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 その夜、幽世は臥所で微かな物音に気がつき、眠りから目覚めた。

 何か、黒いものが自分の上に覆い被さっている。段々と暗闇に目が慣れてくると、それが男だというのが分かった。

 夜這いである。

 しかし、幽世は呻き声ひとつあげなかった。実は、こういったことは今夜が初めてではない。

「遅かったですね。影王丸」

 布団が捲り上げられており、少し肌寒い。幽世は微かに吐息し、影に対して告げた。

「おれも、いつも暇ってわけじゃねえんだぜ。これでも急いできたつもりさ。……で」

 人影は幽世の白い寝着に顔を近づけ、獣のようにそのにおいを嗅いでいる。

 幽世はほんの僅かに身じろぎしたが、好きにさせておいた。

 仮にも城中である。警備も手抜かりなく、番衆が昼夜を問わず目を光らせている。そこに夜陰にまぎれたとはいえ易々と侵入し、こうして城主の姫に夜這いをかける辺り、卓越した体術の天稟を持っている相手だといわねばならない。

「寺部城を陥としますよ」

「大将から聞いた。とんでもねえことを企む姫さんだぜ、あんたはよ。だが、あそこは松平の餓鬼が攻めるんだろ? おれたちゃ何をすりゃいい?」

「寄せ手は少しでも多いほうが、戦さも早く終わるでしょう。大したことはせずともよいのです。ほんの少しだけ、元信さまが安全に初陣を飾ることさえできれば」

「……なるほど。……で」

 言って、影はずい、と顔を幽世の顔に近づけてきた。

 闇の中でも、互いの息がかかるほどに顔が近づけば嫌でも相手の面相がわかる。黒い伸び放題の蓬髪をもつ、獣を思わせる野性味に溢れた顔つきの男であった。年の頃は二十の半ばくらいであろうか、左の目が額から縦に斬られて潰れているが、残った右の眸子(まなこ)が鋭く射るように、また(ねぶ)るように幽世を見つめている。

 纏っているのは袖無と野袴といった粗末なもので、野武士の典型のような出で立ちである。ただ背に美しい彫刻の施された白鞘の太刀を負っているのが、なんともその身にそぐわない印象を与えていた。

 血や汗といった濃い男のにおいが、幽世の鼻腔をかすかに擽る。

 影王丸。三河国内を荒らし回っていた盗賊、火輪党(ひのわとう)の首領である。

 無道な性情で悪辣なことならばなんでもしたが、あるとき慶雲斎に挑んで左目を失った。一度は捕縛されたものの改心を条件に助命され、今ではおのれを打ち倒した慶雲斎を大将と慕っては、郎党を引き連れてその私兵めいたことをしている。

 織田家でいう、木下藤吉郎配下の蜂須賀党のようなものであろう。幽世が慶雲斎に支度をと言ったのは、すなわち影王丸に戦力を貸してくれるよう頼んでほしい、ということであった。

 幽世に懸想し、何かといえば夜這いをかけてくるが、成就したためしは一度もない。

「惚れているのか? 松平の餓鬼に」

 影王丸に訊ねられ、幽世は小さく微笑んだ。

「友誼ですよ。……あの方とは、幼い頃よく遊びましたから。それに、あの方にとってこたびの戦さは好機。大功を立て、治部大輔(今川義元)さまに認めていただければ、旧領を回復することさえできましょう。……だから」

 正真、幽世の本音である。援ける理由は愛や恋といったものではない。第一、元信にはすでに瀬名(のちの築山殿)という正室がいた。

 今川義元は姪の瀬名を元信の妻とし、またおのれの先鋒に使うことによって、元信の将器を試そうとしている。元信の働きいかんでは、今までの人質生活を脱却して旧領を安堵され、ひとかどの大名として一本立ちすることさえ夢ではない。

 影王丸はそれを聞いて笑った。それから幽世の脇の下に両手をつく。

 互いの躰が、ますます近づく。

「おれは、松平の倅のことなんざどうでもいい。喧嘩ができて、それから姫さん、あんたがいりゃあな。合戦が終わったら褒美にこの躰を貰うが、それでもいいかい?」

 言うなり、唇を近づけてくる。

「ご随意に」

 幽世はにっこりと笑った。幽世にとって慶雲斎は傅役であり家臣だが、影王丸はそうではない。

 影王丸の一団を戦力に当て込むならば、それなりの代償を払わなくてはならないのは当然だった。

 戦力提供の代価として、影王丸はいつも幽世の肉体を要求してくる。

 幽世も特にそれには異議を唱えない。だが戦力を幽世のために投入し、幽世を自由にできる権利を手に入れても、どういうわけか影王丸はいつも何かしら理由をつけて、それを自ら先延ばしにしてしまうのだった。

 幽世のことを、天地で唯一自分だけが好きにできる。いざとなれば、いつでも愛らしい姫御前の純潔を手折ってしまうことができる。

 その権利が手の中にあるというだけで満足なのである。実際にそれをするか、ということはさして重要ではなかった。

 そして、幽世もそれを理解している。言わば、ふたりだけの秘密の言葉遊びといったところだろうか。

「よし。じゃ、楽しみにしていよう。いつでも発てるよう用意しておく、またな。姫さん」

 影王丸は躰を離し、すぐに音も立てず襖へと向かった。

 口付けはしない。それどころか、結局指一本さえ触れなかった。

「では、また朝に」

 幽世は起き上がって夜具の上で居住まいを正し、軽く首を傾けてはにっこり笑って間男を見送った。

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