P.5 フィン・セオドリック
「あ……えっと、は、はい大丈夫……です」
思考回路が止まっていたヴァイオレットは数秒固まり、その後急速に頭の中で状況を理解して、もごもごと答えながらそっと差し出された手を握り返した。
「わっ!!」
青年の手を握った瞬間、ぐいんと力強い腕に引っ張られ、体が浮かぶ。
急な引力に驚きながらも、よろよろと体制を整えると、青年に対して頭を下げた。
「あの、すみません! 急いでいて周りが見えてなくて……」
「いいえ、僕の方こそ。この机に立て掛けておいた箒が落ちていたので、拾おうとしゃがんでしまったばかりに……」
「ほ、箒……?」
よく見てみると、青年が今まで座っていたであろう場所には分厚い本が一冊置かれ、その隣にヴァイオレットの探し物である箒が立て掛けてあった。
「あ……これ私の忘れ物で、どこに置いてありました……?」
「ん? これは、あの扉の前に置いてあったよ」
やっぱり、とヴァイオレットは溜息をついた。
「君の物だったんだね、見つかって良かった」
青年はそう言うと、ヴァイオレットへにっこりと微笑みかける。
「あ、え、あ……ありがとうございます……」
その笑顔があまりに優しくて、ヴァイオレットは頬を赤くした。
「……あれ、君、もしかして司書さん?」
「は、はい! この図書館の第一司書です! 何かご用件がおありですか?」
青年はヴァイオレットの腕章を見ると、彼女に尋ねた。
「うん、医学と錬金術の本を探してるんだけど、無いかな?」
「探してみますね! 少々お待ち下さいっ」
青年の言葉に頬の赤みをさっと鎮め、医学と錬金術の本を探し始める。
あの青年の見た目から考えると恐らく大学レベルの物だろうか、うぅん、それともかなり専門的な物……?
「……取り敢えず、どっちも持っていくか!」
うんうん一人で唸りながらも、ヴァイオレットは普段自分が愛読している医学書と、二冊の錬金術書を抱え、青年の元へ戻った。
「お待たせ致しました、こちらで如何でしょう?」
「わぁ、ありがとう。助かるよ」
「いいえ、お客様のお探しする本を見付けてお届けするのが私の役目ですから」
ヴァイオレットはそう言って穏やかに微笑む。
「……君、名前なんて言うの?」
「え? わ、私の……?」
「うん、是非教えて欲しいな」
「えと……私の名前はヴァイオレットです。ヴァイオレット・スノーブライア」
少し緊張しながら丁寧に伝えると、青年は嬉しそうに笑った。
「ヴァイオレットか、うん。謙虚で誠実そうな君にぴったりだ」
「い、いえそんな……!」
「僕はフィン・セオドリック。よろしくね」
再び差し出された手を、今度は優しく包み込むように握り返す。
自分よりもずっと大きな手は、ごつごつとしていて硬かった。
――この手の感触、覚えがある。
ヴァイオレットの脳裏に、嫌な記憶が蘇った。
そうだ、あの時の……
『担架を早く!』
『ベッドが足りないぞ!』
『私より子供を……!!』
『兵士の治療を最優先しろ!』
『嫌だ、死にたくない……』
『先生こちらの患者様を!!』
『こっちが先だろ!!?』
『暴れないでください!!』
『……うっ……』
吐き気がしそうな騒音の中、必死に治療を施す。
雑念は捨て、目の前の患者を救うことだけを考えろ。
休むことは許されない。
自分に出来ることなんてそれしか無いのだから。
『はぁ……はあ……っ』
しかし、何百人目の患者に向き合った時
『俺……死ぬのか……?』
寝たきりの彼は、顔もこちらに向けぬまま不意にそう問うた。
『いいえ、死にません。私が治します』
『……そうか……なぁ、あんたさ……』
『?』
『俺を殺してくれ……』
『え……?』
『もう、生きたくないんだ。こんな地獄……もう嫌だ……此処で殺してくれ……頼む……』
そうして差し出された傷だらけの血に塗れた手。
『……貴方が、そう望むのなら……』
「…………レット……ヴァイオレット……?」
「……?」
「ヴァイオレット……!」
「はっ……!」
「だ、大丈夫かい? 突然暗い顔をして、何だか心ここに在らずみたいな感じだったけど……」
そう言われ、フィンに顔を覗かれる。
「あ、だ、大丈夫です!!」
彼の澄んだ瞳の中にヴァイオレットの暗い顔が映っていた。
「ならいいんだけど……無理はしたらダメだよ?」
「は、はい、すみません」
えへへ……と笑うと、セオドリックはまた優しく微笑んだ。
それを見て再び顔をほんのり赤く染め
「あの、セオドリックさ――」
彼の名を呼ぼうとすると、開館を知らせる高い鐘の音が館内に鳴り響いた。
「わっ……これは、何の音?」
「あ、あの開館を知らせる鐘の音です」
「えっ、じゃあ僕は開館より前に此処にいてしまったのかい?! それは申し訳ない……!」
「い、いえ良いんです! 扉を開けっぱなしにしてしまった私が悪いので……!!」
「あぁ……なるほど、それで箒か……掃除をしていたんだね?」
「は、はい、そうです……お恥ずかしい……」
ヴァイオレットがはぁ、と溜息をつくと、セオドリックは不意によしっと呟いて
「僕も手伝うよ」
「え……?」
「掃除。箒を取りに戻ってきたってことは、まだ途中なんだよね? 君の仕事の邪魔をしてしまったし、僕にも手伝わせてよ」
「えええ! そんな! お気になさらず! それが私の仕事ですし、一人で大丈夫です……!」
「でも二人の方が早く終わるよ?」
「うっ……」
ヴァイオレットは悩んだ挙句、セオドリックの優しさに甘えることにした。
色々と鈍いヴァイオレット一人では確かにあと一時間はかかるし、何よりセオドリックと一緒にいられる時間が長くなるのは、彼女にとって悪い話ではなかった。
「じゃあ……お願いします」
「うん、任せて!」
ヴァイオレットはもう一本箒を持ってくる為、司書室へ走った。