01 Bulletin Board -掲示板-
十月一日、正午。
イグサイズ東側、対MHO専門研究候補生訓練所内。
高等部のある三階の渡り廊下の一角で、見えない満員電車に詰め込まれたような人混みがある。
「あーあ、またトップは儚志梢か」
「さすがだよな」
白衣姿の少年少女らの声が飛び交っている。
彼らが注目しているのは、掲示板に貼られた一枚の紙。
そこにはイグサイズ研究高等科一年生二十八名の名前がずらりと並んでいた。
それぞれの名前に冠されているのはAからDまでのアルファベット記号。
「見てみて! 私Bに上がっちゃった!」
「うわっ、Cマイナスかよ。また追加レポートじゃん」
「月末にバスケやってたあんたが悪いのよ」
先月の研究課題に対する教官からの成績評価を見て、驚喜する者、肩を落として項垂れる者。その反応は様々だが、全体的にそれは宝くじの当選結果を確認するのに似ていた。中等部時代の経験で、彼らはすでに自分の才能の限界がどの程度なのか、身に染みるほど理解している。
今回の評価値もまたその範囲内を出ないものだったようだ。だから彼らはその中の僅かな上下を喜んだり、悲しんだりしているだけ。アトラクションのコースターに絶叫するようなものだった。
しかし、倉井頼だけは違っていた。
「……なぜなんだよ」
ひとしきり騒いだクラスメイト達が講義室へ去った後も、倉井頼は掲示板の前に茫然と立ち尽くす。
自分に与えられた評価に納得がいかない、というより信じられない顔だった。
「何でだよ……こんなの、あんまり過ぎるだろ」
白衣の内ポケットから取り出した生徒手帳のページをめくる。
頼は研究生になった十二歳以来、これまでのランク評価値を全て記録していたのだった。
初めて提出した研究レポートの評価はBだったが、それ以降の数ページは全てAかAプラスばかりが並んでいる。ランクの横には順位が書かれており、どれも五位を下っていない。
しかし、あるページを境にその法則は崩れていた。
高等科に進学して以来の成績は当初こそA評価を維持していたものの、その後Aマイナス、Bプラス、B、Bマイナスと下がり続けていた。
そして今回、初めてのCという評価を手帳に書き記すことになった。
それは落第ギリギリのラインあと一つ評価が下がり、Cマイナスになればレポート課題の再提出、それもクリアできなければ中等部に逆戻りだ。
かつては儚志梢と並ぶ天才とさえ呼ばれた自分にとって、それは屈辱以上の何物でもない。
未だに評価Aプラスを維持し続けている彼女と。
「ああ、今日成績評価の日か」
「うわー、マジつまんねー」
廊下に立っていた頼の前に、三人の同級生がやってくる。
さっきの人混みの中にはいなかった彼らはいわゆる不良だとか落ちこぼれグループだとか呼ばれている者たちで、頼にとっては苦手な種類の人間だった。
頼の足が下がる。すぐにその場を去りたい気持ちにかられる。しかし、そうすればむしろ彼らに絡むきっかけを与えるようなものだ。
頼は一歩横に移動し掲示板の前のスペースを空けた。そして、さりげないタイミングで立ち去ろうと考えた。
「かーっ、また再提出かよ」
「俺もだよ。ちっ、先公に直談判しに行こうぜ、堂壁」
ひょろりと細身の生徒がもう一人の肩を叩き、立ち去ろうとする。すぐにいなくなってくれることにほっとする頼。
しかし、その時肩を叩かれた大柄の生徒は掲示板を見ながら「俺は行かない」と告げた。
「はっ、どうしてだよ」
「なぜだか知らんが、今回俺はA評価のようだ」
「へいへい、面白い冗談をどうも」
「どうせ見間違いだろ」
二人が笑いながら掲示板を見る。頼も少し気になり、横から覗く。
すると確かに堂壁純一郎という名前の横にAという文字が打たれているのを見つけた。
「……おいおい、マジかよ」
「堂壁、もしかして俺たちが知らない間に」
隠れて真面目に努力していたのではと疑っている様子の二人。
しかし、そんな二人を蔑むように睨みつける。
「……そう思うか?」
その横顔に二人の顔色がやや青ざめる。
周囲を委縮させるその迫力は頼と同年代とは思えない。
丸刈りの頭のせいもあり、出所したばかりの犯罪者のようにすら頼には思えた。
「い……いや別に」
「疑っている訳じゃ……」
険悪なムードが廊下に立ち込める。
恐怖を感じた頼はこれ以上ここにいるのは危険だと思い、ゆっくりとその場を離れようとした。
「倉井頼」
背を向けた頼に話しかけてきたのは、堂壁だった。
最悪だ、と頼は思った。
「な……何?」
「お前……」
堂壁が頼に近付く。分厚い胸板。捲った袖から除く一の腕は、頼の二の腕以上の太さだ。
「ごめん!」頼は叫んだ。「僕、急いでいるから!」
「おっ、おい! 堂壁が呼んでんだろうが!」
「逃げんなよ、殺すぞ!」
後ろから脅し文句が飛んでくるが、頼は構わずその場から逃げた。
角を曲がり、階段で一階まで一気に駆け降りる。
一階には教官室があるので、ここなら追いつかれても絡まれることはないだろうという判断だった。
「……はぁ、はぁ」
教官室の前まで辿り着くと頼は足を止めた。
後ろを見るが、誰かが追いかけてくる気配はない。
とりあえず一安心のようだ。
「……今日はなんて日だよ」
自分の不運を嘆く。
過去最低の評価を受けたどころか、不良の堂壁たちに絡まれるなんて。
そう思い、暗い面持ちで教官室の前を通り過ぎる。
そして購買でパンでも買おうかと考えてはじめた時、職員室から一人の女生徒が出て来た。
「頼さん?」
「……ああ、儚志さんか」
振り返った先にいたのは分厚い用紙の束を両手に抱えた儚志梢だった。
肩先まで落ちた黒い髪を僅かに揺らしながら、跳ねるように頼の元へと近付く。
「偶然ですねえ」
梢はそう言うと、少し釣り上がった猫のような目で悪戯っぽく頼に微笑みかけた。
「……いや偶然というほどでも」
同じ棟で毎日研究しているのだから、偶然も何もないだろうと思うのだが。
しかし、頼はそのことについて敢えて追及はしなかった。
「教官に呼び出されたの?」
「ですよお」嬉しそうな声だった。「来週、本部の研究に付き合ってくれってお誘いがありましてねー」
「……へえ、すごいな」
「えへへー、ありがとうございます」
頼の言葉に対して梢は少し照れている様子だった。
「頼さんも職員室に用ですか?」
「いや、違うよ」梢は首を傾げた。「じゃあ、どうして……あっ、なるほど」
グーの手をもう一方の手の平に落とす。何か納得した様子だった。
「私に会いに来てくれたんでしょうそうでしょうそうですよねそうに決まってます」
「はっ、あっ、いや……ええと」
「むー、ここは嘘でもはいと言うべきシチュエーションですよ」
「……そ、そうだね。ごめん……うん、そうだよ」
「ウフフッ、ありがとうございます」
感謝の五文字と謙譲を意味する五文字を合わせた十文字の言葉。それが彼女の口癖。少なくとも頼はそう思っている。
謝罪を意味する三文字が口癖の自分とは晴れと雨のように対照的だと。
「じゃっ、行きましょっか」
白く小さな手が頼の腕を掴んだ。
「ちょっ、儚志さん、行くってどこに?」
「もうっ」立ち止まらずに言う。「いつになったら下の名前で呼んでくれるんですかね」
「……ごめん」そう言ってすぐに自分の言葉に後悔する。「ええと、もう少し待って」
「もう少しっていつ?」
「……ええと」
(僕が君に相応しい人間に成長するまで)
自分の手を引き颯爽と前を歩く少女の背中に向けて頼は心の声で返事をした。