三
三
岡崎城の松平元信率いる軍勢が、寺部城に向けて進軍したという葦飼の報せを聞いた幽世は、慶雲斎を供に彩樫城を発った。
父繁近には湯治と言ってある。すぐに嘘とばれる方便だが、とにかく出発さえできればよい。
影王丸配下の火輪党二百名と領外で合流すると、馬を飛ばして寺部城へと急ぐ。合戦が始まってしまってからでは遅い。
寺部城は矢作川に面し、蛇行する川の流れに沿って湿地帯が広がっている。これが天然の堀となり、寄せ手を容易に近づけなかった。
川より城側には土塁が築かれ、そこには弓をもった城衆が控えている。
典型的な籠城戦の構えである。城主鈴木重辰は元信を独力で撃退することなど最初から考えていない。すでに救援を乞う書状を持った使者が尾張に向かっており、あとは内通相手である尾張の織田信長が救援を差し向けてくるのを待つばかりという態勢である。
信長の援軍が到着すれば、揉み潰されるのは元信のほうになる。それまでに決着をつけなくてはならなかった。
元信は寺部城を正面から見据える烏帽子岩付近の丘陵に本陣を構えた。松平重吉をはじめ本多忠勝、平岩親吉、鳥居元忠といった後々まで彼の軍功を支える家臣たちも、同じく布陣している。
かわって、幽世らはその真逆に集まった。城と目鼻の位置にある、守綱神社という社の竹薮の中に、二百人の火輪党が潜伏している。
「元信どのは、いかようにして寺部城を陥とされるおつもりなのでしょうかな」
行人包みに具足姿の慶雲斎が言った。薮の中に身を潜めているが、なにせ規格外の巨体である。まったく隠れていない。
「岡崎の精兵は強悍無比。攻め方はひとつでしょう」
幽世がいらえた。彩樫城を出たときは遠乗り用に薄桃色の小袖と、紺色の野袴という出で立ちであったが、今はすっかり装束を改めている。長い髪をきりりと縛り、額に鉢金を締め、純白の小袖に紅袴を穿いている。緋色の胴丸に白糸縅の草摺と籠手、脛当をつけ、腰に刀を手挟んだ姿は凛然として、なにやら神韻縹渺としたものさえ感じさせる。
「……いけませぬな」
行人包みの頭を撫で、慶雲斎は物憂げにいった。
元信率いる岡崎衆は死を恐れない。ただただ本懐を遂げるために黙々と進み、黙々と働く。
そして、黙々と死ぬ。勇猛といえば聞こえはいいが、軍略もなにもあったものではなく、遮二無二猪突猛進するばかりということである。
湿地を要害として、手ぐすね引いて待ち構えている敵に対して突っ込んでいったところで、いたずらに被害が大きくなるばかりであろう。それは元信自身はもとより、幽世にとっても望まざることにまぎれもない。
「ならば、活路を開くとしよう」
いつから合流していたのか、葦飼が切り出した。マタンプシ(鉢巻)を締め、アイヌ文様を施された藍色のルウンペ(木綿衣)を纏っている。具足を一切身につけない姿は、幽世らの一団の中でも異彩を放っている。
「てめえ、抜け駆けする気か? この喧嘩はおれが一番槍よ。邪魔するんじゃねえ、目障りだぜ!」
影王丸が葦飼に食ってかかる。
が、葦飼はまるで取り合わない。影王丸を一瞥すらせず、目を伏せたまま一度弓の弦を鳴らした。
「さて。では」
寺部城を遠望しながら、幽世は一息ついて口を開いた。
「城に付火しましょう。葦飼、城に忍び込んで城衆を撹乱してください。その後、火輪党で手分けして付火し、一旦撤収します。城から火勢が上がれば、岡崎の兵も動くでしょう」
「承知」
躊躇いもなく放火を指示し、手勢を差配してゆく。慶雲斎直伝の軍略であった。
幽世の命に、葦飼も異論の余地なく頷く。
「待て待てッ、おれもゆく。こんな野郎は信用ならねえぜ、おれに任せときな。いいだろ? 姫さん」
影王丸が葦飼を押しのける。葦飼と影王丸は反りが合わないのか、いつも些細なことで頻繁に衝突を繰り返していた。今回もやはり、葦飼にひとり功を樹てさせまいと対抗心を燃やしているのだろう。
幽世は右手を顎先に添え、軽く思案した。
「よいでしょう。……ただし、それならわたしも参ります」
「え?」
慶雲斎と影王丸が瞠目する中、幽世はさも当然といった面持ちで笑った。
「葦飼と影王丸のふたりだけでは、心配ですもの。わたしも参ります。〈あちらのもの〉も探さなくてはなりませんし」
「なりませぬ。御身に万一のことがあったら、一体どうなされる!」
慶雲斎が必死の形相でかぶりを振った。巨体の慶雲斎は葦飼や影王丸と違って、密かに忍び込むといったことができない。城中ではふたりが幽世を護るとはいっても、やはり不安があるのだろう。
「心配いりません、わたしたちが城を陥とすわけではないのですから。すぐに切り上げますので、慶雲斎は付火の準備を。よいですね」
きっぱりと、否定の余地ない口調で告げる。
凛然とした出で立ちとも相俟って、合戦に臨む幽世は誰もがその差配に従いたくなるような、不思議な引力を有していた。
もともと、乱世に生きる武士は信心深い。巫女の血を引くという元々の出自もあってか、みなよく幽世の言葉を守って結束した。
「ぎ、御意。しかし、まことに撹乱のみにございますぞ。間違っても、城将鈴木重辰を討つなどとは……」
「それは元信さまのお役目。今でさえ差し出た真似をしているのですから、これ以上のことは致しませぬ。それより慶雲斎、そなたこそからだが大きいのですから、元信さまに見つかってはなりませんよ?」
冗談めかして、幽世はまた笑った。戦女神のように采を揮う幽世であったが、笑った顔はやはり、歳相応の少女のように見えた。




