14 Toru Hakanashi-儚志徹-
「ん? 君は?」
訓練を終えた頼がほっと一息つきながらトレーニングルームから出て来た時、一人の男子生徒が腕を組み鼻息を荒くしてその帰りを待ち構えていた。
「おいお前、ふざけんなよ」
「えっ……」
頼は首を傾げた。何か相手を怒らせるようなことをしたのだろうか。
「レベル三相手にどれだけ時間かけるんだよ」
「あっ……ひょっとして、僕、長かった?」
「『長かった』じゃねえよ。どけっ!」
彼は頼を突き飛ばすと、物凄い剣幕でトレーニングルームの中に入っていった。
「……そんな怒るほど遅かったかな」
「六分三十七秒」彼の背後にいた牧島がつぶやく。「それが今年度の模擬戦闘訓練の平均時間よ」
「……えっ。そんなに早いの」
頼は壁時計で自分の戦闘時間を計算してみる。正確ではないが十七分以上は使ったはずだ。
「でも……初めてだったからさ」
大きめの声だった。そこにいた全員に対して言い訳をするかのようだった。
だが、それは逆効果だったようで、周囲からも批判の声が出る。
「いや……それにしても長いって。逃げすぎ」
「俺は初回授業でレベル五だったけれど六分切ってたし」
「っつーかさーこんな長いの過去最高記録じゃね?」
「それは間違い」牧島が彼らに反論する。「最長時間は倉井豪の二百六十六分三秒」
「いや、それはだって」
「おい馬鹿。相手は牧島だぞ……」
「あっ……ちっ」
背を向けられ、会話は強制的に打ち切られた。
タイミングを逃した頼が、改めて謝るために声を掛けるべきか躊躇していると、牧島に袖を掴まれた。
「えっと、ど、どうしたの?」
「それは私のセリフ。ちょっと来て」
「どこに?」
「どこでもいい。二人きりになれる場所」
「二人きり……っていやいやいや。だって君の出番はまだじゃないか」
「私は最後だし、それに」牧島が生徒達を眺める。「早くても後一時間半はかかるから」
「でも純一郎君がっ……って聞いてない」
こちらの話も聞かずに強引にどこかへ連れ出そうとする牧島。あれ、どうしてだろう。なんだか懐かしい感じがする。
「あっ、そうか……梢が」
そのことに気が付いて間もなく、渡り廊下の前で牧島はふいに足を止めた。
しかし、過去の思い出に意識が捉われ心ここに在らずだった頼は気が付かず、立ち止まった牧島の背中にぶつかり。
「えっ、うわっ!」
牧島は後ろから押し倒され、頼はその上に覆いかぶさった。
「……ご、ごめん。牧島さ……あ、」
身体を起そうとして、頼はあることに気が付いた。
牧島の胸に自分が顔を埋めていることに。
シャツ越しに感じる胸の膨らみ、そこに下着の感触はなかった。
「……離れてくれる?」
「あっ、ごっ、ごめんっ!」
牧島に言われ、慌てて立ち上がろうとする。しかし、足がもつれてうまく立てない。
「おいっ! 廊下で何をしているんだね」
二人の姿を見て一人の中年男性が声をかけてきた。白衣姿で、両耳から口の周りまで豊かな髭が生えている。
頭部に毛髪はないが、眼鏡越しでも分かる鋭い目付きや、先ほどの言葉遣いからしてイグサイズ内でもかなりの重役なのではないかと頼は感じた。
「いや……これはその、偶然転んで」
「本当に偶然か? わざと女生徒に襲い掛かったのではないだろうね」
「ち、違いますよ!」
「君はどう思う。千鶴君?」
その男性は牧島のことを知っているようだった。
牧島は少し考えた後、「儚志博士に気付いた直後に、倉井君に後ろから押し倒されて、おして胸に顔を埋められました」と俯いた。
「えーと牧島さん?」
彼女の言葉に虚偽はない。虚偽はないけれど。だがその言い方は誤解が生まれる……
しかし、頼に誤解を解く時間の余裕はなかった。
「……倉井、頼だと?」
中年男性は頼の首元を掴み、無理やり立ち上がらせると、「お前が倉井か」とつぶやき、そして……
「がっ!」
頼は中年男性の本気の拳を顔に受けた。
「……急に、何を……うわっ!」
頼の言葉に耳を貸さず、男性は頼に覆いかぶさると、首元を掴んで無理やり上半身を引き起こした。
「なぜだ。なぜ娘は指輪を付けていなかった?」
「えっと……あの」
俯き、喉からひねり出すようなその声は独白に近かった。
「あれさえあれば娘は……」
「……娘、って」
牧島が中年男性に後ろから寄り添う。
「儚志博士」
その時、牧島の口から出た一言にはっとする。
「……儚志って、それじゃ、もしかしてこの人は……」
「イグサイズ本部研究科の最高責任者、儚志徹」
「じゃあ、この人は梢の……」
「……千鶴君、ありがとう。もういい」
儚志徹がふらふらと立ち上がる。興奮しすぎて目まいを起こしたようだった。
「大丈夫ですか? 肩を」
「問題ない。だがこの男を貸してはくれまいか」
牧島は目を見開いた。頼に無言の視線を送る。
「えっと……うん」戸惑いながらも小さく頷く。
「分かりました」
「済まないな。一階の玄関前で待っててくれ。私も一度戻ってすぐに行く……」
儚志徹はそう言い残して、よろよろとその場を後にした。
衝撃的な出来事に、頼は廊下に尻を付けたまま、茫然としていた。
「倉井君、携帯持ってる?」
「携帯?」頼は呆けた顔で訊ね返す。「持ってるけど……どうして?」
「そう。なら博士との話が終わったら連絡して」
牧島は頼に一枚のメモを頼に手渡すと来た道へと引き返していった。
「あっ、あの牧島さんっ、どこに」
彼女の姿が見えなくなり、頼は所在ない気分で、メモを開く。そこには手書きで彼女の名前と電話番号が書かれていた。