02 Kozue Hakanashi-儚志梢-
二人は靴を履き替え、研究棟の前に広がる中庭にやってきた。
そこは施設の殺伐とした灰色に添えられた緑だった。
「良かった。空いてましたよっ」
正面に桜の木があるベンチに梢は座り、購買で勝ったパンを紙袋から取り出す。
どうやらここで昼食を食べるようだ。
「ここは……」
「二人の思い出の場所、ですっ」
「……そっか」
ぽんぽんとベンチを叩く彼女を見て、観念した様子で横に座る。
梢は女子らしからぬ大口を開け「いただきまーす」とパンに被りついた。
購買のポテトサラダパンは彼女の好物だ。これだけで生きていると豪語したこともある。
一口で三分の一を口の中に放り込んだ彼女はしばらくもぐもぐと噛んでから、一気にごくんと呑み込む。
「うはぁっ♪」
開花する蕾のようにぱあっと幸福な顔になった。
「うー、やっぱり最高においしーです。頼さんも食べますか?」
梢の食べかけが自分の口元に差し出される。その断面には彼女の歯形が見て取れた。
(……ごくり)
空腹とは別の理由で喉が鳴る。
「いっ、いいよ僕は」
「あれあれー? 顔が赤いですよー」
「そりゃ……そうなるよ」
「もーもー可愛いですなあ頼さんは」
「からかわないでよ」
「いいじゃないですか。だって」その時小さな頭がこてんと左肩に寄りかかった。驚いた頼が顔を向けると、自分に向けられた円らな青の瞳。
「私たち、ラバーズ的な関係、じゃないですかぁ。ウフフ」
悪戯っぽい微笑。
彼女の指が正面の緑生い茂る桜の大樹を指し示す。
その木を見て、頼は彼女が言った半年前のあの日の言葉を思い出した。
――――ねえ倉井さん。もしよかったら私と付き合ってくれませんか。
その表情は、春風に乱れる薄紅色の桜に隠れ、見えなかった。
ただ、黒髪とスカートを手で押さえていたことだけは覚えている。
「……どうして僕を」
風が過ぎた後で訊ねた。
野暮な質問だったが聞かずにはいられなかった。
「だって僕達、ほとんど話したことないよね」
その言葉に梢の唇がゆっくりと動く。
「そうですね。でも私はずっとあなたを見ていましたよ」
「……えっ」
頼に驚きの表情が浮かぶ。
ずっと見ていたのは頼の方もそうだった。
研究科一と噂されるその美貌もさることながら、成績は常にAプラス。何を取っても完璧な彼女は、中等部配属時から頼の憧れの対象であり、また目標でもあった。
ただ、異性として意識していたわけではなかった。好みの問題ではない。自分の手の届く相手だとは考えられなかっただけだ。
しかし、梢の方は違った。
「私と付き合ってくれませんかね」
「……うう」
改めてその思いを告げられ、頼の心臓は跳ね上がった。
女性に告白されるのは頼とって初めての経験だった。
それだけでもありえないことなのに、ましてや相手があの儚志梢だ。
これまで彼女に告白をした男子の数は少なくない。色恋話に疎い頼にもその情報は耳に入る。惨敗という結果と共に。
なのに、男子からの申し出を全て断ってきた彼女が、クラスの中で空気のような存在の頼に交際を申し込んでいる。
奇妙な感覚だった。
「私のことが好きじゃありませんか」
残念そうに眉をひそめる梢。
それを見て、頼は慌てて弁解のようなことを言った。
「違っ! 好きじゃないとかそういう訳じゃ……なくて」
「うふふ、嬉しいです。じゃあ私とラバーズ的な関係を結んでもいいってことですよね」
「……それは」
「むー、じゃあまずは半年! 半年間のお試しラバーズでいいです。その間、倉井君に振り向いてもらえるように私頑張りますからっ」
「……儚志さん」
「……ダメですか?」
「……そこまで言うなら」
「ほ、本当ですかっ!」
頼の言葉は、少女の告白の返事としてはあまりに情けないものだったが、梢は嬉しそうに頼の手を握った。
「えっと、うん。僕なんかでよければ」
「嬉しいです。嬉しいですっ!」
スカートを押さえるのも忘れてぴょんぴょん飛び跳ねる少女。
自分の手が放されるまで、頼は真っ赤な顔を背けていた。
(あれからもうすぐ半年か)
「ねえ、頼さん。あれからもう半年ですね」
「……そうだね」
「どうです。少しは私に振り向いてくれましたかね?」
直球の質問に頼は口ごもる。
この半年間で、彼女に対する気持ちは大きく変化した。
ずっと彼女の傍にいたい。他の誰かに取られたくない。
梢のことを想う時、そんな悶々とした感情が胸に渦巻き、苦しめるようになっていた。
「儚志さん、僕は……」
君のことが—―
「頼さん?」
「僕は……」
自分の気持ちを伝えることができたらどんなにいいだろうか。
しかし頼はずっとそれができないでいた。
「今の自分にはそんな資格はない」隣の梢の方ではなく正面を見て頼は言った。「儚志さんに釣り合う人間に僕はまだなれていないから」
「……頼さんは」
梢がすっと立ち上がる。
その顔は桜の木に向けられていた。
「頼さんは私の事、買い被り過ぎです」
「そんなことはないよ。僕にとって君は……眩しすぎるっていうか」
「太陽ですか、私」
両手の人差し指と親指で太陽を囲い、きらきらーんと擬音を口にする。白衣の袖がずれ、手首の腕輪が光を反射した。
頼はそれを見て、首元のチェーンを辿り、シャツの中からペンダントを取り出した。
梢の腕輪は彼女の誕生日に頼がプレゼントしたものだった。
そしてそのお返しに貰ったのが、彼女がいつも身に付けていたペンダントだ。それは銀のチェーンに金色の指輪を通したものだった。
「君は優秀だし、お父さんはあの儚志徹博士。しかも……び」
「び?」
「……美人っていうか、可愛いっていうか……」
「うわあっ♪」
容姿を褒められ、嬉しそうに抱き着く梢。
「頼さんに褒められましたぁっ!」
「ちょっ、儚志さんっ!」
馬乗りの大胆な体勢で、腕にぎゅっと力を込める。
こんな所、周囲に見られたら、きっとあらぬ噂がクラス中に、いや研究科全体に広がるに違いない。
そう思った頼はすぐに梢を引き離そうとした。
しかし、その時耳元で梢がささやいた。
「……あなたも一緒じゃないですか」
真面目な声だった。
「……一緒?」
二人の間に共通点があるはずもないと思っている頼にとって、梢の言葉は理解できないものだった。
梢に離れてもらうことも忘れ返事を待つ頼。
「……うん」
耳に梢の吐息が掛かる。
そして梢は頼の顔を見て言った。
「気ままな軍神の息子」