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愛情の研究者  作者: けつ
7/11

No.7

 夏休みが終わりに近づく中、愛情研究会の全員は銭湯に集まっていた。夏休み最後の集まりで、土曜なので始音も一緒だ。今は定位置の番台で解が話をしていた。どうやら今日は暇らしい。

「…以上がラブホテルについて俺が考察した内容だ。」

瀬奈と七海は少し照れながらもちゃんと聞いていたが、透矢と始音はおかしそうに笑っていた。

「あの時、暇つぶしでそんなことを考えてたなんてな。さすがは解だ。」

「ラブホテルに関して考察って、あれのためだけの施設にそこまで真面目に考えなくてもいいんじゃない?」

「暇つぶしだったからな。」

「先輩らしいと思いますよ。私は勉強になりました!」

「ああいうホテルについて真面目に考えることなんてないからね…。じゃあほら、七海ちゃん。」

瀬奈に促され、七海がこほんと咳を一つした。

「ありがとうございました。夏休みでしたことをそれぞれ発表してもらったんですが、今日は何がしたいですか?」

「と言われても、最近は真弓がずっといたから何も考えてないんだよな。」

「え?真弓って誰?まさか、彼女?」

透矢がさらっと真弓の名前を出したので、真弓を知らない瀬奈が食いついた。解からは透矢が少し面倒臭そうに見えたので、代わりに瀬奈に説明することにした。

「透矢の妹だ。」

「え?茅野先輩って妹いたんですか?どんな子ですか?」

「私、写真撮ったわよ。今中3なの。ほら。」

「わあ、きれいな子ですね。」

「うん、身長もあるからモデル系だね。ちょっと気の強そうな感じなんだ。」

真弓の話で盛り上がってしまったので、解と透矢は終わるのを待つことにした。

「解は何かしたいこと、あるか?」

「今日することじゃないが、調べてみたいことがある。ただ…。」

「ただ?」

「あまり楽しいことじゃないから、全員では調べなくていい気がする。」

「ふうん?…おーい、解が調べたいことがあるってよ。真弓はもういいだろ?」

「そうね。」「分かった。」「はい。」

瀬奈達を集めた透矢は解を振り返った。解は近所の人が来たので応対をしていたが、それはすぐに終わった。

「よし。じゃあ解、教えてくれよ。」

「分かった。ただ、別に楽しいものじゃないからな。無理してやる必要はない。」

「何?そんなに言いにくいことなの?」

言い淀んでいる解に始音が不思議そうに尋ねた。解は始音に軽く頷きを返し、少し間をおいてから話し始めた。

「その…児童虐待について調べようと思う。」

「え…。」

「児童虐待のこと?」

「ああ。子供の親への愛情、親の子供への愛情、その2つがどんな状態だと虐待が起きるのか、虐待によって愛情がどう変化するのか、そのあたりを調べたい。」

「へえ…。」

透矢は反応を軽く頷くに留めた。何となく解の心境を察したので、多くを言わずまずは様子を見ることにした。

「うーん…。」

「え、えと…。」

瀬奈と七海はやや後ろ向きのようだ。明るい話題ではない上に、解の両親を想像してしまった。一方顧問の始音は静観を貫いていた。透矢と同じく解が望むなら手伝う、または応援するつもりだった。

「あー、その…。」

場の空気が微妙なことを感じた解が口を開いた時、ふいに解達に声がかかった。

「あら、皆どうしたの?すごく真面目そうな雰囲気だけど。」

全員が声のした方を見ると、そこには穏やかな笑顔の麗が立っていた。

「皆と、顧問の先生ですよね?解君が倒れた時はお世話になりました。あの時は挨拶もせずにすみません。解君の姉代わりで姫宮麗と言います。」

「あの時はお世話になりました。黒条君の担任兼同好会顧問の堤始音です。」

大人二人は笑顔で頭を下げていた。美人で大人な女性二人が揃うと妙な迫力があった。ただ麗は挨拶をしに来たのではなかった。

「と、挨拶はいいとして、どうしたの解君?」

「ああ、俺の話題がちょっとな。」

解が話の流れを説明すると、麗は少し怒ったような顔をして言った。

「そんなの、虐待する親がひどいことが分かるだけじゃないかしら。解君のためになるものなんてないと思うけどな。解君は他に新しいことをした方がいいと思うの。」

「麗さん、俺は…」

「あ、そうだ。解君が愛情研究会のリーダーなのよね?」

「はい!会長は私なんですけど、中心は間違いなく先輩です!」

麗は七海が自慢げに言う様子を微笑ましく見ていた。解がここにいる人達に慕われている光景は何度見ても嬉しいものだった。

「うんうん。だったら、皆で解君の家にお泊まりなんてどう?全員来ても元々真さんの実家だから十分広いし、合宿みたいで楽しいんじゃない?」

「それ、面白そうですね!」

意外に瀬奈が最初に食いついた。そして七海も以前解の家に行った時のことを思い出していた。

「確かに楽しかったというか、嬉しかったというか。とっても良かったですよ。」

「七海ちゃん、泊まったことあるの?その言い方だとあるのね?」

「あ、あわわ…す、すいません!」

「別に謝らなくてもいいわよ。でも七海ちゃんだけじゃ不公平だし、皆で泊まった方が面白いわね。解君と茅野君は?」

始音は麗の前で普通に解君と言った。麗に隠すつもりはないらしい。麗は麗で特に気にする様子を見せずににこにこしていた。

「俺は解がいいならいいぞ。ただ、俺が行くとハーレムの邪魔になるんだよな。」

「そ、それは逆に来てよ!」

「はいはい。じゃあ霧谷もそう言ってるし、俺も参加でいいか?」

「ああ、それはいいんだが…。本当に家に来るのか?全員で。」

「あら解君、どうしたの?何か気になるの?」

「いや、別に…。」

麗は解が渋い顔でもやもやしている姿を不思議そうに見ていたが、ぴんと来たらしく笑顔で勢いよく解に抱きついた。

「わっ。」「わあ…。」「む…。」

「解君、家にいる姿を見られるのが気になるんでしょ?恥ずかしいと思う相手ができるなんて、お祝いしないとね。」

「むしろ今くっつかれてる方が気になるぞ。悪いが離れてくれると助かるんだが…。」

解は顔をしかめて少し呆れたような声で麗をたしなめた。始音も笑顔で麗を注意した。

「あの、麗さん?同好会の活動中ですし、生徒の前であんまりそういうのは…。」

「あ、すいません。恥ずかしがる解君が可愛くてつい。」

麗は余裕の笑顔で始音に答えた。お互い普通に笑っているだけだが、妙なプレッシャーを周囲に与えていた。何だかいいライバルになりそうな二人だった。

 ともかく、前向きに泊まりが決まったところで麗がまた解に話しかけた。

「じゃあ解君、日程は皆で決めてね。私は様子を見に来ただけだから、またね。」

笑顔で解の頭を撫でて麗は去っていった。解は何となくばつの悪い思いをしながら口を開いた。

「…じゃあ、いつ泊まるか決めるか。俺はいつでもいいぞ。麗さんも同じはずだ。」

それから解達はわいわいと話をして予定を決めていった。

夏休み前に一度だけ七海を自宅に泊めたが、あれは緊急のことで何かを考える余裕がなかった。しかし、今回は大勢で自宅に泊まり、こちらも余裕がある状態だ。その場を想像するとどこか居心地が悪いような、少し気分が高揚するような感じだった。

そして泊まりのことと同時に、児童虐待の話もふっと解の頭に思い出された。勘ではあるが麗は少し強引に話題を変えていた。麗は解の事情を知っているため、恐らく解に児童虐待について調べてほしくないのだろう。だが、麗ならちゃんと説明すれば意図を理解してくれるはずだ。解は早めにもう一度麗と話をしようと決めた。


泊まり会、合宿、パジャマパーティー等、呼び名は何でもいいが、解の家での宿泊は話し合ったその翌日に決まった。急だったが銭湯はお盆の代休、夏期講習は終わり、始音も休日と全員の都合が揃った奇跡の日だった。午後から現地集合ということで、解と麗は解の自宅で皆が来るのを待っていた。

ぴんぽーん。

インターホンが鳴り、解は玄関に向かった。麗がにこにこして見守っていたが、この際見てない振りをした。ドアを開けると目の前には緊張した様子の瀬奈がいた。

「こ、こんにちは、今日はよろしくね。」

「ああ、よろしく。瀬奈が一番だな。」

「え⁉あ、順番ね。ふう、お邪魔しまーす…。」

おっかなびっくり瀬奈は靴を脱ぎ家に上がった。瀬奈が解を横切る際、ふと瀬奈からふわりといい匂いがした。初めての匂いだった。

「ん?」

「どうしたの?」

「いや、いい匂いがしたから、ちょっと気になってな。」

「な…!確かにシャンプーは変えたけど、へ、変なこと言わないでよ、もう…。」

解は躊躇いなく自分の感想を言い、言われた瀬奈はかあっと熱くなる顔を隠しながら解の先を行った。

 一言で言って、瀬奈は緊張していた。大人数で泊まるので部活の合宿と大差ないはずなのだが、やはり男性の家に進んで入るのは初めてのことだ。恋人がいたことがない瀬奈は、前日は何となく新しいシャンプーで髪を洗い、当日は何となくいつもよりおしゃれをして来てしまった。また、解は女性をよく褒めるとは聞いていたが、まず髪の毛の匂いを褒めてくるとは思わなかった。ということで、瀬奈の宿泊は動揺からの始まりとなった。

 瀬奈が来てからは続々と到着した。具体的には七海、透矢、始音の順だった。七海は一度来たから、始音は大人だから、瀬奈とは違いあまり緊張はしていなかった。ただ、それでもいつもよりおしゃれに気合いが入っている様子で、今日を思い思いに楽しみにしていたようだった。


「で、まず散髪というのはどうなんだ?」

「でもでも、昨日から気になってたんです。先輩ちょっと髪がのびたなあ、って。」

「いいじゃない解君。せっかく格好よくしてもらえるのに、文句言わないの。」

 居間には解と麗、七海の3人がいた。解は椅子に座り、七海は解の髪を切り、麗はその様子を眺めていた。解の家に全員が集まった際、七海がまず散髪をしようと言い出したのだ。

「文句は言ってない。疑問だっただけだ。」

「なるべく早く終わりますので、ちょっとだけ待ってて下さいね。」

はさみの音が規則正しいリズムで居間に響くと共に、七海の鼻歌も合わせて聞こえてきた。

「楽しそうだな。」

「七海ちゃんは美容師志望だもんね。」

「はい!」

「本当に髪を切るのが好きなんだな。」

解は七海の事情を知っているので、ただの散髪も価値あるものに感じられた。

「そうですけど、先輩の髪を触るのも好きですよ。真っ白で綺麗でさらさらしてますから、何回触っても飽きないんですよ。」

「ふふ、良かったわね、解君。」

「この白髪が褒められるのはやっぱり不思議だがな。」

解が髪を触りながら不思議そうに言った。麗はそんな解と七海の様子を笑顔で見ていた。解が自分の髪を嫌がったことはないが、髪の毛で幾度も誤解されてきた。そんな髪を好きになってくれる友人が解にできたことが麗は嬉しかった。

七海が解の髪を切り始めてしばらく経った時、透矢と始音、瀬奈が居間に帰ってきた。彼等は麗の提案で先程まで解の部屋にいた。一通り解の部屋を見学したので戻ってきたのだった。

「お帰りなさい。どうだった、解君の部屋は?面白いものは見つかった?」

「いやー、特に何も。せっかく全員来ると知ってるんだから、ベッドの下にエロ本でも置いておいてくれよ。」

「ベッドの下は何も置いてないぞ?」

「参考書や医学書とかの本ばっかりだったね。服は他の場所に置いてるの?」

服以外も何もない部屋だったが、女としては服が一番気になった。逆に解は頭にはてなマークを浮かべながら瀬奈に答えた。

「あれで全部だ。」

「え、あれだけ⁉鎖や首輪、腕輪は複数あるのに⁉」

「首輪や鎖は麗さんがくれたからな。ああ、真の服も時には使うから、服は真の部屋にもあると言えるな。」

「ああ、真さんの服も着るっていってたもんね。それなら納得。」

「なあ、子供の時のおもちゃとかゲームとか、娯楽的なものはあるのか?」

「哲学の本とかならあるぞ。」

「夏休みに色々試したとはいえ、新たな趣味はできなかったんだな。」

「そうだな。さすがにそんなに簡単じゃなかったみたいだ。」

「ふふふ…。」

透矢と解の会話が切れたところで、静かにしていた始音が満面の笑みで解の前に近づいてきた。よく分からないがかなり機嫌がいいようだ。解の散髪をしている七海以外全員の注目を感じつつ、始音は右手を前に出して握っていた手を開いた。

「解君、これ何だ?」

「それは…。」

「スーパーボール?」

始音が持ってきたのはスーパーボールだった。中にハートマークや星が入っている可愛らしい模様だ。

「あ、それ子供の時に持ってたものね。解君の物にしてはすごく珍しかったから覚えてるわ。…ふーん、そういうこと。だからもらったとしか言わなかったのね。」

麗は散髪中で動けない解に近づいてにやにやと笑った。いつもながらすごい洞察力だ。目を合わせるともっと色々ばれそうなので解は無理矢理目を逸らした。解が急に動いたので、七海も散髪を一度止めて始音達を見た。

「あれ?そのスーパーボールがどうかしたんですか?」

散髪への集中が途切れたようで、七海が純朴な様子で質問した。始音は指でスーパーボールを転がしながら懐かしそうに答えた。

「昔、解君と会ってた時に買ってあげたの。遠慮するから無理矢理あげたんだけど、笑顔でありがとうって言ってくれたのよね。」

「いい話じゃないか。しかも、大きくなった今でも大事に持ってるなんてな。」

「大事にというか、もらったものを保管してただけだ。」

透矢の言葉を受けて解は目を閉じて顔を背けながらぼそぼそと答えた。始音はそんな解に笑顔でつっこんだ。

「えー?ちゃんと箱を用意してから引き出しに入れたあったのに『保管してただけ』なの?」

「解君、私が何か買ってあげるって言ったらいつも逃げてたのに、仲良くなった年上の綺麗なお姉さんからはおもちゃをもらってたんだ?」

「え?いや、その…。」

気付けば解は始音と麗に同時に責められていた。困った解が目を逸らすと、透矢と瀬奈がこちらを応援しているのが見えた。…そうだ、麗から教わったことがある。確か…。

「…始音、それはお前との思い出の品で、大事なものだ。だからそれを使って遊ばないでくれ。それと、麗さんはそれだけ美人なのに『年上の綺麗なお姉さん』も何もないだろ。麗さんには助けられてばかりだから、買ってもらうのが申し訳なかっただけだ。いつもありがとう。」

解はできる限り真摯に思いを伝えた。誤魔化さず偽らず、名誉か物か愛かを渡すことが揉めた時の解決には大事だと麗に教えられたことがあったので、可能な限り頑張ってみた。

「思い出の品か。大事にしてくれるのは素直に嬉しいし、からかったら可哀想ね。」

「何だか誤魔化された気もするけど、褒めてくれたしありがとうと言ってくれるならいいわ。」

からかうのを止めた年上2人を見て解は安心したが、ほっと息をつくのは心の中だけにしておいた。視界の端で透矢がにやにやしながら親指をぐっとしてきたが、何だか妙に疲れた解は透矢に頷くだけで答えた。


 髪を切り終えた後、再び家の中を紹介することになり、全員で部屋を回った。さすがに真の部屋は故人の部屋なので誰も入らなかったが、麗の部屋では女性達はお喋りに花が咲き楽しそうだった。鎖や首輪の話になったり七海が解の部屋に入ったと言ってしまい物議を醸したり、ただ部屋を回るだけだったが時間が過ぎていった。

部屋を回った後は解が作った紅茶のシフォンケーキを食べた。そんなことをしながら、いつの間にか夕飯を作る時間になった。

「全員料理が作れると面白くないな。誰も失敗しそうにないし、退屈だ。」

「そう言う茅野君は手際がいいわね。真弓ちゃんも褒めてたわよ。」

「料理をするには人が多すぎませんか?」

「でも林間学校みたいで楽しいですよ?」

「解君は何してるの?」

「ナンだ。透矢に頼まれたからな。」

「ちょっと!一人だけ何で特別扱いなのよ!」

「そう言われても堤先生、俺カレーライスは好きじゃないんで。ナンはともかく。」

「えー⁉じゃあ私もナンもらっていい?」

「私も欲しいんだけど、いい?解君。」

「ああ。なら多めに作るか。」

合宿といえばカレーライス、ということで夕食はカレーに決まった。わいわいがやがやと騒がしくしながら料理が進んでいく中で、解は何故だか真が料理をする後ろ姿を思い出していた。

真は食事にこだわりも好みもなく、最低限のものしか買わず、食べないことすらあった。しかし、解を引き取ってからは栄養を考慮して料理を作るようになり、なるべく解と共に食事するようにしていた。真が料理を作った同じ場所で、真とは違い楽しそうに料理を作る友人達を見ていると、解は少し胸が痛かった。真は作業効率が同じだと言って解と一緒に料理を作ることはまずなかった。しかし、真が無駄だと言っても、真に何も変化がなくても、本当は真の後ろ姿を見るのではなく隣に立つべきだったのではないか。今さらもう遅いことだが、解はそう思わずにはいられなかった。そして諸々のことに気付けるようになった自身の成長を感じていた。

「解、どうした?ぼーっとして。」

透矢に声をかけられ解は我に返った。…そうだった。今は料理中だった。

「いや、ただ発酵待ちをしてただけだ。」

「パンは発酵がいるわな。待つだけなら少し休んだらどうだ?」

「ああ、そうする。」

透矢に促され、解は椅子に座った。その場所はいつか真が座っていた所だった。


 夕食が完成し、皆でいただきますをして夕飯を始めた。カレーなので味は分かりきったものだったが、全員で作り、全員で食べた故の補正か、日々作るカレーより美味しかった。食事中も始音が透矢のナンを奪ったり、麗が激辛にしたりと騒がしい食卓になった。

 夕食を食べ終えた後は順番に風呂に入る予定だが、その前に瀬奈が何気ない風を装って解に話しかけた。

「ねえねえ解君。解君の机の上にさ、家族写真があったよね?」

「ああ。麗さんが昔置いて、そのままにしているやつだな。」

「そうなんだ。いや、それでね、せっかくならもっと写真ないのかなって。人の家に泊まるなら、その人のアルバムを見るのって定番かなー、なんて思ったんだけど…。」

何の(誰の)定番なんだろうかと解が思っていると七海が話に加わってきた。

「アルバム、私も見たいです!先輩の小さい時の頃とか、ぜひ!」

「んー?何だ、どうした?」

一旦散らばっていた全員が結局集まってきた。結果アルバムを見る機運が高まってきたが、解は困った顔をして瀬奈に答えた。

「写真も動画も撮らないから、悪いが俺のアルバムはないんだ。真も撮らなかったからな。ああ、麗さんだけは写真を撮っていたな…。」

「アルバムならあるわよ?」

麗が始音と洗い物を終えて話に加わってきた。

「麗さんが解君のアルバムを管理してるんですか?」

「ええ。だって解君も真さんも、私が撮らないと全く記録を残さないんだもの。だから私が頑張って集めてるの。真さんのアルバムも持ってるわよ。」

始音が麗に尋ねると、麗は笑顔で始音に答えていた。始音と麗はこの泊まりの間にいつの間にか仲良くなったらしい。お互い大人で年が近い、しっかりしていて解をからかうのが好きなど、共通項があったからだろうか。…二人揃うと危険な組み合わせになってしまった。

 とにかく、麗曰くアルバムはあるとのことだが、解は怪訝な顔で首を捻った。

「アルバムがあるのはまだ分かるが、この家にはないだろ。今から麗さんの実家から持って来るのか?」

「持ってきてるわよ。」

「わあ、見てみたいです!」

「うん、私も!」

「小学校に入りたての解君とか、どんな感じかしら。面白そうね。」

麗の言葉に瀬奈達が大きく反応した。アルバムを見るイベントが現実のものになった瞬間だった。ただ、解はまだ不思議そうだ。

「なんでわざわざ持ってきてるんだ?」

「だって、本来は真さんと解君のものよ?私は代理で持ってるだけだから。ちゃんとデータ化もしてあるのよ。まあ、どのみち解君は見ないから、時々私があの頃は可愛かったな~って楽しむだけなんだけど。」

「…そんなものなのか?」

せっかく麗に答えてもらったのだが、解にはさっぱり分からない感覚だった。不思議そうなままの解に透矢のフォローが入った。

「まあいいだろ。とりあえず解も試しに見てみたらいい。なんだかんだ言って面白いかもしれないぞ?」

「よし、じゃあちょっと待ってね。」

居間を出た麗はすぐにアルバムを二つ持って戻ってきた。あまりの素早さに始音が驚いてつっこんだ。

「早っ。麗さん、準備万端じゃないですか。」

「こんなこともあるかもなー、なんて思って置いておいたの。」

「よし、じゃあ早速見よっか!」

全体の代表となった瀬奈は渡されたアルバムを机に置いて早速開いた。いつもよりテンションが高いのは泊まりのせいだろうか。

「ん?この人、解君じゃない…?」

「この人、真さんじゃない?隣の女の子が麗さんですよね?」

「そうね。これは真さんのアルバムね。でも解君とよく似てるでしょ?」

「はい!表情とか雰囲気とかがそっくりですね。」

「まあ叔父だからな。」

…。

「「「ええっ⁉」」」

瀬奈と七海、始音が仲良く一斉に驚きの声を上げた。ちなみに透矢は知っているので驚かなかった。三人が驚いているので麗も目を丸くしていた。

「え?解君、教えてなかったの?」

「え?教えてなかったか?」

「初耳だよ!」

「叔父さんだったら似ててもおかしくないですね…。」

「だから引き取ったりする流れになったのね…。」

騒ぎはすぐに落ち着いたので、透矢が瀬奈達の頭越しにアルバムを覗き込んだ。

「確かに似てるよな。しかし、やっぱりというか、解以上に無表情だな。本当に表情が変わったとこを見たことないんですか?」

「本当にないわ。驚かせたり笑わせたりしようとしても無駄だったわね、懐かしいわ。」

「この辺りは医学生の時だな。しかし、どの写真でも麗さんが一緒に写ってるな。」

「子供の時からきれいよね…。スタイルもいいし、どうやったらそんなになれるんですか?」

「わ、私も聞きたいです!」

「ええ?そう言われても、何かしたわけじゃないし…。それに、堤先生も瀬奈ちゃんも七海ちゃんも、皆すごく綺麗なんだから大丈夫よ。私が教えることなんてないわ。」

「え~。」

麗、始音、瀬奈が喋っている間に、七海だけは話に入らずアルバムを眺めていた。解と透矢も会話に入ると面倒臭そうなのでアルバムを見ていた。

「あ、これは真さんのお父さんとお母さんですね。」

「そうだな。真の両親は事故で二人とも急死したそうだ。それで真は銭湯を継いだらしい。」

「微妙に答えづらい情報だな。ともかく、見る限り不仲じゃなさそうだな。」

「そうだな。夫婦の仲は良かったらしい。」

「結婚しても仲がいいのは素敵ですよね。…あ、ここで終わりです。」

写真は真がおそらく20代(隣にランドセル姿の麗がいる)の時で終わっていた。解のアルバムを見るために七海は真のアルバムを閉じ、ようとして何かに気付いた。

「あれ?ここ、ポケットになってます。写真?かな、入ってるみたいですね。」

「駄目っ!!」

「きゃっ!」

何気なく七海は裏表紙のポケットから写真のようなものを取り出そうとしたが、その瞬間麗が叫んで無理矢理アルバムを閉じた。その際、アルバムに挟まれた七海の手に痛みが走った。しかし、麗の顔は一目で本気と分かるほど非常に険しく、痛みなど吹き飛んでしまった。麗の剣幕に全員が驚いて言葉を失う中、麗はすぐに顔を緩め七海の手を取った。険しい顔は影も形もなく、本当にすまなさそうな表情だ。

「ごめんなさい!痛かったでしょ?咄嗟のこととはいえ、本当にごめんなさい。」

「あ、いえ、全然平気です!私こそごめんなさい、勝手に見ようとして。」

麗に深く頭を下げられ、七海は恐縮しつつも大丈夫だとアピールした。むしろ普段優しそうな麗を怒らせてしまい申し訳なかった。

「いいえ、七海ちゃんは何も悪くないの。私が先に言えば良かったんだから。」

言いながら麗は自然な様子で真のアルバムを脇に抱えた。この場ではもう片付けるべきと考えていた。しかし、解は見えなかったものが気になって麗に尋ねた。

「麗さん、さっきのは写真なのか?」

「ん?ちょっとね。その、私と真さんのプライベートなやつだから、ね?」

「?結局どういう…」

「解君!女性にしつこくしない!」

「…わはった。」

始音は解の頬を引っ張りながら怒った。明らかに言いたくなさそうな麗に気付かないばかりか、さらに食いつこうとしたのでやむを得ない処置だった。幸い解に痛みはなく怒ることもなかった。

 少し空気が微妙になってしまい、誰も喋らない時間まま数秒経過した。

「ごめんなさい、私はちょっと片付けてくるから、皆は解君のアルバムを見ていてね。」

麗がそそくさと今を出て行くのを皆黙って見守った。また居間は静かになったが、先生らしく始音が口火を切った。

「よし!じゃあ解君の写真を見ましょうか。麗さんのことだから恥ずかしい写真とかもあるんじゃないかしら。」

「は、恥ずかしい写真ですか?」

「そんなものない、と思うが、あるかもしれないな。」

「は、裸の写真とかもあったりしてね。」

瀬奈が照れ笑いをしながら言ったが、やや息が荒く、少し怪しかった。

「別に小さい時の裸なんて、いくら見られても何とも思わないぞ。」

「ええ⁉」

「やれやれ。なあ解、悪いけどコーヒーくれるか?なんか飲みたくなってな。」

「分かった。淹れてくるから待っててくれ。」

透矢に頼まれた解は台所に向かった。別に透矢に意図はなかったが、これでどんな写真でも見ることが可能になった。瀬奈は解を見届けてから、おもむろにアルバムを開いた。

「ってあれ?最近の写真だ。…あ、めくる方向が逆なんだ。」

「わざわざ見る方向を変えてるなんて、何だか格好いいですね。」

「そうね。まあ今回はせっかくだから、最近の写真から見てみましょうか。」

「はい。…それにしても…。」

最近の写真は解が高校生だ。真の時と同じく麗はいつも解の隣にいるのだが、近い。真の写真でも近かったが解とはもっと距離が近く、多くで麗は解と手とつないでいるか腕を組んでいた。さらに抱きついていることも、キスできそうなほど近い時もあった。

「…近くない?」

「近いわね。」

「近いですね…。」

三人が共通の感想を持つ中、透矢は笑って三人をなだめた。

「まあまあ。姉代わり母親代わりなら別におかしくないだろ。解もいつも通りにしてるしな。」

写真の解はいつも通りの無表情だった。麗の行動に慣れているのか、どれほど密着されても全く動揺していなかった。

「そう、かな?そうかも…。」

「ま、そうは言っても近いけどな。」

「どっち⁉」

瀬奈は上げて下げてきた透矢に若干やけ気味につっこんだ。透矢は解が戻らないのを確認してやや小声で言った。

「今までの言動で十分分かるだろ?麗さんが解をどう思ってるかくらい。」

「で、でも真さんを好きだったんじゃ?」

「対象が変わることくらい普通にあるだろ。」

「お姉さん、お母さん的な人が実は…ってこと?ドラマみたい…!」

「瀬奈ちゃん、興奮しすぎよ。落ち着きましょうね?」

「こ、興奮なんてしてませんよ!」

「どうした?何かあったのか?」

「何か叫んでたけど、大丈夫?」

瀬奈の声に反応して解と麗が早足で居間に戻ってきた。瀬奈は顔から火が出る思いだった。

「大丈夫です。心配かけてすみません…。」

「謝らなくていいわ。何もなくて良かった。」

ほっとしている麗を横目に、解は人数分のコップとポット、そしてお菓子をテーブルに置いた。

「つまむものも持ってきた。コーヒーを飲むならこれで頼む。砂糖とミルクはそこだ。」

「おう、サンキュー。」

「私ももらうわ。」

各々がコーヒーを入れたりお菓子を食べたりする中、瀬奈と七海は熱心にアルバムを見ていた。

「そういえば、最初は解君、後ろで髪をくくってたよね。」

「そうでした。中学生の時も同じですね。」

「七海ちゃん、見て見て。これなんて目つき悪いよ。」

「悪っぽい感じですね。なんででしょう?」

二人ともとても楽しそうだ。解は自分の写真を見られてむずがゆい気分だったが、楽しめているならそれが一番だった。

「小学生の先輩ですね。エプロン姿が可愛いです!」

「家で撮ってるのか。小学生なのに家事をして、銭湯でも働いて、いわゆるヤングケアラーってやつか?」

「俺は誰もケアしてないぞ。それに家事や仕事は自分からしてることだ。勉強もできているしな。」

解は透矢の軽口に大真面目に答えた。自分がヤングケアラーと言われては本当のヤングケアラーに申し訳ない。そんな解の言葉を聞いて、瀬奈や七海、始音は感嘆していた。

「かっこいい…。」

「先輩はやっぱりすごいなあ…。」

「解君はほんと、しっかりしてるわね。」

「悪かったな、ヤングケアラーは冗談だ。」

「ああ。本当に大変な人のことだからな。」

透矢は解の思いを汲んで素直に謝った。男二人のやり取りを見ながら、麗は眉間にしわを寄せて悩んでいた。

「そういえば私、結構解君のお世話になっちゃってるわね…。もしかして駄目な大人?」

「家事も仕事もしっかりしてるだろ。むしろ助けてもらってばかりで申し訳ないくらいだ。」

「解君…。ありがとー!」

「「「!」」」

麗は後ろから解に抱きつき、解の頭を腕と胸で包み込んだ。まともな男なら動揺するだろうが、解はわずかに困った顔をするだけで、麗の行動に慣れているのかされるがままだった。少しは反応してあげればいいのに…と言いたくなるほどだ。しかし瀬奈達の視線が気になるのか、解は居心地悪そうに麗の胸の中で身じろぎした。

「麗さん、そろそろ離してくれ。皆が見てるぞ。」

「え?解君、もしかして恥ずかしいの?」

「ん、まあ…。」

「あらあら、ふふふ…。それなら離れてあげないとね。」

麗はにやにやしながら解から離れていった。麗の視線を浴びた解は麗が離れても苦々しい表情のままだった。なんだか解がかわいそうになり、瀬奈は誤魔化すようにアルバムをめくりわざとらしく声を上げた。

「あ、これで最後、というか最初のページなんだ。この時は解君って何歳?」

「真に引き取られた頃だから、5歳だな。」

「あれ?この2枚の写真、先輩の髪の毛が黒いですよ?ここだけ染めてたんですか?」

「あら、ほんとね。」

「覚えてはいないんだが、引き取られた時は黒髪だったんだ。それからどんどん白くなっていったらしい。」

「へー、そんなことがあるんだ。不思議。」

「「…。」」

麗と透矢は黙って解を見ていた。会話の流れが気まずい方向にいくとは予想していたが、透矢は解に任せることにして、麗はフォローする心積もりをした。しかし、解は透矢達の空気には気付かず瀬奈達に自分の髪について説明を続けた。

「精神科の医者が言うにはストレスにさらされた結果らしい。円形脱毛症に近いらしいぞ。」

「ストレスですか?」

七海が何気なく出した一言に解は頷き、少し躊躇いがちに話し始めた。

「ああ。…その、つまらない話だから今まで言わなかったんだが、母親は俺を置いて男と蒸発したんだ。俺は一週間ほど家に置き去りにされたんだが、死ぬ前に真に助けられたんだ。その時のストレスが原因で白髪になったらしい。」

説明を終えたところで解はようやく場の雰囲気に気付いた。場は静寂が支配し、非常にきまずい空気だった。解は事情を話したことを後悔した。この場の友人達になら話してもいいと思ったのだが、やはり聞いて不快だったかもしれない。

「…そうだったんだ。」

七海が抑揚ない声でぽつりと呟いた。その冷たい声に全員が七海を見ると、七海は呆然としており、顔色は血の気が引いて真っ白だった。

「私、知らなくて。初めて会った時から『真っ白できれい』なんて、勝手なことを言って…。」

七海は声が震えていて、わずかな刺激で破裂してしまいそうな雰囲気だった。そんな七海を心配して解が手を伸ばした。

「な、七海?」

「っ!」

解の手が振れたことが引き金になったのか、七海はびくっと体を竦ませ解を見上げた。解と目が合い、次の瞬間には居間を飛び出した。そのまま玄関から外に出て行く音がした。我に返った始音が解に叫んだ。

「解君、早く追いかけて!」

「…分かってる。」

解も七海に少し遅れて家を出て行った。残った面々は心配そうな顔、困った顔、気まずい顔、悲しそうな顔をして黙っていた。

少しして、瀬奈が心配そうに言った。

「あの、私達も七海ちゃんを探しに行った方がいいんじゃ…?」

「そうね…。探したいのはやまやまなんだけど、見つけて何て言うの?」

瀬奈の言葉に始音が難しい顔で言った。聞かれた瀬奈は一瞬呆気に取られた顔になった。

「え?何って…。解君は怒ってないから帰ろう、とか…。」

「俺達が言って響くか?無理やり連れて帰るより、解が話をするのが一番だろ。」

「でも解君一人じゃ探すの大変だよ。私達も手伝って、後で解君に話をしてもらえばいいでしょ。」

「そうね、七海ちゃん一人は危険だし…。」

かちゃっ。

その時居間の入り口が開いて、いつの間にか居間から消えていた麗が戻ってきた。

「麗さん、どこ行ってたんですか?」

「ちょっと外を見てきたの。皆どうするか決めた?」

「いや、まだですね。」

「そう。じゃあ私と茅野君で探しに行って、瀬奈ちゃんと堤先生は帰りを待つことにしましょう。」

「え?」

麗がいきなり役割を決めたので、瀬奈は戸惑った様子で麗に尋ねた。

「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなこといきなり言われても…。」

「理由はあるわ。まず、私と解君はホストとしての責任がある。そして、雨が降ってるのに七海ちゃんは傘を持たずに出たみたいなの。急いで連れて帰ってあげないとね。」

麗は驚くほど冷静に、それでいて穏やかな口調と笑顔で説明していった。お陰で瀬奈も他も少し冷静になれた。

「探すだけなら皆でする方がいいと思うわ。そうしないのは解君と七海ちゃんがスマホも財布も持ってないから。誰かが待ってないと駄目なの。」

「じゃあ私も探します!一緒に行かせて下さい!」

「それは…。」

「この辺りは街灯が少ない道が結構ある。だからお前を一人にするのはリスクがあるんだよ。だからといってお前だけここで待機ってのもきついだろ?だからさっきの役割分担になるんだ。」

麗が言うよりも早く透矢が口を開いた。そして、透矢に続いて麗も説明した。

「茅野君の言う通りなの。それに、七海ちゃんと話をするなら解君か、解君の事情を知ってる人がいいわ。茅野君は解君の昔を知ってるのよね?」

「解には話しましたが、調べたことがあるんで。霧谷、分かったか?俺と麗さんは事情を知ってる上に頭もいい。だから適任なんだ。まあ何だかんだいって、解が先に見つける気がするけどな。」

重い空気を変えるためか、透矢は軽い調子で出ていった。麗も始音と瀬奈に笑いかけ、透矢に続き家を出た。

解の家にいるのは今や始音と瀬奈だけになった。始音は複雑そうな顔で俯く瀬奈の肩に手を置き、優しく声をかけた。

「瀬奈ちゃん、二人で待ってましょう?それも大事な役目よ。」

「…アルバムを見たいなんて言わなければよかった。そうしたら七海ちゃんがショックを受けることなんてなかったのに…。」

瀬奈は少し涙ぐんでいた。自分の言動への後悔と悔しさで泣きそうになるが、堪えた。

「今聞かなくてもいつかは分かったでしょうから、瀬奈ちゃんに責任はないわ。解君も私達と仲良くなったからこそ話してくれたんだしね。」

「…でも、きれいだって言ってた髪の毛が、実は親からの虐待のせいで白くなっただなんて…。七海ちゃん、あんなに解君のことを慕ってるのに。」

「そうね。七海ちゃんには辛い話だったみたいね。でも解君は…。まあいいか、今そっちは。」

始音は軽く首を振って気持ちを切り替えた。そして瀬奈の背中を押して進んでいく…お風呂場に。

「し、始音先生?押さないで下さいよ。」

「とにかく、今は任せましょ?私達のリーダー兼王子役がなんとかしてくれるわ。私達はでんと構えてないと。だから、お風呂に先に入るわよ!皆多少は濡れるだろうし、待たずに入れるようにしないと。」

「ええ⁉一緒に入るんですか⁉」

始音は返事をしないままにっこり笑い、瀬奈を押していった。


 七海は雨に濡れながら走っていた。少し前に転んだ時に靴を片方失くしてしまい、片方は靴下だった。幸い夜の道にはほとんど人がおらず、たまにいる人が驚いて振り返るくらいで済んだ。走っているのは乱れた気持ちに任せているからだが、解が追いかけてくるかもしれないとも考えていた。今解と会ってもどうすればいいか分からない。そして、解なら追いかけてきてくれるのでは、と考える自分が心の底から嫌だった。

 走りながら考えるだけで胸が潰れそうだった。『先輩の髪は真っ白できれい』と何度私は言っただろう。その時解はどう思ったのだろうか。家に来てくれた時、どんな気持ちで私の家族を見たのか。私の悩みを聞いて何を思い助けてくれたのか。後から後から疑問と後悔が湧いてきた。死にたくなるほどの後悔とはどんなものなのか、七海は初めて知った。

 七海はずっと走っていたせいで疲れ切ってしまい、足がもつれ転んだ。全身雨と泥で汚れていた。膝が怪我で痛み、もう走れなかった。七海がふと周囲を見ると、よく知る公園のすぐ近くだと分かった。解とデートした時も、家を飛び出した時もここに来た。今も思い出を頼りにここに来たのかもしれない。こんな時でも解に頼っている自分が情けなくて申し訳なくて、ぽろぽろと涙が零れた。我慢しようとしても涙は流れた。行くあてのない七海はふらふらと公園に入っていった。

七海は公園のすべり台の下で座っていた。そこは公園内で雨をしのげる唯一の場所だった。瀬奈がぼんやりと雨を見ていると、解が話していた雨の話が思い出された。雨は冷たくて心地よく、側にいてくれて、一緒に泣いてくれる。この雨はまさしく解が言った通りの雨だ。解の話を思い出した七海は思わず笑ったが、自分が笑っていることに気付くと首を振って笑顔を消した。解を傷つけてきた自分が解の話で笑うことが許せなかった。

再び静かに雨を眺めていた七海だったが、そこに近づいてくる人がいた。恐らく20代前半、ワイシャツ姿の男性だった。男は傘を七海の方に傾けつつ、七海に声をかけた。

「ちょっと君、そんなに濡れて汚れて、どうしたの?」

「…何ですか?」

七海は無視したかったが相手は目の前にいるのでやむなく声を出した。見ず知らずの男は馴れ馴れしく笑いながら話を続けた、

「そんなんじゃ風邪引くよ?行くあてがないなら俺の家に来ない?シャワーと食べ物くらいならあるし、スマホの充電もできるから。」

「…。」

「あ、別に心配しなくていいよ。俺一人だから迷惑じゃないし。ここでじっとしてるよりはましだと思うよ?」

男は優しく話していたが、目は濡れて透けた七海の体を見ていた。七海は男の下心に気付いていたが、別に体を見られても気にならなかった。むしろ、体が目的なら好きにしたらいい。捨て鉢な気分で七海は伸ばされた手を取り、のろのろと立ち上がろうとした。

「おいおい、そんなのについて行くような馬鹿だったのか?」

「…⁉」

いきなり知っている男の声が聞こえ、七海は心臓が一瞬止まったような気がした。声がした方を見ると、既に男…透矢は七海に声をかけた男に迫っていた。

「遊びたいならそれ用の店に行ってくれ。素人に手を出すなよ。」

「は?何だお前?偉そうにしてるけど、まだガキだろ。邪魔すんな。」

男は透矢を年下と見て言い返したが、強がっているのが丸分かりだった。

「いいから消えろ。クソ同士の殴り合いなんて見せたくないんだよ。」

「うっ…。」

透矢は傘を閉じて先端を男の顔に向けた。男が下がると透矢が前に出た。男は透矢が本気で襲ってきかねないことを理解すると、慌てて逃げていった。

「やれやれ、無駄な時間だったな。」

透矢は閉じた傘を再び開いて七海に近づいた。

「よう、川野辺。様子を見に来たぞ。しかし悪いな、助けたのが解じゃなくて。」

「…!」

七海は俯いていたが、透矢の言葉にぴくっと反応した。…確かに、誰か来たと知ってまず考えたのは解だった。逃げ出しておいて、何を期待しているんだろう。暗くなる七海を立ったまま見下ろしながら、透矢は独り言のように話し始めた。

「生物ってのは基本的に知ってる所に行きたがるんだ。今のお前みたいにてきとうに移動するなら尚更な。だから解より先に見つけたんだが、解はまだ頑張って探してる途中だろうな。あいつも大変だ。」

「…帰らないと、ですよね。」

「いや?俺はお前をどうこうする気はないな。俺はクソだから、お前等の興味深い様子が見れればそれでいいんだよ。だから、帰るかどうかは川野辺が決めろ。」

透矢は笑って毒づいたが、七海は不快には思わなかった。透矢が言葉通りの人間なら七海を助けなかっただろうし、今までの言動とも合わない。毒づくことで突き放し、誰かを頼るなと言いたいのだろう。そして、そんな透矢の話はまだ続いた。

「実は逃げるのも勝手なんだが、一応聞かせてくれ。恐らく解にずっとひどいことを言っていた、とか思ってるんだろうが、解がそう言ったのか?それとも、お前は気持ちを代弁するほど解を分かってるのか?」

「…どっちも違います。」

「そうか。ならなんで逃げてるんだ?解がどう思ってるか知らない、推測もできない。それじゃあ逃げる必要はない。必要なのは解に聞いて、必要なら謝る、それだけだからな。だからな、川野辺。」

世間話をするように気軽に話していた透矢は一度言葉を区切り、にやりと笑った。やや意地悪で人の心を見透かすような、いつもの笑いだった。

「お前、解と話して嫌われるのが怖いだけなんだろ?」

言葉が刃となって七海の胸に刺さった。違うとは言えなかった。透矢の言う通り、相手を傷つけた時まずすべきは謝ることだ。だが謝るのは勇気がいることだ。だって会って話をして、嫌われるのも悲しませるのも嫌だ。結局、私は自分を守るために逃げているのかもしれない。

透矢は内省する七海を静かに見守りながら、七海が雨に濡れないようにしていた。そして周囲を見ていたが、何かに気付いてにやりと笑った。

「お、ようやく到着か。」

「え?」

七海は何が到着なのか分からず言葉を繰り返した。透矢は七海の肩に手を乗せて言った。

「そりゃお前、迎えに来るのは王子様だろ。俺は先に帰るからな。」

透矢は笑いながら去っていった。


「先に見つけてたんだな。よかった。」

解はそこそこに息が切れていた。ずっと七海を探していたのだろう。

「いいわけないだろ。最後はお前がしっかり締めてくれよ?」

「…?」

透矢は解の肩を軽く叩いて公園を出て行った。


 解は七海の前まで来るとしゃがみ込み、七海と目線を同じ高さにした。七海は俯きがちで、目は合わなかった。

「遅くなって悪い。迎えに来た。」

「…は、はい。」

「つまらないことを話して本当に悪かった。お前はこの髪がきれいだと言ってくれていたのにな。」

解が髪の毛の話をしたので、七海は胸がどきどきして苦しいくらいだった。それでも、ちゃんと謝らないといけない。

「あのっ…!」

「この髪はお前の思いにつり合わない理由でできたものだ。悪かった。もっと早く説明すれば良かったんだが、不快にさせると思って黙っていたんだ。」

「…え?」

「ん?どうしたんだ?」

七海は解の言葉になんだか違和感があったが、まずは何より謝らないといけないと思い口を開いた。

「いえ、その。私の方こそ、先輩にとって髪の毛は大変だった記憶のはずなのに、真っ白できれいだとか好きとか、色々好き勝手言ってすみませんでした。」

「何言ってるんだ?お前は髪を褒めてくれただけで、謝ることなんて何もないぞ。」

「え?でも先輩も私の言葉がどうって…。」

「お前が折角褒めてくれるのに、この髪がつまらない理由でできていて悪い、とは言ったぞ。」

どうにも話が噛み合わず、七海は混乱していた。ちなみに解は落ち着いてはいるがよく分かってないみたいだった。

「あ、あれ…?先輩、私がなんで先輩の家から出て行ったと思ってますか?」

「俺の話にショックを受けたからだろ?」

「ま、まあそうなんですけど、もうちょっと詳しく!」

「好きだった髪の毛が親の虐待で白くなったのを知って、怖くなったから。」

違った。何となく近いだけで、大分違った。

「あ、あの、先輩?実は…。」

七海は自分が逃げ出した理由を説明した。説明しながら、私は先輩に何を話してるんだろう?と心の中で首を傾げていた。七海の話を聞いた解は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「そういうことか。…何というか、悪かった。逃げた理由すら間違えてるなんてな。」

「い、いえ!私が逃げたのが悪いんですから、謝らないで下さい。」

「いや、それなら俺がもっと上手く説明できていれば、お前もショックが少なくてすんだはずだ。」

二人は見つめ合った。どちらも謝り続けるのは不毛だった。解が少し気まずそうにしながらぼそりと言った。

「…帰るか。」

「は、はい。」

立ち上がった解は七海の手を引いて立たせた。解が行くか、と言おうとした時、七海は片膝を怪我していて、靴も片方ないことに気付いた。


「すみません、先輩…。」

「別に大丈夫だ。むしろ軽い。」

結局解が七海を背負って帰ることになった。傘は七海が持っていて、少し二人羽織に似ていた。

 七海を探すのに割と走ったはずだが、解は疲れた様子を見せなかった。まだ余力は残っているが、何より七海が心配するので疲れた姿を見せるわけにはいかなかった。

「帰ったら皆さんにちゃんと謝らないと…。」

「いや、俺が謝るからいい。」

「じゃあ、二人で謝りましょうか?」

「…そうだな。」

話が途切れたので、七海はぺとっと解に体重を預けくっついた。七海がびしょ濡れのせいで解もどんどん濡れていった。申し訳ないと思う一方で、解が濡れるのを気にせずおんぶしてくれることが嬉しかった。七海は顔を解の首筋に押し当ててぐりぐりした。人肌の温もりと汗と泥の臭い、そして解の匂いがした。

「くすぐったいんだが。」

「あ、すみません、つい。…先輩って、お父さんとか、お兄ちゃんみたいですね。」

「そうなのか?なら、俺が七海を心配したり助けたりするのは、父親や兄としての愛情に近いのか。」

「それは分かりませんよ?私と先輩じゃ感覚が違うと思いますので。」

解に父親の感覚、父親の愛情でいられるのは七海としては何だか複雑な気分だった。

「違うのか?…やっぱり難しいな。」

「ふふ、難しいですよね。」

 また話が途切れた。七海は頬を解の首につけてじっとしていた。背負われている振動と解の温かさが心地よかった。一方の解は首が少しくすぐったいのだが、不快ではないので何も言わなかった。七海もきっと疲れて眠いだろうから、黙ったままでいた。…いや、そういえば一言言っておきたいことがあった。

「七海、起きてるか?」

「はい、なんですか?」

「この髪を綺麗と言ってくれてありがとう。俺にとって大していい思い出のないこの髪も、お前のお陰で悪くないと思うようになった。最近は悪く言われなくなったが、初めて褒めてくれたのはお前だ。本当に感謝してる。」

「あ…。」

解はいつも通りの落ち着いた声、無表情な顔だったが真剣に思いを伝えた。七海は嬉しくて泣きそうになるのを堪えた。解を掴んでいる手に力を込めてぎゅっと抱きついた。

「先輩。これからも髪の毛、触っていいですか?」

「ああ。」

「散髪もして、真っ白な、きれいな髪だって言ってもいいですか?」

「ああ、構わないぞ。」

「ありがとうございます…。」

七海はこのタイミングで解に大好きです、とは恥ずかしくて言えなかった。代わりに、気付かれないようそっと首に口づけをした。


 解と七海が家に帰ると皆が待っていた。誰も七海を責める者はおらず、帰りを喜んだ。七海は何度も謝り、それ以上にお礼を言った。後は穏やかに順番にお風呂に入り、就寝時間になったので解散となった。

 寝るのは女性が二階(麗は一階に自室があるが一緒に上がった)、男性が一階になった。二階は空き部屋を使ったが、透矢は彼たっての希望で真の部屋で寝ることになった。真の部屋での生活を疑似体験したいらしい。始音に冗談で色々調べないよう言われると、

『悪意には逆らって好き放題してやりますが、善意を裏切るつもりはないですよ。』

と返事していた。

 解はベッドに横になっていたが、なかなか眠れなかった。妙な高揚感があったからだ。…今日一日だけでも色々な出来事があった。愛情研究会全員が家に集まり、散髪して、騒いで、食事を作り、アルバムを見て、出て行った七海を探して連れ帰った。七海も最終的には笑っていたので本当に良かった。知る限り全員が楽しんでくれたようなので、今日は良い一日だった。

「…良い一日…?」

解は自分の言ったことが気になって身を起こした。「楽しんでくれて良かった」で十分なのに、どうして自分は「良い一日だった」と思ったのだろう。「良い一日」と思ったのは自分だけ。一方先の「全員」には自分は入っていない。つまり…。

「『良い一日』は俺自身を肯定しているのか。」

解の言葉を解体すると、友人が楽しく生きたことが良く、友人と共に自分が生きたことが良く、今日自分がした行動も良かった。結局、友人達だけでなく自分自身を含めた一日が良かったということだ。ちなみに、ここでの良い・楽しいと好きは近い意味を持つ。ざっくりまとめると、解は七海達が楽しそうなところを見るのが好きであり、その好きは自発的な感情である、こういうことだ。そしてこの愛情は友情であり隣人愛であり、ものへの愛情である。この結論はつい最近解が始音と話したことと似ているので、解は自分の考えが間違ってないと自信を持った。

色々考えた結果、自分にも好きなことがあると分かった解はますます目が冴えてきた。楽しいことを知った子供のようで、少し格好悪かった。

「…水でも飲むか。」

解は頭を冷やすために居間に向かった。夜中だが居間には明かりがついていて、解が居間に入ると麗が麦茶を飲んでいた。

「あら解君、どうしたの?」

「寝れないから水でも飲もうと思って。」

「じゃあ麦茶をあげましょう。」

麗はにっこり笑うと麦茶を一気飲みした。そして空になったコップに麦茶を注ぎ直すと、解にコップを手渡した。

「ありがとう。」

「どういたしまして。…解君、今日は大変だったわね。お疲れ様。」

麗は解が麦茶を飲む様子を見守りながら労った。今日は本当に解の成長を感じる一日だった。

「俺はそんなに大変じゃない。できることをしただけだからな。」

「そう?自分の髪の毛のことをあえて話したり、七海ちゃんを元気にしてあげたり。一年前の解君じゃできないと思うけど?」

「…そうかもしれないな。」

「そうなの。ちょっと感動しちゃった。解君はこんなに成長したんだなあって。」

麗は本当に嬉しそうに、だが少し寂しそうに言った。そんな麗の顔を見ていると、解は麗に相談したい話があったことを思い出した。

「麗さん。少し話をしてもいいか?」

「もちろん。どうしたの?」

「昨日話した児童虐待についてなんだが、俺はやっぱり調べてみたい。だから、麗さんの許可が欲しい。」

「…。」

麗は珍しく驚いた様子で解を見た。一度目を逸らした後、伏し目がちに言った。

「別に私が解君の行動を決めてるんじゃないわ。解君がしたいことは自由にしていいのよ。」

「基本的にはな。麗さんが俺を止めるのは本当に俺によくないと思った時だけだ。俺のことを考えてくれる麗さんを無視はしない。」

「解君…。」

解の言葉には麗への確かな信頼と愛情が込められていて、麗は嬉しかった。解は謙遜するが、確実に、着実に解は成長していた。なら、ちゃんと話さなければならない。麗は穏やかな笑顔を解に向けた。

「ごめんなさい、気を遣わせて。…虐待の話、調べること自体は悪いと思ってないわ。むしろ解君が愛情を知るためには良いことだと思う。」

「なら、どうして反対したんだ?」

「発作のことがあるでしょ?倒れてからはまだ起きてないけど。…虐待について調べるのは楽しいことじゃないわ。知ることが引き金になって、よくないものが掘り起こされるかもしれない。そうなったら苦しむのは解君なの。私では代わることも治すこともできない。…解君はどうして児童虐待のことなんて調べようと思ったの?」

「それは…。」

解は一瞬言うのを躊躇ったが、ここで言わないと麗に分かってはもらえない。解は心の中で透矢に詫びてから話し始めた。

「この前透矢を探しに行った時、透矢の事情を聞かせてもらった。…透矢も親が原因で多くの問題を抱えていた。それでも透矢は親と向き合い、苦痛はあったが得るものも確かにあった。俺は両親に会うことはできないが、過去と向き合うことはできる。そのための一歩として児童虐待を調べたい。」

「…。」

麗は目を閉じて考えていた。解の思い、解の過去、解の病、自分の解への愛情。そして麗は目を開けた。

「分かったわ。解君が本気で話してくれたことを無視なんてできないわ。でも、もし解君の調子が悪くなるようなら中止して。これは私のお願い。」

「分かった。無理はしない。麗さんに隠すこともしない。」

解は真面目に答えた。麗は真面目な顔で解を見つめていたが、ふいにいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「本当?最近まで色々隠してたのに?」

「う…それは、反省してる。」

「ふふ、ごめんね。真面目な空気に耐えられなくて、思わずからかっちゃった。じゃあ解君、お休みなさい。」

麗は優しく笑って居間を出ていった。階段をゆっくり上がる、重たく静かな音が聞こえた。麗は話が重い空気のまま終わらないよう気を遣ってくれた。そのくらいは解にも理解できた。

「ありがとう、麗さん。」

解は改めて麗に感謝した。解の独り言は誰に聞かれることもなく居間の空気に溶けていった。

 解は欠伸を一つした。心に引っかかっていた事柄は前進した。今度は眠れそうだった。


 ぴぴぴぴっ!

 珍しく解は目覚ましの音で目が覚めた。何だかんだいって、少しは疲れていたのだろう。

「朝食の用意だ。」

解が居間に入ると、既に女性陣が全員働いていた。…何というか、壮観だ。

「あ、先輩!おはようございます!」

「おはよー。」「おはよう。」「おはよう。」

「あ、ああ、おはよう。」

女性達の活気に圧倒されながら解は挨拶を返した。朝食を作る気で来たが、邪魔なだけかもしれない。

「何か手伝うか?」

「いいよ、解君は休んでて。元々居残り組の私と始音先生でする予定だったんだけど、暇だからって集まってるだけなんだ。」

「そうか…。」

瀬奈に言われてしまい、解は本当にすることがなくなった。暇なのでタブレットを読もうと部屋に戻る途中、真の部屋から透矢が出てきた。

「おはよう。」

「おう。そうだ解、ちょっと入れよ。」

「何だ?」

解は透矢に促され真の部屋に入った。ベッドに横になりながら解に聞いた。

「解はここで寝たことがあるか?」

「いや、ない。」

「実際に寝てみると色々面白いことが分かるぞ?試しにやってみろよ。」

「寝るだけで何か分かるのか?」

半信半疑ながら解は透矢の代わりにベッドに横になった。…固い、そして狭い。解はのそりと起き上がった。

「固いし狭いベッドだな。」

「ああ。スプリングが壊れてる。そして根本的に狭い。正直、毎日これで寝るのは大変だな。」

「真はこれでずっと寝てたぞ。」

「だろ?他にもあるぜ。起きて着替えて部屋を出る。ちょっとやってみろ。」

「起きて…着替えて…部屋を出た。」

解は一連の動きを真似して動いた。…やはり狭い。

「どうだ?」

「狭いが、準備をするだけなら問題なくできるな。」

「だな。この部屋には快適さや遊びがないんだよ。多少効率は考えられてるけどな。これで生活に全く問題ないんなら、やっぱり真さんは快適さや楽しさが全く必要なかったんだな。つまり、真さんらしい部屋だってことだ。」

「一泊寝るだけで分かるものなんだな。」

「ああ。ちなみにこの部屋で唯一人間らしさがあるのはどこだと思う?」

「あれか?」

解が指をさしたのは真の机の上だった。そこには真と麗、小さな解が写った写真があった。

「あれは家族の証ということで麗さんが置いたんだ。俺の部屋にもあるぞ。」

「麗さんが置いたとしても、そのままにしたのは真さんの意思だ。中身は分からないがな。」

「真の意思、か。」

解が部屋全体を見回すと、確かに写真だけ異彩を放っている気がした。透矢のお陰で違う視点から真を考えることができた。

「よく分かった。昨日も七海を先に見つけてくれたし、重ねてありがとうだな。」

「は?よせよせ、俺に礼なんてしなくていい。そもそも俺と真弓の方がよっぽど迷惑だ。」

「そうか?あれこそ俺が勝手にしただけだと思うぞ。」

そんな話をしていると、始音が居間から出てきて二人を見つけた。

「ちょうど良かったわ。二人とも、ご飯できたわよ。冷めるから早く来てよ?」

「は~い。」「分かった。」

遅れると怒られそうなので、解と透矢はすぐに居間に向かった。

 

 朝食は全員で(透矢は元々朝食を食べないそうなのでサラダだけ)食べたが、昨日の夕食と同じく騒がしい食卓だった。しかし、全員が楽しそうだったので、解もまた不快なく、いや快適に過ごせた。昨日自分自身について気付きを得たお陰だった。


 朝食後は解が働く番だった。夏休みとはいえ麗と自分、今日は始音に弁当を作る予定だった。

「…それで、どうして瀬奈と七海は俺の横にいるんだ?」

「いいでしょ、暇なんだもん。」

「私も暇ですし、先輩のお弁当作り、見たいです。」

「まあ、二人の好きにしたらいいんだがな。」

会話しながらも解は手際よくだし巻き卵を作っていった。

「ねえ、混ぜた水ってどれくらい?」

「卵三個にだし80mlだ。昔聞いた。」

「へえ~。」

解はどんどんおかずを作っていき、みるみるうちに弁当箱の空白は埋まっていった。

「知ってたけど、すごい家事能力だね。いいお父さんになりそう。」

最後にプチトマトをそれぞれの弁当箱に入れた解は瀬奈の「お父さん」という単語に反応した。

「昨日七海も言ってたが、俺はお父さんみたいなのか?」

「えぇ?そう言われるとどうかな…?いいお父さんになりそうってだけで、お父さんっぽいかというと違う気がするけど…。」

「私はお父さんっぽいと思いますよ!格好いいし、頼れるし、優しいです。いいところがいっぱいですから。」

解は悩む瀬奈と笑顔の七海を見ながら考えていた。いいところが数多くあるとお父さんっぽいんだろうか。…さっぱり分からない。しかし、解は思い出したように口を開いた。

「そういえば、瀬奈はさっき朝食でご飯をよそっていたな。」

「うん。それがどうしたの?」

「食事の用意をする姿が印象的だった。綺麗だと思ったが、それ以上に安心するというか…。あれが母性、お母さんみたい、ということかもしれないな。」

解は至って真面目に話をしていたが、瀬奈は顔を赤らめながら無理矢理顔をしかめた。顔がにやけないように頑張っていた。

「きれいはともかく、母性とかお母さんみたいって、褒めてるように聞こえないんだけど。年上扱いされてるみたいだし。」

「褒めてるぞ。そうだな…。表現を変えると、ずっと見ていられるくらい綺麗だった。」

「ず、ずっとって…。」

瀬奈は直球で褒められて顔が真っ赤だった。自然になってしまう笑顔を隠し切れなかった。

解の隣にいた七海は瀬奈を真剣に褒める解と照れる瀬奈をむすっとした顔で見ていた。最初は解の隣で二人の会話を静かに聞いていたのだが、仲の良い二人を見ていると何だか胸がもやもやとして、しかも仲間外れの気分にもなってきた。そのため、七海は拗ねたような、それでいて一生懸命な顔で解の裾を引っ張った。

「先輩、私は?私はお母さんっぽいですか?」

「七海は…お母さん、ではないかな。」

「ええっ⁉」

七海はがーん!とショックを受けていた。解は落ち込む七海をすまなさそうに見つつ、ばつの悪い顔でぼそぼそと言った。

「ただ、ここまで話を引っ張っておいてなんだが、俺は母親というものをよく分かってない。俺の母親像は間違ったものかもしれないな。」

「あ…。」「う…。」

解の言葉で今度は瀬奈と七海が気まずい顔になった。解は二人が暗くなった理由が最初分からなかったが、自身の言葉を反芻すると原因が自分だと分かった。

「悪い。正直な気持ちを言っただけなんだが、返答しにくかったな。」

「そんな、先輩は何も悪くないです!」

「そうだよ、こっちが勝手に気にしただけなんだから。」

二人とも解は悪くないと言ってくれたが、やはり責任を感じている解は弁当箱に蓋をして箸と共に袋に入れた。

「麗さんと始音に渡してくる。二人とも待っててくれ。」

解は申し訳なく思いながらも弁当を持って居間を逃げるように出て行った。


 麗は彼女の部屋にいたのですぐ弁当を渡すことができた。始音は寝た部屋にいると考え、解は階段を上った。ノックしても返事がないのでドアを開けると、始音は布団ですやすやと寝ていた。朝が早かったので大分余裕はあるが、女性は着替えにも時間がかかるだろう。

「おい、始音。起きろ。おーい。」

「…う、ん。解君?おはよ。」

「挨拶はもうしたぞ。起きて着替えた方がいいぞ。」

「そうね…って、解君⁉」

始音は寝ぼけていたようで、頭がはっきりすると解がいることに驚いて飛び起きた。

「今何時⁉…ああ、まだまだ大丈夫ね。ふう…。」

「起きたな。弁当を持ってきたぞ。」

「え?お弁当なんて作ってくれたの?」

「麗さんと俺の分は元々作る予定だったからな。十分ついでに作れるんだ。」

「ついでってところが引っかかるけど…。嬉しいわ。ありがと。そこに置いといて。それと今から着替えるから、後ろを向いててくれる?」

「いや、部屋を出たらいいだろ。」

「えー、寝顔を勝手に見たんだから、話くらいしてくれてもいいでしょ?」

「話はするし、後ろを向くのも別にいいんだがな…。」

始音の抗議に解は渋い顔で答えたが、その語尾は濁っていた。いくら始音がいいと言っても、女性の着替えに同室するのは始音に良くないと思っていた。だが、始音はそんな解の心配を無視してからかうような笑顔を解に向けた。

「何?着替えを想像しちゃうの?」

「いや、始音が嫌じゃないならいい。見ないから着替えてくれ。」

解が早口で答えつつ始音に背中を向けたので、始音は微笑んで立ち上がった。あまりからかうとかわいそうなので、これくらいにしておいた。

解の後ろで始音は着替え始めた。衣擦れの音がかすかにする中、解は始音が後ろで動く気配を感じていた。なぜだか少し緊張している解に始音が話しかけた。

「解君は昨日から大変ね。やっぱりリーダーは忙しいわね。」

「皆俺をリーダーとか言うが、そんなにリーダー然としてるか?愛情研究会が始まった原因は確かに俺なんだが。」

「リーダーシップがあるかっていうと、あまりないと思うわ。解君は一言で表現すると、『マイペースな変わり者』って感じね。」

始音の評価に少しがっかりしている解がいた。解は始音にはしっかりした自分を見せたいのだが、現実は厳しかった。

「…少数派だとは思う。」

「でも、解君が皆を引き寄せてるじゃない?研究会の皆、私、生徒会の橘さんや杉崎さん。ある意味麗さんや真さんも。」

「そう言われても自覚はないし、環境が激変したのは高二になってからだぞ?」

「そりゃあ出会いには偶然もタイミングもあるから。でも、あなたが黒条解だから今言った人達に好かれてるのよ。」

「好かれてる、か…。」

少しは愛情について分かってきたと思うが、分からないことは多い。好かれることに関しては今までに何度も言及されたがやはり実感がなかった。そして、解が今ひとつ納得できていないことは始音にも感じ取れた。

「未だに好かれてる自覚なし?こんなに美人だらけなのに。」

「美人と好かれることには関連性なんて全くないからな。それに、嫌われてないことは分かってる。実感がないだけだ。」

着替え終わった始音はため息を吐いた。世の中大抵の人は大抵の人を嫌っていないのだから、嫌われてないことが分かってもあまり意味がない。結局、解は愛情に関する知識があっても経験がないから好かれている実感がないのだろう。

(全く、解君には困ったものね。)

どうしたものかと考えていると、同じく黙っていた解が口を開いた。

「音がしなくなったが、着替え終わったのか?」

「え、まだ駄目よ。顔の手入れとかもあるんだから。」

「…化粧、か。」

「どうしたの?化粧に何か気になることでもあるの?」

解の言葉に妙な溜めがあったので、麗は気になって尋ねた。

「いや、化粧といえば大人、大人といえばお母さん…と思ったが、始音にお母さんの雰囲気はないなと思って。」

「殴られたいの?」

 ということで、解は後ろを向いたまま始音に瀬奈や七海と話したことを説明した。話を聞いた始音はお冠だった。

「七海ちゃんといい瀬奈ちゃんといい、解君は後先考えず優しすぎるのよね。」

「はあ…。」

「はあ、じゃない!返事ははい!」

「はい、すいませんでした。」

解は姿勢を正して謝った。始音が非常に怒っているので反論せずひたすら謝っていた。

 しかし、始音はただ怒っているわけではなかった。無自覚な八方美人、解への腹立たしさはあるが、それよりも瀬奈や七海への羨ましさがあった。七海は昨日を始め解との絡みが多いし、瀬奈は不思議と解に気に入られていた。なにより二人とも時間も場所も気にせず解と仲良くでき、電車で二人きりになれただけでありがたい始音とは大違いだ。

(…二人きり…。)

…唐突だがいい機会かもしれない。というか、次にいつ二人きりになれるのかも分からないのだ。ならチャンスを逃してはならない。そう決意した始音は解の傍にそっと近づいた。

「…解君。振り返っていいわよ。ついでに、振り返る前に鍵かけてね。」

「はい、分かりました。…っ⁉」

解は背中近くに始音がいることは分かっていた。いたずらでもしてくるのだろうと思いつつ振り返ったが、現実は全く違った。

解が振り返った瞬間、始音は解に抱きついて口づけした。昔のように、腕を解の首に巻き付けて逃げられないようにした。

「…っ!…⁉」

さらに始音は解の口の中に舌を滑り込ませた。

触れると逃げる解の舌を捉えて自分のそれと絡めると、ぬるぬるとした感触、解の味と匂いが脳を刺激した。キスは2回目だが初めてよりも冷静に、はっきりとキスそのものを感じていた。

一方の解は驚きで頭が真っ白だった。とはいえ急に離れたり口を閉じたりしないことくらいはできた。最初は目を開けていたが、始音の顔が近過ぎて緊張するので途中から目を閉じていた。すると、視覚の分他の感覚が鋭敏になるのか、始音の感触と匂いが心地よく感じてきた。心臓と呼吸が早くなるのが自分でも分かった。昔の自分は今のように動揺していただろうかとふと疑問に思った。

しばらくして、始音はようやく解を解放した。さすがに顔はかなり赤くなっていたが、吹っ切ったような笑顔だった。ぷはっと口を離した始音は密着した状態のまま解を壁際に追い詰めた。

「ふうっ。ごちそうさま。どうだった?」

「ど、どう?」

始音に見つめられて解は戸惑っていた。何と言えばいいのか分からない上に、始音の肉食獣のような瞳に見られて気持ちがざわついていた。

「気持ち良かった?」

「え?…まあ、そう、だな。」

「ふふ、良かった。私だけじゃなくて。じゃあ、好かれてる実感はどう?私に求められてるって感じ、しなかった?」

「…確かに、そんな感じだったな。」

解は少しぼうっとした頭で考えた。舌で捉えられた感じは求められるというより食べられているに近い気がした。しかし、始音からは一生懸命な、あるいは必死な雰囲気が感じられ、求められている感じも確かにあった。…始音は好かれている実感を教えるためにわざわざキスをしてくれたのかもしれない。解はそんな可能性を考えたが、始音の一番重要な目的は別にあった。そのため始音は解と目を合わせたまま告げた。

「私は解君が好きよ。この好きは当然恋愛の意味で、ね。教師と生徒だから手出しできなかったけど、ちょうど密室で、しかも好かれる実感が湧かないなんて言うから伝えちゃった。」

始音は解の顔を見ながら笑った。その笑顔は挑戦的で、力強さと妖艶さがあった。さすがにいつもの余裕はなく感情に任せて動いているようだが、解は始音も動揺していることが分かり少し安心した。少しだけ落ち着いた解は気になっていることを始音に尋ねた。

「その…なんで俺なんだ?」

「好きな理由なんて曖昧なものよ?出会う偶然ときっかけは必要でしょうけど。」

「…。」

解は困った顔で目を逸らした。解はまだ恋愛自体をよく分かっておらず、性欲すら乏しい。好きと言われてどうすればいいのか分からなかった。そんな解を気にすることなく始音が先に口を開いた。

「恋人になれとはまだ言わないわ。解君はまだ勉強中でしょ?私は担任で顧問だし、解君が成長してちゃんと返事できるようになるまでは待ってあげないとね。今日は本当に、その場の勢いで伝えただけだから。」

笑顔で話しながら始音は解から離れ、仕事に行く準備を整えた。そろそろ出勤の時間だった。始音が離れ、解はほっとした。返事を保留したことも、今ほっとしたことも、始音に申し訳なかった。

「…悪い。」

「ほんとよ。でもいいわ。そんな解君を好きになったんだし。あ、でも好かれる努力はさせてもらうわよ?断られたくはないから。」

「分かった。」

「ふふ。じゃ、行ってきます。お弁当ありがとう。」

始音は解を置いて部屋を出て行ったが、解とすれ違う際に解の頬に軽くキスをした。思わずのけぞった解を見て楽しそうに笑い、階段を下りて行った。解は戸惑った様子でその場にしばらく立ち尽くしていた。


(や、やっちゃったわね…!)

始音は学校に出勤する道すがら、解とのやり取りを思い出していた。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。

 二人きりになれず、瀬奈や七海に嫉妬していたのは事実だ。だが、二人きりになったからといってディープキスをして告白、というのは攻め攻めだった。しかも、相手は愛情を絶賛勉強中かつ鈍感な解(高校生かつ教え子)である。解がこちらの行動に引くことはないが、さすがに驚いていた。自分自身、自らの行動に驚いていて、変なスイッチでも入ったのかと疑ってしまうほどだ。

 とはいえ、後悔はしていない。いずれ好きだと言うつもりだったし、早い方がいいと思っていた。元々解に再会するためにこの町に来たのだから、これで良かったのだろう。

しかし問題はある。この短期間で解は多くの人に好かれるようになり、ライバルが増えた。相変わらず教師という立場は動きにくい。さらに、そもそも解が愛情を分かってくれないとどうしようもない。とはいえ、かつて言ったように愛とは戦って勝ち得るものだ。望む結果を得るために努力し、勝つ。始音は決意を新たにしつつ、ひとまずは目の前の仕事を片付けるために学校に行くのだった。




解が始音との話を終えて居間に戻ると、瀬奈達が待っていた。

「遅い!解君、何処で何してたの?」

「戻ってこないから心配しましたよ。」

「悪かった。始音に捕まってたんだ。」

解としては会話の詳細を話しても良かったが、プライバシーは守られるべきと判断した。幸い話について深掘りされることはなく、瀬奈は本日の相談を始めた。

「麗さんも始音先生ももう行っちゃったから、これからどうする?」

「と言われても、俺はバイトがあるから10時までにはここを出るぞ。」

「私も、今日は家で弟をみてあげないといけないので…。」

「あれ、そうなの?」

瀬奈は何となく学生組は今日も遊ぶと思っていたので拍子抜けだった。せっかく夏期講習が終わったのに、皆いないとなると少し残念だった。

「仕事は昼からだから、それまでは暇だ。カステラでも作って銭湯で配るつもりだ。」

「ふーん…。」

瀬奈がどうしようかなと考えていると、透矢がにやにやして瀬奈を見た。

「暇なら解と一緒に遊んだらどうだ?昼までは解がいるんだから。」

「えっ。」

「そうですね!昨日は私が迷惑をかけちゃったので、今日こそ先輩と二人でゆっくりして下さい。」

「ええ…?」

瀬奈は怪訝な顔で七海を見た。悪意のかけらもない笑顔だが、七海は時々表現方法に問題があると思った。

「俺は構わないが、どうする?」

「う…じゃあ、暇だしここにいようかな。」

瀬奈は少し迷ったものの解の家にいることにした。透矢のからかいは余計だが、これで一連の合宿イベントが終わってしまうのは少し寂しいと思った。


 その後、透矢と七海は早めに解の家を出て、家には解と瀬奈二人だけになった。

「さて、何かしたいことがあるか?ないならカステラでも一緒に作るか?」

「う、うん。私は特にしたいことはないし、手伝うよ。」

ということで、二人は一緒にカステラを作ることになった。

「俺が泡立てるから、瀬奈は卵と砂糖以外の材料を量ってくれるか?この分量の三倍で頼む。」

「オッケー。て、何このノート。レシピ集?」

「ああ。長いこと使っている。」

「へえ…。あ、ごめん。量るね。砂糖は量らなくていいから…。」

ウィイイン…と電動泡立て器の音が響いていた。その間に瀬奈は材料を準備していった。

「混ぜてる間に少しずつ流し入れてくれ。」

「うん。」

瀬奈が材料を泡立った卵の中に入れ、同時に解が混ぜていった。手伝いながら、瀬奈はお家デートという言葉が頭をよぎった。しかし、何だか気恥ずかしいので考えるのを止めた。解は恋愛関係の話をしないはずなので、自分さえ考えなければ心乱されることはないだろう…。

「瀬奈は誰かに好きと言ったことがあるか?」

「えええぇ⁉」

カステラが焼きに入りしばらくしたところで解が唐突にそんな質問をしたので、瀬奈は物凄く驚いた。恋愛話、全然してくるじゃん⁉

「どうしたの解君、どこかおかしいの?」

「…そんなに変な質問だったか?単に気になっただけなんだが。」

「そ、そうなんだ。ちょっと意外だったから驚いたよ…。」

解がなぜ恋愛について質問するのかは分からないが、真剣な質問なら答えるのが瀬奈の流儀だった。

「えっと、好きって言ったかだよね。悪いけど、私はないなあ…。」

そもそも恋愛経験が小学校の時にした初恋くらいしかありませんが。

「そうか。答えてくれてありがとう。」

「何にも役に立ってないけどね。でも、なんでそんなこと聞くの?」

「…恋愛に興味ができたんだ。思春期男子なら普通のことだ。」

「ふーん…。」

女の勘を使わなくても半分本当で半分嘘なのが瀬奈にはよく分かった。誰かに告白でもされたんだろうか。…まあ、麗も七海も始音も、解への好意全開なのだが。

「解君は元々愛情を調べてるし、恋愛にも興味あるよね。でも、少しは分からない?解君は皆に好かれてるし、2回もデートしたでしょ?何か掴めたりしないの?」

「皆って誰だ?」

「愛情研究会のメンバー、麗さん、生徒会の橘会長、杉崎さん。最近はクラスでも女子に声かけられてるし?」

「…そのほとんどの愛情は恋愛じゃないだろ。それに愛されてもデートをしても、愛情が理解できるとは限らない。」

「…まあ、そうかもしれないけど。」

瀬奈は少し不満だった。解の答えは予想通りなのだが、話し始めに妙な空気を感じていた。…隠し事をされながら相談されることに、なんだか腹が立ってきた。

「ねえ解君、なんで急に恋愛に興味が出てきたの?何か隠してるのは分かってるんだから、ちゃんと話してよね。」

瀬奈がむすっとした顔と声で言うので、解は誤魔化すのを早々に諦めた。そもそも嘘を言うのは得意ではなく、なるべく言いたくない。そして解は瀬奈を信頼していた。瀬奈なら秘密を守って真剣に相談に乗ってくれるはずだ。解はオーブンの温度を変えながら、素直に話すことにした。

「隠し事をして悪かった。ちゃんと話す。…始音に。」

「始音先生に?」

「好きだと言われたんだが、どう答えたらいいのか分からない。」

「…おおぉ…。」

瀬奈は聞いてしまった罪悪感と聞いた内容の衝撃に呻いた。そこまで包み隠さず言わなくても良かったのだが…。

「始音は俺が愛情を理解できるまで待つと言ってくれた。俺は甘えてしまったが、本当は待たせていいとは思ってない。」

始音が返事を保留させたことは瀬奈には意外だった。相手が解とはいえ教え子なので、教師として優しさを示したのかもしれない。

「…解君的には始音先生と付き合うのはありなの?」

瀬奈は冷静を装って解に尋ねた。ただ、内心では身近な人達の恋バナにどきどきしていた。…本当は解の話を聞いていると胸がもやもやするのだが、見て見ぬふりをして解の話を聞いた。

「始音のことは嫌いじゃないから、恋人になるのは構わない。…今の俺だと恋人の猿真似すらできないから、結局は不快にさせると思うがな。」

「そうとも限らないよ。誰だって一回目は初めてなんだし、恋人関係になってから相手を好きになることもあるんだよ?」

「好きでもない相手の恋人になるのか?」

「えっと…。あー、あれだよ、解君の言ってた『友情と恋愛が同居する』って状態!友達と思っていた相手と付き合うことがあるんだよ。」

「そこと繋がるのか。友情があれば恋愛形成に必要な時間を省略し得る、と。…つまり、俺が始音や瀬奈と恋人同士になってもいいってことか。」

「私⁉ま、まあ、例えならありかな、例えなら。」

解は声が上ずった瀬奈に反応しないまま黙考していたが、悩みは解決しないようで首を振った。

「デートはできたのにうまく想像できないな。恋人として何を求めて、何を求められるのか。」

手をつなげば、キスをすれば恋人というわけではないだろう。だがもし愛し愛されることが必要なら、どうやっても今の解では不可能で、将来できるのかも不明だ。これではいつまで始音を待たせるか分からない。

「だらだらと傷つけるくらいなら、瀬奈の言う通り、分からなくても始音と恋人関係になった方がましなんだろうか…。」

「ちょっと待って!私始音先生と付き合ったら?なんて言ってないんだけど⁉」

瀬奈は解の独り言に慌てて割り込んだ。どうやったらそんな風に解釈できるんだろう。相変わらず解は極端なことがある。

「ん?恋愛を分かってなくても、相手を好きでなくても恋人になれると言っただろ。」

「そりゃあ言ったけど…。とにかく、私は別に生徒と先生の交際なんて勧めてないから!誤解しないでよ⁉」

力強く否定した瀬奈を解は真顔で見つめていた。すると、解があ、という顔をした。

「もしかして、お前が恋人役をして恋愛を教えてくれるって話だったのか?」

「はあ⁉そんなわけないでしょ!」

瀬奈は思わず叫んでいた。さっきも驚いたが、今度はもっと驚いた。

「恋人役なんて絶対しないから!ほんとの恋人ならともかく、絶対しないからね!」

「悪かった。ただの勘違いだった。何もさせないから、とりあえず落ち着いてくれ。」

「う、うん、はあ…。」

瀬奈が息を整えていると、オーブンから焼き終わりの音が鳴った。解は瀬奈に少し待ってくれるよう目で合図をした後、落ち着いてオーブンからカステラを取り出した。瀬奈もそんな解を見ていると気持ちが落ち着いてきた。解は真面目に考えているだけで、冗談でもなければ悪意もないのだ。

 カステラを冷ますだけの段階になり、解は瀬奈に頭を下げた。

「さっきは変なことを言って悪かった。」

「私もごめん、盛り上がっちゃって。もう大丈夫だから。」

「分かった。…愛情の中でも恋愛は特に難しいな。始音が傷つかないようにしたいだけなんだが。」

瀬奈は解が呟いた言葉に何ともいえない違和感を覚えた。傷つかないように…?

「…ねえ解君。もしかして、結局のところ、始音先生の告白は断るの?」

「いや、まだ決めかねている。というか、決める以前に材料、測定方法、判断基準がない状態だ。」

「うーん…。確認するんだけど、告白して断られたら誰でも傷つくのは分かってる?」

「相手の愛情を否定すれば傷つくのは当然だな。ちゃんと相手を受け入れて話を聞けば、問題ないだろうに。」

「…。」

瀬奈はびっくりした。やはり解は根本的に愛情を、いや人の感情への理解がずれている。分かりにくい上に生活に害はないので今まで気付かなかった。とにかく、この場にいるのは瀬奈のみであり、始音のためにも解のためにも話をしなければならなかった。

「解君、あのね?好きですって伝えて断られたら、誰でもそれなりに傷つくんだよ?」

「…え?」

解は驚愕の表情だった。

「いや、それじゃあ断る選択にだけデメリットがあることになる。相手の愛情を受け入れるか断るかは等価値なんだから、選択が偏る要素があるのは駄目だろ。」

「解君的にはそうかもしれないけど、でも普通は違うんだよ。OKなら嬉しい、駄目なら悲しい。だから、解君が愛情を分かったとしても、どれだけ上手く話して断ったとしても、断ったら始音先生は傷つくんだよ。それはどうしようもないことだよ。」

「…そうなのか。断られるかどうかは自分ではどうにもならないことだ。だから断られたらすっぱり諦めて忘れるだろうと思ったんだが。」

「そこまで割り切るのは難しいかな…。」

瀬奈は困ったような笑顔を浮かべながら続けた。

「傷つけたくないと思うのは美点だけど、恋愛は自分勝手なものだから、なかなかうまくいかないよ。だから、私は自分の気持ちが大事だと思う。」

「自分の気持ち?」

「うん。相手が困るかもしれないけど好きだから伝える。相手が傷つくとしても断る。相手のことよりも自分がどうしたいかを考えるべきだよ。」

瀬奈は言葉を選びながら、たどたどしく説明した。解に教えるというより、自分の考えを自分自身に説明している気分だった。

「…。」

一生懸命話す瀬奈の話を解は神妙な顔で聞いていた。瀬奈が本気で考えて話してくれているのは解にもよく分かった。

「…色々ありがとう。本当に、自分の至らなさを痛感した。」

解が明らかに落ち込んでいたので瀬奈は慌てて言った。

「いや、そんなことないよ。解君は愛情を知ろうといつも頑張ってるから。他人に誠実で優しいし頼りにもなるでしょ、もちろん悪いこともしない。面白いところもあって、そんな解君を好きになったんだから、そんなに落ち込まないでよ。」

「…褒め過ぎだ。」

「!」

解に指摘されて瀬奈は思わず口元を押さえた。かなり素直な気持ちを出してしまい、今さらながら恥ずかしくなってきた。一方の解も顔をしかめて目を逸らしていた。わずかに顔が赤く、照れているのかもしれない。そう思うと瀬奈は自分の顔が一層火照るのを感じた。


 瀬奈も協力して、冷めたカステラを切り分け個包装した。瀬奈との話もひとまず終わり、時間もちょうどよい頃合いになった。

「カステラを作るのも相談も、どちらもありがとう。感謝してる。」

「いいよ、私もなんだかんだいって楽しかったから。」

解は笑顔で返事をする瀬奈をぼんやりと見つめていた。

「瀬奈は相談しやすいな。同じ立ち位置で真面目に考えてくれるから、なのか?」

「えー?そんなことないよ。」

瀬奈は解なりの冗談と思い軽く流したが、解は穏やかな表情で続けた。

「優しくてしっかりしてて、冗談めかした指摘もできる。俺はお前にお母さんみたいと言ったが、妻の方が正しいかもな。一緒にいて心地いいという意味でな。」

解は微かに笑って瀬奈を褒めた。瀬奈は言葉の意味を理解するのにわずかに時間を要したが、分かった瞬間に真っ赤になった。

「な、な…。」

「な?」

「何でもない!さよなら、またね解君!」

「ああ、またな。」

解が声を出したのが合図になり、瀬奈はばたばたと支度をして出て行った。解は瀬奈が出て行く前に落ち着いて返事をした。随分急いで帰るんだなとのんびり考えつつ、解も銭湯に向かう準備をして家を出たのだった。


「はあ、はあ…。」

瀬奈は解の家から幾らか離れた道路で息を整えていた。荷物を玄関に置いておいて良かった。あの状況でもし二階に上がったり、荷物を忘れたりしたら格好悪かった。

「解君には驚かされてばっかりだけど、それにしても妻って…。」

瀬奈はしみじみとため息を吐いた。こちらもしたとはいえ、面と向かって、しかも笑顔込みで褒められると困る。おまけに妻らしいとか、一緒にいて心地よいとか言うのはもっと困る。狙ってやっているんじゃないかと疑いたくなるが、本気なので解はすごい。

「…誰の、なんて全然考えてないんだろうなあ…。」

ぼやきながらも瀬奈の声は楽しそうだった。


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