prelude
ポーン
室内に響くラの音。オーケストラでのチューニングとなる音。
そのまま上向の音階を弾く。短調の基本となる調であり、エオリア旋法から派生した調。
腰かけ、鍵盤の上に手を置く。奏でられる曲は、演奏者知る限り、最もよく知られた曲の一つであった。
ヴァルツモンテ王国伯爵家の令嬢、アリーチェ・クレスターニ。流れるような銀の髪に青い瞳を持った伯爵家自慢の娘には、少々困ったところがあった。きちんと家庭教師の授業は受け、貴族の子女としての振る舞いも問題ない。しかし、彼女は少しでも時間が空くと防音設備の整った部屋へと閉じこもってしまうのだ。
名門貴族の娘として生まれ、何不自由なく過ごしてきた。両親は健在だし、きれいなドレスに美味しい食事、召使までいるというのにある一点において、彼女は満たされなかった。
アリーチェ・クレスターニ、それが彼女の今世の名前。前世はピアノ科の音大生だった。成績は良かった。コンクールでもそれなりの実績もあり、寝る間も惜しんで練習したりもした。とにかくピアノが大好きなのだ。特にステージで弾く、あの感動が忘れられない。
だというのにどういう因果か、この中世ヨーロッパ風の世界に転生し、貴族の嗜みとしてピアノに触った途端に前世の記憶が蘇ってきたのだ。
ピアノの教師の言葉を半ば聞き流しながら、アリーチェの胸は高鳴った。また弾ける。まだ弾ける。ステージに立てる。あの感動をもう一度!
でもその感動も一瞬だったわ。中世のドイツやイタリアに似ているといってもそれだけ。本物じゃないからモーツァルトもベートーヴェンもいない。勿論作曲家という職業は存在しているみたいだけど、正直つまらない。どれも古臭く、似たような曲しかない。前世の記憶を頼りに弾こうにも限界がある。
「そうよ、なければ作ればいいのよ」
パンがなければお菓子を食べればいい。お菓子がなければ作ればいい。