まずは身近なところから
さて、ペンをとり意気込んでみたものの、アリーチェには作曲の才能はなかった。前世でも友人の中には作曲科選択者はいなかったためコツを聞いたこともない。
(考えを変えましょう。そうよ、名曲があっても弾く技術がなければ意味がないのよ……)
自嘲気味に笑う。
前世で弾いた曲は、全てではないが覚えている。忘れないように繰り返し弾いてきた訳は、いつ何時その曲が活躍するか分からないからだ。例えば「あら音大生なの?じゃあちょっと弾いてみてくれない?」と言われたときに役に立つ。前世では子犬のワルツやきらきら星変奏曲からの抜粋を得意としていた。
アリーチェは一先ず技術を磨くことにした。手も大きくないし、関節もしっかりしていない。ピアニストの手とは程遠いふっくらとした幼い手……。記憶にある自分の手とは似ても似つかない。
「今でも出来ることは沢山あるわ」
まずは基礎練習を徹底することにした。
※
いつもの通りに防音室へと向かうアリーチェ。その顔はあまり晴れやかとは言えない。
理由は、音楽に傾倒しすぎているのではないかと父親に言われたのがきっかけだ。そして思い出した。中世ヨーロッパ――正確には中世ではなくもう少し後の時代だが――では音楽家の地位とは低かったのだ。古典派に代表されるハイドンは宮廷楽長。モーツァルトはフリーの音楽家として活躍する前は世界中を回っての演奏旅行をし、父レオポルトはその旅でモーツァルトのパトロンを見つけようとしていたと言われている。貴族の子女相手にレッスンもしていた。貴族のパトロンを得るのが普通なのだ。つまり、今の自分は、自分というより当主たる父だが、音楽家を雇う側なのだ。この国でもそれは変わらない。
父の言わんとしていることが分かった。貴族の娘が音楽家になるなどもっての外だ。しかし諦められない。音楽は心を豊かにする、などと言ったところで説得はできないだろう。具体的に何ができるのかだ。
(考えるのよ。私が音楽を通して何ができるのかを)
「お父様」
「何だ?アリーチェ」
ラウル・クレスターニ。アリーチェの父でありクレスターニ伯爵家当主。仕事ぶりは有能と聞くから言いくるめるのは無理だろう。この一点を除いては。
「来年のとはいきませんが、お母様との結婚記念日。私が音楽をもって素敵に演出して見せます」
「よろしく頼む」
即答。
愛妻家で有名な伯爵家当主様。年端もいかない娘に完全敗北した瞬間だった。
かくしてアリーチェは一先ずは父親の理解は得たものの、何年か後の結婚記念日に頭を悩ませるのであった。