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Hello and good-bye

捨てたものと拾ったもの、どっちが大きいの?



Hello and good-bye



丁度その日はどしゃぶりの雨だった。工場も休暇、町は沈んで中々上昇してこない暗鬱とした空気、それでもどこかしっとりと懐かしさを催すかのような湿った空気が二人の家を支配していた。古ぼけた、少しだけ戦火に煤けた二人だけのその家にはたくさんの思い出が詰まってぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて溢れかえっている。その家には今は一人しか佇んでおらず、寂しげに雨に打たれるばかりだった。先ほどから妹、−優奈は雨に晒され続けた花壇の様子を窺いに外へと出ている。だが彼女が出かけていてもう10数分も経っているのだ、まだなのだろうか?彼は不審に思いながら外を見た。さあさあと小気味よく打ち付ける雨、雨、それから雨。とにかく雨ばかりがこの空を支配したがって顔を覗かせて宙から振り落とされている、あとはただ少しの冬風が舞うだけだ。最低気温も最高気温も余り変わらず、湿度も最高を迎えている。冬の長雨は暗く、それでいて蒸し暑さを伴わない情緒のあるものだ。彼は妹の後姿を少し思い出す。ピンクのレインコートに同色の長靴、それから誕生日にプレゼントした、真新しい空色とオレンジの花が咲いた下地に、鮮やかなてんとう虫が刺繍された可愛らしい傘。それを意気揚々と翳して歩く妹の姿を思い描き、ゆっくりと目を閉じる。あれは中々に迷った品だった。あの時、予算と現実がかち合わずに困り果てて品を見つめる少年に、ちょうど初老の老婦人が声を掛けてきたのは偶然だったのだろうか、それから恋人にプレゼントするの?と訊かれて真っ赤になって、妹のものです、と慌てて否定した少年に、老婦人は快くお金を足してくれたのだ。いい服を着ていたことから、裕福な婦人だったのだと窺えた。彼は彼女に深々と礼をいい、それからお金を将来的に返す為の連絡を取るための住所を聞いた。だが老婦人は断って、それから少し寂しげに笑ってこういった。「あなたは死んだ孫にそっくりだもの」戦争で死んだというその孫と似通っていた少年は、頭を下げた。戦争中はみんな冷たかった、こんな子供に金をやるだなんてあの頃は考えられなかったのだろう、けれども今は。「ありがとうございます」繰り返し繰り返して少年はその言葉の意味をじっくりと噛締めるのだった。


「優奈、遅いな・・・」


その間にも既に更なる10分が加算されていっている。もうそろそろ戻っていい頃合なのだが。まさか、増水した川でも見に行って流されたんじゃ・・・。彼はその恐ろしい考えに身を突き動かされて立ち上がった。それからレインコートを掴もうと手を伸ばしたところで、がちゃりと玄関の黒いドアが開けられる音を聴いた。すぐに向かってみれば、そこには腕を前で交差して、まるで何かをかばうかのような姿勢をしている妹がいた。少し困ったような、いや、困り果てた顔をして、それからお兄ちゃん、と珍しくこちらを窺うような声で、優奈は言った。


「ただいま、お兄ちゃん」

「どこいってたんだ、優奈・・・川にでも流されたかと思って心配したんだぞ」

「ごめんね、あの・・・あのー、・・・お兄ちゃん怒らないでね?」

「どうしたんだよ・・・怒んないよ。なにかしてきたのか?」

「ううん、その、これ」


そういって妹は濡れた手でそれを差し出した。黒く丸まったそのちいさな物体をよくよく見れば、それには三角の耳とそれから尾っぽ。まじまじと見やれば、それはぴくっと顔を上げた。驚いて手を伸ばすと、それはにゃあと鳴いて目をあけた。金色のうつくしい瞳をした黒猫だった。まだちいさくがんせない、無邪気なつくりをした子猫。優奈はばつが悪そうに視線をはずして、それから問うた。


「だ、だめ?」

「え?」

「飼っちゃ駄目?」


それは珍しくも滅多に頼みごとをすることのない、我侭などしたことのない妹からの「お願い」。彼は驚いて妹の顔を見た。彼女は最初から否定をされることを予想していたかのように口を引き締め、かなしそうに猫を撫でる。それから言い訳でもいうかのように、ぽつりと一言。


「親に棄てられてたの」

「・・・・・・・・・・」


その言葉に彼は口をつぐんで、それからちいさく震える子猫のやわらかそうな頭に触れた。ずぶぬれて冷たいその体は弱弱しく、親猫に棄てられたのも十分頷けるような貧弱さで妹のちいさな腕に収まっていた。棄てられた、子供。親がいなくなって、ひとりっきりで。親が死んだ子供とどちらがかなしいだろう?棄てられたほうに決まっている。ひとりは辛くて。もう戻らない最愛の人間を待ち続けて。戻らない、分かっているのにひとりよがりな期待だけは止まらずに、胸をいためるのだ。すてられた猫。親をなくした人間の子供。お似合いじゃないか、二人と一匹、身を寄せ合わせて儚いしあわせを望んで。妹の辛そうな顔が嫌でも目に入った。けれどもこれは彼女の精一杯の我侭と優しさだ、いつもなら優奈はこんな風な同情をかけることなどなかったはずだ。手を差し伸べたくて、でも出来なくて、最初から救えないのなら手なんか伸ばしたら駄目だと分かっていながらそれでも手を差し伸べてしまったんだろう。優奈は沈黙している。その目がありありと願いを語った。お願い、と口には出さずともその表情から懇願が感じられた。彼はすこし考えて、それから舌で唇を潤してから、それから優しく問いかけた。


「飼いたい?」

「うん」

「世話が出来る?」

「うん」

「棄てたり見放したりなんかしないな?」

「うん」


その押し問答ののち、兄はぱっと顔を明るくさせた。それから驚いたように猫を抱きしめる妹の手を掴んで、あたたかさを分けるように包み込んだ。それから微笑んで、黒猫を抱きとめる。脇の下を持って抱き上げれば、宙ぶらりんになった可愛い脚がふらふらと所在なく揺れた。可愛いなあ、と頬を緩めて、それから彼は妹の頭に手を伸ばしてやさしくそれを撫でてやった。それからふらふらと視線を漂わせる妹の顔を覗きこんで、一言。


「いいよ」

「えっ!?」


その言葉に驚いた優奈は眼を見開いて、それからお兄ちゃん、と咎めるような声色でちいさく叫んだ。彼はやさしくやさしくその腕から猫を彼女に返して、それから茶目っ気をきかすような眼差しで言い放つ。


「飼っていいよ」

「ほんと!?ありがとう、お兄ちゃん!」


途端に花開くその笑顔に、滅多にないお願いごとを叶えてあげた充実感が彼を包み込んだ。ああ、よかった。喜んで貰えたんだなあ、と心ばかりに思って、それから妹の手のひらを握り締めて、笑う。身寄りのない二人はひとりぼっちの辛さをよく分かっている、救ってあげたい気持ちも分かる、可愛がりたい気持ちも分かる。せめて妹の我侭くらい聞いてあげたいのだ。彼は満足そうに頷いて、それから妹に早く玄関から部屋へと入るように促した。それから真っ白なタオルで子猫を包み込んで、ふわりと洗面所においた。あたたかなシャワーで洗い流すのは寂しさなのかかなしさなのか。いずれにせよこの猫はもう二人の家族の一員なのだ。もう他人でもなんでもない、家族。彼はふわりと猫の頭を撫でた。ぺろり、と子猫のちいさな舌が動いて指先を掠めていく。それに微笑んで、彼は妹に問いかけた。


「名前はなんにする?」

「それはねー、」


明るい声が新しい家族の名前を高らかに告げる。それから猫のほうを振り向いて、慈しむように目を細めて手を伸ばした。


「こんにちは、あたらしい家族さん」


二人は笑っている。猫はそれに答えるように、ただ一言にゃあと啼くのだった。

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