教えて貰えるかな?」
「わたしは、アンターク・キルラ」
「アンタークちゃん?」
「そうだよぉ」
少女――アンタークは、変わらず眩しい笑顔のままそう答える。
まだヴァイオレット達以外に誰も居ない図書館の中で、その声だけがころころと楽しそうに響き渡っていた。
「へぇ……アンタークって、確か宝石の名前よね! 良いなぁ、素敵っ」
「宝石? そうなの?」
「そうだよ」
ヴァイオレットはそう言うと、近くの本棚へ歩いて行き、あっという間に一冊の本を選び抜くとアンタークの元へ戻って来た。
「これ! この灰色の宝石なんだけど……分かるかな?」
「わぁ……!!」
そしてぱらぱらとページを捲り、目的のページを開いて『アンタークチサイト』と書かれた上の写真を指さす。
「これはアンタークチサイトって読むんだよ」
「アンタークチサイト……!」
新しい言葉を覚える喜びに、アンタークは顔をきらきらと輝かせていた。
なんと教え甲斐のある少女だろうか。
ヴァイオレットは密かにそう思いながらくすっと笑った。
「あれ……?」
「ん? どうしたのアンタークちゃん」
「この文字見た事ある……」
そう言ってアンタークが指さしたのは、ダイヤモンドの説明文にある『ガラス』という単語。
「あぁ! これは、ガラスって読むんだよ」
「ガラス……? もらった本に出てきたのかなぁ、見た事ある!」
「……ねぇ、アンタークちゃんがお母さんから貰った本って、何?」
「うんとね、これ!」
そしてアンタークが「よいしょ」と差し出したのは、かの有名な『シンデレラ』
シンデレラでガラスと言えば、あれしか無い。
「もしかして、ガラスの靴かしら?」
「……ガラスのくつ?? それってなぁに? ねぇねぇっ、お姉ちゃん、私にも教えて!」
アンタークが輝く顔で「早く早く!」と促せば、ヴァイオレットはまるで母親にでもなった気分で
「じゃあ、早速読んでみよっか」
とにこやかに笑って本の表紙を捲った。