断片
俺は旅をしていた。
自分が何処から来たのか、何をしていたのか、そして何処へ行くのか。何一つ、俺にわかることは無い。自分の名前さえわからない。唯一わかっているのは、俺はある場所へ行かなければならない、そこに辿り着くまで旅を続けなければならない。それだけだった。
頼れる仲間も、親しい友も、自分を運んでくれる馬さえいない。俺は一人きりだった。
一箇所にじっとしていることもできなかった。町や村を転々とし、ある時は険しい山道を歩き、ある時は船に乗って旅を続けた。
宿に泊まる事だって滅多にない。町や村で働いた金があるときは安宿に泊まったりもするが、たいていは森や洞穴の中が寝床だった。
毎晩、同じ夢を見る。
灰色の空。灰色の大地。草一本生えない不毛の地。
俺はそこに立っていた。
よどんだ霧の中、うず高く積もった動物や人間の亡骸が見える。
俺以外の生命が存在しない、静まり返った死の世界。
俺は灰色の世界をさまよっていた。
ただひたすら歩き続け、足が棒のようになり、力尽きるかと思ったその時、目の前に何かが現れた。
見上げても頂点が見えないくらいの大樹。
しかし、その木も死んで灰色にしおれていた。
俺はその木に触る。
突然、俺は濃厚な闇に包まれ、そして…
いつもそこで目が覚める。
目覚めるたびに、俺は冷汗をかいて荒い息をしている。
これ以外の夢を見たことはないし、この夢の続きも見たことはない。
自分が何処に向かっているのかはさっぱりわからないが、ある時、大きな地図を見る機会があった。
歴史学者が集まる街の図書館に、この大陸全体の地図が飾ってあったのだ。
俺は、自分がたどってきた道を目で追った。
するとどうだろう。俺は街道や道しるべがあるわけでもないのに、まっすぐに北から南へと進んでいたことがわかった。そして、俺が今から向かおうとしている場所もまた、まっすぐ南にあった。
…俺は、何処へ行くのだろう?
毎晩見る夢は、いつも同じで、何も変わらなかった。
いつもと同じ夢を見て、いつもと同じように目覚めたある日。俺は食べ物も水も寝る場所も何もなくて困り果てていた。
全く人のいる気配がしない、深い山林を、俺は一人でさまよっていた。
…もうすぐ日没だ。
このあたりには狼が出る。急いで人のいる集落でも家でも見つけないと、命が危ない。
そう思った瞬間、俺の目に木々に隠れるようにして家が並んでいる、小さな集落が映った。まるで天が俺の願いを聞き届けたかのように、その集落はふいに現れた。
しかし、その集落の入口に辿り着いた瞬間、俺は疲労と空腹のあまり、その場にばったりと倒れてしまった。
…集落のほうから、人が走ってくるのが見える。
俺が覚えているのはそこまでだった。俺は意識を失った。
目を覚ました時、俺はベッドに仰向けになって、木の天井を見上げていた。
起き上がってみる。
小さな木の家だ。あの集落の家のどれかだろう。
ベッドの横のテーブルに、水と新鮮な果物が置いてあった。
それを見て、そういえば何も食べてなかったなと自分の空腹に気づき、あっという間にたいらげてしまった。
…この家の持ち主は誰なんだろう。
どうやらこの家の主人は、俺を寝かせたままどこかに行ってしまったようだ。
ベッドから出て、小さな家の中を見回す。
特に変わったものは置いていない。飾りといえば壁に掛かった大きめのタペストリーだけ。
ふと、タペストリーの柄が気になって、俺は近くでじっと見ようと、二、三歩前に出た。
タペストリーの模様を見て、俺はぎょっとした。
色とりどりの糸が描いていたのは、俺の夢に出てくるのと全く同じ形の、大きな木だった。ただ、俺の夢とは違って、タペストリーの木は豊かに葉を茂らせ、生き生きとしている。
そして俺は気がついた。
さっきまで寝ていたのに、俺はあの夢を見ていない…。
なぜだかわからないが、急に恐ろしくなって、俺は小さな家を飛び出した。
ドアを開けた瞬間に俺の目に入ったのは、家でも人でも森でもなく、大きな木だった。
後ろを振り返る。
今開けたドアも、飛び出した家も、集落も、森も、何も無くなっていた。
あるのはただ、だだっ広い草原と、頂点が見えないくらい大きく、豊かに葉を茂らせた一本の木。
おれはふらふらとその木に近づいた。
そして、夢と同じように、その木に触れた。
目の前が真っ暗になった。
目を覚ました俺がいた場所は、灰色だった。
灰色の空。灰色の大地。草一本生えない不毛の地。
俺はそこに立っている。
俺以外の生命が存在しない、静まり返った死の世界。
そして、目の前には灰色にしおれて死んだ大きな木。
…いつもと少し違うが、これは夢だ。
そう、これは夢だ。
「夢ではない。」
声がした。
俺の声だ。
俺の声?そんなはずはない。俺はさっきから一言も喋っていない。
俺以外に誰かいるのか?
おそるおそる、振り返る。
そこには俺がいた。
あの顔も、あの声も、俺のものだ。
そこに立っているのは間違いなく俺だった。
「これは夢ではない。」
夢でなければこれは一体、何だ?
「現実だ。お前が今まで現実だと思っていたものは、すべてお前の魔法が生み出した幻想だ。」
「魔法?…俺は、魔法が使えるのか?」
俺の心の声に、もう一人の俺が答えている。
「…お前は、誰なんだ?」
「お前自身に決まっているだろう。」
「…名前は?」
「思い出さないほうがいいんじゃないのか?」
「何故ここにいる?」
「これを見るがいい。」
そう言って、割れた水晶球の欠片を取り出したのはもう一人の俺だろうか。いや、俺自身か?
欠片を投げ上げ、魔法の呪文を唱えた。
水晶の欠片が映し出したのは、おぞましい光景だった。
俺は強力な、強力すぎるくらい強力な魔法使いだった。
俺は権力を欲していた。
この国を、この大陸を治めるだけにとどまらず、すべての人間を支配下に置こうとしていた。
俺は神になろうとしていた。
神になろうとして、強力な魔法を放っていた。
自然を操ろうとしていた。
生命を作り出そうとしていた。
全ての人間に魔法をかけようとしていた。
さらには、俺を止めようとして地上に降りてきた神にも、魔法で攻撃していた。
「…俺には力がある!俺がこの世界の主となるのだ!」
闇の色をしたローブをまとい、炎の色に輝く水晶球をかかげた俺は、残忍な表情で叫んでいた。
しかし、その強力な魔法を、俺は制御することができなかった。
暴走した魔力は、ありとあらゆるものを破壊していた。
自然も、生命も、俺自身も。
魔法に破壊された生命は、灰色の泥の塊となって積もっていった。世界はあっという間に灰色の、死の世界へと一変した。
「…嘘だ。…お、俺が、俺がこの、死の世界を創ったのか?」
「そうだ。全てお前が創りだしたのだ。」
「…神は?神は、何をしていたんだ?」
「神か。…神の力でもお前の暴走した魔法を止めることはできなかった。」
…俺は今まで、この過ちを忘れていたのか。
…最後に残った魔力で、幻想の世界を生み出し、その幻想にしがみつくことで、俺は現実から逃れようとしていた。
その幻想も、もうはじけ飛んで、消えてなくなってしまった。
「…俺は、どうすれば…。」
俺は頭を抱えてしゃがみこんだ。
足音がする。
俺に近づいてくる足音がする。
きっともう一人の俺だ。いや、俺自身か?
「顔を上げなさい。」
その声は、俺のものではなかった。
そっと顔を上げると、そこにあったのは見覚えのある顔だった。
そう、さっき水晶の欠片が見せた映像にも出てきたその顔の持ち主は、神、だった。
彼は右手に水晶球の欠片を持っていた。
「お前は罪深い行いをした。…持つべきでない力を手に入れていた。」
俺はただうなだれるだけだった。
「…ここにあるのは、お前と、この木だけだ。」
灰色に死んだ大きな木。
「お前にはもう生きる力は残っていない。…一片たりとも、だ。だが、この木には生きる力が残っている。」
そう言うと、彼は俺に水晶の欠片を手渡した。
「…これが、お前にできる、この世界への唯一の償いだ。この水晶球を使って、この木に力を与えなさい。」
神の言うとおりだ。俺は償いをしなければならない。
何故俺なんだ?神は俺を止めようともしなかった。俺のせいではない。神のせいだ。
全て滅びてなくなってしまえばいい。
命を繋がなければ。
全て俺の声だ。
俺の声がする。
俺は立ち上がり、水晶の欠片を投げ上げた。
『俺が滅ぼした命よ。』
…蘇れ。
目の前が真っ暗になった。
気がついたら旅をしていた。
俺は、俺自身のことが何一つわからない。
俺にわかっているのは、
今旅しているこの世界が、あらゆる命が存在する場所だということ。そして、この世界が現実であり続けなければならないということ。それだけだった。