No.2
「さて、同好会として最初の活動だが、何する?」
透矢がにやにやしながら言った。同好会活動初日であり、顧問の始音含め全員が集まっていた。
「はい!」
元気よく七海が手を挙げた。
「みんなで自己紹介をしましょう!」
「え、いまさら?」
「今だからですよ、瀬奈先輩。自己紹介をして、その後で色々質問するんです。そうしたら、お互いがもっと分かるんじゃないかと思ったんです。」
「面白いんじゃない?なら、質問は基本絶対に答えるようにしましょう。その方が面白いから。」
「始音先生…。それ、大丈夫ですか…?」
女性陣は仲がよさそうだった。いつの間にか呼び方も変わっていた。
「なら最初の活動は自己紹介か。順に端からするのが分かりやすいな。じゃあ川野辺。」
「はい!」
透矢がまとめると解はタブレットを出し書く準備を整え、七海は元気よく返事をして立ち上がった。
「川野辺七海です。夢は美容師になることで、高校を卒業したら専門の学校に行くつもりです。趣味は髪のセットとか、ファッションの本を見ることです。」
「ああ、だから俺の髪を触りたかったのか。」
「もう進路を決めてるなんてすごいね。」
「あなたたちも見習わないとね。じゃあ質問だけど、何で美容師になりたいの?」
「お父さんが美容師をしていて、家族の髪を切ってくれたんです。皆で準備したり、試しに切らせてもらったりして、それが楽しくて。美容師になって色んな人や家族に喜んでもらいたいんです。」
「「へぇー…。」」「ほお…。」「…。」
多くの人は七海が話す理由に納得するだろうが、透矢は違った。透矢は七海を静かに見つめていたが、ふいに声をあげた。
「じゃあ俺も質問だ。川野辺はもし美容師以外になるなら何がいい?」
「美容師以外、ですか?えっと…。」
「考えたことがない、考えたくないんじゃないか?」
透矢の質問を聞いて七海は心臓が跳ねるのを感じた。美容師になりたいし、絶対になるつもりだ。そして、透矢の言う通り、美容師以外にはなりたくない。それも絶対に。
「大丈夫?」
「えっ。」
急に考え込んでしまった七海を心配して瀬奈が声をかけた。はっとなった七海は少し慌てていた。
「は、はい。すいません、私、他はちょっと考えられなくて…。」
「すまなくないよ、七海ちゃん。ちょっと茅野君、後輩を困らせないでよ。」
七海が明らかに元気をなくしてしまったので瀬奈は透矢を注意したが、透矢は手でなだめる仕草をしながら余裕の笑みを浮かべた。
「いやいや、ここは愛情を考える会だぞ?愛情は心なんだから、考えさせて自分の心を見つめた方がいいだろ。」
「そんな意図があったんですね…!」
感心する七海に対してただの意地悪ではと疑う瀬奈。始音は対照的な七海と瀬奈を楽しそうに見ていたが、よしと立ち上がった。
「次は私ね。堤始音、英語担当教師。アメリカに留学してて、あっちでも教師をしてたわ。その後日本に戻ってきて面倒くさい手続きを経て先生になりました。趣味は食べ歩きかしら。後は…好きな男性のタイプでも言いましょうか。しっかりしてるけど少し変わってる、面白い人ってところね。」
「なんだか大人の雰囲気です…!」
何に感心しているのか分からない七海を横目に解が感想を言った。
「食べ歩きが趣味なのに太らないんですね。」
「なあに、黒条君。文句でもあるの?」
「いや、何も。」
「あはは…。」
困った顔で瀬奈が笑ったタイミングに合わせる形で透矢が片手を上げた。
「よし、また俺な。先生にとって愛情とは?」
「茅野君は変わった質問をする役なのね。うーん、そうね…。」
透矢の質問に真面目に考える。考えさせられるというか、自分が今ここにいるという現実につながり得る、面白い質問だ。教師の立場上知ってはいたが、やはり透矢も変わった青年だ。
「私にとって愛情は戦いよ。善悪はなくて、競争相手と愛する対象、そして自分と戦って得られるもの。そんなところね。」
「へえ…さすが先生。しっかりしてる。」
意味ありげに笑う透矢に対して余裕の表情で返す始音。透矢の質問の意図も始音の返答の意味もよく分からなかったが、始音の意見は始音らしい、正々堂々としていて清々しいと感じた。と、解が始音に感心している隣で瀬奈が手を挙げた。
「あ、なら私も質問いいですか?」
「いいわよ、霧谷さん。」
「はい。なんで先生になろうと思ったんですか?」
「そうね、色々あるんだけど…若いってそれだけで価値があるでしょ?で、その価値ある時間と自分を無駄にしてほしくなくて、力になれたらいいなって思ったの。」
「さすが始音先生、格好いいです。」
瀬奈は尊敬の目を始音に向けていた。
「…。」
一方で解は若干疑いの目を始音に向けていた。いつも銭湯で会話する始音はかなりざっくばらんで時に雑なところも見せる女性だ。学校での始音と大分違うせいで信じてやりたいのに今一つ信じきれない自分がいた。…だが、解の考えがばれているのか、始音は解を笑顔で睨みつけ、返り討ちにした。解の隣で透矢は笑っていた。
「じゃあ次は私ね。」
他に質問が出なかったので瀬奈は小さくよし、と気合を入れて自己紹介を始めた。何度もやってきたことだが、今回はできるだけいつもと違うことを言ってみようと思った。
「霧谷瀬奈です。イギリスと日本を行き来して生活してました。英語は得意だけど別に好きってほどじゃなくて、むしろ日本語の国語の方が好きです。趣味は英語なら推理小説、日本語なら恋愛小説を読むこと、かな?好きなことは温泉とか銭湯を巡ることだね。」
「毎度どうも、だな。」
「それ言わなくていいよ⁉」
「どういうことですか?」
瀬奈は慌てて解を遮るが、七海が首をかしげて尋ねた。始音が授業中のような口調で七海に説明した。
「黒条君は銭湯で働いてるの。で、霧谷さんが黒条君に会いに行ってるってこと。」
「お風呂に入りに行くだけです!」
「俺は霧谷と話すのは嫌いじゃないぞ。色々話してくれるしな。」
「ここでそんなこと言わなくていいから!」
瀬奈は右に左に忙しそうだった。解としては自分といて嫌がることもないからありがたい、と言おうとしていたが遮られてしまった。
「さすが、優等生は大変だな。」
安全な位置で茶化してきた透矢に瀬奈はじとっとした目線を送り言った。
「じゃあ茅野君、質問は?どうせ私にもするんでしょ?」
「ああ、もちろん。霧谷に聞くのは『自分が胸を張れるくらいに自信を持っていること』だ。何かあるか?」
「自信のあること…?」
瀬奈は顔を曇らせた。勉強も運動も普通以上にはできる。性格も問題ないと思うし、見た目も多分問題ない。ただ自信があること、しかも胸を張れるほどと言われると何も思い浮かばない。趣味や好きなことは自信があることではない。今思えば透矢が言った「優等生」という言葉が自分への痛烈な皮肉に感じられた。
「霧谷、大丈夫か?」
「あ、ごめん。自信があることってなかなか思いつかないね…。」
解は瀬奈に声をかけた後に透矢を見た。正直なところ、解は透矢に感心していた。今までの透矢の質問は確実に相手の心に影響を与えている。よほど心について造詣がないとできないことだ。ただ…。
「お前の観察眼が確かなことはよく分かる。ただ、それなら川野辺や霧谷が答えられないのも予想してたんじゃないか?」
解は透矢を責めるつもりは全くない。しかし、透矢なら相手が困らない言い方ができるはずだ。そして解の言葉が事実だったのか、透矢は少し後頭部をかいた後、瀬奈達に頭を下げた。
「確かにそうだな。悪かった、霧谷、川野辺、堤先生。答えられるかどうかのぎりぎりを狙いすぎた。」
「う、うん。大丈夫。」
「いえ、気にしないで下さい。」
瀬奈も七海も別に透矢を悪く思ってはいなかった。ただ透矢が自分の暗い部分を的確についただけだ。透矢は善悪なく相手の内面を気づかせるのが目的だったのだろうか。ところで始音だけは透矢の言葉で動揺しなかったので、特に返事はせず笑顔で解達を見守った。
「重ねて悪かった。まあ、ずっと謝っていても進まないし、俺が自己紹介するか。茅野透矢。時々夕方に酒屋でバイトをしてる。暇なときは格闘系、パズル系とかのゲームをするかな。で、趣味は人間観察だ。」
「人間観察?」
聞いたことのない趣味に解は首をかしげた。解の呟きを質問と理解し、透矢は答えた。
「学校や駅前で人の動きを見るだけだ。その人間がどんな格好や表情か、どんな歩き方で何を目的にしているか。じっくり見てると色々と分かってくるんだよ。」
「見てどうするの?」
「特に何も。何の意味も価値もない、無駄な行為だからこその趣味だな。」
瀬奈からの質問に透矢は軽い調子で肩を竦めた。自分で趣味と言ったことを無駄と断言する透矢に解は計り知れないものを感じた。透矢は解の想像よりずっと様々なものを見て考えてきたのだろう。瀬奈も透矢の何かしらを感じとり、少し躊躇いがちに尋ねた。
「多くの人を観察してきたから、今日みんなにしてるような質問ができたってこと?」
「そういうことだな。まあ、俺のことはどうでもいい。どうせつまらないものしか出てこないからこれくらいにして、締めに入ろうぜ、黒条?」
解は話を振られたので最後の自己紹介をするために立ち上がった。…どうでもいいが、なぜか今までの人以上に見られている気がする。
「黒条解だ。銭湯で働いていて、家では家事全般をしてる。…ええと、後は何を言えばいいんだ?」
何を言うべきか困っている解は少し子供っぽかった。七海は解の様子を見て手を振った。
「なんだか可愛いですね、先輩。あの、どうして銭湯で働いてるんですか?瀬奈先輩みたいにお風呂好きなんですか?」
「いや、銭湯は元々義父の黒条真が所有者で、今は俺が相続したが経営は人に任せているんだ。働く理由は学費や生活費を稼ぐため、それと銭湯を手伝うためだ。」
「あの銭湯、黒条君のものだったのね。」
「俺も興味あるな、その銭湯。」
「学費や生活費を自分で出してるんだ…。」
「え、じゃ、じゃあ先輩って社長さんなんですか?」
にわかに部屋がざわつくが、全く気にすることなく解は返事をした。
「形だけならそうだ。とはいえ、俺はただのアルバイトにすぎないぞ。」
「ふわー。そうは言ってもす、すごい…!」
「いきなりの新事実だな。さすがだ。」
「じゃあ私も質問するね。正解の「解」で「かい」は珍しい名前だと思うんだけど、どんな意味があるの?」
「ん?そうだな、確か…。」
瀬奈に聞かれると解はしかめ面で顎に手を当てた。そして、解は何か閃いたようでタブレットを操作し画面を見ながら話し始めた。
「義父が名付けたんだ。『多くを理解し、様々な問題を解決できるように』という意味らしい。教えてもらったんだがすっかり忘れてたな。」
「よく考えられてるじゃないか。面白い親父さんだ。」
「義理だけどな。」
その時、会話を黙って聞いていた始音がそっと手を挙げた。
「じゃあ私からも質問。でも、最初に言ったことと反するけど答えなくてもいいからね。その、妙にお父さんが義理なのを強調してるけど、どうして?」
「ああ、俺も気になってた。毎回『義父』だし、今もわざわざ付け加えたしな。何か意味があるんだろう?」
始音の疑問に透矢も続いた。解は始音達に頷くと話を始めた。いつもの落ち着いた、ややもすると淡々とした口調ではなく、昔を懐かしむような穏やかな口調だった。
「それも義父…いや、もう真でいいか、真が俺と会ってすぐ、5歳の時なんだが、その時言ったんだ。『俺はお前の父親になったが本当の父親ではない。俺は父親が何かを知らないし、なるつもりもない。俺は異常とされるまま、お前が一人でも生きられるように育てるだけだ。だから俺を父と呼ぶな』だ、だったか。…本当は『義理』をわざわざつけなくてもいいんだが、何となくつけないと落ち着かなくてな。」
解は真を思い出して苦笑していた。今の話だけ聞くと嫌な思い出になってもおかしくなさそうだが、解には良い思い出らしい。解が苦笑であっても感情を表に出すことは珍しく、瀬奈はそんな解を不思議そうに、だが下手なことを言わないよう慎重に言った。
「お父さん、いや真さん?って、すごいというか、変わった人だね…。」
「そうね。随分難しい話を子供にしたのね。」
「真は子供だからといって言い方を変えたりはしなかったからな。」
「でも先輩は言われたことをちゃんと覚えてて、えと、真さんが好きだったんですね。」
「好きかと言われるとよく分からないが、少なくとも俺は真が義父で良かったと思ってる。」
「そうかそうか。その真さんにも興味があるが、今は解の話に戻るか。俺も一つ質問があるしな。」
そう言って透矢は意味ありげな笑顔を浮かべて一同を見渡した。
「また難しい質問する気でしょ?」
「先輩を困らせたら駄目ですよ?」
瀬奈と七海が注意したが、透矢はまあまあ、と答えつつ笑いながら言った。
「愛情同好会にとって今日一番大事な質問だ。そもそも自己紹介がなくても聞くつもりだったしな。」
「いずれは聞くつもりだったんだな。なら教えてくれ。」
心の準備をした解に透矢は切り込んだ。
「俺が聞くのは一つだけだ。黒条、お前は俺たちを友人だと思っているか、だ。」
「…!」
解は驚いて目を見開いた。その質問は始音と話して以降、自身への問いとして考えていたことだった。
「私たちが友人かどうか…?」
「ってことは、先輩は、私たちを友達だと思って、ない…?」
「…。」
瀬奈と七海は軽くショックだったのか静かになってしまった。始音は以前解自身から聞いていたので驚かなかったが、透矢が持つ解の心の問題が分かる観察力と躊躇いなく聞ける胆力に驚いていた。そんな透矢は落ち着いた笑顔で皆をなだめた。
「まあ落ち着けって。俺の見立てでは黒条は友達が何なのか分かってないだけで、俺たちをどうでもいいとは思ってないはずだ。だろ?」
「…ああ、それは勿論そうだ。」
解はまだ動揺していたが、それでも自分の思いを自分なりに伝えなければならないと感じていた。
「ここにいる全員はこんな俺に付き合ってくれている。そもそも、小さい頃から学校で誰かと話すことなんてなかった俺からすれば、お前たちは特別以外何でもない。それは間違いないはずだ。」
いつもより少し早口で解は説明した。皆に不快な思いはさせない、その一心だった。解の平時の落ち着き老成した姿は鳴りを潜め、今の解は弱さを持った普通の青年に見えた。そんな解をなだめるように始音は優しく言った。
「大丈夫よ、黒条君。焦らなくていいわ。ゆっくり自分の考えを話せばいいのよ。」
「そうだよ、黒条君。」
「そうですよ、先輩。」
瀬奈と七海は解の話とその様子から落ち着いてきたようで、解が安心できるよう励ました。
「ありがとう。…色々考えたが、結局お前たちは俺にとって友人なんだと思ってる。ただ、友情とは何かも答えられない俺が誰かを友人と思っていいのか、そもそも俺に友人がいていいのか…分からないことが多くてな。」
解は自分の考えと思いをできる限り分かりやすく説明した。一生懸命な解の話を聞いて(実際は聞かなくても同じだったが)、全員が解をフォローする側に回った。
「大丈夫ですよ、先輩。それをみんなで考えるために研究会があるんですから!」
七海が両手を握り力強く言った。
「そうだな。俺もお前を苦しめたいんじゃない。遊撃役だからな、次回のテーマを提案して問題を解決するまでが俺の役割だ。」
透矢は先々まで考えているようだが、瀬奈には透矢の言いたいことが全く分からなかった。
「次回のテーマとか問題を解決って、何?」
「次の愛情研究会の議題だよ。まず『友情の定義』を考えて、『黒条が俺達を友人だと思える』のを目標にするぞ。」
友愛の定義
友愛(友情とほぼ同義語)とは「友人間における感情」が語意だが、友人も「友情を感じる間柄」が語意であり、互いに相手を参照する歪な関係となっている。それはつまり、それ以上の定義がない以上、友人と友愛を正確な言葉で定義するのは不可能といえる。
実のところ感情は感覚的なものであるため言語化できない部分があるのは当然で、そのため友愛も非言語的意味を持ち、それが定義を曖昧なものとしていると考えられる。
上記を承知した上で考察を続けると、友人とは共にいることが多い。そして友人がいることで精神は正の(肯定的な)感情を抱く傾向がある。友愛と恋愛との関係、血縁親類間での友情成立の可否などの問題を無視すれば、友人とは共にいて互いに快を感じられるもの、と曖昧ながらも表現できる。
真 記載
愛情研究会二回目の会のため、解たちは研究会室に集まった。テーマは前回透矢が提案した「友情の定義」である。始音は会議で遅れるため不在だが、今回は全員がそれぞれ考えてきたことをまとめるのが目的だった。
「それにしても、名前に似合わない真面目な同好会だな。」
「部活動は真面目にするものじゃないのか?」
「まあ、その通りではあるな。」
解と透矢はのんきに話していたが、咳払いした瀬奈がちらっと見てきたため二人は無駄話を止めて居住まいを正した。書記役の解はタブレットを用意して準備を整えた。
「では、各自考えてきたことを発表してもらいます。」
今回は副会長の瀬奈が議長役だ。本来なら会長の七海がするのだろうが、自分では力不足とのことで、まずは瀬奈が仕切ることになった。
「では、まず七海ちゃん。」
「はい!」
最初に挙手し発表することになった七海は勢いよく立ち上がった。
七海はやる気に満ちていた(いつも元気なので周りからは同じだったが)。前回は自分が提案した自己紹介が行われたが、今ひとつ話ができなかった上、今回は瀬奈に仕切りを代わってもらったのでなおさらやる気だった。
「愛情って、理屈で考える部分と理屈で説明できない部分があると思うんです。私はあまり頭がよくないので、理屈じゃない方を考えてみました。そして、説明できないものを分かるには行動あるのみだと思いました。」
「行動?」
キーボートを打ちつつ首をかしげる解に七海は力説した。
「はい、一緒に遊んだり、ケンカしたり、勉強したりです!そうしていれば自然と何か分かるんじゃないかと。」
「ふむふむ。それが七海ちゃんの意見だね。えっと、まずは皆の意見を聞いて、それから細かく考えるのがいいと思うんだ。だから七海ちゃんの意見への感想は置いておいて、次は私が話してもいい?」
「いいぞ。」「ああ。」「大丈夫です!」
同意を得て瀬奈は自分の発表に移った。
「確認なんだけど、黒条君って今まで話をする同級生とかっていなかったんでしょ?」
「ああ、話しかけることもはなしかけられることもなかった。」
「ぼっちだな。」
「こんなに優しい先輩なのに、もったいないですね。」
「まあまあ。でね、それなら黒条君は純粋に経験が足りないと思う。友達になれそうな人と色んなことをして、友達かも?と思う』経験がね。友達って普通は自然にできるものでしょ?お互いが特に意識せず友達になれるのは、時間と経験を共有してなんとなく仲良くなるからだと思う。だから、実は私も七海ちゃんと同じ意見。私たちと色々やってみるのが一番いいと思ったんだ。」
瀬奈はスマホのメモを見つつ、しっかりと意見を言った。自分が相手と友達かどうかなんて深く考えたことはなかったが、それで解が悩んでいるなら力になりたかった。
「いい感じで話ができてるみたいね。」
ドアが開き始音が入ってきた。始音はみんなと挨拶を交わした後、解のタブレットを横からひょいと取り上げ、書かれた内容を確認した。
「川野辺さんと霧谷さんは基本的には同じ意見なのね。じゃあ、私は言葉の方から攻めてみましょうか。」
「え、始音先生も意見を出してくれるんですか?」
目を丸くして尋ねる瀬奈に始音は笑った。
「簡単に、だけどね。友達は辞書には『似た考えを持つ似た立場の相手』とある。次に、友情は『友達への情』とある。かなり雑でしょ?これは結局、万人が認める友達や友情なんてないってこと。だから無理に意見をまとめなくていいと思うわ。黒条君にとっての友達を考えないとね。」
「なるほどね。個々人によって友人の定義が違う、か。ちなみに、先生にとっての友人って何です?」
「あ、そうね。私は単純に、友人とは一緒にいると嬉しくなる人、にするわ。恋人や家族と被るけど、そこは恋人かつ友人ってことにして。」
「分かりやすいですね。先輩はどう思いますか?」
「そうだな…。分かりやすいが、相手がいるだけで嬉しくなるのか?」
一緒に遊んだり食事をしたりしなければ嬉しくも何ともない気がする。実感が持てない解に七海は当然のことを言うかのように答えた。
「私は嬉しいですよ?家族といても、先輩といても。瀬奈先輩はどうですか?」
「私は、えっと…。」
「恥ずかしがるなって、こんなことで。」
「じゃあ茅野君はどうなの?」
「俺?俺は今の定義に当てはまらないな。誰といても嬉しくはないからな。」
「うーん。この同好会内では私の定義じゃ友達判定はできないみたいね。残念。」
解は会が盛り上がっていることに少し驚いていた。全員が考えて話していることは基本的には解のためであり、それはありがたいと同時に申し訳なくもあった。しかし、こうやってわいわい話しているところを見ると、皆が嫌々話しているわけではないことくらいは解でも分かった。もし全員が楽しんでくれるならよかったと思う。…相手が楽しいとよいなんて、上から目線だろうか?解が考えている横で透矢が片手をひらひらとさせた。
「俺もちょっといいか?…よし、といっても霧谷と川野辺と同じだけどな。俺も実際に色々やるのが一番だと思うんだが、追加があってな。友情、というか愛情は自分と相手がいて、双方向のものだろ。だから、お互いを考える必要があることとか、一体感を得られることの方が効果的だと思うぞ。」
「おお…!茅野先輩から同意がもらえるなんて、今日は私、冴えてたんですね。」
「おいおい、川野辺的に俺はどんな奴として扱われてるんだ?」
「え?えっと、なんだかすごい人です!」
「それ割と正しいと思う。思うけど、今は話を戻すよ。大体話が出たから黒条君に聞くけど、なにか思いついたりした?」
解以外全員の意見が出たので、瀬奈は解に意見を求めることにした。
「そうだな、俺は…。」
色々話を聞いたが友人とは何なのかはまだはっきりしない。真は「共にいて互いに快を感じられるもの」を友人としたが「快」が問題だ。真はそれを正の感情と表現した。始音は「嬉しい」としたが、解は感情の起伏が乏しく共感しにくい。なら「快」ではなく「快を感じる」を考えるべきか…?
「友人は『互いに良いものを与える人』だと思う。相手との関係が友愛の基本で、友人には嬉しいといったプラスの価値があり、そして俺に友人がいれば俺は友人にとっての友人だ。だから、自分と相手が互いにプラスに作用する関係と考えた。ただ、「良いまたはプラス」の定義がまだ曖昧だから、霧谷達が言うように何か一緒にやれば分かるかもしれない。」
「『互いに良いものを与える人』かあ。それが先輩の友達の定義なんですね。」
七海が嬉しそうに言った。どうあれ解が自分の言葉で考えたことならそれでいいと思った。難しいことは分からなかったことは秘密だ。
「よーし、話はまとまったね。次は話に出た通り、みんなで何かしてみようか。何がいい?」
瀬奈が聞くと、七海が元気よく答え、透矢はにやりと笑いながらも意見を出し、始音はそれを見守っていた。解は集まりの中にいることを実感していた。騒がしい空気の中、解の気持ちは穏やかだった。
解は今日も番台に立っていたが、今日は暇なので勉強していた。ところで、解が番台で勉強や読書、タブレットを使う等をするのは理由があった。以前、お風呂前後の女性の体を見るのはよくないと教えられたのだ。そして、何かすることで体を見ないように、見る時は顔を見るように、とも教えられた。今日も先ほど瀬奈がお風呂に入ったので、その教えを実践していた。
(お風呂前後だと何が良くないんだ?)
相変わらず解は理由が分かっていなかった。
考え中の解に風呂上がりの瀬奈から声がかけられた。
「今日はお疲れ様。」
「?お疲れ様。」
瀬奈は労ってくれたが解はそうされる理由が分からず、ぽかんとしたまま瀬奈の言葉を繰り返した。そんな解を見て瀬奈は苦笑した。
「もう、研究会のことだよ。色々考えて疲れたでしょ?」
「あ…いや、それほどでもない。」
疲れを否定しながら解は瀬奈を見た。いや、見つめていた。瀬奈は風呂上がりのイチゴミルクを飲んでいたが、解にじっと見られてそわそわしてきた。誤魔化すようにイチゴミルクを流しこんだところで解が口を開いた。
「銭湯にはイチゴミルクやコーヒー牛乳が必須と昔言われたんが、そんなものか?」
「えぇー…。」
瀬奈は緊張したのが馬鹿らしくなった。解の奇行は今に始まったことではないが、いきなり始まるからびっくりしてしまう。とにかく、気が抜けた瀬奈は苦笑いしながら答えた。
「まあ、レトロな風情があるよね。」
「霧谷が言うならそうなんだろうな。」
よく分からない信頼を受けて、瀬奈は嬉しいやらなにやら複雑な気分だった。だが、信頼されてるならと開き直り、瀬奈は気になっていることを解に聞いてみた。
「ねえ、黒条君は友情が分からないから考えてるんでしょ?やっぱり恋愛感情も分からない?」
「それはそうだ。むしろ恋愛が一番分からない気がするな。」
解は真っ白な頭を掻いて難しい顔をした。友人と恋人の好きの違いも分かっていないことを思い出していた。
「じゃあ、女の人を見てもきれいとか可愛いとかも思わない?」
「いや、それはない。霧谷や川野辺、堤先生がかなり美人なのは分かる。分かるんだがそれと愛情がつながらない感じだな。」
「ふ、ふうん…。な、なら、そんな美人といても何も思わないの?その、始音先生とは前から知り合いなんでしょ?」
面と向かって美人だとか言わないで欲しい。瀬奈は心の中でつっこみながらも顔が熱くなるのを感じていた。そして、ちょうど前から気になっていたことが聞けそうなので、瀬奈は緊張しながら解に尋ねた。解は意外そうに言った。
「え?堤先生が何か言ったのか?」
「いやいや、知り合いって聞いただけで、それ以上は知らないよ?」
焦った様子で説明する瀬奈の前で解は腕組みをして考えていた。
「言ってもいいのか…?他の人には秘密にしそうなものだが…。」
「秘密のことなんだ?」
「そうだな…。」
解はしばらく悩んだ後、すまなさそうに瀬奈に頭を下げた。
「やっぱり始音に確認しないと俺からは言えないな…済まない。」
「ううん、大丈夫だよ。私こそ色々聞いちゃってごめん。」
労いに来たはずが結局探りを入れてしまい、瀬奈は申し訳なく思った。それでも解が始音を呼び捨てにしたことはしっかり聞いていた。
解、瀬奈、透矢、七海の四人は昼休みに珍しく校庭にいた。全員手にグローブをつけていた。透矢はボールを持った手を上げ振った。
「よし、じゃあいくぞー。」
友人とは何かを理解するため、そして透矢達を解が友人と思えるようにするため、具体的な行動としてなぜかキャッチボールが選ばれた。互いを狙って投げる、受け取る、繰り返すの一連の動作はまさにコミュニケーション、とのことだった。しかし、透矢以外はグローブをつけたのも初めてだ。
「準備できたよー。」
「私もいいですー。」
「俺もいいぞ。」
三人が距離をとり準備したのを確認して、透矢はまず解にボールを山なりに投げた。
「そらよ!」
「はい。…?」
グローブからぽてっとボールが落ちた。思わず全員が落ちたボールを見た。
「悪い。取れなかった。」
ボールを拾いながら解は謝った。透矢が腕を振って返事した。
「気にするな。無駄に気をつかうのは友人じゃないぞ。」
「あんなにケンカが強かったのに、ちょっと意外。」
「球技はほぼ経験ないからな…。」
「ドンマイです、先輩!こっちにどうぞ!」
グローブをつけた手をぶんぶん振る七海に解は慣れない様子でボールを投げた。
「じゃあ、いくぞ?」
「はい!」
七海は距離が近かったお陰でうまくキャッチできた。存外運動神経はいいようだ。そのままの勢いで七海は瀬奈にボールを投げた。
「瀬奈先輩!」
「はーい。」
七海が投げたボールは少し方向がずれたが、瀬奈はうまく動いてキャッチした。
「すいません、瀬奈せんぱーい!」
「大丈夫ー。」
瀬奈は七海に答えながら、えいっとボールを投げた。透矢は難なくキャッチして笑った。
「どうよ、黒条。ボールと言葉のキャッチボールは?」
「相手のことも考えないとうまくいかないんだな。よし、来い。」
「よし、そら!」
「ああ。」
透矢の投げたボールは再び山なりに飛んで解の所に届いた。グローブに入ったボールは今度こそ落ちずにグローブ内に留まった。
「ナイス、黒条君!」
解はボールを落とさずに済んでほっとした。そして瀬奈の声援に目で応えたが、少し照れているようだった。
キャッチボールは昼休み一杯続いた。下手ながらも相手のことを考えたやり取りは解ですら気持ちのいいものだった。解は四人の中で最も下手だったが、励まされるとやる気が出るもので疲労感なく続けることができた。
(楽しかった、のかもしれないな…。)
解は教室に戻りながらぼんやりと考えていた。
「キャッチボールなんて初めてしましたけど、楽しかったですね!」
放課後、同好会室に解たちは集まっていた。そして七海は解の後ろに立ち解の白髪をいじっていた。解の髪の毛を触りたい欲求が我慢できなくなったらしい。
「川野辺は何でも楽しめそうだけどな。」
「私も結構楽しかったよ?」
瀬奈と透矢の言葉を聞いて、解もぽつりと言った。
「俺も楽しかったかもしれない。」
顧問として静かに見守っていた始音は解の言葉を聞いて嬉しくなった。古い馴染みとしても教師としても、解が少しでも感情を見せるのはいいことだと思った。
「黒条君がちょっとでも楽しめたなら大成功じゃない。じゃあ次に何するか、決めてるの?」
「俺に考えがある。」
透矢が自信満々に話し始めた。
「男同士の相互理解ならやっぱり喧嘩だろ。黒条がどれくらい強いのか、俺がどれくらいやれるのか、実は気になっててな。」
「喧嘩、か。」
「それって殴り合いってこと?」
物騒な話に聞こえて瀬奈は眉をひそめた。また停学とかにならないか心配になった。
「その通り、といっても俺と黒条は教師に目をつけられてるからルールがないとまずいけどな。堤先生の立場もあるし。」
「空手の試合みたいにってこと?それで友情が深まるなんてあるの?」
瀬奈が疑うような眼差しをする中、透矢はにやりと笑いながら説明した。
「漫画から考えたんじゃないぞ?戦う時は当然相手に集中する。もちろん相手も自分に集中する。その中で見えることもあるだろうってな。それと、やりあってる時は裏も表もないから、相手の自然な姿が見える。友人に偽りの自分は見せないだろ?」
「漫画とかである、『強敵と書いてともだちと呼ぶ!』ってやつですね?」
「川野辺、それは半分ギャグだからな?」
「うーん…。ちゃんと体裁を整えて、仲悪くなったりしないのならいいわよ。」
先生なのに始音は透矢の提案にあっさり許可を出した。生徒の自主性に任せる方針なのだろうが、さすがに全員が始音を見た。
「だ、大丈夫なんですか?怪我したりするんじゃ…。」
「もちろん怪我はNGよ?大怪我なんてしたら、どんなに試合だって言っても誤魔化せないわ。でも、この二人ならうまくやるでしょ。」
心配する瀬奈に始音は軽い口調で答え肩を竦めた。荒っぽいことは事実だが、校門での事件を見る限り解も透矢もある程度心得があるので大丈夫だろうと考えていた。それに、透矢が本気で戦う気なら恐らくこの場の誰も止められないだろう。
「…やってもいいが、俺の戦い方は相手を戦闘不能にする技術だ。危なくないか?」
解は目を閉じて静かに考えていたが、始音の発言を聞いて目を開けた。喧嘩が友愛の理解に有益かどうかを考えていたが、それもありかもしれないと思い始めていた。
「黒条は殴る蹴る投げる、何でもしてたからな。確かに、普通に戦ったら俺が完敗するだけで、それじゃ相互理解にならない。だが、こういうルールならどうだ?」
透矢は考えておいたルールを説明し始めた。提案から説得、そして実行。一連の流れが元から決まっていたかのように進ませる透矢の手腕に始音は舌を巻いた。
(悪いことにその頭を使わないでくれたらいいんだけど。)
先のことが少し心配になる始音だった。
結局、透矢の提案通り解と透矢が戦うことになり、早速全員で運動場に出ていた。透矢の提案でルールは以下の通りになった。
・顔と手は保護する。
・投げ、関節技は禁止。
・互いの距離を取り過ぎない。
・一方が負けを認めたら終わり。
プロテクターもグローブも透矢が持っていた。ちなみに高校にはボクシング部はなく、そもそも借りに行く時間などなかった。
「お二人とも頑張って下さーい!」
「ほんとに大丈夫かな…?」
「駄目だと思ったら降参するのよー。」
女性陣はそれぞれのやり方で応援した。下校する生徒や部活動をする生徒も何事かと解たちを見ていた。準備ができた透矢と解は向かい合って構えた。
「よし、じゃあ胸を借りる気で、本気でいくぞ?」
「ああ、どうせするなら俺も本気で行く。」
解が言い終わると同時に透矢が解の顔めがけて殴りかかった。しかし解は腕で防ぐと同時に透矢の下腿を蹴りつけた。透矢が痛みでぐらつくのを見た解は次に顔を殴ろうとしたが、透矢は無理矢理体勢を維持してパンチを防ぐと逆に解の横腹にパンチを入れた。解も一撃をうけて瞬間よろめくが、すぐに透矢の腹に蹴りで反撃した。ルール上二人は接近して状態を保っているので、互いにやられてはやり返すが続いた。
そして、かなり攻撃しあったところで解の前蹴りが透矢を吹き飛ばした。二人の距離があき、片膝をついた透矢はわずかに息をついた。激しい動きと痛みでかなり疲れているはずだが、興奮状態のためか疲れはそれほど感じなかった。
「ふうっ…。」
解も一旦息を吐いて力を抜いた。透矢は解が想定したよりはるかに頑丈で強かった。加えて、今回のルールは避けたり投げたり多くの手法で戦う解には不利な条件だった。だが、透矢に大きく有利ということもなく、解は透矢の意図にようやく気づいた。透矢は勝つ確率を公平にしたのではなく、この戦いがいい勝負になるようルールを作ったのだ。一度の戦いで解にできるだけ多く喧嘩という非言語的コミュニケーションの経験をさせるために。
(なら、簡単に負けるわけにいかないな。)
行動には行動で感謝を示そう。解は疲れと痛みを集中力で吹き飛ばし、起き上がった透矢に対して再び構えを取った。
「お二人ともすごい…!」
七海は二人の戦いを見て息を呑んだ。いや、七海だけでなく瀬奈も始音も、そして徐々に増えてきた野次馬達も、解と透矢の本気にあてられて戦いから目が離せなかった。しかし、瀬奈は心配そうに始音に尋ねた。
「始音先生、止めなくていいんですか?かなり本気になってるから怪我しそうで…。それに見てる人も増えてきてますし…。」
「うーん…。」
始音は難しい顔をしてうなった。確かに二人はまだ戦ってはいるが相当疲れている。無理をすると怪我の元ではある。そして観客、もとい野次馬が集まってきたのも事実だった。
「でもねえ…。」
職員間では完全に不良扱いの二人がここまで正々堂々本気で戦っている。正直、見ているこっちまでどきどきするくらいなのだ。それを止めるのは無粋ではなかろうか。そしてまだ大きな怪我はなく、他の教師が来る様子もない。始音は止める代わりに二人に向けて叫んだ。
「ちょっと!二人ともまだ大丈夫ー⁉」
「ああ。」「まだまだ。」
二人の返事を聞き始音は少し困った顔で、しかし笑って瀬奈を見た。
「もちろん心配はしてるけど、もうちょっと様子を見ましょう。二人とも心は落ち着いてるみたいだしね。」
「でも…。」
まだ心配そうな瀬奈をなだめつつ、始音は二人の勝負を見守った。
瀬奈と始音が話している間も解と透矢は一歩も譲らず殴り合い、蹴り合いを続けていた。透矢はもう限界が来ていたが、ここまで来たからには倒れるまでやらないとつまらない。
「くっ!」
季肋部を蹴った透矢の足が解に掴まれた。一気に解が近づき顔を殴り、よろめいた透矢の腹に拳を叩き込んだ。透矢は崩れ落ちる、かと思ったらいきなり解の胸ぐらを掴んで額に頭突きし、さらに顔を殴り返した。しかし、それが最後の力だったのか、透矢は殴った勢いのまま地面に転がり倒れた。殴られた解は大きくふらついたが倒れはしなかった。しかし、透矢が起き上がってこないと分かると、地面に座り込んで大きく息を吐いた。解もかなり苦しいところだった。
「あー、もう無理だ。俺の負けだな。」
「いや、俺ももう限界だから、引き分けじゃないか?」
「でも俺は倒れてるし、ルールもあったしな。負けは負けだ。」
「そうか…。」
男二人で話していると、女性陣が駆け寄ってきた。少し休んだ後、二人は保健室に連れていかれた。
保健の先生にはそもそも試合でも戦わない方がいいと注意されたが、怪我は打撲ばかりで大したことはなかった。とはいえ、打撲は多数なので、解と透矢は痛みの強いところを自らで冷やしていた。
「先輩達、すごかったですね!私どきどきしました!」
七海は二人の本気が伝わったのか感動していた。一方瀬奈は深いため息を吐いた。
「確かにすごかったけど、私は心配で疲れちゃった…。」
「二人ともすごかったけど、どう?仲が深まる感じとか、なにか得るものはあった?」
始音に尋ねられ解は答えた。
「茅野ができるのは知ってたが、改めてすごさを痛感したな。ある意味尊敬した。」
「お前にそこまで言われるとは光栄だな。俺は予想してた通りだ。さすが、俺が一目置く奴だ。」
「…仲良くなれたの?二人とも。」
「なったんじゃないでしょうか。お二人とも競い合う仲、って感じですね。」
瀬奈と七海の感想を受けて、透矢がまとめた。
「俺達二人だけじゃなく、女性陣も手当てを手伝って全体の親睦が深まっただろ。なら次は呼び方でも変えてみるか?女性陣はすでに変わってるから、主に黒条のを。」
透矢は早速瀬奈たちを巻き込んで呼び方の話を始め、それに参加しながら解は今日のことを考えていた。今まで解には友人がいなかったのでまともに球技をしたことがなかった。真も解と一緒に遊ぶことはなかったので、キャッチボールもやはり経験がなかった。だが、今は一緒にしてくれる人達がいて、解のために色々考えてくれさえする。それがどれだけ希少で大切か、少しだけ解は理解した。戦いに関しても、今まで解にとって殴り合いはいじめっ子や不良とするもので、良い印象など全くなかった。しかし、今回は戦った後に相手に敬意の念を持つほど相手のことを感じ取ることができた。事実、戦う前より透矢を身近に感じている。これは明らかに今回の殴り合いが解にとって有意義なものだったということだ。ただ、今回の試みで得たものはあるが、解自身まだ言葉にできない。ただ不思議な満足感があり、これこそが「良い」ことなのかもしれない。
(さすがに大変だから、何度もはできないな、これは。)
友情における非言語的交流の効果
友愛の非言語的意味を理解するため、非言語的交流をすることで友愛を感覚的に理解するという計画を立てた。今回、非言語的交流の実例として①キャッチボール、②格闘を行った。
①はボールを受ける側・投げる側が互いを見て声をかけ、捕りやすいよう相手のことを考える必要があるため、他者との交流という点で有益だった。②はまず互いの力量が拮抗し、互いに本気で戦えるよう条件を整える必要がある。しかし、相手の能力や性格を異なる視点から見直すきっかけとなった。見直した結果が相手を肯定するものであれば、非言語的交流として十分成立し得ることが分かった。しかし、②は自身の体にかかる負担が極めて大きいため、試行できる回数が限られるのは問題といえる。
〇月×日 解 記
外見変化と性格への影響
性格は愛情を形成する上で相手と己を評価、し行動する基礎となる。性格に影響を与えるものは多くあるが、比較的簡便な方法として外見の変化がある。
外見の変化として、髪型、化粧、服装、二重瞼や乳房といった形成外科的内容といったものがある。自身を理想の姿に修飾する努力と経験、変わった自分自身。これら全てが性格に影響を与えていると考えられる。また、この影響には性格の変容という永続的な変化、気分の変容という一時的な変化が存在している。そうした影響を受けて変化した性格によって新しい人間関係や価値が生まれる場合もある。外見の変化という簡便な方法もうまく用いれば有用と言える。
真 記載
「髪を切りませんか、先輩⁉」
そんな提案を七海にされてから数日後、解は同好会室で座らされていた。解の後ろには散髪の準備をする七海、前にはヘアスタイルに関する雑誌をみる瀬奈と透矢が座っていた。最近始音は忙しいらしく、同好会に来れないことが時々あり、今も不在だった。
美容師志望の七海に解の白髪はしばしば触られてきたが、ついに七海は本格的に髪をセットしたくなったらしく、散髪したいと解に言ってきた。髪の毛に全く興味がない解はあっさり了解し、瀬奈と透矢は面白がって見学を希望し今に至っていた。
「さあ、かっこよくしますからね、先輩!」
「あ、ああ、よろしく。」
首にタオル、ネックシャッターを巻かれ、髪の毛が濡らされてもまだ解は他人事のような感覚だった。小さい時は散髪してもらっていたが、ゴムでまとめるようになってからは本当に適当に切っていた。なので、七海の言う「髪をかっこよく切る」がさっぱり分からなかった。
七海ははさみを持ち解の長い白髪を切り始めた。しゃきしゃきしゃき…と音がして、解の白髪が床に落ちていく。さすが美容師志望なだけあって、七海の手つきは滑らかで手際が良かった。
「やっぱりマネキンとかで練習してるの?頭だけのあれで。」
「マネキンはあるんですが、かつらにお金がかかるので使わないんです。家族が練習台になってくれるんですよ。」
瀬奈の質問に七海は笑顔で答えた。解の髪を切るのがよほど楽しいようだ。瀬奈は七海をほほえましい気持ちで見ていたが、ふと解を見て声をかけた。
「黒条君、寝てるの?寝てると危ないよ?」
「…あ、寝てたな。悪かった、瀬奈。」
解は謝りながらもまたうとうとしていた。眠そうな解は子供っぽくて少し可愛らしかった。
「解君だろ、霧谷?呼んでやれば解も目が覚めるかもしれないぜ?」
「ハードル高いって言ったでしょ。」
「私は言えますよ?解先輩、なるべく頭は動かさないようにして下さいね?」
「うん…。」
喉の奥で笑う透矢と変わらず笑顔の七海、そしてやはり半分寝ている解。瀬奈はそんな三人の間で大きなため息を吐いた。
この前の会で透矢が提案したことで解の呼び方・呼ばれ方を変えたのだが、その結果に瀬奈はまだ躊躇いがあった。透矢に乗せられて同意したものの、いざ本人を前にすると普通に恥ずかしい。しかし、透矢と七海はあっさり解を名前で呼び、解は瀬奈達を躊躇いなく名前で呼んでいる。始音は立場上全員を名字で呼んでいるが、解が始音と呼ぶ以上実際には始音もそうなのだろう。要は、瀬奈以外はすでに解を名前で呼んでいた。
(でも、やっぱり「解君」はちょっと…。)
友人とはいえ男子を名前呼びするのは瀬奈の人生初のことであり、恥ずかしくて結局「黒条君」のままにしていた。
そんな瀬奈のもやもやに気付かないまま、七海は一生懸命解の髪を切っていた。
(かっこよく、でも手入れが簡単で伸びても変じゃないように…。)
七海は当然素人ではあるが、それを言い訳にしないよう努力を重ねていた。その努力の成果を解に見せて喜んでもらい、そして自分のきれいな白髪に興味を持ってほしかった。
(こんなにきれいなのに興味がないなんて、もったいないですよ、先輩。)
七海は心の中で眠る解に話しかけていた。
小一時間ほどして散髪は終わった。解は寝ていただけだったが、七海たちの話し声やはさみの音を聞きながらうとうとするのはとても落ち着いていて穏やかな気分だった。
「できましたよ、先輩。起きてください。」
七海の優しい声で解は目を覚ました。七海は解の身の回りをきれいにして、手鏡を解に渡し笑顔を浮かべた。
「どうでしょうか?なかなかいいと思うんですが。」
解は手鏡で自分の髪を見た。長かった白い毛は短くなりまとめる必要がなくなった。自分で短くした前髪や耳周りもうまく直されている。客観的に見てとてもよくできていた。
「…今までよりはるかにちゃんとしてるのは分かるんだが、違いすぎて違和感があるな…。」
鏡の中の自分は困ったような顔で解を見ていた。そんな風に困惑する解に助け船が出た。
「大丈夫だって。俺たちも口出したから、いけてるって。多分。」
「多分って、ちゃんと似合ってるでしょ。大丈夫だよ、黒条君。すごく格好いいよ。」
瀬奈と透矢に言われ解は納得したようで、いつもの落ち着いた表情に戻った。七海は掃除も手際がよく、あらかた片づけを終えていた。最後に自分の散髪道具を片付ける様子はいつもの元気な姿と違い、大人びてきれいに見えた。解はそんな七海の姿に目を奪われていたが、すぐに我に返り声をかけた。
「七海、今日はありがとう。大変だったろうから、お疲れ様。」
「いえ、すごく楽しくできたので、私の方がむしろありがとうです!あ、でも先輩、毛が落ちるので頭はなるべく触らないようにして下さいね。あと、帰ったら早めに頭を洗って下さい。それと…」
七海の説明が長くなりそうだったので、透矢が話の切れ目に上手く割り込んだ。
「お節介な彼女みたいだぞ?」
「か、彼女だなんてそんな…。」
透矢の言葉に七海は赤面してうつむいた。そんな七海をフォローするように解は言った。
「俺を心配してくれるのはありがたいと思ってるぞ。ところで、何かお礼をしたいんだがまたお菓子とかでもいいか?」
「あ、なら私はチョコのやつがいいな。」
「解は霧谷にお礼するんじゃないぞ?」
「わ、私もチョコは好きです!」
「チョコレートか…。」
髪を下級生に切ってもらうことは生きていてなかなかない貴重な経験だろう。七海の厚意、瀬奈と透矢の協力に感謝しつつ、チョコ菓子は何がいいだろうかと解は考えていた。
「今日はそんな感じだったのね。うん、七海ちゃんのお陰で随分男前になったわね。別に今までも格好よかったけど。」
お風呂上がりの始音は解から本日の活動報告を受けて楽しそうに笑った。
「ほめられても実感がないから、七海には申し訳なかったな。」
解は自分の態度を反省していたが、始音はそんな解のおでこを指でつつきながら笑った。
「まあまあ、川野辺さんは喜んでたんでしょ?それに、あなたがおしゃれに興味ないことは知ってるんだから大丈夫よ。解君の魅力はそんなところじゃないんだから。」
解は始音につつかれながら話を聞いていたが、話が終わると始音の指を優しくどかして尋ねた。
「ところで、最近忙しそうだけど大丈夫か?単に仕事が忙しいのなら仕方ないが。」
最近の始音は銭湯に来る頻度が少し減ったような気がするし、来ても早めに帰ることが多いと思う。それに、解は何となく今日の始音が空元気を出していると感じていた。聞かれた始音は何とも微妙な表情をした。
「ああー、まあ、ね。ちょっと面倒なことがあってね…。」
「俺が聞いてもいいことか?」
「ええ。皆がつくった愛情研究会は元々他の先生方からは良い目で見られてないんだけど、最近公然と批判してくる人がいてね。」
「それを始音に言うのはおかしいだろう。文句を言うなら俺達に言うのが先だ。」
「その通りだけど、解君や茅野君は校門での出来事があるし、先生達も怖いのよ。半面私なら言いやすい、ってこと。」
「…お前に文句を言うのは教師だろ。複数かもしれないが、誰なのか教えてくれ。」
解は怒りを抑えながら静かに始音に聞いた。本来言うべき解ではなく言いやすい始音に文句を言うなんて間違っている。しかし、始音は解を安心させるように笑った。
「心配しないで。今は私一人で十分何とかなるわ。あなたたちは何も悪いことをしてないんだから、今のまま楽しんで。私もその方が嬉しいわ。」
安心しろと言われても、解はとても納得できていないようで渋い表情のままだ。
「…『今は』大丈夫なだけだろう。困ったら必ず教えてくれ。始音だけに苦労させるつもりはないからな。」
「分かった。困ったらちゃんと相談するわ。でも、今話したことは皆に言わないようにね?動揺させたくないし。」
「…ああ、分かった。」
間違っていることに正面から立ち向かう解の姿勢は昔と何も変わらない。その事実は始音にとってとても嬉しいことだった。しかし、世の中には正面から堂々と攻めず、汚い手段で攻撃してくるものもいる。解たちが普通に高校生活を過ごせるよう教師の自分が頑張らなければ、始音はそう誓った。
愛情と生
生きることと愛情は大きく関係している。愛情がなければ子供はつくられず、育てられることもない。人生の中で複数の他人と恋愛関係をつくり、時に婚姻関係を結び、時に別れる。老いてなお愛情に盛んな者もいれば枯れる者もいる。死に至れば愛するものを置いて、あるいは置いていかれる。つまり、人は愛情と共に生きているといえる。
生の価値も愛情と関わると考えている。愛されることに多くは喜びを得る。喜びは人にとって人生の糧、目的である。つまり自身が愛情で満たされると人は喜びを感じ同時に欲求が満たされ、生に価値を見出せる。
一方、生への執着も愛情と関係がある。金銭への愛情ですら生への執着、死からの逃避を引き起こす。他者への愛情の場合、愛するものと離れる恐怖、愛するものを置いていく恐怖のため死への恐れが生まれる。まとめると愛情が強ければ生への価値を得やすいが、一方で死への恐怖も強くなるといえる。
愛情は多くのものに関係し影響を与える。生と死に対しても大きく影響するため、より良い生を考える上で愛情は重要である。
真 記載
カキーン!
金属バットの快音が響き、応援する声がそこかしこからあがっていた。解の高校では球技大会が行われていた。解は参加するわけでも応援するわけでもなく、運動場の端、校舎の近くで一人ぼんやりと座っていた。
最近はいつも誰かと一緒だ。学校内では放課後まで透矢、瀬奈、七海、始音の誰かといるし、銭湯で働いていても客、特に瀬奈や始音と会うことができる。家は今まで通りなので、昔も今も誰かがいてくれる。ただ、その変化は透矢達がもたらしたもので、解はただいただけで何もしていない。いくら環境が変わっても、自ら動かないなら自身は何も変わらず成長しないのではないか。そんなことを解は考えていた。
その時、解の目の前に昔の光景が見えた。数か月ぶりのフラッシュバックだった。笑って声をかけてくる母親、扉から出ていく母親の背中、閉まるドア、その全てを何もせず見つめる自分。そんな記憶が蓋を開けて出てきそうだった。フラッシュバックは数十と経験してきたが、日中にいきなり起きることは珍しかった。しかし、いつもの発作に比べればだいぶ症状が軽いため、解はまず目を閉じて深呼吸をした。冷静に今の症状を診ると、頻呼吸、動悸、呼吸苦だ。いずれ落ち着くはず、そう自分に言い聞かせ静かに耐えた。
どれくらい経ったのか、落ち着いてきたことを自覚しながら解は目を開けた。そこには球技大会をしている生徒や先生がいるだけで、母親もドアもなかった。フラッシュバックが幸いにも軽い症状で収まってくれたので、解はゆっくり、長く深呼吸をした。全身の力が抜け、どっと疲れが押し寄せた。久しぶりの発作は解に自分は何も変わっていないのではないかと思わせるには十分な威力だった。
そんな状態の解だったが、ふいに横から声をかけられた。
「どうしたの、黒条君?具合悪いの?」
心配そうな声の主は瀬奈だった。解は全体から離れた所にいたが、瀬奈は解に気づいて近づいてきたらしい。解はまだ本調子ではなかったが、心配かけまいと普通に振る舞った。
「いや、暑くてぼーっとしてただけだ。参加する種目がないからな。それに俺がいても周りは不快だろう。」
「そんなことないと思うけど。でも、確かソフトボールに参加してなかった?」
「一応してたんだが、打つのも取るのも下手だったから補欠になった。」
瀬奈は話をしながらも周りを見回していた。そして解の隣にちょこんと座った。
「あー…そういえば、キャッチボールも上手じゃなかったね。」
「そういうことだ。どうも球技は不得手みたいだ。瀬奈はこんな所にいていいのか?」
「私はバレーボールだけど、試合までまだ時間があるの。それでふらふらしてたら、我らのリーダーがいたから声をかけたんだ。」
「リーダーって俺のことか?」
「もちろん。茅野君も七海ちゃんも、きっと始音先生も、黒条君がいるから同好会にいるのに、その君がリーダーじゃないなんてあり得ないでしょ。」
「瀬奈も俺がいるからここにいるのか?」
「私⁉…ま、まあ、私も、かな…。」
「そうか。…それでも、俺は別に何もしてない。いつも通りにしていたら、偶然お前たちが来てくれただけだ。」
瀬奈は解の様子が気になって彼の顔を覗き込んだ。解はいつも静かで落ち着いているが、今はなぜか暗く沈んだ様子で元気がなかった。瀬奈は解から目を離すと足元を見ながら無言でいたが、しばらくすると顔を上げて言った。
「何もしてなくても、いつも通りでもいいんじゃない?」
「?どういうことだ?」
「何もしなくても人が集まるなら、普段から人をひきつける力があるってことだよね。それはいいことだと思う。それに…。」
そこで瀬奈は言葉を止め、いたずらっぽい笑顔を解に向けた。
「何もしてないって言っても、『いつも通りのこと』はしてるよね?黒条君の『いつも通り』は結構変わってるよ。それに黒条君は十分色々して目立ってるからね?」
「どうも変人扱いされた気がするな…。」
解は口では文句を言っているが瀬奈の言葉で少し元気が出たらしい。表情に少し明るさが戻っていた。
「話をしてくれてありがとう。…本当は少し調子が悪かったから。助かった。」
解は立ち上がり、座っている瀬奈に手を差し出した。
「そろそろ試合だろう?俺も見るから、行こう。」
「う、うん。」
解の自然な様子につられて瀬奈も手を出した。解はそっと手を取り瀬奈を立たせると、そのまま瀬奈の手を引いて歩き出した。
「え、え?」
(このまま行くの?手をつないだまま?)
突然のことに頭がついていかず、瀬奈は解に引かれるがまま歩いた。二人で歩くと多くの視線を感じ、瀬奈は恥ずかしくて足元を見ながら歩いた。途中で一歩先を歩く解を見ると、解は瀬奈がつまずいたりしないか気にしながらも顔色一つ変えず歩いていた。そんな解に瀬奈は少しだけ苛立ちを覚えていた。
バレーボールのコートに着くと、解は瀬奈の手を離した。
「じゃあな。試合頑張ってくれ。」
そういって解はコートから少し離れた所に移動した。一方瀬奈は手をつないで来たことを周囲に質問されていた。
(何を聞かれているんだろうな。)
解は瀬奈を見ながら不思議に思っていた。ただ、瀬奈の周囲も瀬奈自身も楽しそうに見えるので、迷惑をかけなくて良かった。そんなことを考えながらぼんやりしていると、後ろから声をかけられた。
「よお解、霧谷との話はどうだった?面白かったか?」
「透矢か。いや、面白いというか、俺が助けられただけだったな。」
「助けられた、ねえ。興味はあるが今は聞かないでおくか。二人だけの思い出にしておいてくれ。」
「分かった。まあ話せない内容でもないんだが…。」
解の言葉が途中で止まってしまい、透矢は解が見ている方を振り返った。
「どうした?解。」
「あの先生、様子がおかしい。」
透矢の質問に直接答えず、解は早足で歩き出した。つられて透矢も続いた。解の視線の先では野球の試合が行われていた。解が言うのは一塁にいる50歳前後の教師のことだろうか。確かによく見ると胸をおさえて苦しそうにしていた。しかし、試合中のためか周囲の誰も気づいていないようだ。
「…っ!」
教師はやはり苦しいのか、苦悶の表情を浮かべて俯いた。すでに小走りだった解は教師の様子を見て走り出していた。解が教師の側に着いた時、教師はついに胸をおさえて地面に倒れてしまった。その時点でようやく周囲も異変に気付いたのか状況を確認し始めた。
解が教師を仰向けにすると、激しいいびき音がした。解はすぐさま教師の首を触った。まだ脈が触れる。次に解は教師の顎をあげ、周りを見回した。周りには人が集まり始めざわついていたが、遠巻きに見るだけだ。しかし、幸いにも透矢と偶然近くにいた始音が走ってきていた。
「始音はすぐ119番に連絡を!透矢は今すぐAEDを持ってきてくれ!」
「は、はい!」
「AED?まあいい、分かった!」
二人は指示されるとすぐに人込みをどかし奥に消えていった。見知った始音と透矢がいてくれて助かった、そう思った解の足元でぴたりといびきが止まった。解は背中が緊張で震えるのを感じつつ、急いで呼吸と脈をみた。呼吸、心拍いずれも感じない。即座に解は心肺蘇生を開始して言った。
「誰か携帯電話を持っている奴はいるか⁉」
「わ、私持ってる!」
瀬奈も来ていたようで、野次馬が騒がしい中で叫び、スマホを持って解の側に来た。
「二分ごとに俺に教えてくれ。あと、いつ何があったかをメモしろ。おい!他に胸骨圧迫ができる奴はいるか⁉」
心臓マッサージをしながら解が叫ぶが周囲は騒がしいだけで誰も出てこない。
「私は⁉」
「やり方を知らないと効果が弱い。それにお前は時間を測ってもらわないと…」
「わ、私多分できます…。」
ここでようやく養護教諭らしい人(解は透矢との格闘後に会ったが当然忘れている)が怖々出てきた。と同時に透矢が赤い固まりを持って人込みを蹴散らし走ってきた。
「AED持ってきたぞ!」
「じゃあ先生、胸骨圧迫代わって下さい!」
「は、はい!」
「測り始めて二分経ったよ!」
「分かった!」
周囲に負けないほどの叫びが飛び交う中、解は素早くAEDを装着した。
「先生変わります!…患者から離れて!」
AEDからショックが必要です、と声がした。解自身はAEDを使ったのは初めてだが、まさか初めてで電気ショックをすることになるとは思わなかった。
「患者から離れて!…よし。」
解はボタンを押すとすぐさま心臓マッサージを再開した。しばらくするとタイムキーパーの瀬奈が叫んだ。
「また二分経ったよ!」
「ああ!ん…⁉」
少し教師が動いた気がする、そう感じた解は二分経過したこともあり、若干胸骨圧迫を止め教師の脈をみた。ちゃんと触れているし、見れば呼吸も再開していた。
「ふーっ…。」
解は一気に脱力して座り込み、周りを見た。
養護教諭、瀬奈、透矢と目が合った。瀬奈はおずおずと解に尋ねた。
「先生は?大丈夫なの?」
「ああ。とりあえず、蘇生成功だ。」
その時AEDから再度声がしたので、解は教師から離れた。ショックは不要です、の声を聞いた後、解は教師の手首に触れ脈をとりつつ肩を叩いた。
「先生、分かりますか?大丈夫ですか?」
「う、ん…。」
わずかに声がして、瀬奈たちも安心したようで笑顔が漏れた。
「救急車と先生のご自宅に連絡してきたわよ!先生は⁉」
始音が駆け込んできたので、解が答えた。
「ひとまずは大丈夫だ。後は救急車が来るまで様子をみればいい。」
「そう、よかった…。」
電話をしに行ったので現場の状態が分からず心配していたのだろう、始音は安心してその場にしゃがみ込んだ。それを見ながらも解は教師の脈と胸の動きを確認し続けていた。
救急車が来た頃には倒れた教師は少しだけ会話できるようになっていた。解は救急隊に経過を説明した後、ふと何の気なしに周囲を見た。近くには先ほどまで共に先生の様子をみていた透矢達がいるが、少し離れると生徒達がこちらを見ては話したりスマホを向けたりしていた。教師達は生徒に声をかけて校舎内へ誘導しているが、なかなか進まないようだ。解は周囲の生徒達をにらみつけ叫んだ。
「先生や救急隊は見世物じゃない!遊んでる暇があったら少しは考えて動いたらどうなんだ!」
生徒達は蜘蛛の子を散らすように去っていった。解が周囲の様子から目を背けると、ちょうど教師が救急車内へ運ばれるところだった。解がよかった…と思っていると、始音が小走りに近づいてきた。
「黒条君、悪いんだけど一緒に救急車に乗ってくれない?先生のご家族は直接病院に向かうそうで、付き添いと説明を私と一緒にしてほしいの。正確には私の説明で足りないところを補足してくれる?」
「ああ、分かった。」
「ありがと。それと霧谷さん!」
始音に呼ばれ、瀬奈が不思議そうに近づいてきた。
「はい、何ですか?」
「悪いんだけど、あなたも救急車に乗ってくれない?私今日スマホ忘れてて、連絡手段がないの。」
「もちろん大丈夫です。」
「ありがとう。じゃあ乗りましょう。」
「何もないだろうが気をつけろよー。」
透矢に見送られながら、三人は急いで救急車に乗り込んだ。
病院に着いた後、解たちは教師の家族を待った。家族は妻と娘が来て、始音と解が高校で起きたことを説明すると妻は泣きながら解達にお礼を言い、その後医師に呼ばれ娘と共に説明室へ入っていった。
やることを終えた解たちは学校に戻るためバスを待っていた。
「もう、こんな時に限ってタクシーいないんだから…。」
ぶちぶち文句を言う始音を瀬奈は笑ってなだめた。
「まあまあ始音先生、すぐにバスが来ますよ。それにしても、先生が助かって本当に良かったね。」
「まだ助かった、とはいえないがな。まあ、あの時蘇生してないと死んでるんだから、良かったのは確かだな。」
「黒条君が心臓マッサージをできて助かったわ。私はできないし、保健の更科先生も自信なかったみたいだから。」
「実際にしたのは初めてだったが、心肺蘇生は真に何度か教わったからな。やり方の変化も本で読んでおいて正解だった。」
「でも本当、すごくてきぱきしてて、指示もしっかりできて。初めてにはとても見えなかったなあ。尊敬しちゃった。」
瀬奈が処置中の解を思い出しながら興奮気味に言った。あの時の解は本物の医師のようで、本当に格好良かった。しかし、解は自身の行動に価値を見出していないのか、
「言うほどのことじゃないぞ。」
と、いつもの如く淡白な返事だった。
そんな話をしているうちにバスが来たので、三人は話を止めて乗車した。バスには人がほとんど乗っておらず静かだった。後部座席で三人並んで座ると、さすがに疲れたのか解が珍しく欠伸をした。始音は解の顔を覗き込みながら声をかけた。
「疲れた?瀬奈ちゃんの言う通り、今日は格好よく大活躍したものね、黒条君は。」
始音の言葉には少しからかっている感じがあり、解は肩を竦めて返答した。
「真に教わったことをしただけで、蘇生したのは先生自身の力だ。俺自身は大したことは何もしてないぞ。」
「またそんなこと言って…。普通は、少なくても私は解君みたいには動けないよ。それに、先生の家族はすごく感謝してたでしょ。それだけのことができたってことじゃない?」
「それは…。」
言い淀む解。そこで、黙って聞いていた始音が意味ありげな笑顔を浮かべ話に入った。
「黒条君は自分のしたことに価値を求めてないんでしょうね。黒条君、自己愛って分かる?」
「自分への愛情のことだ。それがどうした?」
唐突に話を振ってきた始音に解は不思議そうに答え、逆に尋ねた。
「黒条君には自己愛が欠けてると思うのよね。自分への愛が希薄だと自分の行いに意味や価値を見出せない。だから自分に否定的になる。ね、当てはまるでしょ?」
「どうあれ別に俺は困らないぞ。」
「そうでもないわよ。自己愛だって愛情なんだから理解しておかないと。」
解は首をひねりながら始音の言葉について考えた。確かに自己愛については真も考えていたが、解は自己愛というものに興味が持てなかった。むしろ自分自身への甘やかしにつながり成長を阻害するのではないか、とすら考えていた。
「自己愛はあった方がいいものなのか?」
「そ、そりゃああった方がいいよ。自分を嫌うより好きな方が幸せでしょ?」
「別に俺は幸せでなくていいぞ。心身ともに成長できればそれで十分だ。」
「ええ⁉」
瀬奈は解の突飛な意見に驚いてしまった。幸せじゃなくていいの意味が分からない。人は幸せになるために生きるのではないか。もしかして解にとっては自身の成長が幸せということなのか。しかし、成長イコール幸せではなく、成長した後にすることが幸せにつながるのでは?分からなくなってきた…。
混乱してきた瀬奈が不憫になったのか、始音が瀬奈の代わりに解に話しかけた。少し呆れ顔だった。
「もう、本心なんだろうけど表現が極端なのよ。霧谷さん、黒条君は成長することが目標で、曖昧な幸せは目標にしないってことよ。だから幸せになりたくないわけじゃないし、他人の幸せを否定してもいないからね。でしょ?」
「…そうだな。大体そんな感じだ。」
「あ、ああ、そういうこと…。」
始音の解説を聞いて納得したのか、瀬奈が少し安心したように呟いた。解としては始音の解説に一部訂正を入れたいところだが、瀬奈がまだ困惑しているので止めた。決して困らせたいわけではなかった。とはいえ、困らせない範囲で意見は言うべきだ。
「混乱させて悪かった。ただ、とにかく俺に自己愛が必要だとは思えないんだ。自分を好きでなくても俺は努力して成長できる。なら何のために自己愛を持てばいいんだ?」
「んー、そうね…。」
始音は答える前に一呼吸置いた。どうやら解は自分を好きではないようだ。理由は分からないが、解が幼少時に引き取られ以後義父に育てられたことからある程度推測できる。ただ、推測通りだとすると解に自己愛を軽々しく語ることはできない。かといって自己愛がなくても問題ないと解に思わせては駄目だ。
「黒条君の言う通り、自己愛がなくても、何なら自分が嫌いでも生きてはいけるんでしょうね。でも単純に考えてみて。誰かに嫌われるって嫌じゃない?」
「気持ちのいいものじゃないな。」
「でしょ。誰かに嫌われても生きていける。でも嫌われてない方が生きやすい。それは自分自身も同じ。だから自己愛もないよりはあった方がいい。これはどう?駄目かしら?」
「…いや、今の意見は納得できる。否定できる材料もない。まあ、俺は自分が嫌いとまでは言ってないけどな。」
「好きじゃない、は十分否定側よ。とにかく、今の黒条君にはこれくらいで十分よ。霧谷さんが言った幸せとか自己肯定感との関係とか、考えることは色々あるけど、まずは自分を嫌いじゃなくなってからよ。」
「そうか…分かった。」
解は大人しく頷いた。もっと話を聞きたい思いはあったが、先程瀬奈を困らせてしまったのでこの場では聞かないことにした。また始音が銭湯に来た時に二人で話そう。そんなことを解が考えていると、始音が明るく笑いながら解の肩を叩いた。
「また難しい顔になってるわよ。折角話をまとめたんだから、今日はいいことしたな、で帰りましょうよ。」
「そっちが先に話を振ってきたんだがな。」
「何か言った?」
「いや、何も。」
笑顔でプレッシャーをかける始音と落ち着いて隣からの圧力を受け流す解。二人の様子は明らかにお互いをよく知っているそれだった。
瀬奈はそんな始音と解の横でもやもやしていた。一時は混乱したが途中から落ち着きを取り戻し、二人のやり取りをずっと見ていたのだ。そして自分のことを忘れ仲良く話す二人に瀬奈はついに我慢できなくなり口を開いた。
「二人とも仲がいいんだね。黒条君はタメ口で、始音先生は楽しそうで。」
「今日は余裕がなかったから、先生に敬語を使うのを忘れてたな。」
無理やり誤魔化そうとする解に瀬奈はさらに迫った。こういう時こそ得た情報をうまく使うべきだ。
「ふ~ん。でも先生が倒れた時、黒条君『始音』って言わなかった?」
「そうだったか?夢中だったからな…。」
いよいよ苦しくなった解が顔ごと瀬奈から視線を逸らすと、ちょうど隣の始音と目が合った。始音は困っている解を見るのが楽しいのかにやにやと笑っていた。どうやら始音はSっ気があったらしい。だがようやく解を助ける気になったのか、真面目な顔になって瀬奈を見た。
「そういえば霧谷さん、球技大会では黒条君と手をつないで楽しそうだったわね。それに今も。」
解を追及していたからか、瀬奈はいつの間にか解に近づいていて、もはや何でもできそうな距離だった。
「なっ!」
瀬奈はばっと解から離れた。さっきまでの自分を思い出すと顔が熱い。
「霧谷さんも転校生だし、黒条君はこれだし、心配してたのよね。二人が仲良しだと担任としても嬉しいわ。あ、いいのよ、続けて続けて。」
「ち、違います!何もしませんから!」
瀬奈が赤い顔で始音に反論した。解は元気な瀬奈を見て安心したと同時に、始音との関係を誤魔化せてほっとした。瀬奈には申し訳なかったが、始音との関係を言えない以上心の中で謝るしかなかった。ついでに何をしないのかも気になったがそれを聞くのは諦めた。
ところで、解は始音の言葉で思い出したことがあった。
「そういえば、瀬奈は俺を名前で呼ばないのか?」
「え、今?」
「いや、仲良しで思い出した。嫌ならそのままでいいんだが、もしかして俺に名前で呼ばれるのも嫌なんじゃないかと思ってな。」
解が少し申し訳なさそうに聞いてきたので、瀬奈は慌てて答えた。
「全然、そんなことないよ⁉瀬奈のままで大丈夫だから!私はその、あの、恥ずかしいだけだから…。」
「そうか、嫌じゃないならよかった。…。」
解が急に黙ってしまったので、心配になった瀬奈はおずおずと声をかけた。
「ど、どうしたの?」
「ん?俺はどう呼ばれたいか考えてた。…透矢も言っていたし、俺も名前で呼ばれた方がすっきりすると思う。」
「え。」
「そうよね。決まったことだし、本人も望んでるなら呼んであげないと。」
「うう…。」
真面目で悪意のない解といたずら心しかない始音に追い詰められ、瀬奈は思わず呻いた。
解を名前で呼ぶのは恥ずかしいが、ここで呼ばないと解が嫌われていると思うかもしれない。嫌な思いはさせたくないのはもちろんだが、そもそも解を名前で呼びたくないわけではない。照れて素直になれないだけで、むしろ素直な七海が羨ましいくらいだ。
(…なら、よ、よし。)
そうして瀬奈は覚悟を決めた。
「わ、わかりました、言います、言いますから。じゃあ…か、解君。これでいい?」
「ああ。…こうして聞くと、名前で呼んでもらえてすっきりした。ありがとう、瀬奈。」
「うん、よかったね…。」
解は真顔で感謝し、瀬奈は赤い顔で恥ずかしさに耐えつつ笑った。始音は二人を笑顔で見守っていたが、教師としての立場も忘れていなかった。もうじき学校近くのバス停が見えるところだった。
自己愛が自己の確立に与えるもの
自己愛とは自分への愛情であり、関連する言葉を挙げるとレゾンデートル、アイデンティティ、自己肯定、ナルシシズム等があるだろう。それらは心理学、精神医学の言葉であり、つまり自身に対して何らかの考察をする時に用いられるものが自己愛である。
具体的には、自分とは何かを考える際に自己愛の有無によって方向性が変わる。自己愛がある=自分を愛しているなら、自分を肯定的にとらえ、自己愛がなければ自らを否定する立場になる。ここで問題は、自己愛は必要なのかということだ。
自己を肯定できた方が安定した精神につながるのは間違いない。逆に自己愛がない、自分を愛せないもの(被虐待児や孤児の一部が当てはまるか)は他の要因にもよるがパーソナリティ障害やうつ病といった疾患を発症するリスクがある。
しかし、不安定な精神でも生きることは可能で、不安定なことを責められるいわれはない。むしろ、自身を否定しながらも愛情以外のものによって確固たる自己を生み出せるなら、それは自己を定義する新しい手法であり変動する愛情に依存しないより強い自己が確立できるかもしれない。
また生きている間に何を求めるかによっても自己愛の必要性は変わる。人間は幸福を求めて生き、幸福が安定さ、穏やかさだというなら自己愛は必要になる。一方安定さを求めていない場合、自己愛はなくても構わなくなる。
自己愛はあくまでも自身を愛することであり、それだけのものだ。他者に愛される時に生まれるメリットから物理的なものを除いたもの(=精神的なもの)が自己愛のメリットになっている。これは言い換えれば自己愛は代替が可能かもしれないということでもある。
自己愛はある意味最も自分に近い、簡便に得られる愛情であるため利便性は高い。しかし自己愛を厳密に考察するとこの愛情が万人に必要かどうかは疑問を持っている。個人的には自己愛を持てない人間でも他の愛情によって補完されることを望む。
真 記
教師が倒れたため球技大会は中止され、生徒はほとんどが帰宅することになった。学校に戻った解と瀬奈は始音に着替えたら帰宅するよう言われ、始音は校長に報告するため別れた。
解は着替えて瀬奈を待っていたが、瀬奈はすぐには来なかった。少し待っていると、瀬奈が小走りでやってきた。
「ごめん、遅れて。隣のクラスの子から話を聞いてたんだ。」
「何かあったのか?」
「うん。隣のクラスで何人か財布と制服がなくなったらしいよ。それ以上は聞いてないけど。」
「盗難か?学校内で、しかも球技大会中になんて、ずいぶん大胆だな。」
「本当にね。制服を盗むなんて気持ち悪いよね…。」
話をしながら解達が教室に戻ると、教室では透矢と七海が二人を待っていた。七海は解たちに気付くと椅子から立ち上がり笑顔で出迎えた。
「お二人とも、おかえりなさい!」
「七海ちゃんも茅野君もわざわざ待っててくれたの?」
驚く瀬奈に七海がすまなさそうに答えた。
「勝手とは思ったんですが、やっぱり心配だったので待ってたんです。その場にいなかった私が言うのもあれなんですが…。」
「そんなことないよ、待っててくれてありがとう。ほら、そっちからも。」
「ああ。俺からもありがとう、二人とも。」
二人に礼を言われ、七海の表情が明るくなった。えへへ…と嬉しそうに笑った。
「とりあえずこれでも飲めよ。川野辺が買ってきてくれたぞ。」
透矢は笑いながらペットボトルを解と瀬奈に渡した。ペットボトルはもう一本あった。
「ところで堤先生は一緒じゃないのか?先生の分もあるんだが。」
「先生は校長先生の所に行くって。」
「はー、先生も大変だな。病院から戻ったらまたすぐ仕事で。」
解は透矢の言葉に含みを感じ、色々知っていそうな透矢に尋ねた。
「仕事って、盗難があったことか?」
「もう知ってるのか?なら話は早い。先生が倒れたことよりもそっちの件で教師は大変みたいだな。調べたが、隣のクラスで男子三人の財布、女子二人の財布と制服が大体13時から15時の間でなくなった。不審者の目撃はなし、犯人は不明だ。」
透矢が調べた情報を聞き解は感心していた。
「よく調べたな。まるで探偵だ。」
「混乱してたから仕事が簡単だったぞ。まあ、内容は変わるかもしれないが…。」
そこで透矢は一度言葉を切り、いつもの笑いとは違う冷たい笑顔を浮かべた。
「どうやら先生方は俺か解を犯人にしたいらしい。警察を呼ぶのと並行して、俺たちがいなかったか生徒に聞いてたらしい。」
「「ええっ⁉」」
瀬奈と七海は驚いて声を上げた。解は二人の声に驚いた。
「なんでお二人が疑われるんですか⁉」
七海は憤慨していた。
「場所が隣だからって適当過ぎない?それに調べるのは警察でしょ。」
瀬奈も不快そうに顔をしかめていた。女子二人の怒りを見ると透矢は表情を崩しにやりと笑った。その笑顔はいつもと同じだった。
「俺や解を目の敵にする教師はそこそこいるからな、仕方ない。ちなみに俺はやってないが、解はどうだ?」
「してないぞ。」
「だな。ただ問題はその時間にアリバイがあるかだ。俺は大体外にいたが、トイレとか教室にいた時もあった。」
解も自分の行動を思い出していた。13時から15時、か。
「…俺も大体は外にいたが、一人だった。それに校舎に戻った時も少しはあったな。」
「だろ?もちろん犯人捜しは警察の仕事だが、学校の出方によっては事情聴取?とかがあるかもな。」
「…。」
解は沈黙し何か考えていたが、解を待つことなく七海は鼻息荒く声を上げた。
「そんなの許せません!先輩たちは無実だって言いに行きましょう!」
「待って待って、七海ちゃん!まだ何かされたわけじゃないから。落ち着こう?」
「それに無実を主張しても証明できないと意味がないんだよな。」
「でもそれならどうしたらいいんですか?」
七海達が話をする中、解が静かに口を開いた。
「証拠もないのに学生に手は出せないだろう。自白もしようがないしな。まずは焦らず落ち着くべきだ。むしろ、今後新たな問題を起こさないようにする方が大事だな。」
「確かに。その通りだな。」
透矢も落ち着いた声で同意した。…解の言う通りだが、道理を捻じ曲げてくるクソが世の中にはいる。それを解は分かっているのかいないのか…。
「とりあえず、霧谷や川野辺は気にするな。俺たちが気をつければいいだけだ。」
「なんか、言い方に棘がない?」
「気のせいだろ?」
透矢は飄々とした態度で瀬奈に答えると、話は終わったといわんばかりに軽く挨拶だけして教室を出て行った。解は透矢のやや強引な態度が少し気になったが、聞く前に透矢が帰ってしまったのでどうしようもなかった。仕方なく、解は残る二人に声をかけた。
「…まあ、そういうことだ。二人は気にしないでくれ。俺も何もないように努力するから、今日は帰ろう。」
安心させたいのは確かだったが、より良い手法が分からない解は事務的に話をまとめるしかなかった。
「はい…。」「うん…。」
七海も瀬奈も、やはり返事は明るいものではなかった。
色々あった球技大会が終わり、また次の週が始まった。解はいつもと何も変わらず通学していたが、周囲からの視線がいつもと違うような気がしてきた。
(髪型のせいか?いや、時期的に違うか。なら気のせいだな。)
髪型が変わってすぐの頃、解は周りの視線がいつも以上に気になっていた。解自身が新しい髪型に慣れてないからだと考えていたが、実は見た目が改善したお陰で解の印象が良くなったことが視線の原因だった。解は知らぬ話だが、実は女子からは「お菓子も料理も作れて実は見た目もいい」と評価され始めていた。真が外見と性格について書いていたが、その通りだったと解は思い知らされた。とはいえ、散髪からも喧嘩からも時間が経っており、殊更見られる理由がない、そう解は考えていた。
解が教室に来るとすぐ、クラスメイト数人が解の席に集まってきた。
「黒条、お前すごかったんだな!」
「心臓マッサージなんて初めて見たよ。」
「まるでお医者さんみたいだったよ!」
「黒条君ってもしかして医学部志望なの?」
「あ、ああ…。」
解は正直困惑しつつも話しかけてくる生徒達に返事をしたが、話題は球技大会での救命処置がほとんどだった。医療行為がそんなに珍しいのだろうかと解は不思議だったが、話しかけてきた生徒達が好意的だったのは助かった。
ホームルームが始まるとクラスメイトは当然席に戻ったが、解の隣は空席だった。
(遅刻、か…?)
解は透矢を心配はしなかったが、彼の不在は妙に気にかかった。透矢は結局昼になっても学校に来なかった。
昼休みになってすぐ、解は放送で生活指導室に呼び出された。瀬奈が何事かと見てきたので、解は軽く手を上げて瀬奈に応えてから生活指導室に向かった。
「黒条です、失礼します。」
返事がないので解は再度ノックしてからドアを開けた。部屋は殺風景だったが、中には生活指導係の山下と畑が待っていた。
山下と畑は解をよく覚えていたが、一方の解は二人をほとんど覚えていなかった。しかし、一年の時から白髪長髪という容姿、上級生の不良やいじめの加害者を倒す等の行動、山下ら教師をあまり目上として扱わない態度といった解の色々が二人の癇に障った。また、解は教師に何を言われても反応が乏しく、より一層教師達の怒りを買っていた。
解は呼び出された理由が分からなかったが、山下・畑の厳しい視線から楽しい話ではないことは理解していた。
「黒条、まずはここに座れ。」
山下に言われ座る解に畑が嫌味たらしく文句を言った。
「相変わらず白い髪だな。本当に地毛か?実は脱色なんじゃないか?」
「前も言いましたが、本当に地毛です。」
「ふん…。」
教師二人に挟まれても冷静に答える解に畑は不快そうに鼻を鳴らした。
畑は以前から解の髪や態度に文句を言う教師だった。以前はっきり地毛で、病院で証明もできると説明したことがあるが、それ以降も畑は何かと文句を言ってきた。しかし、お陰で解でも畑の顔を覚えることができた。…顔と名前は一致しないままだが。
「まあ畑先生。今日は違う用事なので。」
そう言って畑を制し、山下は解に向き直った。
「黒条のおかげで田中先生が一命をとりとめた。まずは教師を代表してお礼を言わせてくれ。田中先生はまだ治療中だが容体は落ち着いているそうだ。」
「それは良かったです。」
良かったのだが、自分が蘇生処置した先生の名前を今初めて知った解だった。
(やはり名前は覚えた方がいいかもな…。)
解はのんびりと考えていたが、その間にも山下は話を進めていた。
「ところで、球技大会の時に生徒数人の財布や制服が無くなったんだが、何か見たりしてないか?」
「いえ、特に何も。盗難ですか?」
解が尋ねると畑が会話に割って入った。
「お前は質問しなくていい。今は私たちが聞いてるんだ。黒条、球技大会の午後はどこで何をしていた?」
「あの日の午後は昼食をとってゆ、同じ同好会員と話していました。以後はトイレや教室、運動場に一人でいました。14時頃から運動場の端で試合を見ていて、その後は先生が倒れる現場を見た、そんなところです。」
「ほお、一人でいた時があるのか。その時に隣のクラスに入らなかったか?」
「いえ、教室の前は通りましたが入ってはいません。」
顔色一つ変えない解に畑は語気を強くして迫った。
「本当だろうな?警察に相談しているから、嘘は言わない方がいいぞ?」
「本当です。嘘を言う必要がないので。そもそも、ものが無くなったのは隣のクラスなんですか?」
「質問はするなと言っただろう!」
ついに怒り出した畑をちらりと見て、山下は静かに言った。
「生徒のプライバシーがあるから質問には答えられない。それと、黒条は愛情研究会とかいう会を作ったらしいが、何をする会だ?」
「友情、親子愛、恋愛など様々な愛情がどんなものなのか、資料を読んだり話をしたりして考察し、可能なら言語化して最終的に愛情を理解することを目的とした同好会です。」
まさかまともな答えを返してくると思っていなかったのか、解が真面目に答えると山下はわずかに動揺した様子で言葉を紡いだ。
「そ、そうか、わかった。もう説明しなくていいぞ。なら、そうだな、不純異性交遊のようなことはないんだな?」
「はい、全く。」
力強く頷く解に畑がため息をついた。
「堤先生のような優秀な先生を顧問にして、そんなよく分からないことをされても困るんだ。堤先生に迷惑だろう?」
「堤先生の本音は俺には分かりません。ただ、少なくとも迷惑にならないよう気をつけているつもりです。」
畑はイライラと足を揺すっていた。山下もこれ以上聞いても何も出てこないと分かったのか、こう締めくくった。
「まあいい。黒条、もう戻っていいぞ。だが、校門での事件を始め、球技大会、愛情研究会、どれもお前に関係していることだ。それをよく覚えておくように。」
「はい。それでは失礼します。」
解は部屋を出た後、時間を懐中時計で確認した。まだ昼休みの終わりまでは時間がある。解は焦ることなく教室に向かって歩いた。
解は教室へ戻る途中、偶然校長に会った。というより、校長が偶然解を見つけて話しかけてきた。
「すみません、ちょっといいですか?」
「あ、はい。何でしょうか。」
解は校長の顔も名前も知らなかったのでごく普通に返事をした。誰だったか、教師であることしか分からない。やはり先生を覚えてないのはよくないと改めて解は感じていた。
「君は黒条解くんでしょう?この前田中先生を助けてくれた。つい最近も校門前で喧嘩をしていましたよね。」
「あ、はい。どうも。」
校長はにこやかに言ったが、喧嘩の方はあまり褒められたものではない。それでも笑顔を絶やさない目の前の校長は相当変わっているようだ。そしてそんな不思議な校長はそのまま話を続けた。
「田中先生のことは本当にありがとうございました。一人の命が救われたことはもちろん、教師も生徒も救命処置を知っておくべきと教えてもらいました。」
「いえ、俺はできることをしただけです。」
校長が頭を下げて礼を言ったので、解は少し恐縮しつつ答えた。解が不良と言われていることは知っているはずだが、校長は解を普通の生徒として扱っていた。校長は周囲を見回した後、少し声を潜めて言った。
「私は校長なので大きな声では言えませんが、校門のことや他の喧嘩も気にしなくていいですよ。知る限り君にはいつも戦う理由があった。だから、君が正しいと思うことをして下さい。怪我のない範囲で、ですが。」
校長の言葉は解にとって意外なものだった。解が行った喧嘩はいつも確固たる理由が解にはあったが、大人は喧嘩が悪いと言うだけで理由を知ろうとすることはほとんどなかった。しかし校長は理由を知った上に解を擁護していて、本当に変わった人間だった。
そして、解はここでようやく気付いたことがあった。
「…!あの、担任の堤先生から聞いていて、校門の喧嘩では色々助けて下さりありがとうございます。迷惑をかけてすみませんでした。」
ようやく解は相手が校長だと分かり、遅ればせながら以前の事件でのお礼を言った。礼を言われた校長は笑顔で首を振った。
「いえ、気にしないで下さい。生徒を手助けするのが教師ですから。それに、堤先生に少し手を貸しただけですから。…ところで、黒条君は家族にお医者さんがいるんですか?救命処置が素晴らしかったと聞いて、少し気になって。」
「はい。二年前に亡くなった義理の父が医者でした。」
解の返事を聞いた校長は不思議な顔をした。解には説明できなかったが、校長の顔から悪い印象は持たなかった。
「教えてくれてありがとう。長話をしてしまいすみませんでした。これからもよい学校生活を過ごして下さいね。」
また頭を下げて校長は去っていった。校長の表情が気になったが、今は教室に戻ることを優先すべきだ。解は教室に急いだ。
教室に戻る途中、ふと解は疑問を抱いた。校長は山下と畑のことをどこまで知っているのだろうか?知らなければ山下達は勝手に動いていることになるし、知っていてあの態度なら校長はとんだ食わせ者である。解は校長から悪意を感じないため前者が正しいと思うが、断言はできない。今は校長が敵ではないことを願うしかなかった。
~~~♪
「あ…。」
昼休みが終わる音がした。考え事をして止まっていた解は教室に急いだ。弁当は休憩時間に食べることにした。
放課後、透矢以外は全員同好会室に集まったが、やって来た七海は明らかに怒っていた。
「…どうしたんだ?なにかあったのか?」
怒っている七海は出会ってから初めてかもしれない。怖くはないが、機嫌をうかがうように解が尋ねると、七海は頬を膨らませて言った。
「聞いてください先輩!生物の畑先生が先輩のことを悪く言うんですよ!言い返したんですけど、私悔しくて…!」
話しながら七海は座る解の背中側に回り込み解の髪を櫛でとき始めた。落ち着くためにしているのかもしれない。解は黙ってされるがまま座っていた。
「畑先生?私は生物を選択してないから知らないけど、よく感じ悪いって言われてる先生だね。それにしても、七海ちゃん言い返したの?」
「もちろんです!だって、『不良が今さら人助けで点数稼ぎしても無駄』とか言うんですよ?先輩は不良じゃないし、点数稼ぎなんてしない、って言いました!」
胸を張って言う七海が心配になり、解は肩越しに七海を見た。
「それはありがとうなんだが、言い返すのは危険だから今回だけで頼む。」
「ええ?何でですか?だって絶対おかしいのに。」
「まあまあ、黒条君も川野辺さんを心配してるだけで、川野辺さんが間違ってるなんて思ってないわ。そこは汲んであげたら?」
始音に優しく諭され、七海は少し落ち着きを取り戻した。
「うーん…。そうですね、先輩に心配かけたくないですし、わかりました…。あ、先輩お昼に呼ばれてましたよね。何だったんですか?」
「あ、それ私も聞こうと思ってた。何だったの?」
「…。」
七海と瀬奈(と目線のみの始音)に聞かれ、解は答えるべきか迷った。しかし、嘘を吐きたくないことと始音が愛情研究会のために尽力していることを考えると解はありのまま答えることにした。
生活指導室での会話を解が伝え終えると、瀬奈が考え事をする構えのまま呟いた。
「その先生二人って、多分生活指導の山下先生と畑先生だと思う。」
「あー、その二人ね…。」
教師の名前を聞いて始音が顔を曇らせたのを見て解はぴんときた。以前始音が言っていた、始音に言いがかりをつける教師はあの二人だ。
「畑先生って、あの畑先生ですか?あの先生、先輩に直接悪口を言ったんですか⁉」
「そうなんだが、頼むから落ち着いてくれよ、本当に。」
また怒りが再燃した七海を解はなだめた。後で畑の所に行かないか心配だった。
「まあひどい話だけど、あの二人は放っておいていいと思うわよ。責める材料がないから文句を言うだけだしね。」
始音は始音をなだめるつもりで話したが、思わず畑達への嫌悪感を滲ませてしまっていた。始音の話を聞いた瀬奈は少し躊躇いがちに、だが真面目な顔で始音に尋ねた。
「始音先生は私達、というか解君の側なんですね。その、いいんですか?」
別に始音を疑うわけではないが、教師が解をかばうメリットはない。むしろ、かばうことで始音が孤立する可能性がある。始音が何を思って解を擁護する側にいるのか、瀬奈は気になった。もしかして、損得を超えて解が大切ということだろうか…?
「私は私が正しいと思う方につくだけよ。今回はそれが黒条君なだけ。もし黒条君が間違ってたら味方しないわ。つまりスパイでも贔屓でもないから、安心して。」
瀬奈の考えが多少分かったのか、始音は瀬奈の疑問に答える形で返事をした。始音の言葉に棘はなく純粋に疑問に答えただけだったが、質問した瀬奈はとても申し訳ない気持ちになった。意図はなくても始音を疑うような言い方をしてしまった。
「す、すみません、失礼なことを言って。」
「全然失礼じゃないわ。気にしないで。」
頭を下げる瀬奈に優しく始音は言い、部屋の雰囲気を変えるため手を叩いた。
「さあ、こんな話は終わりにして、愛情研究会らしいことをしたらどう?何かないの、黒条君?」
いきなりの振りだったが、解は真面目に考えて答えた。
「そうだな…まずはこれを見てくれ?後半の一部だけ読めば十分だから。」
解は持っていたタブレットを操作して瀬奈たちに見せた。そこには長文が書かれていた。
友情と恋愛の関係
両親や祖父母、叔父叔母を友人と表現することは少ないが、友人・友情は血縁親類を含めたすべての人間が対象となり得る。一方恋人・恋愛における対象は概ね第三親等以内を除いた人間である(結婚可能な相手の定義から考えた)。つまり、恋愛よりも友情の方が対象の範囲がわずかに広い。範囲の広さは愛情全体におけるその感情の立ち位置(順位)を考える上で考慮する必要がある。
恋愛感情を持つ間柄では基本的に友情という言葉は使用されないため、恋愛と友情は独立している印象を持たれる。しかし、友人が恋人に変わる場合、その変化は連続的である以上、友情が一瞬で消失し恋愛に変わるとは思えない。このことを考えると友情と愛情には「且つ」の部分が存在するか、あるいは友情の中に恋愛が含まれていると推測される。いずれにせよ、友情と恋愛には同居する部分があるといえる。
異なる(が似た面を持つ)感情が同居することの意義は、恋愛対象の獲得あるいは喪失(この場では恋人関係になる、別れるの意)が円滑になることだと考える。すなわち、友情という段階を挟むことで恋愛関係を形成しやすくする。また、喪失した際は友人としての記憶がある方が相手を否定する思いが相対的に減少するため悲しみや怒りが軽減する。上記は全て可能性の話であり、あいにく私は友情も恋愛も理解していないため考察に限界がある。 真 記
「この部分、『友情と恋愛が同居する意義』が真の言う通りか知りたい。」
始音は内容が面白いのか全文読んでいたが、一方で七海は難しかったのかくらくらしていた。瀬奈は何とか文を読むと腕を組んで考え始めた。
「難しい話だね…。でも、何で知りたいの?」
「真が正しいならまず友情が、次に恋愛ができるはずだ。なら友情を飛び越えて恋愛になる一目惚れや結婚マッチングアプリはうまくいかないのか?と思って。」
「そのあたりはネットで調べたら分かるかもしれないよ?」
「ほんと、難しい話してるわよね、黒条君も真さんも。」
始音は少し呆れたような苦笑いを浮かべた。と、解が何か思い出した顔で女性陣を見た。
「それと、真が正しいなら俺はお前達に恋愛を抱きやすいってことになる。俺はお前達をその、友人だと思っているからな。だから、俺が恋愛感情を持てるのかも興味がある。これも調べたいことの一つだな。」
解の意見に場は静まり返った。いつかあなたを好きになるかもしれず、その可能性を調べたいと正面から言われたようなものだ。しかも解は自分の言葉が持つ意味をよく分かっていないというおまけつきだ。好きになれたらいいよねと同意したらいいのか、好きになられたら…と恥ずかしがればいいのか、それとも友人にそんなこと言われたら気まずいと怒ればいいのか、さっぱり分からない。そして解はこの空気に気付かずのんびりと意見を待っていた。瀬奈、始音、七海の三人は目で会話していた。
(流れ的には霧谷さんが答えてあげて。)
(無理です。解君は愛情がよく分かってない分、上手く言わないとまたとんでもないこといいますよ。始音先生がどうぞ。)
(大人だからこそ難しい時もあるのよ。ということで川野辺さん、お願い。)
(わ、私ですか?恥ずかしいですよ…。)
(大丈夫、七海ちゃんならいけるよ!)
(そ、そうですか?なら…。)
無言の会議が終わると七海は解の髪を指でくるくるしながら焦った様な声を出した。
「わ、私も先輩が好きになる相手が誰なのか興味ありますよ?案外茅野先輩だったりして~…。」
「「!」」
「仮説を検証したいだけだから、本当に恋愛対象ができるかは分からないぞ。それに、透矢が相手だと同性愛の考察が必要だな。」
「「「!!」」」
瀬奈の予想通り話がますますよく分からない方向に進んでいた。そして解は頭を抱えたい女性陣に気付くことなく大真面目だった。
「まあ今は俺や透矢のことは置いておこう。『友情と恋愛が同居する意義』についてだが、瀬奈の言う通りまずはネットで調べてみるか。経験と成長につながるからできれば実感したいところだがな。」
解が変に真面目なお陰で話が軌道修正され、瀬奈達三人は安心して力が抜けた。力が抜けて頭も緩くなったのか、瀬奈は頭で考える前に口が動いていた。
「実感したいなら試しにデートでもする?」
…変なことを言った気がする。
「デート?デートすると何が分かるんだ?」
提案に解が反応してしまい、何となく言ってしまったことを瀬奈は後悔した。それでもなかったことにはできず、必死に考えて言い訳した。
「大した話じゃないよ?友達が恋人になる場合の話だから、友達同士が恋人っぽいことをしたらいいかも、なんて…。いや、ほんと、深い理由はないから…。」
どんどん声が小さくなる瀬奈とは対照的に、解は瀬奈の提案を真剣に考えていた。
「まずは形から、か…。悪くないかもな。善を為すにはまず偽善から始めよと言うしな。…ところで、具体的にはデートは何をしたらいいんだ?」
解にはなぜ瀬奈が疲れているのか分からなかったが、まずは根本的な質問をした。後ろの七海は一旦解の髪を触るのを止め、少し恥ずかしそうに意見を出した。
「デートといえば、手をつないで映画館や公園に行ったり、一緒にご飯を食べたりして過ごすんですよ。私はしたことないですけど…。」
「その例えなら近い経験があるぞ。俺は連れ回されただけだが。」
解の言葉に始音がぴくっと反応した。解が変なことを言わないか聞き耳を立てていた。
「わあ、さすが先輩。それって何歳くらいの時ですか?」
興味津々な様子の七海に解が答えようとすると、ふと始音と目が合った。
(余計なこと言わないでね。)
(OK。)
目で話し合った(気がした)解は咳払いをした。また誤魔化しながら話す必要があった。
「小学校高学年の時だな。知り合いの女子に引っぱり回されていたんだ。」
「小学生のそういうのって、デートっていうのかな?」
「まあまあ。黒条君がデートを理解できたからよししましょ?それで、結局まとめると試しにデートしてみようってことよね?」
「まあ、皆がよければですが。」
始音の言葉に解が続き、その後一旦無言になった。解はぼんやりと反応を待ち、瀬奈達はそれぞれの様子をうかがう形だった。
「あ、あのっ!」
そんな中で七海が声を上げた。恥ずかしさはあるがデートに対する好奇心が勝っていた。
「先輩の目的に合ってるかは分からないんですが、デートに興味があるというか…その、私、デートしてみたいです!」
七海は耳まで赤くしていたが、そこには気付かないまま解は顎に手を当て考えていた。
「…そうだな。七海がしたいならしてみるか。瀬奈の話だけ聞いても悪くはないと思っていたからな。」
「え?本当にするの?デート?」
「黒条君は変なところで積極的ねえ。」
解が同意してくれて七海は大変嬉しかったが、わがままを言った気もしており、おずおずと解に聞いた。
「いいんですか、先輩?」
「俺はいいぞ。瀬奈と堤先生は?」
「わ、私もいいと思うよ、うん。」
「川野辺さんだけ羨ましいわねえ。私もデートしたいわー。」
(お前が文句を言うのか?)
解は心の中で始音につっこんでいたが、始音と目があったので考えを止めた。すぐばれて怒られそうな気がした。
「先生が学生とデートしちゃ駄目ですよ…。そもそも始音先生なら引く手数多ですよね?」
「だって仲間外れは寂しいし、誰でもいいわけじゃないもの。霧谷さんはデートしたくないの?」
「したくない訳じゃないですけど…。」
「じゃあ、誰が先輩とデートするかじゃんけんしましょう!勝った人が先輩とデートするということで。」
「え?七海ちゃん、デートしてみたいんじゃないの?」
「そうなんですけど、先生や先輩を差し置いて自分だけ楽しむのはどうかなって。じゃんけんなら公平ですから。」
「そ、そっか。公平なら仕方ないよね。」
「みんな一斉に、最初はグーからね。」
「はい!」
「本当に始音先生もやるんですか…?」
瀬奈、七海、始音は仲がいいようで、解はすっかり蚊帳の外になった。一人になった解は小さな声で言った。
「相手は俺でも透矢でも、お前達同士でもいいと思うんだが…。」
性別と愛情は関係あるとする人間、関係ないと考える人間がいて、解は前者だった。なので、解はデートをする組み合わせを決めるつもりであり、組み合わせは解と透矢でも、瀬奈と七海でもよかったのだ。しかし、解の言葉は誰に聞かれることもなく三人の声にかき消された。
「ふんふーん♪」
休日の朝、七海は鼻歌を歌いながらデートの待ち合わせ場所、というか校門の前で解を待っていた。結局デートは七海が行くことになった。楽しみだったのだろう、七海は予定の15分前には着いていて、服装や髪はかなり気合が入っていた。
「ふふーん…あっ、せんぱーい!」
解が見えたので七海は手を振って挨拶した。解は片手をあげて応えながらも焦ることなく歩いていた。七海の前まで来ると解は懐中時計を取り出し時間をみた。
「随分早かったんだな。待たせて悪かった。」
「いえ、楽しみで早く来ただけですので。それより先輩、かっこいいですね!懐中時計も渋いです!」
七海に言われ解は古い懐中時計を取り出してみせた。
「携帯電話、いやスマートフォンか?とにかく持ってないからな。服もこれも、ほとんどが元は真の私物だ。」
「じゃあ、その首輪と鎖もですか?」
笑顔で七海は尋ねた。七海は解の姿に何の疑問も持たなかったが、周囲はそうはいかない。解の服装は基本的に日々の制服と大差なかったが、首には黒いベルト、ズボンと手首、胸ポケットには黒い鎖がついていた。髪の毛が真っ白なこともあり、一見するとロック関係者か少し危険な人か、という感じだった。
「ああ、これも真のものだ。私服の時にはこれをつけるように言われててな。」
首輪と鎖を触りながら解は答えた。つけたいわけではないが嫌いでもない、そんな様子だった。七海は明るく笑って解の顔を見上げた。
「ワイルドで格好いいです。それに、真さんと先輩が繋がってる感じがしてとてもいいと思います!」
七海の言葉を聞いて解の顔がわずかに綻んだ。真と自分の関係を肯定された気がして温かい気持ちになった。
「ありがとう。それじゃあ行くか。ほら、荷物を。」
解は遠慮する七海から荷物を受け取り、もう一度手を差し出した。七海は小首を傾げたが、はっと何かに気づいた。解の手の上に自分の手をおずおずと重ねると、解の手が優しく七海の手を包んだ。七海は照れ笑いを浮かべた。
「何だかお姫様になった気分ですね。」
「なら俺は番犬だな、首輪がついてるから。」
「あ、お上手ですね。でも犬じゃないですよ、ちゃんと王子様です。」
ロックな見た目の解は無表情で静かに歩き、可愛らしい七海は笑顔のまま軽い足取りで解の隣を歩いた。対照的、あるいは凸凹な2人は手をつないだまま目的地へ歩いて行った。
「いい感じじゃないか。ちゃんとデートしてるぞ。」
笑いながら透矢は双眼鏡を首に下げた。校門から離れた物陰、そこには透矢、瀬奈、始音が集まっていた。全員動きやすい私服で、いつもと髪型を変えたり伊達メガネをかけたり、つまり変装しており、今日は解と七海を尾行する予定だった。
「やっぱり止めない?いくら二人が許可してるからって…。」
「でも、ここで帰ったら二人から調べてないの?ってなるわ。それに、私は顧問だからあなた達についてないといけないしね。」
「う、うーん…。」
まだ尾行に迷いがある瀬奈に、始音は真面目な顔で説得した。しかし、本音は尾行を楽しむ気満々の始音だった。
今回の尾行は愛情研究会の実験の一環だった。「デートが実験ならその様子を記録した方がいい」と後から話を聞いた透矢が主張したのだ。普通なら拒否するだろうがなんと解と七海はあっさりと同意し、今二人は通信機を襟につけていた。尾行はデートを外から見た様子を記録するためのものだった。
「見てて微笑ましいわね。仲のいい兄妹のラブラブデートって感じね。」
「それじゃ禁断の愛じゃないですか…。」
透矢はため息を吐く瀬奈を見ながらにやにやと笑った。
「止めようとは言ってもなんだかんだ楽しんでるじゃないか、霧谷。」
「ちょっと、からかわないでよ、茅野君。」
「まあそう怒るな。ここは正直にいこうぜ。俺はあいつらを観察できて満足。堤先生は?」
「正直かなり楽しいわ。少女漫画を見てる気分ね。」
「始音先生…。」
瀬奈は呆れたような声を漏らした。何となく感じていたが、始音は隠しているが実は結構いい性格していると思う。そんな瀬奈に透矢は怪しく笑い尋ねた。
「ほら、霧谷も正直に言えよ。」
「えー…。」
「ここは本音を言うのがマナーよ。」
「…。」
瀬奈は悩んでいたが、二人の押しに負けついにぼそぼそと話し始めた。
「まあ、可愛いような、羨ましいような。もうちょっと見たいかもしれません。」
「それでいい。解達が素で楽しむんだ、俺たちもそうしないとな。さて、そろそろ追いかけるか。」
透矢は話す間にも解達の会話を聞き、距離を確認していたようだ。瀬奈は透矢の抜け目なさに呆れるしかなかった。
解と七海のデートの予定は「校門で待ち合わせ、駅前でふらふらしてから昼食をとり、互いの登下校する道を歩く」だった。非常に地味な内容だが七海曰く「これがいいんです」とのことだった。その言葉通り、スピーカーを通して聞こえてくる七海の声は楽しげで、瀬奈たちをも笑顔にしてくれた。解は基本的に聞き手であり落ち着いた口調はいつも通りだが、七海の影響なのかいつもより少し口数が多かった。
駅前に着くと、透矢たちはとある商業ビルを上がり、踊り場のベンチで解たちの様子を見ていた。透矢が言うには「声が聞こえるから無理に見る必要はない。見つかって二人が不自然になる方が問題」らしい。そう言う割に今いる場所でも十分に二人が見えていて、透矢の監視技術は卓越したものだった。そんな中でもスピーカーからは解たちの声が聞こえていた。
『……先輩は駅前には来るんですか?』
『いや、用がないからほとんど来ないな。七海はよく来るのか?』
『はい。友達とお茶したり、アクセサリーを見たり、色々です。そういえば、最近はあんまり来てないですね。』
『俺たちといるからだろうな。もし友人と遊びたければ無理せず会を休んでいいぞ。』
『無理なんてしてませんよ。友達と遊ぶのも先輩たちと一緒にいるのも好きなんです。自分の好きな場所にいるだけなので、心配しないで下さい。』
『そうか。俺の考えを押しつけて悪かった。…お詫びにクレープでも食べるか?』
『え、そんな悪いですよ。……』
話は続いているが、始音は感じ入ったように何度も頷いていた。
「川野辺さんはいい子ね。」
「ほんとですね。」
瀬奈もほっこりしていた。透矢は双眼鏡で解と始音を見ながら言った。
「しかし、ずっと手をつないでるな。球技大会の時は霧谷と手をつないでたし、あいつの癖なのかね?」
「私の時も当たり前のように手を取ってたから、するものだと思ってるのかも。」
「エスコート自体は悪くないことだけど。本で読んだのかしら。」
三人は双眼鏡で解達を見ながら各々自由な話をした。そんな中、瀬奈と始音がわいわい騒ぎだした。どうやら解と七海が手をつないだまま一つのクレープを食べているらしい。基本は七海がクレープを持って食べていたが、時々クレープを解の口にもっていき食べさせていた。それはまるで漫画のデート中に見られるような光景だった。解と七海は恋人達のようにも兄妹のようにも見え、瀬奈と始音は胸のときめきと微笑ましさの両方を満喫していた。そして盛り上がる二人を横目に透矢はそっと笑った。
「さて、折角のデートなんだ。存分に楽しませてくれよ。」
誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
その後は予定通り駅前でふらふらした後、七海の提案で解達は学校付近に戻った。
「先輩、お昼なんですけど、わ…。」
「ああ、昼食を作ってきたからそろそろ食べるか?」
「え…。」
お昼という言葉を聞き、解は持ってきた袋を七海に見せた。すると七海は凍り付いたように動きを止め、しばらくすると今度は小さくなったと感じるほどに萎縮していた。
「どうしたんだ?」
心配した解はしゃがんで七海の顔を覗き込んだ。七海は申し訳なさそうに、俯いたままで答えた。
「あの…私もお弁当を作ったんですけど、忘れて下さい。先輩の方が上手だろうし、私のじゃ舌に合わないかもしれないし…。」
「…。」
解は七海と、彼女が持つ包みを見た。そして立ち上がると俯く七海の手を引き近くの公園に向かった。また、解は無言で七海を引っぱっていたので、七海は戸惑ったまま解について行くしかなかった。
公園に着くと、解は七海に目線を合わせて穏やかな声で言った。
「ここで食べるぞ。弁当を用意してくれないか?」
「え?私の、ですか?」
「ああ。お前の弁当だ。」
「でも、私のは…。」
俯く七海に解は穏やかに声をかけた。
「大丈夫だ。お前が作った弁当を見せてくれないか?」
「…私なんかのでも食べてくれますか?」
「ああ、勿論。」
「わ、わかりました。…よし、わかりました!」
七海は顔を上げ気合を入れると、木陰にレジャーシートを敷いた。そして、シートの上に大きめの弁当箱を一つ置き、えいっと開けた。中はおにぎりや野菜の肉巻きなどで、いわゆるお弁当という感じで普通に美味しそうだ。
「一つの箱に二人分入れたんだな。」
「はい。運動会で家族と食べる時みたいな感じにしました。」
「そうか…。とにかく、いただきます。」
解は黙って弁当を食べ始めた。七海も一緒に食べ始めたが、解の感想が気になって仕方がないのだろう、ずっとちらちらと解を見ていた。
「ど、どうですか?食べられますか?」
緊張しながら聞いてくる七海に解は不思議そうな顔を返した。
「?ああ、食べれるぞ。美味しい上に見た目もいい。…そんなに自信がないのか?」
「す、すみません。頑張って作ったんですけど、やっぱり不安で…。」
七海はぼそぼそと小声で解に答えた。解のお陰で七海は弁当を出せはしたが、不安はまだ消えていなかった。家族以外に料理を振る舞ったことがない上、食べる初めての相手が家事万能な解なので、不安になっても仕方ないことだった。
解は無表情のまま不安そうな七海を見ていたが、ゆっくり腕を持ち上げるとそのまま七海の頭に置いた。
「…先輩…?」
解はゆっくりと七海の頭を撫でた。解の手の平から七海に温かさが伝わってきた。
「心配しなくていいぞ。本当によくできているから安心しろ。」
「…はい。先輩にそう言ってもらえるなら、作ってきて本当に良かったです。」
解の言葉と手は優しくて心強く、七海はようやく安心して笑うことができた。そして七海の笑顔を見た解も微かに笑った。
「やっと笑ったな、よかった。…こうして見ると、七海は笑顔が一番似合っているな。」
「そ、そうですか?ありがとうございます。えへへ…。」
二人は食事を再開した。会話は多くなかったが、二人の間には穏やかな時間が流れていた。
昼食が終わると、解は七海に頼まれていつも通る道を案内していた。片手は二人の弁当箱を持ち、もう片方は変わらず七海と手をつないでいた。
「この辺りは昔とあまり変わらない。銭湯と家の間だから、この町に来た時から通ってるな。」
そう言って解は周囲を素早く見回し、特に一部の方向を固い表情で見ていた。しかし、七海はそんな解の様子に気づくことはなかった。
「先輩はいつからこのあたりに?」
「5歳の時からだ。保育園、家、銭湯、家の順に動く毎日だった。正直、保育園が学校になっただけで今とほぼ変わってないな。」
「そうなんですね。あれ?でも小さい時にどうして銭湯に?バイトはしませんよね?」
「真を待っていた。家だと子供一人になるからな。手伝いをしたり、筋トレをしたり格闘術を学んだり、色々していたな。」
「銭湯は大事な思い出なんですね。あの、私も瀬奈先輩と始音先生みたいに先輩の銭湯に行ってもいいですか?」
「いいぞ、と言いたいんだが…。」
解は言葉を切った。そして七海に目線を合わせ、真剣な顔で伝えた。
「どうも用事ができたらしい。本当に悪いんだが、七海は先に帰れ。」
「え?ど、どうしたんですか?」
「まだ何とも言えないが、まあ心配するな。後はこれを。良かったら家で食べてくれ。」
解は握っていた七海の手を放し、七海の弁当箱と自分が作った弁当の包みを握らせた。
「俺があっちに行くから、お前はこっちへ。透矢達がいるから合流しろ。」
「え、本当にどうしたんですか?先輩はどうするんですか?」
「どうなるんだろうな。七海、今日は本当にありがとう。迷惑ばかりかけて悪い。」
言うなり解は振り返ることなく小走りに行ってしまった。七海は困惑、残念、心配など、色々な思いで混乱していた。それでも解が真剣に言った以上、言われた通りにしないといけない。そう思い七海は戸惑いながらも解に指示された方向に向かった。
「いきなりどうしたんだろ?急用かな…?」
瀬奈は解が七海と別れた理由が分からず、双眼鏡を下ろしながら呟いた。同じく隣で現場を見ていた透矢は双眼鏡を外さないまま舌打ちした。
「ちっ。クソが…邪魔しやがって…。」
「「っ…⁉」」
悪態を吐く透矢の声はいつになく冷たく恐ろしいほどの迫力があり、解達を見ていた瀬奈も始音も思わず透矢を見た。透矢は一度深呼吸をしてから双眼鏡を下ろした。そこにいたのはいつも通りの透矢だった。
「悪いな、ついいらついてな。それじゃ、まずは川野辺を拾うか。行こうぜ。」
「え?ちょ、ちょっと待って!」
走る透矢を瀬奈と始音は追いかけた。幸い七海とはすぐに出会うことができた。
「七海ちゃん!」
俯いていた七海は瀬奈の声で顔を上げ、三人に気付くと元気なく声を出した。
「あ、茅野先輩、瀬奈先輩、始音先生。ほんとにいらしたんですね。」
「川野辺さん、大丈夫?」
「はい…。」
始音と瀬奈は七海に近づいてとりあえず無事を確認した。とはいえ元々声は聞いていたので、当然七海は無事だ。
「揃ったから説明するぞ。あのな、途中から俺達のように離れて解を見てる奴等がいたんだ。目的は知らんが、川野辺を無視ってことは解に用があるんだろうな。とにかく、変な奴等に気づいたから解は単独で動いたんだよ。川野辺や霧谷、堤先生が危なくないように。」
「って、先輩が危ないってことじゃないですか!」
透矢の話を聞いて七海が叫んだ。七海から動揺が広がっていく中、透矢だけは全く慌てる気配がなかった。
「まあなあ。でも解一人なら十分逃げられると思うぞ?そう思ったから俺の姿を解に見せて、川野辺を来させたんだからな。解も俺の意図は分かってるだろうさ。」
「何一人で分かった風になってるの。ほんとに襲われてたら警察か救急車案件なんだから、さっさと追いかけるわよ!」
意外と喧嘩っ早いのか、始音は透矢の服を掴みながら威勢よく叫んだ。しかし、透矢は体を揺らされても落ち着いたままだった。
「まあまあ、堤先生。急がなくても場所は分かってるんで。解に渡した機械にはGPSが付いてるんですよ。」
「用意がいいね、茅野君は…。」
瀬奈が呆れたようにため息を吐いた。思ってはいないが、全部透矢の仕業ではないかと疑われてもおかしくない。その横で透矢はにやりと笑った。
「何事も準備が大事ってことだ。とにかく、三人はもう帰れ。人の多い所を通ってな。俺が解を追いかける。」
「ちょっと待ちなさい。」
透矢は言うだけ言って一人で行こうとしたが、始音に引き留められ立ち止まった。
「喧嘩は避けるのよ。もし学校にばれたら最悪退学になりかねないんだから。」
「わかってますって。」
透矢は笑って始音の忠告を受け流し、走り去った。始音はため息をついたが、すぐに教師の顔になり七海と瀬奈に向き直った。
「さあ、私たちもできることをしましょう。まずは安全な所に行きましょうか。」
心配そうな七海と瀬奈の動揺を取り除くのが自分の仕事だ。始音はそう考え二人に移動を促した。
解は七海と別れた所から離れ、人気のない路地にいた。この辺りなら逃げやすく、万一争いになっても目撃されにくいという計算があった。
「逃げ切れたのか?」
解は立ち止まり息を整えた。呼吸が落ち着くと七海の困惑した顔が思い出され、罪悪感も一緒に思い出した。
(もう少し説明すればよかったな。)
心配をかけないために黙って別れたのだが、失敗だったかもしれない。解は沈んだ気持ちでぼんやり歩いていたせいで周囲への注意を忘れていた。そのため、男達に道をふさがれてようやく自分が囲まれたことに気づいた。
解はミスをしたものの慌てることなく正面の相手に尋ねた。
「お前達、俺に何か用か?」
相手は四人、全員男のようだ。それぞれ服装は違うがニット帽やサングラスで容姿を分かりにくくしていた。恐らくは全員解以上の年齢で、二人は素手だが一人はナイフを持っていて、もう一人はなぜかスマートフォンを持っていた。一番前にいる男は解の質問に答えず逆に聞いてきた。
「お前、黒条解だろ?」
「ああ、そうだ。」
解が答えると四人が殺気立つのが分かった。
「よし、こいつでいいんだな。」
「じゃ、OKです。」
スマホを持った男がスマホを解に向けると、素手の二人が前に飛び出し解に襲いかかった。荒事には慣れてない上、連携する様子もないらしい。解はまず向かって来た相手の手を掴むと同時に腹を殴りつけた。もう一人に後頭部を殴られたが、解は怯むことなく腕を後ろに振りぬいた。拳は相手の横顔に直撃し、男はうめき声を上げつつ顔をおさえた。そのまま解は前蹴りでよろめいた男を蹴り飛ばすと、一気に走り出した。四人のうち一人、あるいは複数人がナイフを持っている以上、無理は禁物だ。怪我自体はともかく、その結果再び始音に迷惑をかけるのは避けねばならない。ということで三十六計逃げるに如かず、解は全力で逃げ出した。その時スマホを構えていた一人とすれ違ったが、予想通り何もしてこなかった。
(動画を撮っているのか…?)
彼等が何だったのかは分からないままだが、いずれにせよ解は逃げるしかなかった。
一連の出来事、そして逃げていく解を透矢は物陰に隠れて観察していた。解が無事だったことを確認できたので、次は自分の番だ。透矢は無表情に解の逃げた方に目を向けた。
「悪いな、手助けしなくて。」
ぽつりと呟いた後、ゆっくりと路地に消えていった。
デートの翌日、解は朝早くから一年生の教室が並ぶ廊下にいた。七海に謝罪するためだが、解はスマホを持っていないため廊下で七海を待つことにした。
(せめてクラスを知っておけば良かった。)
一年生の視線を存分に受けながら解が静かに待っていると、走ってくる足音が聞こえた。
「先輩!」
七海は解の前で止まると、真剣な顔で解を見上げた。
「昨日はあれから大丈夫でしたか⁉」
解は七海が怒ったり悲しんだりしてないか心配だったが、七海は単純に解を心配していた。
恐らく透矢がどうにかうまく説明してくれたのだろう。解は心の中で透矢に感謝した。
「ああ、まあ色々あったが大丈夫だ。それより、昨日は本当に悪かった。」
「いえ、先輩が謝ることなんてないです。私こそ何もできず、すみませんでした。」
「いや、俺がもっと上手く説明できればよかったんだから、謝らなくていい。むしろ俺が悪かった。」
七海は解をじっと見て、くすっと笑った。
「お互い謝ってて、ちょっと面白いですね。」
「…そうかもな。」
その時ホームルームが始まる音が鳴った。
「あ、もう行かないと。先輩、わざわざ会いに来てくれてありがとうございます。また昼休みに!」
七海は元気に手を振って教室に入っていった。解も軽く手を振り返して七海を見送った。七海が元気だったのは何よりだが、七海を心配させたのは変わりなく、解の中には申し訳なさが残っていた。
悪意と愛情
悪は定義できない、定義が常に変動する者だが、個人的には「因果応報、相互利益を無視し自身の愛情から生まれた欲求にのみ従うこと」とする。
悪意の機序として、嫌悪、欲望、嫉妬等、様々な愛情に関した感情から生まれるものである。例えば金銭を欲して強盗をする場合、金銭というモノへの愛情、金を持ち自由に生きる自身への自己愛、他者への愛情より強い自己愛があるといえる。そして愛憎という言葉があるように、怒りや憎しみは愛情から生まれ得る。
一方で詳細は省くが善意も愛情に関わっている。つまり、善意も悪意も結局は愛情から生まれているといえる。故に愛情は持てばよいというものではない。
真 記
「あれだけ偉そうに言っておいて、助けてないってどういうこと?」
ものすごく不満そうに言う瀬奈に、苦笑しながら透矢は答えた。
「まあ許せ。結構距離があいてたからなあ。まさか追いついた時にはすでに終わってるとはね。」
「俺は十分助かったぞ。透矢のお陰で七海の安全が確保できて、全員が状況を理解できた。」
「だろ?ほら霧谷、俺も多少は役に立ったということで。」
「むう…。」
解たちは昼休みだが同好会室にいた。解が襲われて争いになったことは周りに聞かれない方がいいと考えたからだ。透矢の話を聞いてもまだ少し不満そうな瀬奈に、七海はなだめるように言った。
「まあ瀬奈先輩、みんな怪我もなく済んだんですし。本当によかったですよ。」
「まあそうなんだけどね。でも結局、解君を襲った人達って何なんだろ?ただの不良?」
瀬奈の疑問には解も首を傾げた。
「分からない。年齢も連携もばらばらだった。何者か、何が目的か、全てさっぱりだ。」
「まあ分からないものは仕方ない。それより、デートは結構いい感じだったな。」
透矢は瀬奈たちの疑問を打ち切ってデートの話を持ち出した。あんなクソ共なんて放っておけばいい。
「はい、とっても楽しかったです!」
輝くような笑顔の七海。透矢はそんな七海に何度か頷きつつにやり笑った。
「そうかそうか、それは何よりだ。だけどな、ここは愛情研究会だろ?なら研究会らしく発表しないとな。どうだ、愛情について何か思ったことはないか?」
「そ、そうですね…。…えっと、じゃあ思ったことを。先輩とはほぼ毎日会ってますけど、デートの時はいつもと違いました。ワイルドで、王子様っぽくて、少し明るくて…。普段しない話もできて、先輩の新しい部分が見えました。」
「…。」
褒め過ぎだと言いたい気持ちを抑えて解は聞いていた。七海は出会った時からなぜか解を高く評価しているが、解には不思議で仕方がなかった。
「友情も恋愛も、相手を知るほど関係が深まるものだけど、今回のデートで二人はさらに仲良くなれたと思う?」
「私はそうだと嬉しいです。先輩はどうですか?」
「関係が深まるのは良いことだ。俺も七海に同意するぞ。」
「本当ですか?なら嬉しいです、えへへ…。」
七海が照れ笑いをしたその時、解の目にふわりと揺れる七海の髪が映った。瞬間、解はがたっと急に立ち上がった。瀬奈と七海が少しびっくりする中、透矢は驚かず呑気に解を見上げた。
「ん、どうした?」
「いや、七海を見て思い出した。七海、昨日は服も髪形もいつもと違っただろ。よく似合っていて綺麗だと思った。言うのが遅くて悪い。」
「え、え?い、いえ、ありがとうございます…。」
解は真剣な顔で七海を褒め、七海は解に褒められたことが嬉しくてしばしにやにやしていた。だが、七海も何か思い出したようにはっとした。
「先輩のお弁当もすごくおいしかったです!サンドイッチ、家族みんなで頂きました。みんなもおいしいって言ってましたよ。」
「あれサンドイッチだったんだ?」
瀬奈はつい反応してしまった。昨日から解は何を持っているんだろうと気になっていたからだ。
「はい。たまご、照り焼きチキン、フルーツサンド。全部おいしくかったです。あれ、全部言ったかな?」
「あとはハムレタスだな。」
「そうでした!全部美味しかったです!」
「そうか、それなら良かった。」
お弁当というデートの中身の話が盛り上がる中、瀬奈は気になっていたことを解に尋ねてみることにした。弁当以上に気になっていたことだった。
「あの、ちょっと聞いていい?解君って相手を目の前で褒めたり、躊躇いなく手をとったりするけど、あれって何?普通は恥ずかしがるものなのに。」
回りくどいと解が分からないかもしれない。そう思い瀬奈ははっきり聞いた。聞かれた解は不思議そうだった。
「そんなにおかしかったか?女性を褒める、エスコートする、それらは女性に接する基本だと教えられたんだが。」
「いや、おかしくはないよ?ないんだけど…。そうだ、解君の私服も変わってなかった?首のベルトにチェーンって、本当に解君が選んだの?」
「先輩のお家のルールだそうですよ?もらいものだから大事にしてるんですよね?」
「ああ、そうだな。」
「ルールって、誰が決めたルール?さっきの教えも謎だし…。」
解の不可思議さに悩む瀬奈を見て、透矢は含み笑いをしながら解に聞いた。
「やっぱり解は面白いな。ところで、解は今回のデートで何か収穫はあったか?」
「ああ。今回は七海との友情のお陰でデートができて、結果関係が深まった。ここで友情か恋愛、どちらの要素が高まるかで今後の関係が変わるんだろうな。俺が今回得た七海への愛情が友愛なのか恋愛なのかは分からないが、そもそも友愛がなければデートをしてないんだから、これが『友情と恋愛が同居する意義』なんだな。当たり前のことかもしれないが、実感としてよく分かった。」
研究者のような解の言葉に対し、透矢は実に楽しそうに笑った。
「発見があって何よりだ。どうだ川野辺、お前が知った新しい解は。友達候補か?それとも恋人候補か?」
「え、ええ⁉」
「そうだな。俺も七海の意見を聞きたい。」
「ええ⁉」
いきなり包囲され七海は焦った。ここで恋人候補ですと言えばそれは告白したことと同じだ。そもそも恋人云々と言われてもよく分からない。解のことは好き、いやかなり好きだがそれが友情なのか恋愛なのか、初恋の経験がない七海にはまだ難しかった。ただ、家族以外でここまで懐いた男性は解だけなので、その意味では…。
「ちょっと男子!変なこと聞かないでよ。」
瀬奈の声で七海の思考は中断された。瀬奈は透矢達にすぐに反応して怒っていた。
「一応ちゃんと学術的な話だ。なあ?」
「ああ。七海を困らせるつもりは全くない。」
透矢は笑っているが、解はいつも通りの無表情だ。つまり、透矢は冗談で、解は本気で言っていた。瀬奈は大きくため息を吐いた。
「はあ…。解君、恋愛について話すのは本来デリケートなことなの。少なくとも七海ちゃんにはね。だからさっきの質問はなし!いい?」
「了解。」
「うん。七海ちゃん、もう大丈夫だからね。」
「は、はい。ありがとうございます…。」
七海は曖昧に頷いた。助かったと思うと同時に真面目に質問していた解に返答できなくて申し訳ない思いもあった。
~~~♪
その時、昼休みが終わる音がした。
「戻るか。」
「ああ。続きは放課後だな。」
解達は話しながら同好会室を出て教室へ向かった。
「最近堤先生は忙しそうだよな。今日は来れるのかね。」
「来るとは聞いたけど。始音先生だって昨日は心配してたんだから。」
「早く話して安心してほしいですよね。…あ、では先輩方、私はここで失礼します。」
軽く頭を下げて七海は自分の教室へ戻った。解達ももうすぐ教室、というところで瀬奈が声を上げた。
「あれ、二人とも鞄は?」
「え?」「ん?」
「そんな顔されても困るけど…。鞄ごとお昼ご飯を持ってきてたでしょ。覚えてない?」
「ああ、そういえばそうだ。」
「鞄なんてあってもなくても一緒だよな。」
「財布は?貴重品があるでしょ?」
「昨日のデートで使ったからないぞ。」
「あ、そう…。」
額を押さえる瀬奈の隣では透矢が声を殺して笑っていた。
授業が終わり放課後になってすぐ、校内放送が流れた。
「二年の黒条解、茅野透矢、生徒指導室に来るように。」
「また呼び出しだ。」
「また喧嘩でもしたのか?」
「これ言ってるの生物の畑でしょ?あいつ嫌いなのよね。」
放送に対して生徒から思い思いの感想が出る中、瀬奈が解の席に近づいてきた。
「二人とも何か思い当たる?大丈夫?」
「どうせまた質問だろう。昨日の今日で何かあるとは思えないし、気にするな。」
解は瀬奈を心配させないようなるべく軽い調子で言った。
「そうだな。つまらない内容だろうさ。」
解は淡々と答える透矢をちらりと見て、瀬奈に七海と先に帰宅するよう伝えた。
生活指導室には以前のように山下と畑がいたが、難しい顔をした始音も同席していた。
「黒条、茅野二人とも来ましたー。」
透矢はやる気なさそうに言いながら扉を無造作に開けた。解は透矢の後ろで何か言われた時用の答えを考えていた。
「黒条君、茅野君、いらっしゃい。じゃあ、こっちに座って。」
始音は落ち着いた口調で二人を椅子に座らせると、二人の後ろに移動した。恐らく山下や畑の側としてここにいるのではないのだろう。ひょっとすると、いやしなくても山下と畑が嫌いなのだろう。
「黒条、お前は昨日の昼過ぎ、どこで何をしていた?」
「…外出していたのは確かですが、細かいところは説明が難しいです。」
山下の質問に解は答えなかった。その時間は四人組に襲われた頃だが、あえて言う必要はないし、嘘を吐くのも嫌だった。
「学校の掲示板に写真と動画が挙げられていてな。これなんだが。」
山下がスマホの画面を見せた。画面には私服の解が相手を殴る動画と、もう一人を蹴りつける写真が写っていた。
(あのスマホは写真を撮るためだったのか。高校生には見えなかったが…。)
「おい、これはどういうことだ?外出とは暴力のことなのか?」
「…それがいつ撮られたかが分かりません。それに写真の人間は生徒に見えないのに学校の掲示板が使われるのは変です。ハッキングや悪意ある内部の人間なら映像を合成していてもおかしくありません。」
畑に詰問されても解は淡々と言い返した。写真は予想外だが、頭の中は冷たく澄んでいた。冷静に主張を展開しながら解は真の言葉を思い出していた。
『余分なことは言うな。話を広げるな。聞かれたことだけ答え、自らの隙を埋め、相手の理論で弱い部分をつけ。言葉の暴力には言葉で戦うしかないからな。』
(落ち着いて、余分は言わない…。)
真の教えを心で復唱する解に、畑は怒りの顔で、山下は冷たく見下す視線で応えた。
「昨日の昼とは動画にあるが、確かに加工もできるだろうな。画像自体も合成じゃないはいえない。だが黒条、お前はこの場面に覚えはないのか?昨日は本当にこれに近いことをしてないんだな?」
解はどう答えるか逡巡した。先の質問のように答えることはできるが、先の話以上に誤魔化す必要がある。そうすると齟齬が生まれやすいが、それ以上に嘘を吐く、誤魔化すことはしたくない。まして始音を苦しめる二人の前では堂々としていたい。
「…いえ。昨日は知らない四人組に襲われて逃げました。防戦したので、その時画像を撮ればそれに近いかもしれません。」
透矢は横目で一瞬解を見た。解は自分に不利なことでも堂々と話していた。
(全く、馬鹿な奴だ。)
解は最初「昼過ぎに」と聞かれた時は覚えてないと答え、時間指定がない質問の時は本当のことを答えた。解の能力ならいくらでも誤魔化せただろう。山下達にこれ以上情報があるとも思えないのでなおさらだ。なのに堂々と答えた解は呆れるほど愚直で馬鹿で、最高だ。目の前にいるクソ共とは大違いだ。透矢は笑うのを堪え無表情でいた。
一方、解の言葉を聞いて畑は勢いを強めた。
「やっぱり喧嘩したんだな。最初から誤魔化さずに言えばいいんだ。この前校門で喧嘩したのにまた、となれば処分は重いぞ?」
「待ってください、畑先生。確かに喧嘩は良くないですが、動画でも黒条君の言葉でも複数人に襲われてるんです。その場合の喧嘩は正当防衛じゃないですか?黒条君が言ったように、この動画に悪意があるならなおさらです。」
「そ、それは…。」
始音の指摘を受け畑は言葉に詰まった。そんな畑を気にすることなく山下は始音を見て冷たく言った。
「堤先生の言う通り、動画は黒条を告発するもののようですし、黒条が正当防衛だった可能性もありますね。…この鞄のことがなければそれでいいんですが。」
山下は言い終わると鞄を二つ、部屋の後ろから出してきた。
「俺達の鞄?」
透矢が呟いた通り、それは二人が同好会室に忘れてきた鞄だった。
「たまたま移動中、お前たちの部室になっている空き教室にあった。不審物がないか確認した方がいいと話し合って中身を見たら、これがあってな。」
山下は二人の鞄から何か取り出した。鞄から出てきた物は、折り畳みナイフ、開封された煙草、ライター、クレジットカードだった。
「…!」「ほぉ…。」「えっ…。」
解、透矢、始音はそれぞれの反応を示し、まず解が毅然と言った。
「俺はそこにあるもの全部、全く身に覚えがありません。」
「嘘を言うな!ならどうしてお前の鞄に入っているんだ⁉
机を叩き畑が叫んだ。叫んで少し落ち着いたのか、解を見下すような目で見ながら説明を始めた。
「いいか、ナイフや煙草だけでも問題だが、このクレジットカードの名前を見ろ。球技大会で財布がなくなった生徒の名前だぞ?あの時の犯人はお前だってことだ。」
「そんなものを見たことはありません。俺たちは何もしていません。」
「まあいい。口だけなら何とでも言えるからな。」
畑が責めても解は悪事をしていないとはっきり否定した。畑と山下をつまらなそうに見ていた透矢は解の言葉に反応して薄く笑った。
「俺もそんなもの知りませんね。誰かが入れたんじゃないですか。」
山下は透矢を睨みつけ、それから解、透矢に対し高慢な態度で言い放った。
「まあいい。今日から黒条、茅野は四日間の停学だ。出てきた物はこちらで預かっておく。四日後にPTAと校長を含めた教師が集まって今後を決める。お前達なんぞのためにな。処分はまあ、退学だろう。お前達のような他に害しか及ぼさない奴らは必要ないからな。もちろんお前達がいる同好会も廃部で、これでようやく学校が綺麗になるというものだ。堤先生も、彼らを考えもせずにかばうのはいかがなものかと。退学が決まった後は当然先生にも責任を取ってもらいますよ。」
「…。」
始音に強く睨まれても山下は平然としていた。
話が終わると山下は二人に帰るよう告げた。畑は勝ち誇ったような笑みを浮かべ解たちを見、そして始音をにやにやと見つめていた。一人残された始音は悔しそうに俯き、その場をすぐには動けなかった。
「始音が心配だな…。」
昇降口から校門に行く途中、解は立ち止まり呟いた。
「気にはなるだろうが、今戻ったら余計面倒な事になりそうだ。ここは我慢しろ。」
「…そうか…。」
解はため息をつき苛立たしげに頭をかいた。言うべきことは言ったが、自身の力の無さが情けなかった。
まさかあんなものが鞄に入れられているとは思わなかった。自分は当然だが、透矢も何もしていないはずだ。頭のいい透矢が公共の場に自身に不利益になり得るものを持ってくるはずがない。とにかく、問題は誰が入れたかだが、時間は昼休み終わりから放課後の間、そしてあの部屋が愛情研究会のものだと知っている。その二つを満たす人物は…。
「まあそう考え過ぎるなよ。お前はゆっくり待って、四日後の会議でクソ共にはっきり意見を言ってやればいい。」
思考から引き戻された解は透矢を見た。透矢は笑顔だったが目は笑っていなかった。校門まで来たところで透矢は解の方を向いた。怒りはあるが、ひとまずはいつもの笑顔に戻っていた。
「俺は会議に向けてやることがあるから行ってくる。後は俺に任せて、お前は安心して休んでてくれ。」
「何か急ぎなら手伝うぞ。」
「大丈夫だ。俺以外には難しいし、俺一人で十分できる。心配するな。」
軽く手をあげて解に別れの挨拶をすると、透矢は学校の中に消えていった。
始音は悔しさで一杯だった。球技大会の盗難、前日の喧嘩、ナイフや煙草の所持、いずれも解と透矢の仕業とは全く思っていない。彼らはそんなことはしない。ついでにあんな証拠を残す馬鹿でもない。だが無実の証明ができない以上、出された材料を否定することはできなかった。教師として生徒を手助けしたい始音としては、生徒が冤罪で責められているのに助けられない、そんな自分が許せなかった。
始音が悔しさと無力感で立ち尽くしていると、生活指導室に畑が入ってきた。生徒に高圧的で、女生徒や自分をいやらしい目で見てくる畑を始音は大変嫌っていた。最近はしつこく絡んできて、食事に誘ってくることすらあった。
「何か用ですか、畑先生。」
正直会話したくもなかったが、始音は嫌悪感をおくびにも出さなかった。
「いえ、堤先生も問題児を担当して大変でしょう?相談にでも乗ろうかと思いまして。」
「いえ、大丈夫です。これが仕事ですから。わざわざありがとうございます。」
始音は無難に断り部屋を出ようとしたが、畑が進路を遮り一枚の紙を出してきた。
「まあまあ。こんな写真が出てきたので心配なんですよ。話を聞かせて下さい。」
畑が出したのは紙ではなく写真で、解と始音が写っていた。銭湯で風呂上がりの始音が解と話している時のものだろう。始音はラフな格好で笑顔、解は私服で互いの距離がかなり近い。正直邪推されてもおかしくない姿だ。
(隠し撮り?気持ち悪っ…。)
始音は無言で畑を睨んだが、畑はにやにやしながら始音の反応を楽しんでいた。…弱気になってはいけない。ここで上下関係が生まれたら何をされるか分からない。気を強く持とうとする始音に畑がにやついた顔で口を開いた。
「これが出回ると困るでしょう?それに、大事な生徒、顧問の同好会を守らないといけないなんて、大変ですねえ。」
「何が言いたいんですか?」
「いえ、私は堤先生の頑張りに感動してまして、彼等の退学を防ぐお手伝いをしようかと。まあ愛情研究会までは無理ですがね。とにかく、堤先生次第ですよ。写真のことも退学のことも。まずは一緒に食事でもしませんか?先生のような綺麗な女性と色々できれば楽しいですしねえ…。」
そう言って畑は始音の肩から腕を触った。目は汚い欲望でぎらぎらと輝き、興奮で息が荒かった。始音は嫌悪感で背中に鳥肌が立ちながらも体に触れる畑の手を払いのけた。
「私はあの二人が無実だと知っています。それと、私は黒条君と何もありません。失礼します。」
始音は畑の横を抜け生活指導室の入り口に向かった。しかし畑は出て行こうとする始音に声をかけた。その声はわざとらしく優しい、粘りつくようなものだった。
「まあ堤先生、会議後すぐに退学するわけじゃありません。時間がありますので、ゆっくり考えて下さい。」
始音は足早に歩いた。立ち止まるとそのまま歩けなくなりそうだった。とても仕事をする余裕はなく、自分の机に戻るのも他の教師に会いそうで無理だった。
気付けば始音はいつもの空き教室まで来ていた。戸の上につけられた「愛情研究会」と七海が書いたプレートが目に入った。始音は同好会室に入ると後ろ手で戸を閉めた。先ほどの緊張と恐怖、嫌悪感を思い出し、自然と体が震え始めしゃがみこんだ。目を閉じ、自分の腕を掴んで震えを抑えるので精一杯だった。
今回の停学は前回と違い退学を前提にされているため、解は処刑前の囚人の気分だった。愛情研究会の仲間たちが心配だったが、解は携帯電話を持っていない上電話番号すら知らなかった。
(もし退学にならなかったら電話番号だけは皆に教えてもらおう。)
そんなことを解が考えていると、ほとんど鳴ったことがない固定電話が鳴った。一瞬どきっとした解が受話器を取ると、よく知る声が聞こえてきた。
『お、解か?こっちは茅野透矢だが、元気か?』
透矢のいつもと変わらない声を聞き、解は少し安心した。
「ああ、体調はいい。しかし、よく電話番号が分かったな。俺自身忘れてたぞ。」
『俺の情報網の成果だが、まあそれはいいか。それよりもうすぐ会議だろ?俺の準備が大体できたから安心しろと伝えたくてな。』
「安心しろと言われても、何を準備したんだ?」
解が聞くと透矢は喉を鳴らして笑った。
『今は秘密だ。最後まで関わらない方がいいからな。とりあえず信じて待っててくれ。』
「分かった。信じて待とう。」
解はすんなり透矢に応えた。一方で透矢はしばらく沈黙した後、逆に解に質問した。
「…もし俺が嘘を吐いてたらどうする?騙しているかもしれないぞ?」
「嘘を吐く理由がない。何より、俺はお前を友人だと思っている。友人は信じるものだろ。…まあ、おれが勝手に思っているだけなんだが。」
『…そうか。お前はそうだな。…分かった。じゃあ会議でな。』
そう言って電話は切れた。透矢のことは心配ではあるが、信じて待つことにした。後は会議まで寝て待つのみだった。
会議の日になり、解は学校の会議室に向かっていた。解が昇降口で靴を履き替えていると、見知らぬ女生徒が声をかけてきた。
「こんにちは。あなたが黒条解君?」
「はい。…あの、申し訳ないが、誰ですか?」
誰と聞かれて女生徒は出鼻を挫かれたようで、脱力し、ため息を吐いた。
「分からないか…。生徒会長の橘聖よ。少しは思い出さない?」
「いえ、全く。」
断言する解に逆に興味を持ったのか、聖は怒る様子はなく苦笑した。
「まあいいわ。話が逸れたわね、ごめんなさい。本題はあなたと茅野透矢君のこと。」
「俺達のこと?」
「そう。退学になりそうだけど、話を聞いて変だと思ったの。ナイフとタバコ、おまけにクレジットカード。見られて困るものを一週間以上も鞄に入れて持ち歩くのは変よ。だから生徒会としては退学に反対なの。」
「関係ない俺達のために、わざわざ?」
解が思わず言うと聖はむっとして応えた。
「関係ないことはないわ。私生徒会長だし。何より、間違っていると思ったのに黙っているなんてできないの。悪い?」
「いえ、全く。会長がここにいることが今言ったことの証明です。俺はそういう考えをする人を尊敬します。」
「尊敬って、そこまで言わなくても…。」
解が真剣に言うので聖は照れて少し動揺してしまったが、咳払いをして言葉を続けた。
「と、とにかく!私は生徒会としてあなた達を弁護するから、よろしくね。じゃあ会議室に行きましょう。」
聖に促され解は会議室へ向かった。
まだ早いからか会議室には数人いただけだった。解と聖が待っていると徐々に人が集まってきて、山下と畑も来た。二人は解をちらりと見たがそれ以上は何もせず席に着いた。大分集まってきた頃に始音が来た。始音は明らかに疲れており顔色も良くなかったが、解と目が合うと少し笑みを見せた。解は始音の様子が気になったが、場所がやや離れていてすぐには無理だった。
会議の時間になりほぼ全員が座っていたが、透矢だけは現れなかった。解は透矢が逃げたとは思わなかったが、何かあったのだろうかと気にかかった。
「一人茅野がいませんが、まあ反論がないということでしょう。では始めましょう。」
山下は会議のプリントを全員に配り、その後全体を見回しながら言った。
「まず問題を挙げていきます。①黒条、茅野は以前校門前で暴力事件を起こし、また今回は黒条が町で暴力事件を起こした。②黒条、茅野はナイフ、タバコ、盗難されたクレジットカードを学校に持って来ていた。③球技大会中の窃盗事件は黒条、茅野が起こした可能性が高い。以上をもって、黒条茅野両名を退学処分にすべきと考えます。また、二人が所属する愛情研究会という同好会も廃部にすべきと案が出ています。」
「では順番に話をしましょう。茅野君はいませんが、黒条君、いいですね?」
校長が穏やかに解に聞いてきた。校長は以前話した時と変わらない様子だが、ここでは中立の立場のようだ。
「はい。」
「分かりました。まず①ですが、この内容は本当ですか?」
「はい。まず校門前の件は誰もが知る通りで、正当防衛でした。今回も同じで、知らない四人組に襲われ逃げるために行動しただけです。」
何も恥じることはない。解は胸を張って答えた。そんな解の発言を聞いて畑が挙手した。
「今発言、証拠はあるのか?」
「はい。その時の声がありますので。」
解は畑に向かって頷いた後、ボイスレコーダーを出して声を流し始めた。相手が解を確認した後に襲いかかり争う音が流れると、教師、PTAの一部がざわついた。音が雑音のみになると解はスイッチを止めた。
「反撃したことは事実ですが、相手は複数で独りはナイフを持っていました。相手は俺を狙い、その翌日には写真と動画が学校の掲示板に出ています。俺に対する悪意と作為的なものを感じます。」
解が言い終えるとすぐに聖が手を上げた。
「私も同じ意見です。普通の人には学校の掲示板にこんな動画をあげる理由がありません。明らかに特定の個人への攻撃であり、なら黒条君はむしろ被害者ではないでしょうか。」
…本当に庇っている。解は聖が解を擁護したので少し驚いていた。思わず聖を見ているとふと目が合ったので、解は感謝のつもりで少し頭を下げた。
少し場が沈黙すると、山下が解を冷たく見据えながらすっ…と手を上げた。
「なぜボイスレコーダーを持っていたのか、その中身が本物かどうか、両方を説明できるのか?」
「ボイスレコーダーは義理の父から常に持っておけと教えられました。中身が本物かは俺には証明できませんが、警察にお願いしても構いません。」
「…。」
山下は解を睨みつけながらも黙っていた。この話ではこれ以上責める手がないらしい。校長は全体を眺めてから真剣な顔で解を見た。
「黒条君、無事だったから良いものの、一歩間違えれば大怪我だったかもしれません。録音しているならなおさら警察や堤先生など必ず誰かに相談して下さいね。」
「はい。すみません。」
校長は笑顔だった。解は校長と目が合ったが、解を疑う目ではなかった。先の言葉も解を案じただけであり、校長は解が冤罪だと分かっているのかもしれない。
「いえ。では②ですね。タバコ、ナイフ、ライター、クレジットカードは黒条君のものですか?」
「いえ、覚えはありません。絶対に俺のものではないです。」
「鞄に入っていたのだから、君のものなんじゃないですか?」
PTAの役員が訝しげに尋ねた。解は声の方向を向いて答えた。
「そう思われるのはもっともなんですが、俺は触ってもいません。」
「二人の鞄は山下先生達が見つけたんでしたね?」
「はい、校長。空き教室に鞄が置かれていて、誰の物か複数人で確認しました。」
「そうですか…。分かりました。これ以上は水掛け論ですから、先に③の話をしましょうか。」
校長が終わるのと同時に聖が手を上げた。
「校長、その前に少し意見を言わせて下さい。仮に黒条君、茅野君が不良であってもわざわざ学校にナイフや煙草は持ってきません。現に学校の内外で使う姿は一度も見られていません。空き教室に堂々と見られて困るものが入った鞄を置き去りにするのもおかしいです。」
「忘れただけとか、後で隠すつもりだったかもしれません。ばれても言い逃れできるとか、見られないと思ったのでは?」
教師の一人がやや皮肉っぽく意見した。言い返そうと聖が口を開きかけた時、校長が書類を揃えるためとんとん…と音をさせた。
「橘さんも先生もありがとうございます。ただ、仮定の話だけでは何とも言えませんので、最後の③をしてからにしましょう。③は畑先生が警察との窓口でしたね?」
校長に聞かれ、畑は慌てた様子で答えた。
「は、はい校長。事件を説明すると、球技大会当日の13時から14時半ごろ、2B教室で生徒四人の財布や制服がなくなりました。警察にお願いしていますが、犯人はまだ分かっていません。」
「その時財布を盗まれた生徒のクレジットカードが黒条君の鞄に入っていました。」
山下が話をしながら解を蔑んだ目で一度見た。話し終えた畑は勝ち誇った笑みを解に向けた。そして書類を見ていた校長が解を見た。
「黒条君はどう思っていますか?」
「盗みなんてしていません、それだけです。」
解は校長に素直に言った。これ以上言うことがなかった。
「意見していいでしょうか?」
今まで黙っていた始音が初めて手を挙げた。
「どうぞ。」
「はい。球技大会では黒条君、茅野君は率先して田中先生の救命処置をしてくれ、また校門での喧嘩では私と女子生徒を助けてくれました。担任として見てきた二人がそんな悪さをするとは思えません。感情的な話なんですが…。」
そう言って始音は俯いた。山下や他何人かは始音を蔑むような目で見ていた。解は始音の顔色が悪い理由を感じ取り、怒りが込み上げてきた。しかし暴れるわけにもいかなかった。
「感情といえば、黒条は愛情研究会という同好会を作っています。友情や恋愛について考えるそうですが、会員の喧嘩、不純異性交遊の疑いなど問題点が多く、会を取り消すべきだと思われます。」
山下が始音の話を無視して説明すると、PTAの面々が頷いた。PTAの人々は愛情研究会が特に気に入らないようだ。さらに他の教師が続いた。
「そもそも黒条は小・中学生の頃から何度も問題を起こしているだろう。髪もそんな色で地毛だなんて嘘を吐いて、その上親もおかしいとかいう話じゃないか。親子で散々人に迷惑をかけておいて、今回は自分じゃないと言っても誰も信じないぞ。あまりに自分勝手だ。」
「親も親なら子供も子供か。情けない…。」
「全く、どう教えたらこんな子供になるのか…。」
「堤先生は担任なのに何をしているんだか。同好会の顧問も引き受けて…。」
PTAの側からも声がして、会議室は波立つようにざわついた。校長は眉をひそめ全体を観察していた。始音は目を強く閉じ、聖は不快そうに顔をしかめていた。そして校長が話を止めるために手を上げようとした時、
「それ以上喋るな。」
低く静かに、そして凄みのある声ではっきりと解は言った。その場の誰もがぎょっとして解を見た。解は立ち上がり怒りを露わにして教師とPTAの人々を見、いや睨んだ。
「真をよく知りもしない人間があいつを勝手に評価するな。そして、堤先生を侮辱するな。先生は何も悪くない。これ以上二人を悪く言うのは絶対に許さん。」
「そんな脅しが効くと思うのか⁉」
「これは脅迫だ!」
動揺した山下と畑が怒り叫んだが、解は全く恐れる様子なく二人を睨み、今にも飛び掛かりそうだ。会議室全体が一気に騒がしくなる中、聖は言葉を失い解や教師達を見るしかなく、始音は真っ青な顔で解を見つめていた。
がらっ!
いきなり戸が開き全員が一斉に入り口を見ると、そこには透矢が立っていた。ようやく来た透矢は解の隣まで悠然と進むと、解の肩を叩き笑った。
「遅くなって悪かった。準備に手間取ってな。後は任せろ。ここにはお前が怒る価値なんてない。」
透矢は教師やPTAの人々に目を向け冷たく笑った。
「遅れてすみません。色々資料をそろえていたもので。」
「茅野、お前ふざけてるのか?お前のための会議で遅刻なんて、いい加減にも程があるぞ!」
山下が怒鳴るが透矢は山下を無視して持っていたノートパソコンを広げた。少し操作すると、おもむろに音声が流れた。音声は畑が始音を脅している会話だった。
「全文は出しませんよ、聞くに堪えないんで。…畑先生、ずいぶん楽しそうですね。女性を脅して関係を迫るのが趣味なんですか?」
「な…。」
透矢は言葉が出ない畑に笑いつつも淡々と尋ねた。そして畑の返事を待たずパソコンを再度操作し、今度は大人達が見えるよう画面を向けた。今度は動画が映し出され、畑が何かを持って廊下を歩く場面、そして畑がどこかの部屋で二つの鞄を触り何かしている場面だった。透矢は冷笑を浮かべつつ言った。
「前半は球技大会当日のものです。この映像では何を持っているかははっきりしませんが、恐らく制服でしょう。他の画像も確認すればあの日の犯人が誰か分かるでしょうね。後半の画像は俺達愛情研究会に設置したカメラの画像ですよ。俺と解が鞄を忘れた日にのこのこ部屋に現れて何かするなんて、怪しいにも程がありますね。これも何をしているかは見えませんが、画像を続けると次に出てくるのは山下先生なんで、畑先生が何をしていたかは言わなくても分かりますよね?」
透矢は笑っていたが目は全く笑っておらず、その様子は周囲には恐怖すら感じるものだった。誰も何も言わないことを確認し、透矢はさらに続けた。
「それと、解を襲った四人の内一人を捕まえまして、SNSの裏バイトだって裏も取りました。画像と動画データを依頼人に送ったことも聞きました。その辺りの証拠は保存してますから、後は畑先生のスマホを警察に調べてもらえばいいかと。」
「で、でたらめだ!全て偽物だ!」
「そ、そうだ。それにたとえ本物であっても盗聴、盗撮じゃないか!」
畑が動揺しきった声で叫び、その叫びに他の教師も続いた。批判を受けた透矢はゴミを見るような目で畑を見た。見られた瞬間畑はびくっと硬直し口を閉じた。
「でたらめかどうか判断するのはお前じゃない、警察だ。それに盗撮じゃない、自己防衛だ。…クソが意見するな、耳が腐る。」
解はさすがに驚いた様子で透矢を見ていた。
透矢は今出しているデータを編集していたのだろう。どうやってこれだけの情報を得たのかは全く分からないが、相当な労力と準備、そして今後を予測する力が必要だろう。とにかく透矢の情報はこの会議どころか他者の人生をもひっくり返せるだけの力があった。解は今更ながら透矢の強さを思い知った。
解が考え事をしていた短い間にも透矢はパソコンで次々と画像を出していった。そこには会議に出席している山下を含めた教師数人、そしてPTAの人が写っていた。
「さっきは畑先生のデータでしたが、他にも色んなものがありますよ。例えば山下先生が女子大生と援交してる画像とか、そこのPTA役員さんの不倫現場とかね。もし見たければ俺か警察に言って下さい。俺の持っているデータは校長と警察に提出しますので。」
透矢は驚きと動揺、そして恐怖で言葉が出ない大人たちを嘲笑っていたが、ふいに無表情になり暗い怒りが込められた声を出した。
「生徒を虐げる奴、生徒をはめる奴、性欲丸出しの奴、強い奴に追従する奴、何が正しいか自分で考えない奴、色んな奴がいますけど…どいつもこいつもクソなんだよ。そんなクソ共が解や堤先生、研究会の奴等に近づくな、話しかけるな。潰すぞ…。」
透矢の怒りの前にほとんどの出席者が押し黙る中、校長は恐れることなく落ち着いた様子で透矢と目を合わせた。
「資料をありがとう、茅野君。後でデータは確認します。それから警察お願いしましょう。しかし茅野君、いくら準備が大変でも会議に遅刻してはいけませんよ。それに、口が悪いのもいいとは言えません。相手を怖がらせ萎縮させては議論ができなくなってしまいますよ。」
校長は言葉の最後にはわずかに笑みを浮かべて透矢に話していた。校長を見ていた透矢は怒りの気配を消し真面目な顔になり、姿勢を正して校長に頭を下げた。
「以後気を付けます。すみませんでした。」
校長は頷くと、会議室全体に向けて穏やかだが強くはっきりした口調で締めくくった。
「会議を終えましょう。茅野君と黒条君は今日中に私から電話をさせて下さい。そして教師は全員残りなさい。堤先生は帰ってよく休んで下さいね。PTAの方々は適宜帰ってもらって大丈夫です。ありがとうございました。」
処刑場のような空気の会議室に始音以外の教師は残され、PTAの人々はそそくさと帰っていった。がらんとした廊下には解と透矢、聖だけが立っていた。そして三人に続いて始音が会議室から出て来た。
「始音、大丈夫か?」
解は始音に駆け寄って尋ねた。今さら聞いても意味はなかったが、聞かずにはいられなかった。幸い、始音は会議の最中よりは少し顔色が良くなっていた。
「ええ、ちょっと疲れてるけど、大丈夫。心配してくれてありがと。」
「そうか…。」
「ちょっとじゃないですよ!あんなことをしてきた相手がいる会議に出席するなんて、どれだけ負担になるか…。」
聖は心の底から憤慨していた。一部を聞いただけの自分ですら不快で許せないのに、始音にはどれだけの苦痛だっただろう。
「全くだ。というか、遅くなって悪かった。学校の画像音声は今日見て編集したから、如何せん時間がかかった。」
透矢はいつもの余裕のある態度にいつの間にか戻っていて、真面目な顔で解と始音に頭を下げた。
「ほんとに大丈夫よ。茅野君が言いたい放題言ってくれたから、ちょっとすっきりしたしね。」
始音からわずかに笑顔が見られたので、解は少しだけ安心した。ただ始音に何もできなかったことをちゃんと謝りたかった。
「ならいいが、無理はしないでくれ。嫌な思いをさせた上に一人で我慢させてしまって、本当にすまなかった。それと、俺達のために頑張ってくれてありがとう。」
解は本気でこちらを心配してくれている。解の思いが感じ取れた始音はとても嬉しかった。この数日耐えたことが無駄ではなかったと思えた。
「…しかし、とんでもないものを見ちゃった気がするわ…。」
軽口を言う余裕が出て来たのか、聖はため息を吐きながら呟いた。その呟きに透矢がわざとらしい笑顔を見せながら反応した。
「どうしたんですか、会長?」
「分かって言ってるでしょ。あなたのことよ、茅野透矢君。今回は重要な証拠だったからいいけど、方法は違法ぎりぎりでしょ?」
聖に注意されて透矢は肩をすくめた。
「まあ、否定はしませんね。ただ俺にもルールがあるんで、基本は使いません。クソを潰すためだけですよ。」
「もう使わないでね、心臓に悪いわ…。」
ため息を吐く聖の横で、解は透矢に気になっていたことを尋ねた。
「それにしても、あんな情報がよく手に入ったな。」
「日々の先読みと準備のお陰だ。後はまあ、勘だな。昔から下らないことに限って鼻が利くんだ。」
透矢はどうでもいいことのように言い放った。透矢にとって自分の能力は利用価値こそあるものの下らないものだった。
「俺のことはいいさ。それよりもやることはやったんだ、とりあえず帰ろうぜ。」
透矢は自分の話を続けることなく解達に帰宅を勧めるのだった。
靴を置いた場所がいつもと違ったため、聖は解達より先に帰宅した。帰る時もきっちりしていて、さすが生徒会長といったところだった。聖を見送った後に解達も帰ろうと歩いていると、解と始音の後ろにいた透矢がふいに立ち止まった。そして、解は透矢が止まったことにすぐ気付いた。
「どうした?帰らないのか?」
解は振り返って声をかけたが、透矢はすぐには答えずわずかに沈黙した後、話し始めた。
「お前等が見たように、俺は犯罪まがいの方法でクソどもを吊し上げられる人間だ。ようは俺もクソってことだな。今まで最低限は隠してたがもうばれたことだし、俺はまた一人でやっていくかな。」
透矢は自嘲気味にそれだけ言うと解に背を向けて歩き出そうとした。しかし、解は強い口調で透矢を呼び止めた。
「待て透矢。ちゃんと説明しろ。」
「言った通りだ。愛情研究会を辞めて、お前達とつるむのも止める。というか、つまらないから退学するかな。」
「…。」
透矢は言い終えて歩き出した。始音は気遣うような視線を解に送り、解はじっと透矢の背中を見ていた。そして、透矢にもう一度声をかけた。
「おい透矢、待て。」
「何かまだ用か、っ…⁉」
いきなり解は透矢の頬を殴った。本気ではなかったようで、透矢は少しよろめいただけで立ち直り意外そうに解を見た。そして始音は解の行動に驚き声をあげた。
「ちょっと解君⁉何してるの⁉」
「…どうした、解?遅い反抗期か?」
「お前こそどうした。喧嘩は友情を形成するための相互理解に役立つ、そう言ったのはお前だぞ。」
透矢は無言のまま解を見ていた。透矢の顔は無表情で感情は読み取れなかったが、解は気にすることなく言った。
「屋上で一戦、前のルールでやるぞ。お前の鬱憤・鬱屈、俺にぶつけてみろ。」
つい先ほど退学を防いだばかりなのに、解と透矢は殴り合うために学校の屋上で向かい合っていた。
「二人ともやめなさいよ!何もこんな時に喧嘩しなくてもいいでしょ?」
「体調が優れない時に悪いんだが、始音は黙って見ていてくれ。本気でやらないと意味がないと前回学んだからな。」
「でも防具もないし、危険よ!」
「「…。」」
始音は解たちを心配していたが、透矢に集中している解は始音の声に答えず構えた。透矢も無言で構えた後、静かに言った。
「じゃあ解、俺の悪意を叩きつけてやる。」
言った瞬間、透矢は解に向かって突進した。透矢のパンチを防いで解はローキックしたが、透矢は脛の痛みを無視して再び顔へパンチした。それも解は防ぎ再度同じ足を蹴ったが、透矢は意に介さず攻撃を続けた。
今回の喧嘩はまさに気持ちのぶつかり合いだった。落ち着いて相手の攻撃を受け返す解に対して、透矢は防御に重きを置かずひたすら前に出て殴り、蹴った。それなら普通透矢の方が先に疲れ弱ってくるはずだが、透矢の目は爛々と光り、時折出す叫びも弱まる様子を見せなかった。
お互い一歩も引かず戦っていたが、解の蹴りが腹に入ると透矢は思わず後ろによろめき、その動きが初めて止まった。その時、俯きながら透矢が話し始めた。
「俺には親も子供も生徒も教師も老人も、全ての人間が等しくクソに見えるんだ、昔からな。別に生活は普通だった。誰かに虐げられたこともない。要は俺の目と頭がクソだってことだ。」
「…。」
解は透矢の独り言のような話を黙って聞いていた。この戦いは心のぶつかり合いなのだから、湧いてくる話はとても大事なものだ。
「クソは嫌いなんだ。だから、どいつもこいつも潰してやった。会社の金を使った父親も、若い男と遊んだ母親も、同級生も、上級生も、教師も。両親を潰して家庭を壊した時も躊躇いはなかった。それでも、どれだけ目の前のクソを潰しても、俺の目も俺自身も汚物のままだ。特に俺は、真っ当に生きる奴らもクソにみえるような、な!」
言い終わると同時に透矢は解に走り寄り横腹を蹴りつけた。解はまともに蹴りを受け、よろめき屈み込んだ。透矢は怒号を放ちながら屈む解を殴り、蹴りつけた。息が切れた透矢は攻撃を止め、小さく丸まって何とか攻撃に耐えた解に語った。
「俺はお前達ですらクソにしか見えない。…俺といてもお前には何の利益もない。クソと相互理解ができるはずもない。分からないか?」
その瞬間、透矢は顔を殴られ屋上に倒れた。立ち上がった解は拳を握りしめ力強く言った。
「分からないから殴り合ってるんだ。俺達がクソに見えても、お前が自分をクソだと思っても、お前は俺に多くのことを教えてくれた。そして俺もお前に何かしらは与えていると思う。拙い俺の定義では、俺はお前の友人、お前は俺の友人だ。だから今、お前と分かり合うために戦うんだ。」
「…。」
倒れていた透矢はよろよろと起き上がった。解の言葉は聞いていたはずだが、何も答えなかった。目にはまだ気力があるものの、体がついてこないようだ。それでも透矢は無理矢理体を動かし殴りかかったが、解に防がれ、蹴り飛ばされて倒れた。透矢はもう起き上がろうとはしなかった。
喧嘩が終わると解はゆっくり体を引きずるように透矢の横まで行き、隣に座った。透矢は倒れたまま仰向けになった。二人とも休まないともう一歩も動けなかった。
「二人とも大丈夫?手当てするから、じっとしてなさい。」
保健室から救急箱を取ってきていた始音が二人の手当てを始めた。二人とも、割とボロボロだった。
「完敗だ。…だがまあ、こんなにすっきりしたのは初めてかもな。」
「少しは気持ちが晴れたか?」
「まあな。…お前、堤先生、霧谷、川野辺。面白い奴等だよな。」
「それでもクソに見えるんだな。」
「ああ。だがそれだけじゃない。なんでお前達が面白いと思う?」
「…愛情が何か調べているところ?」
「惜しいな。正解はお前等が、特に解、お前が馬鹿だからだよ。図体は大人なのに精神的にはまだ子供で、愛情が分からない。でもな、そもそも大抵は愛情が何かなんて分かってない。正確な定義を求めたり言語化したりするのが無謀なんだ。」
「だから俺が馬鹿ってことか。」
「そうだ。そしてお前に惹かれて集まった奴等もやっぱり馬鹿だ。ただ、その馬鹿共は無駄な虚栄・虚飾がなくて、何というか、不器用なんだよな。」
「何しろ馬鹿だからな。」
「ははっ、その通りだ。そんな馬鹿だからいいんだ。お前達はクソだろうと価値も意味もある。愛情研究会風に言うなら、俺はきっとお前達に友愛を感じてるんだ。勝手にな。」
「俺も勝手だぞ?」
「違いない。」
透矢は皮肉っぽい口調だが穏やかな顔で、時には笑い話をした。解はいつも通りだが、いつもよりどこか楽しそうだった。始音はそんな二人の話を聞きながら手当てを続けていた。
手当てが終わると始音は二人に言った。
「さ、帰るわよ二人とも。私も疲れたわ。」
「ああ。」「あいよ。」
解と透矢は同時に返事をした。別れ際、透矢はにやりと笑って解を見た。その笑顔はひと癖ある余裕を持った、いつも通りの透矢がする笑顔だった。
「それじゃ帰るか。そうだ、今日くらい解は堤先生を途中まで送ってやれよ。…じゃあな。また教室と同好会で。」
返事を聞かず透矢は帰っていった。解と始音はお互いを見て、解が言った。
「途中まで送ってもいいか?」
「同じこと言わないの、もう。…でも、今日くらいはお願いしようかしら。」
何でもない話をしながら、始音と解はようやく帰路についた。




