19 Ice and water and her palm-氷水と手の平-
「んんっ! うううっ……」
「……頼、向井頼っ!」
「んん――――……えっ?」
頼の瞼が僅かに開く。
その瞳が映し出したのは、心配そうに自分を見つめる年上の女性の顔。
「苦しそうにうなされていたんだ」
「うなされて……えっ」咄嗟に上半身を起こし、周囲に目を向ける。「ここは……医務室? 僕、どうしてこんな所に」
「牧島が運んだんだよ」
「牧島さんが……あっ!」頼が大きな声を上げる。「そうだ。僕、牧島さんとトレーニングルームで……痛っ!」
頬に激痛が走り、反射的に手で押さえる。
その時、初めて自分の頬が腫れていることに気付いた。
「いてててっ……」
「まだ痛むか」比留間が氷水の入ったビニールを差し出す。「これで冷やせ」
「……いえ、大丈夫です」
「痩せ我慢をするな。ほら」
頼の腕を引き、強引に身体を自分の方へと向けさせる比留間。驚く頼に構わず、両手で顔を挟むようにして氷水を腫れた頬に当てた。シャツの間にある谷間。どきっとして視線をずらす。比留間からは不思議といい香りがする。香水をしている訳でもない。女性から放たれる色香に頼は紅潮する。
医務室は電灯の光で照らされていた。カーテンは閉じている。
すでに時刻は夜のようだった。
「よく頑張ったな」
もう片方の手が頬を撫でる。子どもを褒めるようだ。普段ぶっきら棒で全然笑顔なんか見せない教官がこちらを見てほほ笑んでいる。
でも嫌じゃない、頼は微笑み返した。
「はい。頑張りました。まだ一カ月だけですけれど」
「そうだな。もう止めるか」
「……いいえ」答える時、頼の声は少し緊張気味だった。「まだレベル九ですし。仇を討つまでは続けます」
「……クラスメイトを目の前で殺されたんだったな」
「……はい」
「すまなかったな。遠征中だったとはいえ、あの時私たちは君を助けられなかった」
「いえ……仕方ないですよ。まさか研究棟にMHOが現れるなんて誰も予測できませんでしたから」
「悔しいことに」比留間が歯がゆそうに唇を歪める。「あの日のせいで本部はまたあの野郎に頭が上がらなくなってしまったよ」
「……比留間教官、あの野郎って」
「君の父親、倉井豪のことだよ」まるで身内の不満を漏らすかのような口ぶりで比留間が言った。
「あの日、高円寺西側のエリアで大量発生した」
比留間は氷水を持った手を降ろした。
「本部の大半が出動し、倉井豪の隊もそれに加わっていた。だが、途中で奴の隊員が体調不良になり、待機していた部隊と交代し本部に戻ったんだ」
「あの日?」
「研究科がMHOに襲撃された日だ」
「……ああ。だから父さんの隊だけがすぐ助けに来れたんですか」
頼の言葉に比留間が頷く。浮かない顔だった。
「なぜ隊員だけではなく隊全体で戻る必要があったのか。理由は知らんが、まあともかく奴のお陰で被害は最小限に抑えられたのは事実。しかし本部が手薄になったのを狙ったかのようなMHO襲撃は不気味な感じがする」
「……言われてみれば」
「向井頼」改まった声だった。「なぜ私が瀞井ネオの違反を黙認していると思う?」
「えっ?」
「……私はな、あまり本部を信用していないんだ」
「それって、どういう意味ですか?」
「お前達は教え子で私と同じ戦士の道を選んだいわば後輩だ。だからこそ私は躊躇している。お前たちをこの組織の末端に送り出すべきなのか否か」
「……そんなに汚い所なんですか」
「戦士達はまだマシさ。問題はその上。上層部の連中だ。といっても私も会ったことはないのだが」
「上層部……」
「気を付けろよ、向井頼」比留間が立ち上がる。「確かにお前や純一郎は強くなりはじめている。このまま努力を続ければ、本部から声が掛かる日もそう遠くはないだろう。だが、底から先は純粋な強さだけでは足りない。上の奴らにいいように使われるだけ……」
悲し気な表情を浮かべる頼に気付いて、比留間は言葉を切った。
「すまん。頑張っている途中のお前に話すことじゃなかった」
「……いえ」
頼はそう言ったが、口だけの否定だった。
「難しいことはよく分かりません。でも、僕は仇を討つためにここに来たんです。父さんみたいに強くなって、MHOを倒して……」
「その後は?」
「研究科に……いえ」頼は途中で言い直した。「それは全てが終わってから考えます」
比留間がカーテンを開けた。
月のない夜空だった。
「……立場上、こんなことは言うべきではないのだが、お前という人間には戦士は向いていないよ」
「……一応ランクSなんですけど」
「分かっている。あくまでも人間性としては、だ」
「……それは怖がり、だからですか?」
「慎重さは大切だ。だが、それよりもお前には野心がない」
「野心、ですか」
「ああ、そういう意味では瀞井や灰加などは優秀だよ。打算的な考え方をしている奴の方がとかく組織の中では生きやすい。それが現実だ」
「……組織、苦手なんです。どちらかというと研究職みたいに一つの事だけをずっとやる方が性に合っているというか」
「研究科も立派な組織だよ」比留間がにやりと笑う。「お前、高等部に入って急に評価が下がっただろう?」
「えっ、どうしてそれを……」
「私も組織にいる人間の一人だからさ」
その後、評価が下がった理由について訊ねたが、比留間教官は笑うばかりで何も答えてはくれなかった。頼は少しやきもきしたが、しかし窓の外を眺めている教官の背中を見ているうちに、尋ねる気が薄れていった。
比留間が医務室から去った後も、頼はしばらくの間ぼうっとしていた。
色々なことを同時に教えてもらったせいだろうか、何も考えられない。
腫れた頬の痛みだけがじんじんと響き続けていた。
「……そうか。僕、負けたんだ」
それは事実確認のために宙に放った一言に過ぎなかった。
だが、それは釣り竿のように、自分の気持ちをゆっくりと引き上げる。
「当たり前だろ。たった一カ月、頑張っただけだ……」
自分の胸に言い聞かせる。しかし、一度引き上げられた感情から目を反らすことはできなかった。
「……悔しいな」
気持ちが収まるまで、頼は布団を強く握りしめながら震えていた。