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ライフ

作者: ここぎ

「ただいまー」

 元気な声がリビングにまで届いた。どたどたと走り回る足音を聞くと、今日も大きなけがのない一日だったようだ。

 もうそんな時間か。

 彼が返ってくる日は、どうにも手際が悪くなってしまう。松尾芭蕉の気持ちもよくわかるというものだ。

「ママー」

 どうやら小さな怪獣ちゃんは、私の小さな機微はわからないらしい。今日も思いっきり飛び込んでくる。

「おかえりー、手洗いうがいしてきなさい」

 ひとしきり抱き着いて満足すると、今度は洗面台に向けて猛ダッシュでいなくなっていった。

 なかなか甘えたい盛りが抜けない、小学3年生。少しばかり子供っぽさが強いような気がして心配になってしまう。

 さて、彼女の予定はどうなっているだろうか。遊びに行くにしても、早く帰ってきてもらわねばならない。

 一通り家事なんかは午前中に済ませたものの、布団の取り込みだけは忘れないようにしなければ。

「ママーあのね、あのねー」

 リビングに戻ってきた怪獣ちゃんに、午前中に買いに行ったケーキを出してあげる。

 どうやら今日は自宅で過ごすらしい。

 小さな手を一生懸命に合わせて、それからちまちまと食べ始める。この時ばかりは怪獣は小動物に収まっていてくれる。

「アヤコちゃんはアヤコきらいなんだって。わたし、すきだよっていったんだけどなんでってなっちゃって」

 いくらか下がったトーンで、学校のことを教えてくれる。もっとも、言葉よりも気持ちや感情が先に漏れてしまう節があるが。

「アヤコちゃんはどうして嫌いなの?」

「あのね、アヤコはタカミゾ君とミシマさんのおばあちゃんなの。アヤコちゃんはおばあちゃんじゃないんだけど、おばあちゃんいやだからアヤコちゃんもいやなんだって」

 ふむ、ようやくこの事件の全容が見えてきた。どうも友達は名前でからかわれるのが嫌なのだろう。

「わたしね、アヤコちゃんにすきになってもらいたいな」

 首を少しかしげて、お願いするのは彼女の彼女の癖だ。彼がこのお願いにめっぽう弱く、お願いをかなえる方法を彼女のなりに感じ取っているのだろう。

「そうね。お名前だものね。好きになってほしいね」

 私は紙とペンをとった。

 これは一番最初に紡ぐ愛の言葉なんだと思う、と彼は言った。

 知ってほしい。祝福されて生まれてきたのだと。

 私は綾子と大きく書く。

「少し難しくなっちゃうけど、大丈夫?」

 真剣な顔でこくりと大きくうなずいた。


 字には、一つ一つに意味があるの。

 ぜんぶ?

 そう。全部によ。綾っていう字はね、模様が入った布のことなの。

 ぬのがアヤコちゃんの名前?

 そうじゃないわ。ほらよく見て。糸っていう字と夌っていう字が組み合わさって出来てるでしょ。

 うん。

 夌っていう字はね、どんなに険しい山にも上るっていう字なんだよ。

 これだけで?

 そう。糸はいろいろなものを結んでくれる。人と人とを結んで話さない縁結びの字よ。

 えんむすび?

 素敵な人と出会うってことかな。

 わたしもすてきなひとかな?

 きっとそうね。だからね。どんなに難しいことにも頑張って挑戦して、大好きな人といっぱい出会いますように。綾っていう字には、こんなにいっぱい気持ちがこもってるんだよ。

 すごいね!すごいね!

 子っていう字はね。一と了から出来てるでしょ。

 うん。一年生の時に習ったよ。

 了っていうのは最後までって意味なの。だから、最初から最後までって意味になるわ。

 綾子って名前には、お友達がたくさんできて笑っていてほしい、難しいことにも挑戦してほしい。大人になってもずっと笑っていてほしいってお願いが込められてるんだよ。


「きらいになったらだめだね」

 ぽとぽとと紙の上にしずくが落ちる。きれいな涙だ。

 それを見て、私は思わず笑みが漏れた。

 小さな天使ちゃんは、彼に似てすごく素直な子に育ってくれている。

「おなまえ、すきになってもらうの」

「明日学校で教えてあげて。お父さんとお母さんは大好きなんだよって」

 大きくうなずいた彼女は、きっと優しい天使になるだろう。

――ただいま

 玄関の扉が開く音が聞こえた。

「パパだ」

 どたどたと大きな音を立てて、猛ダッシュでかけていった。怪獣へと戻った彼女の後を追い、私も玄関へ向かった。

「パパーおかえりなさい」

 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと歩く。そこには怪獣のタックルを悠々と受けとめる最愛の彼の姿があった。

 もう無理だ。

 私は彼の胸に思いっきり飛び込んだ。

「ただいま」

 彼の声が近くで聞こえるこの瞬間がたまらなく好きなのだから仕方がない。

 今日は一日甘やかせてもらうのだ。

「おかえり」

 娘と二人、彼を取り合う日々が始まる。

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