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 幽世姫(かくりよひめ)が突拍子もないことを言い出すのはいつものことだったが、ある日の午後に侍女らと野草を摘んで帰ってきたかと思えば、開口一番、

「寺部城へゆきましょう」

 と言い放ったときには、家臣一同開いた口が塞がらなかった。

 幽世は駿河太守今川義元の老臣、時坂直五郎繁近の三女である。

 年の頃は十六。ただし、正室の子ではない。側妾の子でさえなく、素性定かならぬ女に父親が産ませた、いわば私生児であった。

 あるとき父の繁近が出雲からきたという歩き巫女を見初め、情けをかけたのがきっかけらしいが、幽世は父母のなれそめをよく知らない。

 長く美しいみどりの黒髪も、すっと通った鼻筋と桜色のふっくらした唇をもつ面貌も。やや吊り気味ながら大きく(つぶ)らな双眸と、燃えるような真紅の瞳も、今はどこにいるのか所在さえ杳として知れぬ母親譲りのものであるという。

 なかでも紅色の瞳は珍しく、妖異の証として忌避されても仕方ないものであったが、父繁近をはじめとして城衆には性質朴なものが多く、幽世はなんの束縛も受けずに三河の山野に囲まれ、のびのびと育った。

 父の時坂繁近は義元の差配により、三河の一支城たる彩樫城(あやかしじょう)の城将を務めている。

 ほんの小さな平城であるが、彩樫城は国境を接する織田氏の動向を見張る橋頭堡の役割を果たす、戦略上重要な拠点であった。

 とはいえ、今はまだ大きな危険はない。織田氏の治める隣国尾張はまだまだ内紛が絶えず、一国の統治さえ終わっているとは言いがたい。しきりに蠢動しているという噂を聞きはしても、実際に動いているところはよく見えぬ――そんな状況だった。

 よって幽世姫もそんな男の世界のことなど知るよしもなく、呑気に野草を摘んだり、遠乗りに行ったりしていればよかったのだが、少々伸び伸びと育ちすぎてしまったこの姫にはそんな行為は些か、退屈に感じられてしまうらしい。

「なにを仰せらるる、姫!」

「寺部城が現在、どのようになっているのか。おわかりではございませぬのか?」

「わかっているから、ゆくのです」

 城で家臣たちが顔を蒼褪めさせ、口々に諫言(かんげん)したが、三和土の幽世はまったく聞き入れずヨモギを摘んだ笊を侍女の一人に渡すと、すたすたと城の奥に入っていった。

 三河寺部城はもともと今川氏の勢力圏内にあり、鈴木日向守重辰が城将を務めていたが、永禄元年(一五五八年)この鈴木重辰が織田氏に内通。一転して今川氏に対し反旗を翻した。

 今川義元は松平元信、松平重吉にすかさず鈴木重辰討伐を指示。元信は岡崎城を進発して、近々出陣する予定であった。

 幽世はそれを援けたいと考えている。そして、そのまま城内に設けられている寺堂へと向かった。

 摩利支天像を祀った堂宇の奥に、巨体が幽世に背を向けて鎮座している。

 まるで石切場から巨岩をそのまま削り出し、仁王を荒く彫刻したかのように魁偉な容貌の男であった。座っているというのに、なお座高が幽世より高い。

 が、幽世は臆する風もない。斟酌なく歩み寄ると、ひょいとその大男の顔を覗き込んだ。

「慶雲斎。勤行(ごんぎょう)はすみましたか?」

 にっこりと笑った。

 慶雲斎と呼ばれた巨躯の主は座禅を組み、摩利支天像の前でじっと瞑目していたが、幽世のそんな言葉にじろりと片目だけを開けると、への字に結んでいた髭もじゃらの口からゆっくりと息を吐いた。

「姫さま。またぞろ、厄介を持ち込んでまいられましたな?」

 野太い声で言った。名を玄田慶雲斎清継くろだきょううんさいきよつぐといい、時坂家第一の家臣であると同時に、幽世の傅役でもある。

 もとは三河の土豪だったが、武勇を見出されて父繁近の家臣となったという猛将である。今は仏門に帰依し慶雲斎という法名を名乗っているも、得度に至ったきっかけというのが合戦に出かけて屍山を築くこと十数度、さすがに後生が気がかりになったゆえというから凄まじい。

 繁近が主筋の義元に武功を認められ、彩樫城の城主を命ぜられたのも、この慶雲斎が立てた手柄のあったがゆえといっても過言はない。

 七尺(約二百十センチメートル)を越える巨体を持つ慶雲斎が行人包みに頭を覆い、具足に大長柄の薙刀や六角棒をひっ抱えて大立ち回りを繰り広げるさまは、鬼玄田とさえ恐れられたものだった。

 が、平時はそんな異名の片鱗さえ窺えない。妻帯せずに主君へ忠勤を尽くす慶雲斎にとり、幽世は娘にもひとしい存在と言える。

 先に告げた言葉も、別段非難や苦言といったものではなかった。じゃじゃ馬な姫御前へ向ける、やや諦念の混じったいらえに過ぎない。

 幽世も、この傅役には全幅の信頼を置いている。慶雲斎の前にちょこんと座ると、早速寺部城へゆきたいという希望を明かした。

「――なるほど。元信どのの初陣を、陰ながら手助けしたいと。そう仰せか」

 慶雲斎が髭を撫でながら、独語するように呟く。

 松平元信(のちの徳川家康)は、現在十七歳。今回の戦さが初陣である。義元のもとに人質として置かれている若者だが、利発で、義元幕下の将として将来を嘱望されている。

 この元信と幽世はかつて何度か会ったことがあり、互いに知り合う仲である。年齢も近く、幼い頃はよく遊んだものだった。

 遊んだといっても、愛想が悪くどちらかというと鈍重な元信を、幽世が引っ張りまわしたと言ったほうが正しいかもしれないが――。

「戦さは遊びではございませぬぞ。元信どのもおなごに(たす)けられたとあっては、武士の面目が立ちますまい」

「わたしも、そう思います。なので、秘密裡に。こっそり、こっそり。ね」

 幽世は屈託ない。右手の人差し指を立てると、それを唇に軽く添えて笑った。あくまで、揺籃の頃一緒に遊んだ昔馴染みを立てたいと思っている。

 が、寺部城に行きたいというのは、それだけが理由というわけでもなかった。

「寺部城は平城といえど、周囲の沼沢によって自然の要害と化しています。二郎右衛門どの(松平重吉)がご一緒なれば、よもや負けるということもございますまいが、それでも必勝を期したいと思っているのです。……それに」

 端坐する幽世は、一旦言葉を途切った。

 元信に従軍する松平重吉は、鳥居忠吉とならび岡崎総奉行を義元より命じられた勇士である。元信の率いる岡崎衆も祖父松平清康の頃より精強をもって知られており、寺部城を揉み潰すのは造作ないと、だれもが思っていた。

「なにか、ご懸念がおありのようでございますな?」

「……寺部城には〈あちらのもの〉がいると聞きました」

「なんと」

 慶雲斎は瞠目した。  

「いずくより、然様な報せを? ……いや、みなまで申されるな……。葦飼(あしかい)!」

 眉間に野太い指先を添えると、慶雲斎は突然怒号した。そして堂宇の一角に視線を向ける。

 いつの間にか、人がひとり佇んでいる。

 ほんの先ほどまで幽世と慶雲斎、ふたりきりだとばかり思われていた堂宇の壁板に凭れ掛かるように立っているのは、青地に白抜きのなんとも不可思議な紋様の着物に身を包んだ、二十歳程度とおぼしき青年である。

 いつの頃からか彩樫城に出入りするようになった野伏せりで、仔細の知れない男である。慶雲斎の呼んだ葦飼というのも本名ではないらしい。

 弓をよく使い、まるで翼でも有しているかのように現れ、また消えては、父繁近に有用な情報などを運んでくるため覚えもめでたく、今では自由に往来を許されている。

 第一、背がすらりと高く、見目がいい。

 所謂、蝦夷アイヌである。切れ長の眼差しが冷ややかで、白い肌とも相俟っていかにも北国の人間という風情であった。

 その葦飼は、慶雲斎に怒鳴られても平然としている。腕組みしたまま、睫毛の長い瞼を閉じて黙している姿は何を考えているのか知るよしもないが、深沈と思索に耽る様は隠者のようにどこか思慮深げにも見えた。

「姫さまになんでも、いらぬことを吹き込むのはやめい。うぬのお陰で、姫さまは寺部城にゆかれると仰せだ。困ったことになったぞ」

「いらぬこととはなんです。元信さまの進退がかかっているのですから、わたしどもがゆくのは当然ではありませんか」

 幽世が横手から憤慨したように口を挟んだ。

「しかし、姫さま……」

「どちらにせよ、〈あちらのもの〉は退けねばならぬのです。慶雲斎、支度を。……父上に気付かれぬよう」

「当然ながら、彩樫城の軍兵は連れてはゆけませぬぞ?」

「それも承知の上。……ですから、支度をと言っています」

 幽世はすっくと立ち上がった。

「……御意」

 慶雲斎は額を押さえ、それから深々と頭を下げた。幽世の言わんとしていることを理解したらしい。

 幽世は満足してにっこりと笑った。

 かくて、幽世姫のひそやかな出陣がここに決まった。


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