入院3日目・集中治療室(前編)【カブト虫と腕相撲して負ける自信がある】
手術が終わって目を覚ましたら……編です。
よろしくお願いします。
『田中さん、起きてください!』
「……」
ゆう太は目を覚ました。窓から差し込む朝日が異常に眩しい――そして驚いた。
ここは集中治療室である。手術後は集中治療室で経過を見ると知らされていたので、それが原因ではない。もちろん、いつの間にか術後衣を着せられていたことでもなかった。
(すんげーダルい……)
全身の血液が水銀と入れ替わったようにダルく、意識は朦朧としている。なにより体が動かない。
比喩ではなく、本当に動かない。全力で筋肉を稼働させようとしたが、枕の位置を直すことすらできない――ゆう太は本気で驚いていた。
さらに水が肺に溜まっているらしく、普段の1割ほどしか空気を吸い込むことができない。
浅い呼吸の繰り返し。それはとても息苦しい。酸欠にならないのは、鼻に酸素チューブがありがたいほど深く挿入されているからだろう。拝み倒したいほどありがたい。
「気分はどうですか?」
「……」
最悪の上をいく最悪です――ゆう太はそう答えようとしたが、太めの管が口から胃まで挿入されているらしく、それは不可能だった。
「大丈夫そうですね」
何を根拠にそう判断したのか、女性の看護師――ネームタグには渡辺と書かれている――はにこにことゆう太を見下ろしている。彼女の笑顔に仮名ですと書かれてはいないが、仮名である。
それはさておき、渡辺看護師の説明不能な笑顔。その恐怖から逃れるように、ゆう太は横になったまま自分の体を見下ろした。血栓を防ぐためのフットポンプが両足にはめられており、両腕には当たり前のように点滴がぷすぷすと突き刺さっている。
そして腹部からは短い管――腹部にたまった血を抜くのに使うもので、ドレーンと呼ぶらしい――が3本ほどチンアナゴのごとくこんにちはをしていた。首筋には違和感。それに触れてみると、細長いなにかが皮膚に縫い付けられているようだった。
「太い血管に刺さった針です。抜いたりしないでくださいね?」
そんな危なっかしいものをテレビのコンセント感覚で抜き差しなんかしません――ゆう太は精一杯の突っ込みを入れたが、彼に超能力はなかったので、渡辺看護師には聞こえていなかっただろう。多分。
それからゆう太は首だけで辺りを見回した。
どうやら、この集中治療室はフロアの3割ほどをぶち抜いて造られたものであるらしい。10床ほどのベッドが横一列に並べられており、左右の壁には個室タイプのものが数床。
そして対岸は医療業務用スペースになっていた。ぴっぴっ! という電子音をBGMにして看護師たちが忙しそうに動き回っている――と。
『おはようございます!』
がっちりとした体格の医師がゆう太のベッドを訪れた。
今回の執刀医である。妙に迫力を感じさせる笑みで言ってきた。
「手術は成功しましたからね」
「……」
本当に? ゆう太は心の中でそう聞き返したが、またも超能力は発動しなかった。
その医師はモニターの数字を確認した後、にこにこと微笑む渡辺看護師に口の管――胃管を抜く指示をしてからゆう太のベッドを後にした。そして。
「では抜きますね」
「……」
渡辺看護師はゆう太の口元にテープで固定された胃管の端を強く握った。それも満面の笑みで。
底知れない嫌な予感。ゆう太の血圧が、がくんと下がる――次の瞬間、胃管は一気に引き抜かれた。
ぽん♪
こんな可愛らしい音ではなかったはずだが、ゆう太にはそう聞こえたようだった。
心の防御反応というやつなのか、耳に不具合が起きたのか――それはさておき。
『エイリアンに寄生されたら、最期はこんな感じなのだろう』
そんな感覚を味わったゆう太だったが、これで言葉だけは取り戻せた。
次いで渡辺看護師はベッドをまたぐように設置された台――オーバーベッドテーブルに朝食が載ったトレイを置いた。
「朝ごはんです。ちゃんと食べてくださいね」
「……」
それに対する答えはうげぇだったが、言葉を取り戻した第一声がそれではあまりにも幸先が悪いというものである――ゆう太は黙っていることにしたらしい。
そうこうしている間にベッドの頭部分がモーター音と共に起き上がり、ゆう太は朝食と対面した。漂ってくる匂いだけで精神ゲージがすごすごと縮んでいく――と。
「ちょっと……すごく気分が悪いんですけど……」
上半身が起こされた途端、ゆう太の内臓という内臓が元気いっぱいに器械体操を始めた――わけではなかったが、そう感じさせるほど気分が悪くなったようである。バス酔いと二日酔いをシェイクし、そこにカツ丼とウォッカを足して一気飲みしたような――渡辺看護師は、やはり笑顔でゆう太を見下ろしていた。
「点滴のお薬と相性が悪いとそうなっちゃうんですよねぇ」
集中治療室あるあるなんです。そんな軽さで言うと、彼女は笑顔のまま吐き気止めの点滴を取りに向かった。その途中、ふと立ち止まり、肩越しに顔だけでゆう太に振り向く。
「先に食べててくださいね」
「……」
今食べようものなら、食べたものがトランポリンみたいに跳ね返ってきますよ!? そんな突っ込みを入れる気力もなく、ゆう太は力なく微笑んだ。
「お薬待ってます……」
「そうですか? すぐ取ってきますからね」
ぱたぱたと小走りで去って行く渡辺看護師。彼女の白い背中を見送った後、ゆう太はダルさと脱力感、そして気分の悪さに押しつぶされるようにまぶたを閉じた。頭の中に山田医師の言葉が燦然と輝く。
『次の日から歩けますから』
この状態で歩ける者は人間ではあり得ない。
少なくとも心臓が2つ以上ある生命体だろう――そもそも両足にフットポンプがかしーん! はめられているのだから歩きようがない。よって足は4本以上。
騙された――否、これが必要な手術だったのは間違いない。
つまりは現在の状況も仕方のないことである。が、それでも心は少しだけ寒い。ゆう太がシーツと布団の狭間で凍えている間に点滴が用意され、吐き気だけは治まった。
「いっぱい食べてくださいね」
「……」
ゆう太は乾いた笑顔を返した後、改めて朝食を見やった。
左から、鉄分のパックジュース、オレンジゼリー、お粥。そして――おかずと思しき蓋付きの皿。
「……」
震える指でその蓋を取った――瞬間、何とも言えない味噌の香り。ゆう太はハエトリソウ級の素早さで蓋を閉めた。あとコンマ数秒遅れていたら、渡辺看護師に要らぬ手間をかけさせていただろう。
ちなみに鼻腔に漂う匂いから、鯖味噌だと考えられる。骨の太さは好きになれないが、別に嫌いなものでもない。が、この体調ではニンジン嫌いのお子様に、ニンジン100%ジュースを鼻から一気飲みさせるようなものである。またはカエルがアヒル丸呑みチャレンジに挑むような――
「ジュースとゼリーだけで……」
「そうですか? 気が向いたら食べてくださいね」
「……」
気が360度のどこを向こうが食べることはないだろう。そもそも気が向く向かないの問題ではない――ゆう太は純白のLEDを背に見下ろしてくる渡辺看護師の陰に沈んだ笑顔に対し、引きつった笑みを向け返した。
お疲れ様でした。
次は集中治療室の中編です。




