15 A ring-指輪-
「私も一人っ子なんですよー。頼さんと同じですね、えへへっ」
彼女がそう言って笑っていたのは、こんな冷たい風が吹く季節とは無縁の、真夏の昼休み。
「この前、お父さんと夕食を食べたんです。久しぶりすぎて、うまく話せなかったんですけどね。でも……家族水入らずっていうのもたまにはいいですよね。ちなみに頼さんはお父さんと――」
いや、これはもっと前の話だった。確か夏に入る前の、今よりもう少し暖かいぐらいの放課後。
「頼さん、梢って呼んで下さいな」
下の名前で呼んで欲しいと、彼女に初めて言われたあの日はいつだったっけ。
ハァ……ハァ……ねえ、最後に……梢って呼んで、くれませんか。
最後にそう言われたのは—―
右手の指輪に指で触れ、小さく息を吸い込んだ。
「……こず――」
「今日はお前ん部屋でゲームな」
「うへー、マジかよ」
玄関から生徒が現れて、頼の声が止まる。
頼はその時、玄関前の段差の上に腰かけていた。現れた二人は肩を組んだバランスの悪い姿勢で、夕焼けの沈みかかった正門の方へと歩いていく。二人とも会話に夢中で頼には気が付かなかったようだった。
彼らの姿が見えなくなるまで、頼は二人の背中を、目を細めて眺めていた。
「……眩しいな」
そうつぶやくと、再び梢の声が頭に響いた。
諦めるんですか。そうやってお父さんも、そして私のことも。
「ねえ、梢。どうしてだろうね」
指輪を見てほほ笑む。穏やかな表情だった。
「『儚志さん』って僕はずっとそう呼んでいたのに。今じゃ当たり前のように梢って呼んでるんだ。あんなに恥ずかしかったのに……」
ははっと空笑い一つ宙に投げた後、頼は折り曲げた足をぐっと体に引き寄せた。膝小僧に顔を乗せる。 大きく息を吐くと、ズボンを通して膝に吐息の熱が広がった。
「……梢、僕の居場所は本当にここなのかな……」
しばらくの間、頼はそのまま眠りにつくようにゆっくりと呼吸をしながら、たまに吹く肌寒い秋風に吹かれていた。
自分の横を通り過ぎる靴音も徐々に気にならなくなってくる。
久しぶりに身体を動かした疲労感も手伝って、意識が途切れ途切れになり――
「……君……頼君」
――誰かの手に肩を揺さぶられ、頼は顔を上げた。
「すまない。待たせてしまったようだ」
「……あっ、いいえっ!」
相手の顔を見て頼は慌てて立ち上がる。
「……ちょっと疲れてたみたいで」
「……少し、付いて来てくれるか」
「はっ、はい」
ここから右手に入ってすぐの場所に、戦士棟の中庭があった。
そこには電灯は一本も立っておらず、棟の窓から零れる光で僅かに照らされているだけだった。
「これは先ほどのお詫びだ」儚志徹は自販機で購入したホットコーヒーを頼に差し出した。「悪かったな、頼君。梢もきっと私に腹を立てているに違いない」
頼が何も言えないでいると、儚志徹は口に当てた缶コーヒーを傾けた。
「このブランドのエメラルドブルーマウンテン。私は一冬でこれを二百缶は飲むんだよ」
「二百……すごいですね」それを聞いた頼も缶コーヒーのタブを引き、口を付けてみる。「おいしいです」
「君も甘党か。梢がうるさかっただろう?」
「……梢……そうですね」
「私もよく怒られた。毎日こんなものばかり飲んでいたら、自分が追いつくまでに私が死ぬ。そんな卑怯な勝ち逃げは許さないとな……フフッ、成長するにつれ増々母親に似てくる」
「……母親に」
「ああ。妻も研究者だったからな。負けず嫌いな所も母親そっくりだ」
『研究者だった』という言葉から、頼は母親がすでにこの世にいないのだろうと想像した。
しかし、それは特別なことじゃない。
こんな時代だ。身内の死を経験していない者なんて、今の世界ではどこにもいやしない。
「……とうとう、私も一人になってしまった」儚志徹は桜を見上げた。秋の桜は葉に覆われ風に揺れていた。それに合わせて彼の白衣も揺れる。
「……頼君。娘は最後に何か言っていたかね」
「最後に……」
最後に……梢って……呼んで……くれまっ……せん?
「いえ、特には」
「本当かい? 例えば、指輪のことなど」
「指輪……ですか」
頼は右手から指輪を外し、儚志徹に見せる。すると彼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、やがて深い溜息を吐くと、「やっぱりそうか」とつぶやいた。
「あの……梢に貰ったこの指輪が、何か」
「梢は何も言わなかったか」
「特には何も……ただ、ずっと身に付けておいて欲しいって、僕に……」
「……それは私が作ったんだ」
儚志徹は振り返って、頼の目を見た。闇の中でメガネのガラス部分が光を反射しているが、その表情は影に隠れて見えない。
「『傍観者の指輪』は私が作ったんだ。娘をMHOから守るために」
「MHOから……この指輪が?」
頼は改めて右手の指輪を見た。
「この指輪に……そんな力があるんですか」
「アンルカリングは、MHOに流れているエネルギーなようなものに対して反発する仕掛けになっている……だから娘が指輪を直接指に付けていればあんなことにはならなかった」
「……そんな、信じられません」
「まあ、そうだろうな。実際、この指輪の存在を知っている者は本部の中でも」
「馬鹿だ」
ぎこちない足取りで前に進む頼。
距離が縮まり、影で見えなかった儚志徹の表情が明らかになってくる。
「つまり……梢は助かったかもしれない……ってことですよね」
「……ああ」
「僕なんかに渡さずに、普段から身に付けていれば彼女は……なのに……」
「頑固だからな。いくら言っても『危なくなった時には必ず指輪を付ける』と言うばかりで、決して指に嵌めようとはしなかった」
「……意味が分からない」頼の口調に苛立ちが混じる。「梢は馬鹿だ……」
「……娘が馬鹿だと?」儚志徹の顔色が変わる。「MHOに襲われた時、大切な人を守れる自分でいたい。そう思うのが馬鹿なことだというのか!」
「いやっ、あの」
「寄るなっ!」
突き飛ばされ、頼はよろける。
「す、すみません……怒らせるようなことを言ってしまって……でも」
「……君は愛していたか?」
「えっ?」
「自分よりも愛する者の命を優先した馬鹿で愚かな少女を……愛してくれていたのか?」
「それは……」
頼は唾を飲んだ。
「もし自分があの時に戻れるなら、自分の命に換えてでも彼女を助けます。絶対に……絶対に助けます……」
衝動的に地面の草を蹴り飛ばす。その目尻からは涙がこぼれ始める。
「でも……僕は……あの時、動けなかった」
「……君のせいじゃない」
儚志徹は諭すようにそう言って、頼の強く握られた拳を手に取る。
「君のせいじゃないんだ。それは—―」
その時、儚志徹の胸ポケットの携帯が震えた。
「……見られていたか」
儚志徹はあきらめたようにため息を吐いて、携帯を耳に当てると頼から離れていく。
「……ああ。すまない。あまりに彼のことが不憫で……だが実際に会ってみて思ったよ。やっぱり彼が戦士になるのは……分かっている。分かっているが……」
やがて儚志徹の姿が闇の中に消え、声も頼の耳に届かなくなる。
一人になった頼は徐々に冷静さを取り戻していった。
ベンチに座り、深呼吸をして息を整える。目尻を擦り、まだ少し暖かいコーヒーを飲んだ。
「……儚志博士。帰って、来るのかな」
コーヒーを置き、ポケットに手を入れる。
紙の感触に触れたので、取り出してみると、牧島の連絡先が書かれたメモだった。
「そうだ……この後、牧島さんと……」
頼はしばらくメモ用紙を見つめていたが、やがて再びポケットにしまうと、ベンチの背もたれを枕のようにして顔を空に向けた。
ベンチの真上は、葉を付けた桜の枝が傘のように覆っていた。
「……遠いよ。遠すぎる」
桜の木に向けて批判めいた口調でつぶやく。
彼の脳裏には梢の姿が浮かんでいた。
自分の命よりもこんな自分のことを優先した彼女のことが。
それに比べて自分は—―
「どうしてこんな……」
MHOに襲われた時、大切な人を守れる自分でいたい。そう思うのが馬鹿なことだというのか!
さっきの儚志徹の言葉を思い出す。
「ははっ、何がSランクだ……くそっ!」
何かに耐えられなくなったように頼は勢いよく立ち上がった。
腰から剣を抜く仕草をして、マルスを頭部から一刀両断するイメージで、両手を思い切り振り降ろす。
「てやあっ!」
その後も、頼は見えない敵に向かって、見えない剣を振り回し続けた。
「このっ! 逃げるなっ!」
腕を振り回しながら駆け出す。
そして、敵を桜の木の前まで追い詰める。
「僕は……ランクSなんだ。戦士の才能を認められたんだ。だから……てやあっ!」
空想の敵に止めを刺そうと飛び込んでいく頼。
しかし、腕を振り下ろす前に、あの少年をイメージしていた敵の姿がぐにゃりと歪み、そして父親の姿に変わった。
「はあぁあぁああああっ!」
頼は腹の底から声を上げ、渾身の力を込めて風を切る。
そのまま前のめりに肩から倒れ、ぜえぜえと息を切らす。
「はぁ、はぁ……えっ?」
その時、地面に寝転がる彼の視線が、光に反射する何かを捉えた。
倒れたまま手を伸ばすと、それは一枚の写真のようだった。
「これって」
体勢を変え、光が反射しない位置に写真を向ける。
それは誰かの家族写真だった。
中央には五歳ぐらいの小さな女の子。その両脇に夫婦が立ち、女の子と手を繋いでいる。
三人のうちの一人の顔を見て、すぐにそれが誰なのか理解した。
「……儚志博士。ってことはこの女の子は梢?」
写真に映る子ども時代の梢は満面の笑顔だった。
手を繋いでいる両親の顔も、本当に幸せそうだ。
『私はお父さんみたいになりたくてこの道を選びました。MHOからみんなを守るために戦うお父さんを尊敬してるんです』
「……うん。いいお父さんだよ。あの人は、梢の事を本当に愛している。それに比べて……僕の父さんは……」
うつ伏せに向きを変える。
頭上高くの空を覆う大きな桜の葉が、冷たい風にいくつもの葉を落としていた。
「……復讐するんだ。梢を殺したアイツを。そしたらきっと父さんも僕を認めてくれる」