四本の腕と監督と
アリーチェ音楽教室にパメラが加わって数日が経った。
自分の練習時間や父との約束について考える時間が、フランツとパメラの二人に割かれてはいるが充実した日々である。結婚記念日の計画はまだ白紙だが。
パメラは理論は苦手だが演奏は好き、聴くのも好きといった気質だった。アリーチェ自身も今はフランツにとって先生じみたことをしているが、元々理屈よりも感覚で演奏する傾向が強かった。それもあって、フランツに教えるのも近々終了としたい。
最近では防音室でピアノを聴きながらデッサンなどもしている。さすがに絵具の持ち込みはしなかった。
パメラが特に気に入ったのは連弾だ。
「主旋律を弾くだけなのに、なんだかとっても複雑な曲が弾けている気がします!」
「実際気がするだけよ。複雑なところは私が弾いているのだからね」
分かってますって、と茶目っ気たっぷりに笑うパメラ。彼女が弾けるように、本当に必要な音以外はプリモを弾くパメラのパートから外し、可能な限り自分のセコンドでフォローしている。なんと楽譜監修はフランツだ。パメラの隣に陣取り、「これならパメラ様のパートにもうちょっと音を追加できそうかな」と楽しそうに考えている。
「楽しんで演奏する」が一番大切だ。嫌々ながらしていては上達するものもしないし、聴き手も苦しい。
「ところでお姉様、お父様とお母様の結婚記念日にお姉様が楽師として何刻も演奏し、有力な貴族を招いた盛大なパーティを催すという計画はどうなっているのですか?」
「その盛大に間違った伝言ゲームの犯人は誰かしら?そんな派手なことはしないわよ」
正しい計画、という程のものではないが訂正しておく。だいたい結婚記念日にそんな大がかりなものは普通しない。
(夫婦で連弾、というのも素敵だけど、練習時間を取らせるわけにもいかないし、私が演出して見せるといった手前これでは駄目ね。出来ればサプライズにしたいし……)
連弾……却下。と頭の中の計画書に書き加える。
※
少し前の、フランツと出会う前の話だ。アリーチェは普段田舎に住んでいる父方の祖母に会った。
そのころの彼女は相当悩んでいた。覚えている曲を、防音設備の施された音楽室で弾いていた時のこと、たまたま祖母がやってきて聞いたのだ。
「アリーチェ、あなた何を悩んでいるの?」
アリーチェの悩み、それは前世で知った曲を、今世で弾くことだった。
バッハも、ショパンも、ブルグミュラーもいない。そんな中で自分が彼らの作った曲を、さも自分が作りました、知りましたと人前で弾くことが許されるのだろうかということだ。ズルをしていると思うし、何より作曲家に申し訳がない。
しかし、私が弾きたいのはこれらなのだ。
前世で成功した、失敗した思い出。練習している途中だったもの。友人が弾いていて憧れだった曲。伴奏を頼まれたこともあった。
何の因果か分からないが、自分は前世の記憶がある。そんな自分が、この世界で前の世界の音楽を奏でるのは冒涜ではないのか?
弾きたい気持ちと、偉大な先人たちへの無礼。その狭間で迷っていて、当時のアリーチェは正直限界だった。
祖母に相談したところ
「弾きたいのでしょう?なら弾きなさい」
とあっけらかんと言われてしまった。
祖母は、突拍子もないことでもまず否定するということはない。そして、よくも悪くも彼女の考えは白か黒、はいかいいえだ。好きだから、という理由で祖父と大恋愛の結果、結婚しただけはある。
後日アリーチェは尋ねた。自分は変なことを口走っていなかったかと。愛しい孫とはいえ、いきなり前世がどうのなどと言ったら頭を疑われかねない。
「さっぱり分からなかったわ。でもアリーチェがピアノを弾きたいことだけは分かったわ。好きに弾きなさいな」
その笑顔が可愛らしく、祖父が口説き落としたのも納得だ。
また、アリーチェが悩んでいると気づけた理由は、自分が刺繍を得意としているからだそうだ。曰く「こうだ、と思ったら一息に縫うのよ。迷いはいらないの、一気に行きなさい」とのこと。その日のアリーチェの演奏は、線ががたがたで見ていられなかったそうだ。
※
パメラのフォローをしながら、アリーチェは祖母の言葉を思い出す。今の自分は、パメラは、フランツは楽しんで音楽に関わっている。ピアノの向こう側の壁には、パメラの新作の絵が掛けられていた。
脳裏に響く、祖母の言葉。
「いいこと?アリーチェ。私はあなたの言っている内容の半分も分からなかったと思うわ。
あなたには理解者が必要だと思うの。見つけなさい。私以上に、あなたを分かってくれる人を」
この二人がその理解者かは分からない。しかし、この笑顔を見ていると仮に理解者でなくとも自分にとっては大切な人なのだと分かる。
「ねえパメラ、私これが一緒に弾きたいわ。フランツも見てくれるかしら?」
「真っ黒です!!」
「大丈夫ですよ。僕に任せてください!」