信じたい嘘
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「ねえ、なんでお母さんは帰ってこないの」
あたしは前々からずうっと聞きたかったことをようやく聞けて、ほっとして一息をついた。けれどその刹那お兄ちゃんはぱっと怖い顔をしてあたしを振り返って、強張った顔であたしを見た。あせったような、驚いたような、そんなお顔だった。
「お父さんはどうしたの?」
もうひとつ加えて聞けば、とうとうお兄ちゃんはこっちが泣きたくなるかのような、それでいてとっても怒ってるかのような表情を浮かべてあたしの肩を強く掴んだ。痛い、と顔をあげればかちあう視線と視線。お兄ちゃんはあたしの瞳の中、その中にある何かを覗き込むかのように、ずいっと顔を近づけて、鼻先で、戸惑いを口にした。
「優奈、どうしてそんなことを聞くんだ?」
どうして、って。ただあたしは知りたかっただけなんだよ、お兄ちゃん。今朝、玄関先に置いてあったあのちいさな封筒、黒い封筒はなあに。お兄ちゃんはそれを奪い取るように開いて、それからしばらく部屋に篭もってあたしとあってくれなかったじゃない。あんなの、お父さんとお母さんが何処かへ行っちゃって以来初めてだから、きっとふたりに何かがあったんじゃないかなあ、って、思ったの。あたしはあたしを掴んでゆさぶるお兄ちゃんに向かって一言。「いたいよぅ。」はっと気づいたお兄ちゃんは急いであたしから手を退けて、「ごめんな」と感情を抑えたようにちいさく呟いた。それからあたしのちいさな背丈に合わせるようにしてしゃがみこんで、斜め下からあたしを覗き込むの。優奈、とお兄ちゃんがあたしの名前をもう一度呼んで、それから一呼吸分口を閉じて、もう一度からからになった喉であたしに向かって言葉を発しようとした。それがあんまりにも辛そうなものだから、あたしは慌てて、それでも聞きたい気持ちを抑えきれずに訊いてしまったの。「お父さんとお母さんはどこにいったの?」口足らずなその言葉に、お兄ちゃんはとうとう言葉詰まってそれからぎゅうっとあたしを強く強く抱きしめて肩口に顔を埋めて、あたしの髪の毛でくすぐったいんじゃないかなあってところに、頭を置いた。
それからひとつひとつ重たく区切るかのような声でお兄ちゃんはゆっくりと、まるで自分に言い聞かせるみたいに、魔法をかけるみたいな明るい空虚な声で口を開いた。
「お父さんとお母さんはな、戦争で困ってる人たちの怪我を診る為に外国を旅してるんだよ。だから、もうしばらく戻って、こない、んだ、」
語尾に行くにしたがって消えゆくちいさな声は、涙が滲んだみたいにしょっぱい声色だった。お兄ちゃんはあたしを抱きしめたまんまで離してくれなくって、少し苦しい。でも、あたしはそれを嫌がったりなんかしない。お兄ちゃんの震えた手のひらがあたしの頬っぺたをかすめていって、ゆっくり優しく撫でてくれた。お兄ちゃんはそれから暫く黙ったまんまで、そうしてもう一度、旅に出たんだよ、と言った。かなしそうな、その手のひらをそうっと掴んで、あたしは両手でそれを握り締めた。つめたい指先をあっためるみたいに、ぎゅうっとぎゅうっと。
ねえ、気づいてないんだね、お兄ちゃん。細めているお目眼が真っ赤、林檎みたいに染まってるよ。あたしは下を向いたまま震えるお兄ちゃんの背中に腕を回して、それからぽんぽんといつかお母さんがあたしにしてくれたようにやさしく叩いてあげた。眠る間際にいつもしてくれた、その仕草みたいにやさしくは出来なかったかもしれなかったけど、きっと今のあたしの気持ちを十分に伝えてくれたと思うから、それでいい。お兄ちゃんはその仕草にとうとう堰を切ったかのように、それでも声をじっと噛み殺してぽろぽろと涙を零した。それから数秒、堪えきれなくなったようにお兄ちゃんは「う、ぅ」と低い声を漏らしてわんわんと泣き出した。じいっと、自分を押し殺すその声に、今度はあたしが泣きたい気持ちでいっぱいになった。ぐっと見開いてぱちぱちと瞬きをたくさん繰り返して、お水が零れないように必死でそれを続けて続けて。ああ、ごめん、ごめんなさい。お兄ちゃんをかなしませるつもりなんかじゃなかったの。お兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんだから、泣かないようにしてたんだよね。泣いていいんだよ、でも泣かないで。矛盾してるようだけど、それはどっちも本当なの。ねえ、ごめんなさい、いっぱい泣いて、胸の中に詰まってた涙の海をからっぽにしていいよ。ああでもやっぱりお願いだから泣かないで。あたしがいるわ。だからねえ、もう泣かないで、
「お兄ちゃんもあたしもなんにも悪いことなんかしてなかったのに、どうして、どうしてこんなに酷いことするのかな。戦争って、いっぱいいっぱいたくさんたくさん、あたしの大切なもの、持ってっちゃった」
ねえ、知ってるよ。ほんとうは旅なんかじゃないってことくらい、あたしは知ってたんだよ。お父さんもお母さんも、ふたりとも、もう。ねえ、お兄ちゃんはきっと信じたかったんだね。真実がどうであったって、お兄ちゃんはそう信じようとしてた。でも本当はそんなこと信じてなんかいなかった。それはただ小奇麗なしあわせでちいさな、泣きたくなるくらい切実な願望。それはお兄ちゃんにとっての優しい嘘。お兄ちゃんはお兄ちゃんに嘘をついていて、けれども嘘をついていることを知っているから、なんにもいわずに黙ってる。こうでもしなければ、泣くことさえも忘れていたね。ねえ、お兄ちゃん。もうあのやさしい腕だとか声は、もう二度と帰ってこないのかなあ。
お兄、ちゃん。
/やさしい嘘を夢見るこども