No.5
「さあ黒条君、行くわよ。」
「ああ。」
もうすぐ夏休み。昼休みに聖と解は校長室に向かっていた。校則についてのアンケート、校則改定の希望を募った署名、それらを集計してまとめたものを校長に見せ、生徒主導で校則を改訂することに協力してもらうためだ。
「川野辺さんに随分慕われてるのね?いつか見た時よりも一層仲良しのようで。」
「そうか?よく分からないが、関係性が深まるのはいいことだな。」
聖は皮肉のつもりで言ったのだが、解には通じなかった。…解はただ鈍いというか、本当に分かってないらしい。
ここにはいないが、七海は家族との喧嘩以来聖の言う通り解に一層懐いていた。解の髪を触る頻度が増え、解にくっついて動くことが増え、時に解に甘えるようになった。七海の様子はまるで雛鳥のようで微笑ましかったが、頭を撫でられて喜ぶ様子などは周囲に若干の影響を与えていた。
「仲良くするのは勝手だけど、ちゃんとこっちにも付き合ってね?この書類ができたのはあなた達愛情研究会のお陰で、これからも頼りにさせてもらうんだから。」
「分かってる。聖の力になれるよう俺も努力する。」
「う、うん。そうね。あなたが窓口として頑張ってくれないとね。」
解の言い方に一瞬どきっとしたことを誤魔化すように聖は歩いた。ただ、まだ校長との予約時間まで少しあるので、解に世間話、とはいえ校則について聞くことにした。
「ところで黒条君、不純異性交遊って何だと思う?」
「一般には性行為、セックスのことを指すはずだ。」
「そ、そうね(やっぱり躊躇いなく言うのね…)。でも、それがないと誰も生まれてこないのに、不純っておかしいと思わない?」
「そうだな。俺は性行為が不純とは思わない。性欲は生物ならあるもので、恋愛に原則付随している。」
「その通り。じゃあ、どうして不純って言われるようになったんだと思う?」
「第一に性欲、性行為が隠すべき、恥ずべきものとして扱われるからだ。他には分別のない性行為によって性感染症、望まない妊娠が増えるから、それを防ぐためということもあるだろうな。」
解の返事は聖にとって満点の回答だった。聖は普段より幼い年相応の笑顔を見せた。
「…さすが愛情研究会の中心人物ね。一緒にいる身として鼻が高いわ。」
「当たり前のことを言っただけだ。今のは何かのテストなのか?」
「違います、校則の話。ちなみに、黒条君は彼女とか、そういう経験はあるの?」
「経験って、性行為のことか?」
「言い直さないでよ!それで、どうなの?」
「そもそも恋愛という愛情を学んでいる身だから、相手も経験もない。」
「そ、そうなんだ…。なら、」
「着いたぞ?」
「え?」
聖が気付いた時にはもう校長室の前だった。スマホを見ると時間ぴったりだ。
「時間ちょうどだ。いいか?」
解が懐中時計を見て、ノックしようと構えていた。聖は少し慌てた心を落ち着けて解に頷きを返した。
「ええ。お願い。」
「分かった。先生、失礼します。」
「どうぞ。」
解はノックして返事を聞いた後、ゆっくりとドアを開けた。聖も挨拶をしながら入った。
校長室は何の飾りもない簡素な部屋だった。机に向かっていた校長は顔を上げ、笑顔で二人を迎えた。
「こんにちは、黒条君、橘さん。今日は面白いものを見せてくれるという話でしたね。」
「はい。先生、これを。校則について生徒のアンケートと署名です。」
「ほお…。」
校長は紙を受け取ると興味深そうにぱらぱらとめくり中を確認した。聖が中身について解説した。
「愛情研究会主導で、生徒会も手伝って行ったものです。異常だと思う校則、変えて欲しい校則などを聞いています。署名は校則改定に生徒も参加すべきという意見です。」
「…はい、そうですね。それにしても、署名もアンケートも回収率が非常に高いですね。どうやったんですか?」
「俺の友人達が頑張ってくれたので、二日間でできました。」
「…それはすごい。それで、これを見せてくれたのはどうしてですか?」
「はい。生徒会は以前から校則の改善を訴えていますが、一部の先生やPTAの方々に反対され続けています。その反対する理由は理不尽なもので、到底納得できません。それに、その方々は校則がそのままでいいと言いますが、それでは何も進歩しません。今日データを見てもらったのは、先生には反対する方々の説得に協力してほしいんです。」
聖は懸命にお願いした。改訂への意気込み、大人への怒り等、聖の情念が込められた意見だった。
校長は黙って聖の話を聞いていたが、ゆっくりと口を開いた。
「確かに今の状態では生徒会が校則に意見する権限すら限定されていますね。なので、校長の私なら色々できるだろう、と。」
「はい。」
「私という権力を味方にするのは現実的ですね。でも、あなた達はその権力が理不尽に自分達を抑えるのが嫌なのでしょう?私を使うのは自分達が同じことをしていると思いませんか?それに私が協力した場合、生徒による改革とは呼べないのでは?」
「それは…。」
聖がたじろぐところを校長は静かに見ていた。そして解は興味深そうに校長を見ていた。聖には悪いが、校長の意見の方に分がある。ただ、校長は本当に反対したいのだろうか。
「現状を憂い改善しようとする気持ち、権力におもねることのない態度、そして知恵と努力を重ねた行動。どれも素晴らしいと思います。橘さんならもっと良い手が思い浮かぶ気がしますよ。それに下手に私が反対した人達を抑えると、彼等には不満が残ります。それではたとえ校則を良くしても学校環境はむしろ悪化するかもしれません。校則を改善することは大事ですが、皆が満足する学校にするのが一番大事だと思いますよ。」
「…。」
解は依然黙って様子を見ていた。聖は俯いており顔が見えなかった。悔しいのか悲しいのか、それとも…。
「先生のおっしゃる通りです。」
聖は顔を上げた。その顔には全く諦めていない、不屈の闘志があった。
「確かに通常なら先生のご指摘の通りです。けれど、まだこの学校は生徒の立場が低い状態です。ある程度対等でなければ、先生が評価して下さった気持ちも行動も低い価値でしか認められません。歴史上権利を勝ち取るには長い時間が必要ですが、私が生徒会長として働けるのはあとわずかです。時間を今だけは省略しないと何もできず終わってしまいます。先生に全て協力してほしいんじゃありません。せめて、先生やPTAの方々と私達が対等に話し合える場を設けてもらえないでしょうか?それだけでいいんです!お願いします!」
「それに、校長先生。」
聖の力説が終わるのと同時に解は口を開いた。解が話すと思ってなかったのか、聖は驚いて解を見た。解は校長を見ていて聖を見なかったが、心の中で聖に声をかけた。
(ここからは俺も手伝わせてもらうぞ。)
「校長先生は学校を改革したいはずです。暴力、いじめ、教師やPTAの横暴。俺はその全てに関わりましたが、いずれもろくなものではなかったです。ここで俺達に協力すればそれらを改善する始まりになると思います。また、聖が言ったように生徒だけで変革を行うことは現実には不可能です。俺が教師にはめられて退学になりかけたのがいい例です。あの時の透矢のように非合法すれすれの行動をすれば可能かもしれませんが、学校に迷惑になります。」
聖はぽかんとして解を見ていた。真面目なのにどこか挑戦的というか、悪っぽいというか…自分にはない雰囲気を持つ話で、思わず聞き入ってしまった。
校長は解の話も続けて聞いていたが、聞いた後しばらく黙っていた。聖も解も臨戦態勢で返事を待っていたが、返ってきたのは小さな笑い声だった。校長は肩を震わせて笑っていた。
「せ、先生?」
「いや、すみません。あまりに懐かしくてつい…。」
校長は無理矢理咳払いをして笑いを止めると、再び穏やかな笑顔になり話を続けた。
「失礼しました。そして、本当にごめんなさい。さっきまでの話はあなた達がどれくらい対応できるか試しただけなんです。」
「ええ⁉」
「すみません。あなた達のやる気と力を知りたくて。もし返答できないなら校則を変えるのも恐らくできないでしょう。それならここで諦めた方があなた達にはいいと思ったんです。」
「それなら、結果はどうでしたか?」
校長の話がかなり意外なものだったので、聖は唖然として言葉が出なかった。代わりに解が落ち着いた様子で尋ねた。解としては校長の話は驚くものではなかった。透矢が関心を持つ程の人ならこれくらいあって然るべきだと思っていた。そして校長は解に満足そうな笑顔を向けた。
「私が期待した以上です。あなた達なら十分話し合いができるでしょう。なので、私から話を通しておきます。ただ、先も言ったように私が出過ぎるのはよくないので、私は会議の開催とちょっとしたフォローしかできません。申し訳ありませんが、それで許して下さいね。」
「いえ、それだけして下さるなら十分です。ありがとうございます!」
「いえいえ。できる限り協力するので、困ったらまた相談して下さい。一緒にこの高校を良くしていきましょう。それにしても、二人ともとてもいい関係ですね。これからもお互いを大切にして下さいね。」
二人の門出を祝う親のような校長の態度に聖は顔を赤らめて反論した。
「せ、先生、何か誤解してませんか?私達はそういうのじゃありません。」
「え?違うんですか?話の区分けや息の合わせ方がとてもよかったので、てっきり…。」
「違うんです。ほら、黒条君も言ってよ。」
「…?『そういうの』とはどういう意味なんだ?」
「…はあ。」「ふふ。」
解の言葉を聞いて聖と校長はそれぞれ別の顔をした。聖は自分だけ動揺しているので不満げな顔、校長は懐かしいものを見るような顔だった。二人の顔を見た解は今の質問の答えより、校長の様子の方が気になった。
本来の用事は成功に終わった。そのため解は先程からの校長の不思議な態度と真との関係を尋ねることにした。。
「校長先生。透矢から聞いたんですが、校長先生は黒条真と同級生だったんですか?」
「はい。懐かしいですね。真君は違ったでしょうが、私は彼を友人だと思っていました。とても特殊な考え方をする人でしたが、その在り方をある意味で尊敬していました。教師になったのは彼の影響ですしね。」
解は校長の話を聞いてかなり意外だった。高校時代の真が起こした事件を聞いていたので否定的な言葉が出ると思っていたが、校長から出たのはかなり好意的な言葉だった。校長から見た真はどんな人間だったのだろう。
「…高校の時、真はどんな学生だったんですか?」
「黒条君のような感じです。厳密には真君の方が感情のない、彼風に言えば愛情を持たない虚無的な感じでしたが、本当によく似ています。初めて会った時、少し驚いたくらいですよ。さすが親子ですね。」
「あ、俺は真の実の子供じゃありません。義理の子供です。」
「え?ああ、すみません。勘違いしてしまいましたね。けれど、義理だろうと黒条君と真君は親子ですよ。少なくとも私は一目見てそう思いました。」
解は自分が真と似ているとは思っていないが、真の強さを目標にしていた。そのため真に似ていると言われると少し誇らしい気持ちになった。
ところで、聖は何の話か分からないままずっともやもやしていた。どうも解の家族について話をしているようだが、その人が変わっていることくらいしか分からなかった。義理の親子のくだりは少し気になったが、他人が興味本位で聞いていい話ではない。しかし、解も色々苦労していることは理解した。…それでも、いい加減蚊帳の外は嫌だった。
「黒条君、そろそろお暇するわよ。これ以上は迷惑になるわ。」
解としてはもう少し真のことを聞きたかったのだが、聖の言うことももっともだった。校長も聖の言葉に頷いた。
「そうですね。もっとお話ししたいところですが、橘さんが暇でしょうし今日は止めましょう。」
「あ…。」
解が改めて聖を見ると、聖は少し不満そうな顔だった。今頃気付いたの?とでも言いたげだ。解は話に気を取られて聖を無視していたことを反省した。
「…悪かった。関係ない話をして。」
「大丈夫よ。今分かったけど、黒条君は先生と今の話をしたくて一緒に来たのね。」
「最初はな。今は力になると言った以上、聖を手伝うのが一番のつもりだ。」
「そ、そう?」
解の真面目な返事に聖は少し嬉しくなった。一方、校長は笑顔で二人に声をかけた。
「ほら二人とも、そろそろ戻らないと遅くなってますよ?」
「あ、本当。今日はありがとうございました、先生。失礼します。」
「失礼します。また真の話を教えて下さい。」
校長の穏やかな笑顔に見送られ、解と聖はそれぞれの教室に急いだ。
昼休みに解がどこで誰と何をしようと、愛情研究会は変わらない。今日も顧問含めた同好会員全員で集まっていた。
「今日のテーマを考えた人、いる?」
瀬奈が全員を見回すと七海が手を上げた。
「七海ちゃんが、なんて珍しいね。どうぞ。」
「はい!昨日少女漫画を見ててふと思ったんですが、恋と愛は何が違うんですか?」
「あー、それ結構話とかで出て来るやつよね?七海ちゃん、自分で調べたの~?うりうり。」
「ちゃんと調べましたよー、始音先生。恋は一人でもできる、愛は二人以上でする。他にもいくつか書いてましたけど、なんだかしっくりこなくて…。」
七海がうーんと首をひねる様子を眺めつつ、透矢は七海の話に乗ることにした。最近では珍しい、ゆっくりした放課後なので、のんびりメンバーを観察すると決めた。
「一般的な話を超えて考えたいってことか。なかなか面白いじゃないか。じゃあ、恋は独りよがりなもの、愛は相手に押しつけるもの、なんてどうだ?」
「棘があり過ぎるな。」
批判ではないが、解がものすごく冷静に指摘した。言った透矢はにやにやしつつ答えた。
「せっかくなら面白い意見があった方がいいだろ?考察に幅が出る。」
「全く…。茅野君の意見は置いておいて、恋は理想、愛は現実、なんてどう?恋に恋するとかいうでしょ?愛は恋人とか夫婦とか、現実的なことが出てくるし。」
「霧谷の意見も十分棘だらけだな。」
「…(無言で頷く解)。」
「え⁉」
しばらくわいわいと皆で言い合っていたが、七海が再び手を上げた。
「はい!恋と愛って、そもそも違わないと駄目なんでしょうか?恋して愛するんだったら、愛は恋とほとんど同じだとか、何かが足されただけとかかもしれないです。」
七海の思いつきは悪くないもので、解もそうかもしれないと思った。そして透矢はそんな七海の言葉に再び乗った。
「そういえばそうかもな。誰かに恋した結果愛するんだからな。なら、恋が成功体験で進化したのが愛か?」
「次はゲームみたいなノリで来たわね。対比しても付け加えてもいいけど、今の話だと恋が何かは決めないと駄目ね。解君、どう?」
始音は簡単にまとめると話を解に振った。解は途中からずっと黙ったまま考え中の構えをとっていたので、始音としてはそろそろ何か考えがまとまっただろうと予想していた。そして案の定、解は振られても慌てずに口を開いた。
「そうだな。恋は相手をよく知らなくても、相手が当人を全く知らなくても発生する。そして感情と同じく強弱があり、性愛の有無はどちらでもよい。そして全員の話を鑑みると恋は『特定の相手に対する一方向の情動的な好意』といったところか。」
「「「「…。」」」」
解が意見を出したのだが、反応が乏しかった。透矢は相変わらずにやにや笑っていたのだが、女性陣は少し困ったような笑顔だった。
「…?どうしたんだ?何か変だったか?」
「いや、上手くまとめてはいるな。いるんだが、あんまり面白くないんだよな。」
「…面白さがいるのか?」
皮肉ではなく純粋な気持ちからの質問だった。解は全員の話をちゃんと聞いていたが、いつも以上に面白い・興味深い答えが求められていたことに気付いていなかった。鈍い解の前で始音や瀬奈、七海までが求められているものについて話を始めた。
「恋なんだからどきどきが欲しいわよね~。」
「情動的と言ったぞ。」
「もっとこう、若々しい感じが欲しいかな。」
「若々しい…?」
「私はロマンチックな方がいいと思うんですけど、さっきのお話も先輩らしくっていいと思います!」
「…難しいな。」
周りは恋や愛に関するニュアンスを理解しているのに、自分にはできない。どうして当たり前のことができないのだろうか。それは怒りでも悲しみでも嘲りでもない、純粋な疑問だった。そして解は真のことも考えた。真は理解できないことにどう折り合いをつけたのか。なぜ最期まで疑問の答えを探すことができたのだろうか。はたして自分は真のように理解できないままでも強くいられるだろうか…。
「………。」
解以外が話を続ける中、解は俯いてじっとしていた。本当に、ほとんど動かなかった。
「おい、ちょっと静かにしろ。」
解を見ていた透矢が急に小さな声で言ったので、話していた全員が静かになった。すると、小さな寝息が聞こえてきた。解のものだった。
「え?解君、寝ちゃったの…?」
「人前で居眠りなんて初めてね…。」
「そうですね…。」
瀬奈、始音、七海の三人は興味津々な様子で解を見ていた。透矢は瀬奈達を笑いながら注意した。
「いくら寝顔を見たくても疲れてるんだから寝かせてやれよ。日々の生活があって、生徒会のこと、進路のこと、おまけに川野辺とのことだ。疲労が重なったんだろ。」
「茅野先輩、知ってるんですか⁉」
「いや、知らない。さすがに友人の私生活を暴き立てる趣味はないぞ。ただ最近ますます解に懐いてるし、何かあったんだろ?」
透矢、瀬奈、始音の視線が七海に集中した。全員が何かあったことには気付いていて気になっていた。視線に負けた七海は照れ笑いを浮かべて話し始めた。
「実はこの前両親と喧嘩してしまって、先輩が助けてくれたんです。お陰で仲直りできました。」
「そういう事だったんだ。だから…。」
その時、解がぴくりと動いた。瀬奈は言葉を飲み込み恐る恐る解を見た。声が大きかったかと心配したが、解に起きる素振りはなかった。瀬奈はほっとしながらさっきよりも小声で言った。
「解君も疲れることがあるんだね。なら、寝かせてあげる?」
「そうね。結構しっかり寝てるみたいだし、ゆっくりさせてあげましょう。」
「でもあのままでいいんですか?横になってもらった方がいいかも…。」
七海が心配そうに解を見た。自分のせいで解が疲れていると思うと申し訳なかった。責任を感じて暗くなった七海に瀬奈が優しく声をかけた。
「電車でもあんな体勢で居眠りするんだし、心配しなくていいと思うよ。のんびり待ってようよ。でも、これからどうする?うるさくはできないし…。」
「だったら部屋の隅でこぢんまりと活動するか。解抜きでさっきの恋と愛の違いをまとめていたら、解が起きた時に褒めてくれるんじゃないか?」
「おお、賛成です!」
「それが一番いいね。解君の様子も見れるし、私達も暇じゃなくなるし。」
全員の意見を聞いて始音がまとめに入った。
「よし、じゃああっちで、小声で活動を続けましょうか。帰る時間になってもし解君が起きてなかったら、かわいそうだけど起こしましょう。皆OK?」
全員が頷き、解を起こさないよう部屋の隅に静かに移動したのだった。
いつの間にか寝ていた解は、いつの間にか目を覚ました。気付いた所は同好会室で、
部屋には誰もいなかった。広くもない部屋の中、いるのは一人自分だけだった。
「寝てたのか…。」
透矢達は帰ったのだろうか。帰る前に起こしそうなものだが…。若干疑問に思いながら解は立ち上がり、鞄を持って出口に向かった。戸に指をかけて開く、予定だったが戸は開かなかった。
(開かない?)
外側から鍵がかけられたのか、指に力を込めても戸は開かなかった。しかしその時、ふと戸の小窓からちらりと人影が見えた。外に誰かいれば楽に出られるかもしれない。そう考えた解は目を凝らして外を見た。
外にいたのは透矢達だった。解以外の全員が集まり何か話しているようだ。残念だが少し距離があるので解の声は届きそうになかった。
(気付かずに行ってしまうな。…、…?)
解は背中に寒いものを感じて、ゆっくりと振り返った。がらんどうの部屋には解一人。出られもしないこの状況は母親に置いていかれた時の再現のようだ。背中の悪寒は一層ひどくなり、解は寒気のために、また自分を確かめるように自分の腕を掴んだ。細い。ぎょっとして自分の両手を見た。
解の両手は五才児の大きさそのものだった。気付けば解は置き去りにされた時の子供姿に、同好会室は当時の部屋に変わっていた。
「…!」
解は目を覚ました。全身汗だくだった。目覚めた時俯いていたので、まだ身じろぎもせず床を見続けていた。顔を起こして状況を確認する必要があるが、顔を上げた時夢と同じだったらと思うと動けなかった。だが、このままでずっといるわけにはいかなかった。
(…。)
解は恐怖に耐え、全身に力を込めた。金縛りのように動かなかった体に少しずつ主導権が戻ってきた。ゆっくり、本当にゆっくりと解は顔を上げた。
目の前にはがらんとした部屋。閉じた戸。遠くに見える友人達。夢と似た光景にぞっとした解の脳内にかつての光景がフラッシュバックした。
夜に自分を置いて出て行く母親。
自分に無関心な母親の目。
出て行く母親の最後の後ろ姿。
閉まっていく家のドア。
ものが散乱した狭く汚い部屋。
記憶の一画面一画面が解の頭で乱雑に暴れていた。自分が見ているのは夢なのか現実なのか、過去なのか今なのか。混乱した解は頭痛と恐怖、狂気に飲み込まれ叫び声を上げた。
「わあああぁぁ!!!」
同好会室の端にいた瀬奈、透矢、七海、始音は突如響いた絶叫に飛び上がった。
「何だっ⁉」「きゃああ!」
「っ!」「何⁉」
全員がすぐに音の主、解を見た。すでに解は椅子から崩れ落ち、床で丸くなりながら頭を抱えて叫んでいた。
「あ、ああぁぁ!」
解はまるでおかしくなったかのように叫びながら体を震わせていた。そのあまりの様子に全員が一瞬動けなかった。しかし、その中で透矢が一番に動いた。
「おい、解!どうした⁉」
体を揺らしても反応はなかった。若干動かした程度では叫ぶことすら止まらなかった。透矢に遅れ、瀬奈達も解の周りに集まった。
「先輩!大丈夫ですか⁉」
「あああ、ああああぁぁ!」
「反応なしね。」
「そんな呑気にしてる場合じゃないですよ⁉こんなに苦しんでるのに!」
「分かってるわよ!だから冷静に考えてるんでしょ!救急車?でも…。」
解が全力で叫んでいるため周囲も大声で話さないといけなかった。そんな混乱した場でも冷静さを保ち考える始音の頭に解の言葉が思い出された。
『パニック障害みたいなものだ。急に苦しくなって動けなくなる。』
…こういうこと、なの?疑問はあったが始音は全員を見回して指示した。
「ちょっと、誰か解君の家族、麗さんって人に連絡できる⁉」
「私できます!」
「じゃあ七海ちゃん電話して私に代わって!茅野君は外で野次馬を遠ざけて!瀬奈ちゃんは解君に声をかけてて!」
「はいよ!」「はい!」「分かりました!」
始音の指示に従い、透矢は走って部屋から出て行き、七海はすぐにスマホを取り出し、瀬奈は解の側についた。電話はすぐにつながったようで、七海はまず麗と少し話をしてから始音にスマホを渡した。
「もしもし、担任の堤です!あの、」
「解君ですよね?救急車を呼んで精神科中央病院に向かって下さい。解君はそこに通院しています。私は今からそっちに行きますね。声はじきに終わるので心配しないで下さい。ただ誰かが寄り添ってあげた方が落ち着きやすいです。大変だと思いますがよろしくお願いします。」
「は、はい!あの…!」
電話はすでに切れていた。弾丸のように指示されたので呆気にとられたが、すべきことは分かった。
「瀬奈ちゃん!どう?」
始音は七海にスマホを返しながら解の横で片膝をついた。解の両脇に瀬奈と始音が座った形だ。
「あ、あ、あああああ、ああぁぁ!」
解はまだ叫んでいるが、声量は麗の言う通り少し弱まってきていた。お陰で普通の音量でもなんとか会話ができた。始音はうずくまる解の背中をとんとんと叩きながら自分のスマホを取り出した。
「何してるんですか?」
「麗さんにしろって言われたの。私119番に電話するから、瀬奈ちゃんが代わりにしてあげて。」
「わ、分かりました!」
始音はその場で119番に連絡して、瀬奈は始音の代わりに解の背中をぽんぽんと叩いた。子供を寝かしつける時を想像していた。そのお陰か解の叫びは徐々に弱まり、今は呻き声のようになっていた。
「あ、あああ、あああぁぁ。」
それでもまだゾンビのような声だったので、安心するには程遠い状態だった。
始音が119番電話を終えると、突然七海のスマホが鳴り、七海が慌ててスマホを取り出した。
「あ、麗さんからです!ちょっと出てきますね!」
七海は小走りに部屋から出て行った。七海が出て行くと始音はあっとした顔で立ち上がった。
「そうだ、救急隊を案内しないと。私が出てくるから、瀬奈ちゃんはそのまま解君をお願い。」
「は、はい。」
始音も小走りで部屋を出て行き、部屋にいるのは解と瀬奈だけになった。解は相変わらず苦しそうにうめき声を上げていた。
「解君、大丈夫?聞こえる?」
「あ、ああ、ああ…。」
瀬奈は解の背中をさすりながら声をかけた。しかし解から明確な反応はなかった。
(私だけ何にもできてないな…。)
七海も透矢も始音もできることをしているのに、見ていることしかできない。瀬奈は無力感に苛まれながらも解の背中をさすり、声をかけ続けるしかなかった。
少しして、瀬奈の耳に外からの話し声が聞こえた。何だろうと思ったその時、いきなり戸が開いた。
「解君!」
麗だった。麗は解に駆け寄ると解を抱き起こし、胸の位置で抱きしめた。
「解君、大丈夫よ。置いていかないからね。大丈夫…。」
「麗さん速いです、って、あ…。」
七海が息を切らせて戻ってきたが、麗と解の姿を見て声が止まった。思わず口に手を当てていたが、瀬奈も似たような思いだった。全く躊躇いのない麗の行動は解への責任感と愛情、そして二人の絆を証明していた。
「ああ、あ、あぁ…。」
解の呻き声がかなり収まってきた。ずっと麗は落ち着いた笑顔で話しかけながら解の頭と背中を優しく叩き続けていた。解が落ち着いてくると、次に麗は解を抱きながら瀬奈と七海に笑顔を向けた。
「瀬奈ちゃん、七海ちゃん。解君に色々してくれてありがとう。すぐに話ができなくてごめんなさい。」
「い、いえ、そんな…。」
「びっくりしたでしょう?でも心配しないでね、命に関わるものじゃないからね。」
「先輩、大丈夫なんですか?」
「ええ。苦しかっただろうけど、今は少し落ち着いてきているから。」
麗は動揺している瀬奈と七海を落ち着かせながら、なおかつ解をしっかりと抱き締め背中と頭を優しく叩くことも続けていた。麗のお陰で解も大分落ち着き、声も大して聞こえないくらいになった。瀬奈も七海も初めて麗の本気を見て、そのすごさを実感してた。
「おい、救急隊がきたぞ。声が落ち着いたからましになったのか?」
透矢ががらりと戸を開け中に声をかけた。廊下の奥に救急隊と案内する始音が見えた。
救急隊にまず始音が事情を説明し、その後麗が精神科に通院していることを説明した。
「じゃあ運びますので、離れて下さい。」
「…。」
瀬奈達全員が心配する中、救急隊は解をストレッチャーに乗せ固定し、救急車まで移動した。解は特に問題なく運ばれていたが、いざ車に乗る時になり再度暴れ出した。
「あ、ああ、ああああぁ!」
ベルトで動けないがその分暴れる衝撃がストレッチャー全体に伝わり救急隊が慌てていた。
「解君!」
救急隊は何とか解を抑え救急車に入れた。次に麗が救急車に乗り込み、解の横に座り手を握った。車の後ろを閉めようとする救急隊の一人に始音が声をかけた。
「あの!私達は乗れませんか?」
救急隊は始音と後ろにいる瀬奈達を見て首を振った。
「大人数は難しいですし、基本同伴するのは家族だけです。すいません。」
救急隊はそれだけ言って車の後ろを閉めた。閉まる直前、麗は始音たちを見て何か言いながら頭を下げた。閉まりを確認した救急隊はさっさと車に乗り込み、救急車は行ってしまった。
「行っちゃった…。」
「うん…。」
「…。」
複雑な表情をする一同。そこに透矢の声が響いた。
「おい、見せ物じゃないぞ!写真撮ってた奴はスマホ叩き壊してやるから名前教えろよー⁉」
透矢が凄みながら野次馬に向かって歩くので、野次馬はあっという間に散っていった。
「ちっ。壊さない代わりに中身を見るつもりだったんだが。まあ、顔は覚えてるしいいか。」
透矢は物騒なことを言いながら瀬奈達に近づいてきた。まだ事態が急でやや呆けている女性陣に声をかけた。
「あっちは麗さんがいるから大丈夫だろ。とりあえず部屋に戻らないか?」
「うん、そうだね。」
透矢はいつもと同じ調子で話し、歩いていった。瀬奈、七海、始音は何となく顔を見合わせた後、言葉少なに透矢を追いかけた。
解以外の全員が同好会室にいたが、とても何かする気分にはならなかった。
「先輩、大丈夫でしょうか…?」
不安そうな七海に瀬奈が笑いかけた。
「大丈夫。明日になったらまた会えるよ。それに、麗さんからまた連絡するってメールもあったんだしね。」
「精神科の病気での発作みたいだから、入院にはならないんじゃないか?」
「そうね。本人はパニック障害みたいとか前に言ってたけど。」
「パニック障害か。名前しか知りませんけど、それっぽくはありますね。とはいえ、実際のところは何とも、ねえ…。」
「…随分含みを持たせてるけど、何か思うところでもあるの、茅野君?」
始音に聞かれた透矢は珍しく無表情な顔で一同を見回した。解の過去について話すなら、いい加減な態度では話せなかった。
「いや、解も大変だなと思っただけですよ。実の両親はいない、育ての親は死んだ。麗さんは家族といっても他人だ。」
「…。」
「最近はましになったが、見た目や態度で偏見を持たれてたよな。小中学校の時から似たようなものだったらしい。」
「…いない人の個人情報を喋るのはよくないと思うよ。止めなよ。」
透矢のことだから今話していることにはちゃんと意味があるのだろう。しかし、ついさっき苦しむ解を見て、しかも何もできなかった。そう感じる瀬奈は透矢の話を聞く気にならなかった。
「まあ聞けって。…バイトも家事も学業も相当できて喧嘩も強い。今は周囲からの評価も悪くない。それでも自己評価は低いまま。どうしてなのか、少しは考えたことあるだろ?」
透矢は笑った。それはいつもの余裕のあるにやり笑いではなく、冷たい棘と影のある笑いだった。
「俺は人間観察が趣味だろ?だから愛情研究会全員に対しても色々見ては考えるんだが、解は特に複雑だ。今も本当の名前すら知らないしな。」
「茅野先輩、名前って何のことですか?誰の名前ですか?」
七海は頭にはてなマークを浮かべていた。瀬奈も始音も同様に分かっていないようだ。
「やれやれ、誰も覚えてないか。解が一度言ったんだ、『解』は真が名付けたってな。5才で引き取った子供に普通名前はつけない。何かしら変える理由があって、そして前の名前があったってことだ。」
「聞き間違いじゃないの?」
「そうかもな。とにかく、俺が言いたいのは相手のことなんてほとんど分からないってことだ。多少分かるようになるのは責任と覚悟を持った時だけだ。さっきの麗さん然りな。」
言いながら透矢は立ち上がり自分の鞄と解の鞄を持った。
「今日は解散だ。やっぱり解がいないと盛り上がりに欠けるな。ついでに今日のレポートは俺が書いておくからな。恋と愛の違いももう一つ浮かんだことだし。」
「まだそれ考えてたの?」
「ああ。今考えたことは、愛には責任が伴うってことだ。恋は告白を含め何かしてもいい、しなくてもいい。一方で愛は果たすべき役割があって責任と覚悟がいる。それがなければ浮気や離婚といった問題が起きるか、そもそも愛じゃない遊び、ままごとだったといえる。…どうだ?恋は責任と覚悟を持つことで愛に変わる。なかなかいい表現だろ?」
そう瀬奈達に投げかけて透矢は帰っていった。
「…。」
目が覚めた解は頭が重たくぼんやりとしていた。睡眠導入剤を多量服薬するとこのような感じだろうか。
「解君?起きた?」
近くから麗の声が聞こえた。解は状況を確認するため周囲を見回した。どうやらベッドに寝ているようだ。壁やカーテンが白く天井がやや高い。恐らく病院にいるのだろう。麗は隣に座り右手を握ってくれていた。左前腕からはラインが取られ点滴が入っていた。まとめると「何かあった自分は病院に運ばれ点滴を受けた、麗は付き添いで一緒にいる」、こんなところだろう。
「ここは?」
「精神科中央病院よ。学校で発作が出たから救急車で運ばれて、薬で今まで寝てたの。」
「…ああ、そんな感じだった。」
解は直前のことを思い出した。愛情研究会で話していたら、いつの間にか寝てしまい、その後夢を見たのだった。悪夢だったと思うが、思い出すとまた調子が悪くなりそうなので止めた。
「解君は起きましたか?」
声がした後にカーテンを開けて60歳前後、白衣姿の男性が一人で入ってきた。男性は解を良く知っているようで、笑顔で解に話しかけた。
「ああ、起きたんですね。解君、今日は大変でしたね。今大丈夫ですか?」
「はい。もう大丈夫です。」
解は半身を起こして返事をした。
男性は竹凪、精神科医だ。解とは5歳の頃からの付き合いで、それどころか幼い頃の真すら知っている人だった。つい4か月前にも解は外来を受診していた。
「今回は叫んで反応もなかったようですから、かなり激しかったみたいですね。覚えてますか?」
「…いえ、悪夢をみたくらいしか覚えていません。」
「ふむ。前の受診で聞いたのはなりかけも合わせて二回で、そこからの約四ヶ月で三回、ですか。症状も増悪していますし、やはり定期内服を再開しましょう。」
「…わかりました。迷惑をかけてすみませんでした。」
「いえ、迷惑ではないので心配せず。ところで、解君は最近ストレスになることはありませんか?」
「え…と、特には。」
「違うでしょ。喧嘩したり、退学にされそうになったり。色々あるでしょ。」
「…そうだった。」
解の言葉に麗が口を尖らせて文句を言った。何度も解の外来には一緒に来ているが、解はいつも「特にない」とか「別に」と言うのだ。竹凪医師は二人のやり取りを笑顔で見守りながら質問を変えた。
「なら、生活に何か変化はありましたか?」
「…あの、初めて友人ができました。」
「ほう、解君がですか?それは良いことですね。それで、友達と何かしていますか?部活動とか。」
「はい。同好会をしたり、生徒会を手伝ったりしてます。…四月から、本当に新しいことばかりです。」
「そうですか。…新しいことをするのはいいことですが、それが逆に負担なのかもしれませんね。」
「と、いうと?」
負担という言葉に解よりも先に麗が反応した。解はいつも通りの無表情だが、麗は心配そうな顔だ。竹凪医師は落ち着いた笑顔で説明を始めた。
「自分にとって良いこともストレスになるんですよ。大学に合格して引っ越しをしたけれど、円形脱毛症になった、とかです。解君は今まで良くも悪くも刺激が少ない生活だった。その中で友達ができたのはとてもいいことですが、刺激が増えたことでストレスも増えてフラッシュバックが起きやすくなっているのでしょう。」
「なら、どうすれば発作が落ち着きますか?」
「これ以上ストレスを増やさないことです。友人がいる生活に慣れればストレスは減るでしょうから、焦らず行きましょう。友人と距離をとるのは病状が悪化する原因になり得るので止めましょう。今の生活に波を立てずに過ごし、安定するまでは薬で対応するのがいいでしょうね。」
「分かりました。」
竹凪医師の説明を聞いた解は静かに頷いた。要は新たに疲れるようなことをせず、薬を飲めということだ。分かりやすくて助かった。簡単な指導に解はほっとしていた。
「お願いします。…それにしても、解君が友人を持つなんて、感慨深いですね。」
竹凪医師は孫を見るような目をしながらしみじみと言った。実際、真も解もずっと診てきたのだからある意味孫のようなものだった。
「真君が生きていればどれだけ喜ぶか…いや、喜びはしませんか。でも、評価はしてくれるでしょうね。」
「…そう、かもしれません。」
友情も愛情の一つだ。今の解を真が見れば成長したと評価するかもしれない。しかし、真が解を評価することはもう永遠にない。竹凪医師も少し感傷的になっていたのか、気持ちを切り替えるように少し首を振った。
「…治療と関係ない話をしましたね、失礼しました。鎮静剤も使ったので一泊だけ入院して下さい。明日は朝早めに来ますので、そこで問題なければ退院しましょう。では失礼します。」
丁寧に頭を下げ竹凪医師はベッドから去っていった。
翌日の3時限目の途中、解は教室に向かう廊下を歩いていた。朝の診察は当然のように問題なく退院となったが、それですぐに帰れるわけではない。救急外来や入院中に行った処置をまとめ、その費用の計算、入退院に書いた書類の確認、退院時処方や次回外来の予約表などを渡すなど、結構することがあるらしい(解は裏方の話も真から教わった)。ということで、いざ病院を出る時は10時頃だった。しかも勉強道具は麗が持って帰ってしまったので一度家に帰るしかなかった。そうして高校に着いたのが今の時間になったのだった。
解が体のだるさを自覚しながら歩いていると、他のクラスが使う教室から教師の声が聞こえてきた。日常に戻っていることを実感しながら自分の教室の前まで来たが、そこで解の解は一度止まった。
気になるのは周囲の反応だ。放課後とはいえ救急車が来れば噂になっただろう。自分が叫び声を上げたなら尚更だ。小さな頃から受けてきたように、今回も悪意ある視線、言葉が自分に向くかもしれない。降りかかる火の粉は自ら払いのけろと真に教えられ、実際そのようにしてきた解だが、今はその悪意に忌避感を覚えていた。以前は実害がなければ無視、実害があれば実力で排除するだけで悪意そのものは気にならなかったのが、いつしか降りかからない火の粉を見ることも嫌になったようだ。
(これは俺が成長したということなのか、弱くなったということなのか…。)
解が自分の変化に悩んでいると、授業が終わるチャイムが鳴ってしまった。あ、と解が思っている目の前で戸が開き、教師と鉢合わせしてしまった。
「黒条?今来たのか。悪いが出席にはできないからな。まあ課題とかはないから安心しろ、はっはっは。」
教師はそう言って去っていった。解は教師があまりに普通の対応をしたのでその場でぼんやりしていたが、いきなり背中から衝撃を受けて現実に戻ってきた。
「やっぱり来れたな。どうだ?調子は。」
透矢が解の背中を叩き挨拶した。解は一瞬何を言うべきか迷ったが、解が口を開く前に透矢が続けて声をかけた。
「ほら、まずは教室に入れよ。別に誰も取って食いやしないぞ。」
「ああ。」
解が教室に入るとクラスメイトが普段通りに挨拶してきた。良くない想像をしていた解は内心戸惑いながら挨拶を返し、自分の椅子に座った。瀬奈の方をちらりと見ると、瀬奈はクラスの女子達と談笑していた。教室内の様子がいつもと同じだったことに解は不思議なほど安心していた。
「な?特に何もないだろ?」
「ああ。…もしかして、透矢が?」
「多少な。お、来るみたいだな。」
透矢はそれだけ言って隣に座った。解が透矢の視線をたどると、瀬奈が立ち上がるところだった。瀬奈は友人達と少し話した後、解の所に来た。
「解君、今日は大丈夫なの?昨日はあんなに苦しそうだったけど。」
瀬奈は本当に心配そうだった。そこには何の悪意も感じられなかった。
「もう大丈夫だ。心配かけて悪かったな。」
「いや、悪くなんてないけど…。何かあったら我慢せず言ってね?」
「そうだぞ。せっかく霧谷が冷やかされても話しに来たんだからな。」
「聞こえてたの⁉」
「いや?読唇術と雰囲気で分かっただけだ。」
そんな話をしていると入り口から大きな声が聞こえてきた。
「先輩!」
声を出したのは七海だった。3,4時限目間の休憩時間なのに来たらしい。七海は解を見つけると駆け寄ってきた。
「先輩、大丈夫ですか?しんどくないですか?」
「ああ、今は大丈夫だ。」
七海は安心したようにふんわり笑った。解の言葉を疑うことなく信じているようだ。七海も純粋に解を心配していた。
「良かった。心配だったんですけど、麗さんに聞くのも邪魔かなと思って電話できなかったんです。一応『大丈夫』ってメールは来てたんですけど。」
「心配かけたな。ありがとう。それにしても、こんな中途半端な時間によく来たな。」
「えへへ。虫の知らせというか、女の勘です!自分でもびっくりしました!」
そして七海は何故か頭を解の方に傾けてきた。撫でてほしいのだろうか?試しに解が頭を撫でると七海は嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。それを見ていた瀬奈はじとっとした目で解を睨んだ。
「ちょっと。私の時と態度が違くない?」
「いや、そんなことはないぞ。」
「なら霧谷も撫でてもらえよ。そしたら同じだろ。」
「え。」
瀬奈は解を見て、目が合った。解は首を傾げて瀬奈を見ていた。すればいいのか?と言いたげだ。瀬奈は目を閉じて顔をしかめながら答えた。
「同級生に頭を撫でられも嬉しくないから。私、子供じゃないし…。」
「ぼそぼそぼそ…。」
「分かった。」
瀬奈が目を閉じている間、透矢は解に耳打ちしていた。透矢に何か吹き込まれた解は一人頷いて瀬奈に手を伸ばした。
なでなで。
解がおもむろに瀬奈の頭を撫でた。それを見た生徒はそれぞれに騒いでいた。瀬奈は呆気に取られて動けなかった。解の手は大きくて優しい、まるで父親のような手だった。なんだか胸がくすぐったくなるような、割といい気持ちだ。そんな瀬奈の感想を分かるはずもない解は撫でるのを止めると瀬奈の髪を一房手に取った。周囲はさらに盛り上がった。
「…前から思ってたんだが、柔らかくてきらきらしてる。綺麗な髪だな。」
解の素直過ぎる言葉を聞いて瀬奈の顔は火が付いたように赤くなった。慌てて解の手を払いのけて怒り出した。
「こ、こら!了解も得ずに女性の頭や髪を触らないの!失礼だよ⁉」
「そう、なのか?なら悪かった。…ごめんなさい。」
瀬奈が照れ隠しとはいえかなりの剣幕だったので、解は素直に二度瀬奈に謝った。しかし、謝った後に透矢を怪訝そうに見て言った。
「…うまくいかなかったぞ。」
「大丈夫だ、超うまくいったぞ。なあ川野辺?」
「漫画のワンシーンみたいでした…!」
「七海ちゃん!」
「す、すいませんでした!」
「ほらほら、二人とも止めなさい。」
不意に怒る瀬奈と謝る七海をたしなめる声が後ろから聞こえ、それぞれが振り返った。
「始音先生⁉いつの間に…。」
「あ。始音先生、こんにちは。」
後ろにいたのは先生モードの始音だった。少し早めに教室に来たらしい。
「川野辺さん。元気なのはいいけど、そろそろ教室に戻らないと間に合わないわよ?」
「え?本当だ!じゃあ先輩、またお昼休みに!」
走っていく七海を見送った後、始音は解を上から下まで眺めてから尋ねた。
「黒条君、昨日は大変だったけど、体はもういいの?」
「あ、はい。問題ありません。」
「良かった。でも昨日の今日だから、なるべく誰かと一緒にいて、体調に変化があったら必ず伝えるようにね。」
「はい。ありがとうございます。」
先生らしく振る舞う始音は解に笑顔で応えて教壇に向かった。教師然とする様は猫被りなのだが、その笑顔に裏は感じ取れなかった。単純に解が元気だったことが嬉しい、そんな笑顔だった。
解の日常はこうして再開した。透矢達は昨日の出来事がなかったかのようにいつも通りだった。全員、解の発作を見たはずだ。それでも解を心配はしても気味が悪いとは思わなかった。解の病気を見て見ぬ振りはせず、一方で解がいつも通り過ごせるようにいつも通りでいてくれる。そんな友人達に解は心から感謝していたが、同時に胸の痛みも感じていた。
学校で発作が起きたせいで、透矢達には迷惑をかけた。彼等は迷惑とは言わないが、負担をかけたのは間違いない。そして、いきなり叫んで錯乱する人間を普通だとは思わないだろう。気持ち悪いと思われても仕方がない、そう思っていた。
しかし現実は違った。透矢達は解を気持ち悪くもおかしな奴だとも見なかった。周りの生徒すらそんなことはなかった。自分が否定的に見られるのではという考えは解の自己防衛と猜疑心から来たものでしかなかった。友人達を疑ってしまったこと、その友人達の優しさに触れてようやく自分の心を理解したことが申し訳なかった。しかし、胸の痛みは解が忘れてはいけないものだ。この痛みを成長の糧としよう、しなければならない、そう解は決めたのだった。
「かっぽーん、って音がどっかから聞こえるイメージが銭湯にはないか?」
「何の音だ?桶が床に落ちる音か?」
「いや、ただのイメージだ。映画やアニメのな。まあどっちもまず見ないけどな。」
「俺もだ。」
解と透矢は放課後一緒に銭湯に来ていた。正確には今日は解が病み上がりのため愛情研究会の活動がなかったので、一直線に銭湯に向かった解に透矢がついてきたのだった。ちなみに女性陣はいない。解は拒否しなかったが大勢で押しかけるのもどうか、という話になったためだ。
「前に入った時も思ったんだが、男二人だと色気がないな。」
「なら全員で来れば良かったんじゃないか?」
「女は男湯に来ないだろ。それに俺もお前も色気を求めてない。…で、早速だが、昨日のは何だったんだ?」
男湯にいるのは解と透矢だけで、話をする分には都合が良かった。そもそも病気の話をするために透矢は銭湯に来たのだった。
「…先に聞くが、気味悪くなかったか?」
解の言葉を聞いて透矢は思い切り嘲笑した。
「ははは!あれがか?馬鹿言うな、その辺のくそ共の下らない行動の方がよっぽど気持ち悪いぞ。…安心しろ、俺はお前の昔を知っている。あくまでけじめとしてお前から聞いてるだけだ。」
心に残っていた不安は気持ちいいほどに鼻で笑われて吹き飛ばされた。嘲笑われて逆にすっきりした解は話すことにした。…解が話しやすいように透矢一人で来たらしい。つくづくいい友人を持ったものだと思う。
「あれはPTSD、心的外傷後ストレス障害というやつだ。過度なストレスにさらされた結果、発作のように昔のことが頭に思い浮かんで苦しむ、そんな病気だ。発作はフラッシュバックとも言うぞ。」
「原因は…やっぱり真さんの妹、お前の母親か?」
「…そうだな。さすがに病気は狙ってないだろうが。」
「そうだろうな。で?良くはなってるのか?」
「症状に波があるから何とも言えないな。ただ、今後も付き合う覚悟はできている。」
「そうか…。」
二人はお互いの顔を見ずに話をしていた。解が身の上話をするにはこれくらいがちょうどいいと踏んだが正しかったようだ。透矢は浴槽の縁に寄りかかって天井を見上げた。
「過去も何もかも、風呂に入るように洗い流せたら楽だろうな。いっそ生まれ変わるとかな。そのあたり、どう思う?」
「確かに傷を簡単に消せる、あるいはなかったことにできるなら楽だな。だが俺は今の俺でいい。愛情も、自分の価値も意味も分からなくても、ここまで生きて楽な方に逃げることはない。瀬奈にも言ったが、そもそも幸せや楽を求めて生きてない。」
「へえ?じゃあどう生きたい?」
「俺は知りたいだけだ。俺は愛情が分かるのか、人になれるのか。俺は価値も意味もない人間なのか、生まれるべきだったのか。それが分かるなら、幸せかどうかなんてどうでもいい。…まあ、分かることが俺の幸せなのかもしれないな。」
人間は幸福を得るために生きている。愛することも、仕事も、あるいは犯罪すら現在と未来の幸福のためだ。解の言う通り、知りたいという願いも最終的に自己満足の末に幸福につながり得る。しかし、解の疑問は理解した結果、自己を否定する場合もある。それでも知りたいという解は、付け加えたとしても実際は幸福に興味が薄いのだろう。…やはり面白い。
「だからPTSDを持つことも受け入れる、と。それでこそお前だな。」
透矢は笑った。気兼ねなく、遠慮なく、優しさもない。ただ解の在り方が面白かった。死と仕切り笑った後、透矢は風呂に入ってから初めて解の方を向いた。視線を感じて解も透矢を見た。目が合った時には透矢からは笑顔が消え冷静な顔になっていた。
「他の奴には俺からうまく説明しておく。お前が話すのは色々と大変だからな。」
「透矢が大変だろう。俺が言えばいい。」
「大丈夫だ。元から俺が後で話す予定だったからな。それにお前は聞かれれば親のことも答えるだろ。昔を掘り返すと病気が悪化するかもしれないぞ。」
「…分かった。面倒かけるが頼む。」
「ああ。」
そこまで話したところで二人は話すことを止めた。透矢は聞くべきことを聞き、解は言うべきことを言った。男性客が来るまでの10数分、二人は静かに体を休ませるのだった。
解が倒れていくらか日にちが経過したが、解は発作を起こすことなくいた。愛情同好会の活動、生徒会の会議など、なるべく無理をしないよう解は日々に戻っていった。
「今日はアップルパイを持ってきたんだが、食べるか?」
昼休み、教室で解がごく自然に言った言葉に瀬奈と七海は勿論、教室にいたクラスの女子達が反応した。
「食べ…」 「ぜひ…」
「黒条君、私もほしい!」
「私もー。」
「私も手作りアップルパイ見たい!」
がやがや女子が集まり、七海と瀬奈の声はかき消されてしまった。ちなみに男子も気になって見に来ていた。
「わー、きれい!」
「本格的だ…。」
「ほんとに手作りか?」
アップルパイは計6個、ホールではなく別々に円形に作られていて、上面のパイ生地は格子模様に編まれていた。周囲が盛り上がる中、
中央にいた解は困った顔で頭を下げた。
「悪いがこれはお礼だからやれないんだ。それに量もない。」
「えー。瀬奈ばっかりずるーい。」
「残念…。」
「また作ったら今度はちょうだいねー。」
分かってもらえたようで生徒達はまた方々に散っていった。落ち着いたところで、今までにやにやして様子を見ていた透矢が口を開いた。
「そうはいってもここじゃ食べにくいな。あっちで食べるか。」
ということで、解達は同好会室に移動して食べ始めた。
「もぐもぐ…。はあ、すごく美味しいです!」
「そうだな、かなり美味いな。」
「ほんとだ。毎回思うけど売れそうだね。…まさかこれ、パイも手作り?」
「ああ。麗さんが好きなんだ。既製品を使うと文句が出るぞ。」
「パイも作れる成績優秀な男子…。」
瀬奈が何となく負けた気分になっていると、透矢がにやにやしながら解の肩を叩いた。
「スペック高いだろ?今ならお安くしとくから、唾つけとくか?」
「茅野先輩、先輩は売り物じゃないですよ。それに、先輩が安いはずないじゃないですか。」
「七海ちゃん、指摘することがなんか変。」
雑談しながら自作のパイを食べる。他愛もないこの光景は当たり前ではないと解は改めて感じていた。透矢達が解を気味悪がったり変に同情したりせず、これまで通りでいるから今があった。お菓子を作るだけで恩を返せるとは思わないが、感謝の念を形にできて良かったと解は思った。
食事が終わると七海は持っていた紙袋を皆の前に出してきた。
「つばめちゃんから漫画を借りたんです。少女漫画なんですけど、皆で試しに読んでみませんか?」
「あ、これ知ってる。最近話題の漫画だよね。読んだことないけど。」
「俺は漫画を読まないから知らないが、少女漫画ってことは恋愛物か?」
「はい。オタクの女の子と変わり者の男の子が出てくるラブコメです。心理描写がしっかりしてるってつばめちゃんが言ってました。愛情研究会ならこういうのを読むのもいいかなと思ったんです。」
七海は数冊ずつ配り終えると解の隣に戻った。最近七海は必ず解の隣に座っている。面白がる人、気にならない人、少し気になる人がこの場にいるが、今は漫画の話だった。
「ま、いいんじゃないか?読む内容が全員違うけどな。解はどうだ?」
「俺も賛成だ。漫画はほとんど読まないから勉強になる。」
「勉強って…。漫画なんだから、もっと気楽に読んで、楽しむものだよ?」
「そういうものか。」
全員が漫画を読み始めた。昼休み中なので、10分間と時間を区切ってみた。本を読む様子は皆それぞれだった。透矢は読む速度が速く、一冊読み終わりそうだ。解は透矢以上に早かったが途中で手がしばしば止まっていた。瀬奈と七海は普通に楽しんでいた。
ピピピッ。
七海のスマホがアラームで時間を知らせた。
「10分だけでしたけど、どうですか?」
「私は結構面白いと思ったよ。ヒロインが趣味を隠しながら相手にアプローチするのとか。」
「展開が速いような気がするんだが。」
「そうか?お前の巻だとそうなのかもな。俺が読んだのは一巻丸ごとデートの話だから遅かったぞ。借りた本人はどうだ?」
「私は男の子が好きです。自分の世界を持ってて、格好いいなって思いました。」
「鈍いけど優しい彼氏って昔から定番だけど、やっぱりいいよね。」
「はい!」
楽しそうな七海と瀬奈、そして解を交互に見ながら透矢はにやにやしていた。
「鈍いと理解してないは違うとはいえ、こいつは解にも通じるものがあるよな。」
「え?この男が俺に似てるのか?」
「行動は多少、な。性格は全然違うぞ。」
「…そうか。行動は似てるのか…。」
「?」
「ちょっといい?」
瀬奈が手を上げて皆の注目を集めた。つい手を上げた自分の生真面目さに内心少し呆れつつ、瀬奈は話を始めた。
「今考えたんだけど、漫画の考察とかをレポートにまとめたら、私達が何してるのか周りが分かりやすいんじゃないかな?よく聞かれるから。『愛情研究会って何してるの?』って。」
「あ!それ私も聞かれます。」
「部費が出てないから対外的なことは気にしなくていいだろー。してもいいけどな。」
「俺も書くのはいいんだが、色々気をつける必要があると思うぞ。」
「少女漫画の考察に気をつけることなんてあるの?」
心底不思議そうな瀬奈に解はいつもの無表情な顔で真面目に答えた。
「いや、セックスを詳細に解説すると官能小説みたいになるだろ?」
「…はい?」
目が点になった瀬奈に向かって解は変わらない態度で続けた。
「小説を書きたいわけじゃないからな。だが、官能小説も性愛の勉強にはなるのか?いやでも、この漫画は子宮の解剖や精液の量がおかしいからまずは正しい知識を…」
「待って待って!解君、止めて!」
「え?え…?」
瀬奈は赤い顔で叫び解を止めた。七海は予想の斜め上にいった解の話に言葉を失っていた。解は解でどうして驚かれたのか分からず怪訝な顔をしていた。そんな中でも冷静な透矢は解の持っている漫画を見て言った。
「なあ、解の持ってる漫画だけカバーがついてるぞ?」
「え?」
透矢の言う通り、解の持っている漫画だけブックカバーがつけられていた。透矢は解の隣に行き漫画を手に取るカバーを外し、中身をぱらぱらと読んだ。
「俺たちの読んだ漫画と違うな。恋愛物ではあるが完全にエロ漫画だな。そりゃあ話が噛み合わないわけだ。」
「あ、あわ…。」
透矢は笑いながら本の表紙を解達に向けて見せた。題名は…女子高生〇〇××と、まあしっかり成人向けタイトルだった。見せられた七海はあわあわと顔を背け、瀬奈は少し顔を赤くして怒った。
「茅野君、そんなの見せないでよ!セクハラだよ、セクハラ!」
「事実確認しただけだっての。大体、セクハラするほど盛ってないからな、俺は。」
「いいからしまってよ、もう。」
透矢が本にブックカバーを付け直していると、解が謎を解いてすっきりしたような顔で頷いた。
「良かった、俺だけ別の話を読んでたのか。瀬奈や七海はこういうのが好きなのかと勘違いするところだったな。」
「ち、違いますよ⁉」
「勘違いしないでよ⁉」
「あ、ああ。」
すごい剣幕で念を押されたので解は戸惑いながら同意した。別にこういうのが好きでもいいと思うぞ、とは言えない空気だった。
「それにしても、どうしてその漫画が入ってたんだ?」
「持ってきたのは川野辺だよな?」
透矢は苦笑しながら言い、視線が集まった七海は大慌てで答えた。
「わ、私のじゃないです!つばめちゃんから借りたので…ええと、その…つばめちゃんのかも…。」
「ああ、杉崎のものなのか。なら七海に返してもらうか。頼めるか?」
「ええ⁉わ、私は、ちょっと、これは…。」
解に成年漫画を渡された七海は困った顔でおろおろと解と漫画を交互に見た。そんな七海を見て解はぴんと来た。
「ああ、移動教室か何かで杉崎に渡せないんだな?なら放課後に俺が渡そう。今日は生徒会室で会議があるからな。」
解はそう言うと七海から漫画を取り上げた。
「押しつけようとして悪かったな、七海。」
「え、いえ…。」
「解君、分かってそうで全然分かってないね…。」
「くくく…。」
戸惑う七海、頭が痛そうな瀬奈、声をなるべく殺して笑う透矢。彼らの様子を見ながら解は首を傾げていた。
「もうちょっとで夏休みだといって気をぬくなよ?それじゃあ今日は以上。」
教師が去っていくのを確認して、解は鞄を持ちながら立ち上がった。
「よし、じゃあ生徒会室に行ってくる。それほど時間はかからないらしい。」
「了解。部屋で遊んどくわ。」
「解君、あれ持った?」
「あれ?ああ、漫画は持ってるから安心しろ。ちゃんと杉崎に返してくる。」
「あ、うん…。(いいのかな、私だったら死にたくなるんだけど…。)」
「(川野辺に間違えてたよ、とか言われても同じだろ。むしろ気になる先輩に言われるくらいの方がいい思い出になる。)」
「(そう、かなあ…。)」
ひそひそ話をしながら瀬奈達は解を見送った。
生徒会室での会議は変えるべき校則は何か、という話だった。以前のアンケートの結果も踏まえて、解に意見を聞いてみる流れで会議は進んだ。
「黒条は地毛なんだろ?なかなか信じてもらえなかったんじゃないか?」
「ああ、地毛を証明しろと言われたから病院で診断書をもらってきたことがある。」
「何?そんなもの聞いたことないぞ?」
「どこにも記載がないなら、俺への嫌がらせだったんじゃないか?」
「えぇー…。陰険。さいてー。」
不良のレッテルを貼られていた解の意見は新鮮だったようで、話はかなり盛り上がった。
「黒条君、制服をなくして私服にするのってどう思う?」
「そう言われても、私服をほとんど持ってないから分からないぞ。」
「えぇ?本当に?」
「ほ、本当みたいですよ。私の時もズボンは制服でしたから。」
「じゃあ意見でいいから言ってみてくれ。」
「分かりました。俺は変えなくていいと思います。アンケートで変えるべきと答えたのは半数弱で、制服が格好いいまたは可愛いと答えたのも半分程度です。変える必然性がないこと、見た目が良ければ制服で問題ないということじゃないかと。」
「制服の改造っていいよね?ある程度していいって言われたら楽しいだろうな。」
「うーん。あまり制服に幅が出ると服装の乱れみたいに見えるし…。」
話は盛り上がったが、解が質問に即答えたので時間はかからなかった。
「はー、今日も働いたぜー。」
「お疲れ様でーす。」
「じゃあな。また明日。」
会議が終わり書記のつばめと会長の聖が生徒会室に残った。というより、聖がつばめを呼び止めて残らせていた。ちなみに解も出て行った後だ。
「………よし。じゃあ杉崎さん、いつものやつを。」
聖は戸の小窓越しにつばめ以外がいないことを確認すると、妙にそわそわしながらつばめに声をかけた。
「はい、会長。ここに…。…あれ?」
つばめが出したのは漫画だった。七海が借りたものと同じものだ。それに気づいたつばめはどんどん顔色が悪くなっていった。
「も、もしかして七海ちゃんの方に…?そういえば、七海ちゃん、何か言おうとしてた…。」
「どうしたの杉崎さん?早く…」
「失礼するぞ。」
「「きゃああああ!」」
解が急に入ってきたので聖とつばめは悲鳴を上げた。解は生徒会室の外でつばめを待っていたが、なかなか出てこないため部屋に入ったのだ。大声を出したことを恥じながらも聖は解を睨んだ。
「ちょ、ちょっと黒条君!ノックもなく入るなんてマナー違反よ!」
「したぞ。でも返事がなかったから入ったんだ。」
「あ、そう…?ごめんなさい…。で、何の用?」
「いや、聖じゃなく杉崎に用があって…。杉崎、顔色が悪いが大丈夫か?」
「え⁉だ、大丈夫です。お気になさらず…。」
「いや、気になるんだが…。それにお前に用があるんだ。これを七海の代わりに返しに来たんだ。」
「え……い、いやあああああ…!」
つばめの断末魔が生徒会室に響いた。
動揺し過ぎておかしくなったつばめをなだめるのにはいくらか時間を要したが、なんとか落ち着かせることに成功した。とはいえ今現在つばめは魂が抜けたように意気消沈していた。
「大丈夫だ。性欲の有無や強さは男女関係ない。この手の漫画を持っていても何の問題もないぞ。」
何の慰めにもならない解のフォローだった。
「あはは…。ありがとうございます…。」
乾いた笑顔でつばめは答えた。ほんのり憧れている相手に成年漫画(しかも三巻だった)を持っていることを知られ、死にたいくらい恥ずかしかった。
ところで、今まで気配を消していた聖はわざとらしく咳払いをした。そして愛想笑いを浮かべ目を泳がせながら言った。
「じゃ、じゃあ後は私が注意しておくから、黒条君はもう帰っていいわよ?」
「杉崎は悪くないから注意はしなくていいだろ。それに聖も杉崎に用があるんじゃないのか?」
「い、いや、私は別に大丈夫だから。とにかく、黒条君は帰ったらどう?」
いつもの聖と違いあまりに挙動不審だった。そのため、さすがの解も言う通りには帰れなかった。
「…どうした?お前も何か変だぞ。」
「へ、変じゃないわよ。杉崎さんに何か頼んだわけじゃないし?それに、そんなエッチな漫画も知らないし?」
「か、会長…。」
あわわわわ、とでも言いそうなつばめとものすごく様子がおかしい聖を解はしばらくじっと見ていた。そして、なぜか今回だけは奇跡的な察しの良さを見せた。解は何度か頷くと、聖の手を取り成年漫画を持たせた。
「杉崎はお前のためにこれを持ってきたんだな。気付くのが遅くて悪かった。さっきも言ったが、お前がこれを読んでも全く問題ないから安心しろ。」
「…ふふふ。」
聖は俯いて解の話を聞いていたが、解が言い終わると怪しく笑いながら顔を上げた。
「そうよ、その漫画を借りるのは私よ。だって、家が厳しくて興味があってもこういうの見れないんだから仕方ないでしょ⁉悪い?私がむっつりで何か文句ある⁉」
「ないぞ。」
聖は恥ずかしさのあまりねじが何本か外れてしまったのか、解の胸ぐらを掴んで本音をまくし立てた。一方の解は本当に何も、誰も悪くないので冷静にかつ素直に答えた。しかし、それを聞いた聖は怪しい目と笑顔で解に迫った。
「文句がないなら私に協力してくれるわよね?私の秘密を知っちゃったわけだし。」
「まあ、俺にできることなら。」
「できるわよ。次の休み、私に付き合ってくれる?杉崎さんは漫画制作が忙しくて駄目なの。」
解がつばめを見ると、つばめは無言でこくこくと頷いた。つばめの返事を確認した解はしっかりと頷いた。
「分かった。付き合おう。」
「OK、それでいいのよ。日時は…。」
よく分からないまま話が進んでいった。しかしながら、つばめが死んだようになったことも聖がおかしくなったことも、恐らく自分のせいなんだろうと解は理解していた。悪いことはしてないはずだが、自分なりにできることをするのが誠意かと考えたのだった。
次の休み当日、解は聖に言われた通りの場所と時間に待っていた。すると、薄い色付きメガネとキャップ、男物のシャツとズボンを着た知らない人間が近づいてきた。最初は男かと思ったが体の線が細く、どうも女性のようだ。そして女性は解の目の前まで来た。
「…。」
「お待たせ。じゃあ黒条君、行きましょう。」
「…誰だ?」
「生徒会長の橘聖よ!分かるでしょ!普通。」
ちゃんと見れば分かると思うが、解は全然分かっていなかった。むしろ今見てもよく分からなかった。解は聖が何を着ても問題なかったのだが、疑問が生じたので尋ねた。
「どうしてそんな恰好なんだ?」
「変装よ。これならすぐ私だと分からないでしょ?そっちこそ鎖や首輪なんて、どんな趣味なの?」
「つけるのがルールなんだ。」
「ルールって…。」
真顔で言われても対応に困る返事だった。聖からすれば解の方がよほど変だった。ただ、似合ってはいるし、今から行く場所ならそれほど気にされない、だろう。
「変装までしてどこに行きたいんだ?」
「行けば分かるわ。」
聖は短く答えて早足に歩き始めた。解も慌てることなく聖についていった。
二人が歩いている間、解は顎に手を当てて何か考えていたが解決しなかったらしく、難しい顔のまま聖に声をかけた。
「聖、少しいいか?」
「何?」
「女性をエスコートしろと教わってるんだが、今日はどうしたらいい?」
「な、何その教え…?なら、今まではどうしてたの?」
さっきの謎ルールといい、無表情におかしな言動を繰り返す解はやはり変、いやかなり変だ。ただ、そのお陰で緊張しきっていた聖もリラックスできた。
「デートの時は手をつないで俺が先行した。ただ今回はデートじゃない。お前について行くだけならエスコートしない方がいいかもしれないと思ったんだが。」
「そういうことね…。そうね、目立ちたくないし、ここは手をつながない方針でいきましょう。」
「分かった。」
それだけ言うと二人は駅で電車に乗った。。
「…。」
「…。」
二人は二つ先の駅で降りたのだが、電車に乗る前からはほとんど話していなかった。解は何とも思わないようだが、聖はちらちらと解を気にしていた。ついに聖は沈黙に耐えられなくなり、振り返って解を見た。
「あの、黒条君は嫌じゃないの?」
「何がだ?」
「理由も行先も知らないのに私についてきて、不満はないのってこと。」
「ああ、別にない。俺は責任を取るだけだ。」
「そ、そう。」
責任を取ると言うがこの前のことは不可抗力だったので、本当は解に責任を取る義務はない。それなのに解は責任を取ると本気で言っていた。恐らく偶然のせい、他人のせいにすることが普段からないのだろう。
「…黒条君はいい人よね。」
「そうか?」
「きゃっ!」
思わず呟いていた言葉に反応され、聖は驚いて声を出した。
「び、びっくりさせないでよ、もう…。」
「俺も驚いたぞ。それより、俺はいい人じゃないぞ。型通りしてるだけだ。」
「え?型通りって?」
「俺は善悪の嗜好が曖昧だ。だから、一般に良いとされることをしてるだけだ。」
聖は解の話を聞くと芝居がかったため息をついた。
「はあ~。黒条君?私利私欲で犯罪に走る人が山ほどいる世の中よ?どんな理由でも良いことができるならいい人よ。分かる?」
「ああ、分かる。『偽善もまた善なり』に近い考えだ。ただそれは良い悪い、好き嫌いがあってこそだな。」
「ん?どういうこと?」
聖はこの手の話が嫌いではないようだ。嫌そうな様子はなく、むしろ真面目に尋ねた。解としても相手が乗り気だと話しやすかった。
「何が善か悪か、自分は善と悪どちらが好きかがないと自分の方向性が決まらない。だから偽善をいくらしても善になり得ない。」
「でも黒条君、悪を好きっておかしくない?」
「例えば快楽殺人者がいる。普通の人を殺すのは互いのルールが違うから悪だ。一方で同類とお互い納得した上で殺し合っても俺は悪だと思わない。むしろ自分の在り方を理解しているから善であり好ましいとすら思う。」
「う、うーん…。」
「今の俺は『いい人と同じように動け』と命令された機械だ。俺が人間になるには愛情が必要だ。だから愛情研究会がある。」
聖は解の話を黙って聞いていた。どうして愛情研究会なんて変わったことをしているのかやっと分かった。愛情研究会は解のための同好会なのだ。そして、顧問の始音を含め同好会員は自ら進んで解を手助けしているのだろう。
「そういうことなのね。…でも、話を聞いてもやっぱり黒条君はいい人だと思うわ。悪人はそんなこと考えないし、ルールを守るってことはルールが好きとも言えるんじゃない?うまく説明できないけど。そもそもいい人じゃないと周囲から好かれないと思うわ。黒条君って結構好かれてるじゃない。」
「…好かれている実感はないんだがな。」
解はあえて自分がいい人かどうかの意見は出さなかった。解の言動は「いい人とはこうで、いい人になるべき」という倫理に従っている。従う理由は他者との相互利益のためで、その倫理が好ましいからではない。そもそも倫理は変わるもので、一つに固執するものではない。しかし、せっかくフォローしてくれる聖の言葉を否定する必要はない。さらに、後半の意見は以前つばめにも近いことを言われたので、否定は卑下につながると考えた。
「まあ、好かれているならありがたい話だ。少なくとも聖にそう言ってもらえてるんだからな。」
「本当よ。人は宝なんだから、大事にしてね。…さあ、着いたわよ。」
話している間に到着したらしい。聖は戦いに挑む戦士のような雰囲気で看板を見ていた。そこは……アニメ、漫画、同人誌を扱う専門店だった。
「うう、これも欲しいけど隠す場所がない。諦めるしかないか…。」
聖は漫画の表紙を見ながら心底残念そうにした。しかし、持っているかごには既に薄い本もそうでない本もそれなりに入っていた。解と聖がいるのは漫画コーナーの中でも成人が対象のものだ。聖は楽しそうに一つ一つ見ながら買うものを吟味していた。解は聖の後ろをついて歩いていたが、不思議そうに声をかけた。
「それぞれの漫画で何が違うんだ?」
「全然違う!ストーリー、体の肉付き、柔らかさの表現、絡みの様子、感情表現、体液の表現、色々あるの!」
「全然分からないが、ただ性的興奮を得るだけじゃない、と。」
「当然よ。ちなみに私は純愛物が好きね。互いに愛し合い、その中で熱く交わる心と体。普通の漫画で見られないリアルがあるの!」
熱弁する聖を無表情に見る解。はっと現実に戻った聖は今にも死にそうな空気を発しながら自嘲した。
「ふ、ふふふ。笑ったら?できる感じで通してる生徒会長が実はエロ漫画好きのとんだ奴だって。」
「それの何が悪いんだ?」
「え?だって、こういうのって、いかがわしいとか犯罪の温床とか思う人がいるし…。」
「そんなことを言う人もいるのかもしれないな。俺はそうは思わないが。」
「…何で?興味ないから?」
…高校生なのにもう枯れているのだろうか。そういえばつばめにも問題ないとか何とか言っていた気がするが。
「違う。不純異性交遊の話でもあったが、愛し合い子供をつくるのを善しとするなら性行為が悪の筈がない。だから性行為の描写がある漫画を見るだけでお前が非難されるのはおかしい。」
解はまずは性愛(この場合は性行為か)が問題ないことを説明した。ただ、それでも性に拒否反応を示す人がいることは知っているので、追加で話を続けた。
「それに、好きなことをしていると人は輝いて見える。聖でいえば生徒会の仕事や今この瞬間だな。折角綺麗に生まれたんだ、好きなことを自由にして輝けばいい。」
「あ、うん…。」
解なりにしっかりした理由に加えてはっきり綺麗と褒められ、聖は返事に困り曖昧に答えた。初めて会った時、目の前で尊敬すると言われたことを思い出していた。…とはいえ、今回はフォローされたものが成人漫画なので、解にお礼を言うのは変だ。そのため聖は自分の趣味を肯定してくれた解に心の中でこっそりお礼を言った。
聖は結局成年漫画を五冊買った。もっと欲しかったそうだが、家の隠し場所の関係上仕方ないらしい。PTA会長の母親が厳しいとのことで、今は母親の文句を解に聞かせていた。
「お母さんは厳しすぎるのよ。恋愛も駄目、遅く帰るのも駄目、エッチな本も駄目。駄目ばっかりなんだから。」
「親はそういうものだと本で読んだが、本当にそうなんだな。」
「そうなのよ。ほんと困っちゃうの。」
そんな話をしながら二人は何をしているかというと、昼食をとる店を探していた。解はどこで食べてもいいのだが、聖が気乗りする店が見つからなかった。
「うーん、どうもいい店がないわね。」
「俺は何でもいい、というより食べなくてもいいぞ。」
「それは駄目よ。ついて来てもらったんだから何かお礼しないと。」
「そうか。…ん?」
「どうしたの?」
「いや…。」
解は何故か聖の左右に移動したり歩く速さを変えたりした。加えて聖は気付かなかったが、こっそりと周囲を確認しているようだ。しばらくして解は聖に少し近づいて話しかけた。
「ちょっといいか、聖。」
「何?話す気になった?あ、もしかしてトイレ?」
「後ろから透矢達が後をつけてきている。瀬奈や七海がこの周辺に来ると昨日言っていたからな。」
「え。」
聖は時が止まったように立ち止まった。もし買ったものがばれたら…ドン引きされる→他の人につい話す→学校中に知られる→「お固い生徒会長の趣味はなんと…」→社会的死。聖が荒唐無稽な想像をする中、解はどうするべきか考えていた。
「聖は後をつけられたくないだろう?」
「あ、はい。それはもう。」
情緒不安定な今の聖では走っても逃げきれない可能性が高い。あちらには透矢がいるので簡単に撒けるとは思えない。さて…。
「あのビルに入るぞ。お前の希望通り尾行をふりきる。いいな?」
「相手って誰なんだろ?解君にあんな知り合いいたかな?」
「見たことないわよね。そもそも男なの?体が妙に細いから女じゃない?」
「言われてみればそんな気も…。でも遠いからやっぱり分からないです。」
瀬奈、始音、七海がそれぞれわいわい言っている横で透矢はにやにやしながらこれ見よがしに言った。
「尾行もこれで三回目か。愛情研究会改め探偵部とかの方がいいかもしれないな。」
「そんなの駄目に決まってるじゃない。それにこれは尾行じゃなくて調査よ、ね?」
「えぇ…。そこまで正当化するのはちょっと…。」
「今回はさすがに尾行だと思います…。」
「あー、私だけ悪者?尾行には皆同意したくせにー。」
「子供みたいになってますよ、始音先生…。」
「もう自分で尾行って言ってるしな。」
そんな話をしながら尾行を続ける四人がどうしてこうなったかは昨日にさかのぼる。
同好会室の戸を開け、生徒会室から解が帰ってきた。
「お、解だ。」
「お帰りなさい。」
「お疲れ様。ちょっとかかったわね。大丈夫だった?」
「ああ。もうこんな時間か。」
解は椅子に座るとため息を一つ吐いた。聖の勢いに酔ったのかもしれない。
「ふう…。」
「先輩、疲れてません?お菓子食べますか?」
「大丈夫だ。疲れてはないからな。」
「そうですか?じゃああの、いきなりなんですけど次の休みは予定ありますか?全員でケーキバイキングに行こうって話をしてたんですが。」
「ん…?」
次の休み…は聖が指定した日だ。どうしようかと解が考えていると、先に透矢が口を開いた。
「俺はちょっと面倒臭いけどな。」
「男子もいないと始音先生がただ女子生徒と遊んでるだけになるでしょ。皆いたら部活の延長って言い訳できるんだから、せめて解君か茅野君どっちかは来てくれないと。」
「次の休み…何時だ?」
恐る恐る、ではないが、解は努めて冷静な態度で七海に尋ねた。
「皆さんの予定を聞いて、11時集合にしました。…もしかして、用事ですか?」
七海は最初こそ普通に答えたが、解の様子に気付き後半は逆におずおずと解に尋ねた。
「…そうだな。その時間は空いてない。」
七海がとても残念そうなので解は胸が痛かったが、空いてないものは空いてない。はっきり断るしかなかった。断られた七海はがっくりと肩を落とした。
「残念…。大丈夫だと思ったんですが…。」
「解君が用事って珍しいね。ほとんど銭湯か学校にいるのに。」
「…確かにそうかもな。」
普通の会話なのに七海と瀬奈が解を責めているように聞こえるから不思議だ。そんな中で始音が胡散臭そうに解をじいっと見た。
「解君、用事って何?」
「買い物だ。」
「誰と、どこで、何を買うの?」
間違いなく始音は解の様子から何か感じ取ったのだろう。解は怒ることはないが困った顔をした。
「…秘密だ。」
解の返事が予想外だったために部屋の中は急にざわざわと騒ぎ出した。手始めに始音が立ち上がって解を追及した。
「秘密って何よ、秘密って⁉そんな可愛く言っても誤魔化せないわよ!」
「そう言われても言わない。」
「い、言わないんですね…。」
「こりゃ吐かせるのは難しそうだな。」
笑っている透矢の隣で瀬奈は一人黙って考えていたが、口元を触りながら推理するかのように呟いた。
「解君はまず嘘を吐かないはずで。始音先生の質問は人、場所、買うものだから…。黙秘したってことは、一人じゃなくて、場所と買うものは言えないってことだ。」
「…。」
「あ、目を閉じた。」
「諦めて吐きなさいよ、解君。」
「悪いが絶対に言わない。」
「くっ…。」
始音は歯噛みした。解は自分のために黙ることはない。つまり、一緒に買い物に行く「誰か」のために黙っているのは間違いない。しかし、こうなった解は絶対に言わないことも分かっていた。
「質問を変えればもうちょっと聞き出せそうだけど…。」
「あ、あのー、あんまり先輩を責めたら可哀そうですよー…。」
何とか場を落ち着かせようとしている七海に透矢から助け船が入った。
「ほらほら、終わりだ終わり。これ以上解を絞り上げても何も出てこないぞ。それよりさっさと解の報告を聞こうぜ。」
「ああ、その通りだな。」
「解君に言われると、なんか悔しいなあ…。」
「じゃあ言うぞ。生徒会では………」
「で、皆で歩いてたら解君がいるんだから、偶然って怖いよね…。」
解を見ながら瀬奈は苦笑いした。世間の狭さとどうでもいい運命に世知辛さを感じた。
「でも、先輩は隣の人と何を買ったんでしょうね?」
「まだ全く分からないな。それよりお前等、多少走ることになるかもしれないぞ。」
「え?」
その時解と隣の人がおもむろにビルに入った。ビルは雑居ビル…だが、風俗店が複数入っている類のビルだ。看板を見た七海はショックを受けていた。
「せ、先輩があんなビルに…。」
「七海ちゃん、落ち着いて。どうせ解君のことだから何か理由があるんだよ。」
「ちょっと七海ちゃん、瀬奈ちゃん、急ぐわよ!このままじゃ逃げられるわ!」
「あ、はい!」
「分かりました!」
後ろで話す瀬奈達の様子を確認しながら透矢はビルの前まで来た。透矢だけは解の相手が聖であること、解が尾行に気付いたことを理解していた。このビルに入ったのも透矢達から逃げる解の策なのだろう。
「ようやく面白くなってきたな。」
透矢は女性陣とは全く違う方向でやる気を出していた。
「ね、ねえ黒条君、こんな所に入って誰かに見られたらまずいんじゃない?」
「ただビルに入っただけだ。」
「いや、ここ風俗店のビルなんだけど⁉」
「…気付いてなかった。まあ、入らないから気にしないでくれ。」
「うーん…。」
解は不安そうな聖を連れて二階を歩いていた。透矢ならまず入り口と裏口を確実におさえてから二階の様子を見に来るはずだ。自分が透矢に勝つには意外性しかないと解は理解していた。
解は2階の窓を開けて下を確認すると聖に声をかけた。
「よし、じゃあここから出るぞ。悪いな。」
「え…?きゃあ!何するのよ⁉」
解は聖を横抱きに持ち上げた。驚いた聖は反射的に解の頭を叩いたが、叩かれた解は顔色一つ変えなかった。
「悪いと言ったんだが、悪かった。」
「いやその、私こそごめんなんだけど、何なの、これ?」
「窓から降りてビルの裏の壁を越えるんだ。」
「ほ、本気?危ないわよ⁉」
「相手には透矢がいる。だからこれくらいしないと逃げられないぞ。」
「で、でも…。」
「心配するな。お前の希望が叶うよう努力するし、絶対に怪我だけはさせない。」
「…。」
聖は体裁のためにばれたくないだけなのに、解は本気で言っていた。もしここで見つかりたくない理由がつまらないものと知ったら解は止めるだろうか。…いや、止めない気がする。解は愛情が分からないくせに、自分のことよりも他者を優先する。これは解が自身を軽視しがちなこともあるが、やはり解の優しさからきているのだろう。聖としては自分を大切にしろと言いたいが、優しさも含まれているので注意しにくかった。しかも感謝の念もあるので大変複雑な気分だった。
しかし、聖の気持ちを解が気付くはずもなく、ただひたすら跳ぶことに集中していた。
「それじゃあ行くぞ。しっかり掴まってろ。」
「う、うん。分かってる。」
聖をしっかりと抱え、解は窓の外に飛び出した。
「えええっ!」
始音は驚きの声を上げた。偵察のために一人で2階に上がった始音だったが、見つけた時既に解は相手をお姫様抱っこしていて、次の瞬間には窓の外に跳び出していた。慌てて窓の前まで走り窓から身を乗り出して外を見ると、解はもう隣の建物の屋根に移動していてビル裏の壁を越えようとしていた。
「はあーっ、怪我しなくて良かった…。っと、電話電話。」
始音は先生らしく生徒の心配をまずして、それから透矢に電話した。
「茅野君、解君が二階の窓から逃げたわ。今ビルの裏の壁を越えたけど、どうする?」
『今回り込んで裏側の通りに向かってます。堤先生は霧谷達と合流して裏の建物正面で待って下さい。』
「了解。…しかしまあ、解君も元気じゃない。良かった。」
始音はもう一度窓の外を見た。解は相手を抱えたまま壁を越え、うまくパイプを使い屋根から下り始めていた。そんな解の様子は元気いっぱいの悪ガキのようだ。いつもの落ち着いている解を知る始音からすると、解のやんちゃな姿は微笑ましくて思わず笑ってしまった。
「さて、合流して裏に行かないとね。」
始音はスマホを取り出し瀬奈と七海に電話するのだった。
「黒条君、狭いんだけど…?」
「我慢してくれ。透矢なら窓から逃げるくらいは想定済みかもしれない。ただ食事の時間があるから、そこまでの我慢だ。」
「それは分かったけど、なんで試着室なの⁉」
「靴があれば中には入ってこないし、違う靴なら俺達じゃないと考えるはずだ。」
「だから靴も借りたのね…。」
解と聖はビル裏の通りに出た後、衣料品店の試着室に二人一緒に入った。借りた靴を入り口に置き、自分たちの靴は中に持って入った。透矢達がケーキを食べに行くまでやり過ごすつもりだ。
試着室に入り五分ほど経過した。かなり接近しているので聖は照れる、というより居心地が悪かった。一方で解は特に何も感じていないようだ。
「暇だな。」
いや、退屈は感じていたらしい。聖は不満そうにぼやいた。
「スマホでも見たらいいでしょ…って持ってないのか。スマホがなくて不便じゃない?」
「いや、全く。文献を調べるならタブレットでいい。電話もメールも話せば十分だ。」
「SNSは?他に動画やドラマや映画を見たり、音楽聞いたり、写真撮ったりゲームしたり、いくらでもあるでしょ?」
矢継ぎ早に言われ、解は顔をしかめて答えた。
「どれも嫌いじゃないが、好きでもないから使わない。言っただろう?愛情がないって。それはものに対しても同じだ。」
「じゃあ趣味は?本とか読まない?」
「趣味はない。本は読むが医学書や哲学書とか知識を得るためにしか読まない。当たり前だが面白くはないな。」
「はあ…。」
解は娯楽を知らず、趣味もないらしい。まるで無人島で自給自足の生活をする人のようだ。いや、目の前にあるのに使わない、しかも根本的に好きじゃない・興味がないと言い切れるのは無人島の人以上に異常だ。こんな在り方で約17年生きているのだから、呆れるやら感心するやら、どう反応すべきか分からない。そんなことを聖が考えていると、解がごく自然な調子で言った。
「そうだ、ならさっき買った漫画を見せてくれないか?」
「へ?あ、あれを?」
「ああ。どういうところが好きなのか教えてくれ。」
18禁の漫画を男女二人で見て、感想を女性に聞くのは完全にセクハラだと思う。しかし、解が悪意なく純粋な好奇心から頼んでいることも理解していた。
「ハ、ハア、イイケド…。」
なので、聖は心を無にして漫画を解に渡していた。
「ありがとう。…………。」
こんなに緊張する沈黙は人生で初めてではないだろうか。聖にとって狭い試着室は慈悲なき処刑場と化していた。聖が心の中で自分の墓に手を合わせていると、解がぽつりと言った。
「…なるほど。」
「え、もう読んだの?」
まだ5分も経ってない。
「ある程度速読できるからな。ただ俺には心理描写が理解しにくい。やはり俺には恋愛はまだ分からないみたいだな。これで興奮もしないし、作者の意図には沿えないみたいだ。」
「あのー、興奮しないって、勃たないの?」
私は何を言っているんだろう。
「たつ…?ああ、勃起か。しないな。産婦人科医が外陰を見ても何も感じないのと同じだな。機能障害かもしれないが。」
解は解で真面目に返答した。解ならどんな話でも学術集会のように話せそうだ。しかし、聖はそこまで冷静ではいられなかった。
「い、いや、それはないでしょ…。黒条君は、その、性欲がないの?三大欲求なんだし、愛情が分かってなくてもあるものなんじゃない?」
聖はもう自分で何を言っているのか分からなくなってきた。今言った内容はおかしかっただろうか。もしかして変だった?すっかり混乱している聖とは対照的に解は冷静さを保ち続けていた。
「そうでもないぞ。恋愛だけじゃなく『何かに対する好き』も愛情だ。性欲も嗜好がある以上好き嫌い、つまり愛情と関係があるはずだ。この漫画でも色々な性交渉が描いてあるが、俺に嗜好がないせいか感じ入るものは何もなかった。」
「いや、でも嫌いじゃないでしょ?ならちょっとくらいは…。」
「静かに。」
解がそっと聖の口を手で押さえた。聖が解に従って黙っていると外から声が聞こえてきた。
………。
「あっちにはいなかったよ。」
「こっちにもいませんでした。」
「逃げられたわね。」
「こりゃ俺達の負けだな。時間もあれだし、諦めて食べに行くか。」
「なんか悔しいわね…。夜に銭湯で問い詰めてやろうかしら。」
「それじゃ尾行した意味がないんじゃ…。」
「ま、まあまあ。じゃあ皆でケーキを食べに行きましょう!」
「男が解じゃなくて俺なのが申し訳ないけどな。」
………。
「行ったな。」
「ええ。」
周囲を窺いつつ試着室からゆっくり出てくる男女二人を周囲の客は変なものを見る目で見ていた。
「何とか撒いたな。見逃してくれたのかもしれないが。」
「ねえ、逃げるのに夢中で考えてなかったけど、私ってばれてないわよね…?」
「さあ。ただ、お前ならもし聞かれても違うで押し通せるだろう。」
言いながら解は店を出て行こうとしたが、聖が解の服を引っ張って止めた。
「ちょっと!こんなにお世話になったのに何も買わないのは駄目よ!」
「と言われても、俺は制服以外の服は買ったことがないぞ。」
「嘘⁉あれ本当だったの?でも今着てる服は買ったものでしょ?」
「これは真の、義父の遺品だ。小学生の頃から義父の服を調節して着ていたからな。」
解はいつもの調子で話したが、聖にとっては初耳であり一気にしおらしくなった。
「あ…そう。ごめんなさい。デリケートな話を聞いちゃって。」
「?…別に金銭的には余裕はあるぞ?義父が遺してくれたからな。」
「いや、そういう意味じゃ…。ううん、もういいわ。ちょっと待ってて。」
そう言って聖は解をその場から追い出した。
しばらくして、聖は解の所に戻って来た。
「お待たせ。はい、早いけど今日のお礼。自分の服がないのなら使って。」
聖は手に持っていた紙袋を差し出した。解は受け取って中をちらりと見た。確かに服だ。
「いや、ついてきただけの俺に礼はいらない。気持ちだけで十分だ。」
解はお礼を断って袋を返そうとしたが、聖はするりと解を避けると少し得意気に笑った。
「ふふ、そう言うと思った。でも返品は受けつけないから。それに、こういうのは返すのが一番失礼な対応よ?」
「そういうものか。…なら、ありがとう。しっかり使わせてもらう。」
ここまではっきり言われると断りづらい。解はせめて心からの感謝を伝えることにした。感謝することは解にもできることだった。
「うん、よろしい。それじゃあ今度こそ食事に行きましょ?せっかくの休日を楽しまないとね。」
聖は爽やかに言って先を歩いていった。解も聖に続いたが、追いついた時にちょうど振り返った聖と目が合った。聖は解がついて来たかを確認したようで、解を見ると安心したように笑った。ここで、今さらだが解は聖にエスコートされていたことに気付いた。
(服ももらってしまったし、随分世話になってしまったな。)
解自身も今日は聖を随分助けたはずなのだが、解は自分のことは考えないまま心の中で聖にお礼を言ったのだった。
解は昼食を食べた後は解散と思っていたが、聖は解を色々な所に連れ回した。七海とデートした時も店を見て回ったが、七海は解との会話が主目的だったのに対し、聖は解が何かするのを見るのが目的のようだった。似たことをしているのに目的が違うこともあるのだと知った解だった。
夕方近くになりようやく帰ることになった二人はバスの中にいた。
「始めての場所でバスを使うのは難しいのに、よく分かったな。」
「スマホの力よ。やっぱり黒条君も買ったら?あれば便利だし楽しいわよ?」
「別にいらないな。便利なのは認めるが、便利なこと、楽しいことに利点を感じない。」
「ふーん、ならいいわ、他は?今日は色々してもらったけど、何か楽しかったこと、興味が出たことはなかった?」
解はじっくり考えた。見たのは漫画アニメの専門店、食事処、洋服店、雑貨屋、アクセサリー店、キャリアショップ、ゲームセンターだ。しかし、心が動いたものは特になかった。
「特になかったな。初めての経験で新鮮ではあったが、それだけだ。」
「そう…。いきなりうまくいくとは思ってなかったけど、やっぱり駄目ね。」
「もしかして、俺が楽しめるものを探すためにわざわざ店を回ってくれたのか?」
「一番は黒条君の反応が面白かったからよ?ついでに何か興味を持てることがあればと思っただけ。」
聖はすました顔で解から目を逸らした。「解のために動いた」と思われることが照れくさいらしい。しかし元が真面目なのだろう、聖はすぐに真面目な顔に戻って話を続けた。
「思うに黒条君は真面目過ぎ、いや違うわね、無駄がなさ過ぎるのよ。」
「無駄がないと悪いのか?」
「黒条君は必要ないもの、興味ないものを切り捨て過ぎ。趣味っていうのは基本お金と時間、そして労力の無駄遣いなの。今みたいな生き方じゃ、好きなことも趣味も永遠にできないわよ。」
「…?好きなことをして楽しいなら無駄じゃないと思うが。」
「ならスマホだって、もし使って楽しかったら黒条君にとって必要なものになるわよ?」
「…ああ、確かに。」
確かにそうだ。「楽しければ価値があり無駄じゃない」と「必要ないから価値がなく無駄である」は裏表の関係ではない。「必要=楽しい」ではないのだから、「不必要=楽しくない」もまた違うのだ。
「分かった?つまり、黒条君が好きなこと、あなた風に言うとものへの愛情ね、を理解するには、今不必要だと感じることも積極的にやってみる必要があるはずよ。」
「不必要と断じたものの中に価値を見出せるかもしれない。探さなければいつまでも自分が好きになれるものは見つからない、そういうことだな。」
「また固い表現ね…。合ってるからいいけど。とにかく、今日は駄目だったけど諦めずに探せば黒条君の好きなこともきっと見つかるって、私はそう思う。」
根拠のない自信だったが、解は不思議と頼もしく感じた。これが橘聖の生徒会長たる所以かもしれない。
聖と解が趣味について話し合った後、二人は静かにバスに揺られていた。すると、聖が大きな欠伸をした。
「ふわぁ…。」
「眠いなら寝たらどうだ?俺は起きているから。」
「先輩が後輩に起こしてもらうなんて情けないじゃない。ふわ…っ。」
聖は欠伸をかみ殺しながら言うがやはり眠そうだ。ここは眠るのを勧めるより静かにした方がいいだろう。
「今日は色々したから疲れたんだな。」
「…そうかも。半日黒条君と買い物して…逃げて、したからね…。」
「…。」
解が静かにしていると聖は寝息を立て始め、解にもたれかかってきた。今日一日変装していた聖は性別不詳だったが、寝ている姿はやはり年相応の女子だった。
(寝ている女性の顔はなるべく見ないように、だったな。)
解は麗からのよく分からない教えを守り、バスの窓からぼんやりと町を眺めていた。




