入院4日目・通常病棟【ナースステーションは不眠不休の特等席】
上げて…………下げる! 編です。
よろしくお願いします。
朝食後である。
ベッド上での歯磨きはやはり慣れない――集中治療室の天井を眺めながら、ゆう太はまったりとそんなことを考えていた。天井の染みを数える余裕すらある。彼の体調はそこそこ良かった。
どうやら昨日までのダルさは全身麻酔、脱力感は筋弛緩剤によるものであったらしい。
そして手術には7時間ほどかかったとのことである。つまりは術後約40時間。それだけの時間が経過したことで、影響が軽減されたのだろう。呼吸の浅さは相変わらずであるが、気分はいい――と。
「大丈夫ですか!?」
「え!? はい、そこそこ!」
頬を緩ませて天井を見つめる姿を何かの異変か、その前兆とでも捉えたらしく、緑色の術衣を着た医師が結構な声量と共に肩を叩いてきた。
昨日、ミルキングをしてくれた医師である。ゆう太が慌てて顔を向けると、穏やかな笑みが向け返された。
「では消毒の時間ですので!」
「はい……!」
意識レベルとやらの確認でもしているのか、妙に強めの口調だった。穏やかな笑みとのギャップが恐ろしい。
そして、ささっとベッドに駆け寄って来た渡辺看護師がゆう太の術後衣の前を開けていく。実に手慣れたものである――いまだ生々しい手術痕。それを見て彼女の笑顔が力強さを増したような気がしないでもない。
それはさておき、医師はゆう太の胸に張られた透明なセロハン状のもの――医療用ドレッシング材を剥がすと滅菌ガーゼを取り出し、なにかの液体を染み込ませた。そして。
ぎゅぎゅぎゅぎゅ……!
手術痕に沿って、上から下に向かって強く拭く。
「いててててて!?」
「痛いですよね。でもしっかり消毒しないと大変なことになるので」
再び手術痕に沿って、上から下に強く拭く――
ぎゅぎゅぎゅぎゅ……!
「……!」
一流の医師が計算して作ったものにせよ、手術痕は傷口である。
触れられると痛い。強く触れられようものなら、とても痛い。摩擦力のあるガーゼで強く拭かれると走馬灯すら脳裏に映る。
ぎゅぎゅぎゅぎゅ……!
「もう少しですから」
「はい……!」
再びの鬼手仏心。だが笑顔はやっぱりやめてくれ――ゆう太が仏を連想させる穏やかな笑顔の恐怖に耐えること数分。消毒は終わった。
緑色の術衣を着た医師は手術痕に新しい医療用ドレッシング材を貼った後、また来ますと言い残してゆう太のベッドから去って行った。
「がんばりましたね」
「はい、どうも」
手術痕にも言ってあげてください――そんな冗談など思いついたようだが、渡辺看護師なら本当に言ってくれかねない。ゆう太はその冗談を脳内のごみ箱に放り込んだ後、天井の染みを数える作業に戻った。
・
・
昼食をそこそこ食べた後である。昨晩の死闘の影響か、ゆう太はうとうとしていた。と。
そこに緑色の術衣を着た医師がやって来た。昨日、ミルキングを担当してくれたのとは別の男性である――どうやらミルキングの時間らしい。
首の左側付け根が激痛タイムでもあるが、一度経験してしまえば驚くこともない。
(ささっと済ませてもらおう)
ゆう太にとっては痛みよりも、眠気に耐える方がきつかったようだった。
そしてミルキングが終わるとそのまま眠りにつく――が。
(ん!?)
少しして、驚きと共に目を覚ました。右の脇腹のあたりが凍ったように冷たい。
壊死。そんな言葉が脳裏にぴょこん! と思い浮かぶ――ゆう太は掛布団を思い切り跳ねのけた。
目に入ったのは、右の脇腹あたりが真っ赤に染まった術後衣。ほんの少しばかりの血の海だった。ドレーンが血のくしゃみでもしたのか、涙でも流したのか――とりあえず。
かちかちかち!
ゆう太はナースコールを16連射し始めた。
そして渡辺看護師が、ききき! とブレーキ音すら聞こえてきそうな勢いで駆けつけてくれた。彼女は大人の拳ほどの大きさの血の海を見て、口元に手をあてる。
「あらあら♪」
「……」
そして笑顔になにかの闇を足す。ゆう太は集中治療室が地獄なのだと、今さらながらに覚悟を決めた。
渡辺看護師は術後衣をてきぱきとばらばらに――鬼の怪力で引き裂いたわけではなく、ボタンで細かく留められていた――すると、血が付着していた辺りを滅菌ガーゼで拭いてくれた。
ぎゅぎゅぎゅぎゅ……!
「もう大丈夫ですからねぇ」
「ありがとうございます。助かりました」
原因は胸腔内の圧力云々――要は集中治療室あるあるのひとつであるらしい。
他のあるあるも一覧にしていただきたいところではあったが、いわくつきの廃墟に面白半分で近づいた者が恐怖のどん底に叩き落とされる系ホラーの主人公になってしまうような気がしたので、やめておくことにしたようである――そういうわけで、ゆう太は大人しく目を瞑った。
・
・
14時頃である。
ゆう太の手には呼吸用リハビリ器具――コーチングデバイス――が握られていた。
試験管のようなものが3つ連なっており、それぞれにプラスチックの球が入れられている。最初の試験管から出ている管を吸うと、吸い込んだ量に応じてプラスチックの球が順々に上がっていくという仕組みである。
健康な人なら簡単にすべての球を浮き上がらせることができるらしいが――
ふっ……こん!
ゆう太はひとつ目を3割ほど浮き上がらせるのが精いっぱいだった。
「……」
先は長い。ゆう太は心の中で嘆息した――と。そこに渡辺看護師がやって来た。やはり笑顔である。
「午後から一般病棟に戻れますよ!」
「本当ですか!?」
どうやら医師の許可が下りたらしく、15時から一般病棟で経過観察とのことである。
『もう一晩ここにいてください♪』
そんなことを笑顔で言われようものなら、冗談抜きで脱走を試みていたかもしれない。
ゆう太はご機嫌にコーチングデバイスを盛大に吸い鳴らした。
そして15時過ぎ。
ヘルパーの女性が荷物を一般病棟へと運び始めた。ゆう太はそれを眺めながら点滴棒1本だけを持って車椅子に座った。今までのお礼でも言おうと渡辺看護師を探す――
(……いた!)
少し離れたベッドに彼女の後ろ姿を見つけた。が、患者になにかの説明をしているようだった。ここは重い症状に苦しむ方々だけがくる場所である。その邪魔をするのは憚られた。
「……じゃあ、お願いします」
「はい」
ゆう太がそう言うと、看護師は車椅子を押し始めた。
点滴棒の滑車がからからと乾いた音を鳴らす――と、渡辺看護師が気づいたらしく、微笑んでくれた。ゆう太もぺこりと頭を下げる。
からからから……!
出口に進むたびに渡辺看護師の姿は小さくなっていく――だが彼女はいなくなりはしない。高度な知識と技術で、これからも多くの人々を看護していくのである。
もはや尊敬に値する――そんなことを考えた時、渡辺看護師がにひっと笑った。
(……?)
ゆう太は疑問符など浮かべながら集中治療室を後にした。そして。
ちん!
どうしてもこの音が耳につく。前世ではこの音が死因だったのかもしれない。
それはさておき、車椅子で運ばれたのは5階。手術前にいたフロアだった。もちろん2人部屋である。違うのはナースステーションすぐそばの病室だということだけである。
「ナースステーションから近いので、なにかあればすぐに駆け付けますから」
患者にとってこれほど心強いことはない。
なんという気遣いだろう――ゆう太は敬服した。そして点滴スタンドを手にベッドの縁に腰を下ろすと、すぐに禁止事項の説明が始まった。
1.起き上がる時に腕を後ろにつかない。
2.服を脱ぐときなど、胸を開く姿勢をとらない。
3.体を過度に捻らない。
4.寝返りの時に体を捻らないように。
5.腕を肩よりも上げる時は両手を上げるように。
また、術後4週間は片手で1.5Kg以上のものを持ち上げない。
両手でも5Kgのものを持ち上げない。
6.車の運転は控える。
どれもなるほどと納得できるものだった。が。
(寝返りの時に体を捻るな……?)
睡眠中は無意識である。夢の中で看護師が登場でもしてくれない限りは無理難題に思える。
そうは言っても、なにかあろうものなら集中治療室に戻ることになるのだから、守らなくてはならないが。
「以上です。お願いしますね」
「はい」
説明が要約されたプリントを渡した後、看護師はナースステーションに戻って行った。
そして自由に歩いて構わないとのことだったので、ゆう太は点滴棒を支えにゆっくりと立ち上がった。腹部にはドレーンが3本刺さったままである。左腕には点滴。脚力もどこか心もとない――が、歩くことはできる。
それはやっと取り戻した自由。ゆう太は点滴棒の滑車をからからと鳴らしながらフロアを見て回った。歩ける幸せなど噛みしめつつ、歩く。歩きながら、胸中ではうはうはだった。
(入院の山場は越えた……!)
おまけに2人部屋ではあるが、相部屋の人はいない。実質1人部屋である――快適な生活。要は楽勝である。
ゆう太は夕飯の時間まで歩きまくった後、テレビや動画サイトなどを視聴して快適に過ごした。
そして消灯時間である。ぐっすりと眠れるお休みの時間――
ぴりりりりりん♪
だが聞き覚えありまくりのアラート音がゆう太の背筋を凍りつかせた。彼は消灯を確認しに来た看護師に震える声で訊く――
「ええ、ナースステーション近くの部屋ですから」
「――!?」
どうやら、ナースステーション近くの部屋は、目が離せない患者の方々を優先的に入室させるものらしい。
手術直後のゆう太はもちろん、彼の隣の病室には徘徊しがちなおばあさんが入られており、部屋から出ようとするとアラートが鳴る。その向こうのおじいさんは点滴などを自分で抜いてしまうらしく、そういった時はアラートが鳴る――
ぴりりりりりん♪
「あ、ちょっと行ってきますね。田中さんも早く寝てくださいね」
「……はい」
ゆう太は力なくそう返してからベッドに戻った。彼の脳裏に渡辺看護師のにひっとした笑みがよみがえる――ベテラン看護師である彼女はわかっていたのだろう。
ゆう太の入院生活はまだこれからだということを――
『負けるかあああああああああああ!』
心の中で、心の底からの咆哮。
ゆう太は地獄の集中治療室の夜を思い出し、耐え抜く覚悟を決めたようだった。
お疲れさまでした。
次はエピローグです。




