そして僕らは無垢なる空へ
「先生! 美奈がトイレを我慢できなかったようですよ!」
僕は、コップに入った水を美奈の椅子にかけた。教室中がざわつく中、美奈は泣き出した。
当初は、美奈が好きだった。好きなのに、気付くと、彼女をいじめていた。
初めて出会ったときから、美奈を意識していた。
一年前──。
「優くんっていうんだ。いい名前だね。私は美奈。よろしくね、仲良くしてね」
美奈は、そう言って白い歯を覗かせた。
歯車が狂ったのは、つまらないことが原因だった。
美奈と席替えで隣になったとき、彼女の態度がそっけなく感じたような気がした。そこから、関係がおかしくなりはじめた。僕が美奈に話しかけると、彼女は僕の顔を見ない。なんだかよそよそしい。会話が減るたびに、僕の心は暗い朝を迎えるばかりだった。
小学校を卒業する前に美奈は転校していった。
僕が原因だ。
数年後、僕は高校に入学した。
僕の日常には、美奈に対する罪悪感が日々纏わりついていた。
どうして、美奈にあんなことをしてしまったのだろう。
いくら後悔しても、時間は巻き戻らない。
毎晩、夢を見た。硝子の欠片をひとつずつ集め、手が血まみれになり続けようとも拾い続ける。地獄のような夢だ。
偶然というものは必然なのだろうか。
僕と同じ高校に美奈がいるのを知ったのは、入学して三日過ぎたころだ。
左胸の奥が痛くなり、休みたくさえなった。
教室で細々とパンを齧っていると、僕の目の前に女子生徒が立った。
「優くんだね?」
「美奈⋯⋯」
それは、僕が小学校の頃、いじめていた美奈だった。この高校に入学していたのは、噂で知っていたが、こうも早く会うことになるとは思わず、心の準備ができていなかった。
「同じ高校だったんだ、これからよろしくね」
「あ、ああ⋯⋯」
美奈は数年前より、格段に美しくなっていた。二重のまぶたがはっきりわかり、鼻筋が前より通っていた。走ってきたのか頬が薄桜色に染まっている。
僕がいじめたことを忘れているのか。
──そんなはずがない。
「ねぇ、優くん。今日一緒に帰ろう?」
おかしい。
嘘だ、これはどういうことなんだ。
「うん⋯⋯」
「あ、休み時間終わっちゃう! またあとでね!」
美奈が教室を去ったあと、クラスの男子が近づいてきた。
「すごい美人だな、知り合いか?」
「ま、まあな」
「うらやましいな」
男子たちが僕のまわりに集まり、僕が話の主役になることになった。
放課後、校門の前に立っていると、美奈が現れた。
「お待たせ、優くん髪伸びたね」
「あ、そうかな⋯⋯」
会話はぎこちない。一方的に美奈が喋り、僕が頷くだけだ。
線路の踏み切りに近づいたとき、美奈は口を閉じた。電車がもうすぐやって来る。
僕は、美奈と並んだまま電車が通り過ぎるのを待つことにした。
「──優くん」
ふと、隣りにいるはずの美奈がいない。
「美奈?」
「──優くん、ここで私が優くんの背中を押したらどうなるのかな?」
僕は、背中を美奈に両手で撫でられた。
「美奈⋯⋯!?」
僕の背後で美奈は嘲笑った。
「⋯⋯僕を殺すつもりなのか?」
「そんなことするわけないじゃない、冗談だよ」
美奈は、ぎこちなく微笑み僕の手を握りしめた。
「優くん、少し寄り道して帰ろう」
僕らはひとけのない公園に来ていた。
「私さ、優くんが私をいじめていた理由わかるんだ」
いつのまにか、夜の帳が下りようとしている。
「私のこと好きなんでしょ?」
僕の左胸が高鳴る。
「うん⋯⋯好きだ」
「どうしてそう言わなかったの?」
「嫌われていると思って⋯⋯ほら、席替えのとき冷たかったよね⋯⋯」
「席替えのとき緊張して、あんな態度取っちゃったんだ私」
「緊張?」
「優くんを意識してたら、緊張するようになって──」
僕らは、それからお互いの過去の話をした。
「私ちょっとおかしくなるときがあるの」
「おかしくなるって⋯⋯」
「さっきみたいに⋯⋯」
「踏み切りで僕の背中を押そうとしたときか?」
「うん⋯⋯私の中の誰かが優くんを殺せって命令した」
その話をしているときだった。急に、美奈は目を伏せた。前髪で表情が見えない。
「美奈?」
「久しぶりに会えたね、優くん。さっき殺そうとしたのに美奈に邪魔されたよ」
姿形は美奈だが、様子が明らかに違う。目に光が宿っていない。
「⋯⋯お前は誰なんだ?」
「私はミナだ。美奈のもうひとつの人格さ」
公園に照明が灯る。
「さっき、僕を踏み切りで美奈が背中を押しかけたのもお前のせいだな?」
「ふふ、そのとおりさ。ボクは君を殺すために美奈の中で生まれてきたのだから」
ミナの話が終わると、彼女の体は糸の切れた操り人形のように地面に倒れた。
「美奈⋯⋯!」
「優くん⋯⋯私」
「今日はもう帰ろう!」
その日から悪夢が始まった。
美奈との事件があってから、数日が経った。彼女は、月一度メンタルクリニックに通っているらしい。
「優くん⋯⋯私と一緒にいるとまた迷惑かけるから極力会わないほうがいいのかもしれない。また優くんを危険な目に巻き込むよ」
暗い表情の美奈に、僕は首を横に振る。
「美奈のせいじゃない、僕が美奈をいじめたせいでアイツが生まれたんだ。それに危険なことくらい百も承知さ」
僕は、覚悟を決めた。
「美奈、僕と付き合ってくれないか?」
美奈は、少しのあいだ考えていたが、こくりと頷いた。
何年ぶりだろう、灰色の日常に色彩が戻ってきたのは。
デート帰り、美奈の様子が急変した。電車の中だったため、次の駅で降りることにした。
「⋯⋯美奈、大丈夫か?」
「うん、なんだか具合が悪くて。お手洗い行ってくるね」
美奈は、そう言い残し、女子トイレに消えた。しばらく待つと、前髪で表情が見えない彼女が女子トイレから出てくるのが見えた。
「お前⋯⋯本当の美奈か?」
「ふふ、優くんボクだよ。ミナさ」
ミナは、腰に手を当て口元を歪ませた。
「優くん、君と美奈が仲良くしているのが気に食わなくてね。いらいらしてるんだ」
僕の背中に冷たいものが走った。
「ボクいいこと思いついちゃった」
ミナは、プラットフォームのほうに視線を移した。
「ボクが電車に轢かれたら君は助けてくれるのかな?」
血の気が引くのがわかった。
「やめてくれ⋯⋯お願いだ」
「ふふふ」
直後、ミナは全力で走り出した。僕も力の限り走り出した。彼女は、人の中に消えていってしまった。完全に見失う。
「どこだ⋯⋯? どこにいる?」
僕は、プラットフォームに立ち、あたりを見渡した。人々が僕を怪訝な目で見ていく。
電車が来る。
背後で気配がした。
「優くん」
背中に手が触れられていた。
「ふふ、優くんの背中がらあきだよ」
「ミナ!?」
僕は、今度こそ覚悟した。
「く⋯⋯」
ミナの様子がおかしい。
「美奈め⋯⋯ボクが優くんを殺してやるっていってるのに拒絶している」
ミナはよろめく。
「優くん、私は元の美奈。帰ろう。ごめんね。こんなことして」
「あ、ああ⋯⋯」
美奈の顔色が悪い。その日はそのまま二人とも帰宅した。
美奈と行動をともにすればするほど、僕は命をミナに狙われていく。
気が休まらない日が続いた。
学校帰り、美奈は重い口を開く。
「私⋯⋯入院しようかな。優くんにこれ以上迷惑かけれないよ」
「僕は、迷惑なんて思ってないよ」
そうは言ったものの、僕も疲弊しきっていた。
「これは僕が美奈をいじめた罰なんだ。だから、僕は罰を受けなくちゃいけない」
夕陽が二人を照らしている。
「明日また学校でな」
「うん、優くんも気をつけて帰りなよ」
その日、僕らはそこで別れた。
次の日、美奈は登校して来なかった。
スマホで連絡しても、返事がない。
一日中嫌な予感しかしなかった。夜になり、スマホに美奈から連絡があった。
『隣町の廃墟に一人で来てほしい』
僕は、準備も整えぬまま隣町に急いだ。
その廃墟は、よく不良が集まる場所で有名なところだ。
あたりを懐中電灯で照らすと、硝子の破片やら壊れた物であふれかえっていた。
「美奈! どこにいる!?」
二階に上がると、奥の部屋に明かりが灯っている。
「⋯⋯そこにいるのか?」
部屋のドアを開けると、そこには──誰もいなかった。
「さよなら、優くん」
振り返り、気付くと、ナイフが僕の腹に深々と刺さっていた。僕は、その場で倒れ込んだ。
「──うぐっ⋯⋯!」
「ふふ、痛い? ねえねえ痛い?」
ミナは嘲笑う。
「報いを受け、天に帰るときがきたのさ。そう、無垢なる空にね。神が君を許してもボクが許さない。君はそれだけのことをしてきたのだから」
「ミナ⋯⋯」
「さあかーえろ、かーえろう、無垢なる空へ」
廃墟にミナの歌声が響く。
僕のまわりに血溜まりができている。
意識が遠のいていく。
僕は──死ぬのか?
「かーえろ、かーえろ、無垢なる空へ」
ミナは歌い続けている。
「美奈⋯⋯ミナ⋯⋯」
僕の意識は完全になくなった。
──消毒液の臭いがする。
目を開くと、そこは真っ白な病室だった。ベッドの上で動くと、刺された胸の傷が痛む。
あの事件から、僕は一命を取り留めた。おそらく、美奈が助けてくれた。彼女は、行方がわかってないらしい。
彼女は、今どこで何をしているのだろう?
数年後、僕は病院に通院していた。刺された後遺症も少し残っている。
今日は、病院に来ている。
僕は、待合室で本を読んでいた。
しばらくしてトイレの個室に入り、便座に腰を下ろした。
「⋯⋯優くん」
ふと、耳を澄ますと、誰かの声が聞こえる。
「かーえろ、かーえろ、無垢なる空へ」
誰かが歌っている。
見上げると、ミナがナイフを持ち、嘲笑っていた。




