No.3
黒条真を他人がどう見たか
人と人の関係は相手に対する基本的なイメージを元に成り立つ。故に基本のイメージ、つまり第一印象が良くない場合、その後の関係が円滑に進みにくくなる。今回は他者の視点から自身、黒条真がどう映ったかを考える。
箇条書きすると、両親はかわいそうな子供、普通に生んであげられず申し訳ないとのこと。妹は気持ち悪いや死人と言い、麗は愛していると言った。学生や教師は何を考えているか分からない、怖い、危険だと、患者は怖いが真面目、嘘がなく誠実だと、医者は感情がない精神病持ちだと言った。
自分に対して多くの見方があるが、それぞれに対するこちらの感情は同じ無であり好きも嫌いもない、故にほぼ同じ行動をとっている。つまり感情と言動は同じだが、相手の見方が違っていたということだ。その原因として、こちらの立場に変化があるため、立場によって扱われ方が変わった可能性が高い。また、相手といる時間は麗のみ長く、他は必要最低限のつながりしかない。麗のみ愛情をこちらに対し持ったのは長期的な付き合いで何かを得たと言うことだろう。
いずれにせよ、こちらは自己の損益に生死のレベルでしか意味を見出しておらず、故に相手の印象を変える必要性がない。つまり、他者が持つ自身への基本イメージを黒条真が改善することはない。あるとすれば、良く思われたいという保身、自己愛が生まれた時だろう。
真 記
一連の騒動の結果、山下と畑は逮捕され学校から消えた。その後の説明会、欠員の補充、生徒へのケアなど様々問題はあったが、不思議と処理は静かに進んだ。PTAや教職員組合、教育委員会が協力的だったらしい。保護者説明会は解達以外に特に被害がなかったからか、紛糾することなく終わった。またメディアが騒ぐ可能性があったが、被害者が健在なためかほとんど報道されなかった。逮捕された畑、山下の評判が元々悪かったためか生徒の動揺もなく、問題の割に学校生活に大きな変わりはなかった。
問題の会議から一週間ほど経ち、解はいい意味で有名人になっていた。今回教師にはめられたことで「黒条解=不良」が教師による誤解と理解された。校門での喧嘩も美化され、さらに球技大会での人命救助が追加された結果、解は「悪い教師と戦ったすごい人」として生徒から認知されるようになった。
「黒条君、ありがとー。」
お礼を言ってクラスの女子が席に戻っていった。事件以降、勉強で分からないことやお菓子の作り方を解に聞く生徒が増えた。今の女子も解にクッキーの作り方について相談していた。
「交友関係が増えたな、お前も。」
コンビニ弁当を食べながら透矢がしみじみと言った。解も弁当を食べながらのんびりと答えた。
「聞かれたことに答えてるだけだ。まあ、頼られることは悪いことじゃないな。」
「そうそう。不良だって誤解されなくなったんだから、いいことでしょ?」
「私のクラスでも先輩の話が出ますよ。お菓子もお弁当もおいしくて、かっこいい先輩だよって教えてます。」
瀬奈と七海は買ってきたパンを食べていた。七海は相変わらず自信満々で解を褒めているらしい。
「やはり褒め過ぎだな。」
「いいじゃないか。自分を売り込む時はできるだけ高値でふっかけておこうぜ。」
そう言って透矢は解の弁当からきんぴらごぼうをつまみとった。
「しかし、今日もよくできてるな。これ全部自前なんだろ?誰に教わったんだ?」
「真からだ。他は独学が多いな。」
「すごいですよね。肉じゃが、きんぴらごぼう、五目豆、ほうれん草の胡麻和え。お母さんみたいです。」
「学校やバイトもあるのに大変じゃない?」
少し心配して聞く瀬奈に、解は日々の行動を思い出しながら答えた。
「平日の帰りは確かに遅いな。だから土日にきんぴらとかは作っておいて、バイトの前に食事の準備をしておくんだ。」
「ふーん…もっと楽な方法はとらないのか?惣菜買うとか。」
「できるが高いな。なるべく節約したい。」
解は何の気なしに言ったのだが、解の話を聞いた瀬奈はおずおずと尋ねた。
「あの、前から気になってたんだけど、解君は何でそんなに節約してるの?真さんはお医者さんで家もあるんだし、お金はあると思うんだけど…。あ、言いたくなかったら言わなくていいからね。」
「いや、別に問題ない。確かに遺産は相続したんだが、元々は真のものだからな。なるべく使いたくないんだ。」
「さすが先輩、しっかりしてますね!」
「確かにすごいよ。すごいんだけど…。」
瀬奈は何というべきか、言葉を選びながら話を続けた。
「真さんは解君にどうして欲しいかなと思って。お金を使ってほしいか、使ってほしくないか、どっちなんだろ?それに、今の解君だったら相当ピンチにならないと使わないんじゃない?」
「さすがにそれはない…と思う。」
「本当~?」
「多分…?」
瀬奈に詰め寄られた解は珍しく自信がなさそうな声を出した。瀬奈の言う通りかもしれない、とちらりと思ってしまった。
「まあ霧谷もそう問い詰めるなよ。別に解が悪い訳じゃないんだからな。」
透矢は早々に弁当を食べ終えて解たちの会話を黙って聞いていたが、タイミングを見計らい切り出した。
「ただ霧谷のおかげでいい案が浮かんだ。次の研究会の議題は『黒条真について』なんてどうだ?」
「真について?」
「そうだ。そもそもお前の研究を始めた人だろう?俺たちもどんな人だったのか知った方がいい。純粋に興味もあるしな。」
「確かに私も興味ある。『愛情を理解できない』ってどういうことなのか、私たちにはよく分からないしね。」
「私も、先輩を育てられた真さんがどんな方だったのか知りたいです。」
解は全員の意見を聞いて頷いた。せっかく透矢達が協力してくれるのだから、真のことは知ってもらった方が良い気がした。
「そうだな。俺から見ても真は相当変わってたからな。透矢の言う通り、何を考えていたか知っておいた方がいい。」
「な?決まりだ。俺は真さんの過去を調べるから、いくらか時間をくれ。解は人となりについてまとめといてくれ。」
「ああ、分かった。」
「私達は?何かすることない?」
何もしないのは悪いなと思う瀬奈が聞くと、透矢はにやりと笑って答えた。
「お前らは愛情がわからない人間が他にいるか調べてもらうかな。人の過去を調べるよりは調べやすい。」
「はい、分かりました!」
「頑張ろうね、七海ちゃん。」
「はい、瀬奈先輩!」
話がまとまり、全員のするべきことも決まった。解は何となく居心地の良さを感じていた。しかし、その具体的な内容は答えられなかった。
「わー、売り物みたい!」
「すごいね、黒条君!」
クラスの女子が騒ぐ中、解は作った個包装されたフロランタンをクラスに配っていた。
今日のお菓子は本来始音のためのものだ。解達の退学未遂事件では始音は大きなストレスを受けたが、それまでも愛情研究会と解たちを守っていた。そのことを透矢たちに解が説明すると、皆で始音に感謝のお礼をしよう、と瀬奈と七海から提案があった。サプライズ第一段として解がお菓子を作ってきたのだった。
実はすでに朝のうちに始音にはフロランタンは渡していた。「自分のために解が作ったお菓子」に始音は内心相当喜んだが、解の前ではあっさりした態度に留めた。そして始音の反応を見た解は好物を聞いておけばよかったと若干反省したのだ。
フロランタンはクッキーに少し近いものだが、作る関係で始音の分以外にそこそこ大量にできてしまう。そのため、始音に許可を得てクラスメイトにも配ることになった。そして概ね全員に配り終えた解が自分の席に戻ってきた。
「おいしいですね~。」
「おいしいけど、何か悔しいなあ…。」
瀬奈と七海は昼食前にお菓子を食べていた。
「女性陣は甘いのが好きだねえ。太るぞ?」
「デリカシーがない!」
「午後も放課後も頭を使うから大丈夫です!」
おにぎりを食べながら皮肉った透矢に瀬奈と七海が抗議する中、解は鞄をごそごそしていた。
「弁当を忘れたかもしれない。」
言いながら解は机の中をごそごそしていた。
「あれ、解君もそんなことあるんだ。…?」
「今日はみんなでお弁当の分けあいですね。…?」
「やっぱり忘れたみたいだ。今日は菓子を持ってきた分入れたつもりになったようだ。」
「ああ、そうか…。」
「?」
三人の様子がおかしく感じて解は弁当探しを終えて三人を見た。三人ともぽかんと解を、というより解の後ろを見ていた。解は首を傾げた。
「どうした?何かあ…」
「だーれだ?」
いきなり両目をふさがれた解は一瞬体をびくっとさせたが、声で分かったのか呆れたように言った。
「なんで今ここに…。何の用だ?」
「ぶーっ、名前を言わないと終わらないわよ、解君?」
「何の用だ、麗さん?」
ようやく両目を塞いでいた手が離れ、解は振り返ることができた。
「せーかい。正解した解君にはご褒美に忘れていったお弁当をあげます。」
「ああ、そういうことか…ありがとう。」
解は名前を呼ばれてにこにこしている女性…麗から弁当を受け取った。
始音、瀬奈、七海はいずれも美人だが、麗…姫宮麗も相当に美人だった。背はやや低くふわふわした長い髪の毛が容貌と合わせてとても可愛らしい。またプロポーションが非常によくその場の男子のほとんどが釘付けになった。そしてさらに目を引くのが服装で、ワンピースの上に皮のジャケットを羽織り、首には白いベルトに細長いチェーンがつき、右手にはチェーンのブレスレッドをつけていた。まとめると、大変な美人だが見た目言動ともに相当個性的な人、それが姫宮麗だった。実際のところ解より10歳以上年上のはずだが、解が小学生の頃くらいから見た目が変わっていない気がする。
「ねえねえ解君、この子たちが解君の言ってたお友達?」
クラス中の視線を独り占めにしつつ、麗は微笑んで瀬奈達を見た。大人の余裕と美しさ、そして不思議な迫力がある麗に見られて瀬奈と七海はどきっとしてしまった。
「ああ。右から七海、瀬奈、透矢だ。」
「うんうん。あ、自己紹介がまだよね。私は姫宮麗。解君の姉、母、恋人代わりです。」
麗の言葉を聞いた瞬間瀬奈がむせたので、七海が慌てて瀬奈の背中をさすった。
「その三つはおかしくないか?」
「え?だってこんな小さい時から知ってるし、今は一緒に住んでるし。おかしくないでしょ?」
麗の発言で今度は七海が牛乳を少し吹いた。しかし麗がさっと近づいて七海の顔と服を拭いてあげた。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます…。」
「どういたしまして。これからも解君と仲良くしてあげてね。」
麗は微笑んで七海の頭を撫でた。麗の自然な様子に見とれ、七海は黙って撫でられていた。一方そんな二人を見ていた解は渋い顔だ。
「麗さん、銭湯はいいのか?きっと閉めてきてるんだろう?」
「ふーん?解君はそんなこと言うんだ?」
麗は笑顔だったが、全身から怒りの気配を出しながら笑っていて、解でなくても大変なプレッシャーを受けていた。
「すぐばれるのに、喧嘩しても停学になっても、退学寸前でも私に黙ってた人が、そんなこと言っていいの?」
「すいませんでした。」
(謝るの早っ!)
(頭が上がらないってやつか。)
(子供を叱るお母さんみたい。)
瀬奈、透矢、七海はそれぞれ違う感想を持ちながら解と麗のやり取りを見ていた。解に謝られた麗は何度か頷いた。
「分かればよろしい。じゃあ私は帰るわね。解君、送ってくれる?」
「はいはい…。」
諦めた様子で解は立ち上がり、麗の前に手を出した。麗も手を伸ばしたが、途中で何を思ったか手を戻した。代わりに首輪についたチェーンを解の手に握らせて笑顔で言った。
「わんわんっ。」
ご丁寧に手で犬っぽい構えまでした。…猫の構えと違いが分からない。
「「「「…。」」」」
クラス中が凍り付く中、解は無言で首輪のチェーンを外しポケットに入れると、麗の手をとり足早に教室を出て行った。出て行く前に解は透矢達に一言だけ置いていった。
「俺に構わず、先に食べていてくれ。」
麗はにこにこと上機嫌な様子で透矢達三人に手を振り、解に連れられて行った。
二人が出て行くと、クラス中が一気にざわついた。男子はことさら盛り上がっていた。
「何というか、すごい人だったね…。」
麗の個性にあてられ呆然と言う瀬奈に興奮した様子で七海が続いた。
「や、やっぱり先輩のこ、恋人なんでしょうか?わ、わんわんってするくらいですし!」
「いや、恋人ではないな、あれは。ただ、これで色々疑問が解けた。」
「疑問って?」
一人で納得し頷いている透矢に瀬奈が不思議そうな顔で尋ねた。麗のインパクトが強すぎて疑問が全く思いつかなかった。
「まず銭湯の責任者だ。真さんと解が信頼する相手がしてるそうだが、そんな奴がそうそういるとは思えない。で、さっき銭湯の話が出ただろ?あの人が銭湯の責任者みたいだな。」
「うんうん。他は?」
「次に解の家庭だ。話が出ないから解の家族は恐らく真さん一人だろう。なら今は解だけになるが、未成年が一人で相続や税金、高校のことをするのはかなり難しい。だから誰かが助けてるんじゃないかとは思ってたが、まさか一緒に住んでるとはな。」
「一つ屋根の下って、響きが素敵ですね。」
うっとりしている七海に苦笑しながら透矢は続けた。
「最後に解の様子だ。女への対応とか、首輪のルールとか、明らかに真さん以外の誰かから得た教えだろ?首輪やチェーンといいエスコートに慣れてる様子といい、間違いない。最後は解の料理だ。いくら上手でも、一人暮らしで仕事も勉強も忙しい男があそこまでしっかり作る理由がない。お菓子も同じだな。だが、あの人と一緒に住んでるなら理解できる。…まあ、そのあたりが疑問だったんだが、解けてすっきりだな。」
「茅野先輩、探偵みたいですね。」
「まあ、この前の事件でも活躍したらしいしね…。」
透矢の観察力を改めて見直していた七海と瀬奈に透矢はにやりと笑った。
「まあ、あの麗さんにはまだまだ気になることがある。解にまた聞いてみようぜ。」
「この高校も懐かしいなあ。あの頃は若かったわ~。」
「麗さんはまだ十分若いだろう?」
手をつなぎながら解と麗は玄関へ向かっていた。多くの生徒教師が二人に視線を向けたが、麗は別段気にならないようだった。
「それにしても、解君の友達にあんな美人二人がいるなんて驚いたわ。自慢の友達ね。」
「ああ。美人は関係ないが、俺には勿体ない仲間…いや友人達だ。」
解の言葉を聞いて麗は優しく笑った。
「ずっと友達がいなかったから、解君に友達ができて私もすごく嬉しいわ。きっと真さんも喜んでるわ。」
真の名前に解が反応した。
「真が喜ぶか?」
「まあ本当は喜ばないんだけど、『解が俺が持ち得なかったものを得た』って評価してくれると思うわ。」
「…確かに、真なら言いそうだな。」
話をしているうちに二人は玄関に着いた。麗は靴に履き替えてから解の正面に立ち、優しい笑顔だが少し寂しげな声で言った。
「友達と仲良く、自由に学校生活を楽しんでね、解君。でも何かあればちゃんと教えて。勝手だけど、私にとっては解君と真さんは家族のようなものだから。」
麗の話を聞いて、解は真剣な表情で答えた。
「勝手じゃない。俺が隠していたのは心配させたくなかったからで、麗さんを無視したんじゃない。俺にとっても麗さんは家族のようなものだ。…きっと真も。」
「…ありがとう。じゃあ、行ってきます。」
麗は笑顔で仕事に戻っていった。誰もいない玄関で解は一人、校門を出た麗が見えなくなるまで見送っていた。
解が戻ってきたのは昼休みの終わり頃だったので、ほとんど会話できず授業になった。放課後になると、何人かの男子が解の周りに集まってきた。
「なあ黒条、あのきれいな人誰だ?お前のお姉さん?」
「いや、アルバイト先の銭湯で管理人をしてる人だ。姉じゃない。」
「え、その銭湯に行ったらあのお姉さんが働いてるのか?見れる?」
「見れる、はお前達がか?なら土日だな。平日は俺が働いているから会えないぞ。」
「マジか。じゃあ土日に行くから銭湯の場所教えてくれよ。」
「はあ、まあいいぞ。」
解は次々に質問されて戸惑っていた。見慣れている麗を見に行くという行為の意味が分からないのだろう。瀬奈は盛り上がる男子達を見ながら呆れて言った。
「まったく、男子は綺麗な人に弱いよね。」
「まあ、とりあえず顔が良くて胸がでかけりゃいい、って奴は多いな。」
透矢は皮肉を込めて瀬奈に答えたが、瀬奈に無言で足を踏まれていた。しかし、そんなことは全く気にならないようでそのまま話を続けた。
「一般論だから、まあ怒るなよ。解はそんな奴じゃないんだしいいだろ。」
「いや、解君関係ないでしょ。」
「あるだろ、お前等には。さて、解を呼んで同好会室に行こうぜ。新たなライバルのことを解に教えてもらわないとな。」
透矢は瀬奈に鞄で叩かれながら解を呼んだ。
同好会室には七海が先に来ていた。始音は職員会議で忙しいらしくいなかった。
「いらっしゃいませ、先輩方!」
「ああ。」「おう。」「お待たせ。」
元気な挨拶に答えながら解たちも着席した。
「では、今日やることは真さんについて調べる進捗の確認と、さっきの女の人、麗さんのことを聞く、です!」
会長らしく進行係をする七海に解がまず言った。
「言い忘れてたが、今日皆が会った麗さんと真は時期はずれているがこの高校に通っていたんだ。」
「お、それ大事だな。今はまだ医師時代のことを調べてるからちょうど良かった。」
「なら良かった。遅くなってすまん。」
「気にするなって。俺は色々調べてるが、まだ秘密だ。まとめてから言うぜ。」
透矢は不敵に笑いながら言った。
「私たちもまだ内緒。できてから言うね。」
「はい!待ってて下さい!」
瀬奈は笑って言い、七海は元気よく頷いた。そして次に透矢が軽く手を挙げた。
「なら俺から提案なんだが、麗さんは解や真さんと付き合いが長いんだろ?真さんのことはあの人に聞いた方が分かるんじゃないか?可能なら俺が聞きたいくらいだ。」
透矢が解に尋ねると、解は顎に手を当て少し考えた後、少し言いにくそうに答えた。
「ん…確かに麗さんは真を一番よく知っているだろうが、あまり根掘り葉掘り聞かない方がいいと思うぞ。」
「そうか?ならやめとこう。」
解の様子から透矢はあっさりと引き下がった。七海は二人のやり取りが不思議だったが、どうしても気になることがあり解に聞いた。
「あ、あの!あの女の人、その、麗さんは先輩のこ、恋人さんなんですか?」
「え?いや、それはあり得ない。麗さんは真に恋愛の意味で愛していたからな。」
解はごく普通に七海に答えた。すると透矢は解の頭を掴み揺らしながらつっこんだ。
「お前が色々あるとか言ったのに、自分で麗さんの恋愛感情のことを言うなよ。せっかく気を遣ってやったのに無駄だろうが。」
「え…恋愛感情の有無は駄目だったか?もっと細かい具体的な話が良くないと…。」
「ま、お前は馬鹿だが相手の嫌がることはしないからな。お前が言うならきっと麗さんも聞かれて大丈夫なんだろうさ。」
透矢はまだ解を揺らしていて、解は怒ることなく揺らされていた。瀬奈はそんな二人を見て意外そうな顔をした。
「いいことだけど、いつの間にか随分仲良くなったんだね、二人とも。」
「ああ、本気でやり合ったからな。本音で言い合う間柄だ、なあ解?」
「ああ、そんな感じだな。だがとにかく、麗さんは俺の恋人じゃない。」
「そ、そうなんですね。へえー…。」
七海は嬉しそうな、残念なような、何とも言えない表情をしていた。ここで話が一度途切れたので、瀬奈が興味を隠し切れない様子で解に話しかけた。
「と、ところで、なんであの女の人と一緒に住んでるの?名字も違うのに。」
「俺も真も、麗さんと血のつながりはない。ただ、麗さんは小さい時から真と付き合いがあって、俺も真に引き取られてからずっと世話になってる。だから麗さんは半分家族のような存在なんだ。真が死んだ時に俺を心配して、無理矢理だったが家に一緒に住むようになったんだ。」
「同居って無理矢理でも始まるんだー…。」
「ああ。優しいが強引だからな。」
微妙な顔の瀬奈に解が答えていると、透矢が面白そうに会話に加わった。
「服装もすごかったが、あれは趣味なのか?似合ってたのは確かでも、かなり目立ってたぞ?」
「ロックが好きなんだ。俺が知ってる麗さんはずっとあんな感じだぞ。」
ずっとロックな姿なのでむしろそうでないと違和感を覚えてしまうほどだ。しかし解以外にはあのロックな見た目の方がおかしいのだろう。解は今更ながら自他の差を実感していた。と、少し解がぼんやりしているうちに七海が手を挙げていた。
「私は我が道を行く感じでかっこいいと思います。それにとっても優しかったですし、素敵なお姉さん、って感じでした。」
「ちなみに始音先生は?」
「始音先生は、うーんと、かっこいいけどいたずら好きなお姉ちゃん?じゃないかと。」
「それ多分合ってるよ。」
瀬奈と七海のややずれた会話を聞いていたためか、解も珍しく軽口が漏れた。
「いい人なんだがな。最近ではピアスを勧めてくるとか、困ったところもあるな。」
「いいじゃないか、ピアス。俺も耳にしてるだろ?ただ首輪とかを考えれば舌ピアスくらいしないと釣り合わないかもな。」
「舌ピアス?舌にピアスをつけるのか?」
解は舌ピアスを知らなかったようだ。しかも少し興味があるのか、透矢の言葉にやや意外そうに反応した上に少し前のめりになった。
「ああ。痛いからだろうが、する奴は少ないな。なんだ?興味あるのか?」
「いや、興味はないが…キスしにくくないか?」
「あ?」「え?」「…へ?」
解からキスという似合わない言葉が出てきたので、透矢達は反応がわずかに遅れた。その遅れを自分の説明不足と理解した解は大真面目に補足説明を行った。
「説明不足で悪かった。ディープキスの時に邪魔になると思ったんだが、違うのか?むしろピアスがある方がいいものなのか?」
「ディ、ディープ…?」
「そ、そういうこと…?」
七海は顔を赤くしてうろたえ、瀬奈は引きつった笑顔になっていた。透矢は状況をよく分かってない解と恥ずかしがる女子二人を見比べながら喉を鳴らして笑った。
「くくく、気になったのはそこか!まさかそんなところに注目するとはな。しかし何だ、いきなりディープキスなんて、キスに何か思い入れでもあるのか?」
「え?だって、皆よくしてるんだろう?俺はしてないが、交友関係が多ければ機会が出て来るんじゃないのか?」
七海と瀬奈が絶句する横で透矢は腹を抱えて笑っていた。
「はははっ!どれだけされてるかは知らないが、基本的に、とりわけディープキスは恋人同士でするものだ。分かって言ってるのか?」
「え…。」
かなり衝撃的だったらしく、解は驚きの表情を浮かべていた。透矢はそんな解を興味深そうに見ていたが、次いでにやにやと笑いながら聞いた。
「何だと思ってたんだ、お前?」
「友人同士でもそれなりにするものなんだろうと認識してた。俺の周りでされてないのは俺だから縁がないんだと思ってたぞ。」
「じゃあ、最近晴れて友達になった霧谷や川野辺とも?」
「…まあ、二人が希望すれば。」
「え、えぇ…。」「あわわわわ…。」
思わず口を隠す瀬奈と七海。二人とも一層赤い顔で解を、特にその口を見ていた。
その時、いきなり戸が開いた。
「遅くなってごめんなさい、みんな。ちゃんと同好会してる?…?」
始音は挨拶しつつ部屋を見回したが、不思議な空気を感じ立ち止まった。
「何?どうしたの?どうして霧谷さんと川野辺さんは変な顔してるの?」
「いや、何というか…。」
言葉に詰まる解を見ながら、笑顔で透矢が代わりに言った。
「解からディープキスについての話を聞いてたんですよ。」
透矢の言葉に始音は一瞬解を見た。解と目を合わせた後に始音は冷静に答えた。
「そうなの?黒条君はその手のことに疎いと思ってたんだけど、意外とそうでもないのね。」
「そうなんですよね。しかし解、ディープキスが友人間でもされるなんて、一体どこからの知識なんだ?」
「…。」
透矢の言葉を聞いた始音の肩がぴくりと動いた。そして始音は目を細めて解を流し見た…プレッシャーを感じる視線だ。どうやら怒っているらしい。しかし、解は始音が睨んでいることには気付かず、透矢の質問を考えていた。
「いや、その…小学生の時の知識というか、教えられたというか…。」
「そんなこと教える人なんて、解君の周りに誰もいないよね…?麗さんとか…?」
「いや、麗さんじゃない。」
「教えられたってことは、もしかして学校の授業?って…。」
うーん…と考えていた七海は教えられた、授業、そして教師と連想してはっとした。教師と言えばそこにいる始音がいた。
「始音先生、まさか…。」
「待って待って、黒条君の小学生時代じゃ私はまだ学生よ。まだ先生じゃないわ。」
「あ、そうでした。」
「そうだな。確かにまだ高校生だった。」
「ふーん…。…?解君、高校生の始音先生に会ったことあるの?」
「え…。」
失言のせいで一気に注目の的になった解は何と答えるべきか考え言い淀んでしまった。そして透矢が核心をつくために畳みかけた。
「へえ、小学生の解と高校生の堤先生か。友達になった記念にキスでもしたのか?だからディープキスは友人とでもすると勘違いした。そんなところだったりしてな。」
「…。」
解は返事に困りついに黙ってしまった。しかし、解が黙っているのを許さない者がいた。始音だ。始音はつかつかと解の側まで歩いていくと、解の頬をつまみ引っ張った。始音は笑顔だったが、笑顔が逆に怖かった。
「おい、ちょっと…。」
「確認するけど、解君はディープキスを何だと思ってたの?友達同士が気軽にするわけないでしょ?」
「分かったから、落ち着いた方が…。」
七海と瀬奈が唖然としていたので(透矢はにやにや笑っていたが)、解は始音を宥めようとした。しかしそれがかえって始音を怒らせた。
「落ち着けるわけないでしょ、この鈍感!私のファーストキスは解君が思うほど安くないわよ!だいたい私が誰とでもキスしてると思ってたのかあ⁉」
始音は解の胸ぐらを掴み揺すりながらまくし立てた。怒りすぎて口調すらぶれていた。そんな状況を前にして、七海と瀬奈は話についていけず、透矢は笑いをかみ殺し、解は深いため息をついた。
「…はあ、やっちゃったわね…。」
始音は解に当たり散らして少し落ち着いたのか、解を解放するとやれやれとため息を吐いた。ただ、苦笑いを浮かべた始音の顔は隠し事がなくなったため、少しだけすっきりとしていた。
場が落ち着くと、解と始音は並んで座らされた。二人の周りには瀬奈達が座っていた。
「お前のために黙ってたのにな…。」
「いや~、ごめんなさい。でも解君も悪いのよ。途中で失言するから。」
「それは、まあそうなんだが。」
始音と解は互いに遠慮のない様子で話をしていた。二人の仲の良さ、そして特に始音の解への好意がよく分かる図だ。
「お二人とも、仲良かったんですね…。」
「学校では隠してたんだ…。」
何か言いたそうな七海と瀬奈ではなく透矢が場を仕切ることになった。したくはないが、今日は仕方ないと諦めた。
「分かってはいたが互いにタメ口名前呼びなんだな。この会で呼び方を決めた時より前からそうなんだろ?」
「ああ。…何で分かるんだ?」
解は不思議そうに聞いた。もしかしてずっと前からばれていたのだろうか。
「そりゃお前、この前の会議でそうだったからな。で、解が教師と短期間で仲良くなるのは無理がある。結論、子供の時にはタメ口名前呼びだったってわけだ。」
「そうか…。」
やっぱり失敗していた。だが反省する解に場は優しくなく、瀬奈も続いた。
「そういえば、球技大会の時も解君は始音先生にタメ口だった。帰りのバスで。」
「何だ、元は解君が悪いんじゃない。」
始音は透矢と瀬奈の証言を聞いて得意気になり解を見た。解としては始音が怒ったままだと困るところだったが、存外機嫌が良さそうなので少し安心した。
「あの!先輩と始音先生は本当に子供の頃からのお知り合いだったんですか?」
ここで七海が本筋「小学生の頃にディープキス疑惑」に話を戻した。解と始音の現在の関係も気になるが、今はキス疑惑の方が気になって仕方がなかった。
「そうよ。私が高3、解君が小学4年生ね。でも私が留学したから実際に交流したのは10日もなかったけどね。」
「じゃ、じゃあ、その、ディ…キ、キスのことも聞いちゃっていいですか?」
「ディープキス。そんなに言いにくいか?」
「解君はちょっと黙ってて。」
「…分かった。」
吃音過ぎの七海が解には不思議だったが、疑問を口にすると即座に瀬奈に注意された。大事な話だから黙っていろということか。そう理解した解は発言を始音に任せ、自分は沈黙することにした。そして解の隣では始音が顎に手を当てて考えていた。
「キスのことか…。そうね、話してもいいけど、解君には帰ってもらいましょうか。」
「え?どうしてだ…。」
解が言い終わる前に始音は解の頬をつまんだ。そして笑顔で言った。
「解君は聞かれたことには何でも答えられるでしょうけど、私は違うの。解君がいると話しにくいこともあるのよ、分かった?」
「分かった。」
解は頬をつままれたまま始音に頷いた。鷹揚に頷いた始音はやっと手を離し、解放された解はよいしょと立ち上がった。
「始音が望むなら仕方ない、帰るか。じゃあ、悪いがお先に。」
「じゃあな。」「お、お大事に。」「先輩、お元気で~…。」
一人帰る解の背中はどこか哀愁を誘った。
解がいなくなると、始音は堂々とした態度で椅子に座り直した。開き直ったのだろう。
「よし、じゃあ何でも聞いていいわよ。瀬奈ちゃんからいく?」
「いきなりフランクですね…。」
瀬奈はまだ素の始音に戸惑っていた。同じ女性として格好いいと思っていたのだが…いや、素の始音が嫌なわけでは決してないが。
「もうばれてるもの。教師という立場上隠してたけど、ばれたら正直どうでもよくなるのね。いっそ清々しいくらいよ。それに皆の前なら素でいいかなって思うしね。」
始音は爽やかに笑って瀬奈に答えた。思えば畑にばれた時は嫌悪感しかなかったので、やはりこの面対であることは大事なことだ。
「あの、始音先生はどうやって小学生の先輩と知り合ったんですか?」
「同級生に言い寄られてたところを助けられたの。高校3年に小学生が立ち向かうのはびっくりしたわ。ふふ、でもその時の解君は今よりもっと仏頂面でね、子供っぽくなかったわ。」
「さすが先輩ですね!」
「…いや、被ってるし。」
瀬奈は七海に話しかけられても無反応だった。七海のように解をすごいとは思ったが、それ以上に解を知るきっかけが自分と始音でほぼ同じだと知りショックだった。自分にとって特別な経験でも、解にとっては数あることの一つでしかないかもしれない。瀬奈は一瞬、始音にも自分の解との出会いを話してしまおうかと思ったが、ただの八つ当たりでしかないので抑えた。
「瀬奈先輩?どうかしたんですか?」
「え?う、ううん、何でもないよ。解君は相変わらずだよね。…それにしても、小学生にディープキスをする高校3年生はありなんですか?」
瀬奈は何とか七海の声に反応し、その流れで始音に質問した。…ショックを受けたばかりなので質問が少し意地悪くなってしまったが、始音は全く不快に思っていないようだ。
「もちろんありよ、あり。今日日小学生も平気でキスもその先もする時代なんだから。」
「それ多分言い過ぎです。」
「じゃあ、なんで普通のキスじゃなくって、その、ディ、ディープな方なんですか?」
「七海ちゃんったら恥ずかしがっちゃって、可愛いわね~。でも理由は今の七海ちゃんの態度、まさにそれよ。」
「私の?」
「解君の仏頂面をどうにか崩してやろうと思ったの。当初は普通にするつもりだったけど、ディープな方がきっと驚くって思い直してね。」
「でも先生も初めてだったんですよね?さっき解君に言ってましたから。」
「まあね。正直、解君より私の方が緊張してたでしょうね。今思えば濃い思い出だわ。」
「本当ですね、ディープだけに。」
教師の殻を脱いだ始音はノリが良く反応が素早い、そして喋りも上手だった。しかし今回はつい話が脱線しがちでなかなか進んでいなかった。そこで始音は何か思いついたらしく、不敵に笑いながら瀬奈達に聞いた。
「ねえ、一つ一つ聞くより私と解君が一緒だった10日間を最初から話した方が早いんじゃないかしら?」
「へえ?面白そうですね。」
「え、聞いちゃってもいいんですか?」
明らかにわくわくしている七海を制しつつ瀬奈が釘を刺した。
「始音先生、話すにしても解君のプライバシーは守ってあげて下さいね。」
「分かってるわ。でもこの話じゃ解君は気にしないと思うわ。」
そう言って始音は一口お茶を飲んで一息つくと、解との思い出をゆっくりと話し始めた。
3月になり、高校生活も残り1ヶ月を切った。アメリカ留学のための準備ももうできている。普通なら高校最後の時間を楽しむのかもしれないけれど、私、堤始音は暇を持て余していた。友達と遊んでもいいし、一人でゲームや読書をしてもよかったのだけれど、どれもする気になれずふらふらと目的もなく町を歩いていた。せめて日本を目に焼き付けておきたいとか、退屈だった毎日に今更価値を見出して懐かしんでいるとか格好いい理由があれば良かったのに。…けれど、もしかしたら全く新しい何かが見つかるかも、なんて夢物語をまだ期待していた。
「つ、堤さんっ!!」
後ろから誰かが私を呼んでいた。聞いたことのあるような、ないような声。なんとなく嫌な予感がしながら振り返った。
「…えーと、笹井君?」
いたのは確か、笹井君。2か月くらい前に告白されて、その場で断った同級生だった、はず。私は彼をよく知らず知りたくもないから断ったのに、もう一度来るなんて。しつこい男はますます嫌われるのに…と思っていたら、笹井君が近寄ってきた。
「堤さん、やっぱり俺、諦めきれなくて…!アメリカに行く前に、俺と付き合ってほしいんだ…!」
いや、留学するんだから諦めてよ。「嫌よ嫌よも好きのうち」なんて都合のいい漫画だけでしょ…とつっこんでいる間に、正直気持ち悪い笹井君はさらに距離を詰めてきた。
「ちょ、ちょっと待って!前にも言ったけど、私は誰かと付き合う気はないの。悪いけど、笹井君とは付き合えないわ。」
「大丈夫。恥ずかしがってないで、とりあえず俺のところに来て、一緒にいよう…!」
…うん、これはダメだ、逃げよう。くるりと回って全力で走った。後ろから何か聞こえるけど、聞きたくないから聞こえないことにしたい。しかし、走っていると体育のマラソンを思い出した。女子の中でも普通の速さだったが、男子と合同で走った時は男子にかなり追い抜かれた。なら、今この状況でも追いつかれるかなあ…と思っていると、
「きゃあ!」
右腕を強く掴まれたので思わず声が出た。笹井君はもう目がいってしまっていて、完全に危ない人になっていた。
「何で逃げるんだよ!俺が好きなんだから、堤さんは黙ってついて来たらいいんだよ!」
「やめて…。」
腕は痛くて動かそうとしてもびくともせず、助けを呼びたいのに恐怖のせいで声はかすれたようにしか出なかった。体も震えていた。こんなことなら外になんて出ずに、つまらないまま家にいたらよかったのに…なんて、私を冷たく見下ろす私がいた。
「はぎゃッ⁉」
「え…?」
いきなり何かが飛んできて笹井君にぶつかり、弾き飛ばされた笹井君は地面に倒れた。何が飛んできたの?あれは、黒い大きな…ランドセル?どうしてランドセルが飛んできたんだろう。飛んできた先を見ると、男の子がいた。
男の子は多分小学生で、背は少し高め、やせ気味。でも髪と雰囲気が変わっていた。髪の毛は脱色したのか根元から先まで完全に真っ白。なのに髪型は明らかに雑に切っただけだ。しかし一番印象的なのは雰囲気で、表情は完璧な無表情、けれど眼力は力強く子供とは思えない迫力だった。
そんな不思議な男の子は今も笹井君を睨んでいて、こっちに歩いてきた。けれど笹井君が起きて男の子に向かって叫んだ。
「何するんだ、このガキ!邪魔するな!」
「邪魔はお前だ。お前がどこかに行け。」
小学生が高校生3年生に喧嘩を売るなんて、無謀過ぎる。一緒に逃げましょう、そう言って逃げたいのに喉も足も固まったまま、声は出ないし動くこともできなかった。なんて情けないんだろう…。
「わああぁぁぁ!」
「…!」
笹井君が男の子めがけて突っ込んだ。危ない!と思ったらその瞬間男の子も動いた。少し前に出て、タイミングよく笹井君の足を蹴った。でも、よろめく笹井君は男の子を掴んで一緒に地面に倒れた。男の子が危ない!何とかしないと…。そうだ、警察に連絡だ。番号は110、いや119?ああ、頭が焦りと恐怖で働かない。そんな間にも男の子は馬乗りになった笹井君に何度も殴られた。けれど疲れたのか、笹井君は殴るのを止めて前屈みになったまま肩で息をしていた。
殴られた男の子は動かなかった。せっかく助けてくれたのに、私は何をしているんだろう…。私が恐怖と無力感に苛まれていると、笹井君がこっちを振り返った。彼と目が合ってしまい、背筋が震えた。けれどその時、男の子が少しだけ動いたように見えた。
「はあぁ!」
いきなり男の子が叫びながら起き上がり、そのまま笹井君の横顔に頭突きした。
「かっ…。」
うわ、痛そう…。笹井君も相当効いたのか、顔を押さえながら変な声で呻いていた。けどその隙をついて男の子はさらに笹井君に拳を一発お見舞いし、一気に馬乗り状態から抜け出すと今度は笹井君の横腹を蹴りつけた。キックがいい所に入ったのか、笹井君は地面に転がったまま呻いていた。男の子は反撃を警戒して笹井君をじっと見ていたが、しばらくすると構えを解いてふぅ…と息を吐いた。やった…?と思っていると、笹井君がゆっくりと半身を起こした。
「う、うぅ…。」
笹井君はふらふらしながら起き上がり、男の子と私を交互に見た。一方の男の子はためらうことなくもう一度戦う姿勢をとった。自分には関係ないことなのに、どうしてそんなに頑張るのだろう…?不思議だったけど、今は笹井君がまた襲ってくることの方が問題だ。…でも、あれ?私も男の子も警戒していたのに、笹井君は飛び掛かってくることはなく、それどころかじりじりと後ずさりしていた。
「ち、畜生…!」
ついに笹井君は走って逃げていった。
…やっと行った。男の子の勝利だ。思わず安心して地面に座り込んでしまった。ああ、服が汚れちゃうか…なんて思っていたら、男の子がこっちに向かって来た。睨んでるし、怒ってる…⁉と思ったら、男の子は黙って右手を出してきた。手を取れってこと?ちょっと怖いけど、無視するのは悪いし本当に怒りそうだ。怖々右手を乗せると、男の子はぐいっと私を引っ張って立たせてくれた。
「あ、ありがとう…。」
お礼を言うと男の子は無言で手を離しランドセルを取りに行った。え、私のことは無視?助けたんじゃないの?頭に疑問符を浮かべていると、その間に男の子ランドセルを背負い直し、すたすたと立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
何も考えないまま思わず声をかけてしまった。
「何?」
男の子が振り返った。相変わらず睨んでる…と思ったけど、よく見ると落ち着いた瞳だった。どうも無表情にじっと見てくるから誤解してしまったみたい。
「あの、さっきはありがとう。」
「?うん、さっき聞いた。ああいうのが嫌いなだけだから。」
「あ、そう…。」
すごく淡々と話すのねと思っていたら、男の子が手足や顔を怪我していることにようやく気づいた。
「怪我してるじゃない!近くに公園があるから一緒に行きましょう。手当てしないと。」
「これくらい問題ない。感染リスクも低いし大丈夫。」
男の子は小難しいことを言いながら後ずさりした。けれど私も助けてもらった手前、無視なんてできなかった。
「助けてくれた人を放っておくなんてできるわけないでしょ。いいから行くわよ!」
嫌がる男の子の手を取り公園に引っ張っていった。強引だけど、最低限の手当ては必要なので我慢してもらった。
男の子は最初こそ嫌がっていたけれど、歩き出してからは拍子抜けするくらい大人しかった。ちょっと無理矢理過ぎたかな?と思って振り返ると、男の子は俯き加減で歩いていた。あ、あれ?急にどうしたんだろう?傷が痛いの?声をかけようとしたら、その前に男の子はこっちを見上げてきた。
「迷惑をかけてごめんなさい。」
「え?」
男の子は無表情だけどちゃんと頭を下げた。本気でそう思ってるみたいだ。最初に嫌がったのは私に迷惑だと思ったのか…なんだ、私が嫌だったわけじゃなかった。なら大人としては安心させてあげないとね。
「大丈夫、迷惑だなんて思ってないわ。助けてもらったお礼がしたいだけだから、安心して?」
「…うん。」
安心してくれたのかは表情が変わらないせいでよく分からない。けれどしつこくされても嫌だろうし、ここは早く公園に行くのが一番ね。そう思い握る手に力を込めた。
公園にある蛇口で男の子の傷を洗ったが、男の子は痛がる素振りを見せなかった。
「大丈夫。しみない?」
「うん。」
洗える傷を洗ったら、次は洗いにくい所を濡らしたハンカチで綺麗にした。さすがに痛いかな?と心配したが、男の子はやっぱり無表情だった。ほんとに変わった子ね。
「消毒とか絆創膏はないの。洗うだけでごめんね?」
「縫合しないから消毒はしなくて大丈夫。むしろ治りが遅くなる。絆創膏も治りが早くなるわけじゃないから。」
男の子は淡々と、でも今までになく流暢に話した。しかし詳しすぎなんだけど。そもそも縫合って小学生が使う言葉?
「詳しいのね。家族がお医者さん?」
「本を読んだだけ。真は内科医だけど。」
本を読んだだけって、何の本?医学書?しかもシンって人のこと?その人が内科の医者ってことね。
「シンってご家族の名前?」
「うん。義理の父親。」
義理のお父さんってことは、本当の父親は死んじゃったとか離婚したとか…。男の子の境遇を想像すると、その言動にも深い事情があるのかもと勝手ながら考えてしまった。
「ごめんね、変なこと聞いて。」
「え?何のこと?」
「あ、いや、何でもないの。えーっと、そうそう、ちょっと気になったんだけど、君はよく喧嘩するの?」
「うん。」
「同い年の子ならともかく、年上との喧嘩は危ないんじゃない?」
「年は関係ない。好き勝手する奴を無視はしない。」
そういえばさっきも似たようなこと言ってたわね。すごい正義感、いやちょっと違うな、強い意志を持ってる子なんだ。喧嘩をしても誰にも褒められず、残るのは自分の怪我と相手の恨みだけで人助けの満足感もない。それなのに見て見ぬふりを許さず誰かを助ける。男の子の言動は変わっているし、きっと損ばかりだ。…けれど、私には真似できない、すごいことだと思った。
そんなこんなで私はこの男の子に興味が湧いてきた。もう少しこの子と話をしてみたかった。
「ねえ、君時間ある?よかったら私とお話しない?」
「時間はあるけど、俺に話すことがない。」
「私があるの。ダメ?」
「(ふるふる)駄目じゃない。」
そう言うと男の子はすんなり私と一緒にベンチに座ってくれた。断られなくてよかった。…あれ。これって、もしかしてナンパ?小学生にやったら駄目なやつ?少し心配だけど、悪いことするわけじゃないし、まあいいか…。
「どうしたの?」
男の子がぼんやりした顔で顔を見上げている。喧嘩してた時の目つきは鋭かったけど、今はとても穏やかだ(まあ無表情なのは変わらない)。穏やかな男の子は小学生の可愛らしさと大人びた格好良さを兼ね備えていてなかなかいい。将来有望ね。…って、私は何を考えているんだろう?
「な、何でもないわ。そういえば、まだ名乗ってなかったわね。私は堤始音、始音でいいから。敬語もいらないわ。君は?」
「俺は黒条解。」
カイってどう書くんだろう?それにしても、真っ白な髪が光を受けてきらきらしていた。瞳が黒いからやっぱり脱色なんだろうけど、完全に真っ白、しかも全然毛が傷んでないのは不思議だった。似合ってるからいいんだけど。…いけない、話が逸れてた。
「カイ君か。改めて、さっきはありがとね。実はすごく怖かったから助かったわ。」
「お礼はしなくていい。シオンを助けたんじゃないし、大したことはしてないから。」
まあそう言うとは思った。許せない相手を倒しただけなのよね。私はすごく助かったし、嬉しかったんだけど。
「…でも、シオンが無事でよかった。」
初めてカイ君が表情を見せた。次の瞬間には消えてしまいそうな微かな笑顔。自分のことはどうでもよさそうなのに、人のことでは笑えるんだ。…あ、無表情に戻った。いい笑顔だったのにもったいない。
「…喧嘩で思い出したけど、カイ君すごく強かったね。何か習ってるの?」
「真から教わった。」
「え?シンさんってお医者さんよね?武道家でもあるの?」
「違うと思う。真が教えるのは敵の倒し方だから。」
敵を倒すって物騒な言い方だけど、どういうこと?そんなものを子供に教えるシンさんって…。
「すごいことを教わってるのね…。でもそれで高校生に勝てるんだから悪くないのか。でも毎日道場とかで練習するのよね。あ、本も読むのか。」
「戦う方法は銭湯で教わってる。医学とかは大体は家で教わるか自分で勉強するか。」
やっぱり忙しいわよね…。え?銭湯?
「どうして銭湯で教わるの?もしかして家にお風呂がないとか?」
「いや、銭湯が真のものだから。それに広い所の方が動きやすいから。」
シンさんが銭湯の持ち主?医者かつ銭湯の所有者で義理の子供を育てて、しかも喧嘩のやり方と医学を教えるって、本当にシンさんって人は相当な人ね。興味はあるけど、複雑な家庭みたいだからこれ以上は止めておこう。嫌な思いはさせたくない。別の話題は…。
「あ。ところでカイ君は今何歳?」
「…確か10歳。」
10歳、8歳違いか。
「シオンは何歳?」
「え、私?18歳だけど、どうしたの?」
初めてカイ君が私に質問してきた。少しは興味を持ってくれたのかなと嬉しくなった。
「いや、学生服だけど大人びてきれいだから、大人かと思った。」
きれいって、そんな無表情に言わなくても。でもカイ君が本気で言ってるのはよく分かった。それにしても、10歳の小学生が本気で年上女性の容姿を褒めるのはどうなの?ありなの?末恐ろしくない?
「あ、ありがとう。カイ君もすごく大人っぽくて格好いいわよ?」
「そう。」
動揺して本音とはいえかなり適当に聞こえることを言ってしまい、余計恥ずかしかった。なのにカイ君は全然恥ずかしがらなかった。私は動揺したのに、なんか悔しい…!思わず立ち上がって歩き回ってしまった。
「あ。もう銭湯に行く時間だ。」
私を目で追いかけたことで公園の時計が見えたらしく、カイ君が意外そうに言った。確かにそれなりの時間だ。結構話したもんね。会ったばかりの相手とこんなに話したのは生まれて初めてで、とても新鮮で楽しかった。これでバイバイして、いい思い出にするのが無難だろうけど…。
「カイ君。私、今月の10日まで暇なの。また会えない?」
…けれど、このまま別れて終わりは嫌だと思った。思い出ですませるのはもったいないと思った。だから聞いたけど、恥ずかしくなってきた。何とか笑顔はできてるけど、顔が熱かった。そして当のカイ君は不思議そうに首を傾げていた。
「俺と会っても面白くないと思うけど。シオンが会いたいなら会う。」
相変わらずの無表情だけど、OKしてくれた。…どうしよう、気持ちが浮ついているのが分かる。落ち着け私。
「じゃ、じゃあ明日の16時にこの公園で。どう?」
「分かった。学校があるから、もし遅れたらごめん。」
「大丈夫よ。のんびり待ってるわ。今日は本当にありがとう。また明日ね。」
「…うん、また。」
普通に話したつもりだけど、カイ君はぽかんとした顔になり、少し間をあけて返事した。やっぱり私が変だったのかもしれない。けど、わざわざ謝るのも変なので流すことにした。
話を終えてカイ君は走っていった。あ、振り返った。けどまたすぐ走っていき、今度こそ見えなくなった。どうして振り返ったんだろう?本当に不思議な子だったけれど、また話せば少しずつ分かるかもしれない。いや違う、分かりたいと思った。
それから、私は毎日解君と会って話をした。話だけじゃなく、色んな所に解君を連れ回してみた。
解君は本当に変わっていて、多種多様なことを知っているのに「普通」の知識や経験がなかった。学校に友達は一人もいないらしい。誰かと遊ぶのも私が初めてだったらしい。ゲームしたり遊びに行ったりは全然せず、銭湯と家の手伝い、そして色々な分野の勉強(読書)を淡々と行う。それが聞く限り解君の毎日だった。
さすがに気になって、本音は虐待とかを心配して聞いてしまったけど、家族は義父の真さん一人だった。解君の話通り、真さんは解君を普通の子供のように育ててはいないみたいだった。けれど、解君は真さんをすごく信頼していたので安心した。そういえば、髪の毛の色はなんと地毛で、小さい時に黒から白になってしまったらしい。これを聞いた時もストレスが原因、つまり虐待を疑ったので、虐待されていないと分かって本当によかった。
あと、どうも麗さんという女性と家族ぐるみで付き合いがあるらしいけど、根掘り葉掘り聞くのも悪いので聞かなかった。…本音はかなり気になったのだけれど、私より年上らしいので、守備範囲外だろう、きっと。
解君の知らないことといえば、コーラやアイスを口にしたことがないのはびっくりした。買ってあげたらすごく気後れしてたけど、食べると味と触感に驚いていて可愛かった。
解君は連れ回されて戸惑うことはあっても、嫌な顔はしなかった。笑ったり怒ったりといった感情の動きは乏しいけれど、ちゃんと心があり他者に優しい、それが解君だった。異性にこんなに興味を持ったこと、一緒にいて楽しかったことは今までなかったためはっきりしないけれど、これは「恋」なのかもしれない。10歳の子供に?と自分自身まだ半信半疑だった。しかし、解君と会う明日が毎日楽しみになっていて、それは明日が消費するものでしかなかった私にとって大きな変化だった。
10日は卒業式だった。笹井君の事があったので正直行きたくなかったけど、解君の前では格好いい先輩でいたかったので行った。幸い笹井君に会うことはなく、無難に卒業式は終わった。親しい友人と会話して、別れ、私の高校生活は終わった。
いつもの公園に行くと、解君はいつものように待っていた。ただ時間はまだ小学校は授業をしてる時間だ。今日は私のわがままでサボってもらった。
「解君お待たせ!その、学校大丈夫だった?」
「うん。給食を食べたら帰りますって先生に言ったから。」
それで大丈夫なの…?と心配したけど、まあ出てこれたんだからいいとした。
「ほら見て、卒業証書。これで私も高校卒業です。」
「へえ…。これでシオンも大人?」
「うーん。年齢だけが大人の定義じゃないから、これだけじゃ駄目だと思うわ。」
「そうか。」
解君は無表情のまま少し俯いた。顎に手を当てて静かに考え事をしているようだ。こういう時の解君は確か自分について考えている。疑問は率直に聞くのに、自分のことになると一人で考え込むところが解君にはあった。なので、大人として相談に乗ってあげないと。
「どうしたの、解君?何か考え事?」
「…早く大人になる方法を考えてた。」
「何で?」
「一人でも生きていけるから。俺はもっと強くなりたい。」
…毎日ほとんどの時間は一人なのに、これからも一人でいるってこと?誰にも頼らず、迷惑をかけないように?
「どうかした、シオン?」
「何もないわ。ねえ解君、解君っていつも一人でいるでしょ。一人が好きなの?」
「最近は全然一人じゃない。」
…え?解君が意外なことを言うのでびっくりしてしまった。解君も不思議そうな顔だ。
「俺には真や麗さんがいてくれる。今はシオンもいる。だから一人じゃない。」
私が思うより解君はずっと大人だった。自分の傍にいてくれる人達をちゃんと大切に思っていて、その人達を安心させられる強さが欲しいんだ。勝手に勘違いした自分が恥ずかしかった。
「…それと、一人は好きじゃない。一人だった時は何もなかった。死んでいるのと一緒だった。」
「あ…。」
解君は一度だけ笑顔を見せた時以来、久しぶりに感情を見せた。けどそれは暗い、とても暗い感情で、私は何も言えなかった。私は解君をまだまだ分かっていないのだと思い知らされた。
「シオン?やっぱり調子が良くないのか?」
「いいえ、大丈夫!ごめんなさい、ぼーっとして。」
気づけば解君はいつも通りの無表情に戻り、私を気遣っていた。質問したくせにこっちが考え込んでいたら話にならない。解君が話を終わりだと思ったのならこの話は終わりにしないと。そう考え気持ちを切り替えると、なぜか解君が数回頷いた。
「大丈夫ならいい。シオンは最初から変だったから、変わったことがあっても気にならない。」
「へ、変って何?ひどくない?」
多感な10代女性に対して失礼じゃない?しかも、相変わらずの無表情で。
「だって、俺なんかと何度も会って話や散歩をするなんて、変わってる。」
「う…まあ、確かにそうかもね。」
仕方ないでしょ、私も女の子なんだから。
「でも、シオンは俺にたくさんのことを教えてくれた。」
「え?」
「俺に会いたいと、『また明日』と言ってくれた。明日は『今日の続き』じゃなく『新しい一日』で、俺でも必要とされる一日かもしれない。そう教えてくれた。」
私が何気なく言ったことを解君は大切な言葉として覚えていた。そして今までも見え隠れしていたが、自分が必要とされていないことが前提のような言い方だった。解君の言葉に嬉しさと切なさを感じていると、解君は追加で私を見て言った。
「シオンに伝えたかった。俺と会ってくれてありがとう。」
何だか泣きそうになってしまった。色々連れ回されたことより、出会えた偶然に感謝する解君はとても素朴できれいだった。
「私こそありがとう。留学までの毎日が解君のお陰でとても楽しかったわ。」
日々を惰性で生きて退屈さを覚えていた私に解君は新鮮な毎日をくれた。そして私の在り方が余計に日々をつまらなくしていたことも教わった。…うん、本当にありがとう。
「うん。それならよかった。」
あ、笑顔だ。初めて会ってから二度目になる解君の笑顔だった。他人を想う解君の優しい笑顔が私はすごく好きだ。でも、できるなら自分のためにも笑ってほしかった。
そうだ、今日が最後なんだし、私に付き合ってくれたお礼をしよう。忘れられないような思い出にできれば解君も笑ってくれるかも。それなら私も嬉しいしね。
「解君、私にずっと付き合ってくれたでしょ?そのお礼をしたいんだけど。」
「お礼なんていらない。ありがとうはさっき聞いたし、お礼をするなら俺の方だ。」
やっぱり、解君ならそう言うと思った。悪いけど、解君が遠慮してもお礼はさせてもらうから。
でも、お礼を何にするかが問題だ。解君は物欲がほとんどないからものでなくていい、かつ忘れられないもの。じっと考えていると、目の前の解君が無表情のまま小首を傾げているのが見えた。いつもは格好いいけど、こうしていると年齢相応に可愛らしい。手入れをしてないはずだけど肌はきれいだし、唇はつやつやしていて…ん、唇?
解君の唇を見てふっと思いついた。キスなんてどうだろう。年上のお姉さんとキスなんて、結構いい思い出だと思う。自慢じゃないけど私美人だし。それにお互い多分初めてだし、旅の恥はかき捨てだ。うん、いいアイデアな気がしてきた!やると決めたら自信をもって積極的に行かせてもらうわよ。
「よし、解君!」
「はい。」
私の勢いに気圧されたのか、解君は敬語で返事をした。いけない、落ち着こう。
「お礼を考えたの。今からあげるから覚悟してね。」
「だからしなくていい。それに覚悟しろって何だ?今日は今までで一番変だな。」
「い・い・か・ら!諦めて素直に受け取りなさい!」
「わ、分かった。」
勢いだけで解君を頷かせ、強引に話を進めた。元々はここまで攻める方じゃないけれど、解君と会って私も少し変わったかもしれない。
「よし。じゃあお礼をするので、ちょっと目を閉じて?」
「…なんで目を?まあいいけど…。」
解君は釈然としない様子だったけど、私の言う通り目を閉じた。直前まで私を見上げていたから自然と唇が前にでる姿勢になっていた。
よ、よし。するわよ…。ちょっと周りを見回して、誰もいないことを確認した。うん、誰もいない。では、解君の頬を両手で軽く押さえて、と…。ぴくっ。さすがに目を閉じたまま触られたからか、解君がわずかに動いた。
「シオン?このままでいいのか?」
「う、うん。ちょっと待ってね。今準備中。」
私の返答で安心したのか、解君は身動きせず目を閉じたままだ。ただ私の緊張が伝わるのか、舌で乾いた唇を湿らせていた。…そうだ、これならきっと忘れない。それに、さすがの解君も無表情ではいられないだろう。
「解君、あのね、ほんのちょっとでいいから口を開けてくれる?」
「?これくらいか?」
「オッケーよ。これから何があっても口は閉じないでね。」
「はあ…。」
頬を抑えた両手が緊張でわずかに力んだ。心臓の音が耳に響く中、わずかに開いた解君の小さな口にゆっくり近づき、ついに解君の息遣いを感じる距離になった。私も初めてだから、緊張と恥ずかしさで口から心臓が出てきそうだ。…よし!心の中で気合を入れて、できるだけ優しく解君の唇に口づけた。
解君は一瞬驚いたみたいだけど、離れずにじっとしてくれた。唇の感触ってこんな感じなのね…と何となく感動して、そっとさらに奥へ。ぬるっとした感触はくすぐったいような、気持ちいいような、何とも言えない感覚だった。目を開けると解君も目を開けていたようで目が合った。大丈夫という意味を込めた視線を送ってから目を閉じると、解君の力も抜けた。解君は基本受け身だったけれど、逃げることなく私の動きに応えてくれた。
「…あの、二人とも。そんなに見られると気になるんだが。」
「え⁉ま、まあ気にしないで。あはは…。」
「そうですよ先輩。お構いなく、えへへ…。」
瀬奈と七海は不自然に笑いながら、解から少し離れた所で一緒にイチゴミルクを飲んでいた。
始音の回想話は年頃の女子二人の想像力を刺激し、二人は始音と帰るまでずっと話していた(ちなみに透矢は女子会を面倒がって話が終わるとすぐ帰ってしまった)。始音と別れても二人はまだ話足りず、追加で話す場所として解のいる銭湯を選んだ。特に七海は銭湯に来たことがなかったので興味津々だった。とはいえ番台の近くで騒ぐと邪魔になる上、いざ話の相手役だった解を見ると少々気恥ずかしさを感じてしまった。そのため二人は椅子に座って解に聞こえないように話をしていた。
「解君と始音先生がねえ…。」
瀬奈は細目で働く解を見てぼそっと言った。
「瀬奈先輩、そんなに見たらまた言われちゃいますよ…?」
「み、見てない、見てないよ?ただ、漫画みたいな話だったなあと思い出して。」
「そうですよね。素敵なお話でどきどきしちゃいました。先輩が昔からかっこよかったのも分かりました。」
「ほんと、昔から変わってないんだね、解君は。」
瀬奈は小さくため息を吐いて解を見た。解は視線に気付かず客に対応していた。始音の話を聞くと、自分が解に助けられた時と始音のそれはやはりよく似ていた。瀬奈にとっては大切な思い出だったのに、特別感と秘密性が奪われた気分だった。そして、そんなことを感じる自分に嫌悪感を持ち、瀬奈はもう一度ため息をついた。
七海は瀬奈の様子に気づかずに何かを探すように周囲を見た。
「麗さんはいないんでしょうか?」
「そうだね。私は何度も来てるけど、ここで会ったことは一度もないんだ。休んでるのかな?」
「また会えたらいいなと思ったんですが、残念です。」
「でも、あんなに濃い人だったし、すぐまた会えるんじゃないかな?そんな気がする。」
「ですね!」
「二人とも、風呂には入らないのか?」
瀬奈と七海が一緒に笑っていると、いつの間にか来ていた解が言った。お客がはけたので二人を気にして近寄って来たのだった。
「か、解君。来たなら来たって言ってよ。」
「そ、そうですよ先輩。秘密のお話かもしれないんですから。」
「そうなのか?だったら悪かった、次は気をつける。ただもしかして俺が何かしたのかもしれないと思ってな。もし不快にさせてたら教えてくれ。」
「そんなことないですよ、先輩。ただ始音先生の話を聞いて、ちょっと話をしてただけですよ。」
恥ずかしそうに言う七海に解はああ、と分かったように頷いた。
「ああ、始音とディープキスした話か。何か聞きたいことでもあるのか?」
「え、ええ⁉ええと、その、あの…。」
「…解君、それ本気で言ってる?」
解の直球に慌てる七海を、瀬奈は引きつった苦笑いを聞いた。解が恋愛という愛情に理解がないことを痛感した。
「本気って何のことだ?」
解が本気で言っているのが分かり、瀬奈はため息を吐くと解説を始めた
「解君、誰かとキスしたとかは面と向かって話すと恥ずかしがる人もいるんだよ。君が大丈夫でも、私や七海ちゃんは大丈夫じゃないの。だから、あんまり軽々しく言っちゃ駄目。」
「…分かった。」
解は素直に頷いたが疑問はあった。キスは好意ある相手とするもので、別に悪いこと、やましいことではない。性欲と関係はしているかもしれないが、性欲も問題ないものだ。なのになぜ恥ずかしいのか、なぜ聞くと恥ずかしいのか、恥ずかしく思うことが普通なのか、やはり普通にならないといけないのか。多くの疑問があったが、瀬奈達を不快な気分にしたくないので解は疑問を飲み込んだ。そんな解の思考には気付かないまま瀬奈は言った。
「今日は七海ちゃんにここを紹介したのと、おしゃべりしに来ただけだからお風呂は入らないんだ。ごめん。じゃあ七海ちゃん、色々見て話もしたし、帰ろっか?」
瀬奈は七海を促して立ち上がった。自分も恋愛に詳しくないのに、解に説教の様に語ったことを少し悪かったなと思った。
「は、はい。さようなら、先輩。」
七海は立ち上がって瀬奈を追いかけた。が、その前に解に近づいて小声で言った。
「ちょっと恥ずかしいですけど、私はこういう話は大丈夫ですから、またお話ししましょうね、先輩。それと、次はお風呂に入りに来ますので!」
いい終わると七海はお辞儀をして今度こそ瀬奈を追いかけていった。
真について調べる中で、一番時間がかかっていた透矢が調べ終わったと告げ、そのため同日の放課後、まとめたことを発表することになった。
「じゃあみんな、発表してもらうわよ。まずは瀬奈ちゃんと七海ちゃんから。」
仕切っているのは始音であり、今回は立候補で仕切りをしていた。全員が調べている中で自分も何か、ということらしい。そして愛情研究会の中では始音は先生らしさをオフにするらしく、まるで一学生のような態度だった。
「はい。まず『愛情が分からない』という言葉について考えました。一般的には言葉そのままの意味じゃなくて、愛情が何かと言えず不安になる、他人の愛情を疑うなど、『愛情に自信がなくネガティブに感じる』ということみたいです。それに、家族や恋人がいても分からないという人もいるみたいです。」
「へえ、川野辺は定義だの何だのは苦手だと思ったが、意外と頑張ったんだな。」
「ありがとうございます!瀬奈先輩と一緒に調べましたから。でもまだ続きがありますよ。なぜ愛情が分からないのかなんですけど、これにはいくつか原因があります。まず生まれた時からの異常で発達障害?とか自閉症?というのがあると人との付き合い方、生き方に問題が起きやすいです。次にうつ病とか不安症などの精神的な病気になると何かを好きになる元気がなくなります。最後に、生きてきた環境の問題、例えば親からの虐待があると愛情を信じられない子供になることがあるそうです。」
七海にしては大変な、長い発表だったが何とかやり終えた。話が終わると七海は安心したように大きく息を吐いた。始音はそんな七海を労うように笑顔を向けた。
「いい発表ね。だいぶ会長らしくなったんじゃない?お疲れ様。で、質問なんだけど、真さんは今の七海ちゃんみたいなことだったってことはないの?少しは愛情を理解できてたとか。」
「…。」
解は黙って顎に手を当てて考えていた。どこかの銅像のようで絵にはなっていたが、主役がだんまりだと話が盛り上がらない。
「先輩、どうですか?」
「今考えてたが、やっぱり違うと思う。七海の話では愛情に不安を覚えるらしいが、真に感情はなかった。負の感情を持たないからさっきの『分からない』に当てはまらないと思う。」
「表に出さない奴ならいくらでもいるが、感情がないってのは珍しいよな。一緒に生活した解が言うなら信憑性もある。」
「うーん、私の意見は違いそうね。やっぱり真さんは特殊ってことかしら…。よし、次は瀬奈ちゃん、お願い。」
始音はすぱっと話を切り替えて次の発表者である瀬奈に話を振った。瀬奈は少し緊張しながら立ち上がった。
「はい。私は愛情の中で、特に恋愛について調べてみたんだ。あんまり愛情で調べても、曖昧なことしかなかったから…。それで、小学生の数十%は恋をしたことがあるって。で、一方20代30代で恋愛をしたことがない人は女性が十数%、男性は20~30%なんだって。でも結婚したい人は全体で60%、男性より女性の方が結婚したいって結果だったよ。」
「今出た『結婚したい』という言葉はどういう意味なんだ?」
「え?どういう意味って…。家庭を持ちたいとか、誰かと一緒がいいとか、子供が欲しいとか、そういうことじゃない?」
「結婚は恋愛をした相手と一緒にいた結果じゃないのか?結婚を目的として恋愛をするのか?結婚したいと恋愛したいは同一じゃないのか?」
「え?えっとねえ…。」
どんどん質問されて瀬奈が困っていると始音が助けに入った。
「こらこら解君、一気に質問すると皆困っちゃうでしょ。一度ステイ!」
「分かった。」
始音の言い方は犬に命令する時と同じだったが、解は素直に従った。瀬奈はつっこみそうになる自分を強く抑え、冷静になってから口を開いた。
「さっきの質問の答えだけど、例えばお見合いや婚活アプリは完全に結婚が目的でしょ?でも恋愛が生まれないと先に進まないよね。他に、子供が欲しくて結婚する場合、結婚すら通過地点になる。でもやっぱり恋愛がないと進展しないと思う。つまり、結婚したい、恋愛したいは目的の到達点が違うってこと。そしてそれぞれに結婚したい理由がある。でも、目的に至るためには結局恋愛が必要になる。…こんな感じかな?」
即興にしてはかなりうまく説明できた気がするが、解はどう思っただろう。瀬奈が解の顔をそっとうかがうと、解は感心して息を漏らしていた。やった、好感触だ。
「うん、そうか。ありがとう瀬奈、すごくよく分かった。」
「良かった。じゃあもう少し続けるけど、恋愛に興味がない人は10%以下らしいんだ。その理由は趣味に時間とお金を使いたい、結婚に興味がない、同性と遊んでる方が楽しい等、色んな理由があるけど、『愛情を理解してない』わけじゃないみたい。解君の言い方なら『もの』や『友人』、『自分』への愛情はちゃんとあって、単純に恋愛よりそっちを重視してるってことだね。」
「少子化対策の話みたいだな。ただ思うんだが、恋愛に興味がない奴は実際にはいないんじゃないか?消極的なだけで、手ひどく振られたとか、ヒョロガリな自分にコンプレックスがあるとか。」
「そうだな。恋愛は性愛に関係してる。生殖に興味がなければ人類は滅びるんだから、生命の本質から見ても本当の意味で恋愛に興味がない人は少ないだろうな。」
解が言い終わると一旦静寂が訪れた。それぞれが話をまとめ考えていると、最初に七海が口を開いた。
「えーと、結局…瀬奈先輩と私の話を合わせると、真さんのように恋愛を理解できない人はほとんどいないってことですか?」
「そういうことだな。真自身も自分の異常を調べていたが、自分以外に似た精神的異常を持つ人間はいなかったみたいだ。」
「確かに。色々調べても真さんはかなり面白い言動をしてたぞ。同じことができる人はまずいないだろうな。」
解の言葉の後に透矢がするりと入ってきた。真個人のことを話すちょうどいいタイミングだった。
「流れ的にちょうどいいから俺の話をするぞ。俺は解の義父、黒条真の昔話だ。真さんは両親と妹の四人家族。小さい時に広汎性発達障害と診断され、以降は胃癌になるまで病気はなかった。幼少時のことは分からなかったが、特に家族に大きな問題はなかったみたいだな。医者になった後も大きな問題は起きてない。上司には好かれなかったみたいだけどな。患者からは『雰囲気は怖いけど優秀な先生』と言われてたぞ。」
ここで透矢は一度話を切った。ここからが真の異常とも言える言動が分かる話だった。
「ここからはさらに昔、真さんが学生の頃の話だ。小中では喧嘩とかの話がいくつかあった。と言っても、なかなか激しいぜ。」
「激しい?」
「例えば、小学生の時に中学生三人からカツアゲされたらしい。断ると殴られた。だからやり返して返り討ちにした。さらにその後、一人一枚ずつ爪をはがした。」
「ひっ…。」
暴力への免疫がないのか、瀬奈と七海は透矢の言葉を聞いただけで顔をしかめた。
「痛そうです…。」
「真さん自身、顔の骨が折れてたらしくてな。骨をうまく折るのが難しいから爪にしたらしい。」
「いやいや、そんな気軽に言われても怖いんだけど…。解君、それ本当の話?」
「その話は知らないが、真は感情で動かない分筋を通すから、殴れば殴られる、骨を折れば折られる。爪を剥ぐことに何の躊躇いもなかったはずだ。ちなみに、俺も相手の骨を折る方法を教わったぞ。」
「ええ…?」
「他にもあるぜ。強姦現場に遭遇した時は加害者の棒を折ってから交番に連れて行った、とかな。」
「うわー…。並の人間にはできないわね。まさに機械のように因果応報のルールに従ってたのね。」
始音が強烈な話に驚きつつも冷静に呟いた。本当に今聞いた話の通りなら、真が異常と言われるのも仕方がないだろう。しかし、透矢は話に引き気味の女性陣を見てにやりと笑っていた。
「今までのは小中学生の時だけだからな。もっとすごいのが高校の時だ。これは相当で、全国ニュースにならなかったのが不思議なくらいだ。」
「ど、どんな事件?」
思わせぶりな言い方をする透矢に瀬奈は怖々聞いた。暴力の匂いを感じて七海も怖そうにしていた。そんな二人を尻目に透矢はにやりとしたまま話を続けた。
「真さんが高一の時だ。二年生で一人の生徒に対して激しいいじめがあってな。裸にして水をかける、その写真を撮るぐらいは平気でやってたらしい。」
「ひどい…。」
辛そうな顔の七海を透矢はちらりと見た。話だけで同情されても何の役にも立たないんだがな。まあいいか。
「ま、人間なんてその程度だがな。で、たまたま真さんがいじめの現場を見たんだ。真さんはとりあえずやめろと言った。だが加害者達、六人いたんだが真さんをリンチしたらしい。当然真さんはやり返して全員をでぼこぼこにした。それで、問題はここからでな。」
「ああ。」
「まず真さんは被害者に質問した。『なぜやり返さないのか』、『されている方が良かったのか』、『助けを待っていたのか』てな。」
「そ、そんなの答えてくれたの?いきなりそんなこと聞かれても誰も答えられないと思うんだけど…。」
「まあな。いじめられてなくても一人で六人を倒す謎の下級生に返事はできないよな。じゃあ次だ。返事がないのを確認した真さんは次に、加害者全員から服を奪って全裸にした。男も女も関係なくな。」
「はっ?」
瀬奈が思わず声を上げた。始音も七海も耳を疑った。解は目を閉じていて反応しなかった。
「で、服で手足を縛り上げてその場に放置した。次に被害者のクラスに行って、一人一人に『見て見ぬふりをしたか』聞いて、答えがどっちでも一人一人殴っていったんだと。逃げる生徒も捕まえてな。で、来た担任にも『知っていたか』、『なぜ無視したのか』、『今殴られて何を感じるか』なんて、詳しく聞きながらぼこぼこにした。」
「「「「…。」」」」
「その光景はすごかったそうだ。真さんは最初の喧嘩の時に棒で殴られたから頭は割れて血だらけ、肋骨と左腕は骨折していた。それでも無表情に動き続けた。生徒は逃げ回り、教師も止めようともせず逃げ出し、周りに一人もいなくなってようやく真さんは止まった。」
「…行動の理由は?きっと調べたんだろ?」
「もちろん。理由は『同じことをされた時にどう思うか』、『自分が当事者となった時にどう動きどう思うか』、『職業倫理、道徳を無視できた理由』を知りたかった、と言ったらしい。一連の騒動もボイスレコーダーで記録していたんだと。で、この話にはさらに続きがあってな。普通そんなの退学だろ?でもそうはならなかった。」
「え、それ本当?なんで?」
教師である始音が驚いて反応した。そこまですると退学どころか警察沙汰になりそうなものだ。
「真さんが殴った生徒達は全員軽症で、真さんが一番重症だったこと。生徒も教師、その時の校長も含めていじめを黙認してたこと。最後に殴られた奴、逃げた奴全員が報復を恐れて何も言わなかったこと。それらがうまく重なったんだ。とにかく、真さんは高校一年生にしてすべての生徒、教師、それらの家族、そして自分の家族から恐れられた。だから大事件なのに情報が広がることもなかったんだ。」
「「…。」」
瀬奈と始音は事件の内容に声を失い言葉が出なかった。いつの間にか目を開けていた解が二人を気にしながら口を開いた。
「真がその事件を少し書いてたが、そんな話だとは知らなかったな。とはいえ、真らしいかもしれない。」
解は妙に納得していた。真は単純な善悪では推し量れない。道理と理屈で動くのが解の知る真だった。
「そういえば聞いたことあるかも、昔起きたこの高校の伝説的事件。そのクラス、最終的にほとんどが引っ越して消滅したのよ、確か。」
始音が思い出したように付け加えた。そして時間で復活した瀬奈がちらりと解を見つつ、ためらいはあったが正直な気持ちを告げた。
「…解君には悪いけど、怖いところもあったんだね、真さんは。」
「で、でも、いじめられた人を助けてるんですよ?」
七海はあわあわとしながらも真を庇った。瀬奈もためらいがあったが、解の義父をネガティブに扱うのは申し訳ない思いだった。しかし、解は無表情に顔を横に振った。
「いや、真は被害者を助けたつもりはない。結果的に助けただけで、真は純粋に透矢が言ったことを知りたかっただけだ。」
「そんな…。でも、真さんはなんでそんなことを知りたかったんですか?考えたら想像できるのに。」
「それができないくらい壊れてたんだろ。」
七海が困惑する中、透矢は笑いながら冷たい目で一同を見回した。
「俺は真さんの行動の理由がよく分かるぜ。当たり前に人がすることができない、分からない、知る方法もない。だから他人からみて異常な行動でもやってみるんだ。」
透矢は自分の家庭すら壊したと言っていたが、それも何かを知るための行動だったのだろうか。解は透矢の話を聞いてふと思った。
(真は異常、壊れている、か…。)
解は自分が真をどこまで理解しているかを考えた。真の子供として共に生きて、真のことは色々知っている。さっきの話でも真の行動は予測した範囲内だった。ただ、真の本心は当然分からない。感情を持たない真なら本心などない可能性もあるが、真の精神性についてはほぼ聞かなかった。真は愛情について考え続けていたのだから、もっと真の心を知ろうとすればよかった。死亡した今となってはもう不可能だが、今更になって解は後悔と申し訳なさを感じていた。
解は静かに真について考えていた。場も解を待って静かにしていた。少しして、解が発表としては自分の番だと気付いた。
「悪い、俺の番なんだな。つい考え事をしていた。」
「お前が考えないで誰が考察するんだ。それでいいんだよ。」
「そうよ解君。あなたに得るものがないと皆ただ楽しく話して終わりになっちゃうわ。」
「私はそれもいいと思いますけど、待つくらい何でもないから気にしなくていいよ。」
「そうですよ。それに考えてる先輩もかっこいいですよ。」
それぞれが違う言い方だが皆解に好意的だった。皆に感謝しつつ解は話し始めた。
「…透矢の言うことは当たっていると思う。ただ俺といた時には目立つことを一度もしなかったから、その違いを考えてた。その差はやはり『親』かどうかだろう。だから俺は俺が見ていた真の話をしよう。」
解は真のことを思い出していた。。さっきの申し訳なさはまだ続いていたが、同時に懐かしさも感じていた。
「前も言ったが、真は自分を父と呼ばせなかった。これが普通じゃないとは後で知ったんだが、他にも真は変わっていた。例えば、一度も笑わなかった。」
「え⁉人生で一度も⁉」
驚く瀬奈に解は頷いた。
「少なくとも俺はな。麗さんも見たことがないらしい。楽しんだり悲しんだりもなかった。」
「そいつは確かに珍しい。顔に出ない奴だろうと時には感情が漏れるもんだからな。」
「ああ。真は愛情とは対象をみる尺度だと書いていた。愛情がないから人やものに好き嫌いがない。全てがゼロだから、方向性をもつ『感情という動き』がないらしい。」
「愛情は自分が何かを見て感じるための尺度か。確かに『お菓子が好き』もお菓子への愛情よね。愛情というものさしがないと物事を測る、つまり感じることができない。」
皆が始音の解説を聞き納得した。
「始音の例のように、食べ物の好き嫌いもなかった。趣味もない、友人も恋人もいない。真にとっての基準は自分じゃなく知識だった。理屈があるか、筋が通っているか、現在の倫理観に沿うか。それで善悪を評価していた。」
「…あの、それって幸せなんでしょうか?」
話の区切りで七海が尋ねた。解が嫌な思いをしないか心配だったが、聞かずにはいられなかった。何となく真が最初から幸せを諦めているように感じ、それは良くないと思ってしまった。
「ただ理屈だけで生きてても機械みたいで楽しくないと思うんです。真さんだってもっと幸せに生きれたんじゃないでしょうか。先輩のご家族に失礼なんですけど、その、えらそうに言ってすみません…。」
「いや、七海の言う通りだから気にしないでくれ。真は楽しくも幸せでもなかった。そもそも幸せが分からず、必要ともしなかった。ただ真は自分が欠陥品であり足りないもの、つまり愛情を補おうとした。愛情を理解すれば欠落が埋まると考えた。けれど理解はできなかった。画家の考えや技法、道具を知っても絵の美しさが分からないようにな。」
解の言葉を聞き全員が黙り込んだ。だが、沈黙を破って瀬奈が慎重に解に尋ねた。
「真さんの人となりは少し分かったけど、なら解君と麗さんはどうなの?二人は真さんを好きだったんでしょ?真さんは二人をどう思ってたの?それに二人は真さんのどこを好きだったの?」
「確かに。麗さんも解も個性的だが真さんほどの異常さはないよな。ただの個性的な人が異常な人間を好きになれるもんか?」
「ちょっと茅野君、失礼でしょ、もう!」
明け透けな物言いをする透矢とそれを注意する始音。解は二人を見て少し表情を緩めた。
「真のことは思った通り話してくれ。そんなことで真は怒らないからな。それで麗さんなんだが、あの人は子供の時から真を好きだったらしい。ただ詳しくは知らない。一方の真は麗さんを好きにはならなかった。ただ『迷惑をかけたくない』とは思っていたらしい。」
「それって、真さんにとって麗さんはやっぱり特別だったってことですか?」
「そうかもしれない。ただ麗さんは真や俺の世話をよくしていたから、もっと単純な意味かもしれない。二人の関係は俺もこれ以上は分からない。」
「なら次は解君ね。解君は真さんをどう思ってるの?」
始音に言われて解ははたと気付いた。そうだ、自分も聞かれていたのだった。
「俺が真を好きかは自分でも分からない。ただ真のようになりたかった。真は誰にも頼らず、誰も必要とせず、何も求めなかった。真には愛も金も名誉も、自分すら必要なかった。それでも生きる真の在り方が俺にはすごく力強く見えていた。」
解は自分でも気付かないうちに懐かしそうに微笑んでいた。それだけで解が義父をどう思っているかが分かった。
「真は俺を愛さなかった、いや愛せなかったか。親にふさわしい行動ができたともいえないだろうな。ただ、真は俺の親になると決めて、最期まで親であることを投げ出さなかった。俺にはそれだけで十分だった。むしろ、そんな真だからこそ信じられたし親だと思えた。」
解は話が終わっても微かに笑っていた。きっと真のことを思い出したのだろう。七海や瀬奈は解と真のつながりを聞いて胸に迫るものがあった。始音と透矢にも感じるものがあった。解と真は少しいびつだが、紛れもない親子だった。
「俺の話はこんなところだな。主観ばかりで悪いんだが。」
解がそう言うと笑顔は一瞬で消えてしまった。その場にいた何人かは貴重な解の笑顔が見れなくなり残念だったが、解に感想を言わねばならない。始音は一度咳払いすると、リラックスした様子で言った。
「貴重な、いい話だったわ。ありがとう解君。人は一面だけで判断するなっていうのは本当ね。後は文章にまとめたらいいけど、その時間はもうないわね。」
「本当だ。まとめは次回にして今日は帰らないと。」
「はい!あの、今日は皆で帰りませんか?始音先生も良ければ一緒に。」
「あ、そう?折角だしそうしましょうか。」
「始音先生、外でその調子は出さないで下さいね?」
(女性陣は元気だな。)
ぼんやりと女性三人を見ていた解に透矢が小声で話しかけてきた。
「なあ解、お前に詫びることがあるんだよ。」
「何だ?急に。」
「いや、俺は真さんの昔を調べただろ?その過程で自然にお前の情報も入ってな。引き取られる前後のお前とか、髪の色の理由とかだ。個人情報は当然守るが、それでもダチの情報を勝手に知ったことは謝ろうと思ってな。」
透矢は瀬奈達に気付かれないように解に謝った。解は何も気にしていない様子で透矢を見た。
「そんなこと、何も気にしなくていいぞ。俺も隠してるわけじゃない。知って不快にさせたら悪いから言わないだけだ。」
「そう言ってもらえるとありがたい。」
「先輩方、何してるんですかー。行きましょうよー!」
七海が元気よく手を振っていた。どうやら解達が話していたことは気付かなかったようだ。解と透矢は七海に続いて同好会室を出たのだった。
黒条真について
黒条真は愛情が分からない人間だった。彼は普通の家庭に生まれ普通に育てられたにも関わらず異常を持っていた。そのため彼の異常は生まれ持った先天的なものと推測される。
真は子供の時から自身の異常性に気付いており、愛情を理解しようと努めた。しかし、結局理解には至らず、真の人生には彼が愛情、感情を理解しようとしたが故に起こした彼の異常性を示す事例が残ることになった。
「愛情を理解できない」とは、多くの場合愛情に対して嫌悪感、恐怖感、不安感を持っていることである。それは先天性、精神疾患、虐待などの環境が原因となって起きる。
他方、いわゆる「普通に」生きた人には「恋愛をしたことがない、興味がない」人がいる。ただこれは恋愛を理解できないのではなく、恋愛よりも重要なもの(趣味や友人など)があるためであり単に優先順位の問題である。
真の「愛情を理解できない」はそれらとは全く異なり、「あらゆるものを好きにも嫌いにもなれない」というものだった。そのため真は趣味、友人、家族、恋人、何も持たなかった。愛情は感情の尺度であり、全ての対象にプラスマイナスがない真は楽しい、嬉しい、悲しいといった感情も持たなかった。真は幼少時に広汎性発達障害と診断されたが、その中でも非常にまれな異常といえる。
愛情が理解できない真だったが、姫宮麗は男として、黒条解は親として真を愛しており、彼は他者に愛され得る人間だった。愛される人間が何かを愛することができるかは不明だが、少なくとも可能性は示唆されるだろう。
総括すると、黒条真が精神的に異常を持っていたことは確かである。しかし、その異常を改善できないか生涯探り続けた。結果的にその努力は実ることはなかったが、親として自分にできることをしたことで黒条解に親として認められた、努力と探索の人だと言える。
愛情研究会 全員 記
コンコン…。
同好会室の戸が小さくノックされた。
「あれ、今入り口で音しなかった?」
瀬奈がノックの音に気付いて入り口を見たが、入り口はぴくりとも動かなかった。今まで愛情研究会関係者以外、誰かが同好会室に来たことはない。
「気のせいじゃないか?」
「愛情同好会だからな。誰も来ないだろ。」
解と透矢は気にせず話を続けようとしたが、再び小さくノックの音がしたので全員が顔を見合わせた。
「はーい、今出ます!」
七海が入り口に向かい戸を開けると、一人の女生徒が緊張した様子で立っていた。七海と同じくらいの背格好だが自信のなさそうな、弱々しい雰囲気だった。
「あれ、つばめちゃん?」
「七海ちゃん、こんにちは…。あの、ちょっといいかな?」
「もちろん!先輩方、この子は杉崎つばめちゃん、同じクラスの友達なんです。」
七海は友人を紹介しながらつばめに席をすすめた。お互い簡単に自己紹介を済ませると、つばめが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、突然お邪魔して。七海ちゃんから皆さんの事を聞いて、相談に乗ってくれるかと思いまして…。」
「大丈夫だよ、杉崎さん。ここは変わった人が多いけど、悪い人はいないから。遠慮なく話して?」
瀬奈の笑顔に少し安心したか、つばめは少し肩の力を抜いた。
「は、はい。実は私、漫画を描いてて…。特に、あの、恋愛物を。でも、恋の経験がないからか、今一つリアリティとオリジナリテイがないというか…。そこで、愛情研究会の皆さんに恋愛について何か聞けないかな、と思いまして…。」
話を聞き終えると、七海が興奮した様子で声をあげた。
「この会初めての相談ですよ、先輩!何だか有名になったって感じがしませんか?」
七海はこう言ったが、実は愛情研究会は色々あって学校で有名な同好会になっていた。解と透矢が有名になったことが一番の理由だが、七海、瀬奈、始音と学校の綺麗どころが揃っていることも大きかった。
「七海はひとまず落ち着こうか。折角来たんだからできることはするが、具体的にはどうすれば協力できるんだ?」
「とりあえず、今日話していた内容でも見てみるか?」
解が考えている横で、透矢がタブレットを見せつつつばめを手招きした。つばめはおずおずと近づいてタブレットの画面を確認した。画面の文書には「純愛と性愛の関係」と書いてある。
「こ、これは…!」
つばめは驚いて声を上げた。
純愛と性愛の関係
純愛と性愛はいずれも恋愛に含まれる愛情の一種である。一般的な純愛とは純粋な愛、すなわち倫理的、道徳的に問題のない恋愛で性的欲求が表に出てこない場合を指す。性愛は文字通り性欲に基づいた愛である。ただ、人間における性欲は野生生物とは異なり、対象が異性とは限らず、生殖とは必ずしもつながらないことは留意する必要がある。
純愛と性愛の違いは①倫理的、道徳的に問題がないか、②性的欲求の有無と思われがちだが、いずれにも問題があると考える。それは①、②どちらでも純愛の定義に端を発する。
まず純愛における「問題のない」という言葉だが、例えば不倫は妾が存在する時代では問題がない。一夫多妻制においては複数を愛することも可能である。つまり、純愛は純粋な「問題のない」愛のはずだが、現実には時代によって多様に変化し、全く普遍性がない。
性的欲求の点でも、そもそも性欲は否定されるべきものではない。そして、キスや手をつなぐという物理的接触による交流も性欲に関係している。つまり、恋愛において性的欲求を切り離すことは困難である(これは以前記述した通りである)。また、純愛の定義に性的欲求は関係がない場合もある。未成年かどうかで定義が変わっているのかもしれない。
結局、純愛と性愛は大きく違うもののように解釈されがちだが、実際にはこれらはかなり近似したものと言える。むしろ、恋愛という大きな括りの中に狭い範囲で性愛があり、性愛と多くの部分を共有して純愛があるものと考えるべきだろう。
恋愛研究会 著
「面白いです、これ!」
読み終わったつばめは興奮し、楽しそうだ。
「そうですよね、純愛物でも性欲が否定されたり清いお付き合いを強制されたりする必要はないですよね。もちろんその辺りが前面に出過ぎるのも嫌ですけど。でも、こうやって科学的に愛情について考えるなんてとても珍しいです。私みたいなのにはむしろ分かりやすい…。」
一気に話したところでつばめははっとなり恥ずかしそうに下を見てもごもごと喋った。
「す、すみません、一人で盛り上がってしまって。私ったらいっつもこんな感じで…。」
「何も悪くないぞ。」
びくっとつばめは話を遮った相手、解を見た。解はいつも通りの無表情と落ち着いた瞳でつばめを見返した。
「別にお前は感想を言っただけだ。それに興味深かったのは自分の描く漫画に関係していたからだろ。お前が漫画を描くことが好きで、しかも本気で取り組んでいる証拠だ。積極的なのはむしろいいことだ。」
つばめは声をかけられた時は少し怯えていたが、話が終わった頃には怯えは消えていた。ぼうっとしてずっと解を見ていたので、見られている解はつばめを気遣って再び声をかけた。
「どうした?大丈夫か?」
「つばめちゃん?」
七海に近くで声をかけられてようやくつばめは反応を示した。
「ご、ごめんね、ちょっとぼーっとしてて。そんな風に言ってもらえたのは初めてだったので…。」
少し顔を赤くしてぼそぼそっと答えるつばめを見て、透矢はにやにやしながら解の肩をつついた。
「天然ジゴロだな。いいぞ。」
「何だ、それ?」
「秘密だ。」
始音と瀬奈は意味が分かっているようで、意味ありげにため息を吐いていた。
「とにかく、今日話した内容は読んでもらったけど、他はどうする?杉崎さん、何か聞きたいこととかある?」
「あ、あの…二つありまして。」
「おお、積極的だな。」
「ちょっと茅野君、後輩をからかったら駄目でしょ。」
「分かってますって。で、その二つって?」
「えっと、一つは今読んだみたいな文をもっと読みたいです。それと、七海ちゃんは前にデートをしたんだよね?」
「うん、先輩とね。すごく楽しかったなー。またしたいですね、先輩!」
「え?まあ、機会があればな。」
「それならちょうどいいです!」
いきなりつばめが大きな声を出したので、一同は驚いてつばめを見た。
「私も実体験としてデートをしてみたいと思いまして!愛情研究会のどなたか付き合ってもらえないでしょうか⁉」
(また解君と…?)
(つばめちゃんと先輩で…?」
(うーん…。異論を言いたいけど、杉崎さんに言うのは無理か。)
愛情研究会の女性達が沈黙する中、冷静に話を聞いていた解が代表して答えた。
「今『どなたか』と言ったのか?なら、俺や透矢でなくて、瀬奈やし…堤先生でもいいってことか?」
「え?」
「はい。だって今どき男同士、女同士もドラマでありますから。さっきの文にもありましたし。あの、私はまだ恋の経験がないので、同性でもいいかと…。」
「そ、そっか。この中の誰でもいいんだ。」
「あはは…。じゃ、じゃあどうやって相手を決めましょうか?」
「じゃんけんでいいんじゃない?この前もそうだったでしょ?」
始音が気楽な調子で言うので、瀬奈は小声で始音に注意した。
「始音先生、今回は参加しちゃ駄目ですからね。」
「分かってるわよー。私だって馬鹿じゃないもの。でもありがとね。」
始音と瀬奈がひそひそ話をしている間、二人に注意が向かないよう透矢は話を進めていた。
「仕方ないから俺も参加するか。そしたらいくぞ。霧谷も早く来い。」
「はいはい。」
「よし、行くぞ。じゃんけん、ぽん。」
一人がチョキ、残りはグーだった。
「…また俺だな。」
「えっ!」「わっ…。」「えー…。」
瀬奈、七海、始音はそれぞれ思い思いの声を上げた。横で透矢は笑いを噛み殺し、後ろにいたつばめはぽかんとしていた。
次の休日に解とつばめはデートをすることになり、あっという間に当日になった。解はすでに待ち合わせ場所の駅前で待っていた。今日の解の服は紺色、首輪と鎖は白を基調にしたものだ。今回は場所が駅前のせいで解はやたら目立っており、解の周囲には人が少なかった。ただ、解自身は避けられていることに気づいていなかった。
(今日も駅前は人が多い…。)
たまたま目があった男性があからさまに目を逸らし離れていった。解が何となく釈然としない思いになっていると、つばめが息を切らせてやって来た。
「す、すみません、遅くなりました!」
「いや、15分くらいしか待ってない。」
「すいませんでした!」
「いや、待ってないから気にしなくていいぞ。とりあえず電車に乗ろう。」
「は、はい…。」
デートの最初から3分遅刻して解を待たせてしまった。服装をどうするか悩んだせいだが、遅れるくらいなら適当でよかったと後悔した。髪も結ってみて、ワンピースを着て、似合わないアクセサリーなんてつけてみたけど、やっぱりオタクの自分にはふさわしくない。
つばめが落ち込んで歩いていると、頭がとんっと何かに当たり、反射的に立ち止まった。下を見ていた目を前に向けると、自分の身長に合わせてしゃがむ解の無表情な顔があった。
「ひゃあああ!」
驚いたつばめが思わず後ずさると段差にひっかかった。しかし転ぶ前に解は素早くつばめの腕を掴み支えた。
「大丈夫か?」
「は、はい、すみません…。」
「…。」
解はつばめを立たせると、またしゃがみ込んで目線を合わせた。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、お前が暗いように思えたからな。ただお陰で思い出した。また忘れるところだった。」
「え?」
「服も髪型もよく似合ってるな。学校での抑えた様子も似合っているが、今の姿も俺はきれいでいいと思うぞ。」
「え…ええっ!」
言葉の内容を理解するとつばめは真っ赤になって絶句した。今まで容姿をほめられたことがない上に、大変直接的に言われたので動揺は激しかった。つばめの様子を見ていた解は困った顔をした。
「あれ…。俺が見た目のことを言わなかったから落ち込んだんじゃないのか?」
「…へ?」
「やはり俺じゃ女性の気持ちは分からないか。本当に悪いんだが、暗くなった理由を教えてくれないか?言われた点を直すから。」
「……ふふふっ。」
つばめは解をぽかんとした顔でずっと見ていたが、しばらくすると笑い始めた。
「ふふ、先輩、違うんです。落ち込んでいたのは私が遅刻して先輩に迷惑かけたからで、先輩は全然悪くないんです。」
「ん…?別に俺は迷惑と思ってないから、落ち込まなくていいぞ。」
首を傾げて言う解が何だか可愛らしく見え、余計におかしかった。
「はい、最初にそう言ってましたよね。すみません、一人で落ち込んでた上にお世辞まで言わせてしまって。」
「いや、気にしなくていい。俺が色々分かる人ならよかったのにな。それと、お世辞は言ってないぞ。お世辞を言うほど言葉が上手でもないしな。」
ということは、さっきの褒め言葉は本心ということだ。…どうしよう、嬉しいかも。
「あ、あの…ありがとうございます。」
「…ああ、やっと笑えたな。よかった。」
解はふわりと笑った。さっきまでつばめに笑顔がなかったため気にしていたが、少し安心した。一方、つばめは解の笑顔に見とれていた。無表情な人が笑うと良く見えるなんて、漫画じゃないですか。
「それじゃあ行くか。…そうか、俺はエスコートも忘れてたな。悪かった。」
解が不意に片手を差し出したので、つばめも視線を解の手に移した。手…?ああ、聞いた話では手をつないでデートをしたとか何とか。…え、私、も?いいのかな?私で。でもデートの実験だし…。
「杉崎?」
「は、はい!」
つばめは慌てて解の手を取った。覚えている中では男の人と手をつなぐのは初めてだ。緊張すると同時にふわふわとした高揚感を感じていた。
「解のあれは経験不足じゃなくて天然ボケだよなあ?」
にやにやしながら透矢は後ろを振り返った。後ろには気まずい顔をした瀬奈と七海がいた。
「やっぱり駄目ですよ、茅野先輩。しないって決めたんですから…。」
「そうは言ってもなあ。お前等も結局来ただろ?」
「そうなんですけど、それは茅野先輩を止めないとって思ったからですよ?」
「そうよ。放っておいたら尾行するでしょ?ほら、止めて帰るよ。」
「いや、待て待て。あいつらがどうなるか、本当に気にならないのか?全く?」
「うっ…。」「それは…。」
透矢が悪い顔をして二人に問いかけると、瀬奈も七海も複雑な表情で黙り込んだ。
今回のデートは通信機の使用と外からの観察はなしになった。解は良かったがつばめが恥ずかしがったからだ。しかし、こっそり尾行すると透矢が言い出し、通信機を解の鞄につけたのだった。始音は仕事で来れなかったが、瀬奈と七海は透矢を止めるために来ていた。
しかし、瀬奈と七海は透矢の言う通り、本心ではデートが気になっていた。前回のデートで解の相手だった七海は愛情研究会のメンバーであり、いつもは解の妹のような雰囲気なので誰も気にしなかったが、今回は全くの他人である。つばめからすれば実験とはいえ普通のデートと何も変わらないだろう。
その上、つばめが解の言葉や文章を気に入っていたことが瀬奈は気になっていた。瀬奈としては別に解が誰とどうなっても構わないつもりだが、それで解が変わってしまうのは嫌だった。勢いで始まった愛情研究会だが、いつの間にか瀬奈にとって大事な居場所になっている。その中心である解が変わってしまったら、今の研究会も変わってしまうのではないか。瀬奈はそんな不安を感じていた。一方、七海は大好きな先輩が友達に取られてしまった気がして、寂しいような悔しいような気持ちだった。そうした思いが二人を透矢に強く出れなくさせていた。
しかし負けてはいられない。瀬奈は首を振って気を取り直した。正義はこっちだ。
「いーや、騙されないからね。少なくとも盗聴してるのは絶対止めるから。」
「ま、そこはな。同意がないから盗聴と言われても仕方ないし、これは止めるか。」
透矢は持っていた機械のスイッチを止めた。すると途端に解達の声が聞こえなくなった。透矢があっさり引いたことに瀬奈が拍子抜けしていると、透矢が急に歩き出した。
「え?茅野先輩、どこ行くんですか?」
「散歩だよ、散歩。解達のデートコースが面白そうだから尾行抜きで行ってみようと思ってな。お前等も来るか?」
「ええ⁉ちょ、ちょっと茅野君!」
にやりと笑って先に行く透矢を瀬奈と七海は慌てて追いかけた。
解とつばめは電車に乗って動物園に来ていた。普通なら動物を見て歩くのだろうが、二人はキリンの前でかれこれ15分近くじっとしていた。解はつばめの手元を眺めているだけで、つばめはキリンと手元を交互に見ながら手を動かしていた。
「キリンも上手だな。今思ったんだが、漫画はもっとデフォルメするんじゃないか?」
「これは練習ですから。素早くきれいに描くのが目的なんです。」
つばめは気になった動物の絵を描きながら動物園を回っていて、キリン以外にも今まで象とフラミンゴの絵を描いていた。
「待たせてしまってすいません。もうすぐ終わりますので。」
「ゆっくりでいいぞ。待つのは苦じゃないし、絵ができていく様子は興味深い。それに、真剣に絵を描く様は綺麗で、見ていて飽きないぞ。」
「へ⁉あ、ありがとうございます…。」
解が無表情かつ真面目に褒めると、つばめは声が上ずりながらも返事をした。絵を描いているので目を合わせずに済んだ。
(本気で言ってるのかな。言ってるんだろうな…。)
つばめは赤い顔で絵を描きながら解のことを考えていた。解のことは以前から七海を通して知っていたが、七海が解を褒めてばかりなので会う前から好印象だった。そして天然なのか、解はしばしば真面目な顔でどきっとすることを言う。おかげで好感度は着々と上昇中だ。
(これはお試し、実験…。)
つばめは自分に言い聞かせてからスケッチブックをしまい、解に頭を下げた。
「お待たせしました。完成です。」
「お疲れ様。もう少し見たら食事の時間だな。行こう。」
絵を描いている時は手を離していたが、終わるとまた解はつばめに手を差し出した。つばめは恥ずかしそうに手を出し、解に引かれて歩き出した。
「あの、お弁当、作ってくれてありがとうございます。私は料理できなくて…。」
「たまたま俺ができるだけだ。無理しなくていい。しかも俺は外食代節約のために作ってるだけだからな。むしろ俺の手料理で悪いな。」
「い、いえ、そんな!お弁当を作る男性は漫画では万能キャラとかお母さんポジションのキャラですけど、当たり前のように作るキャラは少なくて希少です。いいと思いますよ、家事ができる男性。」
「そう言ってもらえると助かる。」
例えはよく分からなかったが、つばめが解に肯定的なことは理解できた。なら、自分のやり方で悪くはないのだろう。
動物を見て回りながら話をしていると休憩室に着いた。席につくと解は手に持った袋から昼食を取り出した。出てきたものを見たつばめは思わず声を上げた。
「わあ…。」
ハンバーガーだった。レタス、チーズ、トマト、ハンバーグが見える。隣の箱にはポテトフライとサラダが入っていた。
「ハンバーガーだな。持ち帰りができるあれをイメージして作ってみた。」
「す、すごいです!普通のお弁当を想像してたのに、こんなものが出てくるなんて…。」
「そこそこの質になったはずだ。特にパンは見た目もよく作れたからな。どうぞ。」
「あ、どうも。ってこれ、パンも作ったんですか?自分で?」
「ああ。安すぎるパンだと美味しくないからな。デートで節約しすぎるのは良くないんだろう?」
「ま、まあそうかもしれません…。」
「なら良かった。…邪魔したな、俺に構わず食べてくれ。」
「え、は、はい。」
つばめは解の料理技術に感嘆しながら食べ始めた。…確かに、安い既製品よりよほど美味しい。冷めてもいいように工夫しているのだろう、肉もパンもポテトも、みな美味しかった。つばめは絵ばかり描いている自分が恥ずかしくなってきた。
「先輩はすごいですね。私なんか絵を描くくらいしかできないのに…。」
「何もすごくないが…。そうだ、さっき描いた絵をもう一度見せてくれないか?」
「は、はい!」
つばめはすぐ返事をしてスケッチブックを解に渡した。解は絵をじっくり見ていた。
「杉崎は絵を描くことが好きなのか?」
「はい。でも、好きなだけで漫画家になれるわけじゃないですし、」
「すごいな。」
解が自然に漏らした言葉を聞いて、つばめは続きを飲み込んだ。解はつばめの話が終わったと思っているようで、そのまま絵を見ながら話を続けた。
「絵を見ていると杉崎が本気で描いたこと、描かれた動物達を好きなことがよく分かる。俺には好きなこと、真剣になることがないから、本当にすごいと思う。」
「…。」
解はスケッチブックから目を上げ、無表情だが穏やかな目でつばめを見た。
「杉崎の言う通り、好きなだけでは夢は叶わない。だが好きにも本気にもなれないなら絶対に叶わない。それに、お前は好きなだけじゃないだろ。この絵や今この瞬間も、ちゃんと努力をしてる。」
解はスケッチブックをつばめに返すと、何も言わなかったかのようにまた黙々と食べ始めた。つばめは大事そうにスケッチブックを抱え、解の言葉を噛みしめていた。無表情で淡々としているのに、解の言葉からは彼の真摯な姿勢がよく分かる。そのため、日々自信がないつばめでも解を信じることができた。
「ありがとうございます。」
つばめはわずかになったハンバーガーを食べながら、小声で呟いた。
昼食後二人はもう少し動物園を回りスケッチをした。状況に慣れたのか、終盤はつばめからおどおどした様子が大分減っていた。最後につばめはカピバラと解のツーショットをスケッチした。
「今日の思い出にします。」
とのことだったが、写真の代わりなのだろうか。解には今一つ分からなかった。
動物園を後にした二人は、次に電気屋に向かった。こちらは解には動物園以上に分からない世界だったが、つばめは漫画を描く時の道具が欲しかったらしい。
「最近はパソコンで絵を描くことが多いので、パソコンの周辺機器も必要なんですよ。」
ということだった。つばめはタッチペンやメモリを買い、楽しそうだった。解には分からない世界だったが、つばめが楽しいなら問題なかった。
時間が過ぎ、解達は帰りの電車の中にいた。電車の中はいくらか混んでいたが、動くスペースはあった。
「狭くなってきたが、杉崎は大丈夫か?」
「はい。その…先輩の周り、人が減ってますから。」
「そういえばそうだな。不思議だな。」
「あ、あの。言いにくいんですけど、先輩の見た目のせいじゃ…?」
あまりに解がぼんやりした言い方だったので、つばめはつい指摘してしまった。言った後で言わなければ良かったと後悔した。ただ解は別段不快に思うことはなく、態度に変化はなかった。
「…確かに。こんな格好の人間はあまり見ないから、そうなんだろうな。」
「わ、私は格好いいと思いますよ!七海ちゃんもそう言ってましたし!」
「まあ元々見た目や視線を気にしてないからいいんだ。気を遣わせて悪いな。」
「いえ、そんな…。」
そんなことないです、と言いかけたつばめだったが、その一言は解によって遮られた。
「杉崎。」
「はいっ。」
急に解の口調が固いものに変わり、つばめは驚いて返事した。
「お前の携帯は録画できるか?」
「はい、できますけど…?」
「貸してくれ。」
真剣な解の雰囲気につられ、つばめは反射的にスマホを渡した。解はつばめを連れて少しずつ人ごみを移動していった。
「どうしたんですか、先輩?」
「痴漢だ。お前はここにいろ。」
解は小声でつばめに答えると、一人でさり気なく電車の出入口付近に近づいた。携帯を録画状態にして左手で構えた。痴漢は現行犯で捕まえないと面倒だ。確実に一発で決める。
解は携帯で痴漢の手を映しながらタイミングを待った。がたん、と床が揺れたのに合わせて解は一気に痴漢に近づいた。そのまま女性の体を触る痴漢の腕を掴みねじり上げた。
「あがっ!な、何だ、このッ⁉」
30代後半くらいの男性が怒鳴ったが解を見て言葉を詰まらせた。そうか、この手の人間にも俺の見た目は変に見えるんだな。
「静かにしろ、痴漢。それ以上暴れると肩が外れるぞ。」
解は男が暴れないように、また周囲の人間を散らすためにわざと低い声で凄んだ。周囲の人達も何事かとざわつき解を見ていたが、案の定痴漢も周囲の人間も黙り込んだ。次に解は被害者の女性に淡々と話しかけた。
「大丈夫ですか。」
「は、はい…。」
20代前半だろうか、まだ若い女性は少し震えていた。解は目でつばめを呼ぶと、被害者女性をみてもらうことにした。
「次の電車で下りて、警察か駅員に引き渡すからな。」
「ふ、ふざけるな。俺は何もしてない!証拠でもあるのか⁉」
「あるぞ。」
解は先ほど撮ったスマホの録画を見せた。痴漢の手と服の袖が映っており、それはちょうど男の服と同じだった。男は青ざめて口を閉ざした。以降、次の駅まで男は一言も話すことはなかった。
次の駅に着き、電車の出入口が開いた。その瞬間、男が逃げようと暴れ出した。男の腕が折れる危険があり解が手を離すと、男は走って逃げ出した。しかし予想していたのか解は逃げる男にあっという間に追いつき、首根っこを掴んで男を引きずり倒した。そして、地面にうつぶせになった痴漢の首を押さえながら淡々と伝えた。
「逃げても無駄なのは分かったか?諦めて行くぞ。」
近くに交番があったので、駅にすぐ警察がきてくれた。警察に動画を見せて痴漢を引き渡した解がつばめと立ち去ろうとした時、被害者女性が話しかけてきた。
「あの、ありがとうございました。」
「いえ。ああいう奴が許せないだけなので。」
解はそれだけ言って今度こそその場を立ち去った。
解とつばめは再び帰りの電車内だった。交番から今まで解はずっと難しい顔をしていたが、急につばめに頭を下げた。
「折角のデートにケチがついてしまったな。悪かった。」
「そんな、謝らないで下さい。先輩は人助けをしたんですから。」
「たとえ人助けでもお前を置いていったのは事実だ。……そうだ、お詫びに何か俺ができることはないか?」
「ええ?そう言われましても…。」
つばめは困った顔で周囲を見回した。何かと言われてもすぐには出てこなかった。今日のデートでは嬉しいこと、どきどきすること、色々なものを既にもらっていた。
「すみません。今はちょっと思いつかないんですが…。」
「そうか。何なら明日以降でもいいから、ゆっくり考えてくれ。」
言い終わると解はぼんやりと外を眺めていた。
今日も前回も相手のことを理解するという点では一定の成果を得ているが、恋愛のことはよく分からないままだ。デートの回数が少ないのか、仕方が悪いのか、それとも解にはどうあっても理解できないのか。家族や友人というものは何となく分かってきたが、恋人に関してはまだまだ分からないことだらけだった。…隣のつばめは今日のデートから何か得られたのだろうか。気になった解はつばめに尋ねた。
「杉崎は漫画のために恋愛を知りたかったんだったな。今日のデートで何か分かったのか?」
「…あの…ちょっと分かった気がします。」
「本当か?よかったら、」
ぷしゅーっ。
電車が駅に着いたので、二人は話を中断してホームに降りた。改札を出たあたりで解はもう一度つばめに尋ねた。
「さっきの話、よければ教えてくれないか?」
「いいですけど、私の話なんかで何かの役に立つでしょうか…。」
「勿論だ。俺は愛情への理解がまだまだ不十分だ。だから、どんな話でも俺にとっては貴重な話だ。」
つばめは真面目な解に応えて話すことにした。解なら自分のような人間の話でもきっと、ちゃんと聞いてくれる。
「…分かりました。なら話しますね。えっと、私は人付き合いが苦手で友達も少ないんですけど、七海ちゃんの助けもあって頑張ったから今ここにいます。」
つばめが隣を見上げると解と目が合った。解が今日一日つばめを気にかけていたことをつばめは知っていた。今も歩調を合わせ、転んだりしないか気をつけてくれている。そんな解は本当の彼氏のようで、愛情が分からない人には見えなかった。
「今日は人生で初めてのデートでした。男の人と一緒にご飯を食べてお話しするなんて最初は不安でした。でも先輩は私が遅れても怒らずに服を褒めてくれました。動物園でも嫌な顔一つせず私を待ってくれて、お弁当も一緒に食べて、買い物も付き合ってくれて…。先輩は謝ってましたけど、痴漢を退治したのも格好よかったですよ。」
「どれも言ってもらえるほど大したことじゃない。誰でもできることだ。」
「そんなことないです。先輩だからできるんですよ。…今日のデートは楽しかったです。本当のデートもきっとこんな気持ちだと思います。どきどきしたり、嬉しかったり、時々悲しくなったり。恋愛をするとどんな気持ちになるのか分かった気がします。これが今日私の分かったことです。」
解はつばめの話を聞いて感心していた。自分に比べて目的のものを得たつばめはすごいと思った。…誰ともなく断っておくが、今日が無駄だったとは思わない。もしそう思うならつばめに失礼だ。今日はつばめとデートをして、恋愛についての新しい知見は得られなかったが互いを知った貴重な日だった。解はそう思うことにしたが、それが今の解の限界だった。
「ありがとう。勉強になった。…何というか、悪いな。こんな先輩で。」
「そんなことないです。七海ちゃんの言葉を借りれば、素敵な先輩ですよ。」
何度言われてもやっぱり褒め過ぎだと思ってしまう解だった。
その後二人はお互い言葉少なにつばめの家に向かって歩いた。本当は公園で解散だったのだが、色々あって遅くなったので家まで送ることになったのだ。
「…。」
「…。」
静かだ。解は普段積極的に話すことはないが、こうして二人きりだと話さないと相手に失礼かもしれない。そう思い解から話してみることにした。
「二人とも黙っていると暇にならないか?」
話題があるわけではないので直球だった。しかし、つばめは戸惑うことなくくすりと笑って穏やかに返した。
「でも、動物園の時や電車の中はそれほど話してなかったですよ?」
「…そういえばそうだな。」
なら自分は何が気になったのだろうか。歩いているだけだから暇だったのだろうか。解が自問していると、つばめが再び話し始めた。
「その、喋ってなくても何となく一緒にいて居心地がいい時ってあると思うんです。私はそんな時間、嫌いじゃないです。」
「そうか…。なら、むしろそんな時間を邪魔してしまったな。悪い。」
「い、いえ、喋ったら駄目って意味じゃないので…。」
天然ぼけ、あるいは鈍感な反応をする解につばめは慌ててフォローに入った。しかし、しばらくすると何か思い出したのか、つばめは急にふふふっと笑い出した。
「急にどうしたんだ?」
「す、すいません、急に笑い出して。先輩のことを考えていて…。」
「え?俺の?」
「あっ、悪い意味じゃないですよ?先輩は本当に不思議だなあって。」
「不思議、なのか?俺が?」
「はい。噂では不良と言われてたので、いくら七海ちゃんに言われても少し怖かったんです。でも実際は全然違いました。」
「喧嘩はよくしていたから、不良扱いも仕方ないんだがな。」
「その喧嘩も痴漢の時みたいに理由があったんじゃないですか?」
「まあそうだな。話し合う余地がない奴としか喧嘩はしない。」
「ですよね。喧嘩に強いのに不良じゃない、料理が得意、落ち着いてるのに時々面白い。こんな風に先輩はいい意味で不思議なところがある楽しい人ですよ。自分では分からないかもですが。」
「そうか…。まあ、それならいいか。そのままで。」
そういうところが不思議で面白いんですよ、とつっこみそうになる自分を抑えた。代わりに思っていたことを話すことにした。
「思ったんですが、先輩は愛情が分からないじゃなくて、愛情に気付いてないだけなんじゃないでしょうか?」
「気付いていない…。その根拠は?」
「ええと、相手を何とも思わない人は先輩みたいに優しくなれないと思うんです。先輩はその、人類愛とか隣人愛?みたいな、広い意味で人が好きなんじゃないかと。今日一日で思っただけですけど…。」
「十分意味はあるぞ。しかしそうか。個人への愛情はまだだが『人間』に対する抽象的な愛情を先に持っている、か。興味深いな。」
解は顎に手を当て一人考えに入ってしまった。しかし、考えている間もつないだ手は離さなかった。つばめは手を引かれながら解の横顔を盗み見た。その時ふと七海の言葉を思い出した。
『考え事をしてる先輩はかっこいいんだよ!何ていうか、哲学者みたいでね。ずっと見ていられるんだよ。』
(ずっとは七海ちゃんだけだけど…。)
格好いいのは確かだね、とつばめは心の中で七海に答えた。
話をしているうちに解達はつばめの家、というかマンションに着いた。マンションの前でつばめは深く頭を下げた。
「今日はありがとうございました。繰り返しになりますがとても楽しかったです。迷惑ばっかりかけておいてなんですが…。」
「俺の方こそもの知らずで悪かった。まあ、杉崎が楽しかったならよかった。」
「…あの、先輩は楽しかったですか?」
解の言葉を聞いて、つばめは不安そうな声を出した。解はつばめの質問に一瞬言葉を詰まらせ、それからつばめの目を見て静かに答えた。
「楽しかったかも、と言うのが限界だ。俺は愛情を知りたいが、自分の喜びや楽しみには全く興味がない。だから杉崎が楽しければ十分なんだ。…それで許してほしい。」
「い、いえ、そんな謝らないで下さい。先輩は何も悪くないですから…。」
つばめはそう言うと考え込んだ。その様子は残念そうでも悲しそうでもなかった。
つばめが考えていた時間はわずかだったがゆっくりと顔を上げた。何かを決めた力強い顔だった。
「あの、先輩が楽しいことに興味がないっていうのはどうしてですか?」
「どうして、どうしてか…。考えたことがなかったな。必要ないから、だろうか…。」
「あの、今日先輩といて思ったんですが、先輩は自信がないというか、自分が嫌いだったりしませんか?だから楽しいことに興味がない、いえ、自分が楽しむことが嫌いなんじゃないでしょうか。」
「自信がなくて、嫌い…。」
解は意外そうな声を出した。自信。確かに縁遠い言葉だ。勉強や喧嘩、家事の能力は適切に理解し使う道具でしかない。容姿には興味がなく、人格は明らかにヒトとして未熟だ。つまり欠陥品だ。ただ、欠陥品に自信はないが、劣等感もない。性能や立場が違う他人と比べても意味がない。解の考えは、自信も劣等感も必要ない。自惚れも他との比較もせず、自分の力を冷静に的確に評価し努力を重ね目標に至ればよい。故に喜びも楽しみは不要だ。
つまるところ、解は自信がないというより自分に下す評価が低いといえる。楽しむ暇があるなら努力して自身を向上させろと言いたいくらいだ。ただこれは向上心だけではなく、嫌悪感も混ざっていた。
(…俺は俺が嫌いなんだな。)
解は今初めて自身の内面に気づいた。目からうろこが落ちた気分だ。自己愛がないのではなく、自分のことが嫌いだったとは。だが、いつから、なぜ嫌うようになったのだろう。
解が深く考えそうになったその時、正面から柔らかいものが当たってきた。
「…杉崎?」
「あまり見ないで下さい。恥ずかしいですから…。」
解のすぐ胸元からつばめの声がした。つばめがなぜか抱きついてきたらしい。解はわずかに驚いたが、落ち着いてつばめの言う通り下を、つばめを見ないようにした。
「急にどうしたんだ?」
「ええと、その、先輩へのご褒美?です。」
「?」
解は抱きつかれると何がご褒美なのか分かっていなかった。分かるのは自分よりつばめが柔らかいことくらいだ。幸いつばめからは解の顔が見えないので、解の頭に浮かぶ疑問符はばれずに済んだ。そんなぼけた解とは違い、つばめはどきどきしながらもしっかり話すつもりだった。
「私は先輩をほとんど知りませんが、先輩は今日だけでもすごく頑張ってました。努力してる自分を褒めてあげられませんか?」
「…そう言ってくれるのは有り難いんだが、ヒト以下の俺が努力するのは当前だ。当たり前のことをしても努力とは言わないと思うぞ。」
嫌悪感を理解したからか、解は明確に自分のことを卑下した。今の自分の発言でつばめが何を思うかなど考えもしなかった。
「…なら、今の私はどうなるんですか?そんな先輩とデートをして抱きついている、人以下の女の子なんですか?」
「そんなわけがない。杉崎は何もおかしくない。怒らせたのなら本当に悪かった。」
つばめが固い声で言ったことに解はすぐに反応して謝った。しかし、つばめを悲しませたのか、それとも怒らせたのかすら分かっていなかった。
「…先輩。人は嫌いな相手に抱きつくと思いますか?」
つばめが解に抱きついたままぽつりと言った。いきなり話が変わったが、解は特に気にすることなく答えた。
「抱きつかないはずだ。基本的に嫌いな相手とは物理的接触を避けるからな。」
「はい。つまり抱きつくのはその人は相手が好きって意味です。会って間もない私が言うのもどうかと思うのですが、その、私も先輩が好きだってことです。」
「…それは、ありがとう。」
解は思わずお礼を言ってしまった。好意を向けられるのは有り難いことだが、どうしてつばめに抱きつかれているのか、そもそも今の会話の流れは何なのか、色々不明なままだ。
「ど、どうも…じゃなかった。それでですね、先輩が自分を嫌いでも、自分が色んな人に好かれていることは認めてあげて下さい。そうじゃないと、好きな人が悪く言われているみたいで、先輩を好きな人達が悲しみます。…私も悲しいです。」
「…。」
解はやっと話の流れが理解できた。抱きつくことで自身の好意を証明し、解には愛される価値があり、だから自分のことを卑下しないでほしい、ということらしい。…正直なところ、自分への嫌悪感が消えない以上全く卑下しないというのは難しい。ただ、つばめにここまでさせてしまったことが申し訳なかった。そしてつばめが言うように、自分の言葉が身近な人達を悲しませるのだとしたらそれは絶対に避けねばならない。
「…杉崎の言いたいことは分かった。だがとりあえず離れてくれ。ちゃんと話したい。」
「は、はい…。」
つばめが離れたので、解は改めてつばめを見つめた。つばめは自分のしたことが恥ずかしいのか、赤い顔で俯いていた。さっきまでの行動が嘘のようだ。…それだけ言わずにはいられなかったのだろうか。解はより一層申し訳なく思った。
「色々苦労をかけて悪かった。それと、好意を伝えてくれてありがとう。杉崎の言う通り、今後は自分を悪く思うのは控える。自分や友人、何より話してくれた杉崎のためにな。」
解は真剣な表情でつばめの目を見て言った。嘘偽りない言葉だった。解の言葉を聞いたつばめは赤い顔のまま頷いた。解がすぐ自らを好きになるとは思わないが、それでもいつかは好きになってほしいと思った。
つばめと別れた後に解はマンション近くの路地に入った。交差路で左右を見ていると後ろから声をかけられた。
「お疲れさん。今日は得られるものがあったか?」
「まあな。透矢こそお疲れ様。瀬奈と七海は帰ったのか?」
「二人は午前中には帰らせた。あいつらは元々お前達を見るのに反対だったからな。」
「お前は?」
「俺は人間観察が趣味なんでな。安心しろ、声は聞いてない。」
「本当に人間観察が趣味なんだな。」
別段怒ることもなく解は呟いた。不思議な趣味だが、そうした一つ一つが透矢を形作るのだろう。
早いうちにすでに解は透矢と瀬奈、七海を見つけていたが、解は透矢を止めることはせず、つばめに言いもしなかった。解としては透矢がついてくるのは自由だし、つばめに教えて彼女が不快になるのも防ぎたかった。
「自分が愛情を理解できてないのがよく分かった。他人の好意に気付かず、善意に自覚なく甘えていたんだな。」
「ほお…。お前にしては随分今更だな。真さん程突き抜けてないお前ならそんなもんだろ?」
「手厳しいな。まあ、その通りか。」
「周りの女達が優しすぎるんだ。ただ、そんな風にお前が馬鹿だから面白いんだし、あいつらも気にいるんだろうよ。」
「いや、愛情が分かっている人間の方が人に好かれるんじゃないのか?」
透矢はいつもの調子でくつくつと笑っていたが、解は透矢の言葉が気になって尋ねた。透矢には悪いが、今日は分からないことばかりなので助言を聞きたかった。
「何言ってるんだか。愛情の形に個人差があるのは知ってるだろ?おまえを好きな奴が他の奴を好きになるかどうかはそいつの勝手だよ。お前の質問は意味がない。」
「…そうか。悪いな、変な質問をして。」
「くっくっ。今日は随分参ってるじゃないか。杉崎は割と楽しそうだったのに。」
「デートが不快だったわけじゃない。…ただ、自分のふがいなさがよく分かったからな。」
相手の気持ちが分からず、行動の意図を汲めない。自分自身すら把握できていない。しかし、透矢は落ち込む解ににやりと笑いながら声をかけた。
「まあそう言うな。さっきも言ったがお前は霧谷や川野辺、堤先生に好かれてるだろ。未熟なお前にも価値があるってことだ。」
「…今の俺でも人に好かれる、認められる要素があるってことか?」
「そうとしか言えないだろ。どこがいいかは知らないがな。」
透矢は笑いながら解の肩を数回叩いた。
「くくっ。誰かに好かれるのはいいことだ。悩んで苦しめ、親友。それがお前の成長の糧であり原動力だ。俺も楽しませてもらうし、協力してやるからな。」
「すでに助かってるぞ。お前のようにはっきり言ってもらった方が俺にはありがたい。ありがとう。」
「ああ。」
解は周囲の人々のありがたみを改めて噛みしめていた。
(注!:閲覧には記載者の許可が必要。)
黒条解と杉崎つばめのデート
友情と恋愛、そしてそれらが共存する状況を調べる、そして漫画を描くにあたり恋愛を知るために今回のデートは行われた。
振り返ると今回は自分の失敗が多かった。遅れた相手への気遣い、エスコートを忘れていたこと、相手を置いて痴漢の対処をしたこと、失言の数々。何度も相手に不快な思いをさせたことは謝罪するしかない。また、前回とデートとの違いはよく知る相手ではないことだったが、前回は知った相手だからこそ許容された部分が大きかったと考えられ、七海には感謝しなければならない。とにかく、今回は自分の未熟さを学ぶ回になった。
今回愛情について考えたことは二点である。
一つは隣人愛についてだ。杉崎に「愛情に気づいていないのではないか、人間と言う広い範囲を好きなのでは」と指摘された。隣人愛は真曰く見知らぬ他人への愛情である。それは自分と利害関係のない相手へのもので、原則愛されるという見返りを求める他の愛とはやや質が異なる。隣人愛を理由とせず他人に優しくするのは利己的、機械的、あるいは気まぐれが理由として考えられる。自分の内面を考えると機械的なだけではないかと思うが、周囲が指摘するように自分には身勝手な人を許さない心、善良な人には望む生き方をしてほしいと願う心がある。それらは漠然としているが、それ故に隣人愛という抽象的な愛情から生まれていることが示唆できるのではないか。
二つ目は自己愛について。自分を大切にする、自分の在り方を認め愛するということだが、自分が持たないもの、必要としないものだった。これも今回杉崎に指摘された「自分のことが嫌いなのではないか」とのことから考察が始まっている。自分への嫌悪感を初めて自覚することになったが、これは即ち自己愛を持ち得ることの証明でもあった。嫌いであるということは、状況によっては好きになるということだ。自己愛を持ったとしても自分自身のメリットになるとは思わないが、自分を卑下しなくなることで周囲が不快な思いをしなくて済む可能性がある。それならば嫌悪感を克服し自己愛を理解し持つこともよいと考えられる。
今回得られたことは二点だった。自身の未熟を思い知ったが、成長にもつながった。ただ何より、助けてくれる周囲に感謝をしなければならない。
◇月〇日 愛情研究会レポート




