誰のために
期限は明確ではないが、準備だけは早目にしておくにこしたことはない。
今生きるこの世界では分からないが、クラシックの演奏家というものの予定は早くに決められる。
(やっぱりアルペジオは苦手だわ)
加えてアリーチェには自分の技術を磨く時間も必要だ。彼女が目指しているものは演出家ではなく演奏家だ。結婚記念日の演出も、自分で生演奏するつもりである。父になにかしらの音楽の才能、または関心があれば本人に演奏してもらうのもいいが、ただでさえ多忙な父にそれを押し付けることはできない。
一通りの基礎練習を終え、なじみの深い曲を弾く。
バガテル「エリーゼのために」
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲。本来はエリーゼでなくテレーゼという名前だったが、悪筆のため読み間違えられたという説が有名。実際にベートーヴェンの周りにはエリーゼという女性はいないが、テレーゼはいた。しかしエリザベートという女性もまたいた。直筆譜は失われており、誰のために書かれた曲なのか判断のしようがない。バガテルとは小品の一つであり、「ちょっとしたもの」という意味を持つ。
ピアノ、正式名称ピアノフォルテという楽器を生み出したのもベートーヴェンと言っても差し支えないと、アリーチェは思う。それまでのピアノは大きな、強い音に耐えることのできない物であり、ベートーヴェンが色々と注文を付けた結果、改良されていった。今アリーチェが弾いているピアノは音大生だったころに自分が弾いていたものとそう違いはない。「どうしてベートーヴェンが存在しないのに、ピアノは私の知るものと同レベルのものがあるのよ」と疑問に感じ調べたところ、力の限り打鍵し、大きな音で演奏する奏法が流行った時期があったそうだ。実際に楽譜を見せてもらったが、正直な感想は「品のないリスト」であった。
(でも、そんな流行があったから私は前と変わらず弾けるのよね)
曲の中間部、それまでの物悲しさとはうって変わり、ラの連打音がまるで嵐の前触れのように響く。右手で奏でられる嘆きのようなメロディ。不穏な気配は収まることを知らず、半音上がった♭シの連打へ。このフレーズの最後に、何か諦めのようなものをいつも感じてしまう。さあ、アルペジオで一気に上へと駆け上がる、そんなときに、部屋の扉が開けられた。つい手を止めてしまう。
「あ、ごめんなさい……素敵な曲が聴こえてきて、もっと聴きたいなって思って……」
そこにいたのはアリーチェと同い年くらいの少年だった。