04 Mars-マルス-
僅か五メートルに満たない距離から、頼はその光景を見た。
白衣の下に着ている緑色のセーターが赤く染まるのを。
その染みがあっという間に衣服全体へと広がっていくのも。
梢の胸から突き出ている刃先の冷たい色も。
「儚志さ……ん?」
しかし、確かに目にしているそれらの現象が意味するものを未だ分からないでいた。
「頼さ……ゲホッ」
赤い液体が梢の口から吐き出され、べちゃりと音を立てて地面にこぼれる。
その様をただ目で追っていた時、近くで大きな音がした。
三十メートルほど先にある、研究棟から突き出ていた正面玄関の屋根の上に何かが落下したのだ。
「な……」
その直後、校舎全体から非常ベルが鳴り響き始める。
「すげえ音がしたぞ!」
「何が起こった!」
「正面玄関の方だったぞ!」
講義室の窓から顔を出す研究科の生徒たち。
「キャアアッ!!」
頼の見えない所から女生徒らしき悲鳴が上がる。
「あっ、あれ……」
「ひっ! ぜ、全員逃げろっ!」
「屋上だ! 屋上へ行け!」
せわしなく走り回る無数の足音と急速に飛び交いはじめる戸惑いの声は下の頼の耳にまで届いた。
「……何だ、何が起こって」
「よそ見しないでよ」
「……えっ」
急に声を掛けられ、反射的に振り向いた頼。
梢の方に視線を戻した時、頼は彼女から突き出ている銀色の刃がゆっくりと胸の中に収まっていくのを見た。
「儚志さん!」
「頼……さん」
前のめりにふらふらと倒れる彼女を抱きかかえる。
その時、頼の目の前に一人の子どもの少年が立っていた。
頼の視線は少年の手に向けられる。その手には血で染まったナイフが握られている。
それを見た瞬間、頼の表情は一変した。
「お前……儚志さんを刺したのか」
臼で引き潰したような声で問う頼。
全身が殺気立ち、先ほどとは別人のような顔付きだった。
「答えろよ!」
「……あははっ」
少年がナイフの血を払い飛ばす。
醜い表情だった。
「憎いか?」
「……何だと?」
「……げほっ」
その時、苦し気な咳で梢の身体が跳ねた。ヒィヒィと肩で息をしている。
「……儚志さん」
頼は梢を抱き抱え、ベンチの上に寝かせた。
「ごめん、脱がすよ」
一言断ってからセーターを下から胸の上部までまくり上げる。
下着のホックは切断されていた。普段の頼にとっては刺激的な姿だったが、胸の膨らみの間から染み出る血の河を見ればそれどころではない。
「ヒィ、ヒィ……」
「くそっ、すぐに人を呼ばないと」
「……ダメッ」
立ち上がろうとした頼の肩を強引に引き寄せる。
頼はベンチの前で膝まづき、梢の血塗れの胸に顔を埋める格好になった。
「お願い……」
「儚志さん……離して」
「いや……です」
「でも……このままじゃ」
「大丈夫……それよりも……」
梢は痙攣する手に力を込める。そして頼の首のチェーンを引くとそのまま引きちぎった。
「何をするの?」
「右手を……貸してくれませんか」
「右手?」
「早くっ……じゃないと敵……が来ます……」
「……敵って」
訳も分からず差し出した手を梢は握ったが、しかし視線は空を仰いだままだった。
「……温かい」
「儚志さん……ひょっとして、目が……」
「ハァ……ハァ……ねえ、頼さん」
指輪を頼の右手の薬指に嵌めながら、途切れ途切れの言葉が、頼の耳に届けられる。
「最後に……梢って……呼んで……くれまっ……せん?」
「……バカッ、最後だなんて、そんなこと言うなよ」
「お願っ……です。最後の、私の……最後の、わがまま」
指輪が指の根元に収まった時、梢は顔を引き吊らせて笑った。
次第に冷たく固まっていく筋肉を懸命に動かしたようなその表情を前に、頼は彼女の願いを聞かないではいられなかった。
「……梢……梢っ!」
「ふふっ、最後の、最後で……やっと呼んでくれました……ね」
「そんなこと言うなよ。これから何度でも呼ぶよ。呼んでや――」
その時、研究棟の二階が爆発した。
それは頼達のいる位置からわずか数メートルの距離だった。
「……なっ、MHO?」
マルチヒューマンオーガニズム。略称MHO。
人間の不幸な死によって生み出される呪われた化け物。
その姿は複数の人体をパーツ毎に解体し、再構成されたもののように見える。
「なぜ敷地内にMHOが……」
「ヒイイイイッ!」
MHOが悲鳴を上げる。
その姿は蜘蛛そっくりだった。
「ヒイイイイッ!」
本体にはウツボのように犠牲者の顔が密集しており、どれも苦痛に歪んだ表情をしている。
「いたぞっ!」
「殺せっ!」
棟の中から誰かの声が聞こえた。
その直後、男たちが窓から顔を出し、MHOに銃弾を撃ち込んでいく。
「ヒイイイイッッ!」
集中砲火を受けたMHOはものの数秒で壁から脚を離し、地面へと落下した。
「……あれは、本部の」
「よそ見しないでよ」
「はっ!」
我に還ったように振り向く。
頼の背後にさきほどの少年がナイフを持って立っていた。
「……お前」
「お前、じゃない」そう言った時、少年は初めて表情を露わにした。「マルス」
「……マルス」
「ひひっ」
マルスと名乗った少年の唇の端が吊り上がった。
ナイフを逆手に持ち直し、腕を上げた。
「や、やめっ……!」
両手を広げ、梢を守ろうとする頼。
しかし、その時、視界からマルスの姿が消えた。
そして――
「……えっ?」
敵を見失った頼の背後からブシュッという音がした。
柔らかいものを切り裂く音だと分かった。
「……なあ、何をしてるんだよ」
振り向いた頼がマルスに問う。
「ハッピバースデイ」
動かなくなった梢の身体にマルスはそういうと、頼の方を見ながら右手をぐりぐりと動かした。
ブシュッ、ブシュブシュ……
それは梢の腹の中へとナイフの刃が根元深くまで沈んでいく音だった。
「……ひひっ」
「……お前」
独り言のような吐息交じりの声が漏れる。
どろどろとした感情が渦を巻きながら湧き上がってくるのを感じていた。
「……許さない」
「……ハッピバースディ」
「許さないっ!」怒りにかられ飛びかかる。しかし、その拳が振り下ろされる前に手が止まる。「……ウッ!」
胸を押さえてその場に崩れ落ちる。
その苦しみ方にはマルスも動揺を見せた。
「……何だ」
「ウウウアアアアア…………ッ!」
胸を満たしていた負の感情が急激に収縮していく。
まるで黒が青に反転するような奇妙な感覚だった。
「……アッ」
次に発したのは頼自身も信じられない命乞いの言葉だった。
「……殺さないで……お願いします」
「……何だコイツ」
「僕は何も悪くない……だから助けて……」
我が身がそんなに惜しいのか、頭を地面に付けて懇願する頼。
無言の敵に対し、許して、助けてと必死に訴えている。
しかし、その異常な行動がマルスを苛立たせた。
「……これでも足りないのか」
「えっ、いやだ……止めてください!」
パニックになったのか、頼は敵にすがろうとした。すると頼の手が敵の足に触れた途端、バチッという音。電気を浴びたような衝撃に、頼とマルスの二人はお互い反対方向に吹き飛ばされる。
「うあっ!」
「くっ……何をした」
謎の攻撃を食らったマルスが警戒心を強め、尋ねる。
しかし、頼の耳にその言葉は届かないようだった。自分の両手をただ眺めながら放心したように地面に座っている。
「うううう……」
「……お前、仲間が死んだのになぜ怒らない。憎まない?」
マルスは別のナイフを取り出し、頼に近付いていく。
「この死体が見えない? 僕が殺したんだぞ」
「ヒィッ……助け……て」
「……もういい。殺す」
「殺させねえよ」