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愛情の研究者  作者: けつ
8/11

No.8

 色々あった夏休みが終わり、二学期が始まった。解の生活は大きな変化はないものの忙しかった。高校に銭湯の仕事、愛情研究会では日々の活動と共に児童虐待についても調べ、生徒会では校則を変えるための会議に向けて手伝いをした。

また、解は仲間達との関係も忙しかった。透矢とは変わりないものの、始音は校内でも銭湯でも今まで以上に積極的に解に話しかけるようになった。七海は少ししっかりしてきたが、解に甘える時は非常に甘えるために周囲と若干揉めることもあった。瀬奈は概ね解をフォローしてくれたが、時々わざと助けてくれない時もあり気難しかった。そこに麗や聖、クラスメイトが話しかけてくるので、コミュニケーション力の低い解にはなかなか大変だった。ただ幸いにも解は発作が出ることなく生活することができた。忙しい生活に少し慣れたのかもしれない。解としては発作がないと麗に心配をかけずに済むのでとても助かっていた。


そんな風に忙しい日々の中、今日も解は朝から学校にいた。

「おはよう、黒条。」「黒条君、おはよう。」

「おはよう。」

最近はクラスメイトからの挨拶にも慣れた。

「黒条、今日の英語の予習してないんだ、見せてくれ!」

「勉強した方がいいぞ。」

解は忠告しながらもノートを渡した。他にも色々と話しかけられるが、クラスメイトや教師との話はまだ慣れていなかった。それでも何とか話ができるのは透矢達のお陰だろう。解が心の中で透矢達に感謝していると、不意に目の前で手が振られた。女子の手だった。

「黒条君?聞いてる?」

「悪い、聞いてなかった。何だ?」

「親から聞いたんだけど、黒条君って銭湯と家を持ってるの?」

「持ってるってなんだよ、それ?」

「所有者という意味なら持ってるな。」

「わあっ、やっぱり!すごいね黒条君、お金持ちなんだ!」

「ん?うーん…。」

相続しただけなのでお金持ちではない。解は女子の勘違いを正そうと口を開きかけた。

「ええと…。」

その時、解の後ろから透矢がやって来た。

「ほらほら、先生がきたぜ。話は終わりだ、お前等。」

「おう、茅野。おはよう。」

「あれ、始音先生は?まあいっか、じゃあね、黒条君。また教えてね!」

透矢は散っていくクラスメイトを笑いながら見届け席に着いた。透矢の目の奥は笑っていないので、どうやらクラスメイトに苛ついたようだ。解には理由までは分からないが、とりあえず普通に話しかけることにした。

「堤先生は来てないのか。何か聞いてるか?」

「いや、特には。霧谷か川野辺には連絡が来てるかもしれないな。」

返事をした透矢はいつも通りだった。苛立ちは大したことではなかったようだ。解は少し安心して教壇を見た。今前にいるのは隣のクラスの担任教師だった(当然だが解は覚えてない)。

「えー、今日、堤先生は風邪でお休みされる。何日か休むかもしれないので、明日からも確認しておくように。では…。」

教師はその後いくつか説明をして去っていった。始音がホームルームに来ないのは初めてなので、解にとっては少し違和感ある一日の始まりだった。


 放課後、解達はいつものように同好会室に集まっていたが、話は始音のことになった。

「始音先生、今日は風邪でお休みなんですよね。様子を聞きたいけど、寝てたら悪いですよね。」

「先生から連絡が来た時に聞いたけど、38.5度の熱と喉の痛みだけだから大丈夫だって返ってきたよ。」

「結構熱高くないですか?お見舞いに行った方がいいんじゃないでしょうか?」

七海は隣にいる解の顔を覗き込んだ。最近は解の隣か、髪の毛を手入れできる解の背中が七海の定位置だった。解は解で七海に慣れてきたのか、近くても気にせず話をした。

「いや、時期と症状から考えると夏風邪かコロナだろう。うつったら始音が気にするだろうから、行くなら少人数だな。」

「行ってあげたいけど、確かに私達にうつったら先生も責任感じちゃうよね。郵便受けに差し入れと手紙を入れるとかは?」

「お大事に、とかの連絡だけして行かないのもありだぞ。先生も大人なんだから、自分のことは自分でできるだろ。」

透矢らしい淡白な意見だが、もっともな意見だ。しかし、お見舞いしよう派の七海が力説した。

「でも風邪の時に一人でいると、何だか心細く感じてきませんか?そういう時に誰か側にいてくれたら嬉しいと思いますよ。」

「それも含めての何もしない案なんだがな。どうする、解?何がいい?」

「俺が決めるのか?」

解は全員を見回したが、全員解を見ていた。どうやら解が決めろということらしい。

「始音に聞いてもお見舞いは断るだろうな…。感染症だけを考えると非接触が一番なんだが…。」

ちらちらと解の頭をよぎるのは夏休みでの始音との会話だ。キスされて好きだと言われたのに、解はまだ返事をしていなかった。始音の態度が今までと変わらないのも、何となく申し訳なかった。

「…。」

「おーい、解君―?」

「『返事がない、ただの屍のようだ。』」

「へえ、川野辺がその手のネタを出すなんてな。」

「えへへ、結構ゲーム好きなんです。」

「よし。俺が様子を見に行く。」

「「え?」」

いきなり解は思考の海から戻ってきて方針を決めたので、瀬奈と七海は驚いてしまった。透矢だけは驚いておらず、冷静に解に尋ねた。

「ほお、なんでその結論になった?」

「いや、俺が始音に私用があるから、見舞いついでに話をしに行きたいだけだ。折角意見を出してくれたのに悪いんだが。」

「それは全然いいんですけど、始音先生の所に先輩一人で、ですか…?」

七海は複雑な気分だった。始音と解を心配する気持ち、解一人で始音の家に行くことへの漠然とした不快感が混ざった顔だった。ちなみに七海は自分が感じている不快感が嫉妬だと気付いていたが、自分勝手なことを言わないよう努めていた。なので、今回も反対まではしなかった。そして解は七海の乙女心に全く気付かないまま質問に答えた。

「可能なら俺だけでと思っただけだ。そもそも始音がある程度元気じゃないと話はできないしな。…誰か一緒に来るか?」

「私は行かないでおこうかな…。」

「うう…私も遠慮しておきます…。」

瀬奈に続いて七海も解の誘いを断った。瀬奈は解と始音の事情を知るが故に苦笑いを浮かべ、七海はついて行きたいが解の邪魔をしないよう我慢していた。

「…いいのか?」

「いいんだって。ほら、住所と地図を書いたから行ってこい。」

「あ、ああ。」

透矢は瀬奈と七海を気にする解にメモを押しつけ、解の背中を押して送り出した。


解が部屋を出て行った後、戸を閉めながら透矢は呆れるように笑った。

「お前等、その顔じゃ解も行きにくいだろ。ついて行かないならもう少し自分の感情を隠したらどうだ?」

「わ、私は別に何も。ただ、あの二人が家で話すと思ったら、ちょっと、ね…。」

「ほお?あの二人に何かあったんだな。確かに、最近少し様子が変わったよな。知ってるなら教えてくれよ。」

「絶対やだ。」

「くくく。そう言うと思ったよ。まあ、いくらか予想できるけどな。…にしても、川野辺はさっきから黙ってどうした?」

透矢と瀬奈が話している間、七海は俯いたままだった。さすがに気になった透矢が話を振ったが、七海はしばらく黙ったままだった。しかしゆっくり顔を起こし、悩みがありそうな顔を瀬奈達に見せた。

「瀬奈先輩達に相談してもいいですか?」

「なになに?何でも聞くよ。」

「ああ。好きに言っちゃってくれ。」

わざと軽い調子で対応する二人に感謝しつつ七海は少し恥ずかしそうに話し始めた。

「ありがとうございます。あの…私、実は先輩が好きなんですけど…。」

「「知ってる。」」

「そ、そうですか?それでですね、最近先輩が誰かといるともやっとするんです。さっきの話でももやっとしたんですが、これって嫉妬ですよね?」

「そうだね。」

「そうだろうな。」

「私の好きって、愛情研究会的には何なんでしょうか?自分では恋愛とは思ってないんですが、最近気になってきて…。」

「恋愛だよ。」

何を当たり前のことを、とでも言うかのように瀬奈はあっさりと答えた。むしろ他に何があると言うのか。

「で、でも、始音先生や瀬奈先輩が先輩の恋人になっても別に大丈夫なんですよ?」

「な、なんで私を出すの⁉」

「え?先輩のこと好きじゃないんですか?」

「き、嫌いじゃないけど…。恋人になりたいかどうかは、その…。」

こんこん、と机を叩く音がした。透矢だ。

「まあ落ち着け。それなら今日は解も堤先生もいないし、お前らの愛情がなんなのか考えてみるか。」

「はい!茅野先輩、よろしくお願いします!」

「えぇ、私も…?」

自分の感情を知りたい七海は元気に返事をしたが、瀬奈はすごく嫌そうだった。透矢にからかわれるのも嫌だが、それ以上に自分の気持ちを考えたくなかった。が、透矢がそんな弱さを許すわけがなかった。

「せっかくだしやってみろって。ちっ、解のタブレットがないと話しにくいな。仕方ない、覚えてる範囲で考えるか。…確か真さんは友情と愛情の違いに唯一性、性的欲求、依存があるとか言ってたが、どうだ?」

「そうですね。じゃあそれで考えてみましょう!」

「ああ。まずは唯一性からだ。解がお前等にとってオンリーワンかどうか、だな。」

「…解君は個性がすごく強いから、友達でも恋人でも、私達にとっては唯一の存在なんじゃない?」

瀬奈はぼそっと透矢につっこんだ。参加する流れである以上無視はしないが、楽しんでもいないというせめてもの意思表示だった。透矢はにやりと笑いながら答えた。

「確かにな。じゃあ次、お前等は解とエロいことができるか?」

「エ、エッチなこと、ですか?」

「う…。」

答えにくそうな二人に透矢は呆れていた。

「この程度でいちいち照れるなよ。あ、セクハラって言うなよ。質問する以上は仕方ないんだからな。」

「言わないってば。あのー、答えって。」

「…私は先輩ならしてもいいかと!」

「言っちゃうかあ…!」

瀬奈は『答えって言わなくていいよね?』と言おうとしたが、七海の発言で退路を断たれた。苦笑する透矢を見ないよう目を閉じて深呼吸した。…解がいなくて良かった。まあ、いたら言うわけないが…。

「…ああもう!私もいいよ!はい、終わり!」

「悪いがついでにもう一つ。俺とはどうだ?」

「いや。」「す、すみません。」

透矢は即座に関係を断られて笑い出した。断られても全く気にならなかった。瀬奈達にすら嫌悪感を抱いているのだから当然だが。

「くくくっ。そうそう、そうやってはっきり言えばいいんだよ。で、俺は駄目で解はいいって事実は大事だよな。じゃあ最後の項目、依存だ。」

「依存はしてないと思う。だって、解君にあれしてこれしてって言ってないもん。」

私は無関係です、とでも言いたげな瀬奈だったが、反対に七海はやや深刻そうな顔だ。

「髪は触らせてもらってるし、頭は撫でてもらってます…。ってことは、私は先輩に依存してるんでしょうか?」

「だな。手軽なことでも相手に甘えているなら一種の依存だ。…さて、後聞くこととして、全然知らない奴と解が付き合ったら嫌か?」

「えー、それは嫌です!」

「…私も、なんか嫌かも。」

透矢の質問に七海は即座に、瀬奈はしばらく考えた後に答えた。性格の差がよく出ている好例だが、今着眼すべきはそこではないので透矢は次の質問を出した。

「なら霧谷は川野辺が、川野辺は霧谷が解の彼女になったらどうだ?」

「お二人が恋人だったら素敵ですね!応援しますよ!」

「そ、そうなの…?私は何とも言えないかな。いいような、寂しいような…。」

「そうかそうか。…よし、お疲れさん。じゃあ結果を考えるか。」

透矢は後頭部を掻きながらノートを見直した。タブレットに記録できるようにうまく編集しないと、二人に怒られそうだ。

「川野辺は全ての項目、依存の項目以外は霧谷も項目を満たしてるよな。解と知らない相手とのカップリングが嫌ってのも解への独占欲を示してるし、やっぱりお前等の解への愛情は恋愛だとしか言えないだろ。」

「そ、そうなんですか。」

「うー…。」

「だって考えてみろよ、解と恋人同士になっても別に嫌じゃないだろ?」

「…ま、まあ嫌じゃないけど。」

「そんな、私が先輩の恋人なんて恐れ多いです!」

「でもな、恋人にでもならないと解にずっと甘えるなんてできないぜ。解といられなくなったら嫌だろ?」

「は…!それは確かに嫌です…!」

「だろ?とにかく、愛情研究会からすればお前等の愛情は恋愛だ。ただ友情や兄妹愛とか、他の愛情も同居してるから分かりにくいだけだ。」

最初から結論は分かっていたが、二人の様子が面白くて遊んでしまった。心の中で透矢はにやにやしつつ二人に詫びた。ここで、透矢の話を聞いた七海が手を上げた。

「私が初恋してたのは分かりました。でも、瀬奈先輩や始音先生が先輩と付き合っても嫌じゃないのはどうしてなんですか?」

「それ、多分私達と友達だからだよ。私達が解君と付き合う不快感よりも、私達への友情が強いって感じかな。」

「くっくっく。『自分への友情が強い』なんて自分から言うか?」

「なら茅野君が言ってよ!どうせ全部分かって言ってるんでしょ?」

「まあな。でも有意義だっただろ。自分の感情に気付けて、しかもライバルとも仲良くできて。」

「くっ…。」

七海の相談がこの話の始まりなのに、最初から全て透矢の計画通りなんじゃないかと感じてきた。こんなことを言っているが、本当は恋愛を理由に争う様子を見たいだけでは、とすら一瞬疑ってしまった。瀬奈はジト目で透矢を見て尋ねた。

「…茅野君は結局、私達にどうしろって言うの?」

「そりゃお前等が決めることだ。今まで通りでもいい、堤先生のように解にアプローチしてもいい、誰かを応援してもいい。何もかも自由だ。俺はお前達が自由に生きるところが見たいんだよ。」

「何もかも自由、ですか…。」

透矢が珍しく真面目な雰囲気で語ったので、七海も思わず神妙な様子になった。自分が何をしたいのかはまだ分からないが、解だけでなく皆と仲良くいたいと思った。

「…私は別に何もしないからね。付き合ってもいいと付き合いたいは違うんだから。」

瀬奈は自分の気持ちを認めさせられたのが悔しくてぶちぶちと文句を言った。ただ、今まで誤魔化していた気持ちがはっきりしたことで、少しだけ気分がすっきりした。ここだけは透矢に感謝してもいいかも、と思った。



 透矢達がある意味で恋バナをしている時、解は始音の住むマンションに来た。誰も見ていないことを適宜確認しながら来たためか、少し気疲れしていた。マンションの玄関で始音の部屋番号を鳴らした。…返事がない。

「…寝てるかもしれないな。」

寝てたら悪いなとは思ったが、もう一度鳴らしてみた。しばらくして、反応があった。

「はい、堤ですが。」

始音の声は元気がなかった。やっぱり来ない方が良かったかもしれない。

「ええと、始音?解なんだが、開けてくれるか?」

「へっ?解君⁉ちょ、ちょっと待って!」

ぷちっと通話が切れて静かになった。解は待ったが、オートロックは開かなかった。

「………あ。」

さらにしばらく待つとようやくロックが開いたので、解はエレベーターに乗って始音の部屋に向かった。玄関に立ち、インターホンを鳴らした。ととと、と中から音がしてドアが開いた。

「ごめんなさい。遅くなったけど、ど、どうぞ?」

「入っていいのか?」

「え、ええ。だってお見舞いでしょ?せっかく来たんだし、入ったらいいわ。」

「なら遠慮なく。失礼します。」

始音の部屋はシンプルな部屋で、解としては綺麗で好感が持てるものだった。

「お茶でも出すから座って待ってて。」

「駄目に決まってるだろう。病人は寝てろ。」

解はキッチンに立つ始音の手を掴みベッドまで引っ張っていった。そして、やや力ずくで始音を布団に入らせてから、テーブルに持ってきた荷物を置いた。

「家にある解熱薬、鎮咳薬を持ってきた。あとは飲み物とゼリーとかだな。」

「ありがとう…。」

「聞くのが遅くなって悪いが、体調はどうだ?病院で検査したのか?」

「コロナは陰性だから夏風邪だろうって。症状は熱と軽い咳と喉の痛みくらいよ。熱も解熱薬を飲んで38度ってところ。症状が消えたら仕事していいとは言われたわ。」

始音が解を見上げて話すと、解は顎に手を当てて考え事を始めた。始音は解の顔を見ながらふふっと笑った。解の真面目なところは好きだが、いつもはじっくり見ることもできない。しかし、今は自分だけが解を見ていて、解は自分だけを見ている。風邪も役得ね、なんて思ってしまった。だが目の前の解は始音の思いとは関係なく真剣な顔をしていた。

「夏風邪にも色々あるが、大人は症状が強く出やすい。解熱薬込みで38度なら39度くらいはあるかもしれないな。どうあれ原因がウイルス疑いなら自然治癒を待つしかないか。」

「さすがね、解君は。」

言ってないが、薬を飲む前は39.2度だった。抗生剤は今はいらないと言われたところも一緒だ。

「水分はとってるか?食事は?」

「食事は朝から食べてないわ。でも食欲がないからいいの。水分はちょっとずつ。」

「分かった。飲み物、枕元に置いておくぞ。それと、台所を借りるからな。」

「え…。何か作るの?」

解がペットボトルを置いて立ち上がったので、始音は少し驚きながら尋ねた。そこまでしてくれるとは思っていなかった。だが作ってくれるなら嬉しい。やはり好きな人の料理は食べたいものだ。

「簡単におじやでも作るから待ってろ。」

解は初めてのキッチンの割に、冷凍庫を見たり鍋を取り出したりと手際よく料理していった。始音は解に悪いと思いながら、夫に看病してもらっている妻のようだと思いにやにやしていた。


 すぐにおじやはできて、解がベッドの脇に器を持ちながら座った。

「どうぞ。ただ無理して食べなくていい。ゼリーもあるからな。」

始音は起き上がってにっこりした。せっかくならわがままを言わせてもらおう。解だったら嫌なら嫌と言うはずだ。

「良かったら食べさせて?」

「子供だな。…はい。」

解はスプーンですくったおじやを息で冷まし、始音の口に持っていった。さすがに「あーん」とは言わないようだ。

「ええ。…うん、美味しい。ありがとう。」

おじやは卵入りで薄味に作られていて、風邪の始音でも食べやすかった。始音は解の気遣いが嬉しくて、素直に笑顔でお礼を言えた。解は始音がいつもと同じ笑顔だったので少し安心した。安心したと同時に、今の始音なら話してもいいかと判断した。

「…始音。少し、話してもいいか?」

「んー?んん、いいわよ。何?」

始音は食べさせてもらいながら表面上は落ち着いて答えた。話の内容はおそらく告白の返事についてだろう。予想はできているが違う可能性ももちろんあるので、見た目は落ち着いていても心の中は冷静ではなかった。体が熱くなる感覚があった。

「お前に好きと言われてから色々考えたが、まだ恋愛が分かってないままだ。その、申し訳ないんだが、まだ返事は待ってくれないか?…はい。」

「ん…。ええ、もちろん。言ったでしょ、解君が納得するまで待つって。まあ、卒業までには教えて欲しいけど。」

「さすがに卒業までにはちゃんと答える。…はい。」

解は割と緊張して話していたが、食べさせる作業が間に入るので今一つ緊張感に欠けた。とにかく、始音が待ってくれるのが分かり安心したので、まずはおじやを食べてもらうことにした。

………(15分ほど経過)。

 冷まして始音の口に運ぶ、その動作を繰り返して食事は終わった。量は少なめにしたつもりだが、始音が食べ終わるには少し時間がかかった。食器を洗い片付けた後、再び解はベッドの側に座った。

「始音、返事を待ってくれるのは正直助かる。ただ、お前を待たせてしまうから、本当にすまない。」

「別にいいって言ってるのに。まあ、そんなに言うなら…。」

始音はにやりと笑うと、次の瞬間には解を床に押し倒した。火照った顔で解を見下ろす始音は綺麗だった。

「待ってあげる代わりに、ご褒美が欲しいな、なんて思うの。駄目かしら?」

始音は解に顔を寄せて妖しく笑った。始音の息は荒く手首を掴んだ手は汗ばんでおり、風邪のせいなのか動いて興奮しているのか、解には判別できなかった。しかし、今はとにかく始音を止めなければならない。最近の始音は二人きりになると活動的になるのか、何をしてくるか分からない。そして、万一なし崩しで肉体関係になってしまっては始音に申し訳ない。

「始音。悪いがそこまでに…始音?」

「う、うん…。解君、ちょっとごめん…。」

始音は苦しそうに言うと、四つん這いになった体を解に預けた、もとい倒れ込んだ。解はすぐ体を起こして始音の様子をみたが、失神ではなく軽い立ち眩みのようだ。意識はちゃんとあり、ぼそぼそと呟いていた。

「うう、くらくらする…。」

「…やれやれ。まだ熱があるのに急に動くからだ。よっ…と…。」

解はため息を吐いて始音を抱き上げた。始音は恥ずかしがったり嫌がったりせず解に体を預けていた。そのまま始音をベッドに寝かせ、水分をとらせ、枕元で様子を見守った。始音はまだくらくらするのか、眉間にしわを寄せしんどそうだった。

「うーん…。」

「…俺が話をしたから無理させたな。悪い。」

責任を感じた解は始音の額に手を当てた。始音は解の手がひんやりして気持ちいいらしく、表情が幾分和らいだ。解は少し安心して、そのまま始音の頭をゆっくりと撫でていた。始音の髪はさらさら、まっすぐであり、触り心地が良かった。

「…!」

ばっ。

 解は素早く、そして音もなく始音の頭から手を引いた。自覚するまでずっと始音の頭を撫でていたからだ。…最近女性の頭を撫でることが増えたが、もしかしたら相手をいたわっての行動ではなく、自分が触りたいだけなのかもしれない。とすると、自分の行為はただのセクハラなので止めなければならない。…しかし、始音は俺を好きと告げ、今も撫でられて穏やかな顔になった。始音が喜んでいるなら撫でていた方がよいのだろうか…?

 もやもやしながら解は改めて始音を見た。始音はすやすやと眠っていた。頭を撫でる意味がなくなり、解はほっと一息ついた。

「…よし。」

解は静かに立ち上がると台所に向かった。始音が休むことに専念できるよう、色々やってから帰るつもりだった。


「う…ん。」

始音が目を覚ました時、解は部屋にいなかった。解が来た時から4時間ほど経っていた。

「寝ちゃったのか…。」

始音はぼんやりする頭で解がいないことを残念に思いながら、のそのそと自分の体を動かして調子を確認した。…熱は下がった感じがある。元気も少しでてきたようだ。ただ、頭がぼけっとしていて、おじやを食べた後の記憶が曖昧だった。解と告白について話した以外、他に何があったかは思い出せなかった。

ふと、テーブルにメモが置いてあることに気付いた。今時紙のメモなんて逆に洒落てるなと思いながらメモを拾い上げた。


 始音へ

・おにぎりとだし巻き卵、みそ汁を作ったので良ければ食べてくれ。

・洗濯機の中身はたたんである。片づけは場所が分からないのでしてない。

・見える範囲で掃除をしておいた。

・解熱薬=鎮痛薬は6~8時間ごとに使えるから、体調に合わせて使うように。吐き気止め、咳止めも念のため置いていく。

邪魔して悪かったが、話せて良かった。ありがとう。お大事に。   黒条解


「相変わらず固いわね。……って、え⁉」

始音は洗濯機の所へ走っていき、洗濯かごの中を見た。確かに全てたたまれている。…下着も。

「ああぁぁ…。」

普段使いの下着は色気も可愛らしさも全くなかった。解は下着のことなど気にしている・覚えているはずがない。しかし、好きな人にださい下着を見られたという事実は、始音にとって穴があったら入りたいほど恥ずかしいことだった。落ち込んだ始音はのろのろとベッドに戻ると布団の中で丸くなり、しばらく出てこなかった。



「とにかく、人の洗濯物を勝手にたたんだら駄目です。分かった?」

解から報告をされた瀬奈は呆れると同時に始音に同情した。下着(しかも普段の)なんて、見られたらどれだけ恥ずかしいか。

「はい、分かりました…。」

解は番台に座ったまま敬語で謝った。女性の下着はいつも麗のものを見ているから慣れていたのだが、それは言い訳にならないらしく話を聞いた瀬奈が怒ってしまった。ただ、解が謝ると瀬奈も溜飲が下がったようだ。

「うんうん。まあ、悪いことはしてないんだけどね。」

 二人は今銭湯で番台に並んで座っていた。瀬奈はそもそもお風呂に入りに来たのだが、先に始音の家でどうなったかを解から聞いていた。お客に解が対応し、瀬奈が笑顔で見送る、それを繰り返しながら二人は話をしていた。

「それで、その…話はできたの?」

瀬奈は躊躇いがちに、だが一番気になっていたことを尋ねた。聞くのは野暮だと分かっているのだが、昼間の透矢のせいで聞いてしまった。

「ああ。といっても、返事はまだ待ってくれとお願いして、追加で謝っただけだ。」

「それで、始音先生は何て?」

「卒業までには教えてほしいと言ってたな。ただ、その後『ご褒美が欲しい』とか言って押し倒された。」

「ぶふっ!ごほっ、ご、ごめん!」

「俺はいいが、大丈夫か?」

瀬奈は思わずお茶を吹き出してしまい、解に心配されつつ濡れた箇所を拭いてもらった。なんて格好悪い…。

「私は大丈夫、びっくりしただけ。そ、それより押し倒されたって何?」

「床で馬乗りになって抱きついてきた。」

「始音先生…!」

瀬奈は眩暈すら感じて指で額を押さえた。風邪なのに何してんですか⁉と問い詰めてやりたかった。

「で、そのまま?」

「そのまま?…その後のことか?」

「うんうん。」

「止めようと思ったら始音が立ち眩みで倒れた。それから始音をベッドに寝かせて、後はさっき話した通りだ。」

「…ふう。そうだったんだ。」

押し倒されたその後が何もなかったので、瀬奈は拍子抜けしてしまった。一瞬嘘かとも疑ったが、解が嘘を吐くとは思えない。ついでに解は嘘が下手なので、やはり本当なのだろう。

「でも、そのまま流されなかったんだ?せっかく始音先生と二人っきりだったのにね。」

瀬奈は少し不機嫌な様子で、挑発するように解に言った。しかし、解はいつも通り真面目かつ無表情な顔で答えた。

「流されて関係を持つほどいい加減じゃない。何より始音に失礼だ。」

「そう?だって始音先生から来たのに?」

「流されるような人間を好きになったことになるだろう。始音が俺を好きだと言うなら、俺は始音が見る『俺』に見合う人物でいるべきだ。…まあ、どうしたらいいのかはよく分からないんだが。」

「…はあ。相変わらずだね…。」

瀬奈は馬鹿真面目な解の言い分に苦笑した。相手に失望されない自分でいるべき、なんて大抵の人は思わないだろう。まして解自身が始音を好きなのではないのだから尚更だ。本当に解は変わっている。まあ、そういうところが好きなんだろう。

「ん?何か言ったか?」

「な、何にも!」

瀬奈は慌てて返事をした後、気持ちを静めるために目を閉じて深呼吸した。透矢と話したせいで今日一日、ずっと恋愛脳になっている気がした。放課後の話をいっそのこと忘れてしまいたいが、透矢の言葉が耳にこびりついていた。

『何もかもお前等の自由だ。』

忘れるも自由、忘れないのも自由。行動してもしなくてもいい。自由とは善意であり悪意でもあるのだと分かった。

「あーあ、何もかも自由、かあ…。」

始音や七海のように積極的ではないし、麗のように魅力的でもない自分に何をしろと?いや、自分で決めろという話なのだが。

「進路の話か?」

「え?えっと、まあそんなところ。」

「瀬奈には助けてもらっているからな。俺で良ければ話を聞くぞ?」

「ありがとう。ええと…。そもそも、解君ってなんで高校に行くことにしたの?」

瀬奈は自分の恋愛話はできないので、代わりに前から気になってきたことを聞いてみた。

「解君はどうせ大学と同じ感覚でしょ?だから、高校に行かないこともあったのかなって。」

進学していなければ解と出会わなかったのかもしれないので、瀬奈にとっては割と大事な話だ。ただ、尋ねられた解は渋い顔、というかばつの悪い顔をしていた。

「高校か…。あまりいい話じゃないが、知りたいのか?」

「うん。解君の情けない話なんてほとんどないし、もっと興味出た。」

「そんなものか…?まあ、隠す理由はないからな。」

そう言って解はぼそぼそと話し始めた。



「ぶぇっ!」

腹を蹴られた高校生くらいの男が豚のような声を出して地面に転がった。倒れた男の周りには他にも学生っぽい男が三人いたが、倒れた仲間を助けもせずに前の相手を睨んでいた。そして蹴りつけた当人、解がゆっくりと前に出た。

「喧嘩を売るならもっと強くなってからにしろ。殺されても文句は言えないぞ。」

言い終わると同時に解は倒れている高校生を蹴り上げ、さらに転がした。解は多少怪我をしていたが、男達を睨みつける目は力強く、全身からは暗く鋭い危険な雰囲気を纏っていた。

「畜生…。なめんな!」

立っている一人が解に襲いかかった。大ぶりのパンチは解に簡単に避けられた。

真は体に異常が出始めた時でも目の前にいる男達より強かった。そんな真は呆気なく癌で死んだのに、どうして弱い自分やこの男達が大した苦労もなく生きているのだろう。こんな奴等が笑顔でいられるのだろう。

 苛立ちに任せて解は相手の腕を掴んで引き倒し、倒れた相手の腹を勢いよく踏みつけた。

「がっ…。」

解は苦しむ相手の脇を蹴り動けなくした後、他の二人を睨んだ。

「助ける気もない、敵を倒そうともしない。なら、殴られるためにいるのか…?」

「ううっ…。」

「うわあぁ!」

残った二人は走って逃げ出し、後には解と苦しむ二人が残された。

「…ふう。」

解は苛立つ心を抑えて歩き出した。倒れている二人は動き始めていて、また喧嘩になると今度は相手が大怪我する可能性がある。もうこの場を離れた方がよかった。


 真の死から半年ほど経った。一二月になり、中学三年生の解は期末テストを終え帰宅するところだった。

真が死んでから、解は汚いものがよく目に映るようになった。酔って暴れる大人、理由なく喧嘩をしかけてくる不良、痴漢や変質者、ひったくり等々、枚挙に暇がなかった。どれも話には応じなかったので力で解決するしかなかったが、そのせいで中学校では今まで以上に不良、問題児として扱われていた(法的、校則的に責められることはなかったが)。

 解自身はどれほど教師や生徒に悪く言われてもそれほど気にならなかった。責められるような悪事はしておらず、善人に暴力を振るったわけではないので、胸を張って自分の行動を説明できたからだ。そして、周囲がただ出る杭である解を攻撃したいだけということも分かっていたので、彼等の言葉に興味はなかった。

 時が経っても解の苛立ちは落ち着かなかった。真がいなくなって以降、解は自分や他人を真と比べてしまうようになった。真が完璧だったとは全く思わないが、知識、運動、家事など生きるために必要な多くのことで真は非常に優れていた。至らぬ自分への失望、真ですら死ぬこの世界の無常・無情への怒り、自分や悪意に満ちた人々への侮蔑。それらが混ざり苛立ちとなって解を蝕んでいた。


「解君がそんな風に荒れるなんて意外。」

「周囲に迷惑をかけてばかりだったな。恥ずかしい限りだ。」

苦々しい顔の解とは対照的に、瀬奈は穏やかに笑っていた。

「でも、それだけ真さんが大切だったんだよ。それに、荒れてる解君なんて、見たら怖いだろうけど可愛いと思うな。」

「可愛くはないだろ…。」

瀬奈としては感情的な解が子供っぽく思えて可愛く感じたのだが、さすがに解には理解不能だった。

「じゃあ、続きは?」

「そうだな、ここからが本題だ。」

解が話そうとしたところで客がちらほらと来た。話は銭湯の仕事をちゃんとしてからのようだ。



「あれ…。」

家で家事をしてから銭湯に来た解は、麗の隣に久しぶりに会う人がいたので声を上げた。すぐに近づいてその人に頭を下げた。

「麗さん、お疲れ。おじさん、お久しぶりです。」

「久しぶりだね、解君。一年ぶりくらいかな。真君の時は行かなくてすまない。麗に来るなと言われていてね。」

おじさん、とは麗の父親だ。司法書士として真の父と懇意だったらしい。そして、今は親のいない解の正式な後見人だ。

「大丈夫です。真はそんなことは気にしないので。」

「まあそうだね。…ところで解君、今日は君に話があるんだ。休憩室で少し、お願いできるかい?」

解は麗を見た。麗は笑顔で頷いた。

「分かりました。」

解と麗の父は休憩室に入り、机を挟んで向かい合い座った。

「話というのは進路のことなんだ。義務教育が終わって、進学か就職か、どちらかを決める時だ。麗から聞いたんだけど、まだ決めかねているそうだね。」

「はい。」

「麗たっての希望で解君のことはほぼ麗に任せきりだけど、さすがに12月になって決めてないのは心配になってね。それに、喧嘩に巻き込まれることも多いと聞いたんだ。その傷もそうかい?」

「…色々、すみません。」

解は素直に頭を下げた。苛立っているのは自分がしっかりしていないからだ。しかも、自分のせいで後見人の麗とその父に迷惑がかかる可能性があった。謝るのは当然だった。しかし、麗の父は穏やかな様子で首を振った。

「ああいや、謝らなくていいんだ。真君がそうだったように、君も喧嘩する時にはちゃんとした理由があるんだろう。それに、進路を迷うのも何も異常ではないよ。」

「…真も高校には行ったので、進学は考えています。ただ、こんな自分が高校で遊んでいいのか、働いた方が成長できるんじゃないかとも考えてます。」

「高校に行くことが遊ぶことなのかい?解君は仕事も家事も、勉強もできる。しかも私が見た限り、どれも高いレベルで。君が高校で遊び惚けることはないと思うよ。」

「…そうかもしれません。ただ、俺はまだまだ真に及びません。…真がいなくなって、苛立って暴れて、何の成長もできていない、不出来な人間です。」

「大人の真君と今の解君と比べるのは酷だと思うよ。そして、解君は真君とは環境や精神が違う。家族が亡くなって苛立っても、すぐに成長できなくてもおかしくないことだ。人生という長いスパンを考えれば何の問題もないことだよ。」

「…それでも、早く真に並びたいです。」

ここまで話をしてきた麗の父は黙ったまま解を見た。その目は真とはまた違い、年を重ね多くを経験した風格が感じられた。足りない自分に麗の父と向き合う資格があるのか疑問はあったが、それでも解は目を逸らさなかった。

…。

 二人が見つめ合ったのはわずかな時間だったが、それで十分だったらしい。麗の父は穏やかな顔で口を開いた。

「解君がちゃんと今後を考えているとよく分かったよ。それなら何を選んでも問題はない。決めるのはぎりぎりでも大丈夫だからね。」

「ありがとうございます。」

「今日は邪魔したね。でも、解君と話せてよかった、ありがとう。…最後に、真君が高校進学を決めた理由を話しておくよ。」

「…。」

真が高校に行った理由。解は真から聞いたことがなかったので、思わず体が反応した。

「真君にはいくつか理由があってね。まず彼の両親が進学を強く勧めたんだ。二つ目に、仕事はいつでもできるが高校は後になって行くことが難しい。三つ目に、愛情を知るためには多感な年齢の人間を観察するべきと思ったそうだ。彼自身から聞いたからよく覚えてるよ。本当に真君は珍しい考えをした青年だった。」

「…ありがとうございます。とても参考になりました。」

「それは良かった。では私は仕事に戻るよ。それでは、また。」

以上で麗の父との話は終わった。そして四ヶ月後、解は高校生として生活することになるのだった。



 話を聞いた瀬奈は納得したように何度か頷いた。

「へえ、最後の話が高校に行く決め手になったんだ。」

「いや?確かに参考にはなったが、あれは真の理由で俺のじゃない。」

「ええ?じゃあ結局なんで高校に行くことにしたの?」

「麗さんのお父さんと話をして、自分が早く成長しようと焦っていたことに気付いた。それからは少しずつ苛立ちを抑えられるようになった。冷静に考えれば、高校に行けば色々な経験ができるし、将来の選択肢も増えるからな。」

「それで高校に進学した、と。でもそれなら、解君が進学できたのはやっぱり麗さんのお父さんのお陰だね。」

「その通りだな。後見人になってくれたことといい、本当に感謝してる。」

そうやって相手を素直に認められる解君もすごいと思うよ、と瀬奈は言えなかった。透矢のせいだと思った。代わりではないが、他に思うことがあったのでそちらを話すことにした。

「高校で色々な経験か…。確かになあ。日本に戻って良かったと思うくらい、私は結構楽しいよ、今の高校生活。」

「いい経験ができて良かったな。俺も、お前と会ってなかったらこんな今はない気がするから、いい経験、というか運命の出会いだな。」

「う、運命の出会いって…。」

瀬奈は穏やかに笑う解を直視できずに目を逸らした。やっぱり今日は調子が悪い。これではお風呂上がりの姿なんてとても見せられなかった。

 結局、瀬奈は話だけ聞いてお風呂には入らず帰っていった。

「体調でも悪くなったのか?」

解は相変わらず女性の機微が分からない様子で首を傾げていた。



「解君。女湯の掃除、終わったよ。」

「ああ、お疲れ様。なら次は番台を頼む。やり方は教えるから。」

「はーい。」

銭湯の仕事着を着た瀬奈は解の隣に置いてある椅子…いつもは解が座っている椅子にちょこんと座った。少し緊張している瀬奈に解がレジの打ち方、キャッシュレスの使い方、客と話す内容を教えていった。

 しばらくすると、早速客がきた。朝から銭湯に来るのは常連の人が多いのだが、今も例に漏れず近所に住む常連さんだった。

「いらっしゃいませ!」

「あら、解君の友達?ここで働くってことは、将来は解君のお嫁さんなの?」

「ち、違いますよー。あはは…。」

「餅米さん、今日は職場体験のようなものなんです。」

「そうなの?ごめんね、早とちりして。解君が麗さん以外の女の子と一緒にいるなんて、ちょっと前なら想像もしなかったことだから、つい。じゃあこれ、銭湯代。」

「あ、お風呂ですね。ごゆっくりどうぞ。」

瀬奈は女性を笑顔で見送り、人がいなくなるとふうっと一息ついて、解を振り返り照れ笑いを見せた。

「接客はちょっと緊張するね。常連さんみたいだったから良かったけど。」

「常連の人が結構いるから気楽にすればいい。それに、瀬奈ならすぐ慣れるだろう。」

「うん、頑張ってみる。」

瀬奈は片手を握りやる気を見せた。お嫁さんのくだりでテンションが上がったのは内緒だ。

 そもそもなぜ瀬奈が銭湯で解と共にいるのかというと、話は朝に遡る。二学期もいくらか過ぎた日の朝、解と麗が朝食をとっていると、麗が世間話のように軽い調子で言った。

『昨日瀬奈ちゃんと話してたんだけど、銭湯の仕事をやってみたいらしいの。今日一日、アルバイトで瀬奈ちゃんを雇うから、解君は先輩として仕事を教えてあげてくれる?』

『分かった。』

これで瀬奈の「銭湯で一日体験アルバイト」が決まったのだった。

 やや忙しかった午前中を終えて、解と瀬奈は休憩時間に昼食として解がつくった弁当を食べていた。

「お弁当、ほんと美味しいね…。」

「その割に元気がないな。疲れたか?」

「大丈夫、私の家事力と比べて凹んだだけ。そういえば、今日はお菓子を作らなかったの?」

「今日は作ってないな。来週は作る予定た。」

「そっか。解君のお菓子食べたかったけど、残念。」

 解は瀬奈よりも先に食べ終えた。そのまま瀬奈が食べ終わるのを待っていたが、ふと気になることを思い出した。

「瀬奈はどうして銭湯で働いてみようと思ったんだ?」

「えっとね、最近色々考えることがあるんだけど、解君の趣味探しみたいにまずは色々経験してみようと思ったんだ。それで、銭湯は好きだし、解君も働いてるからやってみようかなって。大した理由じゃなくて恥ずかしいけど。」

「恥ずかしくなんてない。何にしろ経験はいいことだ。瀬奈が頑張る姿は俺も励みになるし、綺麗だぞ。」

「んぐっ⁉あ、ありがとう。昼からも頑張るから、よろしくね。」

突然出てきた褒め言葉のせいで瀬奈は食事を詰まらせそうになったが、何とか飲み込んで解に返事したのだった。


解はせっかくなので日頃自分がしている仕事を瀬奈と一緒にした。風呂、サウナ、脱衣所などの掃除、番台での接客、客の年齢性別・新規かどうかといったデータ収集など色々あったが、単純作業が主だったので瀬奈もすぐに仕事を覚えた。解ができない女湯側の掃除もしてもらった(麗がわざわざ仕事を残しておいたのはどうかと思った)。

途中暇な時間に勉強することはあったが、瀬奈と解は粛々と午後の仕事を行い、夕方になった。さすがに瀬奈は疲れた様子で番台に座っていた。

「暇な時もあったけど。一日働くと結構疲れるね。解君はこんなの毎日やってるの?」

「いや。平日は番台の仕事と最後の掃除だけだ。今日は土曜だから仕事が多かったんだ。お疲れ様。」

「ありがとう、先輩。」

二人で仲良く番台に座って話をしていると、いつもは仮眠をとっている麗が番台にやって来た。

「二人とも、お疲れ様~。」

「お疲れ。」「お疲れ様です。」

「うんうん。瀬奈ちゃん、初めての銭湯での仕事はどうだった?」

「大変でした。ここにはよく来てるから少しは分かってるつもりだったんですけど、裏側のことは全然知らなかったんだなって痛感しました。麗さんも解君も毎日こんな風に働いてるんだから、すごいですね。ってまだ終わってませんけどね。」

にこやかに返事をした瀬奈に対し、麗は少し悩まし気な表情で答えた。

「うーん、そこなんだけどね。私と解君は10時くらいまで仕事するけど、瀬奈ちゃんはそんな時間まで働いたらご家族が心配するでしょう?」

「え、でも中途半端は嫌ですから、できれば最後まで働きたいです。お邪魔とは思うんですけど…。」

「邪魔なわけないわ。解君も楽しかったからもっと瀬奈ちゃんにいてほしいって顔に書いてるもの。」

「えっ!」

「書いてないだろ。ただ、瀬奈のおかげで初心に帰って真面目に働けたから、いてくれて良かったのは確かだな。」

「そ、そう?そう言われると悪い気はしないね。」

嬉しくて顔がにやけている瀬奈を麗は優しく見守っていたが、何か思いついたようで急に手を叩いた。

「そうだ!じゃあ瀬奈ちゃん、今日は私と二人でパジャマパーティーしない?」

「え、それってまた解君の家に泊まるってことですか?」

「ええ。それなら瀬奈ちゃんは最後まで仕事をできて、ご飯も皆で食べられる、ご家族も安心。そして私も楽しいと。」

「急すぎるだろ、しかも最後のは余計だ。」

「ちょっと待って下さい。家族と相談してみます!」

「え、おい…。」

解が止めるより早く瀬奈は一旦番台から離れてしまった。今はもう電話で話している最中だ。解は少し渋い顔をして麗を見た。

「麗さん…何を考えてるのかは知らないが、強引じゃないか?」

「ごめんなさい。でもちゃんと理由があるから許して。ね?」

「…そうだな。分かった。」

麗が積極的に動くのは解の知る限り真と解自身のことだけだった。なら、今回は瀬奈のために泊まらせるということだろうか。瀬奈のためになる上に瀬奈が泊まりに乗り気なら、解に何一つ文句はなかった。

 少し待っていると、瀬奈が解達の所に戻って来た。

「すいません!親がOKだったので、泊まってもいいですか?」

「もちろん。一緒にお話ししましょうね。」

「は、はい!」

瀬奈は泊まりに乗り気のようで、少し緊張しながらも楽しそうだ。解は楽しそうに話をする麗と瀬奈を見ていたが、ふと家主なのに完全に置き去りだったことに気付くのだった。


 仕事を終えた三人は揃って解の家に帰ってきた。時間は夜の10時をさしていた。

「ただいまー。」「…。」「お邪魔します。」

二度目の泊まりなので瀬奈は前回ほど緊張していなかった。先頭を行く解は居間に入るとすぐに台所に立った。

「俺が用意するから、麗さんと瀬奈はそこで話でもしててくれ。」

「はーい。じゃあ瀬奈ちゃんはここね。はい、麦茶。」

「どうも。でも私も手伝いを…。」

「大丈夫。瀬奈ちゃんのために解君は一番にキッチンに立ったんだから。気持ちを汲んであげないと、ね?」

「は、はい…。」

瀬奈は生返事をしながら解を見た。解は無表情ながらも手は忙しなく夕食の支度をしていた。一人でてきぱきと料理をする解は、格好よかった。

「格好いいわよね、解君。」

「!」

心を読まれたかと疑うほどに完璧なタイミングで麗が話しかけた。そのため瀬奈は飛び上がるほど驚き、声も出なかった。

「ごめんなさい、びっくりさせちゃった。」

「い、いえ。大丈夫です。あの…。」

私って分かりやすいですか?と聞きたいが、答えを自白するようで聞けなかった。麗はもやもやしている瀬奈を笑顔で見ていたが、次に解に視線を移し、しみじみと言った。

「初めて会った解君はこんなに小さかったのに、それが今は私より大きくなって、料理もちゃんとできる。時が経つのって早いわね。私も年を取るわ。」

「いやいや、まだまだ若いですよね?きれいですしスタイルは抜群ですし。」

「ありがとう。でも瀬奈ちゃんもすごくきれいよね。髪なんてふわふわで、解君がすごく好きそう。」

「え?そうですか?」

「ええ。本当は好きというより癖だけど。小さい頃の解君は自分の髪をよく触ってて、特に寝る時は側にいた真さんや私の髪を触ってたの。最近はしなくなったけど、本当は今も触りたいんじゃないかと思うわ。」

瀬奈は以前解に頭を撫でられた時のことを思い出した。確かにあの時は随分じっくりと髪を触っていたが…。

「うーん。そう、かも…?」

「変なことを瀬奈に教えないようにな。」

解ができた食事を持ってきた。解はてきぱきと配膳しながら麗に言葉を重ねた。

「髪を触るのは子供のストレス時の行動だ。気を紛らわせるためのものだから、成長すれば基本的にしなくなる。」

「えー?私はしてほしいわ。無言でじっと私を見ながら髪を触る解君、すごく可愛かったもの。」

「この年ではしないものなんだ。」

二人の掛け合いを見ていた瀬奈は何だか羨ましくなった。二人は家族とは少し違うが、それでも深い信頼関係ができている。私は親や友達、解とどんな関係だろうか。いつか麗と解のような関係を誰かと作れるだろうか。

 瀬奈が考え事をしている間に解は準備を終え、瀬奈と始音に声をかけた。

「早く食べるぞ。瀬奈も冷めないうちに。」

「うん、分かった。」

「「いただきます。」」

夕食は豚の生姜焼き、筑前煮、小松菜の胡麻和え、豆腐の味噌汁だった。

「なんでさっきの時間でこんなにできるの?しかも美味しいし…。」

「生姜焼きは焼いただけ、胡麻和えは混ぜただけ、後は温めただけだ。」

「すごいでしょ?私だと炒飯だけ!とかなのに。いい旦那さんになるわ。」

「実務能力だけあっても結婚はできないぞ。」

「実務能力がないから結婚できないって人も結構いると思うよ?」

「そうか?そうか…。」

解はのんびり話をしながらも食事自体は迅速に済ませ、さっさと洗い物を始めてしまった。瀬奈は解を見て、まだ食事の途中だが立ち上がろうとした。

「洗い物くらい私が。」

言い切る前に優しく手を掴まれ、瀬奈は立ち上がるのを止めて麗を見た。

「麗さん、でも…」

「いつもは解君ももう少しゆっくりするわ。何も言わないから分かりにくいけど、今日一日頑張った瀬奈ちゃんをいたわってあげたいのよ。だから止めないであげて?」

「…はい。」

瀬奈は悪いなとは思いながら食事を再開した。しかし、すぐに箸を置き口の中を空にすると大きな声で言った。

「解君、ありがとう!」

「…(少し振り返って頷く)。」

気持ちが通じたようで瀬奈は嬉しかった。隣で麗が笑っていたので、瀬奈もつられて笑った。


 お風呂に入った後、解と別れて麗と瀬奈は麗の部屋にいた。前回は人数が多く二階での寝泊まりだったが、今回は二人だけなので麗の部屋が選ばれた。

「さーて、ちょっと遅いけど、二人でいちゃいちゃしましょうか!」

「いちゃいちゃは駄目だと思いますけど…。」

「まあまあ。じゃあ乾杯!」

「乾杯!」

床に座って麗は酎ハイ、瀬奈はオレンジジュースで乾杯した。座卓にはお菓子が置いてあり、準備万端だった。

「瀬奈ちゃんはよく気がつくのね。おやつも飲み物も、下着なんて何にも考えてなかったわ。」

目の前の飲食物はコンビニで帰りに買ったものだ。瀬奈は着替えも買っていて、そうした細かい配慮に麗は感心していた。

「いやいや、割と普通ですよ?麗さんは気にならないんですか?」

逆に瀬奈は麗が割とルーズだったことが意外だった。いや、ロックな私服を見るとルーズでもいい気もしてきた。

「全然。まあ私は昔から変って言われてたから、きっと少数派なのね。」

それから二人は雑談を続けた。ある程度話したところで、瀬奈は気になっていることを質問することにした。正直なところ、麗に聞いてみたいことは沢山あった。

「あの、よければ教えてほしいんですけど、麗さんは解君のお父さん、真さんが好きだったんですか?」

「あら、恋バナするの?いいわよ~。」

「いいんですか?」

「ええ、真さんのことよね?とりあえず質問してみてくれる?」

「はい!話を聞いただけで申し訳ないんですけど、真さんって解君以上に感情が乏しかったんですよね?そんな真さんのどんなところが好きだったんですか?」

「そうね…。真さんは本当に感情がなかったわ。いつも一人で、家族からも腫れ物扱いだった。孤立を恐れず、寂しさを感じない、誰も必要としない。そんな人だったわ。」

「…あの、解君や麗さんには優しかったんですよね?」

真は解や麗に優しかったのか。解は真が自分を愛してなかったと言っていたが、それ以上は詳しく聞けなかった。愛も優しさもない人を好きになれるのか疑問だった。

「うーん、実際は倫理・道徳に従っていただけで、優しい人ではなかったわ。でも、真さんは自分の異常性を分かった上で、人に近づくための努力を続けたの。だから優しくすることは、ある意味で真さんの意志だったわ。」

麗はしみじみと話しながら缶を傾けた。まだまだ酔ってはいないようだ。

「小さい時、私は真さんが強くて格好いい人だと思った。でも違ってね、真さんは自分自身を嫌いながら努力するしかなかった、弱さや脆さがあったの。だから支えて、守ってあげたくて、好きになったの。」

「…今の、小学生くらいの話ですよね?そんな小さい時にそんな難しいこと考えてたんですか?」

「今言葉にしたらこんな感じだけど、その時はさすがにもっと感覚的だったわ。」

「そ、そうですよね…。」

麗が勘違いをして苦笑する隣で、麗は懐かしそうに話を続けた。

「でも、それも19歳くらいまでね。真さんにはそこで完璧に振られちゃったから、以降真さんとは友達になったの。」

「ええ⁉ど、どういうことですか?…って、聞いていいんですか?」

急に別れ?話になったので瀬奈は驚いたが、麗は気にすることなく明るく笑い、酒を一口飲んだ。

「もちろん。真さんったら、『俺は恐らく死ぬまで愛情を持てない。だから今後は俺を愛することを止めろ』って言うの。しかも『お前以上に俺を愛する人間はいない。そのお前への愛情が生まれないのだから、今後も俺に愛情はできず、分からないだろう。』って付け加えてね。いきなりそんなこと言うからびっくりしたし、悔しくなっちゃったわ。」

「何というか、すごい話ですね…。でも、今の真さんの言葉、麗さんへの信頼というか、何かしらの思いを感じるんですけど。」

「そうなの。真さん的に私は『自分が愛情を理解できるかの可能性』そのものなの。自分の可能性を否定して、私に他の人を愛せって言うのよ?だから私も『なら最後に抱いて下さい。私に最後の思い出をくれるなら諦めます』って言い返してね。それで一晩して、私の恋は終わり。」

「わあ…。」

生々しいが切ない、何とも不思議な話だった。こんな話を笑ってできる麗はすごい人だ。…だが、本当に聞きたい話はここからだった。瀬奈はぐいっとジュースを飲んで、覚悟を固めた。

「…だから、今は解君なんですか?」

麗はわずかに驚いた顔をした。別に好意を隠してはいないのだが、やっぱりばれているものだ。そして、瀬奈がずっと真剣な顔を続けていることが気になった。

「瀬奈ちゃん。怒ったりしないから心配しないで。もっと気楽に聞いて質問してくれたらいいのよ。」

「あっ。すみません。…ありがとうございます。」

「ええ。それじゃあ答えるわね。どうして好きになったのか、実は真さんより解君の方が不思議なの。ずっと可愛い弟のように思ってたのに、いつから恋愛の好きになったのか、私にもよく分からないの。」

「麗さんは解君のどこが好きなんですか?」

「ふふっ。言ってもいいけど、瀬奈ちゃんも教えてね?」

「え…あ、はい…。」

麗の中では瀬奈も解が好きだとされているようだ。…私自身よく分かってないのに、どうして確信できるんだろう。

「じゃあ私から。全部好きだけど、特に好きなのは真さんを目指して頑張るところかしら。解君は自分のため、真さんのために頑張ってるわ。自分が愛情をしっかり理解できれば真さんの努力に意味があったと言えるし、真さんも愛情を理解できた可能性を示せる。そんな風に頑張れる解君が大好きで、守ってあげたい。瀬奈ちゃんは?」

自分に話が振られたので、瀬奈は考えながらぽつぽつと話し始めた。恋愛というより、解への愛情全般で話をしようと思った。

「…解君って変ですよね。優しくてしっかりしてて、勉強も家事もできるのに偉そうにしない。自己評価が低くて自信もないのに、考えには芯があって周りに負けない。じっくり考えるタイプなのに誰かのために動く時は考えなし。あ、真面目にずれたことを言ったり、面白かったりもしますよね。」

「ふふ、そうね。」

瀬奈は解についてかなり語った。麗はそんな瀬奈を温かく見守っていた。

「解君はすごく変わってますけど、一緒にいたら居心地がよくて楽しいです。それに解君がいたから愛情研究会ができて、引っ越してばかりだった私の大事な居場所になりました。だから、これからも解君や皆と一緒に高校生活ができたらいいなって思います。…だから、最近は何だか怖くて。」

「…周りが変わっていくことが?」

的確な麗の言葉に瀬奈はどきっとした。しかし、見抜かれているならいっそその方が話しやすいかもしれない。

「…はい。私は変われないのに、皆変わっていくんです。七海ちゃんも茅野君も…解君も。どうせ卒業して離れていくのに。…今が好きだから変わってほしくなくて、でも変わるのは悪いことじゃなくて。変わる中で私だけ変われないから置いていかれるみたいで。…あー、駄目ですね、私。格好悪くて。」

「…あー!瀬奈ちゃん!」

「ひゃっ!」

気付けば瀬奈は麗の胸と腕に挟まれ抱きしめられていた。麗は素面に見えるがやはり酔っているのだろうか、瀬奈を抱きしめる腕に力が込もった。瀬奈は母に抱かれているような安心感を味わっていたが、しばらくすると息苦しくなってきた。

「れ、麗さん、ちょっと、苦しいです…!」

「あ、ごめんなさい。」

麗の胸から解放された瀬奈は大きく息をした。さっきまでの温もりがなくなり、少し残念な気がしてしまった。その時、麗が優しく瀬奈の頭を撫でて言った。

「瀬奈ちゃんは格好悪くも情けなくもないわ。誰だって変わりたい、けど変わりたくない、そんなものよ。そんな矛盾を理解するのも自分を知る大事な過程で、悩むことは瀬奈ちゃんが成長してる確かな証拠。他の人から見たら瀬奈ちゃんもしっかり成長してるわ。だから自分を嫌いにならないで。今のままでも瀬奈ちゃんはとっても素敵よ。」

「…何だか解君みたいですね。」

麗の話を聞いた瀬奈は感動して少し泣きそうになった。麗は穏やかに話してくれたのだが、あまりに母性が過ぎるのであてられてしまった。目をしばたたかせてから頭を下げた。

「気を遣わせてすみません。でも、ありがとうございます、ちょっと元気出ました。」

「ふふ、良かった。解君も小さい頃はこうやってたし、今も発作の時は早く落ち着けるようにこうやってあげるの。」

「へぇー、そうなんですね…。」

瀬奈は相づちを打ったが、「今も」の部分が気になっていた。しかし、以前の発作でも麗は解を抱きしめていたので、そんなものかと納得した。気持ちを切り替えるためにぱくりとお菓子を一口して、瀬奈は笑顔を麗に見せた。

「バイトさせてもらって良かったです。私でも何か新しいことをしたら変われるかな、なんて思ってお願いしたんですが、とても勉強になりました。」

「いいの、私もすごく楽しいし。…あ、そうだったわ。」

麗はぽんと手を叩いた。忘れていたことを思い出したようだ。

「言うのを忘れてたわ。瀬奈ちゃん、たとえ色んなものが変わっても、きっと皆と仲良くいられると思うわよ。特に、解君と瀬奈ちゃんはちょうどいい感じで似てるから。」

「えぇ?私と解君って似てますか?」

「しっかりしてるのに自信ないところとか、自分をよそ者だと思うところとか?どっちも周りに振り回されるタイプだけど、漫才でいったら解君がぼけ役、瀬奈ちゃんがつっこみ役って感じね。」

「あはは、確かに…。」

麗は高校での様子を見てるんじゃないかと思うほど適切な言葉で表現してきたので、瀬奈は苦笑して頷くしかなかった。

「似てるだけだと合わないこともあるけど、瀬奈ちゃんなら解君と友達だろうが恋人だろうがきっとうまくいくわ。大丈夫!」

「あ、ありがとうございます。なんですけど、麗さん的にはいいんですか?解君が他の人とくっついても。」

「ええ、構わないわ。それは解君が決めることだから。私も少しくらいは好かれる努力をするし、恋人になれれば嬉しいけど、基本私は解君の幸せを願うだけ。解君を守ってあげたいだけだから。」

「やっぱり麗さんも変わってますね。」

「そうなの!真さんにすら言われたもの。でも、これが私だからいいの。」

「ふふふっ。」

一連の話で気が楽になったのか、瀬奈の表情は明るくなっていた。麗は元々、悩みがありそうな瀬奈を心配して家に招いたのだが、少しは瀬奈の力になれたようだ。瀬奈の悩みが少しでも解決してくれればと願うのだった。



「ん…。」

瀬奈はぼんやりとした意識のまま目が覚めた。毛布をどかして半身を起こすが、自分のいる場所が分からなかった。

「ん~…?」

何となく隣を見ると、パジャマ姿の麗が眠っていた。

「っ!」

瀬奈は声を出しそうになるのを手で押さえた。驚いたおかげで一気に目が覚め、昨日のことを思い出した。

 昨日は結局二時くらいまで話していた。悩みの相談だけで結構な時間になったのに、麗が銭湯を管理している経緯や解の昔話などを話してさらに遅くなったのだ。そして、いざ寝るという時に麗が瀬奈と一緒に寝たいと駄々をこね始め、根負けした瀬奈がベッドで一緒に寝てあげたのだった。しかも麗は瀬奈を抱き枕代わりに寝てしまった。そのせいで瀬奈はなかなか眠れず、目覚めた時もぼんやりしていたのだ。

瀬奈はすやすやと寝ている麗に布団をかけ直した。眠っている麗は綺麗というより色っぽい。

(こんな美人と一緒に住んでるのに何もしないなんて、解君は本当に草食系だね…。)

瀬奈は解の淡白さをしみじみと感じつつ窓の外を見た。まだ空は暗く起きるには早い時間だが、ベッドでは眠れないし、布団で寝ると麗が拗ねそうだ。居間でのんびりしようと考え、瀬奈は静かに着替えを済ませてそっと部屋を出た。

 瀬奈が居間に向かって暗い廊下を歩いている時、何かが落ちる音が解の部屋から聞こえた。

「ん…?解君?」

解が部屋から出てくるかと思ったが、出てこなかった。瀬奈は何となく気になりドアを躊躇いがちにノックした。…それでも反応がないままだ。

「解君?大丈夫?…入っていい?入るよー…?」

心配した瀬奈は緊張しながらドアノブを回し、ゆっくりとドアを開けた。

 解の部屋は暗く、すぐに中を見ることはできなかった。瀬奈が目を凝らしていると、ようやく部屋の中が見えてきた。ベッドは空だ。しかしベッドの側に解が倒れていた。

「…!」

瀬奈は大声を出しそうになるのを抑え、急いで解の横にしゃがみ込んだ。解は床に倒れたままうずくまり、目を閉じて震えていた。

(発作だ!)

昔受けた精神的なストレスの記憶が発作的に蘇る、いわゆるフラッシュバック。透矢から概要は聞いていたので、瀬奈は麗を呼びに行こう、として止まった。

『今も発作の時は早く落ち着けるようにこうやってあげるの。』

麗の言葉が思い出された。よく寝ている麗を起こすのは申し訳なかった。結果、瀬奈は解の身を少し起こして抱きしめた。心臓の鼓動がうるさいが、苦しむ解の震えが瀬奈を落ち着かせてくれた。前の発作で麗が解にしたように背中をとんとんと優しく叩いた。

解はすぐには様子が変わらなかったが、しばらくすると震えが収まり体の力が抜けてきた。瀬奈は腕の中にいる解が子供のように見えて、麗の気持ちが少し分かった気がした。その時、解が少し体を動かした。

「麗さん、毎回助けてもらって何だが、別にこんな…。」

解は顔を上げ、瀬奈と目が合った。お互い頭が真っ白になり無言で見つめ合っていたが、はっと気づき、ぱっと離れた。

「悪かった。嫌だっただろうに、迷惑かけたな。」

「べ、別に嫌じゃないよ?迷惑でもないし。昨日麗さんから発作の時はこうしてるって聞いたから、私でもできるかな、なんて思って…。」

「…麗さんからもう聞いてたのか。」

「あ、うん…。」

解は情けない事実がばれたことを恥じて落ち込んでいた。しかも瀬奈にされたことで情けなさが増し、申し訳なさが追加されていた。

 一方の瀬奈は最初こそ照れていたし解が落ち着いて良かったとも思ったが、解が凹み始めたので罪悪感を覚えていた。発言から察するに麗とのことは知られたくなかったのだろう。素直に麗に伝え、知らない振りをした方が良かったかもしれない。瀬奈は麗への気遣いと嫉妬が混ざった自分の行いを恥じていた。それと、麗に間違えられたことも地味に効いていた。

「ええと…。発作の時に何をされてるか、やっぱり知られたくなかった?」

「…まあな。姉代わりの人に発作の度に抱きしめられているなんて、情けないにも程があるだろう。」

「そんなことないってば。病気の治療みたいなものなんだし、仕方ないよ。」

「……着替える。」

ぼそっと解は呟くとTシャツを脱ぎながら立ち上がった。瀬奈は慌てて解に背中を向けた。

「ちょ、ちょっと!私がいるのに脱がないでよ!セクハラだよ、セクハラ!」

「いや、もう十分恥をさらしたから、今さら裸を見られても俺は大丈夫だぞ。」

「…え?どういう意味?私がされてる側じゃないの?」

「着替えたぞ。」

瀬奈が混乱している間に解は素早く着替えて瀬奈の隣に立っていた。

「早っ。…でも、もういいの?大丈夫?」

「ああ、心配かけて悪かった。居間に行って朝食の用意をしないとな。」

そう言うものの解の顔はまだ青白く、お世辞にも大丈夫には見えなかった。瀬奈はむっとした顔になり解の手を引いてベッドに座らせた。

「全然大丈夫そうに見えないよ。私がやるから、解君は寝てて。それともベッドで抱っこしてあげた方がいいの?」

「いや、でも動けるから大丈夫だ。それに、お前にさせるわけにはいかないし…。」

「だから、嫌じゃないってば。友達を助けるのは当然でしょ?抱きしめてよしよしするくらい何でもないんだから。」

「…いや、朝食のことなんだが。」

「え?」

二人はまた少しの間見つめ合った。勘違いに気付いた瀬奈は火がついたように顔が赤くなり、部屋を出て行った。後にはベッドにぽつんと座った解だけが残された。


 瀬奈に言われた通りベッドで横になって休んだので、解の調子は大分よくなった。ほぼいつも通り動けるようになったので、部屋を出て居間に向かいそっと戸を開けた。瀬奈はエプロンをつけて台所に立っていた。解は瀬奈が怒ってないか心配だったが、後ろ姿からは怒りのオーラを感じなかった。少し緊張しながら居間に入り、瀬奈に声をかけた。

「大丈夫か?手伝いにきたんだが…。」

瀬奈は解の声には気付かず、後ろから物音がしたので振り返った。

「あ、解君。随分顔色が良くなったね、元気になった?」

怒っているかもと解が心配していたが、瀬奈は笑顔だった。解はエプロン姿で笑う瀬奈を見てわずかにぼうっとしていたが、すぐ我に返り返事した。

「あ、ああ。お陰様で大分よくなった。」

解の言葉を聞いた瀬奈はにやりと笑った。

「やっぱり調子悪いのに無理しようとしてたんじゃない。休んで正解だったね。」

「ん…まあな。迷惑かけて悪かった。」

「元気になったんだしいいよ。朝ご飯もうすぐできるから待ってて。」

「俺も手伝う。」

「そう?じゃあそこのレタスだけお願い。」

「分かった。」

二人で準備をして、テーブルの上が整ったところでまだ眠そうな麗が起きてきた。ボタンが外れたパジャマが少しだらしない感じだ。

「ごめんね二人とも。お酒飲んでたから早く起きれなかった。ふああ…。」

「麗さん、服くらいちゃんとしないと!」

「?いつも通りだけど。ねえ?」

「そうだな。」

「とりあえずボタンを留めて下さい!」

「はぁーい。」

のろのろとボタンを留める麗を見ながら瀬奈はため息をついた。誘惑してるんじゃないかと疑ったが、どうやら麗は素のようだ。解も解だが麗も麗であり、解の無害さと麗の無防備さに呆れてしまった。


 朝食を片付けた後、解は瀬奈を家まで送ることになった。解は送ることを考えてなかったが、

『ちゃんとエスコートしてあげないとね。』

と麗が食事中に言ったので事が進んだ。

 瀬奈は隣で歩く解をちらっと見た。解はデートではないので手をつなごうとは言わなかったが、瀬奈としてはエスコートするなら他の人と同じようにちゃんとしてほしかった。とはいえ自分から言うと負けな気がする上、この二人で手をつなぐと兄妹との言い訳は難しい。そんな理由で何も言えないまま、瀬奈は結局解の家を出てから今までずっと、もやもやを抱えて歩いていた。

(自慢じゃないけど、私も見た目は悪くないと思うんだけどなあ…。)

積極的な七海や始音が少し羨ましい、かも。

「少し聞いていいか?」

「な、何?」

いきなり解に質問されて、心の中で愚痴っていた瀬奈は慌てて返事した。

「間違いだったら悪いんだが、調子が良くないか、それか怒ってないか?」

「ええ?なんでその二択?」

「そう言われても、そのどちらかに見えたんだ。調子が悪いにしてはしっかり歩いている。怒っているとしても外に出てから怒る原因がない。だからどっちかは分かってないんだがな。」

「…どっちでもないよ。」

瀬奈は誤魔化すことにした。自分でも一言で表現できない思いだったからだ。

「…そうか。悪かった。」

解はそう言ってまた静かになった。早朝瀬奈に助けてもらった分何か力になれればと思ったが、何の役にも立たず申し訳なかった。

 一方の瀬奈は沈んだ解を横目で見て内心慌てていた。確かに少しつっけんどんな言い方だったが、解ならどうせ気にしないと予想していた。瀬奈は解を分かったつもりになっていた自分を恥じた。何とかするには…。

「解君!」

「何だ?」

「さっきはごめん。実はちょっといらいらしてたの。その、あれで。」

「そうか、人によっては大変だからな。」

(こういう時だけ察しがすごくいいよね…。)

「一応産婦人科の本も読んだことはあるから、多少の知識はあるぞ。」

「だ、大丈夫。いつもは大したことないから。それより…。」

医学的な話になりそうな流れを瀬奈は何とか阻止した。さすがに気になる相手と生理の話を堂々とするほど豪胆ではなかった。瀬奈は頭で必死に話題を探して…見つけた。

「昨日聞いたけど、麗さんって高校を卒業してすぐ銭湯の責任者になったんだね。」

「らしいな。俺はよく覚えてないが。」

「麗さんって格好いいよね。思考や行動になんか、ロックを感じる。」

「ロックかどうかはともかく、麗さんは頭が良くて、何でもできる人だな。」

解の口ぶりからは麗への確かな信頼が感じられた。二人ともを知る瀬奈は嫉妬ではなく微笑ましさを感じていた。

「二人は仲がいいよね。姉と弟、家族って感じがする。」

「そんな感じだな。勿論実際は他人だが。」

「え、他人なの?麗さんとは家族だ、とか言うと思ったのに、意外。」

「そこは線を引けと真が言っていた。『信頼関係ができても麗は他人で女性だ』とか何とか。だから俺にとっての麗さんは瀬奈や七海と同じだ。」

「へえ…。」

真がどういう意図で言ったのかは分からない。麗の未来を予測したのか、家族の境界をはっきりさせたのか。ただ、真の発言は麗にとって望ましい状況を作ったようだ。

「解君は周りも不思議がいっぱいだね。」

「否定はしない。ただ、それも変わっていく。真も、俺も、瀬奈達も、全部な。」

解は無表情だったがしみじみと言った。解の思いを感じつつ、あえて瀬奈は普通の調子で言った。

「解君は進学するんだっけ。医学部?」

「進学も今のところは、だな。瀬奈は進路をどうするかは考えてるのか?」

「うん。バイリンガルなことを生かして仕事をしたいけど、まずは進学かな。法学部か経済学部を考えてるよ。」

「しっかり考えてるんだな。あんなに家庭的な雰囲気だったのに、仕事のことまで見据えているなんて、尊敬するぞ。」

解は瀬奈を見たが、その目には確かに尊敬の念がこもっていた。瀬奈は気恥ずかしかったが、それ以上に気になることがあった。

「褒めてくれてありがとう、なんだけど、あんなに家庭的って何?」

「えっ。」

あまり意識せず言ったことなのか、瀬奈に言われて解は固まってしまった。解の珍しい様子に瀬奈は少し不安になってきた。

「な、何?聞いたら駄目だった?もしかしておばさんみたいとか、悪い意味だった?」

「違う、悪い意味じゃない。いい意味で言ったんだが…。」

「なら教えてよ。」

解が言うのを躊躇っているので、瀬奈はプレッシャーをかけてみた。いい意味なら教えてくれればいいのに。

「…分かった。言わないとお前も気になるよな。…朝、居間で俺のエプロンをつけていただろう?」

「あれ解君のだったの?麗さんのだと思ってた。」

「俺のだ。それで、お前が笑顔で振り返ったんだが、その姿が印象的だった。前も言った母親とか妻のようで、何というか…温かいと思ったんだ。」

「…そう、なんだ。」

解は躊躇った割にしっかり説明したので、聞いた瀬奈も恥ずかしくなり俯いた。しかし、褒められたのは純粋に嬉しかった。

「解君はさ、母とか妻とか、家庭的な人が好みなの…?」

「そんなつもりはないが、そうかもしれないな。瀬奈に見とれていたのは事実だから。」

「見とれてたんだ?」

「…そうだな。」

二人とも照れて会話が止まってしまったが、二人の空気は決して悪いものではなかった。

「あら、瀬奈ちゃん?」

 そのまま二人が黙ったまま歩いていると、突然瀬奈に声がかけられた。瀬奈は声の方を向いて、少し驚いた顔になった。

「お母さん、お父さん!こんな所で何してるの?」

声をかけてきたのは瀬奈の母親で、彼女の隣には男性が立っていて、恐らく父親なのだろう。二人とも上品な感じで若々しい、瀬奈の親らしい親だった。

「何って散歩よ。仕事がない日はしてるでしょう?それにもう家の近くよ?」

「そ、そうだったね。忘れてた。それじゃ私、先に帰ってるから…。」

「待ちなさい瀬奈。その、隣の人は誰だい?ちゃんと紹介しなさい。」

さらっと立ち去ろうとした瀬奈に父親が少し厳しい声で言い、訝しげに解を見た。隣の母親は少し心配そうに瀬奈と解を交互に見ていた。解は不良扱いには慣れていたが、最近はそうした偏見がなくなっていたことに加え、友人の家族に否定的に見られるのは少し堪えた。解は挨拶しようと一歩前に出たが、解を制止して瀬奈が前に出て言った。。

「分かった。紹介するから友達をそんな目で見ないで。同じクラスの黒条解君。何度も話したことあるでしょ?」

「ああ!よく話してる男の子ね。遅くなりました、瀬奈の母です。いつも娘がお世話になっています。」

瀬奈の母親は解のことが分かったようで、笑顔になり解に挨拶した。解はしっかり頭を下げ落ち着いた声で挨拶を返した。

「黒条解です。俺の方こそいつもお世話になってます。」

「…昨日は君の家に瀬奈を泊めたのか?」

瀬奈の父親は静かに、そして低い声で解に聞いてきた。解は誤魔化さない方が瀬奈にとっていいと考え、冷静に答えた。

「はい。といっても場所だけで、実際に泊めたのは俺の姉代わりの人です。」

「そ、そうだよ。昨日説明したでしょ、麗さんって人の厚意で家に泊めてもらうって。」

「そうね。ただ、男の子の家とは聞いてないわ。言ってくれれば良かったのに。」

「それは…。」

「瀬奈。男性の存在を説明しなかったのはわざとだろう?誤魔化しや嘘は駄目だ。まして、そんな見るからに危ない相手と一緒にいるなんて。」

「あなた、それはちょっと…。」

「今は口を挟まないでくれ。とにかく瀬奈、来年はもう三年生で受験なんだ。日本では素行も点数になるんだ。付き合う相手は選んで…。」

「止めて!」

瀬奈が大声を出して両親の会話を止めた。両親は驚いた様子で瀬奈を見ていた。瀬奈は両親をきっと見据えて言った。

「いくら二人でも、解君を悪く言うのは絶対に許さないから。解君は誤解されやすいけど悪い人じゃない、私の友達なの!」

「瀬奈ちゃん…。」

「…。」

ここまではっきり瀬奈に反抗されたことがないのか、瀬奈の両親は絶句していた。解としては瀬奈一家に喧嘩してほしくないので、何とかできないかと話に加わった。

「あの、泊まりは俺が断らなかったのが悪いので、瀬奈は悪くありません。それと、見た目はともかく俺は不良ではないので…。」

「もういいから!解君、行こ!」

話の途中だったが瀬奈は解の手を掴み歩き出した。解がよろけながらも振り返ると、瀬奈の両親はその場に立ち尽くし瀬奈を見ていた。いや、母親だけは父親から見えない位置で解に向かった頭を下げた。解は振り返った体勢で頭を下げた。


「瀬奈、もう御両親も見えないぞ。一回休んでもいいんじゃないか?」

「…。」

解が声をかけても瀬奈は答えることなく解の手を引いてずんずん歩いた。図らずも解と手をつなぐことになったが、怒っている瀬奈は全く嬉しくなかった。

 瀬奈は今まで両親に反対したことがほとんどなかった。両親の言うことがおかしいと思わなかったからだが、それは正しくなかったのかもしれない。父はよく知らない解を悪く言った。人種、つまり見た目で差別してはいけないと言っているくせに、自分が人を見た目で判断した。しかも娘の友達に向かってだ。母も父を止めなかったのだから、本心はどうか分からない。瀬奈の中で両親に対する猜疑と失望、悲しみと怒り、色々な感情が渦巻いていた。

「瀬奈。」

「わっ…。」

解が強めに手を引いたので、瀬奈は少しよろめいてようやく歩くのを止めた。不機嫌そうな瀬奈に解は落ち着いた声で聞いた。

「どこか行きたい所でもあるのか?」

「別に。家に帰るつもりだったし…。」

「なら帰らないか?御両親も心配してるぞ。」

「友達を見た目だけで悪く言った親なんて知らない。あんなの、解君を不良扱いしてた学校の人達と何も変わらない。」

解は不貞腐れた瀬奈を初めて見たが、いつもはしっかりしている瀬奈が子供っぽく感じた。まずは瀬奈に落ち着いてもらうため、解は冷静に瀬奈と話を続けた。

「そこまで言わなくてもいいと思うぞ。娘が男の家に泊まったと急に知ったんだ。俺に厳しい目が向くのは当然だ。」

「だからって人を傷つけていいわけないよ。あんな風に言われて嫌だったでしょ?」

「…まあ、好きではないな。ただ、発言の背景を考えれば問題ないぞ。」

「…それ、結局解君が我慢してるだけ。」

解の言い方が悪かったようで、瀬奈はますます不機嫌な顔になり歩き出した。手をつないだままなので、瀬奈がどこかに行ってしまわないのが解にとってはせめてもの救いだ。

「…何というか、怒らせてばかりで申し訳ない。」

「そんなことないよ。解君は何もしてないんだから。」

悪いのは私と私の両親だから。

「そうは言っても俺がいたせいだ。俺は家族仲良くしてほしい。」

「あ…。」

瀬奈は解の家庭事情を思い出した。母親に捨てられ、ただ一人の家族とも死別した解の言葉は瀬奈の心に重く響いた。謝るために瀬奈は立ち止まり、解に向き直った。ただまだ素直にはなれず、目は逸らしたままだった。

「ごめん。解君にも色々あるのに、私ばっかり文句言って。」

「ん?…ああ、そういうことか。」

解は一人納得すると空いた手を俯き加減の瀬奈の頭に置いた。

「俺に気を遣ってくれてありがとう。…そうか、そもそもお前は俺のために怒ったんだから、まずはお礼を言うべきだな。怒ってくれてありがとう。」

解は穏やかな表情で瀬奈の頭をぽんぽんと叩いて撫でた。解に頭を撫でられて、瀬奈のささくれた気持ちは凪いでいった。瀬奈は顔を上げて解と目を合わせたが、落ち着くにつれて頭に手を置かれた状況が恥ずかしくなってきた。

「ありがとうはいいんだけど、頭は撫でなくていいから。…もう、最近撫でるのが癖になってない?」

はっきりした口調だが瀬奈は優しく解の手を頭からどかした。瀬奈に指摘された解は顎に手を当てて考える仕草をした。

「お前もそう思うか?実は俺もそう思っている。」

「自覚があるならもっと気をつけないと。誰彼構わずやったら駄目だからね?」

「そうだな。今度から自分からはしないようにする。」

頼まれたらするのだろうか。頼む人は特別仲のいい相手だろうが、それなら自分からいってもいい気がする。

「ふふ。怒ってたのにいつの間にか落ち着いてるから不思議。解君のお陰だね。」

「そうか。…で、落ち着いたのならこれからどうする?」

「そうだなあ…。帰りたくはないけど、ずっとこうしてても仕方ないし、帰ろうかな。」

「それがいい。お前の親なんだ。ちゃんと話せば分かってくれるはずだ。」

瀬奈の両親を高評価する解とは対照的に、瀬奈はいつもの両親を思い出して渋い顔をした。

「そうかなあ…。確かにいつもはあんなに頭ごなしに言ってこないけど…。」

「俺がいたから余計心配になったんだろう。まずは会うことからだ。」

「うん…。」

曖昧に納得して瀬奈は歩き出そうとしたが、解と手をつないでいたので引っかかり立ち止まった。

(そういえば、今までずっと手をつないでたんだ…。)

瀬奈は急に恥ずかしくなり手を離そうとしたが、解にぎゅっと握られて離せなかった。

「!」

「待て。悪いが手は離さない。お前が逃げないように家までそのままで行くぞ。」

「言われなくても逃げないってば。」

「それに、俺も行く。だから元気をもらおうと思ってな。」

「え?解君も来るの⁉い、いいよ、来なくて。もしまた嫌なこと言われたら…。」

「だから行くんだ。お前の両親は瀬奈を信じられても俺は別だろう?少なくとも悪人じゃないことぐらいは分かってもらわないと、これからずっと心配をかけるからな。」

「そ、そっか。なら私も解君を元気づけてあげないとね。」

瀬奈は解の手をきゅっと握った。解の言葉を聞いて、相変わらず真面目だなと思い、そして自分を省みず誰かのことばかり考える解をすごいと思いつつ心配もした。解が嫌な思いをしないよう自分も頑張ろう。そう瀬奈は心の中で気合を入れたのだった。


 瀬奈の住むマンションは歩いてほど近い所にあった。外観を一目見て高級マンションであることが分かった。

「瀬奈の家は割と裕福なんだな。」

「もう、止めてよ。それなら解君は家持ち銭湯持ちのお坊ちゃんだよ?」

「そうだな。悪かった、俺が間違ってたな。」

二人はそんな軽口を叩きながら手をつないでエレベーターに乗った。瀬奈が解を盗み見ると、珍しく解が緊張しているのが分かった。ついさっき自分を悪く言った相手の所に行くのだから当然だろう。だが瀬奈は解を見ていると逆に闘志が湧いてきた。

「大丈夫だよ、解君。悪口なんて絶対に言わせないからね。」

「喧嘩に行くんじゃないからな。…でも、ありがとう。」

少し緊張が解けた様子の解を見て、瀬奈は解に嫌な思いはさせないと自分に誓った。

 二人はドアの前で手を離し、代表して瀬奈がインターホンを鳴らした。当然瀬奈にはインターホンは不要だが、瀬奈が二人同時に入った方が緊張しないと主張した結果だ。二人が待っているとドアが開き、瀬奈の母親が出てきたのでまず瀬奈が口を開いた。

「ただいま、お母さん。」

「お帰りなさい、瀬奈ちゃん。帰ってきてくれて良かった。それに確か、カイさんですよね?」

瀬奈の母親は瀬奈を見るなり笑顔になり、解にも笑顔を向けた。解にも好意的な様子だ。

「はい、黒条解です。すみません、突然来てしまって。」

「いえ、気にしないで下さい。こちらこそ、さっきは失礼なことをしてすみませんでした。」

「いえ、そんな…。」

「お母さんはそんな感じなんだ、良かった。あ、でもカイじゃなくて解君ね。それで、お父さん家にいる?」

瀬奈は母親のイントネーションを訂正して質問したが、同時に少し安心していた。とりあえず母親はこちらの味方らしい。そして瀬奈の質問を聞いて母親はいらずらっぽい顔になった。柔らかく優しい雰囲気で、瀬奈も母親になるとこんな感じなんだろうかと解は思っていた。

「ええ。私に怒られた後だから落ち込んでるの。瀬奈も解さんも、話すならちょうどいいと思います。さ、どうぞどうぞ。」

「すいません、お邪魔します。」

母親はなぜ解が来たのかを分かっているようで、何も説明されないまま解は居間に通された。

 瀬奈の母親の言う通り、居間では瀬奈の父親がコーヒーを飲みながらノートパソコンを操作していた…が、表情が冴えない。本当に妻に何か言われたかもしれない様子だった。そんな父親は物音で瀬奈と解が居間に入ってくることに気付いた。

「瀬奈!それにさっきの…⁉」

相当驚いたのか、父親は椅子から半分立ち上がった。解達の後ろにいた母親が動揺する夫に笑って言った。

「解さんですよ、あなた。それじゃあ瀬奈ちゃん、解さん、座っていてね。今紅茶を淹れるから。」

「うん。」「あ、お構いなく。」

瀬奈は真っすぐ父親の正面に向かい椅子に座り、解は瀬奈の隣に座った。母親が鼻歌を歌いながらお茶の用意をする中、父親はかなり居心地が悪そうに口を開いた。

「お帰り、瀬奈。それにその…。」

「あ、黒条解です。すみません、お邪魔しています。」

「ああどうも、黒条君。いらっしゃい。」

父親の反応を見た瀬奈はまず一安心した。父はいつもの穏やかな様子に戻っていて、少なくとも解を悪く言うことはなさそうだ。

「早速だけどお父さん、さっきはごめんなさい。解君のことを誤魔化したのは私なのについ喧嘩腰になって。」

「いや、私の方こそよく知りもしない黒条君を悪く言ってしまった。頭に血が昇ったとはいえ、申し訳なかった。」

瀬奈は父親に、父親は解に頭を下げた。解はいきなり謝罪されるとは思っていなかったので急いで答えた。

「いえ、俺こそ泊める側の配慮が足りずすみません。それに、昔から見た目で悪く言われることは多かったので気にしてないから大丈夫です。」

「そ、そうか。すまないね。」

「解君、それフォローになってないよ…。」

「え?」

「はーい、紅茶ですよ。どうぞ。」

解のフォローになってない発言である意味空気が緩んだところで紅茶が横から差し出された。母親は解の隣に座って微笑んでいた。

「ふふ、皆で謝るなんておかしい。解さん、砂糖とミルク、使いますか?」

「あ、なら牛乳だけで。」

「あら、解さんは紅茶が分かる人?あ、解君はお菓子を作れるんですよね。瀬奈がよくあなたの話を…。」

「ちょっとお母さん⁉そんなこと言わなくていいから!」

母親は解を見てにこにこしていた。どうやら娘がよく話してくれる男友達に興味津々のようだ。解は少しそわそわした気分になりながら父親を見て話した。

「あの、俺は白髪で服も不良みたいな見た目ですし、喧嘩をすることもありました。品行方正とは言えませんが、瀬奈に悪影響を与えることはありません。それに、瀬奈は安易に友人から悪い影響を受ける人間ではないと思います。なので、俺という友人がいてもあまり心配しないで下さい。」

解は瀬奈の父親と目を合わせて話した。どうしても言ったことの証明はできないので、誠意を見せるしかなかった。解の言葉を聞いて父親は黙っていたが、しばらくするとふふ…と笑い出した。

「大丈夫、瀬奈が信頼するなら私達も信じるよ。しかし黒条君は真面目というか、正直だな。とにかく、もう君を悪く思っていないから安心してほしい。…それにしても、『友人』か…。」

「解さんは嘘を吐きそうにないから、本当に『友人』なのね。瀬奈は奥手だろうし…。」

父親は『友人』に安心し、母親は『友人』で残念がっていた。分かっていない解の隣で、分かっている瀬奈はすごく嫌そうだった。

「せっかく分かってないんだから、ほんとに止めて…。」

「…?どうした、何が分かってないんだ?俺がか?瀬奈がか?」

「何でもない、何でもないから!霧谷家の話だよ。」

「そうか。でも良かったな。お前は家族と仲直りできて、俺はお前の友人でいられる。最良の結果だと思うぞ。」

無表情だが穏やかに言う解を見て、瀬奈は毒気を抜かれ笑った。


 しばらくして解が帰った後、霧谷家一同は居間に集まっていた。といっても父親は軽く仕事を、母親は夕飯の支度を、瀬奈は紅茶を淹れるためでそれぞれ理由が違ったが。

「あなた、瀬奈が初めて連れてきた男の子への感想は?」

「不思議な感じだったな。変わってはいるが、しっかりして面白い子だ。」

「瀬奈ちゃんの話だと家事も勉強もできるそうよ?おまけに喧嘩も強いとか。でも、瀬奈ちゃんは頑張らないとね。」

「そうだな。瀬奈、彼は大変だぞ。」

「もう、勝手なことばっかり言って…。」

瀬奈はそれだけ言うと紅茶を持って自室に逃げてしまった。瀬奈の両親は瀬奈の成長と共に時間の経過を改めて感じていた。何となく寂しくも嬉しい、決して悪い気分ではないがどこか複雑な、実に複雑な気持ちだった。



 瀬奈が解の家に泊まってから一週間ほどが経過した。特に解自身も周囲にも変化はなく、特に解の発作はあれからは出なかった。しかし、解は麗との約束があったので、麗にフラッシュバックがあったことはちゃんと話した。麗はとても心配していたが、相談の結果、解の調べもの(児童虐待について)は継続ということになった。

『軽い発作は相談だけど、強い発作が起きるようなら作業を中止してね?』

麗が本気で心配している以上、解も無理を通したくはなかった。

 ちなみに、麗が心配している児童虐待の検討は芳しくなかった。表面的なデータ、年間の件数、虐待内容、虐待する側の立場・年齢・性別、虐待される側の年齢、性別は簡単に分かった。虐待する側の子供時代(虐待の有無、金銭的余裕など)、現在の家庭環境(職業、収入など)も調べれば問題なく分かった。しかし、解が知りたいデータ、虐待する側はされる側をどう思っていたのか、される側はする側をどう思っていたのかはほとんど分からなかった。虐待される側は虐待されても相手への愛情を失うわけではなく、むしろ愛情が強化されることも多いと書いてはあるものの、その具体的な統計数値、愛情の質的・量的変化はほぼ記載がなかった。

(仕方ないとは思うが…。)

虐待の被害者に過去を掘り起こすようなことはできない。解も自分の体験を瀬奈達には話しても赤の他人に話す気にはならない。また、加害者から得た情報も内容によっては被害者の許可がいるだろう。よって、心理的な研究がなされないのも当然といえば当然だった。

 解は瀬奈達にはあまり虐待についての調べ物は手伝わせなかった。自分の過去に向き合うためにしているので、友人達に調べてもらっても意味がないからだ。それに、どうしても調べて気分のいい内容ではないため、友人達に負担をかけてはいけないと思っていた。

 解のフラッシュバックは悪化してはいない。瀬奈が見た発作は軽く済み、とりあえず次の一週間に発作は起きなかった。虐待を調べることによる精神的負担は解自身特に感じていないものの、実際に起きた虐待の内容を読むと気持ちが沈んだ。それによる影響はいずれ答えがでるだろうと解は考えていた。



「なあ解、子供の虐待についての経過はどうだ?また手伝いがいるか?」

放課後の愛情研究会にて、ちょうど生徒会での話を相談し終えたところで透矢が解におもむろに話しかけた。

「とりあえず大丈夫だ。楽しいものじゃないが調べること自体も俺には意味がある。ゆっくりするだけだ。」

解の言葉を皆しっかり聞いていた。解が調べているのは知っていても、解の過去を考えると気軽に扱っていい話題ではなかったのでなかなか聞けず、心配していたのだった。

「ならいいんだけどな。ほら、周りの奴等も心配してるから、代表して聞いてみた。」

「え。心配させてるか?」

「まあそれはね。根掘り葉掘り聞くのはどうかと思うから、あんまり聞いてないけど。」

始音が代表して答える隣で瀬奈と七海がこくこくと頷いた。解は一人ですれば迷惑をかけないと考えていたが、一人だからこそ心配をかけていることに今気付いた。解は立ち上がって頭を下げた。

「心配かけて悪かった。これからはある程度お前達にも言うようにする。」

「なら良かったよ。それで解、提案なんだがお前の調べたことを文化祭で発表するなんてどうだ?」

「文化祭に…?」

「なんでですか?」

「いやなに、今でも愛情研究会って何してんだ?って聞かれるだろ?その例えとして真面目な活動を見せるってことだ。先生とか反対勢力の牽制になるし、校則改定の会議でも愛情研究会は変な会じゃないと説明しやすいだろ。」

透矢はにやりと笑いながら淀みなく説明した。この流れを想定していたようだ。一方解は悩んでいる様子だ。

「理由は分かった。別に出すこと自体はできるし、してもいいと思う。ただ、学会のポスター発表みたいに見せるとして、真面目過ぎる話だから誰も見ないと思うぞ。」

「まあそうだな、誰も見ないのになんでするのかって話にはなるよな。さっきの説明は所詮他人向けだしな。」

「もったいぶらないで早く説明してよ。相変わらず策略家というか、黒幕というか…。」

瀬奈に文句を言われ、透矢は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。

「くくく、悪い悪い。じゃあちゃんと話すか。俺達はこうやって話して、解がタブレットに記録を残す。解が愛情を学ぶって目的は果たしてるが、全員で話す以外に何かすることはまずないだろ?」

「そうですね。私達は話してるだけで、実質手を動かしてるのは先輩だけです。」

「な?だからたまには全員で手を動かしてもいいと思うわけだ。解は自分を見つめ直す、俺達はお前の努力を形にする。解が調べた内容は俺も見たが、十分調べてあるから今からでも形にできる。ついでに、虐待の話を見聞きしたからってずっと体調不良になるわけじゃない。どうだ?」

透矢は全員に向かって尋ねた。解の懸念も含めて全体をきちんと考えた意見だった。解が皆の反応を見ていると、まずは七海から声が上がった。

「茅野先輩の言う通り、やってみませんか?皆で何かするのっていいことですし、楽しいですよ。それに、私だけ学年が違うせいで先輩方と一緒に行動できませんし…。」

「先輩方じゃなくて先輩の間違いだろ?」

「そ、そんなことないですよ?」

「こら、後輩をからかわないの。茅野君と七海ちゃんの意見は分かったけど、決定はいつも通り解君次第よね?どう解君?皆でやってみる?」

始音のまとめが終わると全員の視線が解に集中した。解は実際にやるべきことを想像しながら答えた。

「パソコンか手書きで作って、印刷は業者。データは透矢の言う通り現時点でそれなりにある。…そうだな、俺はしていいと思う。ただ負担が増えるのはお前達だから、俺の独断で決めるのは…。」

「私は大丈夫だよ。」

瀬奈がはっきりと言った。

「解君は色々経験した方がいいでしょ?それに、そもそも解君のために私達愛情研究会がいるのに、解君だけこそこそしてたら良くないよ。皆でやれば心配もしなくて済むし、七海ちゃんも満足する。円満解決じゃない?」

瀬奈が言い終えて周囲の反応を窺うと、様子が少し変だった。悪い空気ではないが、瀬奈は心配になってきた。

「な、何?なんか変なこと言った?」

「いいえ。瀬奈ちゃんが随分積極的だなと思って。いつもなら『解君もこう言ってるし、やってみてもいいんじゃないかな?』くらいなのに。あ、積極的なのはとてもいいことよ、先生的には。」

「ま、三日会わなきゃ霧谷も進化するってことだな。」

「私男子じゃないし、進化もしないからね。」

「私は瀬奈先輩の言う通りだと思いました!やっぱり愛情研究会は先輩が中心にいてこそ、ですよね!」

「七海ちゃん、同意してくれるのは嬉しいけど、今は会長としてまとめないと…。」

「はっ!そうでした。えっと、じゃあ愛情研究会は『児童虐待について』をテーマに文化祭で発表することにしましょう!」

七海の元気な宣言に全員が頷いた。それから全員で役割と分担したり生徒会に届け出をしたりと忙しい放課後を過ごした。

解は自分が恵まれているなと改めて感じていた。瀬奈の言う通り、愛情研究会は解が種々の愛情を理解するために協力してくれる友人の集まりだ。だから一人で調べることにも協力してくれるし、心配もしてくれる。そしてこの会が始まるきっかけは真がくれたタブレットだった。周囲に恩返しできてないことは申し訳ないが、友人達と出会ったこと、彼等が今も友人でいてくれることに感謝しなければと思った。



 発表することが決まってから時間が経ち、文化祭の一週間前という頃になった。普通なら準備に忙しくなりそうなものだが、愛情研究会は比較的落ち着いていた。基本的なデータは解が集めていた上に透矢がまとめたものをポスターにする役になったので、全体としては発表の流れと内容を決めるだけだったからだ。

ところで、解は実際にあった虐待例を可能な限り調べていたが、瀬奈達の負担になることを考え見せなかった。しかし、透矢はあえて生々しいデータの方を見たがるタイプだったので、解は虐待の具体的な詳細についても透矢と議論することができた。結果として、一人で調べるよりも理解と考察を深めることができた。


「結構あっさりポスターはできましたね。」

「データが最初からしっかりあれば追加で調べるのも簡単だからね。」

瀬奈、始音、七海は同好会室で喋っていた。七海は瀬奈の髪を整え、瀬奈は透矢のノートパソコンでポスターを確認し、始音は授業の準備で教科書に色々書きこんでいた。年齢もしていることもそれぞれ違うので、三人は似てない三姉妹という感じだ。

「私にはちょっと難しかったですけど、ポスターの作り方とか虐待のこととか、勉強になりました。加害者の人をただ責めても解決しないっていうのは特にへえって思いました。」

「そうね。親を捕まえてもじゃあ子供は誰が育てるんだって話もあるわね。虐待した親と必ずしも子供が離れたいわけじゃないってのも意外よね。」

「経験してないと理解しにくいところはありますよね…。ところで、解君と茅野君はどうしたんですか?」

瀬奈が当然の疑問を口にして、始音は軽い調子で肩を竦めた。

「さあ?ここで待てって言われたきりよ。七海ちゃんは?」

「私も茅野先輩にここに来るように言われました。茅野先輩が教室に来ることなんてなかったからびっくりしました。」

「うーん…。」

三人が不思議に思っていると、透矢が同好会室に入ってきた。手には買い物袋を持ち、割と重そうだ。

「よう、待たせたな。ほら、これ。」

「って、何で飲み物?」

「と言われても、解が来ないことには何とも言えないな。」

にやにやしながら透矢は全員にペットボトルを渡していった。

「なんで全部ミルクティーなんですか?」

「川野辺は知らないか。イギリスは基本的にミルクティーなんだぞ。」

「そうなんですか?」

「そうだけど…。」

「ふう、悪い、遅くなった。」

少し息を切らせて解が入ってきた。解も中身が入った大きめの買い物袋を持っていた。

「あ、もしかしてケーキかしら?」

「え!本当ですか⁉」

「ああ。ちょっと待ってくれ。」

解が袋からケースを出している横で、透矢が紙皿とフォークを並べ始めた。女性三人はそのまま待っていたが、明らかに事情を知っている透矢に瀬奈が渋い顔で文句を言った。

「最初から知ってるなら教えてくれたらいいのに。」

「それじゃあサプライズにならないだろ?まあ解の話を聞けって。」

透矢の言葉で視線が解に集まったが、解はケーキを皿に移すのに忙しかった。全員にケーキを配ったところで解が口を開いた。

「今日は俺が全員にお礼をしようと思ってケーキを持ってきた。」

「お礼?」

「ああ。いつも世話になってること、今回の調べものを一緒に作業してくれたこと、他にも色々だな。皆、いつもありがとう。助けられてばかりだが、これからもよろしく頼む。」

「解君…。」「先輩…。」

「解君もお礼を言えるくらい成長したのね。先生嬉しいわ。でも、言葉だけで十分なのに、どうしてケーキなの?」

「いや、即物的とも思ったが、透矢に相談してケーキになった。」

解の言葉を聞いて瀬奈は深いため息を吐いた。

「やっぱり茅野君が黒幕なんじゃない。」

「まあまあ。しかし解君はまめね。いちいちお礼なんてしてたら身が持たないわよ?」

「今回は俺の勝手な調べものに付き合ってくれたからな。」

「それがまめってことなんだけど、まあいいわ。じゃあ遠慮なく食べましょうか。」

「はーい!では私から…わあ、美味しいです!さすが先輩!」

「でもこのケーキ、何だ?名前は?」

「名前はない。スポンジ生地とフランボワーズのムースで層をつくって、その上にジャムを乗せて、周りをシャルロット生地で巻いてみた。」

………?

「やばいな、ちょっと何言ってるのか分からん。」

「木苺のムースケーキだ。」

「一言でまとめたね…。でも美味しい。解君はお菓子屋さんになる、なんて進路もありかもね。」

笑顔で進路の話を振った瀬奈に対し、解は真面目に考えて真顔で答えた。

「料理はただの技術であって、好きでも嫌いでもないぞ。」

「好きなことでないと仕事にしちゃいけない、なんてことないわ。前も言ったでしょ?」

「そうだったな。…だが、甘いものが好きでも嫌いでもない奴がパティシエになるのはどうなんだ?」

「あー、そこかあ…。それは好きな方がいいかも。」

「いーえ、可能性を簡単に潰したら駄目よ。そんな進路もあっていいんだからね?」

教師モードの始音が真面目な声で解に忠告した。確かに、可能性は簡単に捨てない方がいい。

「ああ、分かった。」

「まあまあ。始音先生も瀬奈先輩も難しいことは言わないで食べましょう。せっかく先輩が作ってくれたんですから。」

七海は進路の話をする瀬奈と始音を笑顔でなだめケーキを勧めた。しかし、口の端にクリームが付いたままなので今一つ説得力に欠けた。

「七海、口に付いてるぞ。」

解はハンカチで七海の口元を拭いてあげた。最初は指で取ろうとしたが、頭を撫でるのはよくないのではないかという疑問を思い出し接触しないことにした。

「ありがとうございます!」

笑顔で解を見上げる七海を見て気が抜けたのか、始音と瀬奈も食べるのを再開した。その後は他愛もない話をしながらケーキは消えていった。


 15cmのケーキは速やかに食べられ、あと一切れになった。

「一切れだけ残ったな。」

「女子はたべないのか?甘いの好きだろ?」

「うう、もう二つ食べちゃったし…。」

「駄目、七海ちゃん!ここは我慢!」

「女の子にこれ以上食べさせちゃダメよ。体重管理とか大変なのよ?」

「じゃあ持って帰るか。」

解は一切れだけのケーキを箱に入れた。美味しいとは言ってもらったが、残ると少しわびしいものがあった。七海はケーキを片付ける解を申し訳なさそうに見ていたが、ぴこん!と一つ案を思いついた。

「そうだ!先輩、生徒会に持っていくのはどうでしょうか?つばめちゃんはケーキ好きですよ。」

「うーん…。解君は生徒会とよく会ってるからちょうどいいとは思うけど…。」

瀬奈は難しい顔をしながら言葉を濁した。しかし、解は瀬奈の様子に気付かずケーキを入れた箱を抱えた。

「生徒会か。なら、今から行ってくる。」

「え、今からですか?」

「用事が終われば生徒会は早く帰るからな。じゃあ。」

解は素早い動作で箱を持って同好会室を出て行った。透矢以外は解の素早さについて行けずしばらくぼうっとしていた。少しして、瀬奈は不安そうにぼそっと呟いた。

「持って行っていいのかな…。上手く説明できるか心配。」

「私、ちょっと生徒会室に行ってきます!」

「まあ待てって。解を心配するのは分かるが、たまには一人にさせてやれよ。ずっと隣に誰かがいたら気を張るだろ?」

「そうですか?」

「そうそう。それに、あんまりべったりな妹は兄に逃げられるんだぞ?」

「ええ!」

透矢に止められた七海はショックを受けたようで力なく椅子に座った。

「…嫌われるのは嫌です、けど…。」

「茅野君が言うと説得力があるわね。」

「あ、もしかして前に写真で見た子ですか?あの子、茅野君にべったりなんですか?」

「べったりどころか兄妹なのにラブなんだけどね。」

「え⁉ラブってど、どういうことですか?」

「いやー、詳しくはお兄さんに聞いて。後はお願いね、茅野君。」

「はい?やれやれ…。」

透矢はやや面倒臭そうに後頭部を掻いた。

愛情研究会は間違いなく解の精神的な成長を促しているが、弊害として必ず解の側に誰かがいるようになってしまった。しかもその誰かが全員解に好意的なため、必ず解をフォローしてしまう。解や他の仲間の成長を観察したい透矢としてはそれでは困るので、解が一人で行動する時間を作ったのだった。

(とはいえ俺がいちいち動くのも面倒臭いんだがな。)

予想の範疇とはいえ妹の詳細を語ることになってしまったので、透矢は心の中でため息を吐いた。



 解は一人になった後すぐに生徒会室に着いた。解が戸を叩くと、

「ひゃぁっはい!」

変な声が聞こえたが、解は特に気にすることなく戸を開けた。

「な、何⁉って、黒条君?」

明らかに様子のおかしい聖が一人で会長席に座っていた。

「何と言われても、それは俺が聞きたいくらいだ。俺はお裾分けのケーキを持ってきただけだ。」

「え、ケーキ?もしかしてあなたが作った?」

「ああ。」

「杉崎さんから聞いてるから興味はあったのよね。もらっていいの?」

「ああ。そのために来たからな。今は一人だけなのか?」

「ええ。今日は話し合いが終わったらそのまま解散したから…。」

ぱたっ。

「っ!」

聖の足元に何かが落ちて解の方に来たので、解は思わずしゃがんで拾った。

「ん…。『肉食なあの子』?ああ、好きな恋愛の本だな。落としたぞ。」

「…。」

解が拾ったのは恋愛短編漫画、と言えば聞こえはいいが、聖の好きな成人向け漫画だった。解からすると落とし物を返した程度の感覚だったが、聖にとっては違ったらしい。俯きがちに漫画を受け取ると、不気味に震えながら笑い出した。

「ふふふふふ…。笑っていいのよ。生徒会長が生徒会室で一人こそいかがわしい漫画を読んでたなんて、とんだ笑い草よ…。」

「落ち着け。俺は笑ってないぞ。」

漫画を見られてまた情緒不安定になった聖。解はそんな聖に再び真面目に対応した。宥めるための上手い言葉を言えない分、せめて考えははっきり伝えよう。

「前も言っただろ。珍しい趣味嗜好だろうと俺にとっては普通と同じ価値だ。だから笑わない。お前が漫画を読む様子は楽しそうで、いいことだ。」

「…本当?嘘ついてない?同じこと言わされて怒ってない?」

「嘘は言ってないし、怒ってもないぞ。」

不安そうな聖から目を逸らさず解は頷いた。

解の本気が感じられたのか、聖は少しずつ落ち着きを取り戻した。

「わ、分かった。信じる、信じるわ。…よし、落ち着いた。ごめんなさい、またも取り乱して。」

「気にしなくていい。前も今も、思ったことを言っただけだからな。それより、ケーキは食べられそうか?」

「そうね、もう大丈夫。黒条君も食べるんでしょ?」

「俺はさっき食べたから大丈夫だ。」

「さっき?」

「ああ。」

この時点で聖は大体事情をつかんでしまった。そのため訝し気な視線を解に向けた。

「…もしかして、愛情研究会の皆で食べて、余ったからここに持ってきたの?」

「ああ。お裾分けと言っただろ。」

解は悪びれもせず、というよりただ聞かれたことに素直に答えた。聖はむっとして解に文句を言おうとして、何も分かっていない解と目が合った。いつもは格好いいくせに、こういう時の解は何だか子供のようだ。聖は気が抜けたように大きく息を吐いた。

「…はあ。黒条君にそういう気遣いを期待しちゃ駄目よね…。」

「どうした?何かあったのか?」

解は無駄のない動きで箱からケーキを取り出し、紙皿に乗せて聖の前に置いた。様になっているのが何だか腹立たしく、聖は持っていたお茶をぐいっと飲みどんっと置いた。

「よし。解君、そこに座りなさい。」

「ああ。」

解は素直に返事すると、不思議そうに椅子に座った。時々仕草が妙に可愛らしく見えるから卑怯だ。

「えー、お裾分けなのはいいわ。でも、お裾分けと食べ残しは違うでしょ?女性にあげるケーキが食べ残しっていうのはどうかと思わない?」

「駄目か?食べ残しといっても食べかけとは違うぞ。見た目も味も、俺が食べたものと同じはずだ。」

分かってない、何も分かってない。聖はつっこみたい気持ちをケーキと共に飲み込んだ。…美味しい、かなり美味しい。

「実質的に同じでも、残り物?って聞かれてああそうだ、じゃ駄目でしょう。元々切り分けてたものですとか、こっちに持って来るために取っておきましたとか、他に言い方があるでしょ?」

「……!確かに。」

聖の言っていることがようやくぴんと来たらしく、解ははっとしていた。やっと分かってもらえた聖は気を良くしてケーキを頬張り、軽い調子で付け加えた。

「それにね、ケーキを持ってきたって言われたら『え?私のためにわざわざ?』ってなるでしょ。私じゃなくても『特別なものかな?』ってつい期待しちゃうものなの。」

「どう特別なんだ?」

「え?」

「いや、ケーキに特別な意味を感じるんだろう?俺はこのケーキに感謝を込めたが、それ以外にどんな意味があるんだ?」

解は子供のような純粋な目で聖を見ていた。聖は調子に乗って喋りすぎたことを後悔した。

「えっと…。その、仲良くしましょうとか、そんな意味…?」

「そうか。つまり、俺が聖と仲良くなりたがっている、と聖は解釈したのか。」

「え?うん、まあ…。」

もっと考えると、「解が聖と仲良くなりたいがっている」ことを期待する=聖も解と仲良くなりたいということだ。解より先にその事実に気付いた聖は恥ずかしくなってきて、ケーキの味がよく分からなくなってきた。そして聖が緊張する中、解が続きを言うために口を開いた。

「心配するな。俺はお前と仲良くなれればいいと思ってるぞ。友人になれればと思ってるんだが、駄目だったか?」

「いや、駄目じゃないけど、私達って黒条君的には友達じゃないの?」

それはそれで若干ショックな聖に解が珍しく狼狽えた様子で答えた。

「いやその、俺は友人が何なのか最近分かってきたばかりだから、相手を勝手に友人と呼ぶのに抵抗があるというか、申し訳ないというか…。正直呼びにくい。だから、もし聖が俺と友人と思ってくれるならありがたいんだが…。」

聖は安心したような、残念なような、複雑な気持ちで苦笑した。とりあえず、自分も解もそれでいいと思った。

「大丈夫よ。私は黒条君を友達だと思ってるわ。大体、一番知られたくない秘密を知ってる人が友達じゃないって変よ。」

「秘密を知ってることが友達なのか?」

「違うわよ。隠し事がないってこと。」

聖はまたケーキを一口食べた。今度は甘酸っぱい美味しさが口の中に広がってくれた。

 解は何となく聖が食べ終わるのを待っていた。相変わらず配慮が足りない、言葉の意味が分からないと未熟なところだらけだったが、聖のお陰で勉強になった。しかも、聖は自分のことを友人だと言ってくれた。今回は面と向かって友達になって下さいとお願いしたようなものなので、うまくいって本当に良かった。

(分からないままのこともあるが。)

聖の言葉を考えた結果、聖は自分と仲良くなりたいという結論に至ったが、「仲良く」が友情、恋愛、隣人、いずれの意味かは分からないままだ。聞いても良かったのだが、聞かなかった。不思議と聞く気にならなかった。なぜ自分は聞かなかったのか、結局聖の「仲良く」は何だったのか、解には分からなかった。



   愛情を伝える瞬間

 恋愛において、対象に愛情を伝えることを告白という。愛情を伝えるだけだと思うが、一般に告白は緊張するものだそうだ。また、恋人、友人、親子間において愛情を伝えることに羞恥心を持ち伝えないことがあるらしい。愛情を伝えることになぜ周囲を感じるのだろうか。

まず、相手との関係が未確定の場合、愛情を伝えると否定される可能性がある。そのため躊躇いが生じることは理解できる。しかし、躊躇いは羞恥心とは違うため今回の疑問の答えにはならない。

次に、愛情はそもそも秘めるものという社会通念が考えられる。確かに日本人よりも欧米人の方が愛情を積極的に伝えるとされているため、この思想は愛情表現の方法に大きく関係しているだろう。

恋愛(性愛)にしか当てはまらないが、性的なものは隠すべきとする意識も関係しているだろう。愛情に性的なものが含まれているなら伝えることも控えるべきとする考えに至ってもおかしくない。

愛情を理解できない、羞恥心を持たない自分には、愛情を伝えることが恥ずかしいと言われても全く分からない。しかし考察する意義はある。なぜなら、愛情は他との関係によって生まれるものである故に、自身にとっては愛情を持つことが、相手にとっては愛情を伝えられることが重要だからだ。2つのうち1つにとって伝えることが重要である以上、無視することはできなかった。また、自分に分からないことも次につながるなら可能な限り考察はしておくべきと考える。

       〇月×日(死の3ヶ月前)

               真 記




 文化祭当日はよく晴れており文化祭日和となった。が、朝から運のない人間もいた。

「うわ、どうした黒条⁉」

「びっしょびしょじゃん。」

「ちょっとな。」

登校した解は朝から上から下まで濡れ鼠だった。幸い靴下はあまり濡れていないので解に不快感はそれほどなかったが、周りから見れば異様な濡れ具合だ。瀬奈はクラスの出し物の準備をしていたが、解を見て近寄ってきた。

「解君、おはよう。で、なんでそんなに濡れてるの?」

「通りがかった家で蛇口が外れて水が溢れてたから手伝っただけだ。」

「いいことなんだけど、相変わらず自分からトラブルに突っ込んでいくね…。」

いつも通りの我が身を顧みない解の行動だった。瀬奈が若干呆れていると、透矢も会話に入ってきた。

「一度帰ってきても良かったんじゃないか?」

「いつか乾くから大丈夫だ。」

解は自然乾燥を待つらしい。あまりに野性的な解の返事だったが、それを聞いたクラスの女子がさらに会話に入った。

「あっ!じゃあ黒条君、店の服を使おうよ。そしたら宣伝にもなるし、服も乾かせるし、一石二鳥だよ。」

「あ!いいね、それ。私も黒条君のコスプレみたい!」

愛情研究会がポスターを作ったように個々のクラスでも出し物があり、解のクラスは着せ替え写真展だった。解が家にあった白衣と聴診器を持ってきたように、クラス全員で衣装を持ち寄ったのだ。

解はいつもの無表情な顔で女子の希望に答えた。

「何か着ろというなら着るぞ。」

「ええ⁉ほんとに?」

「ああ。着替えて困るわけじゃないからな。」

「わーい。じゃあ黒条君、こっち!」

「一名様入りまーす!」

あれよあれよという間に解は女子達に連れていかれてしまった。解が入れられた簡易試着室からがやがやと話が聞こえてきた。

『体を拭いたらこれに着替えてね。』

『…着方が分からないんだが。』

『分かんなかったら手伝うから教えて。で、濡れた服はこの籠に入れてね。』

「…大丈夫かな…。」

瀬奈は解を心配して呟いたが、待つしかなかった。少し準備を手伝っていたが、試着室から黄色い声が聞こえたので振り返った。

「黒条君似合ってる!可愛いー!」

「すごくいい!一緒に写真撮ろ!」

「似合うと言われてもな…。」

そして、試着室から笑顔の女子達がまず出てきて、次に着替えた解が出てきた。クラス中が試着室から出てきた解に注目した。

 出てきた解は足首に近い長さの黒いスカート、同じく黒い服、その上に白のエプロンを着ていた。首元やエプロンにはリボンが付いていて、頭にはご丁寧にヘッドドレスまでつけていた。要はまごうことなきメイド服だった。身長175cmほどの男性である解がメイド姿なのは事実としては異様だが、見た目としては意外と普通だった。解が白髪色白、髭など体毛が濃くないからか、背の高い男っぽいメイドという様子だ。そして、解の堂々とした雰囲気がメイド服にマッチしてしまっていた。

「くっくっく。お疲れ様、解。随分ひらひらしたな。」

「ああ、珍しい服だな。メイド、給仕役か。」

指で首元を馴染ませる解だったが、カフスのボタンとリボンが輝いていた。瀬奈は思わず見つめてしまっていたが、我に返り解に声をかけた。

「あ、あの、恥ずかしかったりしないの?」

「別に。女物なのは分かるが、男が着ても問題はないはずだ。」

「あー、まあ、そうだね…。」

解の堂々とした態度と答えに瀬奈は頷くしかなかった。複雑な瀬奈とは対照的に、透矢は面白そうに色々な角度から解を観察していた。

「存外似合ってるし、いい宣伝になるな。俺も霧谷もクラスのことはあまりしてないし、協力するか。」

「え、まさか着替えろってこと⁉」

「ああ。いいだろ?」

「いいよー。茅野君と瀬奈なら、むしろ大歓迎!」

「よし、俺達も何か着るか。まあ、俺達は自分で選ぶけどな。」

「ええ~…。」

「ちょっと、私も強制なの⁉」

 ……ということで透矢と瀬奈も着替え、透矢は着流し姿、瀬奈は黒のスーツ姿になった。

「二人とも似合ってる!」

「瀬奈、かっこいい!惚れちゃうぞ。」

「やめてよー、もう…。」

照れる瀬奈とは違い、透矢は全く動じることなく解に近づいて話しかけた。

「俺と霧谷も着替えてみたが、どうよ?」

「二人ともいいんじゃないか。これで全体を回れば聖の頼みも聞ける、クラスの宣伝にもなる、一石二鳥だな。」

「それで出歩くのか?動きにくくないか?」

「多少な。ただ、別に戦うわけじゃないから問題ないと思う。」

「ふ、二人とも、本気でこのまま出るの?」

特に解君。

「別に待っててもいいぞ。」

「ああ。見回りの協力要請も強制じゃないからな。瀬奈はゆっくりしてていいぞ。」

「ええ?ちょっと待って、私も行くから!」

解と透矢は瀬奈を置いて歩き始めてしまったので、瀬奈も慌てて二人を追いかけた。クラスメイトは三人を笑顔で送り出した。

「いっぱい宣伝してきてねー。」

「いってらっしゃーい。」

「瀬奈、頑張ってねー!」


 送り出された解達だが、その中で瀬奈は少し、解はそこそこそわそわしていた。

「どうしたの、解君?」

「いや、妙に視線を感じる。どうしてなんだろうな。」

「…いや、服、服。」

「服?確かに珍しい服だが、見るほどじゃないだろ。」

「解君と服!組み合わせがすごいから!」

「?似合ってるんじゃなかったのか?」

「あー、もう!」

気持ちが伝わらずいらいらする瀬奈に代わり、余裕のある透矢が笑いながら解に解説した。

「似合ってなかったら不気味だから目を逸らすんだよ。割と有名人のお前がメイド服を着て、しかも似合ってるから注目されるんだ。分かったか?」

「そういうことか。よく分かった。俺が有名人かどうか、この服が似合ってるのかは分からないがな。」

「そこは分からない方がいいよ…。」

「そうか。」

「まあ、目立つ方が見回りとしてはいいだろ。一種の抑止力になる。」

「あ、先輩!」

会話中に大声がしたので、解が声の方向に振り返ると七海が駆けてくるのが見えた。

「せんぱーい!」

「ああ、七海。おはよう。」

「おはようございます!瀬奈先輩も、茅野先輩も、おはようございます!」

「おはよう七海ちゃん。今日も元気だね。」

「よく場所が分かったな。解の匂いでもしたのか?」

ほぼ犬扱いな透矢の発言だったが、七海は全く気にすることなく笑顔で答えた。

「教室に行ったらもう出たと聞いたので、探し回ったんです。さすがに疲れました…。でも、それにしても…。」

七海は目を輝かせて三人を見上げた。

「三人ともとっても似合ってますね!特に先輩はとっても可愛いです!あの、今の服に似合うよう、髪形をちょっと変えてもいいですか?」

「俺は構わないぞ。」

「じゃあ、私のクラスに行きましょう!休憩所になってますから。瀬奈先輩も茅野宣先輩もどうですか?」

「俺もついていくか。」「じゃあ私も。」

「分かりました!じゃあ先輩、行きましょう!」

そう言うと七海は解の手をとって引っぱっていった。瀬奈は先を行く二人を笑顔で見ていたが、透矢はそんな瀬奈ににやにやしながら話しかけた。

「お前もあれくらい積極的にならないと、なかなかうまくいかないぞ?それとも、二人きりの時は違うのか?」

「うるさいなあ…。私は何もしないって言ったでしょ。」

「ほう?まあそれも自由だけどな。責任はお前がとれよ?」

「責任って何?何もしないのに?」

「何もしないことを選んだ責任だ。たとえどれほど受動的だろうと選択肢がなかろうと、人は死なないこと、現実を受け入れることを選んでるんだ。」

透矢が言ったことは大変厳しい内容だ。ありとあらゆることは自分の責任だということだ。しかし、だからこそ自分で考えて決めるべきだという意味も込められていた。

「…茅野君は親切なのか冷たいのかよく分からないよね。妹さんはやっぱりそういうところが好きなの?」

瀬奈は悪意なく純粋に疑問を口にした。真弓の話が出たからか、それとも瀬奈に悪意がなかったからか、透矢は一瞬だけ動きが止まった。しかし、すぐに余裕を取り戻し笑った。

「ははっ!俺は親切でも冷たくもない、ただのクソだ。あいつはそんなクソを信じてる変わり者だ。それだけだな。くっくっ。」

透矢はもう一度笑って歩いていった。呆気に取られていた瀬奈も透矢に続いた。

透矢は難解で、真意も何も分からなかった。いつも分かるのは分からないということだけだ。しかし、それが今の会話の全てだった。瀬奈には分からなかったが、透矢にとっては十分意味のあるものだった。


解達が七海の教室に着くと、七海のクラスメイトが騒ぎ始めて解達を取り囲んだ。ちなみに七海のクラスは写真と手芸を飾った休憩所だ。

「メイドだ、メイド!」

「スーツ姿、かっこいい!」

「私、好きになっちゃったかも…。」

「皆、先輩達が困ってるから止めて!先輩の髪をセットするんだから、離れてて!」

「はーい。」「写真はいいだろ?」

七海がクラスメイトを散らし、座れる所を確保した。

「先輩方、失礼しました。とりあえず、ここに座って下さい。」

「分かった。」

解は椅子に座ったが、周りの生徒が遠巻きに見たり写真を撮ったりするのであまり気が休まらなかった。透矢と瀬奈も席を勧められたが、髪の手入れをされるわけではないので座らなかった。

「少し待って下さいね…。すぐ終わりますから。」

七海はいつも持っている櫛やワックス、化粧の道具で解の髪や肌をささっと整えた。わずかな時間で解の少し長めの髪は細かく編まれたりリボンで結ばれたりした。さらにごく薄い化粧をされたことで、解はすっかり本物のメイド(女性)のようになった。

「さあ、きれいになりましたよ!」

「うわあ、本当に女の人みたい…。」

「女と間違えられてもおかしくないな。」

瀬奈と透矢が思い思いの感想を言っていた間にも、周囲から「きれい」、「実は女なんじゃ?」などの声が聞こえてきた。そして七海が「先輩は見世物じゃない」と外野を追い払っていた。

 しかし、盛り上がる周囲とは対照的に瀬奈はこれでいいのだろうかと思い始めていた。確かに解は全く嫌がっていないしきれいだ(若干癪だが)。そして七海も周囲も悪意は全くない。しかし、解が無垢なことをいいことに解を使って遊んでいるだけなのではないか。

「解君、大丈夫?見られたり騒がれたりして嫌じゃない?」

「ああ。慣れてないから気にはなるが、別に不快なわけじゃない。」

「本当に?男なのに女っぽいとか言われて嫌じゃない?」

「ああ。他人が感想を言うのは自由だからな。それに、俺は自分が男でも女でも構わないぞ。」

「え?自分が女性でもいいってこと?」

聞いた後に瀬奈は後悔した。解のペースに流されて話が逸れてしまった。

「ああ。」

「巷で言われる性同一性障害ってやつか?」

「いや、違う。あれは身体的性別と性自認の違いがアイデンティティにおいて問題となる疾患だ。俺は自分の性自認がどうでもいいというだけで別だ。」

解は落ち着いた口調で丁寧に説明したが、瀬奈や七海は勿論のこと、透矢も解の言うことがあまり分からなかった。

「よく分からんが、要はその恰好でそのまま歩くってことだろ?」

「ああ。」

「いいの、解君?私達に合わせて我慢してない?」

「ああ。」

「なら行こうぜ。十分休んだしな。」

「ほんとにそれでいくの?女性と勘違いされそうだけど…。」

「大丈夫だろ。さっきも言ってたが気にしないらしいからな。」

「うん…。」

結局、解が全く嫌がってないのでいいことになった。瀬奈はそれでも本当にいいのだろうかと疑念を持っていた。すると、瀬奈を見ていた解が瀬奈の前に立った。

「瀬奈。さっきから色々聞いてきたが、もしかして心配してくれたのか?」

「…だって、いくら解君が気にしなくても、解君自身は楽しくないでしょ。私には周りが解君を利用して楽しんでるように思えるの。皆が悪いとは思わないけど、やっぱり気になって…。」

「…心配してくれてありがとう。だが本当に問題ないから安心してくれ。それに、瀬奈が心配してくれることが嬉しい。楽しいとは違うがそれで十分だ。」

「解君…。」

珍しく微笑を浮かべた解と見つめ合う瀬奈。恋愛の甘いそれとは違う、優しく温かい空気が二人の間に流れていた。

しかし、そんな場を砕く横やりが入った。

「おい、二人共そろそろいいか?川野辺が話しかけたくてうずうずしてるぞ。」

「「え?」」

「茅野先輩!邪魔しちゃだめですよ!…まあ、話しかけたかったのはほんとですけど…。」

「ご、ごめんね、七海ちゃん。どうしたの?」

「はい。クラスでの仕事がないので、私も先輩達についていっていいか聞こうと…。」

「勿論いいぞ。」

解は即答した。七海も友人なので当然のことだった。そして、邪魔した罪悪感があった七海は解の言葉でぱっと顔を輝かせた。

「本当ですか⁉」

「私ももちろんいいよ。一緒に回ろっか。」

「はい!」

「やれやれ。服装が違っても結局いつものメンバーなんだな。」

透矢は苦笑しつつ三人を見ていた。解と瀬奈、七海は仲の良い兄妹のように見えた。特に、瀬奈と七海は同じ相手に恋をしているのに不思議なものだ。その不思議さを気に入っているわけだが。

とにかく、こうして美容師見習いの七海が見回りについてくることになった。


「せんぱーい、チョコはなんで電子レンジを使うんですかー?」

「生地に混ぜるだけなら溶ければ十分だからだ。それに湯煎より簡単だ。」

「黒条先輩、これでいいんですか?」

「焦げてるからやり直しだな。加熱は20~30秒ずつ、少しずつだ。」

見回り中なのに解は料理部と一緒にケーキ作りを生徒に教えていた。見た目がメイドなので家事のプロのようだった。

 瀬奈と透矢、七海は家庭科室の後ろで解を見ながらひそひそと話をしていた。

「で、なんで解君は料理部の助っ人をしてるの?」

「前々から約束してたんだとさ。まあ短時間らしいからいいだろ。」

「そうですね。つばめちゃんもあんなに楽しそうで良かった。」

ケーキ作りにはつばめと聖も参加していた。聖は作るので一生懸命だが、つばめは解を見てからは解の写真ばかり撮っていた。

「先輩、こっち視線下さい!あ、どうも。…最高…。」

「つぼにはまったのかな…。」

「色んな趣味があるからな。解は困ってるが嫌がってはないからまあいいだろ。」

透矢が解を見ながら肩を竦めた。解は丁寧に作り方を聖に教えていた。

「えっと、次は砂糖を…。」

「それは塩だ。砂糖はこれだ。不規則に光るのが砂糖だ。」

「…それくらい分かってるわよ。」

そして二人の様子をつばめはうっとりしながら撮影していた。

「二人ともいい感じですよ。もうちょっと近づいてもらっていいですか?」

「はあ。」「杉崎さん…。」

と、様子を見ていた透矢がよいしょと立ち上がった。

「さて、一旦俺は見回りに戻るが、お前等はどうする?」

「う、うーん…。解君も大変そうだし、私も見回ろうかな。」

「私達が見回りをしたら、その分先輩と一緒に遊べますから、私も回ってきます!」

「よし、じゃあ一旦解散だ。30分後にここに集合。異常があれば連絡しろよ。」

「はーい。」「はい!」

そうして三人は一旦別れたのだった。


「ん?瀬奈達は…いないな。」

後はケーキを焼くだけになったので、解は手伝いを終わらせてもらった。待たせていた瀬奈達がいた場所を見ると3人は既にいなかった、という具合だ。

「まあ、待たせてたからな。」

皆どこかにいるだろうと考え、探すついでに見回りを再開することにした。

 解は一人でいると色々な人に声をかけられた。写真を撮られたり、一緒に遊ぶよう誘われたりしたが、特筆すべきは女性に間違われることがしばしばあったことだ。

(余程七海の技術が高かったんだろうな。)

解は純粋に七海に感心した。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。


 解は三階に向かっていた。三階は催しを何もしていない教室が並んでいたが、空き教室に生徒が鞄を置くことがあると生徒会から聞いていた。出入りは関係者以外禁とはされているが、やはり用心は必要だろう。

「結局誰とも会わないな。」

一人呟きながら三階に着いた解は端から教室を確認していった。

「…何もない、な。ん?」

二つ目の教室の中を確認していると、廊下で物音がした気がした。気になった解が急いで廊下に出ると、スーツを着た見知らぬ成人男性が次に入る教室の前に立っていた。男は解に気付くと笑顔で礼をして歩いていった。

(先生か。)

解は次の教室に入ったが、ふと疑念が湧いた。教師が何の用でここに?見回りならいてもよい。一人でいることは?おかしくはない。しかし、教師がわざわざリュックを持って歩くか?特異な格好の解を無視して?

「…!」

解が急いで教室を出ると、男は既に廊下から階段の方に移動していた。追いかけるがスカートのせいで速度が出せず、階段に着いた時には男は階下に駆け下りていく最中だった。

「ちっ!」

解も階段を飛ぶように下りた。男との距離は階から踊り場より少しあった。一、二階の廊下は人が多くて追いつくことが難しいため、男が廊下に出る前に確保したい。とすると…。

 たっ。

解は二階に着いた瞬間手すりを乗り越え階下に飛び下りた。だんっ!と激しい衝撃が足にかかったが気にしている暇はない。ちょうど男の正面、一階の階段が終わる所に解は着地した。

「ひっ!」

どんな人間でもいきなり長身のメイドが階段を飛び下りて目の前に現れたら驚くだろう。男も例に漏れず驚きのあまり硬直していた。その間に解は男の襟を両手で掴み足を払って床に叩きつけた。勿論大怪我をしない範囲で。

「が…。」

男は痛みで動けず床に転がった。解は男のリュックを奪い中身を確認した。

「やっぱり盗難か。」

リュックには財布がいくつも入っていた。


 男は警察が連れていき、財布は持ち主に返された。

「大活躍だな、解。」

「いつの間にか一番活躍してるんだものね。」

「さっすが先輩、かっこいいです!」

「折角の文化祭だ。財布が盗まれなくて良かったな。」

野次馬の生徒が周りにたかる中、解は瀬奈、透矢、七海に囲まれながら話をしていた。そして、警察と話をしていた始音が苦笑しながら解達に近づいてきた。

「それにしても…。別にいいんだけどね、なんで皆コスプレしてるの?そのせいで余計に注目されてるんだけど。」

結局誰も着替えておらず、しかも七海もいつの間にかメイド服に着替えている有様だった。全員似合っているのである意味質が悪かった。

「結局着替える余裕がなかったな。」

「七海ちゃんまでメイドになってるしね。」

「えへへ…。先輩とお揃いだと楽しいかなと思って。」

「もう着替えた方がいいだろうな。俺以外はそのままだと逆に混乱の元だ。」

「そうね。特に霧谷さんと川野辺さんは危ないから早く着替えるのよ?」

「分かりました。」「はい!」

「はい!じゃあ後は先生がしておくから、解散していいわよ。高二の文化祭は今日だけだから、楽しんでね。」

始音に送り出された解達は、始音の言う通り教室に戻ってきた。そして全員(特に解)が大変惜しまれながら元の制服に戻ったのだった。

「さて、これからどうするかな。」

「見回りの仕事も十分しましたから、皆で普通に遊びませんか?そろそろお昼ですし。」

「そうだね。そうしよっか。」

解達が次の行動を相談していると、チャイムが鳴りアナウンスが聞こえた。

『愛情研究会の黒条解君、生徒会室に来て下さい。繰り返します、愛情研究会の…』

連絡を聞いた解達は顔を見合わせた。

「生徒会室ってことは橘先輩かな?」

「だろうな。呼び出されたからには行かないとな。」

「私達も一緒に行っていいんでしょうか?」

「それなら全員が呼ばれるんじゃないか?解だけ呼ぶ理由があるんだろ。」

「そうか。なら俺一人で行ってくる。」

解は淡々と言いそのまま教室を出て行った。後には透矢、瀬奈、七海が再び取り残された。

「あ!先輩に私達がどこで待つか言うのを忘れてました!」

「あー…そうだね。解君スマホ持ってないから。今から行ってももう部屋に入ってるだろうし…。」

「じゃあここで待つか。多分戻ってくると思うぞ。」

「あ、じゃあ私また着替えてもいいですか?面白い服がいっぱいあったので。」

「いいと思うよ。皆楽しいだろうし、教室にいるだけで宣伝になるしね。行ってらっしゃい。」

「はい!」

七海が教室の受付に歩いていき、瀬奈は何となく七海を視線で追いかけていたが、ふと疑問が湧いて呟いた。

「解君もスマホ買ったらいいのに。固定電話よりよっぽど便利だと思うけどな。」

「ん?どうした?」

瀬奈が呟いたことだけは分かったのか、透矢が振り返って瀬奈に尋ねた。

「大したことじゃないよ。解君はスマホを買わないのかなって思っただけ。せっかく友達ができたんだから。」

「ふむふむ。買ったら連絡が大量に来て大変だからじゃないか?」

「あー、それあるかも。」

始音や七海からメッセージや電話が来て大変かもしれない。…瀬奈自身もいくらかは連絡するだろうから、偉そうには言えないが。

「ま、今のは嘘だけどな。」

「ええ⁉」

嘘なら最初から言わないでほしいものだ。

「解はそんなことは考えない。単純に必要ないだけだ。」

「連絡が逐一できた方が便利じゃない?」

「便利、ね。今日俺達と会わないと解は困るのか?夜連絡できないと解と俺達の関係は悪化するのか?」

「それは…ないけど。」

「仕事で常に連絡する必要でもあれば買うだろうがな。解の生き方はシンプルだ。生きる上で最低限のもの以外ほぼ必要としない。あいつの部屋を見ただろ?」

「ああ…。」

確かに全く遊びのない部屋だった。始音からもらったスーパーボールだけが例外だった。

「ようやく生活に不要な余分を受け入れ始めたんだ。スマホで夜にいちゃこらしたいんだろうが、まだ待ってやるんだな。」

「いちゃこらしたいなんて一言も言ってないんだけど⁉」

「くっくっく…。」

瀬奈の抗議に透矢は含み笑いで答えた。瀬奈はこれ以上文句を言ってもやり込められるだけだと思い、むすっとしつつも黙った。そんなやり取りをする二人の前に、新たな衣装に着替えた七海がにこやかに現れるのだった。



 解は生徒会室の前に立つと一度息を整え、ノックした。

「はい、どうぞ。」

知らない声がした。大人の女性の声だった。不思議に思いながら解が戸を開けて入ると、そこには聖と40代程度の女性が立っていた。女性は解を値踏みするようにつま先から頭まで見た。聖は隣の女性を気にしつつも解に軽く手を振って挨拶した。

「初めまして、黒条解君ですね。私はPTA会長の橘清子、聖の母です。今日は先生方に用があって来たんですが、帰る前に少しこちらに寄らせてもらいました。」

「初めまして、黒条解です。橘先輩にはお世話になっています。」

解は初対面の相手、しかもいわゆる権力者を前にしても気後れせず堂々と挨拶した。聖は退学を決める会議や校長と話した時の解を思い出していた。

少し緊張した空気の中、PTA会長は解の挨拶に頷いて会話を続けた。

「あなたのことは色々聞いています。PTAとしてはいつかの会議でお世話になりました。出席者が醜態をさらして申し訳ありません。遅ればせながらお詫びをさせて下さい。」

「いえ、PTAの方々が何をしても俺には関係ありません。謝らなくて大丈夫です。それより、俺に何か用でしょうか?」

意味ありげな言い回しと視線を受けながら解は要点を尋ねた。PTA会長は解を冷たい目で見て、それから聖の方へ視線を移した。聖は母親を気にしつつも解に答えた。

「あなたを呼んだのは私よ。生徒会が愛情研究会に文化祭での手伝いをお願いして、結果見回り中に窃盗犯を捕まえたでしょ?そのことで学校に報告が必要なの。」

「ああ、それで俺の話が必要なのか。」

「話が早くて助かるわ。ただその前に、母があなたと話がしたかったらしくて。」

聖はややぎこちない様子で母親をちらりと見た。聖の母親、PTA会長は厳しい表情で解に言った。

「黒条君。犯人を捕まえてくれたことは感謝します。ただ注意したいこともあります。あなたは妙な服を着たまま校舎をうろついていたそうですね?」

「はい。メイド服を着ていました。」

PTA会長は解の返事を聞いて頭痛を堪えるように額を押さえた。話をすることすら嫌そうだ。

「メイド、ですか…。出し物として教室内で着るのはまだ許すとして、怪しい服を着たまま歩き回るのは止めて下さい。学校の品位に関わります。」

「分かりました。俺自身が好んで着たわけではないので、以後気をつけます。」

「お願いします。それともう一つ。今回は怪我なく犯人が捕まり良かったですが、相手が凶器を持つのか確認しましたか?あなたが軽率に動いた結果、多くの人が迷惑を被るかもしれないんです。なので、今後は勝手な行動は控えて下さい。」

「すみませんが、それは聞けません。」

「なっ。」

解は無表情のまま即答した。即座の反対意見にPTA会長は絶句し、聖も驚きでぽかんとしていた。

「程度がどうあれ被害者は必ず不安、あるいは不快な気持ちになります。折角楽しんでいる人間に嫌な思いはさせたくありません。そして、学校には防犯カメラがないので現行犯で捕まえるべきです。犯人が武器を持つのなら尚更戦える人間が行動すべきと考えます。」

PTA会長は解の言葉を聞くと呆れたと言わんばかりの態度でため息を吐いた。明らかに解を軽んじていて、聖はこの場にいるのが苦痛だった。

「さっきも言ったでしょう?あなたの行動のせいで被害を受けた人がいた時、あなたに責任がとれるんですか?」

「責任が怪我や退学、あるいは死ぬという意味でなら。」

「死ぬって、そんな大げさな…。」

解が真面目に死にも言及したので、PTA会長はさすがに鼻白んだ。解は無表情を変えることなく冷静に続けた。

「しかし、気にされている社会的責任は俺が簡単に取れるものではないと思います。」

「何だ、それは分かるのね。なら…。」

「ただ、俺はPTA会長が思うように学校からは規範を乱す問題児として扱われています。その俺が、例えば犯人に殺されるとして、本当に誰かが責任を取らされると思いますか?」

「そ、それは…。」

実際には一時的に話題に上がり問題になるだろうが、その程度だろう。PTA会長もそう思ったのか、少し言い淀んだ。解はこの瞬間を狙っていて、一気に畳みかけた。

「恐らく大丈夫でしょう。俺という異常者が起こした問題は社会的に例外として処理されるだけです。俺には家族がいないので、被害はより一層俺だけに限定されます。最後に、俺は犯人の身のこなしで危険性が少ないことは確信していました。相手が危険かどうかの判断は並みの人間よりはできるつもりです。…一応、今述べたことは考えて行動していました。」

「う…。」

解は目を逸らすことなく無表情のまま淡々と、直立不動で説明した。解の妙な迫力と説明にPTA会長はたじろぎ、少しの間何も言えなかった。

「い、いずれにせよあなたでは責任が取れないのですから、気をつけて下さい。それと、近く校則について話し合うことになりますから。その時はよろしくお願いします。では…。」

目を逸らし早口で言うとPTA会長は生徒会室をそそくさと出て行った。すれ違う時、置き土産で解を忌々しそうに睨んでいった。

 戸を母親が閉めて5秒くらい待ち、聖は驚いた様子で解に駆け寄った。

「すごいじゃない、黒条君!あの人を言い負かすなんて!」

「いや、まあ、今後のためにしっかりしているところを見せただけだ。それより悪かった。お前の母親にぶしつけな言い方をしてしまった。」

「あ、ああ。そんなこと気にしないで。でもそうね。私も…。」

そこで聖は大きく息を吐いて、解に頭を下げた。

「黒条君、母がごめんなさい。話してて嫌だったでしょ?」

「?いや、別に。規律に厳しい母親なんだなとは思ったが。」

「でも、だって、あからさまにあなたを不良というか、問題児扱いしてたでしょ?」

「相手が俺に否定的であっても俺が不快に思うかどうかは別だ。それに俺をどう見るかは相手の自由だから、俺を悪く言っても止めはしない。勿論、友人が理不尽に悪く言われるなら断固戦うが。」

普通は悪く言われれば不愉快になり相手を嫌うだろうが、解は違うらしい。しかも、友人を悪く言うことは許さないのに、自分なら問題ないと言った。聖は解の考えに全く同意できなかった。解のように寛容にも、自己を顧みないようにもなれなかった。

「言いたいことは分かったわ。とりあえず嫌な思いをしてないならいいの。…じゃあ、話を変えましょう。早速、盗難事件のあらましを教えて?」

「ああ、分かった。」

解は犯人を捕まえるまでの流れを説明した。解が落ち着いた声で簡潔に説明してくれるので、聖はさくさくと文書を作成した。

「…別に今日書かなくても良かったんじゃないか?それに俺に書かせれば聖が働かなくて済んだのに。」

「まあね。でも記憶って一日経つだけで忘れるし、生徒会の手伝い中に事件が起きたのよ?私が書くのがあなたへの礼儀よ。」

「俺に気を遣わなくていいからな。校則のことといい、責任感を持ちすぎだと思うぞ」

解が聖を気遣った言葉に聖がぴくりと反応した。何か思うことがあったらしい。

「…責任感、か。」

聖はパソコンを打つ手を止め、ぽつりと呟いた。その顔は自虐に染まっていた。

「私の責任感は母親から教え込まれただけだから、本来のものとは違うかもね。」

「…?どういうことだ?」

「聞きたいの?大してオチのない話だけど。」

「ああ。まずは聞かないと分からない。ただ、俺にとってはどんな話も価値があるから大丈夫だ。」

「…そこまで言うなら、まあ。…私の母は昔からあんな感じで、私は厳しく躾けられたわ。おまけに常に自分は正しいと思ってて、理想を押しつけてくるの。その中に『上位の人間として自覚を持ち行動しろ』ってのがあってね。」

「ノブレスオブリ―ジュみたいだな。」

聖は解の言葉を聞いて苦笑いした。ぱっとそんな言葉を出すあたり、解も相当だ。

「ちょっと違うかな。母が言うのは、優れた人が責任持って優れてない人を導くべしってこと。選民思想って感じね。全く…。」

「それが『責任感を教え込まれた』ということか。ただ、教え込まれたと言っても聖は母親の考えに反対みたいだな。」

「反対というか嫌いの方が正しいかも。『自分は優れた存在で人々の規範になるべし』なんて、思い上がりも甚だしいわ。しかも考えが違う相手を見下して、協調性や寛容さの欠片もないのよ?そんな人が母親でPTA会長なんだから、世も末よね。」

聖は不愉快そうに鼻で笑った。解が黙って様子を見ていると、聖は話を再開した。

「校則の改定はずっと生徒会で問題視されてきたのに進まなかった議題だけど、現在一番反対してるのが母なのよ。私は母親に自分の間違いを認めさせたいの。それが私の校則を変える理由。」

「…。」

解はどうして聖が校則の改定に熱心なのか分かっていなかったが、今の話でようやく理解した。聖には学校や生徒のためだけでなく、母親の独善と傲慢を何とかしたい、そして母親に勝ちたいという自分だけの理由があった。ただ、聖は自嘲しているが、解は話を聞いても聖に問題があるとは思わなかった。むしろ、ただ善意のみの行動よりよほど人間らしくて納得できた。

「自分は絶対に正しいって考えを改めてまともになってくれれば、なんてね。…勝手な話でしょ?こんな個人的な理由で校則を変えようだなんて。」

「そうでもない。自分のためだけじゃなく、生徒のためでもあるんだ。何も悪くない。一石二鳥なだけだ。」

「…そう?」

聖は自信なさげに問い返した。解は無表情だがしっかりと聖を見て言った。

「ああ。それに母親を倒して再起不能にするわけじゃないだろう?母親との関係に未来があるのはいいことだ。」

「未来…未来ねえ。あんまり期待してないけどね。」

聖は肩を竦めながら苦笑した。今までも時々見られたが、どうも聖は一度物事を悲観的、否定的に考えてしまうとなかなか元に戻れないようだ。解は何を言うべきか分からず黙っていたが、重い空気を払うように聖が椅子から立ち上がった。

「やめやめ!こういう空気にしたのは私だけど、話はこれで終わり!書類はできたし、解君はもう戻っていいわ。報告ありがとう、時間とらせてごめんなさい。」

「あ、ああ…。」

解はもう教室に戻ってもよいのだろう。しかし、それは躊躇われた。暗くなった聖を放っておくことはできなかった。

「聖、あの。」

「え?」

背中を向けていた聖が振り返った。…まだ何を言うか決めてなかった。…もう思いついたことを言おう、そう腹を括った。

「話してくれてありがとう。…ええと、上手く言えないんだが、その、お前は優しくて、頭もいい。生徒会長の仕事をこなして、周りから信頼されている。俺もお前をすごい人だと思う。…だからその、そんなお前の親がそれほど悪い人とは思えない。お前の家庭を知らない俺が言うのはおこがましいんだが…。」

「…。」

「今話していることに根拠はない。反面教師という言葉があるように、親と子供の性格に必ず相関があるわけじゃない。ただそれでも、聖は大丈夫じゃないかと思う、んだが…。」

「…ふふっ、ふふふ。」

何とか言い切った解だったが、聖は可笑しそうに笑いだした。やはり勢いで喋るの失敗だったかと解は不安になった。聖はひとしきり笑った後、内省中の解に近づき明るい口調で話しかけた。

「笑ってごめんなさい。馬鹿にしてるとかじゃないのよ?解君にしては一生懸命、言葉に詰まりながら話すから、何か可愛く見えちゃって…。」

「可愛いのか?俺が?」

「それも悪い意味じゃないからね?でもほんとにありがとう。励ましてくれたんでしょ?内容はもちろんだけど、その気持ちが一番嬉しいわ。」

「それは良かったんだが、上手く話ができなくてすまない。」

「もう、そんなこと気にしないでよ!そもそも女性を上手に慰める黒条君なんて気持ち悪いわよ。」

慰める能力が高いと気持ち悪いのだろうか?解はさっぱり分からなかった。

「まあいいか。とにかく、少しでも元気に鳴れたのなら良かった。校則のことも他のことでも、できる限り力になるから遠慮なく甘えてくれ。」

少し気が抜けた解は思わず聖の頭を撫でた。お疲れ様と元気出せの二つの意味があったが、やってから自分がやってしまったことに気付き、急いで手を引っ込めた。

「悪かった。最近頭を撫でるのが癖みたいになっていて…。」

さっきから言い訳ばかりしている自分を情けなく思いながら、解は恐る恐る動かない聖を見た。聖は少し俯き加減で解から顔は見えなかったが、ぽろりと小さな声が漏れた。

「…甘えてもいいの?」

「?」

「は!な、なんでもない、なんでもないから。ほら、もう帰ってあげないと、友達が待ってるわよ!」

顔を赤くした聖は解の背中を押して生徒会室から追い出した。解は追い出された理由が分からず首を傾げながら教室に戻っていった。

 ただ頭を撫でられただけだが、聖にとってはかなりの衝撃だった。今まで両親や教師、友人に称賛されることはあったが、甘やかされたことはついぞ記憶になかった。物心ついた時には家では厳しく躾けられ、外では真面目で優秀な子供として振る舞っていた。甘えたいと思ったことすらなかった。

先程の解は母親のことで暗くなった自分に優しくしてくれた。あの時の自分は優秀な生徒会長でも頼れる先輩でもなく、母の言葉を借りればつまらない弱者に過ぎなかった。そんな自分に解は甘えてもいいと言ってくれた。その手も声も解の内から自然に出た優しさであり、思わず泣きそうになってしまった。解の優しさは友情、隣人愛というもので恋愛とは違うが、あのまま甘えてしまっていたら何がどうなったか分からない。危ないところだった…と、一人生徒会室で思う聖だった。


生徒会室を出た解はとりあえず自らの教室に戻った。教室ではさっきまで七海が色々な服に着替えていたらしく、盛況だった。再び着替えさせられそうになったので、解達は様子を見に行くと言って同好会室に逃げ出した。

同好会室には児童虐待についてのポスターを貼っていたのだが、解達が来た時には案の定、ポスターを見る人は誰もいなかった。楽しい文化祭で真面目な話を取り上げても人気が出るはずもなく、愛情研究会の面々は気にすることなくポスターの前に集まった。

「やっぱり誰もいないね。」

「そりゃそうだ。超固いお題目だからな。」

「何というか、悪いな。折角色々と手伝ってもらったのに。」

「そんな、気にしないで下さい。茅野先輩がいつか言ったように、私達のために作ったと思えばいいんですよ!」

握りこぶしを作り力説する七海に救われた気分になる解だった。そんな解の横で透矢はにやにやしながらポスターを見て言った。

「まあでも、個人的にはなかなか面白い話になったと思うんだよな。児童虐待なんて、大抵は親に厳罰を、誰が見逃していたのか、児相は何をしてたんだ、みたいな話にしかならないだろ?」

「そうかもしれないけど、まさか去勢でもしないと駄目かもしれない、なんて書くとは思わなかったけど…。」

「いいだろ、ちゃんと『かもしれない』って書いて、『新たな人権侵害の問題が生じるが』とも付け加えただろ。そもそも俺の担当は親子分離ができない時って限定された場合なんだ、先鋭的な意見でも問題ないだろうよ。」

「いやまあ、別に悪いとは言ってないけどね…。」

「あはは…。まあまあ、私は茅野先輩の意見も大事だなと思いましたよ?言葉はきつくても深く考えられてて、すごく勉強になりましたよ。私の頭なりに、ですけど…。」

「私も勉強にはなったけどね。解君の手伝いもできたし、やっぱり皆で作ってよかったな、なんて思うよ。」

解は静かに友人達の話を聞いていた。真面目、愉快、楽しい等色々な思いが言葉に伴っているが、いずれも心地よいものだった。きっと透矢達も似た感覚なのではないだろうか。そう思うとほんのりと嬉しさ、喜びが湧いてきた。やはり自分は友人達が幸福であることが嬉しく、楽しいのだと解は改めて感じていた。

「ちょっといいかい?」

「あ、田中先生。すいません。」

不意に解達の後ろから声がかかり、瀬奈が素早く反応し横に避けた。瀬奈以外の愛情研究会も瀬奈に倣った。立っていたのは化学の田中、球技大会で解の心肺蘇生をうけて一命を取り留めた教師だった。2学期になり学校に復帰した時、まずお礼を言いに来たので解も覚えていた。元気そうで何よりだ。

「ありがとう。ポスターを見せてもらってもいいかい?」

「はい、もちろんです。どうぞどうぞ。」

瀬奈が田中に応対し、ポスターの説明を始めた。解は田中と瀬奈の様子を眺めていた。自分達が作ったものを実際に見られると、存外落ち着かない気分になるものらしい。田中はしばらくポスターを見て瀬奈と話していたが、満足したらしく解の所に近づいてきた。

「いや、勉強になったよ。これを作った愛情研究会は黒条君が中心なんだろう?」

「はい、一応。ただ、中心とはいっても助けられてばかりですが。」

「はっはっは、謙遜謙遜。私を助けてくれた時のように、きっと誰かを助けてるよ。」

田中は少し声を抑え、顔を近づけて続けた。

「私は生徒に教師が必要以上に干渉するのは反対なんだ。だから愛情研究会、いいじゃないか。しっかり活動したらいい。今度校則について会議するんだろう?頭の固い大人にびしっと言ってやればいい。」

「ありがとうございます。先生もお大事に。」

田中は笑顔で同好会室を後にした。

「田中先生は元々おおらかなんだよ。良かったね、解君。」

「そうだな。ありがたいことだ。」

解は笑顔の瀬奈に穏やかな表情で返事した。

解は今まで他人に悪意を向けられることが多く、そのためか他人がどうあっても全てを許容して来た。しかし、その許容はどうあっても関係ないという無と同じ意味でしかなかった。

一方、今は他人の良いと思うところを肯定的に見ることができ始めていた。田中先生は他人だが、彼に応援してもらったこと、そして彼の気さくでおおらかな在り様を解はありがたいと感じた。その心の動きは解の確かな成長であった。



「ふうん、田中先生が来てくれたのね。他には誰か来たの?」

「何人かの教師と生徒がある程度。児童虐待の問題に興味があったり、愛情研究会に興味があったりしたから見に来てくれたみたいだ。」

夜の銭湯で、仕事中の解と仕事が終わってお風呂上がりの始音は今日の文化祭について話していた。始音は余裕のある大人な笑みを浮かべながら話していた。やはり解の前では格好いい大人の女性でいたいらしい。

「見に来てくれた、ね。機械的に優しいんじゃなくて、見る目が変わってきたみたいね。他人に興味が出てきたんじゃない?」

「他人への興味、か。あまり意識してないんだがな。」

「自分のことは案外分からないものよ。」

始音は解の手元に置いてある水筒を手に取り一口飲んだ。ほっと息を吐く始音の唇は水分でつやつやと光っていて、解は思わず見つめてしまった。

「何?どうしたの?」

「何でもない。」

始音が不思議そうに尋ねてきたので、解は即座に答え目を逸らした。

(何を見てるんだろうな、俺は。)

夏休みで始音に人生2度目のキスをされて以降、解はふとした拍子に女性の唇を見てしまうことがあった。女性を性愛の対象として見る始まりだったが、あいにく解に自覚はなかった。無遠慮に人を見てはいけない、そう考え首をぷるぷるした解を始音は訝しげに見ていた。しかし、やがて何かに気付いたのか始音が急ににやにやして顔を近づけてきた。

「解君、もしかしてお風呂上がりの私に見とれてたの?」

「いや、その、始音も一緒に文化祭を回れたらよかったなと思ったんだ。」

「ああ、そっちの話。でもそうね、一緒に回れたら楽しかったんでしょうけど、私は先生だからね。」

始音は笑っていたが少し寂しそうだった。咄嗟に誤魔化してしまった解は申し訳ない気分になった。そんな罪悪感からとりあえず思いついた話を振ってみた。

「始音はどんな高校生だったんだ?」

「私?私は人に自慢できるような高校生活はしてないわね。つまんなかったわ。」

「そうなのか?昔の雰囲気は今とそう変わらないから、楽しんでいそうだがな。」

昔を思い出しながら推測した解に始音はでこぴんをした。女心が分からない、不正解の解にお仕置きをした感じだ。

「それは解君の理解不足ね。女はもっと複雑怪奇なの。と言っても分からないでしょうから、教えてあげる。…自分で言うのもなんだけど、高校生の私は運動も勉強もできて性格も見た目もいい、学校の人気者って感じだったわ。」

「始音はそれをはっきり言えるからすごいな。」

「ふふっ、ありがと。部活はしてなかったけどアルバイトをしてて、高校の内外に友達は多かったわね。付き合ってとか言い寄ってくる人も多かったわ。そのうちの一人ともめたところを解君が助けてくれたのよ。」

「ああ、あの男はそういう理由で迫っていたのか。」

「ええ。で、話を戻すと、私はできる人間ではあったけど冷めてたの。努力はするしても本気にはならない。友達は多くても親友はいないし、彼氏もつくらない。留学も『親が渡米するからついでに私も』程度の理由で決めたの。とにかくいつも何となく退屈だったわ。」

「…全然そんな印象はないな。」

解が知る始音はいつも楽しそうで、解の手を引いて色々な所へ連れて行く活発な女性だった。あの時の始音は楽しそうなふりをしていたのだろうか。そう考えると少し寂しいような、申し訳ないような気分になった。始音は解の思いには気付かないまま懐かしそうに昔を思い出していた。

「それで趣味が食べ歩きになったのよね。何か面白いことがないかなーっていつもふらふらしてたわ。でもそのお陰で解君に会ったんだから、結果オーライよね。ってほら解君、お客さん!」

「え?あ、ああ。いらっしゃいませ。」

「いらっしゃいませー。」

解は始音に言われて初めて客が来たことに気付き、急ぎ頭を下げた。始音もなぜか挨拶して客を迎えた。始めて来た様子の若者数人は美人の始音を気にしていたが、解がいる手前何も言えずに風呂場に向かった。

「ごゆっくり―。…って、どうしたの、解君?客に気付かないなんて初めてじゃない。」

「そうだな。昔のことを考えてたら気付くのが遅れた。」

「昔のこと?」

「ああ。昔の始音は楽しそうだったが、違ったんだろうかと思い返してた。」

「何言ってるんだか。解君のお陰で楽しく高校生活が終わったって話なのに。」

「…え?そう、なのか?」

「そうよ。私の高校生活はつまらない3年間だったけど、最後にすごく変わった男の子に出会って、短期間だけど新鮮で楽しい日々を過ごせたの。本当、解君のお陰で大変楽しく過ごさせてもらいました。」

「…。」

解はからかうように言う始音をじっと見た。嘘は吐いていない、と思った。昔の始音はちゃんと楽しんでいたと知りほっとして、胸が温かくなった。…きっと、嬉しいのだろう。幼い自分が築いた関係はうわべだけのものではなかった。始音は解が無表情ながらも少し明るい顔になったことに気付いた。

「心配させたのならごめんなさい。小さな解君と過ごした時間は私にとって大切な思い出よ。間違いなく高校三年間で一番楽しかったわ。」

始音は優しく微笑み、片手を解の頬に伸ばし触れた。解は頬にくすぐったさを感じつつ、始音の笑顔に見入っていた。

「信じてくれた?」

「ああ。教えてくれてありがとう。」

「どういたしまして。あ、でもせっかく話してあげたんだから、ぜひ解君からご褒美が欲しいわね。」

「まあ、簡単なものならいいが。」

悪戯っぽい顔の始音に解は少し警戒して答えた。高価な物、無理難題は勘弁してほしいところだ。

「うーん…。じゃあ、解君のキス。お願いしていい?」

「い、いや、悪いが無理だ。」

キスと言われて解はどきっとした。キスシーンを思い出してしまい、思わず言葉に詰まり目を逸らした。そして、始音の動きに解は咄嗟に反応できなかった。

「んっ。」

始音はすっと解に近づいて頬に口づけした。驚いた解は椅子から立ち上がり飛びのいた。

「ふふっ。じゃあね、また明日。」

始音は笑顔のままふわりと身を翻して帰っていった。始音が行ってしまったので、番台には目を瞬かせる解だけが残された。


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