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恋ではない

作者: KEITA

現代ものです。

 君のそれが、恋だというならば。


 俺のこれは、恋ではない。




 小雨がさあさあと柔らかい音を立てて降る、六月半ばの午後。

 近くの市営駐車場に車を停めて、それから五分程度。傘を肩口で差し、狭い街路を他愛無い話をしながら歩けば、着いたのは小さな食堂である。

 少し遅い昼食目的で彼女と二人で入るここは、こじんまりとしているが手作りの料理が実に美味い店だ。価格も良心的でボリューム満点。規模は小さく知名度も低い穴場スポットとして彼女に教えられたのは、今から二年程前のこと。

 二年前、それこそ女性と行く外食の場といえば洒落た喫茶店かレストランなど、店内は隙無く高級感に塗れ、食事内容は値段の張る割りに量は少ない、そんなところしか入ったことがなく、また連想し得なかった自分。彼女に連れられて足を運んだ当初は、店内の雰囲気に多少戸惑いはしたものの、案外といける味、そして安さに感動混じりの驚嘆を覚えたものだ。

 自分の世界は、狭かった。そう教えられたのは初めてではない。そのことが不快ではなかったのも今更ではない。しかし、そのときに感じた感情はなんと称せば良いのか、今でも考えに窮してしまう。駐車場が無く、歩かなければならないということを彼女は済まなそうにしていたが、そんなことは問題ですらない。理由は明白である。何が不満で、彼女と過ごす貴重な時間を減らしたいと思うのだろうか。

 はや二年。彼女とこの店の暖簾を潜るのは何度目になるのかそれすら数えたことがないけれど、その一日一日の内容は思い出せる。変なものだ、と自分でも思う。回数はわからないくせに、内容のひとつひとつを覚えているなんて。

 小さな手がからりと引き戸を開ければ、店内に篭っていた空気がこちらまで届いて湿気た空気にふわりと溶ける。食欲をそそる音と匂い。

「おばちゃん、こんにちは」

「おお恭子ちゃん、久しぶりじゃない!大会は終わったの?」

「うん。今日はお祝い」

「ははは、この店でお祝いかい? んじゃサービスしとこうかね。特製パフェつけといてやるよ」

「わ、ありがとう!」

 綺麗な黒髪に続いて暖簾を潜ると、先ほどまで彼女とそんな会話をしていた大きな声の主がこちらにも声をかけてきた。

「いらっしゃいお兄さん、……ええと」

「本居です、ご無沙汰しております。本日は僕も一緒に美味しいご飯を頂いてお祝いしようと思いまして。おくさんにもお会いしたかったですし」

 畳んで纏めた傘の留め金を締めつつにこりと微笑めば、三角巾でひっ詰めた頭をした食堂の女将は頬を染める。声も一オクターブ高くなった。

「そうそうモトイさんだったわね! やあねえ、相変わらずお上手なんだから。さあさ、座って座って」

「どうも」

 幸い、店は空いていた。入り口近くに置いてある傘立てに湿った傘を突っ込み、カウンター近くの二人分の相席に向かい合って座る。彼女がここに来るといつも選ぶ、ひいてはお気に入りの席なのだ。

 向かいの彼女は、身を屈めて座りつつ顔の脇に垂れた黒髪をさらりと後ろに払った。彼女の髪は肩より少し長い程度まで伸ばされている。いつもは天辺で結わえるか軽く纏めてあるかしているのに今日は背に流され、湿気のせいか少し艶を帯びている。首筋に一本濡れたそれが張り付いて、間もなくそれも指で拭われた。一瞬見た白桃色の肌とのコントラストが鮮やかだった。

(……)

 付随するつまらない考えを脳内から追い出し、湯気を立ち昇らせるタオル地で雨露に湿った手の甲を覆う。目の前の男の視線など気づきもしない彼女は、目を伏せて柔らかな手つきで同じ動作をしている。いつものメニューを頼み、運ばれたお冷を一口飲んだ。

 割り箸や醤油刺しの近くに、慎ましく飾られている切り花。彼女が目を留めたのに気づいた。

「好きな花?」

 そう聞くと、首を横に振った。

「知らないけど、かわいいなあと思って」

 柔らかい視線は、藍色の花をうっとりと眺めている。「そう」と返しつつ、さり気なく思考を巡らせた。梅雨の時期に咲く野花の群生地は、この辺りにあっただろうかと。

 やがてテーブルに料理が運ばれてくる。

 炊き立てのご飯、ほうれん草と白舞茸のお浸しに自家製沢庵、青菜と大根の具が浮く赤味噌の味噌汁、酢橘と薬味を添えた焼き魚、紅葉型の色蒲鉾、椎茸と鞘インゲンの色味も鮮やかな茶碗蒸し。本当にごくシンプルな、和の定食である。運んできた店員が、こぽこぽと湯飲みに茶を注ぎ、にこやかに言う。

「お待たせ様、ごゆっくりどうぞ」

「どうも」

「いただきます!」

 彼女の目がきらきらと輝き、箸を手に取った。部活の大会練習に明け暮れて毎日夜遅くに帰宅していたお陰で、しばらくこの店での食事にありつけていなかったと聞いている。久し振りで嬉しい、そんな声が一杯に聞こえてきそうな彼女の表情が可愛かった。

 そう、彼女は可愛い。

「? 食べましょう、本居さん」

「あ、ああ」

 促され、自分も慌てて箸を取った。一瞬ぼんやりとなった理由、それを追求しない彼女にほっとしながら。

 時々会話を交えながら、食事は続く。大半は彼女の明るい声。

「ああ、やっぱりここのご飯は美味しいです」

「そうだね」

「大会の練習のせいで長い間来れなかったけれど、やっぱり来たくて堪りませんでした。あーホントに美味しい……生き返ります。あ、大袈裟だって思ってます?」

「うん」

「……ほ、本気なんですよ。わたしはですね」

「五歳の誕生日に連れてこられたのが最初で、そこから十年以上の常連さん」

「……」

「どうしたの」

「そんなにはっきり覚えられるほど、しつこく喋ってましたか……」

「まあね」

「う……」

「あはは」

 彼女は食べっぷりが良い。口の中に物を入れたまま話すということはせず、飲み込んでから箸を次に伸ばしつつ喋るといった、文字通り物を食べる合間に話しているのだが、見苦しくはない。それどころか、そんなに喋らない自分と食べる速さがそう変わらない。いかに彼女の食べるスピードが速いかということだろう。

 男よりも食べるのが早く、豪快に。尚且つ行儀は弁え、本当に美味そうに食べる。

 二年前までの自分にとってなら、彼女はまさしく規格外の「女性」だった。

 今はというと。

「ご馳走様でした!」

 いつの間にか一膳を空にした彼女は両手を合わせカウンターに向き直り、大きな声を出す。それに応えて嬉しげな女将の声が返ってきた。

「はいよ。デザートも今運ぶからちょいと待ってておくれ」

「え、本当にいいの」

「いつも来てくれて残さず美味しそうに食べてくれる礼だよ。それに、大会が終わったお祝いも兼ねてね」

「うわあ、ありがとう! 本当にありがとおばちゃん」

 ぱあっとまたも顔を輝かせる彼女。尻尾があったら力一杯振り回しているかもしれない。

「よかったね」

 そう言えば、彼女は振り返って満面の笑みを見せた。

「はい!」

――可愛いと。

 またもそんなことを思い動作が止まってしまう自分。彼女は気にも留めておらず、嬉しげに食べ終えた食器を運びやすいよう重ね始めた。

「デザート、楽しみです」

「……そうだね」

 そう、彼女は気にも留めていない。こちらの様子など。

「……」

 ぎくしゃくと手を動かし、半分冷めてしまった味噌汁を啜った。情けない、今更こんなこと。そう自分で自分を窘めながら。


※  ※


 暫くして、店員が運んできたのは市販の棒菓子がちょこんと差してある、茶色と乳白色のストライプが底に渦を巻くシンプルなチョコレートパフェと、ガラスの器に盛られミントの葉が添えられたバニラアイスだった。和食が主メニューを占める食堂にしては似つかわしくないとも言えるが、このアンバランスなデザートの一品が地味に人気なのだと彼女自身から聞いたことがあった。

 それを証明するかのように、目をらんらんと輝かせてテーブルに置かれたそれを見つめている。スプーンを片手に、食べる気は満々らしい。自分用に頼んだバニラアイスの器を引き寄せつつ、苦笑した。

(和食をたらふく食べた直後にパフェって……よく入るよな)

 女性にとって甘いものは別腹ということは聞いたことがあるし実際その傾向があるのも知ってはいるが、彼女の場合は自分の知る女性のそれには当てはまらない。中途半端に残すわけでもなくそれこそ米の一粒まで食べきり、尚且つ甘いものを所望するのだ。実際本人は食べ併せに拘る方でもないし無理をしているわけでもない。この二年間でそういったことは十分知っている。

 そう、十分に知っている。

「いただきます」

 にこにこと微笑みながら、彼女は柄の長いスプーンでチョコレートパフェに取り掛かる。チョコレートソースと同系色のアイスをひとすくい口に入れると、その目元がふにゃりと綻んだ。

「んー」

 目の前の、実に幸せそうに緩む顔を見ているとついこちらまで伝染してしまう。

「よかったね」

 嫌味でもなんでもなく、素直にもう一度同じ言葉を呟けばこちらも嫌味とは取らない同じ笑みが返ってきた。

「はい」

 いつからだろうか。

 仕事で躓きがあったとき、何人目かの恋人との後味の悪い別れの直後、もしくは体調不良の只中。どんなに精神的にも肉体的にも参っていたとしても、この笑顔を一目見ると自然とモチベーションが浮上して、気がつけば悩んでいたことすら忘れている。そのことに気づいたのは数日かそこらの話ではない。けれど、いつからだったか、思い出せない。本当に、ここ最近の自分の記憶の矛盾には呆れる。

 本当に、いつからだったのだろうか。

「本居さん、アイス溶けちゃいますよ」

「あ、ああ」

 またもぼんやりとなっていたのを促され、スプーンを乳白色の塊に突っ込んだ。本当は食後には甘ったるいアイスではなく、軽く飲める酒か煙草が欲しい。しかし酒はともかく、煙草を吸うわけにはいかない。何せ店内禁煙の赤文字が、店の入り口に堂々と貼られているのだから。

 何より、(本人に言えば遠慮からか否定するが)彼女は煙草が苦手だ。他人の吐いた煙草の煙に咳き込んでしまうのを何度も見ている。今、目の前で幸せそうに微笑む顔を崩したくはない。

 掬ったアイスの塊を口に運ぶ。甘いものはあまり食べないが、さほど苦手でもない。舌に残る冷たさと甘さがじんわりと脳に染み渡っていく。市販のものなのだろうが、なぜか特別美味だと感じてしまうのはやはり、目の前にこの笑顔があるからなのか。

(いつからか)

 自分は、この笑顔を何よりもいとおしく感じるようになっていて。

 そして。

「改めてだけど。大会お疲れ様」

「ありがとうございます。でも明日からまた県大会に向けた練習のスタートで。ますますしごくってコーチが言ってました。もう休む暇ないですよー」

「ふふ」

「あ、そういえば本居さん、聞いてください」

「何?」

「昨日、先輩と久しぶりに話せたんです!」

 何よりも、憎たらしいと思えるようになっていたのか。



 笑顔で嬉しそうに喋る彼女の声を、こちらもにこにことした笑顔で聞く。

「で、ですね。先輩ったらそのときわたしに声をかけて下さったんです」

「へえ、なんて?」

 愛想笑いは、得意だ。ついでに本心を隠すことも。

「『一昨日の練習を思い出せ』って…・・・わたし、もうそれだけで百人力のような気持ちになってしまって。緊張が解けて、肩の力を抜くことが出来たんです。不思議ですね。好きな人の一言って」

「そうだね」

 内心でも後半の言葉に大きく頷いた。顔は崩さない。相変わらずにこにこと、微笑ましげに彼女を見つめる。

「あ、単純だって思ってます?」

「ちょっと」

「もう!」

 彼女は恥ずかしげに膨れっ面になった。柔らかそうな頬がぷうっと膨らみ、さくらんぼのような唇が尖る。目の前でどんどん減っていくチョコレートパフェと、どちらが口に含んだら甘いのか。そんなことを考える。

「わたし、最近思うんです」

 淡い色の唇。

「恋って不思議」

 ひとすくい、また彼女はパフェを口に入れた。ぷくりとした小さな唇とチョコレートソースと。甘いもの同士が溶け合っている。今彼女の唇にむしゃぶりついたら、きっと自分の舌は触れた端から溶けてしまうのだろう。あまりの甘さに。今も十分甘いバニラアイスを食べているはずなのに、考えるのはそんなことばかりである。

 にこやかに結んだ唇の裏側がうずうずとした。やはり、煙草が欲しい。

「その人の一言だけで、テンションが上がるっていうか。その人のことを思うだけで、自分が何か別のものになってしまうような気がするんです。何か変われるような、どこまでも成長できるような気がするんです」

 おめでたい奴だって自分でも思うんですけどね。そう言いながら、歯の真珠色と舌の紅色、チョコレート色が口の中に見え隠れする。ごくり、と溜まった唾液を呑み込み、彼女の言葉に相槌を打って微笑んだ。

「そう」

「ええ。恋って凄いです」

 ぺろりと、紅い舌が唇を舐めた。まだ口の端についているチョコレート色。指摘してやるべきか、何も言わずにさり気なく拭ってやるべきか。拭ってやるとしたら、目の前のお絞りか。――ああ、自分のそれで舐め取ってやった方がいいな。彼女の唇に固定された自分の視線が飢えた獣そのものになっているのを自覚しつつ、ぼんやりと考えた。幸い、彼女は気づいた様子が無い。なぜそんなに鈍感なのか、無防備なのかと問いかけたい気持ちになる。

 ぼんやりと思考していた時間が長かったらしい。手を伸ばしかけたその前に、彼女は布で口を拭ってしまった。

「わたしも、この一年で変われていたら素敵だなって思うんです」

 幸せそうにふふふと笑う彼女。頬を染めて、うっとりと。細められた目はきらきらと輝いて、今まさに、彼女は恋をしている。

 きらきらと純粋で、実にうつくしい表情。綺麗なものだ。

「そう」

 だからなんの茶化しもなく、頷いて見せた。顔はやっぱり崩さない。にこにこと、幸せそうに、微笑ましげに、彼女を見る。

 あくまで、彼女の恋を優しく見守る年上の男の顔で。

「わたし、変われましたか? 変われてるように見えますか?」

「うん、君はいい方向に変化出来てると思うよ」

「……本居さんにそう言ってもらえるのが、嬉しいです」

 頬を染めて心の底から嬉しそうにはにかむ彼女。まさか目の前の優しそうに微笑む男が、その唇を塞いで舌を突っ込んで口内を滅茶苦茶に嬲って黙らせてやりたいと考えているなんて、夢にも思わないだろう。

「なんでそう思うの?」

 にこにこと。優しく、不思議そうな顔で聞いてやる。凶暴な気持ちを押し隠して。

 そしてそのマグマのような感情は、彼女の一言で呆気なく冷えて固まった。


「だって本居さんは、お兄さんだから」


「……」

「あ、ごめんなさい。わたしがそう勝手に思ってるだけなのですけど。本居さんって、お兄さんみたいだって」

 胸の内側が全て凍りついたかのようだ。作り笑顔も固まってしまったのがわかる。

 お兄さん、ね?

「一年前からわたしのこと、色々面倒見て下さって。わたしの片思いも応援して下って、こうして時々お話も聞いてくださるし。わたし、一人っ子だからこういうの、嬉しくて。お兄さんがもしいたら、こんな感じかなって」

 強張った笑顔の下、何も言えない自分。

 お兄さん。

「本居さんって暖かくて優しくて、本当に『いい人』で」

 いい人。

 唇は固まって動けなかった。ただ、一度冷えたものがまた黒々と熱を取り戻し噴火しそうになっている。

「けどちゃんと背中を押してくれたりもして、まるで見守ってくれるもう一人の家族みたいだなあって」

 苛々と。

 ただ、何も言えぬ唇の裏で叫んだ。聞こえないと知りつつ。

 やめてくれ。

 もじもじと手の端で布を弄りながら、彼女は恥ずかしそうに上目遣いでこちらを見つめる。本当に可愛らしかった。心底憎たらしくなるほどに。

「あの……前から思ってたんですけどお兄さんって呼んでは、いけませんか?」

 限界だった。

「やめてくれ」

 突如出た硬い声に、彼女はびくりと身を竦ませる。こちらを見る顔が、みるみるうちに青ざめていくのがわかった。

「ご、ごめんなさい。わたし、勝手なことを」

 真っ白な顔色。さっきまで幸せそうに恋を語っていた少女のものとは、思えない。それを見ていると、胸の内側で何かが込み上げてくる。脳内をやいていた感情が潮を引くように薄れていく。我に還れと、じんわりと浸す別の思い。

「―――いや、ごめん。こちらこそ、強く言って」

 そんな顔をされるのは、何より辛かった。例え、耐え難い熱が自分の内側を焼こうとも。

「僕は弟はいるけれど、妹はいないから。恭子ちゃんみたいな若い女の子にお兄さんなんて呼ばれると、正直戸惑っちゃうんだ。嬉しくなくはないけど」

 心にもないことを言って、彼女を安心させる。

 愛想笑いは、得意だ。ついでに本心を隠すことも。少なくとも、彼女以外の人間相手で苦になったことは無い。

「そ、そうですか。すみません。やっぱり本居さんは本居さんって呼びます」

「うん、その方が僕としてもいいな」

「すみません、でした」

 しゅんと縮こまった彼女の旋毛辺りを見つめながら、一度砕けてしまった本心を覆い隠す仮面を意識して作り直した。

「さて。手が止まっているけど、もうそのパフェはいらないの? だったら僕にくれる?」

 空になったガラスの器を脇に避け、食べ終えたアイスのスプーンでひょいとチョコレートパフェの器を指して見せた。珍しいことに、彼女より先に食べ終えてしまった。

「え、あ、駄目です!」

 慌てて両手で細長い器を囲う彼女に、今度は自然と笑いが込み上げた。

「だったら、それ僕が食べないうちに食べちゃいなさい」

「は、はい」

 わたわたとスプーンを動かし始める彼女。その頬に序々に赤みが戻っていくのを見てほっと息をつき、細めた瞳で見つめながら思った。つくづくと、確かめるように。


(これは違うんだ)


 彼女がまた何かを言いたげにしている。優しく目線で促すと、おずおずと口を開いた。

「……そういえば来月、先輩の誕生日なんです」

「へえ」

「部のみんなで誕生日会を秘密で企画してるんです。驚かそうって」

「何かプレゼントするの?」

「はい!」

 次第に輝いていく彼女の顔。にこにことそれを眺めながら、妙に冷めた胸の内側で再度呟く。

(違うんだ)

「喜んでもらえるのかはわかりませんけど……少しでも、先輩のためになれたらって思って」

「そっか。でも、大事なのは気持ちだからね」

 きっと喜んでもらえるよ。優しい声でそう言いながら、苛々とするのは煙草を吸えないからだと考えた。硬く冷え切った脳内の声が同じ言葉を繰り返す。

(違う。これは―――じゃない)

「えへへ、ありがとうございます」

 やっぱり、本居さんにそう言ってもらえるのが一番嬉しい。照れ臭そうに、けれど本心からの喜色を隠そうともせずにそう呟く彼女。照れたときの癖で、指先で布を摘んでもじもじと弄くる。今摘んでいるのは、胸元の白い布――制服のスカーフ。まだ高校二年生、17歳にしかならない彼女。対して、社会人数年目となる会社勤めで、今年29にもなる自分。

 年の差は、十二歳。


 これは恋なんかじゃ、ない。


「うふふ」

「どうしたの?」

「やっぱり恋っていいですね。先輩のこと考えただけで、よし明日も頑張るぞって気分になりました」

「……そう」

「本居さんは……、あ、なんでもないです」

 つい、という感じで言いかけて、はっとしたように押し黙る彼女。なんの含みも無い澄んだ瞳がちらっとこちらを見て、視線が合うと慌てたようにパフェの器へと戻った。だっていつもお世話になってる大好きなお兄さんだから気になる、けれど途中で余計な詮索だと気づいたとその瞳が語っていた。

 いつもお世話になっている大好きなオニイサンのようなイイヒトですから。

「……前も言ったけど、今はフリーだよ。恋もしてない」

「そ、そうです、か」

 さらっと言ってやれば、いかにも動揺した声が返ってきた。妙な罪悪感に駆られているらしい彼女の気持ちを解すように続ける。

「願わくば、どこかの親切なお嬢さんが拾ってくれると嬉しいんだけど」

 茶化すような声の響きに、彼女の顔がほっと和らぐ。

「本居さんはかっこいいですもん、きっとモテるでしょう?」

「まあそこそこね」

「もう」

 やっぱり否定しないんですね、と彼女は笑い声をあげた。親切なお嬢さんという言葉には気にも留めず。

 そのままガラスの底に残った最後の一口をぱくりと平らげ、満足そうに微笑む。

「ご馳走様でした」

 礼儀正しくまた手を合わせる姿を正面から見つめながら、またも頭の中で繰り返す。

(そう。俺は恋なんかしてない。これは恋じゃない)

 年が離れている、その事実もある。しかしそう思う理由は他のそれが大きい。


(こんなもの、恋ではない)


 恋などではない。このような、みっともない感情は。

 穏やかで優しく、胸の内が温まるような心地になるかと思えば、次の瞬間には汚く醜い、どろどろとしたものに成り果てている。馬鹿馬鹿しいほど現金で単純、かと思えば未練がましくしつこい。こんな、自分でも耐え切れないほど見苦しい矛盾に満ちたものを、恋などと呼ぶはずがない。

 恋はもっとスマートなもののはずだ。簡単に始まり、簡単に終わる。短くあっさりとしていて、それなりの感慨はあるものの、時間と共に薄れて忘れ去っていく単純なものであるはずだ。これまでしてきた恋とは、そういうものだったはずだ。

 それに、何より。


『恋って素敵です』


 君が、そう言う。恋は不思議なものだ、凄いものだと、素敵なものだと。

 「恋をしている」君は綺麗だ。綺麗で、純粋で、可愛らしくて。相手のことをひたすらにうつくしい感情だけで想い、瞳を輝かせ。思春期ゆえの、儚く青臭いひとときのものであるにしても、それはあまりにきらめきに満ちていてうつくしい。

 恋って凄いですね。

 君がそう言う。

 他でもない、君が俺にそう言う。

 ならば。

 そうであるならば。

 君のそれを見つめて、俺が思うこの感情は。


「ご馳走様でした」

「あいよ、毎度。また来ておくれよ、恭子ちゃんもモトイさんも」

「はい!」

「喜んで」

 カウンターで女将と会話を交わし、勘定を済ませて傘を片手に暖簾を潜った。

「わあ」

 一足先に出た彼女から歓声が上がる。

「見て下さい、本居さん」

 彼女が指差した空を見上げる。いつの間にか小雨はやんでいて、雲の切れ間から夕暮れの陽の光が差し込んでいた。そして、曇った空にかかるは大きな虹。

「綺麗ですねぇ」

「そうだね」

 本日何度目かの相槌を繰り返しながら、空に見入る横顔をこっそりと見やった。彼女の言葉に同意する。今度こそは、心からの言葉で。

「本当に綺麗だ」

「はい!」


 君のそれが、恋だというならば。

 俺のこれは、恋ではない。恋であってなるものか。こんなものが、恋であるはずがない。


 恋ではないのだ。




END


本居の思考が不器用で稚拙なのは、29歳にして初恋だからです(言い切った)。

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― 新着の感想 ―
[一言] こちらでは、はじめまして。 おにいさんとおっさんみが入り混じる お年頃、すれ違い、繊細な男心… もう可愛らしくてたまりません! 報われてほしいなあと読み終えて感想欄を のぞきに参りましたら…
[良い点] ムーンさんのを先に読んでいたので、このあと結ばれるのがわかってましたが、こちらだけ読むと切ないー! 3人の中で一番すきです! 素敵なお話ありがとうございます
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