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記憶の行くえ  作者: 野兎
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なくした記憶

「ねえ、月を見に行かない?」


 垂れた細目をさらに細くし、私を怖がらせないようにと彼が私の顔を覗きながら優しく声をかけてきた。

 声変わりはもう済んだそのいつ聞いても居心地のよい声に、私の心は和まされる。

 男の人にしては少し長めの銀髪が、傾けた顔に合わせてさらさらと流れ落ちた。


「どうしたの?」


 幾分高い位置にいる彼を、私はそっと見上げた。


 一緒に暮らすようになって、数ヶ月。初めは警戒していた私も、ここまでずっと一緒にいれば分かる。彼はただ私を暖かい空気で包もうとしているだけ。私の幸せを願っているだけ。

 私が望まないことは何もしないし、彼は私に何も求めない。

 二人の間には、なんとも形容しがたい、他人とも家族ともとれない不思議な空気が流れていた。


 私には、彼と過ごした数ヶ月以前の記憶がない。

 それが何か、彼の態度と関係しているのかもしれない。


 でも確かめる勇気は、私には起きなかった。

 なんとなく、ただなんとなく、このままの関係性が良いような気がしたのだ。


 だから、こんな風に窺うように声をかけられるのは初めて。

 緊張しているのか、少し声が震えている。きっとこれは、彼の希望に違いない。

 彼から私に対する初めての願い。

 でも、どうしてそんなに彼は私に怯えているのだろう。過去の私は相当酷かったのだろうか?


 今は……貴方が望めばなんでも受け入れるのに……。


 そう思えるほど、今の私は彼に充分に絆されていた。

 たとえ短い時間しか共に過ごしていなくても、存分に甘やかされているのだ。そう思うのが自然。誰にも責め入られる隙はない。


 山の傾斜に沿って備え付けられた階段の中腹で、私は立ち止まる。

 ふと、冷たい風が頬を過った。階段の脇に昨晩積もった雪が見える。すでに日が昇りきってもそれが溶けない程、季節は流れていた。


 月を見るのは今夜だろうか?


 約束とは言えないぐらいの、細やかな提案かもしれない。でも毎晩欠かさず一緒にいる二人には、こんな言葉さえ要らないはず。

 夜、窓から空を見上げれば良いだけの事だから。

 だから、なんだか相瀬の約束事をしたかのように、私は気恥ずかしかった。

 だがそんな照れ隠しは、彼にとっては否定と捉えられたらしい。


「いや……君が望まないならいいんだ。」


 そう言って、彼が少し悲しそうに眉を寄せたような気がした。

 だがすぐに前を向いて歩き始めた彼の表情は、もう確認できない。


「まっ、待って。」


 私は彼の上着の裾を掴んだ。

 咄嗟だった。

 特に何も考えず、彼の足を止めたくて伸ばした手が、触れた彼の服を掴んでしまっただけ。


 でも、それは、私の記憶にあるかぎり自分から彼に接触を図った初めての出来事。


 彼もそれに気づいたのだろう。


 足留めを食らい、自然と振り返った彼の目が大きく見開かれた。どうやら、自分の服を掴む私の手を凝視しているらしい。

 気まずくなり、私はそろそろと彼の服から手を離して自身の胸の前で握り治す。


「ご……ごめんなさい。」


 未だに衝撃から抜け出せないでいる表情の彼に、私はぼそりと呟く。


「いや、いいんだ。」


 私の言葉に、はっと顔をあげた彼が慌てて繕う。


「ああ、それも違う。“いいんだ”なんて言葉じゃなくて……。」


 いつも穏やかな彼が、こんなに狼狽えるなんて珍しい。いつもは細くてよく見えないのに、開かれた目からは彼の黒目がよく見る。それが困惑でさ迷っているのも、手に取るように分かってしまう。

 でもそれもほんの一時。


 大きく深呼吸をしたかと思うと、すぐにまた、いつもの垂れた細目に変わってしまった。


 壁、作られてるのかな……。


 なんだか、心の中に黒い靄が広がる。


「君が思うままに。」


 彼が平坦な言葉で、いつものように優しく微笑みながら、いつもの台詞を口ずさんだ。


 私は無表情で小さく頷く。

“素の貴方を見たい”なんて言わない。

“貴方の本当の気持ちを知りたい”なんて思わない。

 だって……それは貴方が一番困る私の我儘って知っているから。


「月が見たいわ。」


 だから私は呟いた。

 彼の初めてのお願いを私の願いに変えて。

 そうじゃないと、彼は動けないから。


 彼からほっとしたような、ため息が溢れるのを感じた。


「じゃあ、行こうか。」


 彼が私に手を伸ばす。


「え? 行くってどこへ?」


 そして、この手は何? ……掴めってことかしら。

 服の裾を引っ張っただけであんなに狼狽えてたのに、手を繋ぐのは別なのかしら。


「月を見に行こう。」


 そんな私の戸惑いをよそに、彼は落ち着きを払ったように私を導く。

 まるで、仕事をこなす案内係のように、作り笑いを顔に張り付けて。


 ああ。これは彼の望みではなかったのだ。


 何か……いや、誰かからの命令なのだろうか。

 二人しかこの世界にはいないはずなのに、彼はいつも何かと繋がっている。

 それもそうか。

 食料も水も生きていくには必要だ。

 自分達で作らなければ、何処からか、または誰かからか仕入れなければならない。きっと私が眠っている間に、彼は外の世界へと飛び出していたのであろう。

 私のいない、外の世界へ。

 考えれば当たり前の事。ただ、考えなかっただけ。


 気づけば早い。


 彼は私を外の世界に連れ出そうとしているのだ。

 それが、彼の望みに叶っているのなら素直に従うし、彼の想いを叶えられてすごく嬉しい。でも、もしかしたら……私なんかが彼の琴線に触れることは、出来ないのかもしれない。

 今さらながら現実を直視し、私の思考が停止した。


 私は差し出された彼の手を、じっと見つめる。


「私が怖い?」


 ついてでたのは、初めて口にした私の本音。

 聞きたかったけど、聞けなかった私と彼の関係。気がつけば、するりとそんな言葉が口から零れ出ていた。

 でも、今さらながら、答えを聞くのが酷く怖くなってしまう。


 お願い。答えないで。


 私は力強く目を瞑った。

 空気が思うように吸い込めず、私の呼吸は速くなる。


「ああ。とても。」


 彼の低い声が響く。それは、至極、穏やかな声だった。

 その違和感に私は思わず顔をあげる。


 彼の顔は悲しみで溢れ帰っていた。


「どうして……泣いてるの?」


 彼の頬を伝う涙に、私は戸惑いながら呟く。


「君が壊れてしまわないか、誰かに……僕に傷つけられてしまわないか、すごく怖いんだ。僕の傍から一時も離れないで欲しい。君が居なくなるのが、君という存在をなくしてしまうのが、酷く恐ろしいから。」


 感情の高ぶりが押さえられないのか、彼の声が上ずる。


「泣かないで……私は……。」


 私は……あの時、なんと言おうとしたのだろう。


 彼の伸ばした手に私が触れた瞬間、私の視界は光に包まれる。思考もまた、白一色に染められたのだった。

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