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愛情の研究者  作者: けつ
4/11

No.4


 夏休みの前には期末テストがあるものだ。いつもは真面目に活動している愛情研究会だが、テストの前は勉強するようにしていた。

「先輩、数学の問題なんですけど~。」

「…ああ。これは因数分解でX軸との交点座標を出して、それから…。」

「解、辞書借りるぞ。」

「えーと、大スキピオが…。」

解達は全員で研究会室に集まり勉強していたが、解は半分七海の指導役になっていた。

「できました!…って、あれ…?」

「計算ミスだな。ここの計算で足し算を間違えたみたいだな。」

「ええ~…。」

七海は机に頬をくっつけてボールペンでノートの端に落書きを描き始めた。しばらくそうしていたが、急に立ち上がった。

「よし、気分転換にジュースでも飲みましょう!先輩も一緒にいかがですか?」

「俺は水筒のお茶で十分だ。まあついていってもいいが、帰ったらまた勉強だぞ。」

「は~い…。」

げんなりした様子で七海は解に返事をした。

 ついでに透矢と瀬奈の分も飲み物を買ってきた結果、小休止する流れになった。

「それにしても、七海ちゃんは本当に勉強苦手なんだね。謙遜かと思ってたんだけど。」

「うぅ…。お恥ずかしいです。先輩にも教えてもらってばっかりだし…。」

「別に気にしなくていい。勉強は日ごろしてるから大丈夫だ。」

「さすができる男。余裕だな。」

「茅野君も本当は余裕でしょ。二人とも私より中間よかったんだから。」

「英語はお前の方ができるだろ?」

「それはまあ、そうだけど。」

「七海は美容師になるなら、無理に勉強しなくてもいいんじゃないか?」

解は素朴な疑問として聞いただけだったが、七海はびくっと大きく反応して強い口調で返事した。

「い、いえ!それじゃ駄目なんです!ちゃんと勉強もして高校を卒業しないと…。」

「そうなのか?なら悪かった。折角頑張っているのに水を差したな。」

「あ、いえ、私もすみません。急に大きな声を出して…。」

七海は自分の動揺を誤魔化すように笑った。解は七海にしては珍しい様子だったので気になったものの、無理に聞き出すことではないと考え聞かなかった。本当に聞くべきことならいずれ教えてもらえるだろう。

 コンコン。

軽いがはっきりとしたノック音がして、全員が戸を向いた。

「どうぞー。」

代表して瀬奈が声を上げると、堂々とした態度の女生徒が一人で入ってきた。

「あれ…?」

解は女生徒に見覚えがあったが思い出せず、思い出そうと記憶を掘り返していた。

「橘先輩?こんにちは、ってどうしたんですか、こんな所に。」

「ちょっとしたお願いがあってね。」

橘先輩と呼ばれた女生徒は解と透矢を見て笑った。

「茅野君も黒条君も、あの会議以来だけど元気?最近は良い噂を聞くけど。」

「ああ、はい。特に問題ないですね。」

「俺も…。」

解はまだ思い出せなかった。女生徒はそんな解の様子を不思議そうに見てたが、急に不機嫌な顔になり解に詰め寄った。

「もしかして黒条君、私の事を忘れてるんじゃないでしょうね?」

「…すいません、会ったことは何とか…。」

はっきり言われて女生徒は一瞬目を丸くしたが、すぐまた怒った顔になり解を睨んだ。

「橘聖。生徒会長で、あなたと茅野君が退学になりそうな時に一緒に会議に出席したんだけど?」

「…あ。」

解はやっと思い出したらしく、何かに気付いたような顔をした。それを見て聖はため息をついた。

「黒条君は本当にマイペースね。まあいいわ、今日はあなたに用があって来たわけだし、失礼なのは多めに見ましょう。」

「先輩に用、ですか?」

七海が首を傾げながら不思議そうに言った。解と生徒会に何のつながりがあるのか、さっぱり分からなかった。

「そうよ、川野辺さん。あなたの友達の杉崎さんが生徒会に入ってるのは知ってるでしょ?」

「あ、そうですね。つばめちゃんは生徒会員なんですよ。」

七海が解達に説明すると、聖はうんうんと頷いて続いた。

「それで、生徒会室で雑談してた時に愛情研究会の話になったの。黒条君、この前のデートでずいぶん杉崎さんに気に入られたみたいね?」

「俺は…。」

迷惑ばかりかけました、と解は言おうとして止めた。この前卑下するのは止めていくと言ったばかりではないか。

「大したことはしてませんが、杉崎がそう言ってくれるならありがたいです。」

「謙遜しなくていいわ。杉崎さんは結構人見知りなのに、しかも男の人に懐くっていうのはかなり珍しいわ。だから、私も黒条君に興味が湧いたのよ。」

「ん?会長も解とデートがしたいと?」

「ち、違うわよ!」

透矢の冗談に聖は少し慌てたように否定した後、一度咳払いをして落ち着いてから答えた。

「違います。私がここに来たのは、黒条君に生徒会を手伝ってほしいってことなの。私は校則改革をしてるんだけど、その中身を一緒に考えてほしいのよ。」

「校則を変えるのと解、黒条君とどうつながるんですか?」

瀬奈はどういうことなのか考えながら聖に尋ねた。解の力なら生徒会に協力することもできるだろうが、解である理由が分からない。もしかして、「興味が湧いた」は本当にその手の意味だった…?

「変えたい校則はね、髪形や色、服装、装飾品のことと、不純異性交遊のところなの。」

聖は普段通りの様子で瀬奈に答えた。瀬奈が気にしていること、解の名前を言いかけたことは気にしないであげた。そして説明を受けた解は小さく頷いた。

「…ああ、そういう事か。分かりました。俺に出来ることなら協力します。」

「先輩⁉」「ええっ⁉」

解の即断即決に思わず声が出た七海と瀬奈だったが、解が落ち着いているお陰でそれ以上動揺せずに済んだ。解は二人が落ち着いたのを確認してから説明を始めた。

「俺は見た目で何度ももめたことがあるから、今の校則に沿わない側の意見が欲しいんだろう。そして不純異性交遊は愛情研究会に相応しい問題だ。愛情研究会の中で俺が書記担当だと知って俺に頼む、ということなんだろうな。そうですよね?」

「さすがね。その通りよ。黒条君は知識も経験もあって頭の回転も速い。校則のような固い文にも慣れてる。だから頼んでるんだけど、本当にいいの?見返りはないわよ。」

「大丈夫です。見返りもいりません。それで期間は?」

「期末テストの終了後から二学期の生徒会の代替わりまで。どう?」

「分かりました。」

解は無表情なまま躊躇いなく頷いた。聖としては助かるが、あまりにすんなり決まってしまった。普通の生徒は面倒臭がって協力してくれない上、まだ言ってないが今回はきっと内申も有利にならない。まあ解が内申を気にするとは思えず、本当に見返りがいらないのだろう。しかし、こう簡単にうまくいくと逆に申し訳なく思ってしまった。

ところで瀬奈はどんどん話が進んでいくのをぽかんと聞いていたが、我に返り解に戸惑いがちに尋ねた。

「ちょ、ちょっと解君。手伝うのはいいけど、こっちはどうするの?」

「基本的には愛情研究会が優先だ。恐らく時々生徒会で聞いた話を皆で相談することになるだろうな。別に瀬奈を無視するつもりはないぞ。」

「いやいや、何で私限定⁉皆が気にするだろうから代表して聞いただけだからね。」

「そうですよ先輩。先輩は愛情研究会の中心なんですから。お休みしちゃうのかなって私も心配しましたよ。何より、先輩がいなかったら寂しいです。」

解が瀬奈や七海に叱られているような、慕われているようなやり取りを聖は微笑ましく見いたが、生徒会長としてはいつまでも勉強の邪魔をするわけにはいかなかった。

「よし、じゃあ協力も取り付けたことだし、私は帰るわ。黒条君、また連絡するから。これからよろしくね。」

「はい、よろしくお願いします。」

解の返事を聞いて、満足げに聖は部屋から出て行った。

 一連の話を傍観していた透矢は聖が出て行ったのを確認した後口を開いた。

「解、手伝うのはいいが、それなりに大変だぞ。何しろ校則改定は教師もPTAも反対してるらしい。ついでにPTAトップはあの生徒会長の母親だ。厳しい親で会長も苦労してるみたいだから、お前にも色々言ってくるだろうな。」

「へえ、そうなのか。」

「そうなんだ、じゃないよ。そんな情報があるならさっき教えてよ。」

のんびりした解に比べて瀬奈は不満と心配で解が曇っていた。解は教師とPTAから目をつけられているので、透矢の話を聞いていれば解も断ったかもしれない。

「娘の前で母親を悪く言うのはちょっとな。それに今の話を聞いても解は断らないだろ。なあ?」

「ああ。頼まれればできることはするぞ。」

「もう、そんなだから割を食うんだよ?七海ちゃんも何か言ってあげてよ。」

「でも、私も最初は『髪を触らせて下さい』から始まってますから、えへへ…。」

「…。」

ここには誰もブレーキ役、あるいはつっこみ役がいなかった。始音不在なことが悔やまれた。しかし、ため息を吐く瀬奈に解が少し困ったような顔で話しかけた。

「誰にも迷惑をかけないだろうから俺の判断で手伝うことにしたんだがな。瀬奈がそんなに嫌なら、手伝えないと伝えに行った方がいいか?」

「いや待って待って⁉それじゃ私一人の意見で止めさせたみたいでしょ!いいから、手伝っていいから!」

「そうか…?」

「うん!」

今の流れで解が手伝わないことになったら、瀬奈と解に男女の関係が、しかも瀬奈がわがままな彼女だと疑われそうだ。慌てて瀬奈は解に手伝っていいと言ったが、肝心の解は状況を理解してないようで、純粋に瀬奈を気遣っていた。全く、心配してあげただけなのに、…。

多少問題はあったが瀬奈も一応解が生徒会を手伝うことに同意したので、愛情研究会としては解が生徒会を手伝うことに全員が同意した形だ。透矢はにやにや笑いながら話をまとめるため解に声をかけた。

「せいぜい会長を公私共に手助けしてやれよ。幸い会長もお前を気に入ってるようだし?」

「公私共にって…。」

いちいち含みを持たせる透矢に瀬奈は呆れていた。七海はあまり考えてないのかのほほんと笑顔だった。いずれにせよ、解が今言うことは決まっていた。

「とにかく、やることをやるだけだ。ただ今は期末テストの勉強をする時だな。まだ帰るまでに時間があるからちゃんとやるぞ。」

その言葉は何となく浮ついた空気を引き締めるには十分だった。



 勉強を終えて全員で帰ることになり、解達は昇降口まで来た。

「やっぱり雨降ってたんですね。」

「朝から言ってたからね。折り畳み持っててよかった。」

「俺は置き傘派だな。天気予報を確認するのが面倒臭いからな。」

そんな話をしながら瀬奈たちが帰ろうとしていると、解が空を見上げた後に何も差さずに帰ろうとしたので瀬奈が慌てて止めた。

「解君待って!傘持ってないの?」

「放課後始音に会った時に貸した。傘がないらしいからな。」

「さすが先輩、優しいですね。じゃあ先輩、私の傘の中にどうぞ!」

「いや、元々雨に濡れるのは嫌いじゃない。だからこのままでいいんだ。」

そう言うと解は雨の降る中をごく自然に歩いていってしまった。瀬奈達は顔を見合わせて解を追いかけた。


 雨に濡れながら解は瀬奈たちを待っていた。濡れた顔を拭いもしないで空を見上げていた。

「先輩、風邪ひいちゃいますよ?」

「そうだよ、誰のでもいいから傘に入ったら?」

「大丈夫だ。さっきも言ったが、昔からよくしてることだからな。」

七海達が説得しても解は聞く耳をもたず雨を浴びていた。普通なら嫌がる雨をむしろ気持ちよさそうに浴びている。心配かつ不思議そうに解を見る七海達を余所に、透矢はのんびりと歩いてきて聞いた。

「まあ解がしたいんだから好きにさせてやれよ。それより、昔からしてるなら理由があるんだろ?良ければ教えてくれよ。」

透矢に言われて解は空を見上げた状態から目線を透矢達に戻した。

「ん…。別にいいが、大した話じゃないぞ?」

「私も聞きたいです!」

「まあ、私も折角だし。」

「そうか。なら話すか。真に引き取られてしばらく経った時のことだな…。」

解は瀬奈達に頷くと昔の話を始めた。



「解君、濡れるから中で待ってましょう?」

保育園の先生が園庭で雨に濡れる解に小走りで寄ってきて傘に入れた。解は無表情で振り返り先生を見上げた。

「雨を見てるだけ。」

先生は困った顔をしてしゃがみ込み解に語りかけた。

「でも、濡れたら風邪ひいちゃうわ。それにお父さんも心配するでしょう?」

「真が…。」

わずかに解の顔が曇った。子供ながらに今の言葉に反抗心があった。真は本当の親じゃないし、心配もしないのに勝手に真のことを話さないでほしい。しかし、風邪をひいて真に迷惑をかけるのは嫌だった。静かに踵を返し園内に戻る解に付き添いながら先生は笑顔で言った。

「そろそろお父さんが迎えに来る時間だから、服を着替えて待ってましょう?」

先生は黙って頷く解を見てほっと息をついた。

 保育園内では解と真の親子は要注意親子だった。二人が親子になった諸事情、真の淡々とした様子、解が全く笑わないことなどから虐待の可能性も考えられたので、先生達は心配していた。とはいえ特に虐待の疑いはなく(空手?の稽古で解にあざができることがあり何度か調べつつも)時が過ぎていた。

 少し時間が経ち、同じ組の子供たちは皆帰り、解だけが残った。解は誰とも遊ぶことがなく、一人静かに絵本を読んだり周りの子供達を眺めたりするのが毎日で、先生に他の子供と遊ぶように促されても聞かなかった。今もぼんやりと窓の外の雨を見続けていた。

「迎えがまだだから、もうちょっと先生と待ってようね。お父さんは何か言ってたの?」

「でも来る。真は嘘を吐かない。」

首を横に振った後、解は無表情のままぽつりと、だがはっきりと言った。先生は解の言葉が意外だった。とても特徴的な、悪く言えば異質で親に見えない真だが、解からは一定の信頼を得ているようだ。二人の間には二人にしか分からないつながりがあるのだろう。

「遅くなりました。」

いきなり声が聞こえたので、先生と解ははっと振り返った。振り返った先には真が静かに立っていた。真はいつもの無表情のまま解に近づき言った。

「帰るぞ。用意をしろ。」

「うん。」

既に帰る準備をしていたのだろう、解はすぐに荷物を持ってきた。真は解の様子を見て頷き、先生に向き直った。

「仕事で遅くなりました。何か変わりはありましたか?」

「いえ、特には。ただ、いつも通りお友達とは遊びませんが…。」

「社会性の発達がないと。お前は誰かと一緒に遊びたいのか?」

「別に。」

解は真の隣で淡々と答えた。本当に全く興味がないようで、目を逸らすこともなくじっとしていた。解の意思を確認した真は先生に告げた。

「無理矢理遊ばせてもストレスになるだけです。そのまま様子を見て下さい。」

「は、はい…。」

真と解が部屋を出て行く時、先生が思い出したように声を上げた。

「そうだ、お父さん。解君は雨が好きみたいで、一人で部屋を出て雨を見に行くんです。だから服を着替えていますので。」

「…解、雨が好きなのか?」

真が後ろにいた解に尋ねると、解は少し顔を曇らせた。それを見た真は重ねて聞いた。

「別に叱ってはいない。雨が好きなのか?」

「…嫌いじゃない。」

解は頷いて先に出て行った。真と先生が追いかけると、解は靴に履き替え再び雨の下で空を見上げていた。その様子を黙って見ていた真は持っていた傘を差さず、雨に濡れながら解の隣に立った。解は意外なものを見るように隣の真を見た。先生は慌てて二人に声をかけた。

「二人とも、濡れたら体に悪いですよ⁉」

「問題ありません。では失礼します。」

そう言うと真は解と共に保育園を後にした。

 雨は強くはなく、しとしとという表現がぴったりな降り方だった。解と真は雨に濡れながら無言で帰り道を歩いていた。濡れるのを全く厭わず歩く二人の様子はもし人が見ていればかなり異様だっただろう。解は真を気にしている様子でちらちら真を見ていたが、ついに真に声をかけた。

「傘、差したら?」

「このままでいい。お前と同じことをしているだけだ。」

真は解に顔を向けず淡々と答え、その後は再び互いに無言のまま歩いた。

しかしやがて、歩きながら解はぽつりぽつりと話し出した。

「濡れたら、冷たくて、気持ちいい。」

「そうか。」

「雨は、一緒にいる。」

「そうか。」

「それで…代わりに泣いてくれる。」

「そうか。」

それ以上解が話すことはなかった。再び沈黙が流れた。が、不意に解の体が浮きあがった。

「わっ…。」

真が無表情のまま解を抱き上げていた。

「今の話がお前の雨に濡れる理由か。冷たくて気持ちいい。側にいてくれる。そして自分の代わりに泣いてくれる、と。」

「…うん。」

真はやはり何の感情も見せなかったが、解はその態度がむしろ心地よかった。表面上の優しさや同情より、何の愛情もなくても常に偽りなく真摯な方がよほど好意的に映った。

「お前は泣きたいのか?」

「ううん。」

「ならいいが、泣きたいなら雨に任せない方がいい。泣くのは感情が発露した結果で、表に出すのは悪ではない。」

「…泣いても、嫌じゃない?」

「それは分からない。お前の言動でどう反応するかは相手の問題だ。だが俺は怒ることはない。そんな心は俺にはない。」

「うん。」

「…そうだな。雨もお前が泣いても怒らず側にいるだろう。お前の言い方なら、雨はお前と一緒に泣いてくれる。お前にとって雨は言葉を持たない友人ということだ。」

真は雨について考察しながら解に話をした。真の言うことは解には難しく、半分以上分からなかった。それでもいくつかの言葉は胸に残った。そして、一緒に雨に濡れてくれた真の姿は雨でぼやけながらも解の記憶に刻まれた。


「そんなところだな。…懐かしいな。」

少しだけ空を見上げて解は目を細めた。真の話をするとどうも昔を懐かしんでしまう。解は過去への郷愁を振り払うように首を左右に振り、透矢達を見た。

「いい話ですね~…。」

七海は普通に泣いていた。解としてはただの昔話のつもりだったが、つぼにはまったらしい。

「な、七海ちゃん、いい話だったのは確かだけど、そこまで泣かなくても…。」

「す、すいません。でも、少し切ない話だなとか、お二人の関係がすごくいいなとか思ってしまって…。」

七海は瀬奈に涙を拭いてもらっていた。解は見ていて申し訳ない気持ちになってきた。

「何というか、すまない。俺の話のせいで泣かせてしまって。」

「感動してるだけだから気にするな。川野辺ほどじゃないがいい話だったぞ。それで?それ以降、涙は雨の日に流すことにしたのか?」

「いや、そもそも覚えてる限り泣いたことがない。」

「なんだ、つまらんなあ。雨も残念がってるぞ?」

「そう言われても、噓泣きも迷惑だからな。」

「そうですよ。先輩が泣かないでいられる方が嬉しいに決まってます。」

泣き止んだ七海が会話に入ってきて力強く言った。その後ろでは瀬奈が苦笑していた。

「お、川野辺も復活したのか。そしたら一つ、全員で解の思い出にならって雨に濡れてみるか。」

透矢はにやりと笑いながらおもむろに傘を閉じた。瀬奈は透矢の奇行に慣れてきたつもりだが、思わずぽかんと透矢を見つめてしまった。しかしすぐに驚きつつも慌ててつっこんだ。

「全員って、女子は駄目に決まってるでしょ!もう、何言ってるんだか…。」

「え、何でですか?」

「何でって、そりゃあ…。」

瀬奈はため息を吐きながら振り返ったが、目に映った光景に驚いて叫んだ。七海は既に傘を閉じていて、それなりに濡れ始めていた。

「えーっ⁉七海ちゃん、何してるの⁉」

「私も先輩とお揃いになろうかと。やってみたら案外気持ちいいですよ。瀬奈先輩もどうですか?」

「駄目駄目駄目!七海ちゃん、服が透けちゃうから!」

「服…?ああ、そんなに透けないから大丈夫ですよ。それに先輩方はいやらしい目で私を見るような人達じゃないですし。」

「そうそう。大事な後輩が嫌がることはしない。なあ解?」

「ああ。ただ、濡れた後は気化熱で冷えるからな。暑いとはいえ気を付けろ。」

「はい!」

「あー、もう…。」

瀬奈は三人の反応を見ていると頭が痛くなってきた。自分が一番まともなことを言ってるはずなのに、この中ではむしろおかしく思えてくるのはどうしてだろう…。解はそんな瀬奈をじっと見ていたが、何か思いついた顔をした。

「瀬奈。」

「え、何?」

不意に、しかも真剣な顔で名前を呼ばれ、少しどきっとした。

「透けるのが嫌ならそれ用の下着があるらしいぞ。キャミソールとか、ペチコートとか言うのか?名前しか知らないが。」

「…。」

よし、聞かなかったことにしよう。それより七海を何とかしてあげる必要があった。

「とにかく!男子は七海ちゃんを見ないこと!七海ちゃんは私と解君の銭湯に行こ?」

「それいいですね!ちょうど体を温められますし、何よりやっと初銭湯です!」

傘を差して走る瀬奈と楽しそうに雨に濡れながら瀬奈についていく七海。二人に置いていかれた解と透矢は焦ることなく歩いていた。

解は折角服が透けない方法を教えたのに…と少し残念そうな顔、透矢は瀬奈と解のやり取りが愉快だったようで喉を鳴らして笑っていた。

「くくくっ。さて、せっかくだから俺も銭湯に入るか。いいか?」

「勿論いいが、もしかしてそのために濡れたのか?」

「まさか。ただまあ、川野辺が大分勉強で参ってただろ?気分転換させようとは思ってたがな。」

「相変わらずよく見てるんだな。…確かに七海は切羽詰まってたな。ある程度の成績をとらないと困る…のか?」

「さあな。俺は環境整備しかできないが、お前は違う。力になってやればいいさ。」

「真面目な話なのににやにやしてるから台無しだぞ。」

解は無表情につっこんだ。ただ、解は別に注意したつもりはなく、透矢も不快に思うことなく笑っていた。二人は対照的な様子だが、不思議とうまく噛み合っていた。

「くく、そりゃ仕方ない。俺はクソだからな。それにしても、お前の話を聞いた後だと雨に濡れるのも悪くないな。雨が本当に側で寄り添っている感じがする。」

「悪くないなら何よりだ。」

二人はそんな話をしながら銭湯に向かった。



「大きいお風呂って気持ちいいですね~。」

「銭湯も結構いいでしょ?だからしばしば来ちゃうんだよね。」

瀬奈と七海は湯船に入ってのんびりと体を休めていた。

 瀬奈達が銭湯に来た時、番台には麗が座っていた。瀬奈は銭湯で初めて麗を見たので少し驚いたが、解とは今まで一緒だったのだから麗がいて当たり前だった。麗は七海が濡れ鼠なのを見てもほとんど驚かず、すぐに事情を察すると着替えを七海に渡し、濡れた服を預かることにして今に至っていた。

「それにしても、七海ちゃんが傘持って濡れてるだけで解君の雨の話とつなげられるって、麗さんってすごい人だね。」

「はい。それだけ先輩を分かってるってことですね。」

「そりゃあもちろん、5歳の時からずっとお世話して来たんだから。解君の事なら何でも知ってるつもりよ?」

「わあっ!」「!」

いつの間にか瀬奈達の後ろに裸の麗が立っていた。麗はにこにこ笑いながら瀬奈達の隣で湯につかった。

「れ、麗さん?仕事は大丈夫なんですか?」

「ご近所の野村さんが上がったから、番台をお願いしたの。」

「そ、そんなアバウトで大丈夫なんですか?」

「大丈夫。後で無料券あげるから。せっかく解君のお友達が来てくれたのに、何もしないんじゃ勿体ないわ。」

「(やっぱりすごい人だ…。)さっきはありがとうございます。七海ちゃんの服を用意してくれて。」

「ありがとうございます!」

「いいのよ。困ったときはお互い様。私も解君と濡れて帰ったことがあったもの。あの頃の解君はほんと可愛かったのよ。無表情なのに真さんの後ろをついていって。」

昔を思い出して麗は幸せそうに笑った。それだけで麗の解への愛情の強さが良く分かった。が、麗ははっと緩んだ顔を引き締めて七海を見た。

「でも、そんなに可愛いのにずぶ濡れになったら駄目よ?濡れたら色々と透けちゃうでしょ?」

「そうですよね⁉やっぱり駄目ですよね!良かった、やっとまともな反応が出た~…。」

「う~ん…。そんなに駄目ですか?先輩は大丈夫だと思いますけど。」

「七海ちゃんは可愛いから駄目よ。女性の扱いはまだ教えてる途中だから、私が教え終わるまでもう少し待ってね。」

「えぇ⁉そんな理由ですか⁉」

やっぱり麗さんも変わり者だった!

「もちろん。真さんに解君を頼むって言われた以上、できることは何でもしないと。」

「さすがにそれは別な気がしますけど…。」

瀬奈は麗がどこまで本気なのか分からず言葉を濁した。つっこみたいところは多々あるが、麗が本気だと反応に困るので聞けなかった。

ところで七海は瀬奈と麗の話を何の気なしに聞いていたが、気になることができたので少し手を上げて会話に参加した。

「あの、麗さんは先輩と一緒に住んでるんですよね?」

「ええ、そうよ。」

「質問なんですけど、麗さんと先輩は血がつながってないんですよね?どうして仲良く一緒に住めるんですか?」

「ちょ、ちょっと、七海ちゃん…。」

「うーん、そうね…。」

麗は考える仕草をしながら七海を見た。場合によっては失礼な質問だが、七海は真面目な、そして少し影のある顔で聞いていた。ならちゃんと答えてあげないと。麗は微笑んで七海に近づき手を伸ばした。

「あの…?」

「七海ちゃんは家族ってどうやったらできると思う?」

優しく七海の頭を撫でながら麗は尋ねた。その姿はまさしくお姉さんと呼ぶのがふさわしい。七海はそんな麗に安心感を覚えていた。

「えっと、結婚したり、子供ができたり、ですか?」

「そうね。じゃあ、結婚するには何が必要だと思う?」

「うーん…。あ、まずは出会わないといけないです!」

「うんうん。他人だった人と人が出会い、少しずつお互いを知って、一緒にいるようになって、って感じね。それでね、今の話は別に恋人でも親子でも、実は全く同じなの。最初は誰しも相手のことを知らないわ。親兄弟は小さい時から一緒にいるせいで知らなかった時がぼやけてるだけ。ここで七海ちゃん、血のつながりは家族に必要だと思う?」

「…必要ない、と思います。」

「そうね。血縁は人間関係における要素の一つに過ぎないの。『時間をかけて互いを知って、相手と一緒に生きること』の方が家族になる上で大事だと思うわ。もちろん私は、だけど。」

七海にも分かりやすいよう麗はゆっくりとなるべく簡単に説明した。七海は真面目な顔で聞いて、考えたことをそのまま口に出した。

「家族になるためには相手を知る努力が必要ってことですか?」

「言い方を変えるとそう。あ、でもその後を考えると七海ちゃんの方が正しいかも。」

「その後?」

「家族ができたら終わり、じゃないでしょ?それぞれが愛し愛される自分じゃないと、せっかくのつながりも切れちゃうわ。愛情は努力しないと無関心や憎しみに変わるってことね。」

「愛情が変わる…。」

七海は俯きながら小声で呟いた。色々と思いを巡らしているようで、七海には珍しく暗い雰囲気だった。

…しかし、七海の頭は次第にふらついていき、瀬奈に寄りかかってしまった。

「ど、どうしたの七海ちゃん?」

「うーん…。」

瀬奈が少し驚きながら声をかけると、七海は顔を上げた。目はぼんやりとして顔が赤くなり、体は瀬奈にもたれかかり…要はのぼせていた。瀬奈は七海が沈まないよう慌てて体を支えた。

「麗さん、七海ちゃんのぼせてます!早くお風呂から出してあげないと!」

「あらら…。ちょっと話が長かったかしら。ごめんなさい。」

麗はのんびりした口調だが体は迅速に動いていて、さすが概ね一人で銭湯を切り盛りしているだけのことはあった。こうして、七海は瀬奈と麗、他お風呂場にいた客によって助けられたのだった。


「まさか女湯ののれんをくぐる日が来るなんてな。思いもしなかったぞ。」

「俺は掃除があるからよく入るが、客がいる中では初めてだ。」

解と透矢は団扇で七海をあおぎながら軽口を叩いた。

 男子二人は遅れて銭湯についたものの、さっさと風呂を済ませ瀬奈達を待っていた。すると女湯の方から麗の呼び声がしたので、急ぎかつ注意深く進むと七海が倒れていたのだ。着替えが済んだ七海を男二人で運び、解が処置して今に至っていた。

「す、すいません。迷惑かけてしまって…。」

「何も迷惑じゃない。安心しろ。それより具合が良くなってよかった。」

「のぼせって、熱中症みたいなものなんだな。初めて知ったぞ。」

「水分をとって冷やす、頭への血流を保つ。これが基本だ。」

「ほんとよく知ってるね。すごいなあ。」

「そりゃあ解君だもの。家にある医学書はほとんど読んでたわね。」

感心している瀬奈に得意気な麗。その麗に冷静な目を向ける解がいた。

「どうして麗さんが俺の説明をしてるんだ?」

処置の最初こそ慌ただしかったが七海の様子が良くなってきたので、その場の全員が雑談できるくらいには落ち着いていた。

「後から来た私が長話したせいでのぼせちゃったわね。ごめんなさい、七海ちゃん。」

「いえ、全然。すごくためになりましたので、むしろありがとうです。」

「風呂の中で何の話をしたんだ?」

興味を持ったのか解が尋ねると、隣の瀬奈が七海の代わりに答えた。

「家族の成り立ち?みたいな話だよ。というか、女子のお風呂トークの詳細を聞かないの。」

「駄目なのか?愛情関係の話なら文書化しておきたいんだが。」

解は瀬奈と話しながらも七海の脈をとったり、体温を測ったりしていた。その様子は正に医療関係者という感じだった。

「多分もう大丈夫だろう。七海、起きてみてくれ。」

「はい。……あ、大丈夫みたいです。起きてももうふらふらしませんよ。」

「よし、それならもう少し水分をとったら帰れるな。」

「本当に大丈夫?解君の家は近くだから、今日泊まっていくのもありよ?」

責任を感じている麗がそう七海に提案すると、七海は驚いて声を上げた。

「先輩の家にですか⁉そ、それはちょっと惹かれますけど…。駄目駄目!お邪魔ですし、遠慮します…。」

「そう?ならせめて解君、送ってあげてくれない?仕事は私が全部しておくから。」

「…そうだな、分かった。七海、いいか?」

「で、でもこれ以上迷惑かけるのは…。」

「迷惑じゃないから心配するな。」

恐縮している七海に解は力強く言った。透矢は七海が静かになったことを確認して解に声をかけた。

「俺や霧谷がついて行かなくていいのか?」

「この調子なら俺一人で大丈夫だ。俺じゃなくてもいいが、万一に備えるなら俺が適任だろう。」

「確かにね。一応聞くけど、茅野君は応急処置できる?私は怪我の手当てで精一杯。」

「俺もそんなものだ。となると、やっぱり解が適任だな。」

七海以外の全員が七海を見た。七海は申し訳なさそうに身を縮めて俯いた。

「でも…。」

「お前一人で帰るのは危険だ。それに皆が心配する。今回は俺達を安心させるためだと思ってくれないか?」

「…はい。」

頷く七海はやはり申し訳なさそうだった。


 心配する麗や瀬奈と別れ、解は七海の手を引いて七海の自宅に向かった。雨は降り続いていたが、今回は二人で一つの傘に入り濡れないようにした。

それほど銭湯から遠くない所に七海の家は建っていて、ごく普通の一軒家だった。花壇で元気に咲いているマリーゴールドがこの家を象徴している気がした。

「先輩、ありがとうございました。もう大丈夫です。」

七海はふらつきこそしないがいつもより元気がなかった。解の手を離し、頭を深く下げた。

「頭は下げなくていい。俺が勝手に送っただけだからな。」

「いえ、そんな…。」

がちゃっ。

二人が玄関前で話していると、自然にドアが開いて中年の女性が出てきた。

「七海?」

「あ、お母さん。」

「お帰りなさい。帰りが遅いから心配したのよ。でも制服はどうしたの?…あの、すみませんが、娘に何か?」

七海の母親は七海に声をかけた後、固い表情と声で解に話しかけた。解が七海に何かしていると思ったのか、非常に警戒していた。解は事情を説明しようとしたが、その前に七海が慌てて解と母親の間に割り込んだ。

「待って、お母さん!この人はいつもお世話になっている先輩なの。今日は調子が悪くなった私を心配して家まで送ってくれたんだよ。」

「え…。もしかして、この人が『先輩』?す、すみません!知らずに失礼しました!」

七海の母親は態度を一変し平謝りした。解は申し訳ない気持ちになりながら答えた。

「いえ、俺の見た目だと心配して当然だと思います。今日は俺が勝手に心配してついてきただけなので、気にしないで下さい。…では、俺はこれで。」

解は邪魔にならないよう帰ろうとしたが、七海はそんな解の腕をつかんで離さなかった。

「先輩、よかったら家の中で少し休んでいって下さい。」

「そうね、私もお詫びしたいし、是非ゆっくりしていって下さい。さあ、どうぞ。」

「え、いや…。」

解は遠慮して断ろうとしたが、川野辺親子に勧められて家に押し込まれる形になった。押しが強いというか、猪突猛進なところはまさしく親子だった。


「黒条さん、お菓子まだありますけど食べますか?」

「あ、いえ、もう十分頂きました。ありがとうございます。」

もてなされるのに慣れていない解は少しぎこちなく七海の母親に答えた。

 解が七海の家に入ってから少し。自己紹介と今日の経緯を説明した後、今は川野辺親子、解の三人で食後のコーヒーを飲んでいた。食後というのは軽く夕食を食べたからだ。解はかなり遠慮していたが、押しに負けて結局ご飯とみそ汁だけは頂くことにした。図らずも川野辺一家の夕食に同席した解だったが、一家の明るく親しみやすい雰囲気のお陰で居心地の悪さを感じずに済んだ。

 七海は両親と小学六年生の弟と同居する四人家族の長女だった。母親は朗らか、弟は七海のように明るい様子であり仲が良さそうだった。現在父親は仕事で不在、そして今日はいたが母親もいつもは仕事で家を空けることが多く、七海がよく家事をするらしい。

「そういえば前に食べた弁当はよくできていたな。」

「えへへ…。ありがとうございます。先輩のサンドイッチもおいしかったです。」

「え?いつか持って帰ってきたパンも手作りのサンドイッチのこと?黒条さんが作ったんですか?」

コーヒーを飲んでいた七海の母親がサンドイッチという言葉に反応した。女性が作ったのだと思っていたのだ

「はい。七海のものに比べれば簡素なものでしたが。」

「簡素だなんてそんな。家族みんなで美味しく頂きましたよ。遅くなりましたがありがとうございます。」

「いえ、恐縮です。」

七海の母親は頭を下げる解を見てなるほどと頷いた。七海は「先輩」のことを家でもよく話すが、褒め過ぎなので誇張だと思っていた。しかし、本物は見た目こそ突飛だが話を聞く限り相当しっかりしていた。これなら七海が懐くのも分かる気がした。

「七海から聞いてましたけど、黒条さんは本当にしっかりしてますね。七海も見習ってほしいわ。」

「いえ。俺の方こそお世話になっています。髪も七海のお陰で適当じゃなくなりましたから。」

母親は解の言葉の意味がすぐには分からず不思議そうな顔をした。七海はそんな母に得意気に説明を付け加えた。

「お母さん。先輩の髪は私が切ってるんだよ。すごいでしょ?」

「ええ⁉すごいけど、そんなの黒条さんに迷惑でしょ。無理言ったら駄目よ、七海。」

「無理なんて言ってないもん。私は先輩に喜んでほしいだけなの。まあ、髪の毛は触らせてもらってるけど…。」

「ほらやっぱり。わがままを言って黒条さんを困らせたら駄目でしょう?」

「違うって言ってるでしょ。私は…。」

解は二人が徐々に険悪になってきたことを感じ取り、解は仲裁のため強引に二人の会話に割り込んだ。

「待って下さい。確かに散髪は七海からの提案でしたが、最終的に俺が決めたことです。七海はわがままを言わないし迷惑もかけていません。むしろ色々助けられています。」

「黒条さん…。」

「ただ、七海もそう強く言わない方がいい。親は子供を気にかけて色々言うものらしい。それにお前は喧嘩したら恐らく後悔する。嫌な思いはしてほしくない。」

「先輩…。」

瀬奈は解の言葉に感じ入り言い合いを止めた。かばってくれたこと以上に、「喧嘩したら後悔する」との言葉は解が自分を見てくれている証拠に思えた。解は七海が落ち着いたことを確認してから七海の母親に向かって頭を下げた。

「…すいません、偉そうなことを言って。」

「い、いえ!私こそすいません、お客様の前で…。」

七海の母親は恐縮し頭を下げ、七海と同じように言い争いを止めた。解は二人落ち着いたことにが安心して椅子から立ち上がった。

「随分長居してしまったので、そろそろお暇します。仕事も任せていますし。」

「仕事もしてるんですか?本当にしっかりされてますね…。せめて玄関まで送りますね。ほら、七海も。」

「う、うん。」

 玄関を出て傘を差した後、解は七海達に振り返り頭を下げた。

「ご馳走様でした。人の家で食事をしたのは初めてでしたが、ゆっくりできました。七海、今日は早く寝るようにな。もう元気とはいえ無理はしないことだ。」

「はい!心配してくれてありがとうございます。先輩もお気をつけて。」

「ありがとうございました。よかったらまたいらしてくださいね。」

解は再度頭を下げ、家を後にした。七海と母親は外に出て解を見送っていた。母親が小さくなった解の背中を見ながらしみじみと呟いた。

「独特な雰囲気の人だったわね。けどすごいわね。働いて、勉強も家事もして…。」

「うん。先輩はかっこいいし優しいし、すごい人なんだから。私も嫌われないようにしないと。」

「ふふ、そうね。それにしても、七海はああいう人が好みだったのね。意外と面食いだったんだ。」

母親にからかわれた七海は真っ赤になった。

「そ、そんなのじゃないから!そもそも私が相手じゃ先輩に申し訳ないし…。」

「ふうん?彼女になるのが嫌なわけじゃないのね。」

「え…?それは、嫌じゃないけど…。でも、先輩には瀬奈先輩とか始音先生とか、私よりきれいな人がいるし…。」

「あら、ライバルがいっぱいなの?七海も苦労するわね。」

「もう、お母さん!」

川野辺親子は仲良く家の中に入っていった。


 解は銭湯に帰り麗と仕事を終え、家に帰ると今後は夕食を簡単に作り麗と食べた。洗濯、掃除を済ませ風呂を済ませると、もう夜は更けていた。さすがにもう勉強するのは面倒だった。

「…寝るか。」

解がベッドに横になると、七海とその家族の姿が思い出された。とても仲の良い兄弟親子で、その親子の在り方は解と真のそれとは全く違った。羨ましいともそうなりたいとも全く思わなかったが、川野辺親子の姿はとても好ましいものだった。しかし、その分最近の七海の様子が気になった。時々見せる何かに悩む様子、母親と少しもめた時の様子。詳しく聞いてはいないがお風呂でも何か話していたらしい。そういえば、愛情研究会で最初に行った自己紹介でも透矢の質問に妙な反応をしていた。

(七海の悩みが解消するために何か手伝えればいいんだ、が…。)

とはいえ七海から簡単に聞けるものでもなく、解にできることは待つのみだった。もやもやと考えるうちに解はいつの間にか眠りにおちていた。

 解は夢を見ていた。七海とその母親を見たためか、母親の夢だった。食事を与えてくれた、服も着せてくれた、排泄物の処理もしてくれた。ただ、解を愛してはいなかった。無表情で無口な解を気味悪がり、側にいることは少なかった。手をあげることはなかったが、夜は解を置いて遊びに出かけた。そんな母親の顔はとうの昔に忘れているのに、夢の中ではいくつもの母親の姿が再生された。

そして最後はいつもの場面だった。こちらに声をかけた後出て行く母親。閉まるドア、じっとしている自分。あの時自分は何を思ったのだろう。ただ虚ろだったと記憶しているが、悲しみや怒り、恐怖が隠れてはいなかったか。解は思い出せないまま、部屋の中一人でうずくまっていた。

 麗が朝起きるとまだ台所に解はいなかった。昨日は七海のこともあり解も疲れたのだろう。そう考え解の代わりに朝食の準備をした。しかし、食事が用意できても解は起きてこなかった。事態を察した麗は真剣な顔で席を立ち解の部屋に行くと、軽くノックした。反応はない。麗は無言でドアを開けた。

麗がベッドを見ると、解が丸くなり震えていた。その様子に胸を痛めつつ麗は解の隣で横になり解を抱きしめた。解は目を強く閉じ歯を食いしばり、じっと耐えていた。解から反応がなくても麗は慌てることなく解を抱き、背中を優しくとんとんと叩いた。次第に解の体は震えが収まり脱力していったので、ここで麗は初めて解に声をかけた。

「解君、大丈夫?」

すぐに返事はなかったが、しばらくして弱々しい声が返ってきた。

「大丈夫だ。ありがとう、麗さん…。」

「まだ朝早いから、急がなくて大丈夫よ。動くのはゆっくり、焦らずにね。」

「ああ。」

まだ朝なのに、解は疲れ切った声でなんとか返事をした。

 それから15分程経ち、ようやく解は動けるようになった。麗の腕の中でもぞもぞと動く。

「あ、もう大丈夫なの?無理しなくてもいいわよ?」

「いや、もう動ける。」

解が起きようとするので麗は抱きしめていた腕をほどいた。解放された解は起き上がってこわばった体を動かした。麗はそんな解を見ながら口を尖らせて呟いた。

「もっと甘えてくれてもいいのに…。」

「これ以上甘えたら駄目だろ。助けてもらってなんだが、麗さんは甘やかしすぎだ。」

「えー?そんなことないわ。」

会話しながら二人は居間に移動して朝食を食べ始めた。

「朝の準備、しなくて悪かった。」

「いつも家事してもらってるんだから、これくらいはね。…それにしても久しぶりだったわね。半年ぶりくらい?」

「ああ、確かそれくらいだ。」

「やっぱり定期で薬を飲んだ方がいいんじゃない?」

「まだいいと思う。今後次第だ。昨日は七海の母親とも話をしたから、それで思い出したのかもしれない。」

「そっか…。」

以後二人はそれほど話すことなく食事を終えた。解が食器を片付けようとすると、麗が解から食器を取り上げて少し強い視線を解に向けた。

「こら、今日は私が片付けます。夜も私が作るから、解君は勉強とバイトをしてね?」

「いつも発作はたまたまなんだから、そんなに気にしなくても…。」

「駄目。鏡で自分の顔を見てきて。顔色悪いから。本当は勉強もバイトも休んでほしいくらいなの。分かった?」

「…はい。」

解はこういう時の麗に勝てないのを知っているので、素直に頷くしかなかった。しかし、解を心配しているからこそ麗は言っているので、心の中で感謝するのだった。


「解君、寝てるの?おーい。…きゃっ!」

声をかけられて解は飛び起きた。びっくりして誰かがのけぞり離れた。解は自分と周囲を見て今の状況を確認した。

「…ああそうか、仕事中だった…。」

解はふーっと長い息を吐いて再度番台の椅子に座った。すると横から声がした。

「ちょっと、せっかく起こしてあげたのに無視はひどいんじゃない?」

「ああ…始音か。そうだ、起こしてくれたんだったな。ありがとう。」

解は始音に気付いてなかっただけで無視したのではなかったが、素直に頭を下げた。始音は冗談で小言を言っただけだったが、真面目に謝ってきた解の顔を心配そうに覗き込んだ。

「朝から顔が青白かったし、調子悪そうね。何かあったの?」

「…そんなに分かるものなのか?」

解が少し困ったような顔で尋ねると、始音は呆れ顔になった。

「全くの他人ならともかく、いつもの解君を知ってるなら分かるわよ。瀬奈ちゃん達も心配してたんじゃないの?」

「ん…。」

解は今日を思い出してみた。そういえば瀬奈と七海が何度も体調を聞いてきた気がする。透矢はいつも通りだったと思うが、相手の調子を見抜けない透矢ではないだろう。

「…そうかもしれないな。隠せているつもりだったから、情けない話だ。」

「そんなことどうでもいいわよ。皆心配してくれたんだから、明日ちゃんとお礼するように。」

「そうだな。ありがとう、始音。お前に教えてもらわないと気付かないままだった。」

「うん。先生は生徒を導かないとね。…で、どうして不調なの?あんまり言いたくないみたいだけど、私にも言えない?」

解が何となく誤魔化そうとしたのも始音には筒抜けのようだ。解としては理由を話していいのだが、麗に助けられていることは知られたくなかった。独り立ちしていてもおかしくない年齢でまだ誰かに助けてもらっているなんて情けないにも程がある。

「…情けない話だから端的に説明するだけでいいか?」

「はあ。よく分からないけどいいわよ。」

「助かる。端的に言うとパニック障害みたいなものだ。急に苦しくなって動けなくなる。時間が経てば収まるんだが、疲労は残る。朝それがあったから、今日は一日引きずっていたんだ。」

始音は真面目な顔で聞いていたが、話が終わると「ん?」という顔をした。

「よく分からないけどそれって病気でしょ?何が情けないの?」

「…確かに。」

最初から今のように言えば別に麗のことは話さなくて済んだ。それも気付かない程自分の性能が落ちているようだ。

「病気なら仕方ないわ。情けないなんて思わないから安心して。でもそのパニック障害?って治るの?」

「薬を飲めば落ち着くこともある。俺の場合は発作が頻繁じゃないから経過を見るだけにしている。」

「ふうん。でもそれじゃ症状が出た時は我慢するしかないのね…。今回はともかく、次に体調が悪くなかったらちゃんと言ってよね?」

「ああ、ありがとう。」

解は礼を言いながらも心の中で始音に謝っていた。解の症状はパニック障害ではなく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のフラッシュバックと言われるもので、解は説明を省くための言い訳としてパニック障害を使った。解の症状はまず母親との生活の記憶が発作的に眼前の光景として現れ、次に動悸、吐き気、頭痛、呼吸苦、不安感といった症状が出現する、というものだ。つまり、PTSDのことを話せば昔のことを話さなければならなかった。

解は母親のことを麗や真とすらほとんど話したことがなかった。自分でも不思議と、何となく、だが意図的に意識に上がることを避けていた。今回も解は母親のことを隠したことはあまり気にしておらず、パニック障害と嘘を吐いたことを気にしていた。

解の体調について話が済んだところで始音が思い出したように声を上げた。

「あ、そうだ。悪いけど話変えるわね。解君、あなたまだ進路希望の紙、出してないわよね?」

「悪い。まだ決まってないから書いてない。」

「進学じゃないの?気にしてないんでしょうけど、学年トップレベルの成績よ?」

「そうか。ただそう言われても、就職でも問題ないからな…。」

始音は解が考えている姿を黙って見ていたが、先生の顔で相談に乗ることにした。

「解君は考え過ぎじゃない?若いんだから、自分がしたいこと、得意なこと、興味があることを前面に出していいのよ?まあないのかもしれないけど…。でもとにかく、たとえ間違えても十分やり直せるんだから。」

「…その通りなんだがな。ただ、愛情研究会的に言うと『もの』への愛情がないから、したいことや興味のあることがない。」

「解君は何事にも執着がなさそうだものねえ…。勉強や医学は?絶対得意でしょ?」

「人よりしてるだけだ。」

「金銭的余裕はあるの?あ、元は真さんのお金だから、なんて言うのは駄目よ。」

「…進学する余裕はある。真は最低限使うだけだったからな。」

「でしょ?なら医学部なんてありだと思うけどな。医者の解君、格好いいじゃない?」

解の頬をつつきながら始音は笑っていた。いつの間にかその顔は先生のそれではなくいつも通りに戻っていた。解は始音につつかれながら顔をしかめた。

「格好いいで決めたら駄目だろう。それに、医者なんてもっと志のある人間がするんじゃないか?」

「なら聞くけど、真さんはなんで医者になったの?聞いたことある?」

「…患者、家族、医師、看護師など、多種多様の人間を見て人を、そして愛情を学ぶため、とか言ってた。」

「ほら、別に志が高いわけじゃないでしょ。むしろそれが普通よ。好きでもない、大した理由もない、けど進路を決めるなんてよくあるわ。でも、それは悪いことじゃない。決めたことに責任をとるなら問題ないんだから。」

始音は気楽に、しかし真面目に考えるように言ったのだが、真面目に聞いていた解は一層顔をしかめて唸った。

「進路をどうすればいいのかますます分からなくなったんだが…。」

「え?ごめん、説明が足りなかったかしら。要は、しっかり者の解君は何をしてもいいんじゃない?ってこと。進路はいつどう変えてもいいんだから、とりあえず適当に書いて提出したらいいわ。」

「…なら、とりあえず、進学にしておくかな。相談に乗ってくれてありがとう、始音。」

「どういたしまして。私先生だし、私と解君の仲なんだから、どんどん頼りなさい。」

「それはそれでどうかと思うが。…しかし、どうしたら趣味だとか、好きなことができるんだろうな。」

解が悩まし気にぽつりと呟くのを聞いて、始音は微笑ましい気持ちになった。いつもは冷静でしっかりし過ぎている解も、精神的な問題では年相応に悩むこともある。始音にはそれはむしろ良いことのように思えた。それに、悩んでいる解は始音的に可愛かった。

「人でも物事でも、意図して好きになるのはなかなか難しいわよ。触れているうちに好きになることはあるけど、それも狙ってのことじゃないのよね。」

「つまり、好きになる方法を考えても意味がない、ってことだな。」

「でも、諦めたり否定的になったりするのはよくないわ。どうせ好きになれない、なんて思ってたら何か、誰かを好きになれるはずないでしょ?」

「可能性の芽を自ら潰すのはよくないな。始音の言う通りだ。」

「でしょ?それに熱中できることがない、やりたいことがない、好きなことがない、そんな人は結構多いわよ。もちろん解君とは背景も程度も違うから参考にはならないけど、他の人がいずれ消化していく悩みを解君が解決できないはずないと思うわ。」

他人ができるなら俺もできるという主張は話が飛躍していて、俺のような存在は他人ができることこそできないぞ、と解は喉から出かかったが止めた。つばめが教えてくれたことを思い出したからだ。ここで自分を卑下すると始音を傷つけるかもしれない。

「…買いかぶり過ぎな気もするが、焦らなくてもいいのは理解した。お前にがっかりされないように努力して、愛情や進路の問題を解決しないとな。」

解が比較的前向きなことを言うと、始音は目をぱちくりさせて解を見た。

「どうしたの、解君?いつもなら『俺みたいな奴じゃ無理』みたいに言うのに。いや、自分を悪く言わないのは良いことなんだけど。」

解の思考は始音にばれているようだ。解は一瞬どきっとしながらも落ち着いて返事をした。

「男子三日会わざれば刮目して見よ、だ。」

「ふ~ん。誰かの入れ知恵っぽいけど、まあいいわ。解君がよりいい男の子になるのは私も歓迎だしね。」

…三日どころか、何年かかっても始音に刮目してもらうのは無理かもしれない。そう解は思った。


 進路のことは気にしつつも期末試験前の勉強期間はあっという間に過ぎ去り、いつしか試験最終日になった。そしてこの日は解が生徒会に初めて顔を出す日でもあった。

「はい、筆記用具を置いてー。後ろから集めてくれー。」

答案用紙を集めながらぼそぼそ話し声が聞こえた。

「やっべー、分かんなかった…。」

「昨日勉強したところがちょうど出たよ!」

「今回は結構できたと思うんだけど。」

教師が教室を出ていくと、期末試験が全て終わった解放感で教室内は一気に活気があふれた。そんな中でも落ち着いている解は静かに椅子に座ったままだった。そしてそんな解にいつものように透矢が話しかけた。

「さて、試験が終わったんだが、出来はどうだった?」

「まあまあだ。お前は?」

「どうかねえ。今回はお前に勝ってるかもしれないぞ?」

「最初から戦ってないからな。…そうだ、透矢は進路を決めてるか?」

一瞬透矢はきょとんとしたが、すぐににやりと笑ういつもの表情に戻った。

「進路でお悩みか。いいぞ、教えてやる。俺は大学に行くつもりだ。記者にでもなろうと思ってな。」

「記者?記事を書くのが好きなのか?」

「いや、別に好きじゃない。ただ、俺は情報を得るのが無駄に得意だからな。それにクソ共の隠し事を暴けば俺の視界からクソが減っていくだろ?」

透矢らしい、攻撃的でありながら冷静さも併せ持った理由だった。

「逆に嫌なものを見る機会が増えるんじゃないか?」

「まあな。だがクソ共は俺が見てないところでも増え続けるんだ。なら自分から見にいっても一緒だ。むしろ、自分で選べる分ましかもな。」

「そうか…。」

前向きとも後ろ向きともいえる理由だが、透矢の言葉は力強く無駄な迷いがなかった。解は七海、つばめ、始音のことを思い出していた。

「皆すごいな。本当に尊敬するぞ。」

「他の奴にも聞いたのか。お前も悩んでるんだな。…お?解、来たぞ。」

透矢に促され解が教室の外を見ると、ちょうど生徒会長の聖と目が合った。こちらに向かって手招きしていた。

「行ってこい。俺や霧谷は先に同好会室で待ってるからな。」

解が瀬奈の机を見ると、ちょうど瀬奈と目が合った。クラスの女子と話しながらも解を見ていたらしい。解は瀬奈に頷いて、透矢にも終わったら同好会室に行く旨を伝えて聖の元へ向かった。


 生徒会は会長、副会長、書記、他二人で構成されており、解は愛情研究会と似ているなとぼんやり思った。

「あ。黒条先輩、会長。お疲れ様です。」

解と聖が生徒会室に入ると、机の整理をしていたつばめがすぐに気付いて寄ってきた。

「杉崎さんもお疲れ様。準備ありがとうね。」

「デート以来だな。杉崎は元気か?」

「は、はい、元気です。これからよろしくお願いします!」

「ああ。よろしくな。」

聖は杉崎と解が話しているのを笑顔で見てから生徒会長の席に着いた。

「ところで黒条君?一応確認するけど、ちゃんと資料は見た?」

「それは一応。」

「なら、生徒会が目下困ってることは?」

「困っていること?…生徒会の権限がないから教師やPTAに校則を変えるための提案も難しいこと、ですか?」

「その通りよ。さすが、ちゃんと読んでるのね。今の生徒会は先生の下請けみたいなもの。はっきり上下関係が明記されてるわけじゃないけどね。でもそのせいで校則変更の提案をしても門前払いなの。」

聖は深いため息をついた。困っているというか、嫌気がさしているといった感じだ。

「これ以上は皆が集まってからにしましょう。黒条君がちゃんと資料を読んでくれてるのは分かったし。」

解は聖を眺めた後につばめに小声で尋ねた。

「さっきのテストみたいな質問は生徒会だとよくあるのか?」

「いえ、私はされたことないですよ。」

「そうか。」

解は相変わらず無表情で一人納得するとつばめの隣に座った。少し待っていると他の生徒会員も来たので会議が始まった。


………

「…というわけで、生徒へのアンケートは先生とPTAから許可が出ませんでした。」

「すいません、会長。試験期間とはいえあまり進捗がなくて…。」

試験期間中に生徒会員がしたことを確認していたが、いい報告はなく大体上からの邪魔が入ったという内容だった。厳しい顔をしていた聖は表情を笑顔に変え全員を見回した。

「まず、試験勉強があったのに頑張ってくれてありがとう。無理はしないでほしいけど、頑張った皆を私は尊敬してるわ。」

聖の言葉に部屋の空気が少し穏やかなものになった。生徒会は聖を中心によくまとまっているようだ。生徒会なので全員がきっちりしているが仲もよさそうだ。解はそんな考察をしつつも愛情研究会の一同を思い出していた。周囲から見れば俺達もこんな風に見えるんだろうか?

「最初に報告からだったけど、今日は助っ人を紹介するわ。皆も知ってるでしょうけど、二年の黒条解君よ。愛情研究会から意見を出してもらうために呼んだの。さ、黒条君、一言お願い。」

「黒条解です。よろしく。」

…一言だった。一瞬の間の後、生徒会室に笑い声が響いた。

「本当に一言で済ますとは、やっぱり変わってるな。俺は佐々木。三年で副会長だ。」

「俺話してみたかったんだよ。二年の松原だ。なあ、その髪地毛なんだろ?」

「ああ。」

「噂しか知らないけど、不良っぽいのにしっかりしてるんだよね?あ、ごめん、私二年の野村。」

「しっかりはともかく、不良ではないぞ。」

「こらこら、雑談は後でね。いきなりだけど黒条君、さっきの話を聞いて、まず先生やPTAと話をするにはどうしたらいいと思う?」

全員が注目する中、解は顎に手を当てて考える仕草をしながらも早速意見を出した。

「生徒にアンケート、というか署名活動はありだと思います。」

「でも、許可が出なかったんだよね…。」

「そもそも署名活動に許可はいらない。それに生徒会が主導する必要もない。むしろ、生徒から話が出てきた形の方がいい。」

「つまり、どういうことだ?」

「愛情研究会が自発的に署名活動をする。それも二日間くらいで一気に。これなら教師も邪魔できない。」

生徒会室がざわめいた。

「邪魔はされないかもしれないけど、後で怒られないか?」

「署名活動だけなら教師も処罰できない。それに、俺は教師二人がクビになった原因の一人だ。何か言ってくる教師はそういないはずだ。」

「で、でも二日で多くの生徒から署名を得るのは…。」

「最近は携帯からも署名できるんだろう?透矢、俺の仲間ならいい知恵を持っているはずだ。」

「…実行可能かどうかは調べないと分からないとはいえ、なかなか思い切ったことを考えたな…。会長、どうだ?」

聖は目を閉じ眉間にしわを寄せて考えていたが、副会長に聞かれると目を開け迷っているような声を出した。

「アンケート、もしくは署名で生徒も巻き込んでいくのは賛成。けど、愛情研究会の負担とリスクが大き過ぎるわ。それで得られるのはデータだけだし…。」

「いや、その後のプランがあります。」

聖の発言をあえて遮って解は言った。聖は話を遮られたものの、文句を言わずに解の言葉を待った。

「データを一部の教師やPTAにしか見せないのは上手くない。もっと色んな人に見てもらった方がいい。SNSで無関係の人にも広げたり、校長先生や教育委員会に見せたりとかだ。広がるほど少数の意志に邪魔されなくなるはずだ。」

「むむむ…。」

聖は口ごもった。解の言っていることはある程度筋は通っている。上手くいけば確かに大人達と話し合いの場を設けられるかもしれない。愛情研究会にお願いする仕事は多いが、活躍が校内に知れ渡れば彼等の立場もより良くなるだろう。…ぽっと出の解がいきなり会議の場で活躍しているのは少し悔しいが。

「…分かった。愛情研究会の力を見せてもらいます。今日は金曜日だから、来週月曜日に完璧じゃなくていいから計画を文書にして持ってきてくれる?無謀なら止めないといけないし、生徒会が協力できる部分があるかもしれない。いい?」


「…ということだ。」

「あっはっは!いきなり啖呵切ってくるとはな。生徒会も驚いただろうな。」

笑っている透矢の横で始音が渋い顔をしていた。

「解君、大事なことは相談してから決めないと駄目じゃない。連絡しなさいよー。」

「確かに悪かった。できそうだったから、つい。それと、連絡しようにも携帯を持ってないぞ。」

「そうだったわね…。」

始音ははあ、とため息をついた。解は即断即決の傾向があるから、時々思いもつかないことをする。別に怒ってはいないが、困ったものだ。

しかし、始音と対照的に七海は元気よく手を上げた。

「私は先輩に協力しますよ!つばめちゃんを手伝うことにもつながりますから。」

「私もそれくらいなら手伝っていいよ。アンケートすら許されないってどうかと思うしね。」

七海に続いて瀬奈も笑顔で解を手伝うと言った。残る女性の始音は女子二人の反応を見て、やれやれと首を振った。

「もう、七海ちゃんも瀬奈ちゃんも解君に甘いんだから。まあ私も手伝うけど。」

「というか始音先生、教師がこの話を見て見ぬ振りをしていいんですか?」

「いいのよ。教師より解君側の方が楽しいもの。そもそも生徒が校則の改定に参加して何が悪いんだか。大人のくせにいちいち文句言って、器が小さいのよね~。」

瀬奈に尋ねられた始音はやさぐれた感じを前面に出して答えた。完全に開き直っていた。

「先生、はっちゃけ過ぎです…。」

「透矢も手伝ってくれるか?」

解はにやにやと全員を見守る透矢に真剣な顔で聞いた。嫌味ではなく本気で頼んでいたからだ。そして、透矢は解の気持ちを汲んで答えた。

「当然手伝うぜ、親友。アンケートと署名をデジタルとアナログ両面から全生徒対象で、約2日でするんだろ。ネット上でのアンケートと署名、それと根回しは俺に任せろ。ついでに今後だが、生徒会に協力してもらう教師はさっきも挙がったが校長がいい。」

「どうしてですか?やっぱり校長先生が一番偉いからですか?」

「俺と解が退学騒ぎの時に結構話をしたんだが、考え方が柔軟でな。こちらの話がしっかりしてれば力を貸してくれるだろう。それにな。」

透矢は一度言葉を切り、意味ありげに解を見た。

「それに、この前の真さんの昔話なんだが、あれは校長から聞いたんだ。校長は真さんと同級生で知り合いだったからな。」

真の名前が出て、解がぴくりと反応した。

「校長は真と同級生だったのか…。」

「な?協力してもらうなら校長だろ?」

「確かにな。」

「伏線張り過ぎでしょ。もしかして全ての黒幕だったりしないよね?」

「まさか。俺もあまりに運命的だから正直驚いてるくらいだ。」

本気ではないにしろ疑ってきた瀬奈に、透矢は軽い調子で答えながら肩をすくめた。さすがに全てを予測することはできない。それにしても、やはり解が動くと予測できないことが起きるので実に面白い。

「とにかく、今の話から計画を具体的に立てて週明けに生徒会に提出。アンケートをとる二日間はみんなで動く。こんな感じ?」

「そうなるな。」

瀬奈のまとめに解は頷いて全員を見た。皆反対はなく、納得したようだ。

「それなら、迷惑をかけるがよろしく頼む。手伝ってくれてありがとう。」

解は頭を下げた。その時、ふと生徒会の様子を思い出した。あの時の聖も今の自分のような思いだったのかもしれない。愛情研究会と生徒会。全然違う団体だが行き来するとそれぞれに見えてくるものがあるのだと分かった。


月曜の放課後になり、今後の活動計画の話をするため解は七海と共に生徒会室に向かった。ちなみに七海は解の活躍とつばめの働く姿を見たいとのことでついてきた。

「…茅野透矢がネットで署名もアンケートもできる様にしてくれました。土日の間に噂も流したそうです。良ければ今週の水曜日、木曜日に行動する予定です。」

「…あの時も思ったけど、茅野君はすごいわよね。本当に高校生?」

「変わっているとは思います。自分を『クソ』と言い切る人間ですから。ただ、俺にとってはただの仲間、友人です。」

「二人ともとっても仲がいいですもんね!」

聖は複雑な表情で解と七海を見た。黒条君と川野辺さんもね、とつっこみそうになった。愛情研究会は一人残らず変わり者なのかもしれない、そう思わずにはいられなかった。

「話を聞く限り、実現できそうね。大変だけどお願いできる?」

「はい。そして生徒会に頼みたいんですが、水曜と木曜に学校専用の掲示板を見るよう生徒に広めてくれませんか?」

「大々的に…は駄目ね。なるべく先生にばれないように、ね?」

「はい。お願いします。」

「分かったわ。任せて。…あと黒条君、ちょっとこっち。」

帰ろうとしていた解は聖に止められた。七海に待ってもらい聖と部屋の端に移動すると、聖は解からわずかに目を逸らしながら話を始めた。

「黒条君のお陰でことが色々動き始めてるから、助かったわ。ありがとう。」

「いえ、俺は仲間に助けられてるだけです。」

「そう。…ところで、黒条君はその堅苦しい話し方、どうにかならないの?」

「駄目でしたか?先輩だから敬語で話しているんですが。」

敬語で尋ねられた聖は顔をしかめた。やはりなんとも言えないぎこちなさがあった。

「うーん、やっぱり無理矢理話してる感じなのよね。…いっそ敬語なしにしてみてくれる?」

「分かりました。…分かった。ただ、俺のような奴に敬語なしで話しかけられて嫌じゃないか?」

「黒条君は敬語じゃなくても割と固い口調でしょ?だから別に気にならないかな。試しにもうちょっと話してみて?」

聖に無茶ぶりをされて解は顔をしかめた。

「…そう言われても、何を話せばいいのか分からない。」

「さっきはしっかり説明してたじゃない。それに杉崎さんとはデートできたんでしょ?もっと頑張ってくれないと。」

「…聖はサディスティックなのか?」

「はい⁉」

「えっ⁉」「わっ…。」

聖が急に叫んだので、離れて会話していた七海とつばめが驚いて解達を見た。

「な、何でもないの。もうちょっと待っててね。」

聖は誤魔化し笑いを浮かべ七海達に話しかけた後、じとっとした目で解を睨んだ。

「サディスティックって何よ!しかも、何で『聖』?」

「名前だろ。嫌なら『会長』にする。それとサディスティックは嗜虐的、加虐趣味の意味だ。」

「意味は知ってるわよ!はあ…もう何でもいいわ。」

「聖のままでいいのか。分かった。」

「えっ?…ま、まあいいか…。とにかく、今日はこれで終わり。じゃあ水曜と木曜はお願いね、黒条君。」

「ああ。期待に沿えるよう努力する。」

 解は一言そう言うと七海に待たせたことを謝り、七海と生徒会室を後にした。聖は立ち去っていく解の背中をぼんやり見ていた。

(親以外に、しかも年下の男子に名前を呼び捨てにされるなんて…。)

聖にとって初めての経験なので動揺してしまった。ただ、解は何でもない様子だったため恥ずかしさより悔しさが先に立った。いつかお返ししなければ。

「か、会長?どうかしましたか?」

「何でもないの。今週は戦いだと思ってね。」

虚空を睨む聖を心配してつばめが声をかけてきたので、聖は平静を装って誤魔化した。そのうちに他の生徒会員も集まったので聖は解と決めたことを皆に説明したが、一つだけ気になることがあった。

(『いつかお返ししてやる』なんて思う私って、彼の言う通りサドなのかしら…?)

どうでもいいことが逆に気になる時があるが、聖にとっては今がその時だった。


聖との話が終わり同好会室に帰る途中、七海は楽しそうに解の周りを動き回っていた。

「やっぱり先輩はすごいですね!生徒会長とあんなに対等な話ができて。しかも仲もいいなんて!」

「褒められるほどのことはしてないぞ。俺は透矢の方がすごいと思うが。」

「茅野先輩はすごいんですけど人のことが好きじゃないから、先輩みたいにみんなの中心にはなれないと思います。茅野先輩自身もなりたくないって言いそうですし。」

「…七海は人のことを見てるんだな。」

七海の言葉は的確に透矢の本質をついており、解は七海の観察眼に驚いていた。いつも元気で明るい七海は他人の暗い面とは縁が遠いと勝手に思っていたが違ったようだ。解は自分の七海に対する思い込みを恥じた。

「どうして透矢がそんな奴だと分かるんだ?」

「え?それは、こう…話した感じというか、雰囲気というか。要は何となくです。」

「何となくで相手のことが分かるなんて、感覚が優れている証拠だな。」

解に褒められた七海は嬉しさと苦々しさが混ざった微妙じゃ笑顔を見せた。

「そ、そんな…私なんて頭は悪いし、しっかりもしてなくて。散髪できる以外、取り柄がないですから…。」

七海が自虐的になるのは珍しい。そして見て分かるほど暗くなってしまったので、いつもは鈍感な解も自分の発言が失敗だったことが分かった。

「悪かった。別に悪い意味で言ったわけじゃない。落ち込ませてすまない。」

「いえ、先輩は何も悪くないんです!私が勝手に暗くなっただけで…。」

俯いた七海は口を閉じたり開いたりした。どうやら何か言いたいことがあるが、言うのを躊躇っているようだ。今まで様子を見てきたが、今が七海に相談してもらういい機会かもしれない。そう思った解は七海に聞いた。

「七海、何か言いたいことがあるなら言っていいんだぞ。」

「…駄目ですよ。面白くないですから。」

「面白さは関係ない。いつも世話になっているから、お返しがしたいだけだ。」

解は無表情だがその声と話す内容は真剣だった。そしてそんな解の言葉を受け、七海は悩みを話す方に心が傾いた。

「じゃあ…。あ、でも部屋で瀬奈先輩達が待ってるから戻らないと…。」

「大丈夫だ。遅くなってもきっと許してくれる。行くぞ。」

解は七海の手を引いて歩き出した。七海は黙って手を引かれていた。瀬奈達には悪いと思ったが、解が自分を優先してくれることが嬉しかった。


 解が七海を連れてきたのは家庭科室だった。七海にとっては家庭科室が開いていることがまず驚きだったが、手際よく緑茶を淹れる解にさらに驚いた。視線に気付いた解は七海の前に湯呑みを置き隣に座った。お茶を両手で飲む解の姿は妙にさまになっていた。

「偶然知ったんだが、家庭科室は大体開いてるんだ。一年の頃は暇で、よくここに来ていた。…ああ、茶葉は俺が買ったものだから安心しろ。」

「は、はい。」

七海も解にならってお茶を飲んだ。淹れ方がいいのか茶葉がいいのかは分からなかったが美味しかった。すっきりと落ち着いた味は解の心を表現しているようで、七海は気持ちが凪いでいくのが分かった。これなら落ち着いて話ができそうだ。

「じゃあ話しますね。内容がぐちゃぐちゃになったらすみません。」

「大丈夫だ。上手く話せないなら俺が整理する。だから自由に話せばいい。」

「はい。…私のことですけど、私が美容師になりたいのは父の影響なんです。私の髪を毎回切ってくれたので…。」

「そういえば以前聞いたな。父親に憧れて美容師を目指しているんだったな。」

「そうです。…正確には前の父ですけど。」

「前?」

「私が小学生の頃に病気で死んじゃって。今のお父さんは父の友人で、父の死後数年して母が再婚したんです。」

「…そうか。それは、複雑だな。」

同情はしないが大変ではあっただろう。解が敬意を込めて言った一言に、七海は柔らかく笑って答えた。

「私もちょっと思います。でも、仲はとてもいいんですよ。私も弟もお父さんを本当のお父さんだと思ってます。…多分お父さんも。」

ここで七海は言葉を切った。表情が少し硬くなったので、ここからが七海の問題となる箇所なのだろう。

「ただ、前の父も私にとっては当然お父さんです。美容師になりたいのは前のお父さんへの憧れが一番の理由ですけど、お父さんのことを忘れたくないからでもあるんです。でも、それがお父さんとお母さんは少し複雑みたいで。」

「複雑…。…批判的、なのか?家族の散髪をお前がすることは許容しているのに?」

「あ、覚えててくれたんですね。ありがとうございます。…その、特技としてなら問題ないけど、進路としてそれしか考えないのは良くないってことらしいです。」

「他の道も考えろ、ということか。…余計なお世話ともいえるし、純粋に心配しているともいえるな。」

「私、元々は高校に行くつもりがなくて、中学卒業後にすぐ美容師の専門学校に行くつもりだったんです。でもそこで猛反対されて…。」

「普通の高校に行って美容師以外の選択肢を残しておけ、と。」

「はい。そして高校ではちゃんと勉強した上で卒業しないと専門学校に行くのは許さない、って言われました。」

ここまで聞いて、解は七海の観察眼の由来を少し理解した。父親が死んだ時は母親と弟に気を遣い、母の再婚後は家族がうまくいくよう気を遣い、今も二人の父親に対して気を遣っている。その結果、相手がよく見えるようになったのだろう。

(背景を知らず褒めるべきじゃなかった。)

解は自分の軽率な行動を反省しながら、七海の悩みを考えた。将来のこと、死んだ父親のこと、今の両親のこと。希望ははっきりしているのに、他者の思いが絡まることで身動きがしにくくなってしまっている。愛情がよく分からない解とは違う悩みだが、七海が苦しんでいるのは確かだった。

「つまり、すぐ美容師になることを両親が反対した背景に、お前に前の父を追いかけてほしくないという思いがあるからではないか。だから美容師になること自体を本当は認めてないんじゃないか。以上がお前の根底にある疑問なんだな。」

「!は、はい、先輩の言う通りです!私自身うまく言葉にできないのに、先輩はやっぱりすごいですね…。」

七海の悩みは漠然とした不安や不満、恐れだった。しかし、解に自身の問題を言葉ではっきり指摘され、心臓がどくんと動くのを感じた。自分の中に家族を疑う黒い気持ちがあることをはっきり理解した。

「もしお父さんもお母さんも、お父さんのことをもう過去のもので必要ない、早く忘れた方がいいもの、なんて思ってたら…。」

「…お前はそう思うのか?」

感情が薄い解の目が七海を静かに見つめた。漫画とは違い解の瞳に自分が映ることはなかったが、確かに鏡のようだと七海は思った。解の目は向かい合った瀬奈の心、両親への悪意と愛情という相反する二つの感情を映し出していた。

「両親を悪者にしちゃえば私は楽なんだと思います。信じたり愛したりするよりも諦めた方が疲れないから。…でも、本当は違う、きっと違います。私の好きな両親はお父さんを無視するような人達じゃありません。二人とも私も、お父さんも、私をつくる全てを大切にしてくれるはずです。」

七海は話しながら気持ちが高ぶっていくのを感じた。声が上ずり震えるのが分かった。

「そう信じてるのに…怖いんです。もし聞いて裏切られたら、聞いても私が両親の言葉を信じられなかったら…私の大切な家族が壊れてしまうんじゃないかって。もし大切なものがなくなったら、私はどうしたらいいんだろうって…。」

七海は徐々に涙声になり体を震わせた。解は俯く七海を見ながらどうするべきかを考えていた。七海を元気づけてやりたいが、解の経験と会話能力では難しかった。

(言葉…ではない…。)

解は友情を知る時に話したことを思い出していた。非言語的なものも友情を理解したり深めたりするには重要だと結論に書いたはずだ。一つのアイデアが頭の中に閃き、解は椅子を七海の方に近づけた。

「…え?先輩…?」

解は椅子に座ったまま七海に抱きついた。といっても、七海は俯いた姿勢だったので解の胸に頭をつけた形になり、抱きつくというより包み込んだ、という様子だ。その姿勢のまま解は七海の背中をぽんぽんと叩いた。さすがの七海も解に抱きつかれると一瞬頭が真っ白になったが、伝わってくる温もりと規則正しいリズムを感じていると次第に気持ちが落ち着いてきた。今の父親にされたことはないが、昔父親に抱っこしてもらったことを思い出していた。

 しばらく解が七海の背中をとんとんとしていると、七海の体の震えと鼻をすする音が収まってきた。解自身が麗にされることをそのまま試したのだが、ある程度効果があったようだ。解は七海が落ち着いたことに安心してそっと七海から離れた。

「あっ…。」

小さく声を出した七海と目が合った。七海としては、解が離れてしまうのが残念で思わず出た声だった。一方の解は七海の声をどう解釈したのか真面目な声で七海に尋ねた。

「ん、抱きしめられて息苦しかったか?…もしかして汗臭かったか?」

「え?い、いえ、どっちでもないです!えーと、そうだ、ありがとうございますって言いたかったんです!」

七海は赤い顔でわたわたと手を動かしながら答えた。解が離れて残念に思ったことが恥ずかしく、そんな思いが解にばれなくてほっとしていた。また解の口調や表情からさっきの行動に恋愛的な意味がないことは明らかだったので、七海は落ち着いて話をすることができた。

「情けないところを見せてしまいすみません。でも長い時間一緒にいてくれて、本当にありがとうございます。先輩が優しいから居心地よくて安心できて、気持ちが楽になりました。」

「俺の下手な言葉よりいいかと思ったんだが、落ち着いたなら良かった。ただ、七海は情けなくないからな。大事だからこそ悩みは深くなる。本気で考えているから苦しくなる。お前が頑張っている証拠だ。」

「…えへへ、ありがとうございます。」

ふわりとした七海の照れた笑顔が美しくて解は一瞬見とれてしまったが、その笑顔の儚さが同時に気になった。七海を励ますことはできたのだろうが、七海の悩み自体が解決したのではない。また落ち込んでしまう可能性があり、これで一安心とはいかなかった。

解がひとまずの安心と今後の心配、そして自分の力不足を噛みしめていると、七海が椅子から立ち上がり大きく伸びをした。

「随分ゆっくりしちゃいましたね。急いで研究会に戻りましょう!きっと皆待ちくたびれてますよ。」

「そうだな。」

それなりに時間は経っているので、始音や瀬奈は待ち疲れているかもしれない。解は七海と一緒に同好会室に向かったが、道中ふと思ったことをそのまま口にした。

「それにしてもあのやり方に効果があって良かった。麗さんがすることを真似しただけだったからな。」

先に歩いていた七海が急に立ち止まり、ぎぎぎ…と音がしそうな動きで振り返った。

「れいさんって、麗さんですか?先輩に、さっきと同じことをしてるんですか?」

「え、いや、最近じゃないぞ。されたことがあるだけだ。」

解は嘘を吐いた。麗に助けてもらうのは情けないことだと思っているからだ。残念ながら、自分の嘘がどれだけ下手なのかは分かっていなかった。

「ふーん…。まあ、先輩が誰と何しててもいいんですけど。」

七海はぷいっと前を向いて歩くスピードを上げた。七海が何を思ったかは分からないが、一人にはさせられない。そのため解も速度を上げて七海についていった。

 いつもの七海なら今の解の話を聞いてもそっけない態度はとらなかっただろう。解は積極的に、しかも七海限定で優しくした。悩みで弱った七海には解の優しさと温もりが殊の外ささった。しかし、解が行ったことは解が自力で考えたのではなく、麗からの受け売りだった。しかも最近まで解は麗に同じことをしてもらっていたらしい(しかも嘘を吐いて誤魔化そうとした)。七海は自分が解の特別でなかったことが残念で悔しく、今回の行動をとるに至ったのだった。ともかく、今回のことは七海に解をより意識させることになった。



「可能ならアンケートもしてくれないか?」

「は、はい。これですか?あっ、本当だ。これくらいだったら、はい。」

「してくれると助かる。ありがとう。」

頭を下げ女生徒と別れた後、解はリストにある次の生徒の場所へ慌てず急いだ。

 今は木曜日の放課後、水曜日からのアンケートと署名活動の真っ最中だ。前もって情報を広めたお陰で、署名もアンケートもかなりの生徒が自発的にしてくれている。今は署名、アンケート共に全体の80%を目指し個々人を愛情研究会全員で回っている段階だった。

「ありがとう。邪魔して悪かった。」

「いや、大丈夫。そっちもお疲れ様。」

解は頭を下げて相手を見送った。

「…これで俺の分は終わりか。」

透矢のスマホでリストを確認した解はようやく一息ついた。今日は朝から今に至るまでリストに載った生徒を回り続けていたが、ようやく終わった。仕事が終われば一度同好会室に戻るよう透矢に言われていたので、解はスマホに届いた通知を確認して同好会室に急いだ。

 同好会室にはすでに解を除く全員が集まっていた。

「先輩、お疲れ様です!」

「お疲れ様。」

七海と瀬奈が解を労う一方、始音と透矢はパソコンに向かって作業をしていた。解は二人の机に持っていた紙とペットボトルを置いた。

「解君、飲み物はー?」

「買って今置いたぞ。無糖の紅茶だろ。」

「ありがと。」

始音は解が置いたペットボトルを開けてグイっと一口飲むと再びパソコンに向かった。始音も透矢も忙しそうだ。

「…さて、戻ったばかりなんだが解達にはもう一度行ってきてもらうか。」

手を止めて透矢が立ち上がった。透矢は隈がひどく、しかし目は爛々としていて、ゆらりと動く姿はまるで幽鬼のようだった。道にいれば誰もが避けて通るレベルだ。

「透矢はもう休んだらどうだ?」

「何言ってんだ。今回のリーダーは俺なんだろ?なら最後までやらないとな。」

透矢は解が置いた紙を確認しつつにやりと笑った。笑い顔も迫力満点だった。

「なら次はどこに行けばいい?」

「今スマホに送った。霧谷、川野辺、解、もう一回頼んだぞ。ただもういない可能性もある。その時は無理に探さなくていい。」

「分かった。また携帯を借りるぞ。」

「でも数はちょっとだし、頑張ろうか。」

「みんなで頑張りましょう!」

再び解達が出て行った後、透矢は再び椅子に座りパソコンを操作し始めた。

「よしよし、概ね想定通りだ。これなら80%どころか90%近い値になるな。」

透矢の呟きを受けて始音がつっこんだ。

「茅野君がすごいのは認めるけど、お願いだから犯罪はしないでよ?正直、今回のも詳しく聞いたら駄目なところが満載そうなんだから。」

「まあまあ、堤先生。全員それなりに楽しんでるじゃないですか。大目に見て下さい。それに、俺が潰すのはクソだけですよ。」

「それならまあいい、のかしらねえ…?」

うーん、と考えている始音を尻目に透矢は喉を鳴らして笑っていた。

 今回は透矢が大活躍だった。まず現実で署名とアンケートがあることを生徒に周知した(具体的方法は分からないが)。次に生徒用の掲示板から署名、アンケートがスマホでできるようにした。そして水曜日の夜にまだ署名やアンケートをしていない生徒をリストアップした。ついでにスマホを使ってない人用にアナログの署名、アンケート用紙も用意した。つまり、今回ほとんどのことを透矢がしていた。その辺りが気になっていた始音は作業をしながら透矢に話しかけた。

「どうして今回茅野君はそんなに頑張ってるの?解君のため?」

「いやいや。俺は俺のためにしか動きませんよ。ここにいる馬鹿達が頑張る様を見るのが面白いだけです。」

透矢の言葉は本気か嘘か分からない。しかし、きっと半分以上本気だろう。馬鹿という言葉は冗談というか、親愛の情を感じさせるが。

「いい趣味ね。」

「それほどでも。堤先生もお疲れ様です。解の愛情を勝ち取らないといけませんしね。」

「そうね。私は瀬奈ちゃん、七海ちゃんと違って一緒にいられる時間が短いから。でも夜は銭湯に行くから。」

「おお、もう隠さないんですか。」

「キスの話をしておいて今更よ。たまたま茅野君以外はよく分かってないけど。」

「まあ確かに。解は愛情を分かってない、霧谷は鈍感、川野辺はお子様、と。」

「じゃあ茅野君は?誰にも価値を見出せないなら好きな人もいないの?意外と解君狙いとか?」

始音が冗談めかして尋ねたところ、解君狙いがうけたのか透矢は笑い出した。

「はははっ。同性愛は人の勝手ですが、俺は違いますね。まあ、俺のことはいつかでいいですよ。さして面白くもない。」

「ふーん…?」

始音は愛情同好会の中では先生をしていないように見えるが、一応は先生の目線でも解達を見ていた。正直なところ、愛情研究会の会員は全員心配だが、中でも透矢は心配だった。そもそも赴任して担当教師になった時、申し送りで黒条解は不良と言われたが、茅野透矢は「とにかく関わるな」だった。その時は意味が分からなかったが、今ならよく分かる。方法は知らないが透矢の能力なら相手の弱みを握るなど朝飯前だろう。今の所悪人しか被害がなさそうだが、担任としては違法なことをしないでほしいと願うばかりだ。まあ、透矢なら問題として表に上がるようなヘマをしないだろうが。

「先生こそ頑張らないと、解がかっさらわれますよ?いくらディープキス済みとはいえ麗さんは強いですよ。」

「あ、それ。麗さんって昔から解君が言ってる人よね?私まだ会ったことないのよ。どんな人?」

「俺が見る限り見た目、人格、立場どれも強敵だと思いますよ。」

「ほんと?…何か情報とかない?」

「残念ながらないですね。それに、あってもプライバシーがあるんで。」

「そうよねえ…。」

始音は参考までに尋ねてみたのだが、案の定透矢は苦笑するだけだった。



 無事に二日間の活動が終わった。生徒会への報告は明日することにして、解達は全員解散となった。透矢は解達を見送った後、帰る前にふらふらと人の多い街並みを歩いていた。

別に面白くはない。透矢にとって人ごみは肥溜めと大差なかった。だが、自身こそクソだと理解している透矢にとって、家も外も同じだった。解達といた時とは違い、冷たく無関心な目をした透矢は目の下の隈も合わせるとまさにゾンビそのものだった。

透矢は家に帰るとそのまま食事もせずに眠ってしまった。さすがに疲れたのだろう、朝まで起きることはなかった。

透矢は珍しく夢を見ていた。夢なんて殺し殺されるものばかりだったが、今回は愛情研究会の仲間の夢だった。透矢は彼等が楽しそうにしているのを離れて眺めていた。彼等に価値を見出したところで、彼等も人間というクソであることには変わりない、そう思っているから今夢の中で彼らと距離があるのだろう。

だが、そんな透矢でも現実では仲間のふりをして、仲間でいることを許されている。そして、解達と一緒にいると、その時だけは自他の汚い面への嫌悪感が薄らいだ。嫌いなままで許された。…だから、離れていてもいい。友人でなくていい。このまま仲間のふりをさせてくれ。クソ以下の俺にはそれで十分だ。

………。

透矢は目を覚ました。日にちを確認すると、今日は金曜日、生徒会に報告する日だった。

「…くっくっく。」

我ながら随分と変な夢を見たので、思わず笑ってしまった。しかし、夢の中のあれも自分、ここにいるこれも自分だ。透矢は自分達を嘲笑するが否定はしないことにした。さあ、今日もこのクソを使って生きるとしようか。透矢は薄い笑みを浮かべてベッドから起き上がった。


「本当に二日でこれだけの成果を出すなんてな…。」

「あなた達の力、見せてもらったわ。本当に驚いたわ。」

放課後、生徒会副会長と会長は渡されたデータを確認すると、そろって愛情研究会を認めた。正直協力はしたものの、ここまできっちりできるとは思っていなかった。

「透矢のお陰だ。俺は言われた通り動いただけだ。」

「おいおい、実働部隊がいなきゃこれだけいいデータが取れないぞ。俺はデスクワークしかしてないからな。」

「謙虚なんだ。偉そうにするタイプじゃないとは思うけど。」

「ああ。俺は手柄も名誉もどうでもいいからな。」

「ほら、お喋りしないの。生徒会の人達が困るでしょ?」

先生モードの始音が注意したので解達は静かになった。咳払いを一回して聖が口を開いた。

「これだけのデータなら上にかけあうこともできるわ。本当にありがとう。データを整理次第、私が校長先生にかけあってみる。まずは杉崎さんと野村さんでデータ整理をお願い。松原君は来週の校長先生の予定を聞いてきて。佐々木君は今の仕事をお願い。」

「「「「はい。」」」」

愛情研究会はどうやら一仕事終えたようだ。挨拶をして生徒会室を出ていく中で、用事があった解は一人残って聖に近づいた。

「手間をかけて悪いんだが、校長の所に行く時、俺も一緒に行っていいか?」

「?ええ、いいけど。」

「ありがとう。」

「どういたしまして。じゃあその時までゆっくり休むこと。分かった?」

「聖こそな。」

「「聖ぃ⁉」」「えっ…!」

生徒会員松原、つばめ、野村が驚いて声を上げた。佐々木もかなり意外そうな顔をしていた。愛情研究会は生徒会室の外で待っていたが、中から聞こえた声に反応しているようだ。

「か、会長が呼び捨てにされてる!」

「え、会長と黒条君って、まさか…?」

「黒条先輩…。」

「ちょ、ちょっと待って!」

聖は盛り上がる生徒会員達を慌てて制した。

「前にもう少し気楽に話ができないかって言ったらこうなっただけ!誤解しない!」

「いやいや、何言ってるんだ、会長?」

佐々木が真面目ぶって(明らかに笑いをこらえているが)聖に言った。

「呼び捨てにするより、呼び捨てを会長が許したことが驚きなんだ。お堅い会長がついになあ…。」

「止めなさいって!ああもう黒条君、あなたはもう部活に戻って!ややこしくなるから!」

「あ、ああ。」

解が生徒会室に足を運ぶようになって以来最も騒がしい状況だったが、解はその状況を観察する間もなく生徒会室から追い出されたのだった。


「解君は杉崎さんに加えて生徒会長にも気に入られたんだねー。…この八方美人。」

「人に好かれるのは良いことだろう。それと瀬奈、八方美人はどちらかというと意図的な態度を指すからな。」

「どーでもいいから。解君は何ていうか…そう、モテ期なの?瀬奈ちゃんや七海ちゃんと仲良くなって、学校の有名人になって、デートもとっかえひっかえで。ついに生徒会も?」

「…モテキって何だ?」

「…あーっ。」

「ま、まあまあ。瀬奈先輩も始音先生も、先輩に悪気はないんですし…。」

苛立たし気に机に突っ伏した始音とやや冷たい雰囲気の瀬奈を七海が苦笑いしつつなだめていた。しかし透矢がにやにやしながら七海につっこんだ。

「その言い方だと川野辺も解が悪いと思ってるみたいだな?」

「い、いえ!そんなことないですよ?」

同好会室も生徒会室同様騒がしかった。女性陣から責められている解を見ているのは面白かったが、そろそろ話を進めないといけないので透矢は解に助け船を出した。

「そろそろ解を開放してやれよ。嫉妬は可愛げがあるとも言えるが解には効果がないだろ。逆に印象が悪くなるぞ?」

「嫉妬なんてしてないから。」

声が大きくなった瀬奈を気にすることなく解は首を傾げていた。

「嫉妬?瀬奈や始音が俺にか?」

「解君は黙ってなさい、まだ勉強中の身なんだから。それと茅野君、女性をからかうのはリスクが高いわよ?」

「そいつは失礼しました。とはいえ今日の議題をそろそろ話したいから進めるぞ。」

「今日の議題ですか?まだ決めてないですけど、何かあるんですか?」

純粋な顔で質問する七海に透矢はにやりと笑みを返した。

「ああ。今日は『愛情の定量化と分配』について話してみようかね。」

意味が分からずぽかんとなった女性達とは違い解は研究者の目をして素早く反応した。

「それは複数の家族や友人、あるいは一夫多妻制において感情や行動をどう相手に振り分けるか、ということか?」

「さすが解、よく分かってるな。」

解は既にタブレットを出して文字を打ち始めた。そんな解を称賛しながら透矢は解説を始めた。

「例えば、川野辺は何人家族だ?」

「え?四人です。」

「その中で誰が一番好きだ?」

「ええ?誰かと言われても…みんな同じ?だと思います。」

「つまり、川野辺にとっては三人いる家族にはそれぞれ同じ量の家族愛が向けられてるってことだな。」

へえ…と頷く七海。そこで突っ伏していた始音が身を起こした。少し意地悪そうな笑顔だ。

「じゃあ次は私が。瀬奈ちゃんはクラスメイトの誰と一番仲がいい?」

「ええ?えっと…山下さん、かな?」

「駄目駄目、そこは解君にしないと。」

「そうだよな。お約束だぞ?」

「ええ⁉」

瀬奈は驚きと抗議のために声を上げた。透矢は毎度のことだが、始音はストレス発散のためにからかっているのだろう。完全にとばっちりだ。

「ということで、友情で考えると解君をどれくらい好きかしら?」

「いやいや。分かりませんよ、そんなの。」

「まあそうよね。じゃあ、会話の量や時間を考えてみて。それならどう?」

「そう言われると…確かに、他の友達よりは多め、だとは。」

「うんうん。それが愛情を定量化する尺度の一つ。で、解君にたくさん振り分けたのが愛情の分配ね。」

「分かりましたけど、解君で例えるのは止めて下さいよ!」

瀬奈は顔を赤くして始音に文句を言った。一方、解は自分がだしにされても全く気にすることなく全員に話を振った。

「愛情の定量化は俺も考えたことがある。だがその時は労力や時間とか、物理的な指標しか思いつかなかった。精神的なもので何かないか?」

「と言われてもなあ。俺達は医者じゃないからな。」

「はい!得点形式はどうでしょう?しばしば先輩のことを考えてしまう四点、夢に先輩が出てくる三点、みたいな。」

「七海ちゃん?点数はいいけど、解君を例えにするのは止めようね?」

「はっ…!すいません!つい…。」

「霧谷も怒るなって。ついでにお前等、一夫多妻制、逆でもいいが、それも考えるぞ。複数の相手を平等に愛せると思うか?」

透矢が次の問題提起をすると、すぐに解が反応した。一夫多妻制を考えるなら、愛情は性愛、恋愛について考察すべきだ。

「友情や家族愛は並列で愛することができる。なら恋愛も同じようにできてしかるべきじゃないか?」

解が一夫多妻制に肯定したので女性陣は少しざわついた。さっきモテ期だ何だと話したばかりなのに…。まあ、解は語意を理解していなかったので仕方ないのだが。とはいえ、仕方なくても反論したい七海は元気よく手を挙げた。

「はい!私はやっぱり一対一がいいと思います。妻二号なんて嫌ですよ。」

「二号、三号は嫌だけど、皆が同じ立場で不満がないならいいって人もいるんだろうね。実際に一夫多妻制はあるんだし。」

「そうね。イスラム教では合法のこともあるし、日本だって昔は一夫多妻制だったことがあるし、明治あたりでも妾制度があったんだものね。」

瀬奈と始音の話を聞いて、七海が難しい顔で唸った。一夫多妻制はやはり納得いかないようだ。

「二番三番のお母さんじゃ複雑じゃないですか?それとも実はみんな仲がよかったりしたんでしょうか?『家族みんな仲良く』が一番なので、それならそれでいい、のかなあ…。」

七海の発言が気に入ったのか、始音は立ち上がりにこにこしながら七海の頭を抱きかかえた。抱えられた七海は顔が潰されていた。

「七海ちゃんは純粋で優しいわねー。本当、愛情研究会の癒やし系ね!」

「し、始音先生。ちょっと苦しいです…。」

「あ、ごめんなさい。でも七海ちゃん。話を補足するとね、たくさん出産した妻の立場が高くなるとか、妾は完全に扶養される側として扱われるとか色々とルールがあって、純粋に仲良く平等、とはいかないの。」

「ええぇ…。そんな感じなんですか?」

がっかりした七海だが、つまり一対一の方がいいんだと分かり、少し嬉しくもなった。一方で解は七海の様子に一切気付かずに話を進めた。

「始音の言う通りだな。数が多い配偶者側ではどう頑張ってもいずれは上下関係が生まれるだろう。それはどうしようもない。俺達が考えるべきは『一人の側は愛情を均等に与えられるかどうか』だ。」

「やっぱり無理だと思うな。家族は皆立場が違うから平等だけど、友達は立ち位置は皆同じでも仲のいい人、そこそこの人ができるでしょ?同じ立場の妻達を全く同じには見れないよ。」

「私もそう思います!それにそれぞれ個性があるのに全く同じ評価をするなんて、逆に相手を見てないってことだと思います!」

「まあね。一人の夫か妻がすごい度量の持ち主でもないと平等は難しいでしょうね。それでも相手が一人の場合と比べれば、相手に使える時間や労力は分割されて短くなるけど。」

瀬奈、七海、始音がそれぞれ順に意見を出していった。透矢は無言で三人の意見を聞き、それから解に話を振った。しかし、相変わらずにやりと笑い皆の反応を楽しんでいた。

「だってさ。ここまで聞いてどうだ、解?お前がでっかい器の持ち主になってハーレムをつくる、なんてのは?」

「?しっかりしたいとは思うが、将来複数の妻を持つ希望はないぞ。」

「こら、茅野君。解君はまだすれてないんだから、変なこと教えないようにね。」

「へーい。」

「ハーレムは変な言葉なのか?今の話には十分合った言葉だと思うんだが。」

解は相変わらずマイペースなので、ハーレムに目の前の女性3人はどうかと暗に言われたことも、シオンがハーレムから女好きを連想していることも分かっていなかった。そんな解が呑気に瀬奈に話しかけたので、瀬奈は小声で返しながら肘で解を小突いた。

「解君、一旦黙ってた方がいいよ。始音先生に本気で怒られるよ?」

「…それは少し困る。」

「わ、先輩でも困ることがあるんですね。」

「ちょっと、何の話?」

「大丈夫だ、大した話じゃない。」

再び同好会室は賑やかになった。騒がしい中だが不思議と解は穏やかな気分だった。自分がこの場、この空気にいることを当たり前として認識しつつある、それを解は実感していた。



愛情の定量化と愛情の分配


 愛情を定量化する際、物理的な指標と精神的な指標が考えられる。物理的な指標は相手にかける手間、使った時間、あるいは恋愛限定だがキスや性交渉の回数といったものが考えられる。

精神的な指標は数値化するのが難しかったので、今回試しにスコア表を用いて定量化してみた。下記の通りとした。

一:魅力を感じる。

二:悪いところも許容できる。

三:話していて気を遣うことがない。

四:長期間(年単位)でも一緒にいられる。

五:一緒に生きていきたい。

六:しばしば相手のことを考える時がある。

七:他者と比べることができない。

これらをはい/いいえで答え、はいの個数を愛情のスコアとしてみた。この項目は家族、友人、恋人にも使用できるようにしている。それぞれが多少関係しており項目として独立しておらず、正確に定量できるとはいい難いが、一つのモデルとしてここに記載しておく。

 一夫多妻制(逆でもよい)は愛情が多数の配偶者に分配されている。自然界では一夫多妻、一妻多夫いずれの場合もあり、一部のイスラム教国では現在も一夫多妻制は許されている。日本でも一夫多妻制であったことはあり、近代では妾制度も存在していた。

しかし、一夫多妻制においては妻となった女性の数が夫の価値の一つとされたり、出産数による妻の序列化が生まれたり、妻の間での社会的身分の差がそのまま妻の格差となったりと問題がある。そもそも、一夫多妻制や妾制度は根本的に男女格差が激しい社会、女性の社会進出の停滞が前提となっているのは否定できないため、家族全員の幸福を担保するには不安が残る。

 問題点があるのを承知で一夫多妻制において夫は平等に妻を愛せるか、という点を考える。ここで「平等に愛する」とは先程の精神的指標による愛情スコアが高くかつ差がないことに加え、物理的な指標も差がないことが求められるだろう。上記を満たすのは理論的には可能だと考えられるが、複数人に愛情を与える場合、一人に与えるよりも時間や労力が絶対に少なくなる。その少ない時間で愛情は成立するのかどうか、愛情を維持できるのかどうかといった問題を考えると、やはり平等に恋愛を行うのは困難と言わざるを得ない。

だが、一般的な感性・能力を超えた人間が夫または妻となれば可能かもしれず、その場合は優れた夫(妻)が多くの妻(夫)を持つことは生物として理にかなっている。もしそんな人間がいるなら一夫多妻制も問題なく成立できるかもしれない。

         愛情研究会一同 記



 番台に座っている解はいつもより難しい顔をしていた。お風呂から出てきた瀬奈は不思議そうな顔で解に近づいた。

「解君、なんか唸ってそうな顔だけど、どうかしたの?」

「ああ、瀬奈か。うん、いや…。」

解にしては珍しく言い淀んだ。瀬奈は怪訝な顔で解を見た。解が言いにくいことに検討がつかず、不思議というより心配になってきた。

「無理して言わなくていいんだけどね。でもやっぱり同じ同好会の仲間だし、心配にはなるんだ。」

「…そうだな。心配させたくもないし、瀬奈には聞いてもらった方がいいか。」

「何か相談事?」

「ああ。七海のことなんだが、期末試験が悪かったと言って落ち込んでいたんだ。」

「あ、ああ、七海ちゃんのこと。そっか、期末良くなかったんだ。」

瀬奈は意外そうな声を出した。解は優しいのだが非常に鈍い。後輩の様子にちゃんと気付いて相談するくらいには成長したらしい。瀬奈は解の成長を嬉しく思う反面、女性の前で他の女性のことを悩まないでよ、と言いたくもなった。とはいえ瀬奈にとっても七海は大事な後輩なので、もやもやを抑えて続きを聞くことにした。

「あれ、でも解君、かなり頑張って瀬奈ちゃんに勉強教えてたよね?」

「まあな。できる限りのことはしたんだが、教えてない科目もあったからな。」

「教えてないなら無理だよ…。でも、成績なんて別に問題なくない?七海ちゃんは美容師志望なんだから。」

「その辺りは複雑で、七海にも色々あるらしい。とにかく、成績が悪いと困るらしい。」

「ふーん、そ。」

瀬奈にしてはそっけない返事で、しかも視線を解から逸らしていた。

(…色々、ね。)

知らない間に二人は口外したくない悩みも打ち明けるほど仲良くなったらしい、そう思うと瀬奈はいらっとしてしまった。…しかし、こんなことで苛立っては友達として恥ずかしいことだ。しかも、相談された以上は答える必要があった。そのため瀬奈は一度深呼吸をしてから口を開いた。

「ちょっとごめん、私も少しあって。で、要は七海ちゃんが成績のことで家族ともめてないか心配ってことだよね?」

「…その通りだ。瀬奈はすごいな。俺が思ったそのままだったぞ。」

解は瀬奈の言葉に感嘆し尊敬の眼差しを瀬奈に向けた。ついさっき勝手に苛立った瀬奈としては解の目は眩し過ぎて何も言えなかった。しかし解は瀬奈の様子に気付かないまま独り言のように呟いた。

「まあ、俺が七海の家を気にしても何の役にも立たないんだがな。」

「それは仕方ないよ。誰もその人の代わりはできないんだから。月並みだけど、七海ちゃんが相談しやすいようにしてあげて、もし相談されたら助けてあげればいいんじゃないかな。」

「…投げられたさいの目を心配しても仕方ないか。やっぱり瀬奈に聞いてよかった。ありがとう。」

解が真面目な顔で頭を下げるので、瀬奈は戸惑った声を上げた。

「全然大したことは言ってないよ。頭なんか下げなくていいから…。」

「そうか?俺は話を聞いてもらって助かったぞ。瀬奈のお陰で懸念とすべきことがはっきりしたからな。」

「…。」

瀬奈はいたたまれなくなり解から目を逸らした。解のお礼を言ったり相手を褒めたりする素直なところは長所だが、相手によっては毒になると知ってほしい。それに、こう解が優しいと毒づきたくもなるものだ。

「…解君は誰にでも優しいよね。疲れない?」

「疲れる?何にだ?」

「だから、いい人に。いつも優等生でいるのって大変でしょ?」

瀬奈は少し強い口調だった。朴訥とした解が瀬奈の毒に反応しないため焦れたのだ。しかし、それでも解は落ち着いたままだった。

「意味がよく分からないが、いい人でも優等生でもない。すべきことをしているだけだ。悪人ではないつもりだが、そもそもつい最近まで不良扱いの身だぞ?」

「そうかもしれないけど。でも、そんな風に生きてて嫌にならない?」

解には瀬奈がむきになっているように見えた。質問の理由も意図も不明だが、瀬奈がここまで聞くならもっと考察するべきだ。解はしばらく考えてから口を開いた。

「生きていて不快ではないな。自由にしているからストレスがないんだろう。…逆に、瀬奈は生きてると疲れるのか?」

「私?…何で?」

「うまく言えないが、お前の様子が妙だからな。それとお前の質問から考えた。瀬奈こそ、思うことがあるなら言ってくれ。」

解はいつもの無表情で瀬奈の返事を待っていた。淡々としているが本心からの言葉だろう。

(心配してくれるんだ…。)

刺々しかったり面倒臭かったりしたのに。七海が解に悩みを打ち明ける理由が分かった気がした。

「疲れる…かな。解君とは違って私はいい子のふりしてるだけだからね。」

「そうか?」

「うん。転校ばっかりだったから、嫌われないようにするのが得意なんだ。来てすぐもそんな感じだったでしょ?」

「まあ、そうかもしれないな。俺は感心してたが。」

「ね?解君も信じるくらいには上手なの。でも、ふりって続けると自分でもやめられなくなるんだよ。やめたいのにやめられないなんて、なんかおかしいよね。」

格好悪い内面を見せる恥ずかしさから、変に明るく饒舌に話しているのが自分でも分かった。それとも、自分を見せる初めての行為に興奮しているのだろうか。

(いやいや、そんなわけないから。)

瀬奈は自分につっこみを入れつつ話を続けた。

「最近はふりをしてるのかどうかも分からないくらい。そんな感じで自分がないから、他に得意なこともなくて、進路も悩むんだよね。ほんと、つまらないし格好悪いよね。なんでこんな人間になっちゃったんだろ。」

「…そうか。」

「えっ?な、何?」

静かに話を聞いていた解が急に言葉を発したので、瀬奈は驚いて尋ねた。解は何か閃いたような顔で瀬奈に理由を話した。

「驚かせて悪い。『自分を悪く言わない方がいい』と言われたことを思い出したんだ。『自分を好きでいてくれる人を傷つける』ともな。今心がざわつくのはまさにそれだろう?本当なんだなと思ってな。」

「へえ、いいこと教えてもらったね。…って、え?ええ⁉」

ということは、解君は私を好きってこと?…ああ、友人として好き、か。そっちの好きじゃないよね、うん。

瀬奈は動揺を鎮めるために手を胸に当てて深呼吸した。解は瀬奈の動きを不思議そうに見ていたが、瀬奈が何も言わないので話を続けることにした。

「とにかく、俺はお前に自分を悪く言ってほしくない。そういうことだ。」

「う…、ごめん。不快にさせて。」

「いや、謝らなくていい。ただ、俺は瀬奈をすごいと思う。そう言いたいだけだ。」

「すごい?」

すごいってなんだろう?端的過ぎて解が何を言いたいのか、今の時点で瀬奈には分からなかった。

「初対面の俺に声をかけたこと。他にも俺に間違いを指摘したり怒ったりするだろう?気が強いんだなと感心してる。」

「それ、ほめてるの?」

「ああ。精神的に強いのはいいことだ。だがそのせいで迷っても苦しくてもやっていけてしまうんだろうな。そして周りには大丈夫そうに見えてしまう。俺もお前が苦しいことは分からなかったが、知った今は力になりたいし、苦しくも生きるお前を一層すごいと思う。」

「…。」

解は極めて真面目に話をしていた。そして自分の感情も含めて冷静に瀬奈のことを思いやっていた。変な同情も誤魔化しもない、ただただ真摯な解の考察を聞いていると、瀬奈の心は不思議と穏やかになった。

「俺から見ると人にいい顔をする瀬奈も今の瀬奈も、両方霧谷瀬奈だ。分けることはできないし分ける意味もない。嫌っても苦しく思ってもいいが、自分の一部、しかも最前線で頑張る自分を嫌悪しなくていいんじゃないか?俺は人に合わせるお前も、苦しく思うお前も好きだぞ。」

「す、好きって…!そんな簡単に言われても…。」

「簡単じゃない。自分の感情を本気で検証した結果だ。同年齢でまともに話をしたのは瀬奈が初めてだし、瀬奈が俺と話してくれたから他の人とも話せるようになった。こんなにも俺を助けてくれたお前はつまらなくないし、格好悪くもない。」

「…。」

そんな風に思ってくれるんだ。瀬奈は俯いたが、その顔は嬉しそうに笑っていた。他人と深く関わるのは瀬奈にとって初めてのことで、今に至るきっかけは解に助けられたことだった。解も似たように思っていることが分かり、嬉しさと気恥ずかしさ、親近感がない混ぜになっていた。

とにかく、解が励ましてくれたお陰で暗い気持ちは消えていた。瀬奈は顔と両手を上げて大きく伸びをした。

「よし!解君なりの励ましありがとう。ちょっと元気出た。」

「そうか。…俺がもっと口が上手ければもっと元気になれたんだろうが、申し訳ない。」

解は真面目に本気で謝った。瀬奈は意味が分からずに一瞬きょとんとしたが、はっとして慌てて言い直した。

「え?あ、違うよ⁉『ちょっと』は間違い!ちゃんと元気になったから!責任感じなくていいから!」

「そうか?…難しいな。」

「ふう…ふふっ。ほんと面白いね、解君は。」

「そうか?」

「うん。って、『そうか』ばっかりだよ?難しい文は書けるのに、普通の会話は苦手なんて、不思議だよね。」

「そうか。あ…。」

指摘された直後に「そうか」と言い、解と瀬奈は顔を見合わせた。ばつの悪い顔をする解がおかしくて瀬奈は笑った。

「あははっ。大丈夫だよ。別に口下手なままでも十分助けてもらってるから。ありがとう。」

「…どういたしまして。」

瀬奈にフォローされ、解もわずかに笑った。その笑顔を見た瀬奈は、解と友達になれて良かったと改めて思っていた。



 瀬奈が帰って、その後始音も来て、その始音も帰り、解は番台の仕事をぼつぼつとしていた。一人になると思い出すのは悩みを聞いた七海と瀬奈のことだった。

(瀬奈は笑って帰ったからいいとして、七海は大丈夫だろうか。)

携帯を持たない解では安否を確認できないのでどうにもならなかった。

 ぱらぱらと来る客に解が対応していると、また入口の自動ドアが開いた。何気なく誰が来たかを確認するために目を向けると、解はわずかに驚いて声を上げた。

「七海?」

入ってきたのは七海だった。今まで夜に七海が銭湯に来たことはない。何よりゆっくり歩く七海は俯き加減で表情は暗く顔も青白く、一目で何かあったのが分かる様子だった。解はすぐに七海の側に行き尋ねた。

「こんな夜にどうしたんだ?家で何かあったのか?」

「…っ、先輩、私…。」

それ以上は言葉にならず、七海は泣き出した。歯を食いしばって声を抑え、だが両目からぼろぼろと大粒の涙を流した。

「七海?ええと、その…。」

解が女性の涙に対応できるわけがなく、おろおろしていると偶然常連のお婆さんが入ってきた。

お婆さんは解と七海を見ると驚いて二人の側に来た。

「どうしたの、解君?ちょっと、この子は私が見てるから、とりあえず麗ちゃんを呼んできたら?」

「あ、はい。七海、すぐ戻るからな。」

この時間、麗はいつも仮眠をとっている。解は心底助かったと思いながら休憩室に急いだ。


 解は麗に番台を変わってもらい、七海と一緒に休憩室にいた。

「すみません先輩、迷惑かけて…。」

泣き止んだ七海は申し訳なさそうに解に謝罪した。七海は泣き止んだものの、まだ暗い顔をしていていつもの元気は微塵も感じられなかった。

「迷惑じゃないから心配するな。それよりどうしたんだ?こんな時間に。」

「…。」

七海はなかなか話をしなかった。解は七海が話すのを待っていたが、その時七海のお腹がくぅ、と鳴った。

「あ…。」

七海は少し顔を赤くしてお腹を押さえた。解はしばらく七海を見ていたが、急に部屋の隅にある棚をごそごそしたかと思うと七海に何か握らせた。七海が手を開くとそこには飴が一つだけあった。

「今あるのはそれだけだから、とりあえず食べろ。夕飯は食べたのか?」

「い、いえ。まだ…。」

「そうか。ならどうするか。俺が家まで送って…。」

「家は嫌です!」

七海が急に叫んだ。驚いて解が七海の方を向くと、七海は必死な様子で訴えた。

「ごめんなさい。でも家には帰りたくないです…!」

「…そうか。安心しろ、お前が嫌なことはしない。絶対にな。」

「先輩…。」

「なら食事は俺と食べるか。ただまだ仕事中だな…。」

「あの、私一人で待てますから…。」

「解君、七海ちゃん。いい?」

とんとん、と休憩室のドアがノックされ、麗が入ってきた。

「麗さん、そっちは大丈夫か?」

「ええ。それで早速だけど、七海ちゃんはもうご飯食べた?」

麗はいつも通りの笑顔で七海に話しかけた。麗の穏やかで落ち着いた姿は七海の心をも落ち着かせてくれた。

「いえ、まだです。」

「やっぱり。私も解君もまだだから、解君の家で食べましょう?」

「え?…その、助かるんですけど、いいんですか?」

「もちろん、大歓迎よ。じゃあ解君、今日はもう終わって、先に七海ちゃんと帰ってご飯を食べてくれる?私は仕事が終わってから帰るわ。」

「…いいのか?全部任せることになるが。」

「大丈夫、私責任者なんだから。それと、七海ちゃんは泊まりだからお風呂も入れてあげて。着替えは私のを貸してあげてね。」

「え、え?」

あれよあれよと話が決まっていった。七海はその速さについていけず戸惑っていたが、麗は戸惑う七海の頭を優しく撫でた。

「自分の家と思ってゆっくりしてね。それで悪いんだけど、お家の電話番号を教えてくれる?私が今日解君の家に泊まりますって連絡しておくわ。」

「は、はい。でも、本当にいいんですか?」

七海としてはありがたい話だったが、迷惑ではないかと麗と解に怖々と尋ねた。

「俺は問題ない。」

「私から提案したんだから大丈夫。七海ちゃんは心配しないでまずは体を休めて、ね?」

「あ、ありがとうございます…!」

七海は少し涙声で深く頭を下げた。


 解は自宅に七海を連れて帰り、まず夕食を用意した。夕飯は麻婆豆腐だったが、今の七海に出すには場違いに思えて申し訳なかった。とはいえ七海は美味しいと喜んでくれたので助かった。その後は麗の指示通り着替えを七海に渡し、お風呂に入ってもらった。七海がいないうちに残った家事を済ませ、順に風呂に入り、今は七海と一緒に居間で麗の帰りを待っていた。

「そろそろ帰ってくる頃なんだが、俺がいない分もう少しかかるかもな。」

「先輩、いつもは麗さんと一緒に帰るんですか?」

「ああ。帰ってから夕飯を作って食べて、風呂に入って勉強して寝る。大体こんなところだ。」

「忙しいんですね。私なんて特に何もしてないのに。」

「毎日同じことをしてるだけだ。それより、七海は本当に泊まりでよかったのか?」

「はい。むしろ、帰りたくなかったので助かりました。」

「そうか。」

解はコーヒーを飲みながら麗のことを考えていた。麗は頭の回転が速く先を予測して動ける人間だった。透矢に似ているかもしれない。そして、今回もその力が遺憾なく発揮された。解だけなら七海がゆっくりできるまでもっと時間がかかっただろう。それに七海の親への連絡は全く考えていなかったので、麗には感謝しかなかった。と同時に、もっと精進が必要だなと改めて感じていた。

「麗さんがいて助かったな。というより、大して役に立てなくて悪かった。」

微妙な顔をする解がそう言うと、七海は弾かれたように顔を上げた。

「そんなことないです!そもそも私、先輩がいるから銭湯に来たんです。会えてすごくほっとしたんですよ?だから役に立ってないなんてことありません。」

「…ありがとう。七海、よかったら事情を聞いていいか?俺に何ができるか考えたい。」

解はお礼を言いつつ心の中ではっとした。しまった、また卑下してしまった。幸い七海は気にならなかったようで、純粋に言うかどうかを悩んでいた。

「……えっと、きっともう気付いてると思うんですが、両親とのことです。」

「ああ。」

それくらいはさすがに解も分かった。解が頷くと、七海は落ち着いた様子で話を続けた。

「期末テストが悪かったのは言いましたよね?今日両親に結果を見せました。そしたら喧嘩になって…。」

七海は言葉を切った。先のことを思い出したのだろう、苦しそうな顔だ。思い出せててしまい申し訳なかったが、聞かないわけにもいかず解は黙っていた。少しして、七海が再びゆっくりと話し始めた。

「お母さんに約束は守るよう言われました。…確かに私が悪いんですけど、でも悔しくて、言い返しちゃったんです。」

「そうか。七海は努力したんだから、言い返したくもなるか。」

「ありがとうございます。…私が言ったら、お父さんが言いました。勉強はやればある程度の結果が出る。勉強すらできないのに専門学校でやっていけるのか。好きや憧れだけあっても努力できないなら美容師にはなれない、その応援もできない…って。」

「…なかなか手厳しい意見だな。」

「はい。でもその通りかもです。…でも私、美容師になるのを否定された気がして、美容師になったら駄目なのか、お父さんを目指すのは悪いことなのか、そう聞きました。…二人とも、何も言いませんでした。はいも、いいえも。二人ともお父さんのことなんかどうでもいいんだ、そう思ったら頭が真っ白になって…。」

七海はここで一度深呼吸した。しかし、自身の心音と胸苦しさははっきりと感じられ落ち着くことはなかった。

「二人にお父さんのことを思い出したくないんでしょ、忘れたいんでしょって言いました。お父さんは違うって、お母さんは謝れって、そんなのばっかりで。私もお父さんに謝って、とか言って、言い合いになりました。」

聞いていると七海の気持ちが高ぶってきているのが分かった。ここからが恐らく最も重要な箇所なのだろう。

「最後に、お父さんが死んだから結婚できたんだ、お父さんが死んだ方がよかったんじゃないか、そう言いました。…そうしたらお父さんに叩かれました。…あんなに怒ったお父さん、初めて見ました。それから私、気付いたら家を飛び出してました。その時偶然先輩と一緒に行った公園を見つけて、先輩を思い出して、それで銭湯へ。」

話し終えた七海は目を閉じ、胸を押さえて深呼吸した。涙声だったが涙は零さなかった。

「…そうか。話してくれてありがとう。」

話を聞いた解はもう一度七海の話を反芻した。その中でまずは七海に聞くことがあった。

「七海は…。」

その時玄関のドアが開き、声が聞こえた。

「ただいまー。」

「あ…。」

「麗さんか。食事の用意をしないとな。」

麗が帰ってきたので話は中断となった。解は七海を座らせておいて麗の夕飯の準備を始めた。


 結局麗が帰って来てから解が七海と二人になる時間はほぼなく、解は一人ベッドに横になりながら七海の親との喧嘩について考えていた。

 解は真や麗と喧嘩したことはない。反発する理由がないからだが、二人が解に真摯に向き合ったことも大きい。加えて解には反抗期といえるものがなかった。つまり、解は家族と喧嘩したことがなかった(麗は家族であり家族でない微妙な枠だが)。

解は喧嘩をしない方がよいが、喧嘩しても意味がある時もあると感じている。喧嘩するほど仲がいいという言葉があるし、透矢と殴り合い友人関係を深めたこともある。なので、今回の七海と両親との諍いもお互いに価値あるものにできないか、などと考えていた。

とん、とん…。

解以外はもう寝ている時間だが、ドアの方から小さく音がした。解は気のせいだと思ったが、もし誰かいたら悪いので起き上がりドアを開けた。

「七海?」

「ど、どうも、先輩…。」

ドアを開けた正面にはパジャマ姿の七海がいた。一人で来てノックしたようだ。七海は何故かそわそわと落ち着かない様子で、解はとりあえず七海を部屋に入れ椅子を勧めた。

「こんな時間にどうしたんだ?きっと疲れているから、もう寝た方がいいぞ。」

「一度は寝たんですけど、途中で起きたら寝れなくなってしまって…。」

えへへ…と七海が笑顔を見せた。調子は悪くなさそうだ。ただ、落ち着けるよう座ってもらったが、七海は未だに落ち着きなく足をぱたぱたさせていた。

「それでここに来たと。…なんでだ?」

今の話だけでは解の部屋に七海が来た理由が分からず、解は首を傾げていた。それに答える七海は何故か恥ずかしそうにしていた。

「お風呂の後、話が途中になったのが気になって。先輩は何を言おうとしたんですか?」

「ああ、あれか。明日言うつもりだったんだが…眠くないか?」

「は、はい!大丈夫です。」

「…ならいいか。分かった。俺が聞きたかったのは気持ちだ。喧嘩の経緯は聞いた。今喧嘩についてどう思う?」

「どう思う、ですか?」

「ああ、両親に怒っているとかだな。」

「…えっと…。あの、家を飛び出したのに変なんですが、両親を嫌っても怒ってもないんです。やっぱり私は二人とも大好きですから。それに美容師になるのは何を言われても諦めません。始まりの理由はどうあれ私が決めた、私のしたいことですから。」

「ああ。」

解は静かに首肯した。まずは七海に言いたいことを全て話してもらうつもりだった。

「…お父さん・お母さんには、お父さんをどう思ってるのかを教えてほしいです。美容師になる夢は認めてくれたら嬉しいです。…でも何より…。」

七海は話の途中で顔を曇らせて俯いた。悲しそうな、申し訳なさそうな、そんな表情だ。

「何より、二人に謝りたいんです。どんな理由があっても私の言い方は悪かったです。言ったことは取り消せなくて、相手につけた傷も残ります。でも、悪かったことを認めてちゃんと謝らないと。そうしないと仲直りなんて虫が良すぎると思うんです。」

話している途中で七海は顔を上げた。その顔は疲れが見えるが、いつもより大人びていて力強さすらあった。

「…分かった。七海、話してくれてありがとう。話を聞いて、お前を尊敬している。」

「そ、尊敬ですか?」

「ああ。苦しい時に相手のこと、自分の悪いところを認めることは簡単じゃない。…必要ないかもしれないが、俺にできることがあれば言ってくれ。期待に沿えるよう努めるからな。」

「…あ、ありがとうございます!先輩が助けてくれるならすごく心強いです!」

七海は心から感謝し、頭を下げた。気持ちが伝わるよう一生懸命だった。言われた解は七海の頭にぽんと手を置き優しく撫でた。くすぐったそうにする七海が解を見ると、解は静かに笑っていた。二人の様子は本当の兄妹のようだった。

「…よし、もう遅いから寝るか。七海は麗さんのところに戻って、早く寝た方がいい。」

「それなんですけど、先輩、あの…。」

七海は恥ずかしそうに上目遣いで解を見た。そして、不思議そうにする解に思い切って言った。

「あ、あの、今日だけですので、一緒に寝てくれませんか?」

「…え、一緒に?本気か?」

「これからを考えるとやっぱり不安で。この前先輩が励ましてくれた時、お父さんみたいに感じて安心したんです。だから、その…駄目、ですか?」

七海は恥ずかしそうではあるが本気だった。女子高校生が上級生男子と同衾していいものなのか。七海が後で困ることにならないだろうか。「自分」が七海と寝ることには何の問題も感じないまま、解は考えつつ口を開いた。

「いや、俺はいいが…。まあ、七海がいいならいいのか。分かった。じゃあ寝るか。」

「はいっ!」

解がベッドで横になると、七海がもぞもぞと布団に入ってきて解のすぐそばで丸くなった。

「やっぱり先輩が側にいてくれると安心です。これなら眠れそうです。ふあ…。」

七海は嬉しそうに言い、欠伸をした。先程の力強さはなりを潜め、むしろいつも以上に子供のようだ。

「…。」

近い。七海が予想以上に近い。いや、実際はもう少し離れられるのだが、七海はあえて解のすぐ側で横になっていた。解は驚かせないよう小声で話しかけた。

「七海、悪いがもう少し…。」

「すう、すう…。」

七海はもう寝ていた。やはり疲れていたのだろう。起こすのははばかられた。

(…寝返りで潰れないだろうか?)

解はそんなことを考えながら目を閉じた。七海の髪の毛からいい匂いがした。眠ることには集中できなかったが、幸い眠気はすぐ、そして勝手に訪れ、解はいつの間にか眠っていたのだった。



翌日は学校に行き、放課後になると解と七海は一緒に番台にいた。今日は珍しく愛情研究会を休みにして、七海と相談する日にしたのだった。七海の家庭の事情を説明するわけにはいかないので、銭湯の仕事を休みの理由にさせてもらった。そして、番台にわざわざ二人でいるのは七海が解の生活を邪魔したくないと主張したためだ。

帰り客に頭を下げ、解がぽつりと言った。

「今日は朝から大変だったな。」

「す、すいませんでした…。」

「ああいや、別に謝らなくていい。ただの感想だ。」

朝から麗に七海と一緒に寝たことをからかわれ、瀬奈達には七海の兄的存在としてからかわれた。解にとってからかわれるのは不快ではないが、どう反応すべきか分からないので大変だった。

「七海、それはせずにはいられない、と訳す慣用句だ。」

「え。じゃあこうですか?」

「…そうだな。それでいい。」

今は宿題中だった。ちゃんと勉強することが両親への誠意になると解が言ったからだ。七海は苦手なことも真面目にやっていた。

「見る限りは普通に勉強してるのに、どうして苦手なんだろうな。」

「今は先輩と一緒だからですよ。一人の時よりやる気が違います。」

勉強しながらも七海は楽しそうだった。

 時々接客をしながら解と七海は宿題を終えた。七海は解の隣で大きく伸びをした。

「はあーっ、ようやく終わったあ。」

「それなら早速仲直りするにはどうするか考えないとな。」

「う…そうですよね。ちょっとだけ休憩したら駄目ですか?」

「大丈夫だ、ここなら話しながら休憩しているようなものだからな。今日は家に帰らないといけないぞ。」

解にやや強く言われた七海はしゅんとしてしまった。

「はい…。帰らないとご迷惑ですもんね…。」

「全然違うぞ。」

「え?」

「俺は別に七海が何日泊まってもいい。恐らく麗さんもな。帰るのは七海自身とその家族のためだ。お前が大切に思う人達ならきっとお前を心配している。それに、お前は家族と一緒が一番いいと思う。」

「先輩…。」

相手の本心は誰にも分からない。だが七海は解が本気で自分のことを考えてくれていると思った。そう信じさせてくれる解が好きだった。しかし、当の解は客の相手を淡々とこなしていて、七海の親愛の情には全然気付いていなかった。七海は解と一緒に客に頭を下げながら笑った。

その後、解と七海は勉強を終えて銭湯の仕事を続けていた。仕事の途中、解は仲直りについて考えていた。仲直りとは具体的に何を指すのだろう。ただ謝れば十分なのか、それとも何か追加すべきなのか。喧嘩はともかく仲直りの経験がないから分からない。

「先輩。先輩、声に出てますよ。」

「え?ああ、悪い。」

七海に袖を引っ張られて解は我に返った。どうやら思考が口から漏れていたらしい。少しばつが悪い解の隣で、七海は笑顔だった。

「色々考えてくれてありがとうございます。でも私も一応考えたんですよ。」

「そうなのか?」

「はい。まずは私から謝ります。ひどいことを言ってしまったので…。だから、許してもらえるまでちゃんと謝ります。それで許してもらったら、お父さんのことをどう思ってるのか聞きたいです。最後に、ちゃんと勉強も頑張って高校を卒業するから、美容師になるのを認めてほしいって言おうと思います。」

「そうだな。…。」

七海がしっかり考えていたので、解は少し驚いていた。自分のことをちゃんと考えていてすごいと褒めたくなった反面、手伝うと言ったのに何もしてないな…と少したそがれてしまった。

「先輩?どうしたんですか?」

「いや、お前がしっかりしてるから、俺は必要なかったなと…。」

「そんなわけないです!」

銭湯の広間に七海の声が響き渡った。七海は少し驚いている解に必死に説明した。

「昨日先輩と話をしていたから今の話ができたんです!そもそも今私が元気なのは先輩が優しくしてくれたお陰なのに、必要ないなんて言わないで下さい…!」

「…悪かった。手前勝手な言い方だったな。」

「いえ、私もすみません。急に偉そうなこと言って。でも、私が先輩に助けられてるのは本当だから、分かって欲しいです。」

七海は真剣な目で解を見て話していた。本当に分かって欲しいらしい。解は七海の目を見てまた失敗したと思った。つばめの言葉を思い出しながら、七海とつばめに心の中で詫びた。

(なかなか成長しない先輩ですまない。)

解が反省している時、七海はちらりと解を見て何か言おうとしては止めるを繰り返していた。しかし、腹をくくり上気した顔で勢いよく言った。

「あ、あの!私がすることは今話した通りなんですけど、先輩にお願いしたいことがあるんです!」

「ああ、勿論いいぞ。何をしたらいいんだ?」

七海はかなりの勢いだったのだが、少し凹んでいた解は驚くことなく頷いた。解の頷きを見た七海は再び勢いよく話した。

「は、はい!両親と話すとは言ったんですが、ちゃんと話せるか、また喧嘩にならないか、うまくいくのか、本当は不安で…。だから、私の家に先輩も一緒に来てくれないでしょうか⁉」

「分かった。なら、七海が帰る時に俺もついていけばいいな。ただ仕事を休んでいいか麗さんに許可が必要だな。」

「…いいんですか、先輩?」

断られるかも、と思っていたのに恐ろしいほどすんなり了承されたので、七海はおずおずと解に確認した。解は解で不思議そうに返した。

「ああ。一緒に行くくらいなら俺もできるからな。」

「あ、ありがとうございます!」

七海は深く頭を下げた。解はそれくらいと言ったが、他人の家庭に親身に付き合ってくれる人は少ないだろう。解がいてくれて本当に助かるし嬉しかった。…ただ、両親がいるのに家についてくるなんて、相当な仲と思われてもおかしくないのだけれど、解は全く分かっていないのだろう。七海は心の中で苦笑いしつつ、わずかなもやもやの存在を感じていた。


 七海の両親が家にいる時間になったので、解は麗に許可をとり七海と彼女の家に向かった。エスコートは常に、ということで七海と手をつないで歩いたが、やはり不安なのか夏なのに七海の手は冷たかった。

 七海の家に着くと、七海は深呼吸をしてインターホンを押した。解は手を離そうとしたが、逆に七海にぎゅっと握られた。

「七海?」

「すみません。でも、このままで…。」

七海の顔は白く、声は緊張していた。今は七海の好きにさせよう。解はそう思い手を七海に預けた。

 がちゃっ!

「七海!」

やや勢いよくドアが開き、七海の母親が飛び出してきた。母親は七海を心配していたのか険しい顔で現れたが、七海の顔を見て怪我などがないと分かると安心したようにため息を吐いた。七海は母親の様子を見て心配をかけたことを申し訳なく思った。

「ただいま、お母さん。」

「お帰りなさい。心配したのよ。でも無事で良かったわ。黒条さん、七海が迷惑をかけて本当にすみません。」

「いえ、迷惑なんて何もなかったです。…さあ、七海。」

解は七海の母親に穏やかに答えると、七海を見て話すよう促した。七海は軽く深呼吸をすると一歩前に出た。

「お母さん、私、話したいことがあるの。リビングでお父さんと少し待ってて。」

「え、ええ。分かったわ。」

七海の緊張が伝わったのだろう、母親は少し緊張した様子で返事をして、七海と解を気にしつつ家の奥に戻った。

一旦話を終えた七海は息を吐いて力を抜いた。そして解は七海の力が抜けたタイミングでするりと手を離した。その瞬間、七海は驚いて解を振り返ったが、解に穏やかな目で見つめられて言葉を詰まらせた。

「七海。俺はここで待っているから、お前一人で両親と話してくるんだ。」

「え…。来てくれないんですか?」

七海は少し目が潤んでいた。しかし、解は罪悪感と戦いながら、七海と視線の高さを合わせて答えた。

「いくらお前が良くても、ご家族は俺がいたら腹を割って話せないだろう。それに、これ以上はお前を甘やかすことになる。俺はあくまでも他人だ。力を借りるのはいいが、依存しては駄目だ。」

「う…。」

甘えている自覚はあるようで、七海は何も言えずに俯いてしまった。解はそんな七海にできるだけ穏やかな声で話を続けた。

「お前なら大丈夫だ。必ず両親と仲直りして話もできる。俺は話が終わるまでここで待っているからな。」

「先輩…。」

七海はこくりと頷いた。分かってくれたようだ。解が安心して態勢を戻すと、七海がぎゅっと抱きついてきた。

「…甘えてすみません。でも、少し勇気をもらっていいですか?」

「…ああ。」

解は片手を七海の背中に回し、優しく抱きしめながら背中をとんとんと叩いた。…しばらくすると七海はそっと解から離れ、しっかりした目で解を見上げた。

「大丈夫か?」

「はい、大丈夫です。…じゃあ先輩、行ってきます。」

「ああ。行ってこい。」

七海は頷き、振り返らずに家に入っていった。


 以前解が食事をしたテーブルには七海の両親が座っていて、七海は向かい合う形で座った。ちなみに弟は部屋にいるらしい。親子は緊張していて、一様に顔が固かった。緊張した空気の中、まず七海の父親が口を開いた。

「お帰り、七海。」

「うん。ただいま、お父さん。心配かけてごめんなさい。」

「いいんだ。お前が無事なら。」

七海の父親は妻と同様に穏やかな雰囲気をしていた。優しそうなところは七海と似ているが活発なところは違う。七海の元気さは実の父親似なのかもしれない。いずれにせよ、七海の父親も七海を大切にしていることがよく分かった。

挨拶が終わると七海は本題に入るため早速両親に話しかけた。

「お父さん、お母さん、今日は言いたいこと、聞きたいことがあるの。」

「ああ、構わない。僕もそのつもりだ。」

「私も大丈夫よ。」

七海は両親の言葉に頷いて、少し震える手を握った。まだ解の手の温もりを覚えていた。

「まずは、ごめんなさい。昨日はお父さんにもお母さんにもひどいことを言いました。私のせいで嫌な思いをさせて、本当にごめんなさい。」

「僕の方こそ叩いてごめん。どんな理由でも娘に手をあげてはいけなかった。だから、本当にすまなかった。七海は謝らなくていいんだ。そもそも、僕がちゃんと話ができれば喧嘩になんてならなかったんだ。」

「お父さん…。」

七海は既に泣きそうだった。あんなことを言ったのに怒っておらず、それどころか本気で謝っている。自分がどれだけ愛されているかが分かった。

「七海が強い子だから甘えていたんだね。今日は七海が聞きたいこと、僕が話さないといけないこと、全て話そう。みどりさんもそれでいい?」

「はい、遼太郎りょうたろうさんに任せます。」

そう言って母親は七海に笑顔を向け、部屋から静かに出て行った。父親は一つ咳払いをした。

「心配ないよ。お母さんがいると少し恥ずかしいから席を外してもらったんだ。お母さんとは昨日十分話したし、後で僕から話すよ。それより、七海は何が聞きたい?」

「うん。私は前のお父さんのことを聞きたいの。お父さんは前のお父さんをどう思ってるの?」

「…昨日も言っていたね。お父さんのことを忘れたいのか、死んで嬉しかったんじゃないか。」

「ごめんなさい…。」

七海が頭を下げて再度謝ったので、父親は急いで手を出して七海を止めた。

「大丈夫だ、気にしないで。…誓って言うが、前のお父さん、航一こういちのことを忘れる、忘れたい、そんなことはない。死んで嬉しいと思ったことはない。絶対にだ。賭けてもいい。」

「…本当?」

父親の言葉を聞いて少し安心したのか、七海の表情が少し明るくなった。しかしまだ不安なのか、小さな声で父親に尋ねた。

「ああ。約束するよ。…ただね、僕自身を疑う時はあるんだ。」

「え?」

「僕と航一が友人だったのは前に話したね。…僕が碧さんと知り合ったのは航一が亡くなる前だった。もちろん何もしなかったし、航一の死後もすぐにはお互い何もなかった。けど結局、僕達は結婚した。結果的に僕は航一が死んで得してるんじゃないか、そう悩んだことがある。今もね。」

父親は一度言葉を切って目を閉じた。その動作は自身の様々な感情を押し殺すかのようだ。

「それにね、闘病中の航一が僕に言ったんだ。『碧と子供達を頼む』ってね。もしかしたらあいつは今の状況を予想していたのかもしれない。ならあいつはあの時、一体どんな気持ちで言ったのか。どうして僕は気付かなかったのか。そう思うとなおさら自分を疑ってしまうんだ。」

「…。」

「けれど七海、お前に誓ったように僕は親友を忘れたいなんて思ってない。碧さんには航一を愛したことを忘れないでほしいし、七海は今のまま航一を愛していいと思ってる。僕は航一が愛し、愛された家族を愛したんだ。だから、あいつが死んで嬉しく思うなんて決してない。…それなのに、七海に言われてかっとなってしまった。恥ずかしいことに、僕は自分を守るために七海を叩いたんだ。謝ってすむことじゃないが、本当にすまなかった。」

「ううん、大丈夫。…ありがとうお父さん、色々教えてくれて。お父さんから前のお父さんのことが聞けて、すごく嬉しい。」

七海は笑顔で答えた。父親の思いが聞けて良かった。なにより、父親が前の父親を含めた家族を愛してくれていることが分かって嬉しかった。

父親の話が終わり、最後は美容師についてのお願いだった。七海は父親の目を見て言った。

「最後に、私はやっぱり美容師になりたいの。それを二人にも認めてほしい。お父さんは私が美容師になるのは反対?」

「美容師を目指すのは賛成、というか七海が決めるなら何でもいいよ。そこを気にしているのは碧さんでね。」

「お母さんが?」

「うん。ああ、誤解しないでほしいんだけど、お母さんも反対してるわけじゃないんだ。僕のために言ってくれているだけなんだ。」

「お父さんのため?」

「ああ。七海、お前は再婚した当初、僕になかなか慣れなかったのを覚えてる?」

「そうかな?言われてみればそうだったかも…?」

「元々よく会ってはいたけど、なかなか『お父さん』とは扱われなくてね。それで僕を心配した碧さんが航一の話を控えるようになったんだ。とはいえ髪を切るのは七海も楽しそうだし止めなかった。」

「…。」

「お母さんは僕が嫌な思いをしないよう一生懸命だっただけで、美容師を目指すこと自体に反対はしてないよ。航一を忘れたいのでもない。俺も碧さんも、航一との思い出を大切にする七海を愛している。だから、安心してほしい。」

「うん。私もお父さんとお母さんが大好き。いつもありがとう。」

七海は言い終わるとぽろぽろと涙を流した。一連の話を思い出し、嬉しい気持ち、申し訳ない気持ちなど、思いが溢れてきたようだ。父親は七海に近寄りハンカチで涙を拭いた。二人とも笑顔だった。


「先輩!お待たせしました!」

「ああ、って、おっと。」

 ドアが開くなり七海が抱きついてきたので、解はよろめきつつもしっかり七海を支えた。七海は解にくっついたまま顔を見上げた。その顔は少し申し訳なさそうだが、内面の輝きが溢れてくる様子であり話がうまくいったことが解にもよく分かった。

「お待たせしてすみませんでした。」

「問題ない。仲直りできてよかったな。まあ、最初から仲違いしてないと思ってたが。」

「えへへ…。」

解はわずかに笑い、労うつもりで七海の頭を撫でた。七海は撫でられて嬉しそうだった。

その時、家から七海の家族、両親と弟が出てきて、父親が前に出た。

「黒条君だね。七海の父です。七海がいつもお世話に、というか今もお世話になっています。」

父親は、いや母親も笑っていた。両親の前で七海は解に抱きつき、解は七海の頭を撫でていた。

「こちらこそお世話になっています。というか七海、親の前では離れた方がいいぞ。」

「え?は、はい。」

解に軽く押された七海は解から離れたが、残念そうな顔だった。そんな七海を微笑ましく思いながら、父親が解に話しかけた。

「今回は身内のことに付き合わせてしまって申し訳ない。けれどありがとう。せめて夕食でも食べていかないかい?」

「いえ、俺が七海についてきただけですから。食事はご遠慮します。」

「遠慮しなくてもいいよ?だって…」

「お父さん、先輩はまだ仕事があるの。だから邪魔したら迷惑だよ。」

「仕事?高校生なのにすごいな。でもそうか、それなら邪魔したら駄目だね。けれど、ぜひまた来てくれると嬉しい。一緒に食事や話をしたいからね。」

「分かりました。また七海と話をします。」

そんな調子で解が真面目な返事をしていると、七海の弟が解に近づいてきた。解と目が合った。

「…?」

「もしかして、お姉ちゃんの彼氏ですか?」

「わあああ!」

七海は突然叫んだかと思うと、弟を解から遠ざけ両親の後ろまで押しやった。

「違うから!彼氏じゃないから!」

「えー?だって抱きついてたし、頭撫でてもらってたし。」

「ち、違うの!そういうのじゃないから!」

よく分からないが、そういうのとは彼氏のことだろうか。彼氏とは恋人の類語だろうが、七海と解は恋人同士ではない。それだけのことなのに七海はどうして声を荒げているのだろう。不思議に思う解を余所に父親が姉弟を笑いながら止めた。

「こらこら、今はストップ。七海がお世話になったんだから、ちゃんと黒条君を見送ろう。」

「「はーい。」」

姉弟、親子、夫婦。複数の愛情の形があり、それらがまとまり家族という。解は他の家族の形を初めて見た。それは解にはある意味衝撃的で、思わず見入ってしまいぼうとしていた。

「先輩?どうしましたか?」

七海の声で解はふっと現実に戻ってきた。解はまだ少しぼんやりとしながら答えた。

「何でもない。家族を見ていたんだ。」

「家族、ですか?」

「ああ。俺の知る家族とはまるで違う。こんなものがあるんだと初めて知った。」

「あ…。」

七海は解の家族を思い出した。義父の真、家族代わりの麗。両親は聞いたことがなかった。七海は何か言おうとしたが、解がとても穏やかな顔だったので何も言えなかった。

しかし、解はすぐいつもの無表情な顔に戻り七海を見た。そろそろ帰らなければ。

「七海、今日はお疲れ様。お前が満足できる結果になって良かった。…今日はお邪魔しました。」

解は七海の両親に深く頭を下げた。七海と来たことに後悔はないが、家族の問題に踏み込んでしまったと思っていた。

「邪魔なんかじゃないよ。ありがとう。」

「ええ。これからも七海をよろしくお願いします。」

「さよーならー。」

解はいつもの落ち着いた無表情で小さく礼をして帰った。

 解を見送った後、七海に弟が飛びついた。

「お姉ちゃんの彼氏、前も思ったけど髪の毛真っ白でかっこいいなあ。僕も真似しようかなあ。」

「彼氏じゃないったら。それに先輩の髪は地毛なの。真似なんてできないよ。」

「えーっ。」

「しかし、ほとんど話せてないけど不思議な雰囲気だったな。悪い意味じゃない、とても珍しいタイプだね。」

「でもすごくしっかりしてるから、七海にはちょうどいいわね。」

「はは。でも彼は大変そうだなあ。七海も頑張らないとね。」

「もう!みんなして好きなことばっかり!」

川野辺家はとても仲がよさそうだった。それは七海が、そして解も望む姿だった。


 解が銭湯の入り口に入るとすぐ声がした。

「解君、おかえりなさい。」

「ただいま。反応が早いな。」

「だって待ってたから。そろそろかなと思ってたの。お客さんもぼつぼつだから暇だしね。」

「昨日も今日も、仮眠の邪魔をしてごめん。」

「大丈夫。解君が小さい時はほとんど一人でしてたんだから。」

「10年くらい前の話だろ?」

「ぶー、女性に年齢の話をするのはタブーよ、解君。」

「あ…そうだったな。もう言わない。」

歩きながら会話していた解は番台に座り、麗と隣同士になった。

「後はやるから少し休んでくれ。昨日今日の分しっかり働くから。」

「そうね。お願いしようかな。」

麗は立ち上がって伸びをした。休憩室に向かう、と思ったら振り返り解に尋ねた。優しい姉、あるいは母のような温かい笑顔だった。

「解君、七海ちゃんの家族はどうだった?」

「…麗さんは全部予想してたのか?」

驚く解に尋ねられ、麗の笑顔が途端にいたずらっぽいものに変わった。

「全部って?七海ちゃんの喧嘩が解決すること?家族が優しかったこと?それともそんな家族を解君が見れたこと?」

「…その全部だ。」

「大体ね。少し話しただけだけど、七海ちゃんはいい子よね。なら家族が悪い人達なわけないわ。そして七海ちゃんと解君ならきっとうまく解決できる。ついでに解君なら家まで送ってあげるはず。ね?予想できるでしょ?」

麗の推測通りだった。解は麗の洞察力に驚くと同時に能力の使い方に若干呆れていた。

「普通は分からないぞ。透矢もすごいが麗さんもすごいな。」

「ふふ、すごいでしょ。でも、私のことはいいの。どんな家族だった?」

問われた解は川野辺一家を思い出していた。それだけで虚ろだと思っている胸が温かくなった。

「こんな家族があるのかと思った。上手く言えないが、美しいと感じた。ずっとそのままでいてほしいな。」

「…羨ましかった?」

麗の言葉にはほんの僅かに不安の色が混じっていたが、解は気付くことなく即答した。

「いや、それはない。俺の家族は真だけだ。麗さんは家族だけど家族じゃない。…我ながら変な言い方だな。」

「ふーん…。そっか、そっかあ。」

にこにこしながら麗は解の所に戻ってくると、がばっと解に抱きついた。

「すごく嬉しいわ。やっぱり解君は分かってくれてるのね。」

解が羨ましいと答えたら、麗は正直なところ寂しかった。しかし、解が羨ましいと思わず、真という家族を大切にしていることが分かり嬉しかった。そして解自身無自覚だが、麗を家族のようで家族ではない、一人の女性だと言ってくれたので尚のこと嬉しかった。

嬉しそうな麗だったが、そのスキンシップに小さい頃から慣れている解は優しく麗を押しのけながら冷静に言った。

「麗さん、俺もそれなりの年だから理由なく抱きつくのは感心しないぞ。」

「はーい。じゃあほどほどにします。」

笑顔を見せつつ、今度こそ麗は休憩室に歩いていった。

「ふう…。」

今日も色々あった。それにしても、昨日瀬奈と話した通り、春から本当に多くの出来事があった。そのどれもが自分を成長させてくれているはずだ。七海の家族を見たせいか、解は真を思い出した。できるなら自分が得た経験や知識を教えてやりたいと思った。



   家族愛、兄弟愛、夫婦愛、親子愛

 以前家族愛については考察したが、改めて考えてみたので記載する。

 家族は親子、兄弟、夫婦、祖父母と孫など、それぞれが異なる複数の立場を持つ人々の集合体である。つまり、それぞれが異なる愛情をもって相手に接している。あらゆる人がそれを無意識にしているというのは特筆すべきことのように思う。

 家族が上手くいくということはそれぞれの関係が概ね全て良好ということだ。それは積み木のように、全員で積み重ねてできたものである。それは積み重なれば完成し完璧に見える。しかし一部が壊れれば全体に影響を与えてしまう。家族でない関係性は基本一対一なので構造は簡単だ。一方、家族は関係性の集まりである故に複雑で、上手くいっている時は精巧な細工のように整った形を作るが、わずかなひずみが全体の破壊につながることもある。つまり家族は人間の関係において良悪二つの点を持つといえる。

 デメリットも書いてあるものの、家族が美しいものであると改めて知る機会を得た。そのため、多くの人々が可能な限り家族という関係性の集まりに価値を見出せることを願う。

□月△日 黒条真 記

        〇月×日 黒条解 加筆


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