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愛情の研究者  作者: けつ
6/11

No.6

 夏休みになったからといって解の生活は大きく変わらない。高校に行く時間のほとんどが銭湯で働く時間になるだけだった。

 愛情研究会の活動と生徒会の仕事は夏休みでも続いた。生徒会の会議は高校で行われたが、愛情研究会はいちいち高校に行くより解のいる銭湯の方が簡単に来れる、ということで銭湯に集まるようになった。

 解は銭湯の仕事中は勉強か読書しかできなかったが、空いた時間には聖と話したことを踏まえ色々な経験をすることにしていた。ただ、自分では何をしたらいいのか分からないため、瀬奈達や生徒会役員の話を聞いてやってみることを決めた。そして今日は自由参加でケーキを作る日だった。

「チョコケーキかあ。あんまり作ったことないなあ。」

「私はある程度は作れますけど、今日は本格的なものなんですよ。」

「私は授業以外で料理したことないです…。」

「大丈夫よ杉崎さん。私なんて調理実習でお米がべちゃべちゃになったわ。」

「か、会長…。」

エプロンをつけた生徒達が話していると始音が手を叩いた。

「はいはい、じゃあ始めるわよー。まずは紙に書いてあるレシピを見てね。」

今いる場所は高校の家庭科室で、参加者は瀬奈、七海、聖、つばめで、講師役は解と始音である。透矢は欠席、他の生徒会員は遠慮して欠席だった。

『それは味見役でも参加したら駄目だろー。会長や杉崎に恨まれるって!』

どういう意味だったのか解は今でも分かっていない。とにかく、このメンバーでケーキを作ることになった。

「聖と七海、瀬奈と杉崎で組んでくれ。まずは作る前に準備するぞ。」

「橘先輩、これ小さじの量ですか?」

「一応ざっくり量ったけど、駄目だった?」

「うーん…。2倍くらい多いのでもう一回量りましょう!」

「はーい。」

心配な台詞が聞こえてきていた。始音がやれやれと呆れるように首を振った。

「皆元気ねえ。茅野君がいればつっこみ役が増えて楽なんだけど。」

「一応俺はいるぞ。」

近くには解と始音しかいないので、解は敬語を抜いて小声で話した。始音も砕けた調子で返事をした。

「解君は明らかにぼけ役じゃない。」

「俺はぼけ役なのか…そういえば、透矢はどうしたんだ?」

透矢がいないことは知っていたが、その理由は聞いていなかった。

「瀬奈ちゃんや七海ちゃんが連絡したけど反応がないらしいわ。まあ、茅野君なら何があっても大丈夫そうだけど。」

「まあ、そうだろうな。」

解は返事をしながらも透矢を少し案じていた。透矢が危険な目に会うとは思わないが、何かしら面倒事が起きて大変、ということはあり得る。

(瀬奈達に後で透矢にもう一度連絡してもらうか。)

「先生、全部用意できましたー!」

解が話して考えている間に準備ができたらしく、聖が手を挙げていた。聖に答えて始音が手を叩いた。

「はい。じゃあ次はメレンゲをつくって、チョコを溶かすわよ。」

始音と解が逐一説明しながらケーキ作りは進んだ。瀬奈とつばめは特に問題なく作ることができたが、聖が気を抜くとすぐざっくり進めようとするので七海が逐一フォローしていた。しかし弟の世話で慣れているのか、七海は面倒がることなく聖と仲良くできていた。解は七海のコミュニケーション力に感心した。

「七海はすごいな。」

「そうですか?ありがとうございます!」

七海は笑顔で解の側に来た。…また撫でろということだろうか?そう解釈した解は七海の頭にぽんと手を置いて撫でた。

「えへへ…。」

嬉しそうだ。一応正しかったらしい。その脇で生地を混ぜる聖が不満そうに口を挟んだ。

「ちょっとー、いちゃついてないで教えてよ。チョコの残りってこのままでいい?」

「あ、それも使います!遊んでてすいませんでした!」

言われた七海は慌てて聖の手伝いを再開した。つばめはそんな隣のグループを意外そうに眺めていたが、ぽつりと呟いた。

「…七海ちゃんって甘えるんですね。」

「うちじゃ大体あんな感じだけど、教室では違うの?」

「はい、元気で可愛いのにしっかりしてるんです。だから何度か告白されたりもしたみたいで。」

「へえ。じゃあ解君は七海ちゃんにとって数少ない甘えられる存在なんだ。」

だから反動ですごく甘えているのかもしれない。そう妙に納得した瀬奈だった。

「みたいです。…いいなあ…。」

「あ、杉崎さん、メレンゲは一回少し入れて混ぜてから残りを入れてね。」

「あ!は、はい!」

瀬奈は手順を間違えそうになったつばめに優しく教えた。つばめの呟きは聞いてない振りをしてあげた。困らせても、慌てた末に失敗してもかわいそうだと思ったからだが、解に人気が出ていることが正直気に入らなかった。


 なんだかんだあったものの、チョコレートケーキは普通にできた。今は本体を冷やしている間の片づけ中だ。ボウルを洗いながら始音が解に話しかけた。

「黒条君は料理とかでは無駄を極力なくしてそうよね。そうじゃない?」

「そうですね。焼き時間に道具を洗う、次の生地をつくる、常備菜をつくる程度は。」

「主夫だ…。」

「作ったケーキは銭湯で出すんですか?前に言ってましたよね。」

「いや、クリームとか生ものはまず出さない。置いておくと痛む危険があるからな。ケーキは麗さんの誕生日とか、作るよう頼まれた時だけだな。」

「もう職人じゃない…。」

そんな話をしている内に洗いものも終わり、次の作業まで暇になった。瀬奈はさっきの話で少し気になったことを尋ねた。

「ねえ解君、さっきの話で麗さんの誕生日って言ってたよね?自分の誕生日はどうしてるの?やっぱり自分の時は何もしないの?」

解の性格なら『俺の誕生日はどうでもいい、中身の成長が大事だ』とか言いそうだ。だが実際の返事はそれよりもずっと奇妙だった。

「ああ。そもそも誕生日を覚えてないがな。」

その場の全員が一瞬止まった。聞き間違いかと思ったほどだ。

「はあ?誕生日を覚えてない?」

始音は思わず大きな声を出した。いくら解でもそれはないだろうと思い、続けた。

「いやいや、それはないでしょ?だって色んなところに書くでしょ?」

思わず口調が素になりそうな始音を目でいさめながら解は冷静に答えた。

「意外と書きません。もしあっても保護者に頼んでました。相続の時もサインばかりで誕生日なんてほぼ不要でした。」

「で、でもご両親がお祝いされるんじゃないんですか?」

「つ、つばめちゃん、先輩は…!」

つばめが切り込んでしまったので、七海は慌てて話を止めようとした。しかし、解はつばめの質問を当たり前のように答えた。

「真は生まれた日に意味はないと言ってたな。麗さんは真に何もするなと言われたらしい。引き取られる前は祝われた覚えはないが、5歳までのことだから断言できない…。」

昔を思い出していた解は下を見ていたせいで周りを見ていなかった。しかし、話の終わりがけにようやく顔を上げた。…普通に話してしまったが、解はようやく周囲の微妙な空気に気付いた。

「…悪い、また変なことを言ったんだな。」

「そんなことないよ。驚いてるだけだから、解君は気にしないで。」

「ああ…。」

瀬奈はフォローしてくれたが解は申し訳ない気分だった。その時ぴぴぴっとアラームが鳴り、次の作業をする時間になった。

「…じゃあ、最後にガナッシュクリームと間のジャムの用意をするか。」

解はアラームに助けられた気分だった。


 冷やしたケーキを切り間にジャムを塗り、ガナッシュを全体に塗り広げた。少し冷やした後、最後にココアを振りかけて、完成だ。

「できましたー!」

「お疲れー。」

「かなりいいんじゃない?」

「ちゃんとできてる…。」

「きちんと準備をして順番に作れば大抵のものはできる。家でもしてみたらいい。」

「「「「はーい。」」」」

全員の前にはそれぞれのグループが作ったチョコケーキが二切れ。見た目は良くできていて、あとは味が問題だ。

「今紅茶を淹れるから待ってくれ。」

淀みない作業でお茶の用意をする解を見て始音は呆れ気味に尋ねた。

「か…黒条君、もしかしてお茶やコーヒーも淹れれるの?」

「料理より簡単な分、真や麗さんに淹れていたからな。それなりにできていると思う。」

「はあー…。」

つばめは驚きのため息を吐いた。以降はしずかに全員で紅茶を待っていた。できた紅茶を解が淹れる最中、聖が言った。

「ねえ黒条君、さっきの誕生日の話なんだけど、生まれた日に意味はないってどういうこと?」

「橘先輩、その話は…。」

「やっぱり気になるもの。黒条君にとって嫌な記憶なら聞かないけど、さっきの口ぶりだとそうじゃないみたいだから。」

「でも…。」

「いや、別に話せるぞ。短い話だからな。ケーキを食べながら話そう。」

「ちょっと待って下さい!」

急に七海が立ち上がったので全員が驚いて七海を見上げた。七海はきりっとした顔で言葉を続けた。

「まずは紅茶だけにして、ケーキは取っておきませんか?」

「え?どうして?」

「それはまだ秘密で。どうでしょう、先輩?」

「ならそうしよう。とにかく話すか。」

解は一人一人の前に落ち着いた所作で紅茶の入ったカップを置きながら話し始めた。



「真さん、解君の誕生日っていつ?」

解が改名されて二ヶ月、真の自宅で夕食中に麗は真に尋ねた。麗は時々真と解の様子を見に夕食を二人と共にしていて、今日はたまたまその日だった。真は麗と目を合わせることもなく、食事を続けながら淡々と答えた。

「書類を見れば分かるが、どうした?」

「だってお祝いしないと。家族の誕生日を祝うのは普通でしょ?解君もケーキ食べたいよね?」

「…(ぷるぷる)。」

無表情かつ無言で首を振る解に麗は抱きついた。

「えー?私は解君とお祝いしたい!」

くっつかれてもどうしたらいいのか分からず解は無表情のままじっとしていた。

保育園には真が迎えに来るが、まれに麗が迎えに来て銭湯で真を待つこともあった。そして今のように麗は家にも来るので解は麗には慣れていたが、その明るさと優しさにはまだ慣れず、安心感と共に不快感、恐怖心もあった。

「解の誕生日を祝うことはない。麗、お前もするな。」

麗が解を可愛がっている目の前で静かに、だがはっきりと真は言った。

「え…何で?真さんはともかく私も?」

驚く麗と無表情な解を見て真は続けた。

「解、俺には愛情がないことは話したな?」

「…(こくん)。」

「俺はお前を愛することができない。俺では誕生日を祝う振りしかできない。形だけの虚構はお前には不要だ。」

「…。」

「そして、俺はお前が生まれた場を見ていない。そのため俺はお前が生まれた日に意味を感じない。俺にとって意味があるのはお前が今生きていて、今後どう生きるかだ。」

「…。」

解は無表情ながらも真面目に真の言葉を聞いていた。真の話は五歳児には難しいものの、嘘も誤魔化しもないため解には信頼されていた。しかし、麗は真の意図を理解しながらも口を尖らせて言った。

「真さんは分かったけど、私は?」

麗としてはやはり解が生まれて今生きていることをお祝いしたかった。

「麗は正確には家族ではない。そしてお前は解が自分の力で見つけた人間ではない。誕生日を祝うのは解を愛する家族か、解が自力で得た家族だけだ。」

「…分かったけど、私は真さんと解君とは家族のつもりよ。正確な意味じゃないけど。」

「分かった、言い直そう。お前は家族に近い存在だが正式な家族ではない。」

麗はそれ以上言い返せなかった。真の意見が絶対に間違いとは言えず、自分の方が正しいとも言えなかった。加えて、解に自分達が言い争っているようにも見える姿を見せるのは良くなかった。

「…まあそれなら仕方ないか。ごめんね解君、何もしなくて。」

「…ううん。」

麗がすまなさそうなので、麗が罪悪感を持たないように解は声を出して首を横に振った。優しくしてくれるだけで十分だった。

「ありがとう。その分いつも解君を大切にするね。それと、早く誕生日を祝ってもらえるよう願ってるからね。」

解の気遣いを感じたのか、麗は再び解を抱きしめた。抱きしめられると温かいが、少し息が苦しかった解だった。



「そういうことだったのね。」

「やっぱりいい話です…。」

「でも相変わらず五歳児には難しい話ね。」

聖が納得したり七海が感動したりする中、始音は苦笑していた。前も聞いたが、真は本当に話が難しい。

「難しくても思いは伝わるからな。真はうわべだけ取り繕うようなことはしなかった。だから俺も懐いたんだろうな。」

「懐いてもすごく特徴的な親子ね…。」

聖は今聞いたばかりの真と解の組み合わせを想像した。きっと全く仲が良いように見えない不思議な義理の親子だったのだろう。

「あ、分かったかも。七海ちゃんがしたいこと。」

瀬奈が急に声を出して七海を見た。七海は瀬奈に笑顔を返して言った。

「分かりました?じゃあ言いますね。皆で今から先輩の誕生日をお祝いしましょう!」

「ああ、そういうこと。いいわね。」

「いいんじゃないでしょうか。」

聖とつばめはいきなり聞いた割にはあっさりと同意した。しかし、ついていけなかった解自身が口を挟んだ。

「今からと言っても、調べないと日にちが分からない。だから、別に無理して祝わなくていいぞ。」

「大丈夫よ。川野辺さんが言いたいのは祝うのはいつでもいいってことよ。日にちはどうあれ、あなた君が今ここに集まったことに意味があるの。それに全員で仲良くケーキを作った記念日でもあるわよ。」

「う…ん…。」

先生モードの始音に優しく諭されたが、解は今一つ実感が持てなかった。自分がしてもらうことなので、気後れする上に興味も持ちにくいのだろう。しかし、周囲はやる気になっていて、始音はさらに付け加えた。

「変に気を遣わないようにね。ほら、主賓は真ん中に行ってきたらどう?」

「お、おい…。」

「二つのケーキをくっつけて一つにしたらそれっぽくなるかしら。」

「いいんじゃないですか。あ、じゃあこんな感じはどうでしょう?」

生徒会の聖とつばめが言うと、次は愛情研究会の女性達の番だった。

「お祝いのケーキっぽい!ろうそくはないけど、スマホのアプリで代用しよっか。」

「わあ、それっぽくなってきましたね!じゃあ私は飾りと接着剤代わりに生クリームを作ってきます!」

「後は歌ったらいいんじゃない?」

「…。」

瀬奈、七海、始音がそれぞれ意見を出し、女性五人が動き始めると、もう解は待つしかなかった。

 切り分けられたはずのチョコケーキは再び合わせられ細工され、誕生日ケーキらしくなった。歌もろうそくの火を消す(アプリだが)のも初めてなので解には違和感が強かったが、新しく分かったことがあった。

誕生日は本来個人が「生まれたこと」ではなく「現在まで生存したこと」を感謝するものだ。そして、今まで解は誕生日も日々の毎日も同じ価値だと思っていた。事実、誕生日に祝うことの「誕生日に」は今回七海が言い出したように本質的には意味がなく、いつ祝っても同じことだ。しかしそうなると先に述べた個人が「現在まで生存したこと」をいつ感謝するのかという話になる。日々感謝すると価値が薄れてしまうので頻回にはできず、ならば誕生日に祝うのが分かりやすい。

 結局解は誕生日とは一種の妥協の産物と新たに認識したが、瀬奈達に祝われた時はどこかむず痒いような不思議な気分にさせられた。自分がいるだけで喜ばれるということは記憶の限り初めてだが、悪いものではなかった。先程考えたこと以外に、明確な理由がなくてもとにかく肯定してもらうことが誕生日の意義なのかもしれない。

とりあえず言えることは、ケーキ作りは色々な面で成功だったということだった。


 その晩解が見た夢には真が出てきた。真は子供の姿で、夢だからか様子が解そっくりであり、しかも解は真と感覚が混ざっているようだ。真は親に誕生日を祝われているが、全く何の感情も湧かなかった。一方、親は無意味だと思いながらも祝っていることが雰囲気で分かった。親の思いを知ってなお真は親に対して無であり、単に時間と労力の浪費だと思うだけだった。

 子供の真など解に知る由もないが、きっと現実にあった光景だろう。解は親と自分への愛情が皆無な真の在り方を夢ではあるが少し感じ取れた気がした。どれだけ真は孤立して、孤高で、独立し、未熟なのに完成していたのだろう。解は真を美しく羨ましく思う一方、その在り方に畏怖も感じていた。

 解は夢で子供の真と向き合った。

「今日は瀬奈達が誕生日を祝ってくれたんだ。お前が言った通り、俺が生きた結果つながりができた人達だ。」

「…。」

真はただ頷くだけだ。元々夢である上、真ならその程度の反応だろう。

「俺は生きてみる。真のように生きて、真のようにならないよう努力する。」

真は再び頷くと闇に溶けていった。解も自分が溶けていくのが分かった。目が覚めるのだろう。

 夢はこれで終わったが、真が話を聞いてくれた気がした。それだけで十分だった。




   緒言、ある人間の回想

 他人を踏みにじろうと、他人の人生が狂おうと、すると決めたことは必ずやってきた。自分の行いは人に悪とみなされるものだが、非難される謂れはない。全ての人間に悪はあり、その大きさが環境と素質で変化するに過ぎない。そんな人間が非難するというのなら、むしろ喜んで悪と呼ばれよう。

何もかもが汚く見えるこの目は気に入らないが、利用価値はあったので今まで付き合って来た。最近はこんな目でも美しいものが見えるようになり、視野が広がったことを実感している。

しかし、どんなことがあっても自分が悪人であることは変わらない。そして自分のしてきたことに後悔はない。しかし、こんな人間でも感情はあり、自分の人生を振り返って何かしらを思うこともある。その結果、過去を嘲笑いながらも自身の意味を認め、クソのまま生きる。次項書くのはそんなつまらない話だ。

      愛情研究会 部員の一人 記



 夏休みも後半になったが、解の生活は変わらない。銭湯で働きつつ、暇なときに勉強や読書をして、家に帰れば家事をする、その繰り返しだった。とはいえこの前のケーキ作りのように、試しに服を買ってみたり、ゲームセンターに行ったりなど、平素と違う変わったことをしてみる試みも続けていた。友人達のお陰で、解は新しいことを経験しつつも穏やかな日々を過ごせていた。

今も解は定位置の番台で勉強していた。宿題はとうの昔に終わり、今は最近買った問題集を解いていた。真夏の日中では銭湯は比較的空いているが、夕方からはまた人が増えてくる。その前に勉強でもしておこうという算段だった。

落ち着いた空気の中、入り口で音がして一人の客が入ってきた。

「こんにちは、解君。」

「ああ、こんにちは。」

来たのは始音だった。解は穏やかな空気につられてのんびりと言った。

「最近頻繁に来てるが、仕事は大丈夫か?」

「大丈夫じゃないわよ。知ってる?先生は夏休みも仕事なのよ?大変なの。まあ、今日は早く終わったんだけど。」

「忙しいのにここによく来てるから聞いたんだが。」

「それは当然、解君の様子も見ないとね。」

「…そんなに頼りないか?」

「違うわ。私が解君を気にしてるってだけ。それに先生だしね。」

始音の言葉に納得して数回頷く解。始音はそんな解を見て安心していた。夏休み前の発作以降、解が倒れたり苦しんだりすることはなかったが、透矢から病気の話や教師としての情報を考えるとどうしても心配になってしまうのだった。

 始音がサウナに行くと(最近サウナが始音の中で流行らしい)、近所の常連さんのグループがやって来たので解はその対応をした。そのまま客が続いたので仕事を続けたが、客がはけてふと気付くと目の前に一人の少女がいた。

少女といっても年齢は中学生か、高校生かもしれない。少女は気の強そうな目で解を見ていた。背は七海ほどだが口元や姿勢から力強さがにじみ出ていた。短めに切られた真っ黒な髪は少女の雰囲気に合っていた。解はその少女に不思議なものを感じながら対応した。

「いらっしゃいませ。」

「黒条解さんですか?」

少女は解に返事せず、逆に質問した。解は特に不快に思うこともなく、いつも通り落ち着いて答えた。

「はい。どうして俺の名前を?」

「先に言えばよかったですね。私、茅野真弓かやの まゆみと言います。茅野透矢の妹です。」

「透矢に妹?…初めて聞いたな。」

解は一瞬少女の言葉の真偽を考えたが、すぐ本当だと判断した。嘘を言っているようには見えない上、少女から感じるものは透矢が持つ力強さによく似ていることに気付いたからだ。ただ少女は疑われていると思ったらしく、胸を張ってさらに一歩前に出た。

「でも本当です。それより、兄さんは来てませんか?それか、どこにいるか知りませんか?電話しても反応がなくて…。」

「いや、今日は来てない。俺には携帯がないから連絡も来ない。」

透矢に関しては解も気になっていた。結局ケーキを作った後に瀬奈と七海が再度連絡してくれたが、返事はないままだった。

「そうですか…。」

「そうだ、始音なら知ってるかもしれない。今サウナにいるから、出てくるまで待てないか?」

「なら、はい、待ちます。ありがとうございます。」

即断即決した真弓だったが、はっと何かに気付き疑うような目で解に詰め寄った。

「まさか、始音って女性ですか?兄さんの女とかじゃないですよね?」

「え?いや、始音は高校の担任だから、透矢と恋愛関係ではない、と思う。」

なんとか「女=恋人」の意味だと理解した解だったが、真弓はますます厳しい目になった。

「ほんとですか?何か隠してません?そもそも、黒条さんも兄さんに気に入られてるそうですね。彼氏とかじゃないですよね?」

「何も隠してないし、彼氏じゃない。そもそも透矢は男にも恋愛をするのか?」

「しないとは思いますが、兄さんが気に入る人間なんてまずいませんから。もしかして目覚めたのかも、と。」

「よく分からないが、とにかく違うぞ。」

「そうですか。ふう…。」

真弓は安心したように力を抜いた。解は真弓が何に安心したのかさっぱり分からなかったが、真弓が兄の交友関係を気にしていることは理解できた。

 そうこうしていると始音がサウナからあがり戻ってきた。

「いやあ、今日もひと汗かいたわね~。…?解君、この子は?」

「透矢の妹だ。」

「えっ⁉茅野君の妹さん⁉」

「始めまして、茅野真弓です。」

「始めまして、茅野君の担任の堤始音です。」

互いに挨拶し、真弓は再度透矢のことを尋ねた。始音は残念そうに首を横に振った。

「悪いけど知らないわ。でも瀬奈ちゃんや七海ちゃんなら知ってるかも。今から聞いてみるわね。」

始音が電話している間に解は気になったことを真弓に尋ねた。

「そもそも透矢がどこにいるかをどうして知らないんだ?一緒に住んでないのか?」

「そうなんです!兄さんは高校に入った時に勝手に一人暮らしを決めてしまって…。私は一日でも離れたくないのに…!」

「そうか…。」

何かのスイッチが入ったようで真弓の勢いが激しくなったものの、解は解でマイペースに透矢のことを考えていた。妹のこと、一人暮らしのことなど、透矢は自分のことを話してなかったようだ。それ自体は透矢が決めることなので問題ないが、誰も居場所を知らない可能性が高くなった。

そして案の定、電話を終えた始音は顔が曇っていた。

「真弓ちゃん、駄目だったわ。結局誰も茅野君がどこにいるか知らなかったわ。でも、こうなると警察に相談するべきかしら…?」

「いえ、兄さんは誰かを危険な目にあわせても、自分があうことはありません。だから警察は大丈夫です。」

真弓は当たり前のことを言うようにあっさり言い放った。さすが妹だけのことはある。

「確かにな。…なら、いずれ戻るから待ってもいいんじゃないか?」

「それも却下です。兄さんは今日私が来ることを知ってます。留守にするなら連絡してくるし、私が電話して出ないこともないんです。」

「普通じゃないのは確かってことね…。」

全員が黙ってしまった中、解が考える仕草をしたまま口を開いた。

「…透矢の家に何か手がかりがあるんじゃないか?俺の所に来たのも何かがあったからだろう?」

「黒条さんのことは兄さんから聞いただけなんです。兄さんの家はざっと調べましたけど、特に目ぼしいものはなかったですよ?」

「それでも他に手がかりはないし、もう一度調べてみたら?」

「俺もそう思う。」

「うーん…。でも、その通りですね。もう一度調べてみます。黒条さん、堤さん、ありがとうございました!」

真弓は解達にしっかり頭を下げると、足早に銭湯を出て行った。真弓の後ろ姿を見ていた始音は真面目な顔で解に向き直った。先生モードだ。

「やっぱり何か心配だから、私もついて行ってくるわ。また連絡するから、銭湯か家か、どっちでも電話に出られるようにしてて。」

「ああ、分かった。俺も行こうか?」

「とりあえず私だけで十分よ。ありがと。」

頼もしい笑顔を解に見せ、始音は真弓を追いかけていった。解は二人と透矢が気になったものの、今は報告を待つのが最善だろう。

「いらっしゃいませ。」

新しい客が来たので解は意識を仕事に戻した。


~~♪♪

 銭湯の固定電話が鳴り、即座に解は受話器を取った。

「はい、こちら…」

『解君?私、始音よ。』

「始音か?どうだった?」

もうじき銭湯も終わる時間であり、真弓が銭湯に来てから結構な時間が経っていた。

『断言はできないけど、茅野君がいるかもしれない場所が分かったわ。多分茅野君が落としたんでしょうね、USBメモリが玄関にあったの。その中に地図や住所のデータが入ってたわ。』

「大収穫じゃないか。」

『探したりパスワード解いたりすごく大変だったんだから、今度もっと褒めて。で、場所がちょっと遠いから明日、私と真弓ちゃんで行くけど、解君も来ない?』

「ああ、行く。」

解は即座に答えた。話を聞いてついて行くつもりだったのだが、始音は少し驚いたようだ。

『早っ。私が聞いたんだけどいいの?』

「透矢は友人だからな。その妹が何か困っているなら手伝いたい。むしろ、俺よりも始音は大丈夫なのか?」

『ふふ、言ってなかったけど明日から三日間有給休暇なの。真面目に探すけどお休みも兼ねるってことね。』

「そうか。瀬奈と七海は忙しいだろうから、行くのは三人だな。」

『そうね。じゃあ明日の朝6時半に家に迎えに行くから。』

「分かった。…ああ、始音待ってくれ。」

『何?』

「お疲れ様。よく頑張ったな。ありがとう。」

『なっだっ!』

始音が変な声を出すといきなり電話がぷつっと切れた。解は何が起きたのか分からず、首を傾げながら受話器を置いた。少し電話を待ったが、もう電話が鳴ることはなかった。



「くっ…。解君は時々いきなり間合いを詰めてくるわね。」

落としたスマホを拾いながら始音は悔しがった。解は動揺しないのにこちらは時々どきりとさせられるのは不公平だ。

今、始音と真弓は始音の家にいた。透矢の家は電子機器とベッドがあるだけのワンルームアパートだったが、電子機器のせいでベッド以外に寝る場所がなかった。そのため、明日に備えて真弓の話を聞いておきたかった始音は真弓を自宅に泊めることにした。

「堤さん、ご飯炊けました。」

「分かったわ、ありがとう。」

呼ばれた始音は玄関から部屋に戻った。始音はワンルームマンションに住んでおり、中は非常に簡素な部屋で必要最低限の物があるだけだ。遊び・飾りはわずかに、機能美の中にアクセントとしての美しさを加える。それが始音の部屋だった。

「「いただきます。」」

二人でご飯に買ってきた麻婆豆腐をかけて丼にして食べた。しばらくは二人共もぐもぐ食べていたが、始音が少し恥ずかしそうに口を開いた。

「ごめんなさい、一人だとあんまり作らなくて。」

「いえ、よく分かります。自分のために料理って面倒ですよね。私も兄さんにしか料理しませんから。」

「ありがと。…あ、ねえねえ真弓ちゃん。今までの言動から察するに、真弓ちゃんってブラコン?」

始音の推測に真弓は怒ることなく真面目に答えた。

「ブラコンじゃありません。私は妹としても女としても、兄さんを真剣に愛してるだけです。」

今真弓が来ているのは透矢の家から奪った、もとい借りたシャツだった。他にも真弓は枕やかけ毛布など、透矢の私物をいくつか持ってきていた。始音は真弓の行動(具体的には枕の匂いを吸い込んでいたり)を見ていたので、真弓が本気なのがより分かった。

「おお…。こじらせてる、というより本気なのね。現実にもあるのね、そういう恋愛。」

「稀だと思いますけど、稀とか異常とか、他人の意見はどうでもいいんです。必要なのは私と兄さんだけですから。」

真弓ははっきりと断言した。これほどはっきりと言ってくれるといっそ清々しいというものだ。始音は真弓の小気味よい反応を楽しんでいた。

「ふむふむ。じゃあ、もしかして茅野君も真弓ちゃんを?」

「いえ、それがなかなか手強くて…。あ、私だけじゃずるいですよ。明日誘ってましたし、銭湯での雰囲気を見るに堤さんは黒条さんが好きなんですよね?生徒と先生の間でどうですか、うまくいってますか?」

食べながら真弓はやや興奮した様子で聞いてきた。お互いに響き合うところがあるのか、相性がいい二人だった。

「いやー、解君があれじゃあね…。よし、じゃあ明日も忙しいだろうけど、今夜は色々話す?」

「いいですね、是非。」

二人は楽しそうに話をしていた。初めて会った二人の夜はまだ長そうだった。



 翌日、予定通りの時間に始音と真弓は解を迎えに来た。それから駅に行き電車、新幹線、電車と乗り継いで、はるばる離れた県まで合計四時間の旅だ。

「黒条さん、ちょっと聞いてもいいですか?」

「なんだ?」

新幹線の中で真弓が解と向かい合っていた。真弓は喧嘩腰ではないが、きりっとしていてやる気があった。いつでも真っすぐなタイプなのだろう。ここは透矢とは違う点だった。

「黒条さんは愛情研究会という集まりで、兄さんも一緒に愛情について考えてるんですよね?」

「ああ。」

「兄さんが黒条さんをとても気に入ってるようなので、私も黒条さんに興味があるんです。良ければ愛情について議論させて下さい。」

「分かった。」

真弓と解の会話はとても簡潔で分かりやすい。そのやり取りがなんだが面白くて、始音は解の横で笑っていた。

「では黒条さん、兄と妹の恋愛についてどう思いますか?」

「…エジプトや聖書にあるように昔は世界中で行われたことだな。野生でも近親相姦の例はある。生物学的には近親婚は遺伝子異常の可能性が高まるが、別にそれですぐ滅びることはないはずだが、遺伝子の多様性がなくなるから種としては良くはないだろうな。」

「…すみません、分かりますけど難しいです。もう少し簡単に説明できますか?」

「ああ、悪い。結局、近親での恋愛が忌避されるのは法律など明確な理由はない。あくまで現在の文化や倫理感が理由だ。ただ、現実には近親相姦は性的虐待で起きるのがほとんどで、それは問題だがな。」

「ですね。そういうクソみたいな人達のせいで、兄妹の恋愛も嫌悪されてますよね。」

クソという表現は透矢も使っていた。自然に透矢と似たのか、透矢から学んだのか、少し気になる解だった。

「そういう面はあるな。周囲は無視して、もし実際に兄妹で愛し合い恋人同士になったら、二人の関係性は通常のそれと変わらない。ただ周囲は違い、周りは二人を異常として扱うだろう。法的に結婚はできないし、生まれた子供はどう扱われるか分からない。最後に、もし子供が病気を持って生まれた時、二人が責任を感じて苦しむかもしれないな。」

「…では、黒条さんは是か非か、どう思いますか?」

解は難しい顔をした。顎に指を当てるいつもの仕草をしながら注意深く答えた。

「そうだな…。二人だけなら愛情があればそう問題ないと思う。俺は世間に合わせる方じゃない。二人が幸せならそれでいいと思う。ただ子供は別だ。子供はどうあっても生まれの責任を負う。子供のこと考えられないなら親になる資格はない、かな。」

まだ愛情も分からないのに親の資格云々を語ってよいのだろうか。そんなことを解は頭の片隅で考えながら言った。

 真弓は解の話を真面目に聞いていたが、聞き終わると笑顔になった。

「すごいです。結論が私好みだからじゃなくて、筋道立ててしっかり考えられた意見でした。やっぱり兄さんが認めた人です。」

「どうも。ただ、どうしてこんな話を?」

「そりゃあ、私が兄さんを好きだからです。」

真弓は何のためらいもなく答えた。それが当然と言わんばかりだった。真弓の隣にいた始音が解に補足説明を行った。

「解君、この好きは恋愛と兄弟愛の両方ね。さっきのテーマそのものってことよ。」

「ああ、そういうことか。…意見は先の通りだが、もし偉そうに感じたら悪かった。」

「大丈夫です。全然偉そうじゃなかったですよ。最初は黒条さんをライバルだと思っていたんですが、違って良かったです。」

「真弓ちゃん、そんなこと心配してたの?」

「だって兄さんが誰かを気に入るなんて本当に稀ですから。それに始音さん含め、他の愛情研究会の部員は全員綺麗な女の子って聞いたので、それも心配してます。」

この心配は透矢を恋愛として好きになってないかということだろう。偶然かもしれないが、解は今回だけは正しく理解できていた。

「瀬奈や七海は透矢を…どうだろう。よく分からない。」

理解はできても役には立たなかった。そんな解にため息を吐きながら始音が言った。瀬奈と七海に少し同情してしまった。

「解君はいいから。二人は解君一筋だから、茅野君どうこうはないわ。」

「そうですか。それは何よりです。」

「…悪いが、俺も聞いていいか?」

「え?はい、どうぞ。」

「ああ。透矢を、兄を好きになったのはどうしてなんだ?長く一緒にいる家族において恋愛や性愛は非常に起きにくいといつか読んだんだが。」

割とデリケートな話なのだが、解は単刀直入に尋ねた。隣にいる始音は真弓が不快に思ったりしないかとはらはらしていたが、真弓は特に気にしていないようだ。怒ったりする様子は全くなく解に返事をした。

「ああ、そこは昨日始音さんにも聞かれました。黒条さん、そもそもどうして家族間だと恋愛が起きないと思いますか?」

「…小さい時から守る、あるいは守られる対象には恋愛が生じにくいらしい。恋愛が成立する前に親子愛や兄弟愛が完成するからだ。幼馴染みでも似た現象が起きるかもな。…悪いが、俺は恋愛を分かってないからこれ以上の話はできない。」

「いえ、十分です。ありがとうございます。今の話を踏まえての私の話なんですが、兄さんは家族と距離をおいて生きてました。私自身、兄さんと一緒に過ごしたなんて記憶は全くありません。」

「つまり、茅野君は真弓ちゃんにとって他人枠だったってこと?」

「いえ、兄さんはあくまで兄さんです。話したり遊んだりはしなくても、兄さんは陰ながら私を見守り、時には助けてくれました。兄さんが適度な距離感で私に接してくれて、しかも優しくて格好いいから好きになったというわけです。」

真弓は透矢のことを話していると少し精神年齢が下がるらしい。今も透矢のことを話す姿は自慢げで楽しそうだった。

優しくて格好いいと表現するには透矢はあまりに複雑な人間だが…と解は思ったが、付き合いが長いと真弓のように言えるのかもしれない。ともかく、真弓は透矢を正しく兄と認識しながらも兄に恋愛感情を持っているようだ。そして自身の感情を否定せずむしろ肯定的に受け入れているが、その精神の強さは透矢とよく似ている。ただここまで愛される透矢から真弓の名前は一度も出たことはなく、他人も自分もクソと言い切る透矢が妹をどう思いどう扱うのか、解としては気になるところだった。

 話がちょうど切れたタイミングで、目的の駅にもうじき到着するとアナウンスが流れた。

「そろそろですね。黒条さん、お話ありがとうございました。勉強になりましたし、とても面白かったです。」

「ああ、俺も勉強させてもらった。ありがとう。」

「ね、真弓ちゃん。解君はこんなだけど、話をするとなかなか面白いでしょ?」

「はい。さすが始音さんが選んだ方です。」

始音と真弓は楽しそうにじゃれ合っていた。昨日の夜なのだろうが、年の離れた二人はいつの間に仲良くなったのだろう。解は二人のコミュニケーション力を素直にすごいと思った。


目的の住所は駅がある中心街から少し離れた所だった。解達三人はタクシーを使ってそこへ向かい。目的地辺りで下ろしてもらうと周囲を見回した。そんな中、始音は一人むすっとした顔でぼやいた。

「まさかカーナビもスマホ決済もできないなんて…。」

「だから俺が払うと言ったのにな。」

「教師が生徒に払わせたら示しがつかないわよ。」

「そんなことありませんよ。黒条さんは自立してるんだから学生でも大人です。大人と大人の関係なら払ってもらっていいと思います。」

「うーん、まあそうかもしれないけど…。」

三人でそんな話をしながら歩いた。静かな町並みの田舎で、似たような風景が続いていた。

「昔ながらの家ばかりだな。」

「うん。何の変哲もない昭和の家並みね。」

「そうですね。さて、目的地は…。」

真弓はスマホで地図を確認しながら歩いていた。全く覚えのない場所で、こうして歩いても全く見たことがなかった。本当に透矢がここにいるのか、いるならなぜここに来たのか、分からないことだらけだった。

周囲を確認しながら解達は目的地にたどり着いた。そこは一見すると周囲と変わらないただの民家であり、標識を見ると「藤森」と書いてある。

「藤森…?」

真弓は名字を見て何か気付いたようだ。明らかに先程までと様子が違い驚いていた。

「どうしたの、真弓ちゃん?知り合い?」

「い、いえ、まだ何とも。まずは鳴らしてみましょう。」

真弓は神妙な顔でインターホンを押した。すぐに女性の声が返ってきた。

「はい、藤森ですが、何でしょうか?」

「あ、あの、茅野と言います。私の家族のことで少しお聞きしたいのですが…。」

「…もしかして、真弓ちゃん?」

「え?は、はい。真弓です。」

「やっぱり!ちょっと待っててね。」

会話が切れ、少しすると玄関が開き、老婦人が急いだ様子で出てきた。これまたごく普通の女性だ。年齢は70歳前後で精神的、身体的に問題なさそうだった。

「まあまあ、真弓ちゃんも来たのね。そちらはご友人?」

「は、はい…。」

真弓は曖昧に頷いた。相手がまだ誰か確定していないようだ。少しでも話を聞きやすくするため、解と始音は揃って頭を下げた。

「お邪魔してすみません。真弓さんとお兄さんとは仲良くさせてもらっています。」

「どうも。」

「どうもご丁寧に。さあ、皆さん上がって。遠い所から大変だったでしょう。」

笑顔で老婦人は家に入っていった。あれよあれよと事が進んでしまい、三人は顔を見合わせた。


 家は広いが老婦人以外誰もいないようだ。解達はがらんとした家の中を進み、居間に通された。

「今お茶を出すので待っててね。」

「あ、その!」

真弓は慌てて立ち上がった。まだ状況がよく分かっていないため、まずは情報を集めることが第一だった。

「あの、お婆ちゃん、ですよね?お母さんの方の。」

「ええ。透矢君からここを聞いたんでしょう?」

「あ、はい…。」

笑顔の祖母?に真弓は曖昧に頷いた。どうも、祖母にとっては真弓が来たことは不思議ではないらしい。

「最後に会ったのは二人が小さい時だから、顔を覚えてないのも当然よね。私は何もする資格はないけれど、気にはなっていたから会えて嬉しいわ。」

真弓の祖母は意味深な言葉と寂しげな笑顔を残し居間を出て行った。解は祖母を見送った後に考えごとをする真弓に尋ねた。

「この家はお前の祖母の家なのか?」

「そう、みたいです。私の両親は離婚してて、私と兄さんは父に引き取られました。でも父は結局父方の祖父母に私達を押しつけたんです。私は母方のことは全く知らなかったんですが…。」

「茅野君は知ってた、または調べた。しかもここにも来たみたいね。」

「さっきの口ぶりからはそうだな。祖母の所に行くのを言わない理由は分からないが。」

「…言わないかもしれません。」

真弓がぽつりと呟いた。その表情は暗く沈んでいた。

「両親の離婚は二人が悪いんですが、離婚の原因を暴いたのは兄さんでした。だからなのかは分かりませんが、兄さんから両親の話がでたことはないです。」

「そうか。」

解は以前透矢が言ったことを思い出した。クソだったから潰したとのことだったが、透矢自身の思いは言っていなかった。言わなかった部分に透矢の思いがあったのかもしれない。透矢は何でもできる分、自分のことで相談することはないだろう。その上、他人に嫌悪感があるのだから尚更だ。…解は自分が透矢を友人と言いつつもよい影響をろくに与えられていないことに気付いた。これでは友人とはいえない。

 話をしている内に時間が経っていたのか、真弓の祖母が今に戻ってきた。

「どうぞ。お茶とお菓子よ。」

「ありがとう、お婆ちゃん。あの、お爺ちゃんは?」

「お爺ちゃんは仕事ね。昨日は家にいたから透矢君に会えたんだけど、残念ね。」

「あの、お婆ちゃん。実は…。」

真弓は祖母に事情を説明した。祖母は話を聞いた後、納得したように深く頷いた。

「そうだったのね。透矢君と別々に来たから不思議だったけど、納得したわ。」

「お婆ちゃん、お兄ちゃんが今どこにいるか知ってる?」

「ごめんなさい。今どこにいるかは…。でも、透矢君は昨日うちに来て、それからあの子、お母さんの所に行ったと思うわ。」

「お母さん⁉この近くにお母さんがいるの?」

真弓は思わず大きな声を出した。まさか母までいるとは思わなかった。祖母は悲しいような、呆れているような、何とも言えない顔をした。

「ええ。と言ってもその、精神科の病院にね。あの子はお金のことで失敗して離婚したのに、その後も色々あったみたい。私達のところに来た時にはどうにもならなくなってたの。結局、数年前から入退院を繰り返しているわ。」

「そうなんだ。」

「ああ、透矢君の話をしないとね。透矢君はここに母親がいると思ってたみたいで、母親に会いたいと言ってきたの。私が病院にいると教えたら会いに行くと言ってたわ。でも、あの調子だともう昨日のうちに行ってしまったんじゃないかしら。」

「その後はどこに行くとか言ってなかった?」

「…特には言ってなかったわ。ごめんなさいね、力になれなくて。」

すまなさそうな祖母を見て、真弓は心配させないようしっかりした口調で言った。

「ううん、気にしないで。色々教えてくれてありがとう。私こそ急に来て色々聞いてしまって、ごめんなさい。」

「いいえ、どんな形でも真弓ちゃんと透矢君に会えて嬉しいわ。」

祖母は笑顔だが、やはり申し訳なさそうに話した。

「あなた達に会えたのは小さい時だけで、あの子が離婚してからは連絡先すら分からなかった。だから、あなた達が大きくなって、お友達も見れて本当に嬉しいわ。」

「…。」

娘が離婚して、身を持ち崩し、今は病院に入院している。祖母からはそんな娘への愛情と失望、孫への愛情と罪悪感、そんな様々な思いが感じられた。多くの苦悩があっただろうが、真弓には祖母に対して同情も哀れみもなかった。自分にはほとんど会ったことのない人にどうこう言う資格はない。さらに、はっきり言ってしまうが興味もない。祖母は大人であり誰も代わってくれない以上、人生で起きたことに責任をとるか、とらされるかしかない。そして責任をとれなければ脱落するのみだ。その点では母親は脱落したのだろう。そんな母親に兄はなぜ会いに来たのか。真弓が考えるのは兄のことだけだった。

 何も言わない真弓に祖母は優しく声をかけた。

「すぐにお兄さんを探しに行きたいんでしょうけど、よければ少し休んでいってね。私は庭の手入れをしてるわ。」

祖母が出て行くのを見送って、真弓はずっと黙っていた解と始音に頭を下げた。

「すいません、家庭の事情で私がずっと話してしまって。」

「私たちこそ事情に入り込んでごめんなさい。真弓ちゃんは謝らなくていいわ。ね、解君?」

「ああ。七海の時も似たようなものだったからな。」

前は七海で、今回は透矢。人の事情に関わる運命でも持ってるんだろうか。そんなことを解が考えていると、真弓につっこまれた。

「他にも家庭の事情に首をつっこんだりしてるんですか?」

「ん?ああ。嫌がられてはないぞ。」

「あー、だから七海ちゃんが前よりずっと甘えるようになったのね…。駄目よ解君、八方美人は。」

「別にいい顔をしたいんじゃない。力になれればと思っただけだ。」

淡々と返す解を見ながら真弓と始音はため息をついた。

「ね、真弓ちゃん。こんな感じなのよ。」

「悪気がない分質が悪いですね。」

なぜか責められているが、理由が不明だった。

「とにかく、これからどうする?透矢は母親の所に行ったのは確かだろうから、とりあえず病院に行ってみるか?」

「それしかないですね。それに、病院で聞けば何か分かるかもしれません。」

「じゃあ次は病院ね。でもとりあえず少し休憩しましょ。真弓ちゃんもいきなり親戚と会って気疲れしたでしょ?」

始音は気持ちを切り替えるようにもらったお菓子を全員に分けていった。そして全員でありがたくお菓子を食べることにした。

「しかし、透矢も複雑な家だったんだな。」

解はお菓子をもぐもぐと食べながら言った。口調は真面目なのだが、少し気楽な雰囲気を出していた。お陰で全体の雰囲気も軟化していた。

「でも、私は全然苦痛じゃなかったですよ。兄さんがいましたから。」

「透矢はどんな感じだったんだ?」

「兄さんは今よりも他人への嫌悪を隠さなかったので、よく知らない人にはすごく怖く見えたみたいです。こう、笑顔で人を社会的に抹殺する感じ?で。」

「なんか分かる気がするわ…。表向きは話しやすい人のふりをしてるけど、時々危険な雰囲気を出してるもの。」

真弓はくすっと笑った。時折本心を覗かせる兄を怖いのではなく可愛く感じるようだ。

「兄さんは半分わざとやってますからね。まあそのせいで両親とも兄さんを引き取るのを嫌がって、結局父方の祖父母が私達を受け入れてくれたんですけどね。」

「そうか…。」

透矢は親に疎まれていた。だが、それは家族を壊した理由ではないのだろう。本人でない解には想像しかできないが、他人に対する潔癖ともいえる嫌悪感が透矢を動かしたのだろう。行動の中身と結果は抜きにして、透矢の意志と力は解にとって尊敬できるものだった。

 話している内にお菓子を食べ終わり、お茶で一服すると解達は病院に向かうことにした。真弓の祖母にお礼を言い、真弓は自分の連絡先を伝えた。会えたことを嬉しく思い、別れを寂しがる真弓の祖母が解には印象的だった。


 精神科病院に到着すると真弓は祖母から聞いた病棟に向かった。病棟は閉鎖病棟だったので、解と始音は外来の椅子で待っていた。

「大丈夫かしら、真弓ちゃん。」

「昨日会ったばかりだが、弱くは見えない。焦らず待とう。」

「そうね。…ねえ解君。ちょっと聞いてもいい?」

「なんだ始音、らしくないな。」

躊躇いがちに聞く始音が弱々しく見えて、解は少し心配になった。心配された始音は心外だと言わんばかりにむすっとした顔になった。

「私だって時にはしおらしくなるわよ。じゃあ聞くけど、茅野君も解君もきっと色々あったんでしょ?不満だったり許せないと思ったり、吐き出したいことなんてないの?あったら聞いてあげたいなと思って。」

尋ねる始音はしおらしかった。本気で解を心配して聞いているらしい。

「ありがとう。だが俺は別に、昔も今も文句はないんだ。俺は多くの人に助けられ恵まれている。悪い思い出もあるが、それがなければ俺は俺になっていないからな。」

解も本気でお礼を言い質問に答えた。始音が心配する必要はないと伝えるために真剣だった。解の思いが伝わったのか、始音は安心したように笑った。

「ならいいけど、何かあれば言いなさいよ。前も同じことを言った気がするけど。…とりあえず、焦らず待ちましょうか。」

「ああ。」

二人は静かに真弓を待った。病院は多くの人が行き交っていたが、二人はいつものように穏やかでいられた。


 一方病棟に向かった真弓は大変だった。

「会えないって、どういうことですか?」

真弓は驚きながらも場が病院であることを思い出し、声を抑えた。正面にいた看護師は困った顔で答えた。

「つい昨日あなたのお兄さんですか?が面会に来て、長いこと会っていない親子だって言うから藤森さんと会わせたんです。本人も会うと言いましたから。でもいざ会うと藤森さんがすごく取り乱してしまって、それから調子が良くないんです。なので、主治医の指示で面会は一時禁止になってるんです。」

「そんなことが…。」

驚いていた真弓だったが、すぐに気を取り直した。自分は母に会いたいのではない、兄に会いたいのだ。そのために情報を得なければならない。

「あの、兄さんが何かしたから取り乱したんですか?」

「いえ、ほとんど喋ってもないのに藤森さんが叫び出したの。その…『助けて、殺される!』って。」

「…。」

真弓は今度こそ言葉が出なかった。母は自分のことは棚に上げて、兄への恐怖を思い出して殺されると言ったのだろうか。何もしてない兄に、母はお金も労力も出してないのに?

「あの、母の様子を一目でいいので見れませんか?話はしなくていいので。」

真弓は怒りを押し殺し看護師にお願いした。身勝手な母親を一目くらいは見ておきたくなった。

「うーん…。分かりました。主治医に確認するので、少し待っていて下さい。」

そう言って看護師は電話をかけた。

 真弓は待ちながら両親のことを思い出していた。二人とも悪人ではなかった。だが母は勝手に預金を投資して失敗し、父は不倫で会社を辞めた。そんな自分勝手な両親のことは嫌いだ。ただ、兄は母に会いにここに来たのだ。兄が何を思い、何を感じたのかは知りたかった。妹として、女として、愛する兄を理解するために。

「…分かりました。はい。失礼します。」

看護師が電話を終えて真弓の所に来た。

「会わないなら構わないとのことなので、様子だけでも見ますか?」

「はい、よろしくお願いします。」

真弓は躊躇いなく答えた。

 真弓の母は個室にいた。元は四人部屋にいたそうだが昨日から移動したらしい。個室の入り口には確かに「藤森」と書いてあった。

「ここから様子が見れるので、どうぞ。」

「はい。」

入り口の戸には小窓がついていた。小窓から部屋の中全体が見えるようだ。やはり自傷自殺につながることをしないか観察できるようにしているのだろう。

「…あれが、お母さん。」

記憶の中にいる母親の面影はあった。しかし、病気のせいか人生のせいか、痩せこけて年齢よりずっと老けて見えた。母は何をするでもなくぼんやりと布団の上に座っていた。目は開いているがどこを見ているのか分からなかった。真弓は母を見て、何とも思わなかった。嬉しい、悲しい、怒るなど、まず自分が何を思うのか興味あったのだが、何も感じないのは意外だった。はっきり言って、何の関心もない他人を見ている気分だ。あえて言うなら、病院に一人でいるしかなくなった母は哀れだった。

「ありがとうございます。これで十分です。」

数十秒母を見て切り上げる真弓を看護師は意外そうに見た。その視線が不快だった。


 それほど時間が経たず真弓は解と始音の所に戻ってきた。予想より早い戻りだったが、真弓の話を聞いて解と始音は納得した。解は変わらず落ち着いた様子でまとめた。

「話ができないのは予想外だが、とりあえず母親は見れた、と。肝心の透矢は昨日母親と面会していて、適当に周りを観光すると言って病棟を後にした。こんなところか。」

「はい。」

「周りを観光だけじゃ曖昧過ぎて手がかりにならないわね。相変わらず電話も通じないし…一旦帰るのも手よ。真弓ちゃんはどうしたい?」

「…いえ。まだ探します。母と会った兄さんがどうしてるのか、心配なので。」

母と会って自分は何も感じなかったが、きっと母との間に何もなかったからで、何より自分には兄がいたからだろう。透矢は元々親に嫌われていて、親の罪を晒し、両親に捨てられ、そして昨日母親に拒絶された。そんな兄がどう思うのかは想像もつかない。想像することすら兄に失礼だと思った。

「一応考えはあります。兄さんは理由がないと観光なんてしまいので、観光は方便だと思います。なら意外とこの近くにいるんじゃないでしょうか。ホテルか漫画喫茶で一晩寝て、日課の人間観察をしてる可能性が高いと思うんです。」

「…確かに。さすが妹だな。」

「ってことは…この辺?」

始音がスマホの地図を見せた。そこは病院から歩いて一時間かからない距離にある駅周辺の歓楽街だった。


 田舎も都道府県によって色々だ。それ程寂れていることも、そうでないこともある。ただ、どうあれ人は群れる所には群れるものだ。群れなければ安心できない弱者が多いからだが、それはヒトという生き物なら当たり前で、孤立していられる人間の方がむしろ異常と言える。

(俺はどちら側の人間なんだろうな。)

 透矢は益体もないことを考えながら壁に寄りかかっていたが、女が声をかけた。

「ねえ君、何してるの?これで遊ばない?」

指を立てて額を示す相手を冷静に眺めた。口調から恐らく地元の人間。服装はよくあるもので、それほど金はかかっていない。アクセサリーや鞄も同様。立ち振る舞いからはこの手のことに慣れてはいるが、美人局や呼び込みではなさそうだ。ただ、こちらの鞄やポケットをちらちら見ているあたり、隙を見て財布を盗むくらいはしそうだ。…つまりは、お金欲しさに援助してくれる相手を探している、そんな人間だ。

 透矢は別に風俗関係者を差別していない。好きにしたい奴同士、好きに楽しめばいい。借金のかたに無理矢理やらせるのは感心しないが、借金を作った責任もある。ということで優しくしても良かったのだが、あいにく今は機嫌が悪かった。

「それだけ払うなら、好きにさせてくれるよな?心も体もぐちゃぐちゃにしてやりたい気分なんだ。」

「ひっ…。」

透矢が笑顔で一歩近づきながら手を伸ばすと、女は色を失くして逃げ去った。…面白くない。重ねて言おう。何も、何一つ面白くない。

 母に会った時も面白くなかった。10歳の時点で既に両親は自分を恐れていたが、まさか会うと言ったくせに話をする前から取り乱すとは思わなかった。妄想を伴ううつ病、アルコール依存症の影響は大きいのだろうが、あまりにも脆かった。

解に付き合ってやれず悪いとは思ったが、夏休みの間は両親の情報集めに手を尽くした。その結果、母は賭け事とアルコール、そして精神疾患を抱え、父は不倫した相手と再婚、そしてまた不倫と離婚をしていたことが分かった。両親とも養育費どころか自身の生活もおぼつかなかったようだ。

彼等の凋落には興味ないが、彼等の落ち目の原因が自分であることには思うところがあった。彼等は原因がこちらにあると疑ってはいたが確定はできなかった。もし今事実を知ればどう思うだろうか。怒るのか恐怖するのか、教えれば答えが分かったのに、自分はなぜ教えなかったのか。他にも、今の生活に納得しているか、放っておいたままの娘をどう思うかなど、彼等に聞いてもよかった。彼等を苦しめることも、彼等で遊ぶことも、全て自由だったのに何もしなかった。ただ会って、二言三言交わして、終わった。

透矢はぼんやり前を見て歩いていたが、意識は自分の内面に向いていた。しかし、前方で酔った若者数人が騒いでいることで、思索にふける意識は現実に引き戻された。

「やれやれ…。」

笑いながら若者達に近づいていく透矢の顔には狂気じみたものが浮かんでいた。


 解達は病院を出て昼食をとり、歓楽街に向かった。安めのホテルと漫画喫茶を調べ、その周辺で透矢がいないかを探す、いないので次の場所に移動、その繰り返しだった。知らない土地の歓楽街なのでまとまって行動したが、そのせいで効率は悪く、気付けば夕方を回っていた。夕食を食べてもう少し探す、それで難しいなら帰ることを検討する、そんな話になっていた。

「やっぱりばらばらに探しませんか?その方が効率いいですよ。」

「いや、それで何かあったら本末転倒だ。」

「そうよ。真弓ちゃんに何かあったら茅野君だって嫌だと思うわ。焦らず探しましょ?」

「はい…。」

もうしっかり夜なので、女性を一人にするわけにはいかない。真弓をなだめて解達はまた透矢を探し始めた。

 探し始めて15分、変化があった。喧嘩があった後なのか、少し野次馬が集まっていて、中心には数人の若者が倒れていた。何があったのか気になった真弓が呟いた。

「喧嘩、でしょうか?」

「少し聞いてみる。待っててくれ。」

解が野次馬に近づき、話を聞いて戻ってきた。

「少し前に喧嘩があったらしい。倒れている奴等が一人で歩いていた男に喧嘩を売って、返り討ちにあったらしい。」

「へえ、一人で数人とやって勝ったの?」

「ああ。それと、その男は喧嘩中も後もにやにやと笑っていたらしい。」

「お兄ちゃんだ!」

真弓は解の話を聞いて走りだした。殴り合いをしても笑っていられるのは兄に違いなかった。兄がいると思ったら居ても立っても居られなかった。真弓は真剣な様子で周囲を見ながら走った。

「お兄ちゃん、どこ…!」

真弓は独り言を呟きながら周囲を探し回り、ついには走り疲れて立ち止まった。しかし、透矢は見つからなかった。それどころか解も始音も近くにいなかった。

「あ…。」

疲れたことで真弓は冷静になり、失敗したと思った。これでは二重遭難だ。戻ろうにも道が分からない。頭が真っ白になった真弓はふらついた拍子に誰かにぶつかった。

「いてっ。何だ、結構可愛い子じゃん。ねえ、暇?」

「こんな所に一人でいるんだから、暇に決まってるだろ。金持ってるおっさんでも探してたんじゃないか?」

「えー?小デブのおじさんよりも俺達と遊ぶ方が楽しいぜ?」

明らかに怪しい雰囲気の男三人に真弓は囲まれていた。いくら真弓が普段しっかりしていても、この状況で毅然としていられる程豪胆ではなかった。

「すみません。私、急いでるので。」

小声で言うのが精いっぱいだった。ただ、その反応がむしろ男達を刺激した。

「あれ、もしかして割と普通の子?可愛い反応じゃん。へへ。」

「ふーん。レアものだな。怖がってるのが逆にいいよな。」

下卑た目線と声が真弓の背筋を震わせた。逃げようとしたが手首を掴まれた。兄以外の男に体を触られるなんて、気持ち悪い以外の何ものでもなかった。

「おい、さっさと路地裏でも何でもいいから連れていこうぜ。一発したら抵抗しなくなるって。」

「そうだな。じゃあ行こうか。」

「い、嫌…!」

真弓は恐怖で大きな声が出なかった。周りにはほとんど人がいなかった。いや、いても無視されるだけかもしれない。兄のお陰で知らなかった絶望を真弓は今知った。路地裏に連れ込まれた真弓は逃げようにも体を抑え込まれて逃げられなかった。

「それじゃあこれはサービスね。気持ちが楽になるよ。」

男が笑いながら煙草の煙を真弓に近づけた。真弓は時が止まったように世界がゆっくりに見えた。男たちはにやにやと笑い、真弓の服に手をかけた。

「はあ…やっぱり俺はクソを見つける才能があるんだろうな。」

出し抜けに声がして、男達は反射的に振り返った。目の前には笑う男。

「恐怖に負けるとはな。母親と同レベルなのか?」

そこには透矢がいた。説教されているのだが真弓は涙が出るくらい嬉しかった。やっぱり兄は兄だった。

「お前何しに、がっ!」

男は透矢に凄んだが、いきなり透矢に殴られた。そのまま透矢は他の二人にも襲い掛かった。

「…。」

透矢は精神的には燃え盛るような激情の中にいたが、現実を見る目はひどく冷たかった。ただ相手が動かなくなるまで殴る。相手も殴ってくるが、どうでもいい。痛みなど無視して、ただ殴るだけだ。

……

 すぐに透矢に向かってくるものはいなくなり、男達は地面にうずくまっていた。一人は真弓の側で倒れていて、透矢は起き上がろうとするそれを無言で蹴り飛ばした。

「ぐあ…。」

男は潰れた蛙のような声を出して動かなくなった。転がった男達を見もせずに、透矢は無表情に真弓の手を引いて立たせた。

「何もされてないか?」

「う、うん。」

「ならいい。行くぞ。」

透矢はそのまま真弓の手を引いて路地裏を歩いた。真弓としてはようやく愛する兄に会えたわけだが、まだ先ほどの恐怖が後を引いて話せずにいた。

透矢は真弓の手を引いて路地裏から出た。街灯の明かりの下、透矢は妹の不調に気付いた。

「なんだ、まだ怖いのか?俺を追ってここまで来た割には大したことないな。」

「そんなことな、い…。」

真弓は透矢に言い返そうとしてやめてしまった。透矢は真弓を正面から抱きしめていた。真弓は驚くと共に透矢の温もりと匂い、力強さを感じて胸が一杯になった。加え、透矢が耳元で優しくささやいた。

「甘えさせてやろうか?お前の望む俺になって、兄として、男としてな。」

透矢の吐息が耳にかかり、真弓はぞくりと体を震わせた。正直、このまま流されてしまいたかった。そうすれば兄は望み通り愛してくれて、ずっと側にいてくれるのではないか。私の望み通りに。

「…っ。」

真弓は誘惑を振り切り透矢を突き飛ばした。透矢は最初から真弓の行動を予想していたのか、真弓が全力で押したにも関わらずわずかによろめいただけだった。そして今は冷たい目で妹を見下ろしていた。

「どうした?愛されることを望んだのはお前だろ。」

「そうだけど、違う。お兄ちゃんには愛されたいけど、私を愛してくれるお兄ちゃんが欲しいんじゃない。」

「…くくく。見方によっては同じことだぞ。まあ、言いたいことは分かるけどな。」

透矢の雰囲気が少し柔らかくなったので真弓はほっとした。あのまま押されても困る。

「おーい。」

「真弓ちゃん、茅野君!」

茅野兄妹の空気が少し軽くなったところで、タイミングがいいのか悪いのか解と始音が走ってきた。透矢は目を細めて近づく二人を見て言った。

「解と堤先生が来てたのか。…なら、俺は必要ないな。」

「え…?」

真弓は聞き返そうとしたが、その前に透矢は真弓を優しく押し出した。そして透矢から少し離れた真弓の所にちょうど走って来た解と始音が到着した。解と始音は透矢の動きに気付くことなく真弓を迎え、始音が安心したようにため息を吐いた。

「無事で良かったわ。真弓ちゃんは走っていなくなるし茅野君は見つからないし、心配したのよ。」

「すいませんでした…。」

「悪かったな、堤先生。解も迷惑かけたな。」

「ああ…。」

解は頷きながら透矢を観察していた。透矢は危険な雰囲気を漂わせていて、言葉と様子が一致していなかった。

「とにかく帰るぞ。今ならまだ電車もある。何をしていたかは後で聞かせてくれ。」

「ああ、俺はまだ遊ぶから帰らないぜ。真弓だけ連れて帰ってやってくれ。」

「え?」

驚いた真弓は透矢を見て、ぞっとした。透矢は冷たい笑顔…真弓が知る中でも指折りの冷たさだ。真弓だけでなく始音も声が出ないようだ。しかし、解はそんな透矢にも怯むことなく再度言った。

「いや、お前も帰るぞ。妹を心配させるな。」

「別に俺はぶらぶらするだけだ。何がそんなに気になるんだ?」

「分からない。ただ、今お前を行かせるとお前に会えない気がする。」

「…。」

解は自分の直感を真っすぐ伝えた。透矢はうすら笑いを浮かべながら何も言わなかった。解の直感は当たらずとも遠からず、といったところだった。

「くくく。俺に会えない、ね。…俺が死ぬってことか?」

真弓が死ぬという言葉に反応して体を揺らした。泣きそうな、祈るような目で透矢を見ていた。そして、そんな真弓の視線は透矢にとって耐え難いものだった。形だけは笑っている透矢の心を示すように場が殺気立つ中、解は始音と真弓を自分の後ろに下がらせつつ慎重に、かつ堂々と透矢に答えた。

「さあな。ただ、どうあれお前を独りにはしない。俺の自分勝手な意志だが、譲る気はない。」

空気はぴんと張った糸のように張り詰めていて、いつ切れるか分からないほどだ。始音と真弓は固唾を飲んで解と透矢のやり取りを見ていた。

「ふうん?俺の意思を無視してでも俺を連れて帰る。そういうことか?」

「ああ。」

解が返事をした瞬間、透矢がいきなり腕を振り抜いた。反射的に下がった解の目の前をナイフが通り過ぎた。透矢はいつの間にかナイフを持っていた。真弓と始音が小さく悲鳴を上げたが、解も透矢もそれを気にする余裕はなかった。

「最後だ、解。真弓と堤先生を連れて帰れ。殺すぞ。」

もう透矢は笑っていなかった。むき出しの敵意と殺意で解を見ていた。しかし、解は引くつもりは全くなかった。

「譲る気はないと言っただろ。帰るぞ。」

解は言いながらふと思った。以前ナイフを持った不良と対峙した時と同じ感覚だ。死の危険は感じるが、恐怖はほとんど感じない。何より、こんな時にこんなどうでもいいことを考えるなんて、やはり自分はおかしいのだろう。

「や、やめなさい、二人とも!」

「始音、黙ってろ。それともっと離れろ。危険だ。」

「いやいやいや…。」

始音が何を言ってもどうにもなりそうになかった。とはいえナイフはまずい。でも、人を呼ぶのもまずい。怪我をするのはもっとまずい。

「お願いだからやめ…」

始音が言いかけたところで解が動いた。一気に詰め寄った解に、透矢は躊躇いなくナイフを突き出した。ナイフはずぐっと鈍い音を立てて解の鞄に突き刺さった。解は盾にするために鞄を持ったまま動いていた。

「な…。」

透矢が目を見開いた次の瞬間、みぞおちに激痛が走った。さっき倒した男達にやられた痛みなんて痛みに入らない、そう思う程の激痛だった。この数日ろくに寝ていなかった透矢はそのままあっさりと気絶した。


 気絶してしまった透矢を介抱するため、解達は透矢を近くのホテルに運び込んだ。ベッドで仰向けになる透矢を真弓が心配そうに見つめていた。

「黒条さん、兄さんは大丈夫なんですか?」

「運んでいる途中で少し起きたからな。まあ大丈夫だろう。」

言いながら解は透矢の足の下に巻いた布団を置き、手首を触って脈や血圧を診た。

「普通に息をしてるし、脈も血圧も問題なさそうだ。今は気絶じゃなくて寝てるみたいだな。」

「そうですか、よかった…。」

安心して力が抜けたのか、真弓はベッドに座り込んだ。始音はまだ色々心配なのか、寝ている透矢の顔を覗き込んだ。

「茅野君にしてはあっさりやられたけど、元々の調子が悪いのかしら?」

「多分な。明るい所でよく見ると頬は少しこけて、目の下に隈もある。食事も睡眠もとれてなかったんだろう。精神的な問題もあれば尚更だ。」

「…起きたら暴れたりしないわよね?」

始音の疑問に全員が顔を見合わせた。

「…さあ。どうだろうな。」

「しないと思います。自分の不調がはっきりしたんですから。…あの、黒条さん。」

「何だ?」

まごまごしている真弓に解は不思議そうに尋ねた。真弓は意を決して頭を下げた。

「兄さんがすみませんでした!ナイフを出すなんて…。でも、どうか兄さんを嫌いにならないで欲しいんです。」

「?どうして嫌いになるんだ?」

「え…。だって、友達にナイフを向けるなんて…。」

「別に気にしてないぞ。元々透矢とは殴り合いで親睦を深めたからな。今回も同じだ。」

「は、はあ…。」

戸惑う真弓に始音は笑顔で付け加えた。

「解君はこんな感じだから大丈夫よ、心配しないで。それより解君、危ないことは二度としないようにね。さっきは寿命が縮んだわよ。」

「瀬奈にも言われたから通常はしないぞ。今回は相手が透矢だったから、特殊事案だ。」

「普通はどんな時でも危ない橋を渡らないわよ。反省してるの?は・ん・せ・い。」

「…すいませんでした。」

ナイフを持つ相手にも立ち向かえる解が担任教師の説教で素直に頭を下げている。そんな様子が可笑しくて、真弓は少し笑った。

「これからどうしましょう?兄さんが起きるのを待ちますか?」

「それしかないんだけど、ここはちょっと、ねえ…。どんな事情でも生徒とこんな所に入ったのがばれたらクビよ、クビ。」

始音はため息を吐いてやれやれと肩を竦めた。今いるホテルはいわゆるラブホテルだった。普通のホテルを探したがどこも一杯だったので仕方がなかった。

「場所は諦めるしかないな。幸いベッドがあるから、二人は風呂に入って休んでくれ。透矢は俺がみる。」

「いえ、私も兄さんが起きるのを待ちます!」

「待つのはいいけど、ラブホテルで男性がいるのにシャワーには入れないでしょ。ベッドも茅野君が寝てるから使えないし。」

「ソファはあるぞ?」

「始音さん、私がここにいますので、シャワーとソファを使って下さい。」

「…。」

異常事態の中では常識を捨てられる側、捨てられない側との齟齬は大変大きい。そのことを始音は実感していた。


もうすぐ朝の4時になるが透矢は起きなかった。疲れていたのか始音もソファで寝ている。さすがに真弓も透矢の手を握ったまま寝てしまった。

「全員よく寝てるな。」

透矢は頭を打ったわけではないので心配はしていないが、あまりに起きないと病院に行く必要がある。解は透矢の呼吸と脈、血圧を再度みた。…やはり問題ない。

「待つしかないな。」

ふうっと息を吐いて解はペットボトルの水を飲んだ。透矢は起きないが、穏やかな顔で眠っていた。焦らず待っているのだが、始音と真弓が寝てしまったので寝顔を見ないようにしないといけない。じっとしているのはさすがに暇なので、愛情研究会の活動でもすることにした。

 話題は…折角ラブホテルにいるので場所について考えてみよう。ここは性交渉、セックスをするための場所である。セックスは多くの場合恋人達や夫婦が行うものだが、売春のように全くの他人同士の場合もある。ラブホテルの特徴としては①日頃自分がいる場所ではない、②道具などの環境が整っている、③有料である、この辺りが考えられる。よって、ラブホテルを使用する理由は①周囲に見られたり聞かれたりするのを防ぐ、②自分が持っていない道具を使う、③環境を変えたい、④単に休むためだけ、こんな所だろう。すなわちどんな人が使うかというと、①家族や友人などに知られたくない人、②性的嗜好が家で満たせない人、③通常の環境では見られる、聞かれる恐れがある人、ということになる(④ただ休みたい人は省いた)。こうやって考えると、ラブホテルを使うかどうかは愛情の有無とは関係ないことが分かる。この点において、愛情を研究するこの身にはラブホテルは興味を持ちにくい場所と言える。

 個人的に興味深いのは、セックスは一般的に隠すものという認知なのに、ラブホテルはセックスをする場所そのものであり隠されていないという点だ。これは⑴隠すべきであるという考えが建前でしかないからなのか、それとも⑵隠すべきものだが必要とする人が多く隠すことができないからなのか、どちらなのだろう。家ですれば無料なのにわざわざ有料の場所でするというのも不思議だ。結局…。

「ん…。」

「!」

透矢がわずかに呻いたので解は素早く反応しベッドに近づいた。透矢には申し訳ないが、もし暴れても止められるような心構えもさせてもらった。

「…。」

ゆっくりと透矢の目が開いた。透矢は状況がすぐにはつかめないようで、周りを見回しながら半身を起こした。途中で真弓が手を握っていることに気付いたが、手を離すことはしなかった。

「…そうか、殺しても構わないつもりだったのに、あっさりやられたんだったな。全く、情けない話だ。」

「不調だったんだろう。食べてないし寝てもいないんじゃないか?」

「そうだな。二日間くらいはあまり食べてない。寝てないのは三日間くらいだ。」

透矢は寝て固まった首や肩、腰を動かしてほぐしていた。顔色も倒れた時に比べればかなり良くなっていた。

「調子はどうだ?」

「まあまあだ。精神の不調と身体の不調はつながってるんだな。身をもって知った。」

透矢は薄く笑った。気絶する前の危うい笑みではなく、透矢にしては弱々しい笑みだった。

「一撃もらって頭も冷えた。…さっきは悪かった。謝って済むものじゃないが、本当に悪かった。」

「そんなことを言ったら、俺はお前を気絶させた上に無理矢理連れ帰るんだぞ。俺の方こそ悪い。」

「殺そうとした俺とは比較にならないだろ。」

「いや。自由や意思を抑えつけることは時に相手を殺すことと同じだ。少なくともさっきのお前にとっては殺されるに近かったはずだ。だからお互い痛み分けだ。」

解の意見を聞いた透矢は苦笑した。解は気を遣っている部分はあるだろうが、本気で、こんな俺の意思ですら命と等価値だと考えている。殺される可能性もあったのに、おめでたいにもほどがある。

「…相変わらずお前は面白いな。…さて、真弓と堤先生が起きるまで、負けた俺は俺がしてたことでも話すか。」

「ああ、頼む。」

「そういえば、どうやってここを知ったんだ?何も残してないはずなのに。」

「始音と妹…茅野がお前の家でUSBメモリを見つけて、パスワードを解いたそうだ。」

「USBメモリ?確かにバックアップをしてたが、パスワードを解くなんてな…。」

透矢は自分の考えが妹に読まれたことに不思議な爽快感を感じていた。真弓は今も透矢の手を握り、穏やかに眠っていた。クソ共に囲まれていた時はまだまだと思ったが、追いかけてこれるくらいには成長しているらしい。

「じゃあ本筋の話をするか。といっても大したことはしてない。ただ夏休みの間に両親の居場所を探しただけだ。俺が10歳の時に両親は離婚して、その後はすぐに音信不通になったからな。」

「確か、父方の祖父母がお前と妹を引き取ったんだったな。」

「そうだ。母親は育児が不可能と判断され、父親は育児を放棄して親に押しつけた。とにかく、二人の所在地を突き止めて会いに行くことにした。」

「父親にも会ったのか?」

解は透矢の行動力に驚いた。音信不通となった人の居場所を調べ上げた後会うために一体何日必要なのか、見当もつかなかった。また、驚きと共にそれだけの労力をかけた理由が気になった。しかし、まずは透矢の話を最後まで聞く必要があった。

「父親とは一昨日に会って、昨日は母親だ。会った時の反応はそれぞれ違った。父親はまず俺が誰なのか分からなかった。教えると途端に言い訳を始めたんだ。生活が忙しくて連絡する余裕がなかったとか、今も金がないから養育費は払えないとかな。次に再婚してまた離婚したことを聞いたら今度は怒りだしてな。お前に関係ないとか何とか。最終的に襲ってきたから黙らせて、父親とは終わった。」

「そうか…。」

透矢はちらりと真弓を見て寝ていることを確認した。両親の、そして自分自身の話を妹に聞かせたくないのだろうか。透矢を観察しても解には分からなかった。

「母親の方は聞いたかもしれないが、病院で会っても殺されるとか騒ぐばかりで会話できなかった。その後は適当にぶらついて、そして真弓に会った。こんなところだな。」

「そうか。…そもそも、どうして両親に会おうと思ったんだ?」

「いい質問だな。」

透矢はにやりとした。小細工のない真っ向勝負は嫌いではなかった。そして、会話において不器用な解がこの質問をすることは予想済みだった。

「調べ始めたのはお前が発作で倒れた時だな。俺の行動を皮切りに、両親がどう生きているか興味を持ったんだ。」

「なるほどな。」

「ただそれは調べる理由で、会いに行く理由じゃないよな。親への復讐、罪悪感、愛情、何かあれば簡単なんだが、そんなものはない。あえて言えば、両親と会っても自分が何とも思わないのかは興味があった。」

「実際どうだったんだ?」

「正直、特に何も。年取ってみすぼらしくなった姿は滑稽ではあったかな。」

「なら、歓楽街にいた時はどう思った?どうして一人になろうとしたんだ?」

「あの辺りか。そうだな…。」

歓楽街は透矢が最も不安定な精神状態の時だ。あの時の自分を省みることも、自身を検証するには必要な作業だろう。

「目的を果たしても俺の中には何も生まれなかった。俺の起原は今の俺にはもう無意味だった。親を探して会ったこと、俺が親にしたこと、親と共に生きたこと、その全てが無意味だった。そして始まりが無意味なら、それから先も意味はないと考えた。」

「それは言い過ぎだ。何も感じないのは無意味とは違う。」

解ははっきりと透矢に反論した。話の飛躍があるのは勿論だが、生きたことが無意味という言葉に強く反感を持っていた。

「反論はもっともだ。だがまあ、その時はそう思ったってことだ。それに、何もかもが汚く見える俺にとって無の意味は大きい。マイナスですらないんだからな。…とにかく、このクソだらけの世界に無意味な自分が存在することに腹が立ってきて、茅野透矢という経歴を捨てて暴れ回ろうか、それとも死んでしまうか、そんなことを考えてたな。」

「やっぱりあの時止めていないと死んでるじゃないか。」

解に指摘された透矢は苦笑した。確かに解の言う通りだった。

「はは、まあそうだな。あの時は追い詰められてたんだ。だが真弓に見つかり、お前にやられて、さらに休んだからな。今はそこまでは思ってない。」

「なら、今はどう考えてるんだ?」

「そもそも俺自身の意味なんて考える必要はない。俺自身がクソなのは変わらない。意味も価値も俺には関係なかった、そんなものは周りが勝手につけるだけだ。」

「…また極端な考えだな。」

透矢は落ち着いた上で自分がクソであり意味など必要ないと断言した。ただ、危うい様子だった時と比べ、透矢がきちんと考えて発言していることがよく分かった。そのため解はそれほど心配せずに話を聞くことができた。

「まあな。ただ俺はそれでいい。過去から何か得られると期待したのが間違いだった。時に立ち止まり、自分の歩いた道を何となく振り返って思いを馳せる。過去なんてそれくらいの扱いで十分だ。」

「そうか。お前が言うならそれでいいんだろうな。それでも、お前の苛立ちと怒りは本物だった。本物の感情には必ず意味があるはずだから、大切にしろ。」

「そうだな。あれだけキレたことは生きてきて一度もない。貴重な経験だったな。」

くくく…と透矢は喉を鳴らして笑った。つられて解も軽く笑った。その時、真弓がわずかに身じろぎして透矢の手を握り直した。起きたと思ったが、まだ寝ているらしい。

「こいつもよくやるよな。いつまで経っても兄を追いかけて。」

透矢は真弓の寝顔を見た。透矢にしては非常に珍しい、温かみのある目だった。

「お前を探すためにここまで来たんだ。凄まじい意志の強さだと思うぞ。意見もしっかりしているしな。」

「意志ねえ。他の男を探せと言っても全く聞かないから、頑固ではあるな。」

「お前を女性としても愛してるらしいな。」

「ああ。本気だから困ったもんだ。俺がもっと兄らしくしておけばよかった…のか?」

透矢は自分の言葉にふと疑問を持って首を傾げた。別に真弓が誰を好きになろうと自由だ。そして兄が恋愛対象でも法は犯してない。さらに、真弓が心変わりした方が正しいわけではないし、そもそも兄らしくしたからといって真弓が変わるとは限らない。

「いや、よくはないな。結局は俺の問題か。」

「何がだ?」

「兄妹の恋愛についてだ。愛情研究会のリーダーとしてはどう思う?」

「是非は当事者に任せる。兄妹愛に恋愛がどう加わって関係が構築されるのかは気になる点だな。」

「うーん…。俺も分からんな。本当に、俺みたいな兄にどうしてなんだろうな?」

「…お兄ちゃん!」

「ひゃっ!」

さすがに長く話していたからか、寝ていた真弓ががばっと起き上がり、その声で始音も驚いて飛び起きた。真弓は半身を起こしている透矢と目が合った。

「迷惑かけたな、真弓。堤先生も。」

「ああ、起きたのね。なんか落ち着いてるようだし、良かったわ。」

始音はほっとしたように大きなため息を吐いた。ところで真弓は最初に声を上げてから声を出しておらず、今は俯いて顔も見えなかった。

「どうした?兄と会えて感動の涙でも出てるのか?」

「っ…!馬鹿っ!」

真弓は一言叫び、透矢の膝に頭を乗せて泣き始めた。透矢は苦笑いしながら真弓の頭を撫でていた。


 気付けば精神的に落ち着いていたので、誰も透矢に落ち着いた理由を聞かなかった。透矢も言わなかったが、実際は言葉にできた。一つは体調が改善したことだが、話はもう一つの方だ。誰にも気付かれずに何でもできるつもりだったが、つまらないミスで手がかりを残した上に思考を真弓に読まれてパスワードも解かれた。自分の精神も体調も管理できないまま暴れ、解には完敗した。しかも解は殺される可能性を理解しながら、ある意味で殺す覚悟ができていた。妹や友人よりも自分が未熟である以上、好き勝手する資格は自分にはない。

ところで、彼等は透矢という人間に意味を見出せるらしい。ここでの意味は愛情のことであり、兄妹愛、恋愛、友情だ。彼等は執念と行動、覚悟で愛情を証明した。彼等の愛情を否定できない・しないのなら、自分が無意味であろうと消えてよいとは言えず、無理に消えるならそれはただの癇癪でしかない。つまりはこちらの完敗、ということだ。それとも、もしかすると救われたのかもしれない。どちらなのかは分からないが、いずれ明らかになることだろう。



「ふふふ、お兄ちゃんに公然とくっつけるなんて、苦労した甲斐があったなあ…!」

「やれやれ…。」

帰りの電車内で真弓と透矢は並んで座っていた。周囲はがらがらで、解と始音すらいなかった。迷惑をかけたお詫びとして透矢が真弓の願いを聞いた結果、「電車内で二人きり」という願いが出たのだった。

「わざわざ二人きりになって、いざやることが並んで座るだけとはな。」

「座るだけじゃないから。こうして腕に抱きついてるでしょ。」

「それだけだろ。」

「え⁉お兄ちゃん、これ以上が希望なの?ここでは私もちょっと…。」

「言ってろ。」

真弓は解達といる時と口調が全く違った。今の状態が素、というより透矢の前だけの状態なのだろう。そして透矢も解達といる時と違い、にやにやと笑っていなかった。なんだかんだ言っても透矢も真弓の前でだけは少し違うようだ。

「それにしても、お前も成長したな。」

「そりゃあお兄ちゃんの妹だから。黒条さんや始音さんの協力もあったけどね。」

「…くくく、そっちじゃない。体の方だ。」

「えっ!ま、まあそれも成長はしてるけど…。お兄ちゃんは大きい方がいいの?」

身長のことだったのだが、真弓は胸囲だと思ったらしい。訂正も面倒なので放置した。

「まさか。お前は美形ならゾンビでも好きになるのか?それと同じだ。」

透矢の言葉を聞いた真弓は真面目な顔になり、少し語気を抑えて言った。

「…やっぱり人間が嫌いなのは変わらないよね。お父さん、お母さんに会って、それは改善したの?悪化したの?」

「どっちでもない。二人に会ったところで俺は俺だった。それがよく分かった。」

「そっか。…そうだね、あんな人に負けるお兄ちゃんじゃないよね。」

「負けるって何だ?…お前が会ったのは母親だけなんだが、お前はどう思った?」

透矢の言葉には滅多にない躊躇いがあった。やはり兄は親のことで自分に気を遣ってくれていたのだろう。真弓は自然と笑顔になって答えた。

「私も何もなし。勝手に私を生んで、勝手に親の義務を放棄した人のことなんて興味ないよ。私はお兄ちゃんがいれば十分。」

「そうか。」

「ありがとう、お兄ちゃん。」

「はっ。俺は疫病神みたいなものだ。責めるならともかく、礼を言う必要はないぞ。」

「そんなことない。お兄ちゃんがいてくれたから今の私がいるの。だからお兄ちゃんに言うことはありがとうと…大好き。」

真弓は真剣な顔だった。真弓は透矢としっかり目を合わせたまま続けた。

「大好き、お兄ちゃん。妹としても、女性としても。これまでも、これからも。この世に絶対はないけど、ずっと大好きでいたい。本気でそう思ってる。」

「…。」

さすがに恥ずかしいのか、真弓は透矢の腕にしがみつきながら俯いた。

 今まで真弓からは何度も好きだと言われてきた。そこにはいつの間にか男女のそれも含まれるようになったが、今まではただただ面倒だった。人がクソに見える、これは真弓も例外ではない。解とは違い、愛情を理解しながらも茅野透矢は人を愛せそうにない。そんな人間に愛など説かないでほしい、そう思っていた。

「真弓。」

「え、な、何?」

いつも以上に真面目に好きと言ったものの、やはりいつものように煙に巻かれるだろうと思っていた。なのに、透矢から真面目な声が出てきたので真弓はとても驚いていた。

「俺は全ての人間が嫌いだ。自分も、解も、お前もな。今回、両親への嫌悪感はお前達へのものと同じだった。両親は無意味だと感じたのに、だ。」

「…。」

透矢の話はまだ意図が分からない。そのため真弓は黙って聞いていた。

「俺にとって『好きか嫌いか』は意味がない。全て嫌いなんだからな。重要なのは『予想を超えられるかどうか』だ。両親は予想通りだった。転落して、戻れないまま腐るだけだった。…お前達は違う。俺の予想を超えて、見ていて面白い。これは一種の愛情なんだろうな。」

「…それって、結局どういうこと?」

これはつまり、告白はまた流されたということだろうか。真弓は自分でも気付かないうちに不満顔になっていて、透矢はそんな真弓を見て笑った。透矢にしては珍しい、穏やかな笑顔だった。

「そうむくれるな。要は嫌いなことを理由にお前の愛情から逃げるのはどうかって話だ。…妹であることは俺には関係ない。俺に愛されたいならその思いを貫いてみせろ。もしできたなら俺の気も変わるだろうさ。」

「…ん?」

真弓は最初意味が分からずにぽかんとしてしまったが、徐々に分かってきたのか、表情が明るくなっていった。

「え?え?それって、OKってこと⁉」

「調子に乗るな。俺以外を好きになれとは思ってるぞ。俺は異常者だからな。だが…お前が一人なら傍にいてやる。」

「…。」

真弓は俯きながら透矢の腕につかまっていた。今の兄の返事は真弓が想像するかぎり、兄が出す最大限のOKだった。喜びが胸にふつふつと湧いてきて、顔が勝手ににやけてしまった。騒いでしまいそうな心を抑えるため腕に力を込めた。

「おい、痛いぞ。」

「あ、ごめん。ふふ、ふふふふふ…。」

「…。」

真弓が怪しい笑いを始めたので、透矢は無視することにした。少し甘やかしすぎたかもしれない。透矢は若干後悔しつつも、真弓が喜んでいる様子を見るのは悪くない気分だった。



「二人ともどうなってるのかしら。気になるわねー。」

「おい始音、二人きりにするんだろ。」

「そうだけどー。」

始音は不満そうに解を見た。始音と解は透矢達がいた車両の隣にいた。こちらも乗客はほとんどおらず、始音は二人を覗き見ようとしつつも解にたしなめられることを繰り返していた。

「解君は真面目過ぎるのよ。せっかく生の禁断の愛が見れるのに、もったいない。」

「プライバシーはどうした?」

「二人が仲良くしてるかどうかくらい見てもばちは当たらないわよ。」

「駄目だ。それに禁断の愛って何だ?兄妹で恋愛することか?」

解がお固い上にロマンを感じてくれないので、始音は解の向かいに座ってつまらなそうに足をぶらぶらさせた。解は少し子供っぽいなと思ってしまった。

「兄妹は法的には結婚できない。それに基本的には兄妹で恋愛関係になることはない。ここまではOK?」

「ああ。」

「できないことはしちゃいけないってことにつながるでしょ?だから禁断よ。」

「だからと言われても、刑法で処罰されるわけじゃない。頻度が少ないこともそれだけで異常だとは言えない。」

「うっ。ま、まあそうかもしれないけど…。でも絶対真弓ちゃんも背徳感をちょっと楽しんでるわよ。だから禁断でいいのよ。」

「禁断でいいは言葉としておかしくないか?まあ禁断とする側としては昨日俺が話したような問題点もある。だが重大なものじゃない。そして…」

「…もういーです!解君のいじわるー!」

「おい…。」

解に批判するつもりは全くなかったが、始音の機嫌を損ねてしまったようだ。始音は拗ねた様子で顔を背けてしまった。ただ、始音の行動はこの程度で解は怒らないと予想した上でのもので、一種の甘えだった。そして予想通り解は怒らず、それどころか困った顔をしていた。

「悪かった。俺は愛情研究会の時と同じように話してたが、お前は話を聞いてほしかったんだな。俺が悪かったから、怒らないでくれ。」

「解君…。」

解は始音が不機嫌になった理由を正確に言うことができた。以前はなぜ怒っているのかを聞いてきたはずだ。

(解君も成長してるのね。)

思えば最近の解は笑顔こそ稀だが気を遣ったり困ったり、あるいは心配したりと表情が増えた。透矢達を友人と言えるようにもなった。愛情研究会の目的通り、愛情を少しずつ理解してきているのだろう。

「ごめんなさい、ちょっと解君を困らせようと思っただけなの。だから怒ってないわ。まあ、少し拗ねたくはなったけどね。」

「悪かった。」

「大丈夫。ちゃんと分かってくれたからいいわ。」

「そうか。分かった。」

今の始音からは大人の余裕が感じられた。さっきは子供っぽいとすら思ったのに、不思議なものだ。そもそも始音は学校と銭湯で雰囲気が大きく変わる。それは自身をよく把握しているからできることだ。そういえば麗も雰囲気を変えるのが上手かった。

(二人とも年上だから、経験が必要なのか。)

新規を含む多くの経験を経て自己分析を重ねる必要があるのだろう。…と、ここまで考えて、解はふと気付いたことがあった。

「そういえば、始音と二人だけでゆっくり話ができたのは小学生の時以来だな。」

「え?ああ、そういえばそうね。銭湯では話はしてもお客がいるから長話はできないものね。…嬉しい?私といられて。」

「始音はどうだ?」

「私?私は、そうね…解君が嬉しいなら嬉しいわ。」

教師である以上、生徒である解と二人きりになるのはなかなか難しい。そのため嬉しいに決まっているのだが、始音は返事にひとひねり加えた。否定はせず嘘は吐かず、とはいえ答えの起点はあくまで解に渡した。そして質問が戻って来た解は真面目に考えていた。

…始音が嬉しいことは良いことだと思うが、始音といると自分は嬉しいのだろうか。いや、いつもと違う場所で、二人きりだという条件も考える必要がある。年上だが始音は自分にとって初めての友人ともいえる人だ。始音も友達以上恋人未満と以前言っていたので、やはり友人だろう。そして新しいこと、経験が必要とさっき考えたばかりだ。友人とすべきことができるなら有意義かつ得るものも多いだろう。つまり…。

「始音、俺はお前といると嬉しいみたいだ。一緒にいてくれてありがとう。」

「え?ええ?」

真顔で解に言われた始音は戸惑った声を出した。一緒だと嬉しいと言われ嬉しいのは確かだが、何だか思ってたのと違う。もう少し照れるとか、笑顔を見せるとか、もう少しいい雰囲気が出ないものだろうか。

(…解君だから出なくて当然か。)

この調子ではさっき考えていたことの中には恋愛の「れ」の字もないのだろう。

「始音?どうかしたか?」

「ああ、気にしないで。あの小さな解君が大きくなって、変わったり変わらなかったりしてるんだなあとしみじみしてたの。」

「そう、か…?」

褒められているのかけなされているのか分からず、解は首を傾げていた。こういう可愛らしいところは昔と同じだった。

「ふふ。そうね、せっかく二人きりだし…。」

「…あ…。」

昔を思い出した始音はいたずら心が湧いてきて、解の隣に座り直すとその手を握った。

「どう?こうやって一緒に歩いたわね。遠慮する解君に無理矢理色々食べさせて…解君?」

「…。」

解はつながれた手を見ながらぼうっとしていた。そのせいで始音が話しかけてもすぐには反応しなかった。

「解君?おーい。」

「あ…。悪い、ぼんやりしてたな。…こうして始音が手を引いてくれたんだったな。」

「そうね。懐かしいわ。」

二人は揃って穏やかな気持ちでつながれた手を見つめた。いたずら心で始めたことだったが、始音にとってこれはこれで悪くない雰囲気だった。そんな中で解が話し始めた。

「あの時は気付いてなかったが、今思うと俺は毎日進んで始音に会いに行ってたぞ。今日は何をするだろうか、なんて思ってな。」

だとしたら嬉しい話だ。

「そ、そう?約束だったからじゃないの?」

「約束は大事だが、一番はお前に会いたかったんだと思う。始音は真と麗さん以外に初めてできた話し相手だ。それに…」

一度言葉を切って、解ははにかむように笑った。始音は想定外の場面でそんな笑顔を見せられて大変どきっとしていたが、なんとか動揺せずに続きを聞いた。

「お前の笑顔は輝いて見えた。見ていて気持ち良かったし、見ていたいと思った。あれはお前への愛情、そして他人への初めての愛情だったと思う。本当に、始音に会えて良かったと思ってるぞ。」

「あ…そう…。」

始音は頬が熱くなるのを感じながら曖昧に答えた。子供の解がそんな目で自分を見てくれていたとは思わなかった。そして解は自分の思いを「他人への初めての愛情」と言ったが、それはいわゆる初恋というものではなかろうか。愛情には友情もあるとはいえ、今の解の言い方は恋愛の感が強かった。しかも解の表情は彼自身分かってないだろうが、友情を語るものには思えなかった。つまり「実は割といい感じで両想いだったんじゃない?」と知り嬉しいやら照れるやらで悶絶している始音だった。さらに、いい年なのにこんなことで照れていることが余計恥ずかしかった。

「攻めるのはいいけど攻められるのには弱いのね…。」

「?何か言ったか?」

「いえ、何も!」

「そうか。…そうだ。いずれまた昔のように一緒に散歩でもするか?大きくなったから、今度は俺が始音をエスコートするぞ。」

「いやいや、無理だから…。」

仲良く手をつなぎながら、始音は少女のように狼狽しながら成長した解を見上げるのだった。




番外:もう一人の研究者

実兄への愛情について

 私は兄が好きだ。これは兄妹としてではなく、女として、である。もちろん妹としても兄のことは大好きだ。ここで問題となるのは、女として好きとはどういうことかだ。ただのブラコンとは違うことを明言しておきたいので、私は心理的、身体的2つの点で考えていくことにする。

 まず、心理的な面では兄の一番でありたいという点を挙げる。家族として、妹として兄の側にいるのは最初から私だけだ。兄は友人を持たないので友人としても私だけだったが、最近は兄に友人ができてしまい悔しい限りだ。だが、誰も彼もが汚く見える兄が誰かを気に入ることなどまずないので、兄の幸せを願う私としては歓迎せねばなるまい。…話が逸れてしまった。とにかく、友人としては一番でないかもしれないが仕方ない。だが恋人の席は絶対に譲らない。愛人では不足だ。私だけを見て欲しい、側にいるのは私だけがいい。この思いは妹としてではなく、女としての私の願いだろう。

 また、兄の精神的な在り方にも理由がある。先に書いたが兄は基本的に全ての人間を嫌っている。兄曰く「クソ」とのことで、それは私も、自分すらも例外ではないらしい。ただ、クソとは言うものの嫌悪の程度と評価法は兄にしか分からない。昔の漫画で人が奇怪なものに見えるという症状があったが、それに近いのかもしれない。そのためか兄には家族らしさが希薄で、他人に優しくはできても決して甘えず、表面上仲良くするだけだった。家族とも可能な限り距離を置いていた。これだけ書くと兄がただ異常者に見えてしまうが、こんな兄だから良かったと断言できる。兄が普通であれば常々一緒に生活することになり、結果私が兄に「男」を感じることはなかっただろう。また兄がもし完全な他人なら、兄のうわべしか見れない上、兄が隠し持つ優しさを知る機会もなかったはずだ。つまり、私は兄が「兄」だからこそ愛したのだといえる。

 身体的な面は当然、性的欲求である。兄に触れたい、触れられたい。具体的には手をつなぐ、抱き合う、キスする、セックスする、一つの布団で一緒に寝る、一緒にお風呂に入る、等々だ。妹なので一緒に寝たりお風呂に入ったり等そこそこはしているものの、個人的にはやはりセックスをするしないは大事だと思う。今時セックス程度当たり前にされる時代ではあるが、恋人達、夫婦におけるセックスはコミュニケーションの一つだ。セックスレスだと関係が悪くなるとも言われるのだから、やはりセックスは大切である。兄とセックスしたいなど言う妹はまずいないのだから、これは妹としての思いではない、女としての希望だと間違いなく言える。

 上記から、私が兄を女として愛しているのは疑いようのないことである。だが一般には兄に恋愛感情を抱く私は異常である。まあ、異常で何が悪いと胸を張って言えるが、やはり普通の人からは気持ち悪く見えるだろう。どうして私は異常になったのか、その詳細を記載しておく。

 始まりは当然妹と兄の関係だった。両親は私と兄を無視はしないものの放任していたので、私の話し相手・遊び相手はほとんど兄だった。狭い世界の中で、私にとって大切なものは兄だけだった。

 私が大きくなると外に友達ができていったが、それに反比例するように兄は私に関わらなくなった。兄の精神性を考えれば私の世話を好き好んでするわけがないので、兄が私から(というより家族からだが)離れていくのは当然のことだった。それでも、私に何か困ったことがあると必ず兄は助けてくれた。友人という他人を知っていく中で、兄は家族ではあるが遠くに行ってしまった人であり、尚且つ一番信頼できる人だった。

 大きな変化があったのは両親が離婚した時だ。私は元々両親が好きではなかったのだが、目の前で喧嘩をしたり兄を悪く言ったりするのでこの時完全に嫌いになった。そして祖父母に引き取られるまでの過程は大きなストレスだったことをよく覚えている。この時期の何より大事な思い出は兄が添い寝してくれたことだ。祖父母に引き取られてしばらくの間、私は祖父母に気を遣うストレス、慣れない家、両親が自分と兄を捨てたという現実に疲れてしまい、夜泣いてしまうことが多かった。そんな時、私の様子に気付いた兄は一緒の布団で寝てくれた。私の具合がひどい時には抱っこをしてくれることもあった。あそこまで兄が優しかったのは後にも先にもこの時だけである。兄は私ですら汚いクソだと思うそうだが、そんな嫌悪感に耐え優しくしてくれた。一連の出来事は兄を愛する理由の一つになっただろう。

 実際の所、いつ、どうして兄を女として好きになったのか、正確には分からない。だが、ヒトは誰かを好きになる際にいつ、なぜ好きになったかをはっきり言えるだろうか?多くは答えられないだろう。ある瞬間からいきなり心が変わることはまれだからだ。

しかし、はっきりと気付いた時のことは覚えている。それは私が10歳、兄が12歳の時だ。帰宅する私は偶然兄が女子に告白されているのを見た。兄は見た目も頭も良く表面上は性格も悪くないので告白されるのは仕方ない。だが私は非常に不快になり、兄が断るのを見て心からほっとした。それだけではただのブラコンかもしれないが、その先があった。その日の夜、私は告白の話を聞きに兄の部屋に行った。兄がどう感じたのか気になったからだが、生憎兄は珍しく既に寝ていた。私は兄と一緒に寝たくなったので布団に入り、兄の寝顔を見ていた。そして告白のことを思い出し、兄にキスしてみた。さして理由はなかった。単に恋愛話においてキスが定番だったから試しただけだ。だがその時の衝撃、ときめき、興奮、幸福感は忘れられない。あの瞬間、私は兄を愛しているんだと理解した。兄は少しして起きたがキスされたことは気付かなかったと思う。これは私だけの秘密だが、めでたく兄と恋仲になったら教えてあげようと思っている。

欧米では家族はもちろん他人とも挨拶としてキスをするので、実は兄とキスしても家族愛と誤認する可能性もあった。そうでなかったのは幸いだが、無意識に兄を女として好きだと感じていたのかもしれない。

ずいぶん長い文になったが、ここまで書いて我ながら赤裸々すぎる文章であることに気付いた。せっかく書いたが、この文章は私か兄くらいにしか見せられないようだ。

  2代目愛情研究会会長 茅野真弓

      文章をそのまま転載

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