No.11 完結
「あ、お帰りなさい、解君。」
「お疲れ様、麗さん。」
学校が終わり、自宅で家事を済ませた解は銭湯に仕事に来ていた。全くもっていつも通りの光景だった。
年が明けて三学期が始まっていた。冬休み、解達愛情研究会の面々は集まって活動することもありながら、つつがなく年末年始を過ごしていた。年末に色々あった解はようやく落ち着きを取り戻し、七海や始音に近づかれても動揺しなくなっていた。しかし解に変化は起きていて、そっと距離をとったりくっついた七海をたしなめたりするようになった。つまり、解は女性を「ヒト科ヒト属ヒト 性別:メス」ではなく「男性としての自分に対する女性」として見るようになったのだが、始音を筆頭に女性陣が何かイベントを起こすことはなかった。今更焦っていないこともあるが、今の関係が全員にとって居心地が良かったという証拠でもあった。
話を戻し、解が麗の代わりに番台に座った。
「じゃあ代わるから、休んでてくれ。」
「お願いね。」
何となく麗の後ろ姿を見送っていた解だったが、そんな解に高齢の客が近づいてきた。
「こんにちは、解君。」
「どうも、白米さん。」
白米氏は近所に住む、解の祖父が銭湯を経営していた頃からの常連で、解も顔と名前を覚えていた。そしてそんな白米氏は麗が消えた方向をちらりと見た。
「来たばかりの解君に聞くのも悪いんだけど、麗ちゃんと何かあったかい?」
「え?いえ、別に。」
解は一瞬お風呂同伴事件を思い出したが、少し前のことなので首を振った。白米氏は腕を組んで唸った。
「そうか…。麗ちゃんがどうも機嫌が悪そうに見えたんだけど、解君が知らないなら大丈夫かな。」
「麗さんが不機嫌、ですか?」
解が知る限り、麗は怒りや苛立ちなどを冗談以外ではほとんど見せない人だ。その麗が客から見て不機嫌とは、にわかに信じがたいことだった。怪訝そうな解に白米氏は笑顔になって話を続けた。
「珍しいことだけど、解君や真君のことならあるんだよ。だから今回もそれかなと思ったんだ。」
「そうですね。俺にも麗さんにも、特に変わったことは起きてないと思います。」
「なら私の気のせいなんだろう。邪魔して悪かったね。」
「あ、いえ。今後ともご贔屓に。」
解は頭を下げて白米氏を見送ると、番台の椅子に座ったまま考え込む様子だった。
「麗さんが不機嫌、か。」
不機嫌という言葉が不思議と解の心に張り付いていた。
話を聞いてから解は麗をそれとなく観察していたが、結局麗が機嫌悪いのかどうかはよく分からなかった。しかし、麗の様子がいつもと違うのは確かで、例えばこんな会話があった。
「解君、最近変わったことはない?」
「変わったこと?」
「あ、何にもないならいいの。皆と仲良くしてるかなとか、学生生活でストレスが溜まってないかな、とか思って。」
「そういうことなら大丈夫だ。麗さんが心配するようなことは何もないぞ。」
「良かった…。でも、何かあったら必ず教えてね。解君はいつも一人で解決しようとするから。」
「ああ…。」
麗ははっきりものを言うことが多く、曖昧な質問をする時は笑顔で追い詰める時ぐらいだ。しかも、話の終わりに浮かべた笑顔は解が見る限り誤魔化すための笑いだった。解でも分かるような下手な誤魔化し方をいつもの麗がするはずがない。
結論として、麗に「何か」があったのは事実なのだろう。時間は家で解と別れてから銭湯で会うまで、場所は家か銭湯だ。しかし、これ以上具体的なことは麗に聞かないと分からない。一応解も先の会話の終わりに、
「何か気になることでもあるのか?」
と付け加えたが、答えは何もなし、だった。
(…まあ、悩みや困りごとではないか。)
結局考えた末、解は無理に聞き出さず経過をみることにしたのだった。
しかし、おかしなことは麗だけに留まらなかった。
「先輩先輩、あーん。」
「…はい。」
「(もぐもぐ)。ありがとうございます!」
「幸せそうに食べるもんだな。霧谷も川野辺を見習ったらどうだ?」
「絶対しないから。」
愛情研究会は放課後に解が作った薯蕷饅頭を食べていた。始音はついさっき電話のため席を外していた。これだけならいつものことだが、今日は珍しく客がいて、その客は瀬奈達を見てくすくす笑っていた。
「ふふっ。相変わらず面白いグループね。」
「橘先輩、新しい生徒会ってどうですか?」
「うまくいってるみたい。会長副会長が辞めただけだからね。…あら、おまんじゅうおいしいわね。解君、これあんこも手作り?」
「ああ。時間があったから作ってみた。」
「相変わらず主夫してるのね…。」
珍客は前生徒会長の聖だった。三学期になると学校に来ない三年生も多いが、推薦が決まっている聖は暇だった。生徒会の様子を見るついでに、校則のことで共闘した愛情研究会に遊びに来たのだった。
「生徒会は問題ないし、校則の改定も来年度には形になりそうだし、進学も決まったと。不安材料がないって気持ちいいわね。」
「すごいですね!つばめちゃんも尊敬してました。」
「尊敬してもらえる程じゃないけどね。したいことをしただけだから。」
「そう言えるところがすごいと思いますよ。解君なんて進路を決められなくて困ってますから。」
楽しそうな聖、七海、瀬奈に対して解はやや渋い顔をしていた。
「一応進学するぞ。」
「一応、ね。あなたなら悩んでいいんじゃない?動き始めたらすごいんだから。」
ぼそりと答えた解に聖が笑顔を向けた。解を信頼している、毒のない明るい笑顔は解には眩しかった。
生徒会での用事が済み、そして聖を振って以降、解は聖とあまり話ができていなかった。しかも聖は三年生なので休みに入ってしまい、残るは卒業式だけかと諦めていた。そんなことで解はこの度聖に会えて良かったのだが、振った相手にどう接するのがいいのかと内心戸惑ってもいた。
そんな解を知ってか知らずか、聖は饅頭をのんびりと饅頭を食べつつ談笑していたが、食べ終わるとよいしょ、と立ち上がった。
「堤先生は戻ってこないけど、いい時間だから帰るわ。黒条君、協力者のよしみで校門まで送ってくれる?」
「俺か?」
「解君で良ければどうぞどうぞ!」
「先輩、行ってらっしゃいです!あ、でも帰ってきて下さいね。」
瀬奈と七海によってあれよあれよと聖をエスコートすることになり、ややぽかんとしたまま解は聖の隣に立つのだった。
聖と解は校舎内をのんびり歩いていたが、会話はなかった。解は何を話そうか考えていたが、聖は窓の外を見ていて様子を窺い知ることができなかった。…窓の外に何か見えるのだろうか?
「…何か見えるのか?」
「ん?別に何も。ただ、四月からここに私はいないんだなあって。」
「まあ、そうなるな。」
「不満はないけど、私も黒条君と同じ学年だったらな、なんてね。」
「…それは、どうだろうな。」
解は何と答えたらいいのか分からず、曖昧に返事した。すると、聖がふいに解の方を向き意味ありげに笑った。
「何だかぎこちないわね。もしかして私といると気まずい?」
「そんなことはない。二人で話せる機会ができて良かったと思ってる。…んだが、下手なことを言って不快な思いをさせたくないだけだ。」
「ふーん。相変わらず優しいのね。」
聖は茶化すのを止め笑った。自然で柔らかい笑顔だった。
「前にも言ったけど、あんまり気にしないで。私は解君に悩んでほしいんじゃないんだから。」
「考える方だから、切り替えがうまくないんだ。聖は割り切れるのか?」
「うーん…。正直言うとまだ。…だって、本気だったから。」
聖は指で髪をくるくるしながら少し恥ずかしそうに、少し気まずそうに笑って答えた。解は聞いたことを後悔した。振った側が聞く質問ではなかった。…と思う一方、聖の言葉でわずかにほっとする自分がいた。嫌悪ではなく友愛なりの愛情をまだ向けてもらえることが嬉しいのだろう。…自分が振ったくせに、都合のいい話だ。
「…悪い。無神経だった。」
「え?あ、ごめん!今のなし。忘れて!」
「…いや、難しいだろう。」
「あ~…、失敗ね。さっぱりした格好いい先輩の姿を見せたかったのに。…はい、黒条君!」
「ん?」
勢いよく聖に呼ばれたので解が聖の方を向き直ると、聖がいきなり解の両頬を掴んだ。
「じゃあ忘れなくていいわ。世の中には自分を好きになってくれる人がちゃんといるってこと、覚えておいて。」
「あ、ああ。」
「もめ事に巻き込まれがちみたいだけど、頑張って。大切な人、大切にしてくれる人のためにもね。」
「分かった。」
「よろしい。」
聖は解を解放し、靴を履いた。いつの間にか校門前の玄関まで来ていた。
「じゃあ帰るわ。見送りありがとう。堤先生にもよろしくね。」
「ああ。気をつけて。」
言うことを言ったのか、聖は颯爽と帰っていった。解は振った相手に励ましてもらって情けなかったが、同時にありがたくもあった。聖と話せてよかったと素直に思えた。
「あ、先輩!お帰りなさい!」
「お帰り。」
「お帰りなさい。」
解が同好会室に戻ってくると、瀬奈達に加え始音が戻っていた。聖の伝言があったので、解は座りながら始音を見て言った。
「ああ。始音も戻ったんだな。聖がよろしくと言ってたぞ。」
「そう。ほとんど話ができなくて悪いことしたわね。あ、ところで解君、外に変な人とかいなかった?」
「変な人?いなかったが、急に何だ?」
意図の分からない質問だったので、解は思わず聞き返した。周りの七海達も同様に不思議そうだ。
「さっき電話で変なこと言っててね。いたずらだと思うけど、不審者とかをちょっと考えただけ。」
始音は肩を竦めて答えた。いい迷惑、とでも言いたげだった。そんな始音に七海が少し心配そうに尋ねた。
「さっき呼ばれたのって、不審電話が来たからだったんですか?」
「あー、大丈夫よ。別に爆破予告!とかじゃないから。」
「じゃあ何、って、電話の中身を聞いたら駄目ですね。」
「そうよ、瀬奈ちゃん。教員も守秘義務があるの。ちゃんと先生のことを分かってくれて嬉しいわ~。」
「ちょ、ちょっと、始音先生!くっついてこないで下さいよ!」
始音は瀬奈と七海とじゃれていて、いつも通りの様子だった。聞き始めこそおかしな質問も、理由を聞けば別に違和感はなかった。しかし、解には何とも言えない違和感と既視感があった。
『最近変わったことはない?』
麗の言葉と様子が始音に重なり、始音も麗のように何か隠しているのではないかと思ってしまった。しかし始音が言ったように守秘義務がある上、解が力になれるかどうかは分からない。しかも、折角楽しそうにしている始音を問い詰めることはしたくない。
(様子を見るしかない、か…。)
麗の時も同じ結論だったが、結局のところ自分に力がないから何もできないのではないか。何もできない自分を正当化するための言い訳なのではないか。そんな疑いを持ちながら、それでも何もできない自分が情けなかった。
ところで、同好会室の中で一人空気のように存在感を消している人間がいた。透矢だ。
「…。」
透矢は解達全員をじっと観察していた。電話で始音が呼ばれるまでは透矢も会話に参加していたが、部屋を出る時の始音の表情が気になった。始音はわずかに緊張しつつもすぐに強張りを隠して普通を装った。加えて、ほんの一瞬だが解を見た。そこで透矢は会話から離れて友人達の観察を始めたのだった。
(さて、何があったのか…。)
戻って来てから始音はいつも通りの振る舞いを努めていた。この場の人間は気付いていないが(解は違和感を覚えているようだが)、始音が何か隠しているのは明らかだ。そして始音の言動から「何か」は解に関係していて、かつ解に説明しにくい問題なのだろう。
(また面倒なことになりそうだな。)
そう心の中で独りごちると、透矢は何食わぬ顔で会話に参加するのだった。
その後、大きな事件はすぐには起きなかった。敢えていうなら、解には麗と始音が妙に自分を心配しているように感じられた。しかし、気のせいか、あるいは自惚れかもしれないとも思った。確証が持てない解は結局、始音達が心配しなくてすむ行動を心がけることにして、いつも以上に規則正しい生活をするようになった。そのお陰か解は発作も起きず、仲間達と穏やかに日々を過ごしていた。
しかし、それでも少しずつ事態は進んでいたのだった。
「うーん…。」
「お、おはよう解君。どうしたの?朝から唸って。」
2月に入る直前、朝のホームルーム前。解は自分の席で腕を組んで考え事をしていて、そこに瀬奈が気になって声をかけた。正確には瀬奈が声をかけようかと迷った結果、女友達に押し出されたのだが。
「ああ、瀬奈か。おはよう。…それが昨日、麗さんが途轍もなく機嫌が悪くてな。」
「え?麗さんが怒ったの?そんなことあるの?」
麗も人間だから怒ることもあるはずだが、そんな麗を瀬奈は想像できなかった。解の隣で笑っているのが瀬奈から見た麗のイメージだ。しかも「途轍もなく」というともっと想像できなかった。
「俺も初めてだった。常連客も驚いていたな。全身から黒いもやが出ていた、といったら分かるか?」
「…何となく分かるけど、全然想像できない。キャラが違い過ぎて。」
「キャラ付けなんていい加減なもんだ。違って当然だぞ。で、なんでそんなことになったんだ?」
いきなり背後から声がしたので瀬奈は一瞬驚いたが、すぐに呆れ顔になって声の主に挨拶した。
「おはよう、茅野君。びっくりするからいきなり話に入らないでよ。」
「ああ、悪いな。解が気付いてたからつい。で?麗さんが怒った理由は?」
透矢はにやりと笑いながら席につき、再度解に尋ねた。その声は様子に反して真剣で、悩んでいる解には頼もしく感じられた。
「…分からない。聞いても俺は悪くない、心配するなと言うだけだった。」
解は渋い顔で目を閉じた。心配するなと言う方が無理な話だった。話を聞いて、透矢と瀬奈も思案顔になった。
「解には言いたくないってことか。」
「個人的な悩みとか?」
「…いや、違う。麗さんは自分自身のことであれほど怒らない。」
「ああ、だから尚更心配なわけだ。」
「ああ。」
透矢は合点がいったように何度か頷き、解も透矢に答えて頷いた。麗自身のことでないなら、麗が怒った原因は解が関係している可能性が高い。つまるところ、解は麗が不機嫌な理由はやはり自分ではないかと考えていた。
「でも、それで暗くなっちゃ駄目だよ。たとえ解君が関係してても、解君は麗さんに悪いことなんてしてないんだから。」
瀬奈は強い口調で言った。何もしてない解が責任を感じて落ち込むのはおかしい。何より瀬奈が嫌だった。それに、解が落ち込んだら麗も悲しいはずだ。
「霧谷の言う通りだな。解が何かしたわけじゃないだろ?」
透矢は瀬奈の言葉に乗った。瀬奈の意見が正しいことに加え、透矢としては瀬奈がはっきり反論したことに価値があった。瀬奈の成長を買い、今回は瀬奈を応援することにしたのだ。そうして二人の話を聞いた解は自分の言動を思い出しながら透矢に答えた。
「ああ。絶対かどうかは分からないが、何もしてないはずだ。」
「だろ?ならいつも世話になってるんだ、たまには大丈夫と言われても食いついて、助けになってみたらどうだ?」
「…俺で力になれると思うか?」
「知るかよ、そんなこと。聞いてみないことにはな。」
「…。」
解は無言で瀬奈と透矢を見た。瀬奈は大丈夫と応援するように、透矢は口とは対照的に頑張れよと励ますように解を見ていた。…本当に、自分には過ぎた友人達だった。
「…分かった。今日はしっかり聞いてみる。」
「うん!」
「そうか。」
解はありがとうとは言わなかった。成果を出してから言うつもりだが、照れくさい思いもあった。お風呂同伴事件の時といい、気恥ずかしく感じることが増えたものだと思っていた。
朝に透矢達と話してから、解は麗とどう話すかをずっと考えていた。そのせいで気付けば昼休みになり、放課後になり、そして帰宅する時間になった。
「先輩、もし話すのが不安だったら私もご一緒しますけど、どうですか?」
七海が解の裾をくいくい引いて尋ねた。以前自分が解について来てもらったので、と意気込みは十分だった。
「大丈夫だ。それに、俺以外には話しにくいことかもしれない。悪いが、今回は遠慮しておく。」
「そうですか…。」
解の力になれず、七海はしゅんとしてしまった。解は残念がる七海の頭にぽん、と手を置いた。
「気持ちだけで十分助かってる。だから、そう気落ちしないでくれ。」
「は、はい!ありがとうございます!」
瀬奈はそんな二人を見て苦笑していたが、ふと何か思い出したような顔をした。
「そういえば、結局始音先生、放課後も来なかったね。何だったのかな?」
「そういえばそうだな。授業中に呼ばれてそれっきりか。」
「そうだな。」
透矢と解も瀬奈につられ、始音のことを思い出していた。
始音は五限目の英語を担当していたが、その授業中、急に他の教師がやってきて始音と話をした。始音は話が終わると授業を自習にして出て行き、その後戻ってこなかった。放課後の愛情研究会にも結局来ないままだった。
「一応堤先生も教師だからな。放課後も忙しいんだろ。…それはそれとして、授業での様子は気になるんだがな。」
透矢は瀬奈の疑問に答えながらも自身の疑問を付け加えた。
始音を呼びに来た教師は困ったような顔をしていた。そして、話を聞いた始音は「はあ⁉」と声を出した。思わず口から出たのだろうが、あれは純粋な驚きではなく否定的な意味が込められていた。そして去り際の始音は非常に緊張した様子で、面倒事が起きたことは明らかだった。
「始音先生って私達といる時はちょっとあれだけど、見てないところですごく頑張ってるんだろうね。大丈夫だといいけど…。」
「始音も何か困ってるのかもしれないな。手助けできればいいんだが…。」
「仕事関係だと俺達じゃ難しいだろうな。まあ、解が優しくしてやるのが一番有効だろうな。」
「そうですね。始音先生も先輩になら甘えられそうです!」
「そう、なのかもな。」
既に始音からは好きだと言われているので七海の言うことは正しいのだろうが、素直に同意しにくい解だった。
そんな風に解達が話をしながら校門を通り過ぎた時だった。生徒もほとんどいない校門前で、校舎から見えない位置から声がした。
「●●…?あなた、●●でしょ?」
解はよく聞き取れなかった。しかし、眠っていた遠い記憶が激しく反応していた。「関わるな!」と頭の中で誰かが叫んでいたが、解は声がした方に体を向いた。
女性が一人立っていた。30代だろうか、美人だがあまり健康そうではない顔だ。身なりは落ち着いた風を装っているが、指輪やネックレス、化粧は派手であり、気が強そうな印象を受けた。女性の特徴はそれくらいのものだが、その知らない女性を見るだけで解の心は乱れていた。頭の中は乱れてまとまらず、息は詰まりそうだった。
「誰…?」
知らない名前を出して話しかけてきた女性に瀬奈が戸惑っていると、女性も若干怪訝そうな顔をした。瀬奈達を無視して再び解に話しかけた。
「だからあなた、●●よね?面影があるし、何よりあいつ、真に似てるもの。似なくていいのにね。」
「ぁ…。」
「あ、あの、●●って誰のことですか?私達、きゃっ!」
七海は解の様子に気付かないまま一歩前に出て女性に対応しようとしたが、急に解に手を引かれよろめいた。かなり強く引っ張られたようで、七海はよろめく勢いで瀬奈にぶつかった。
「大丈夫?」
「は、はい。」
「ちょっと、急にどうしたの解君、って…。」
痛くはなかったが、瀬奈と七海は解の急な行動に驚きつつ解を見た。そして二人はさらに驚き言葉が止まった。
解は明らかにおかしかった。元々色白な方だが、今は青白くまるで病人のようだ。しかも表情は凍り付いたように固く冷たかった。目には怯えの色もあり、こんな解は愛情研究会全員、一度も見たことがなかった。
瀬奈達が思わず固まっているうちに、解は固い声を絞り出し女性に答えた。
「…俺は解、です。」
「カイ?…ああ。そうか、改名したのよね。本当、余計なことして…。教師も麗もだけど、手間をかけさせないでほしいわ。」
「なあ、まずはそっちが名乗ったらどうです?あんた一人で納得しても話が進まないんで。」
一人悪態を吐く女性に透矢があっけらかんとした様子で尋ねた。素性の予想はできているが答え合わせが必要だ。そして、解の精神衛生上さっさと会話を終わらせるべきだった。
「…そうね。」
女性は苛立ちを抑えつつ呟いた。たかが高校生の子供に従うのは不愉快だが、透矢から危険な匂いを感じて一度口を閉じた。そして長話をしたいわけでもないため、結局女性はやむを得ず透矢の言葉に従い、解を見て言った。
「忘れてないと思うけど、母親の黒条愛理よ。長いこと放っていたけど、あなたを引き取ろうと思って来たの。」
「解を…。」
「引き取る…?」
突然の母親の登場とその言葉に解はもちろん、透矢達も言葉が出なかった。愛理はひとまず理解されたと思ったのか、そのまま話を続けた。
「私も解を真にお願いしてから色々あったけど、今後はゆっくり生活したいの。だからあなたを引き取ろうと思ってね。子供は親といるのが普通でしょ?」
「…。」
解は何も言えなかった。自分が何を言うべきなのか、何を言いたいのか、分からなかった。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「それならまず今の保護者、未成年後見人ってやつですか、そこを通すべきなんじゃ?」
解も七海と瀬奈もまだ話せそうになく、代わりに透矢が話すことにした。愛理は透矢の知識に意外そうな顔で答えた。
「よく知ってるわね。麗の父親がそうなんだけど、電話じゃ話にならなくてね。銭湯に行っても全然、学校も教師が絶対会わせないなんて言うし。誰も彼も邪魔ばかりするから、こうして待つしかなかったのよ。」
「へえ…。」
透矢は適当に相槌を打ちつつ冷静に考えていた。この愛理という女が適当なことを言っている可能性も考えていたが、嘘を吐いている様子はなく本当に解の母親のようだ。もっとも、他人にはわざわざ嘘を吐く理由がないのでそれほど疑ってはいなかった。次に、透矢はちらりと解を見た。解の状態によっては話を切り上げる必要があった。
解の顔は青白いを通り越して土気色になっていたが、解自身はまだ話を聞くつもりだった。
(麗さん、始音…。)
最近の麗と始音がおかしかった理由は愛理が原因であり、二人は解が愛理と会わずに済むように努めてくれていたのだろう。しかし、いつもの解なら二人の気遣いに感謝するのだが、今の解は二人に迷惑をかけて申し訳ないと思い謝るばかりだった。
「で、どうなの●●?あなたはあの異常者と一緒にいられたんだから、別にどこにいても構わないでしょ?だからあなたから麗に言ってほしいのよ、自分は私と暮らすってね。」
「お、俺は…。」
「何?…相変わらず何言ってるのか分からない子ね。はっきり言ったらどうなの?」
「あ…あ…。」
愛理に話しかけられても解は答えられなかった。言うべき言葉が思いつかず、口は乾いて動かなかった。愛理の冷たい視線を受けて、解は完全に委縮し、怯えていた。
そんな解を見て落ち着きを取り戻したのか、瀬奈が解をかばうように前に出た。
「ちょっと待って下さい!いきなりそんなこと言われたって、解君が混乱するに決まってるじゃないですか!」
「…あなた何?この子の彼女?」
「と、友達です。」
愛理は瀬奈や七海を見て不快そうに鼻を鳴らした。真における麗のようなものだろうが、あの異常者に似ているくせにうちの子はずいぶん他人に好かれているらしい。
「ふん、部外者は黙ってて。親子の話に他人が口を出すものじゃないわ。」
「解君が苦しそうなのに見てるだけなんてできません。あなたこそ、今まで解君を放っておいて謝罪の一言もないんですか?」
「悪かったとは思ってるわ。でも代わりに兄さん、真がいたじゃない。それに●●は私が何をしても無視する子供だったのよ?私が出て行ったことなんて、その子には大したことじゃないわ。」
「な…。」
瀬奈は思わず絶句した。あまりの暴言に一瞬頭が真っ白になった。しかし、すぐ解が聞いていることに気付き解を振り返った。
解は無表情だった。顔色が悪いこともあり、まるで死人のようだ。そして、見開かれた目は瞬きもせず虚ろだが、奥底には様々な感情が渦巻いているように見えた。
彼女は今何と言ったのだろう?
―タイシタコトジャナイ―
たいしたことじゃない。大したことじゃない?あの時の、俺一人残されて、真が来てくれた、あれが大したことじゃない?そう俺が思っている?
「せ、先輩…?」
七海が恐る恐る解に声をかけたが、解からの反応はなかった。七海も瀬奈も、透矢すら何も言えない中、愛理がつまらなそうに解達を眺め、口を開こうとした。その時、
「何してるんですか!」
いきなり校舎側から声がしたので、解以外の全員が声の方を見た。叫んだのは始音だった。駆け込んできた始音は心配そうに解を見てから、きっと愛理を睨んだ。
「どうしてまだいるんですか⁉お引き取り下さいと言いましたよね⁉」
「どうして教師なんかにとやかく言われないといけないのよ。自分の子供に会うなんて親の自由でしょ。」
「そんなことどうでもいいです。とにかくもう帰って下さい。警察呼びますよ?」
「はっ。好きにしたら。全く、本当邪魔ばっかり…。さあ●●、もう行くわよ。」
愛理は心底不愉快だという顔をすると、さっと解に近づいて強引に解の手を取り引っ張った。
「うわぁぁ!」
愛理に手を引かれた瞬間、解が急に叫び声を上げて愛理の手を振り払った。そのまま後ずさる解の顔は無表情ではなく、怯えの色に染まっていた。その場の全員が驚いた様子で解を見る中、解も全員の顔を順番に見ていった。そして、最後に愛理と目が合った。目が合った愛理は口を開けて何か言おうとした。
「ひっ…。」
解は小さく声を上げると、愛理の声を聞く前に踵を返し走り去ってしまった。
全員がどこかに走っていく解を呆然と見ていた。解の豹変ぶりに反応できなかった。少しして我に返った愛理は始音達へため息交じりに文句を言った。
「あなた達のせいで面倒なことになったじゃない。どうしてくれるのよ?」
「何言ってるんですか。あなたが…!」
「堤先生、代わってくれ。」
始音が反論しかけたところで透矢が淡々とした口調で割り込んだ。今の透矢には有無を言わせない迫力があり、怒っていた始音も思わず冷静になるほどだった。
「茅野君…。」
「悪いんだが、今日はもう帰ってくれ。どうせ解を探すなんてしないだろ?」
「どうしてあなたに…!」
「黙れよ。解の手前我慢してたが、これ以上騒ぐと指の1、2本折るぞ。」
「な…。」
「なるべく何もしたくないんだよ。あんたをどうこうする権利があるのは解だけだからな。」
「…。」
愛理は透矢の言葉に従い押し黙った。この男子は本気だ。不本意かつ不愉快だが、これ以上は何も言わない方がいいと判断した。
「…分かったわ。できることもないし、今日は帰るわ。」
「それがいい。あ、でもまだ少し話があるんでこっちに。堤先生は霧谷と川野辺をよろしく。」
透矢は始音に声をかけると、愛理を連れて瀬奈達から少し離れた。何かを話しているが始音には聞き取れなかった。いや、まずは目の前のできることをしないと。
「瀬奈ちゃん、七海ちゃん。大丈夫?」
「そ、そんなことより始音先生、先輩が…!ど、どうしたら…。」
「落ち着いて、七海ちゃん。大丈夫だから。瀬奈ちゃんは?」
始音は冷静でいるよう努めながら七海をなだめつつ、瀬奈の調子を尋ねた。瀬奈は目を閉じて深呼吸すると、とりあえず表面上は落ち着いた様子で始音に答えた。
「…私は大丈夫です。それより解君を探さないと。」
「そうね。まずは麗さんに電話するわ。二人は遅くなるからもう帰りなさい。」
「そんなの駄目です!先輩を探さないと!」
「私も七海ちゃんと同じです。探さずに待ってるだけなんて無理ですし、絶対嫌です。」
七海と瀬奈は本気だった。
(…まあ、私だって同じ立場なら何を言われたところで探すわね。)
始音は深くため息を吐き、そして困ったように笑った。
「分かったわ。皆で探しましょう。ただ闇雲に探しても見つけられないから、まずは固まって動くわよ。茅野君は…。」
「悪い、待たせたな。」
話が透矢のことになった時、ちょうどよく透矢が愛理と話を終えて戻って来た。その場の全員が透矢の行動を不思議に思っていたので、瀬奈が代表して尋ねた。
「茅野君はあの人と何話してきたの?」
「いずれ話すから今は気にするな。そんなことより解のことだろ。」
「そうね。まずは皆で解君が走っていった方を探しましょう。解君は目立つから誰か見てるかもしれない。皆で聞いて回りましょう。」
始音の仕切りを受けて、七海と瀬奈が真剣な顔で意気込んだ。
「じゃあ聞き込みですね!早く先輩を見つけて一緒にいてあげないと!」
「うん。発作の時みたいに苦しそうで怖がってたから、早く休ませてあげないと。」
「本当ね。あ、でも待ってて。麗さんに電話するわ。」
始音は瀬奈達から少し離れると、緊張した様子で電話をかけた。透矢は始音が話し始めるのを眺めていたが、不意に瀬奈達を見て言った。
「そういえばお前等、意気込むのは結構なんだが解を元気づけたり励ましたりはしないようにな。」
「え?何でですか?」
「今回は精神的に相当参ってるはずだ。で、苦しみに耐える奴を励ますのは痩せ馬に鞭打つのと同じで逆効果だ。要は下手なことは言うなってことだ。」
「なるほど…。気をつけます。」
神妙な顔で納得する七海の横で、瀬奈はまじまじと透矢を見つめた。透矢はいつもの無駄に余裕のある笑顔をせず冷静そのものといった様子だった。解のためにどう動くべきか真剣に考えているのだろう。
「私も分かった。けど、やっぱり茅野君は優しいよね。」
「まさか。俺ほどのクソはそういないぞ。」
「そうは言っても茅野先輩は優しいと思いますよ!そんな友達がちゃんといるって、先輩に伝えてあげないといけませんね!」
七海が瀬奈に加勢しながら力強く言うと、透矢は一瞬呆気に取られ、その後苦笑した。段々七海の意見に慣れている自分がいた。
「…ま、そうだな。たとえ自分が折れても、周りが支えればいいだけだ。そのあたり、解に分からせないとな。」
話している間に始音は麗との話を済ませ、瀬奈達の所に戻って来た。軽く言葉を交わしてから、愛情研究会メンバーは小走りに解を追いかけるのだった。
瀬奈達のもとに麗もすぐに合流し、全員で解を探したが、なかなか解は見つからなかった。周囲の聞き込みをしてもなかなか情報が得られず、そのため予想が立て辛かった。結局全員で移動しては散らばり、また集まって情報を整理して移動する、この流れを繰り返すしかなかった。
「そっちはどう?」
始音、瀬奈、七海が集まり、まとめ役として始音が二人に質問した。二人とも顔を曇らせてお互いを見た。
「こっちは誰も見てなかったです。」
「私の方も同じでした。」
芳しくない結果に始音は渋い顔をした。いくら町中とはいえ時間も遅くなってきて、人通りも町の明かりも減っていた。
「後は麗さんと茅野君か…。何でもいいから手がかりが掴めればいいんだけど。」
「いっそ警察に相談しますか?」
「無駄でしょうね。行方不明3日目、とかならともかく、家出したばかりの男子高校生を探してくれるとは思えないわ。」
「じゃあもう1回…あ!麗さん!」
七海が走ってくる麗に気づき声を上げた。
麗は小柄な体に似合わぬ速度で走ってくると、まずは始音達の顔を確認した。それだけで結果が分かったようだ。
「お疲れ様。みんなも解君がどっちに行ったかは分からなかったのね。」
「ってことは、麗さんも駄目だったんですね…。」
「先輩、どこにいるんでしょうか…?」
瀬奈と七海は心配そうに顔を見合わせた。ここまで見つからないと事故だとか、悪い想像もしてしまう。しかも、麗と始音は解以外のことも考慮する必要があった。
「…瀬奈ちゃん、七海ちゃん。もう10時になるわ。家族が心配するから二人はもう帰りなさい。後は私と麗さん、茅野君で探すから。」
始音が帰るよう言うと、瀬奈と七海は強い意志がこもった顔で始音を見返した。
「えっ⁉せっかくここまで探したのに!先輩を見つけずに帰るなんて嫌です!」
「そうですよ。もう少し頑張ればきっと見つかります!それに、茅野君から護身用スプレーとかをもらってるから大丈夫です。」
瀬奈はふん!と鞄を見せて心配ないとアピールした。探し始める時、女性陣全員が透矢のから催涙スプレーやスタンガンを渡されていたのだ。しかし、瀬奈の言葉を聞いた始音は頭痛を我慢するような顔になった。
「いや、それを使うようなことになったら駄目じゃない!麗さんからも言ってあげて下さいよ。」
「うーん。でもみんな解君が好きなんだから、仕方ないわよね。」
「え、まさかの肯定ですか⁉」
「それより、茅野君はどこにいるの?」
「え。」「あれ?」「あ…。」
麗から指摘され、始音達は全員ばつが悪そうな顔をした。前回集まった時は覚えていたが、今回はすっかり忘れていた。麗は始音達の様子を見て笑った。
「もう、いくら解君一筋でも忘れちゃだめよ。大事な友達なんだから。」
…今でこそ麗は笑っているが、始音達と合流した時の様子はひどいものだった。愛理への怒り、解を守れなかった後悔、瀬奈達に迷惑をかけた申し訳なさ。そうした感情が混ざり合い結果落ち込んでいたが、始音達と一緒にいるうちに少しずつ落ち着いてきたのだ。麗は解が幸せなら他は必要ないという考えだが、今回のことで友人といった他者との関係もやはり必要だと思い知らされた。
(真さんも自分以外とつながりを持つ方がいいって言ってたわ…。)
「じゃあ私が連絡してみますね。」
つい昔のことを思い出していた麗だが、瀬奈の声を聞きはっと現実に戻った。誤魔化すように麗に話しかけた。
「ごめんなさい。今なんの話だった?」
「?茅野君が戻ってこないから瀬奈ちゃんに電話してもらうところですよ。」
始音が少し不思議そうに答えた隣で、瀬奈は電話をかけながら困った顔をしていた。
「出ないなあ…。茅野君までいなくならないでよ…、て、ん?え!ちょ、ちょっと、これ!」
「どうしたんですか?」
スマホの画面を見ていた瀬奈が急に大きな声を出し画面を見せてきたので、七海を含め全員がスマホ画面を確認した。そこには今まさに届いた透矢からの連絡があった。
みつけた。またれんらくする。まて。
「先輩が見つかったんですね!よかった…!」
「うん!」
瀬奈と七海は素直に喜んでいたが、始音はまとめ役だからか少し慎重だ。
「なんで平仮名?時間がないのかしら。今追いかけてるとか?」
「…それとも、変に刺激したくないとか。解君の具合が悪いのかも…。」
麗は心配そうに呟いた。始音も心配だったが、せっかくほっとしている瀬奈と七海を心配させたくなかった。それに口には出さないが全員疲れていて、休む必要があった。そうした理由から、始音は代表して全員に指示を出した。
「とにかく、どこかで一度休んで茅野君の連絡を待ちましょう。その方が闇雲に探すより確実で危険もないわ。それと、七海ちゃんと瀬奈ちゃんは親御さんに電話して、心配かけないようにいしてね。」
少し時間は戻り、雑木林が側にある暗い道、そこに透矢はいた。町の中心から離れてきた時点でそろそろ解の目撃情報が出てこなくなると予想し、独断で単独行動を開始していたのだ。
「こういう場所にあいつらを連れてくるのは難しいからな。」
透矢は解がいないかどうか周囲を確認しながら一人呟いた。街灯も少ないこんな道では強盗、変質者、変態カップルなど、何が湧いて来てもおかしくない。
現在、透矢は勘で解を探していた。不良グループから白髪の男子学生の話を聞いて以降情報がなかったからだが、透矢は己の勘を信用していた。そもそも解は自分の在り方を母親にある意味で否定され、母親から逃げている状態だ。そんな状態なら暗く孤独な場所に行くはずだ。また、透矢は親を否定し親に否定された人間であり、解と同様に親が自身の在り方に強く影響していた。そのお陰か、今回解が移動したルートは透矢ならこう動くというルートに近似していた。
(とはいえ完全に一致はしてないからな…。)
解が見つかるかどうかは運だが、見つけないまま終えるつもりはなかった。
その時、道を外れた木々の中に何かが動いた、気がした。透矢は元々雑木林を調べるつもりだったので、静かに雑木林に踏み入った。そして、しばらく探した後、ついに木の根元でしゃがみ込んだ解を見つけたのだった。
解を見つけた透矢はまず瀬奈に連絡することにした。取り急ぎのメールをしてから様子を見ると、解は泥だらけで地面に膝を抱えて座り込んでいた。目と表情は虚ろで、動く様子はなかった。透矢が近づいても頭すら動かさずじっとしていた。
「よう。数時間ぶりだな。」
返事はなかった。もっとも抑うつで思考力が落ちた解が透矢に返事するかどうかは怪しく、透矢も返事を期待していなかった。そのため透矢は気にすることなく解の正面から2~3mほど離れて座った。
「随分汚れたようだから、発作も起きたんだろ?とにかく帰って、病院行って、それで休むぞ。」
「…どこに帰るんだ?」
解が始めて透矢に反応した。小さくぽつりと出た言葉は弱々しく、解とは思えないほどだ。
「帰る場所が分からなくなったか?」
「…ああ。」
「…そうか。」
透矢はいつも通りの口調だった。観察と評価はしない。もちろん同情もしない。ただ友人として話をするだけだ。
「そうだな…。じゃあ、無理して聞かなくてもいいから座ってろ。俺が話すからな。」
「…。」
「思うに、帰る場所と帰りたい場所は違うんだ。帰る場所は周囲が勝手に決めることがある。お前はまさにそれだよな。で、帰りたい場所は自分が決めるものだ。現実になくていいし、場所である必要もない。理想の家とか、誰かの隣とか、お前が愛するものってことだな。」
「…。」
「で、今のお前は帰る場所を強要されてる。それはお前が善人で、悪人に喰われる側だからだな。」
「…俺は善人なんかじゃない。」
「そうか?俺のような悪人の意見だからな。違うと思うかもしれない。」
「…お前は悪人じゃない。」
「くくっ、そりゃありがとうだな。ああ、話を戻すか。」
透矢は珍しく感覚的に話をしていた。そのため話が逸れてしまった。解の調子を考えれば話は短い方が良いので話を進めた。
「善人は弱いが悪いことばかりじゃない。ほら、お前は好きな奴等に好かれてるだろ。善人は愛されるんだよ。だから、たとえお前が否定されて帰る場所を失っても、お前は誰かに愛されてる。帰りたいと思う場所は必ずあるはずだ。」
「…俺は愛されるような人間じゃない。」
「今はそう思っていいぞ。ただ俺達はお前の帰りたい場所、帰る場所、そしてお前自身。どれも守りたい。それは覚えとけ。」
「…ああ。」
解は一度だけちらりと透矢を見たが、暗い顔で小さく返事すると再び無言無動になった。
正直なところ、今の解では半分も頭に入っていないだろう。だがそれで良かった。解が今すべき仕事は休むことだ。今の話は聞く必要がなく、むしろ透矢自身の宣言に過ぎなかった。解や瀬奈、七海、始音に麗など、解を取り巻くものを守る。それは冷酷に彼等を観察してきたクソができるせめてものことだろう。まあ何をしてもクソはクソのままだが。
透矢は結局色々と考えている自分に失笑しつつ、解を迎えに来てもらうため電話をかけるのだった。
「入院って、大丈夫なんですか⁉」
「大丈夫、じゃないわね。必要があるから入院するんだもの。」
始音は動揺する七海に答えながら渋い顔をした。始音も解が心配なので心中穏やかではなく、こんな時教師は損だと思った。
色々あった翌日、愛情研究会は昼休みに始音から解の容態を聞いていた。解を見つけて精神科病院に行ったのは既に夜の11時近くであり、始音と麗以外はタクシーで帰らされていて、その後を知らなかった。だからこその報告なのだが…。
「昨日の様子を見たでしょ?あんな調子じゃ日常生活は難しいでしょうから、仕方ないわ。」
見つかった解は泥で汚れ、暗い顔で誰とも目を合わせず話すこともない、一目で病んでいるのが分かる様子だった。
「じゃあ、みんなでお見舞いに…。」
「家族以外は基本的に面会禁止らしいわ。大勢が行くと解君の負担になるから。」
「うー…。」
「…それにね、あの愛理って人も問題だそうよ。万が一にも自宅や病院に押しかけてきたら困るでしょ?だから面会禁止にしてるらしいわ。」
しょぼんとしてしまった七海に少し同情しつつ、始音は愛理のことを付け加えた。思い出すと不愉快な気分になるが、きちんと話しておく必要があった。
「…あんな人が解君のお母さんなんだね。」
瀬奈が複雑な顔で言った。愛理の印象は正直最悪の一言だが、それでも解の母親だ。公然と悪く言うのは躊躇われたが、言わずにはいられなかった。透矢も瀬奈に同意して肩を竦めた。
「そうだな。あれじゃ解にトラウマができて当然だ。向こうから来られると避けることもできないからな。」
「あの、気になってたんですけど、あの人、ずっと知らない名前で先輩を呼んでましたよね?本当に先輩のお母さんなんですか?」
七海が手を上げて質問した。まだ愛理が解の母親だと信じ切れていなかった。そこで始音が腕を組みながら数回頷いて七海の疑問に答えた。
「私も驚いたけど、間違いないみたい。あの人、愛理…さんは真さんの妹だから、麗さんとは顔見知りなのよ。真さんの御両親が亡くなった時に会ったのが最後だそうよ。まあ、この前銭湯に来たから追い返したらしいけどね。」
「ああ、それで機嫌が悪くなって、解が心配してた時につながるのか。」
「学校に電話してくるわ直接来るわ、もう大変だったんだから。追い返したと思ったのに、まさか勝手に会うなんて…。」
嫌な記憶を思い出したのか、始音がいらいらと机を指で叩きながら文句を言った。透矢は始音の苦労に同情して苦笑いを浮かべた。一度は解に会わせずに追い返したのだから見事なものだ。そして、解から聞いた麗の機嫌の悪さ、始音にかかってきた電話など、謎だった部分がはっきりして状況も掴めた。しかし、透矢とは違い七海はまだ頭に疑問符が乗っていた。
「で、でも、名前はどうなんですか?全然違いますよ?」
「いつか話しただろ?解の『解』って名前は元々の名前じゃなくて改名したものだって話、覚えてないか?」
「え、えーと、あったような、なかったような…。すみません、先輩は先輩だから気にしてませんでした!」
「大丈夫だよ、私も半分忘れてたし。でもそうか、あの人にとって解君は『解』じゃなかったんだね。」
ふんわりした七海とやや堅苦しい瀬奈。二人の対照的だが足して割るとちょうどいい言動はいつも通りで、解がいないこの場を少し和ませてくれた。透矢ですら微かに笑い、すぐに真面目な顔に戻って話を続けた。
「霧谷の言う通りだな。ただ俺達にとっても解自身にも解は『解』だ。母親が何を言ったところでそれは変わらないぞ。」
「そうね。麗さんの話では解君が元の名前を嫌がったから改名したらしいの。だから私達は今まで通り『解君』のままで大丈夫、というか元の名前は使わないようにね。」
「分かりました。」
「わ、私も気をつけます!…けど、結局私達は何をしたらいいでしょうか?」
七海は悩み深い顔だった。せめてお見舞いができれば良かったのに、今回は会うことすらできない。こんな時、何ができるだろうか?
「会えない、電話もできない…。なら、せめて手紙、かな?手紙なら読むタイミングを解君が選べて、麗さんにお願いすれば渡せるよ。」
「それです!早速しましょう!」
瀬奈の提案に盛り上がった七海だったが、透矢は軽く笑いながら釘を刺した。
「落ち着けって。会話でも文章でも、下手なことをいうと逆効果だ。送る前には内容に問題がないか確認する必要があるからな。」
「でも、確認して問題ないなら手紙を書いてもいいってことですよね?」
「まあな。だから手紙を書くこと自体は悪くないと思うぞ。何なら俺も書いてもいいくらいなんだが、俺はちょっと忙しいんだよな。」
「忙しいって、何かすることでもあるの?」
透矢の意味ありげな言葉に始音が反応した。悪い意味ではないが、また何か一人でやるつもりなのだろうか。
「俺は解の母親に会ってくるつもりです。」
「ええっ⁉」「えっ⁉」「は?」
透矢がさらっと出した言葉に全員が大きく反応した。始音は思わず椅子から立ち上がった。
「会うってどうやって⁉って、ああ!二人で話してた時ね?」
「ですです。後々必要だと思ったんで。」
「必要って、愛理さんに会うことが何に必要なの?」
瀬奈は透矢の言葉の意味が分からず戸惑った声が出た。正直あの愛理という人と会って話をしたいとは思わない。透矢も昨日は若干キレていたのだから同じ思いだろう。
「いいか?あれは捨てた子供のところにわざわざ来たんだぞ。必ず来た理由がある。解にとっていいか悪いかは別にしてな。」
「な、なら別に関わらなくていいんじゃ…?先輩に悪影響かもしれませんよ?」
「まあ、そんな意見もあるよな。そうなんだが、今回を逃すと解が母親を知る機会は二度とないかもしれない。今後どれだけ知りたいと思ってもな。それは解にとって良くないと思わないか?」
透矢の意見はもっともではある。愛情を知ろうとしている解にとって、母親は確かに非常に重要な存在だ。そもそも透矢が聞いていなければ今も愛理は連絡不能の状態で、今後いつ音信不通になるか分からない。
「で、でも、解君が知りたいかどうか分からないのに勝手に行動するのは…。」
「俺が今動くのには理由がある。一つ、解や麗さんだと弊害が大きい。二つ、俺が仲介できればあっちが勝手に動くのを止められる。三つ目に、冷静でいられるのは俺だけだ。昨日わざと怒ったように、なだめすかすも脅すも俺は可能だからな。」
「…。」
透矢は瀬奈の反論より圧倒的に多い文量で、しかもすらすらと答えた。透矢のことだからしっかり理由があるだろうと思っていたが、ここまできっちり説明されると何も言い返せなかった。しかし、透矢の言葉は終わりではなかった。
「最後に、これがある意味一番重要かもしれないんだが、あれが来た理由が急ぎかどうかを知りたい。で、俺はそれなりに急ぎだと予想してる。ただ確証はない。だから俺が自己責任で調べたい。」
「へえ…。」
追加の理由は解のためでもあるのだろう。しかし透矢は自己責任で調べると言ったので、瀬奈は驚きと同時に感心してしまった。そして、瀬奈の隣では始音が腕を組み思案顔をしていた。
「…茅野君の言うことも一理あるわね。あの人も茅野君には横柄になれないようだったし…。…分かったわ。茅野君、お願い。」
「了解。」
「い、いいんですか?」
瀬奈にはまだ迷いがあるようだが、始音は瀬奈を安心させるように頷いた。
「ええ。でも放課後に茅野君は私と麗さんに電話ね。麗さんから許可を得るのが私の許可する条件よ。」
「分かりました。」
「じゃあ今後の方針を確認するわよ。茅野君は愛理さんと話をする。残りは皆で解君に手紙を書いて麗さんにお願いする。茅野君も少しは書く。以上ね。質問はある?」
「茅野先輩、私達は茅野先輩について行かなくていいんですか?」
七海が手を上げて質問した。透矢だけ大変なのではないかと心配していた。
「話すだけだから俺のことは気にしなくていいぞ。それにあれは態度が悪いだろ?さっきも言ったが俺以外だと話がまとまらないだろうな。」
「うーん…。そうかもしれません…。」
「な?だから手紙の方を頼む。解は色気づいてきたところだったから、俺よりお前等から手紙をもらった方が嬉しいぞ、多分な。」
この昼休み中ずっと真面目な話だったが、透矢から軽口が出たので空気が少しほっとしたものになった。
結局それ以上の質問はなく、そろそろ昼休みが終わる時間だった。そのため最後のまとめとして始音が立ち上がった。
「さ、放課後にまたお願いね。解君がいない分、私達が頑張りましょうか。OK?」
「そうですね!」「はい!」「おう。」
患者ⅠⅮ:0013068
氏名:黒条 解 17歳
疾患名:PTSD
大うつ病(抑うつ状態)
入院一日目(緊急入院)
実母と意図せず接触したことでPTSDの発作と抑うつ症状が出現。来院時発作はすでに落ち着いており抑うつ症状が主。希死念慮は軽度。自己否定はあるが罪業妄想はなし。外来受診時より状態が明らかに増悪しており、実母が再度接触するリスクもあったために閉鎖病棟に緊急入院。内服治療を開始。
(キーパーソン:姫宮麗。続柄は他人だが患者の未成年後見人の娘。
注意点:育ての父は故人。実父は消息不明、実母は幼少の患者へ虐待の疑いあり、面会禁忌。)
入院二日目
症状に明らかな増悪はないが、PTSDの発作症状は一日に数回あり。その都度鎮静剤を頓用。自殺企図を疑う様子はなく、無動無言。食事摂取は半分弱。
友人達より手紙あり。患者に渡していいか内容を確認してほしいと言われ確認、問題なし。うつ病、PTSDにおいて周囲が気をつけることを説明させて頂く。さすがにまだ本人は寄せ書きに無反応だった。
入院三日目
状態変化なし。無動無言も同様。
前日と同様友人達より手紙あり。問題はないが、周囲の健康も本人の安定に重要な要素なので友人達に無理しないよう伝えてもらった。患者を5歳の頃から診ている者として、患者にこれだけ親身になってくれる友人がいるのは大変ありがたい。
…
入院五日目
訪室時に時々目が合うようになった。口数は少ないが入院時より少し状態改善あり。友人からの手紙は二日に一度の方針にしたらしい。面会は連日あり。本人は周囲に迷惑をかけて申し訳ないと言うが、面会や手紙は精神的負担にはなっていないとも話した。
(母親を名乗る人間から容体を尋ねる電話あり。電話で答えることはできないとNsより説明。文句を言うため主治医と交代し再度説明。不満そうだが了承された。)
……
入院八日目
著変はないが、やはり入院時より徐々に改善あり。頭痛、頭重感も改善ありと。友人達から千羽鶴が届く。入院三日目から作り始めたそう。患者は落ち着いた顔で「ありがとう」の言葉あり。
………
入院十二日目
病状は改善傾向が続いているが、入院した経緯を思い出すと申し訳なさで暗くなると。無動ではないが部屋から出ることはほぼない。急性の抑うつではなく、明らかな原因で発症した妄想性障害のないうつ病と診断。そろそろ退院を検討するが、本日より抗うつ薬を増量。
…
入院十五日
通常会話は問題なく可能。活気も正常範囲。病院外ではまた急激なストレスにさらされる恐れがあるものの、自宅なら問題ないと考え退院の方針とした。次回外来は一週間後。
精神科竹凪宗太のカルテより一部抜粋
括弧部分はスタッフのみ閲覧可能
「何だか、自分の家に違和感があるな…。」
退院当日、解は自宅前でぼんやりと家を見上げていた。入院したことも長期に家を空けたことも初めてだったので、久しぶりの自宅を見て不思議な感じを受けていた。
「ほら解君、早く入って。約二週間ぶりの我が家なんだから。」
「ああ。」
麗に笑顔で促され、解はゆっくりと自宅のドアを開けた。
自宅は入院前と何も変わらなかった。元々家事は解が自身の希望で主にしていたが、麗が代わりにしてくれたのだろう。いつものように居間に入り、自分の椅子に座った。家の匂いや見えるものから家に帰ってきた実感が湧いてきた。
「私はちょっと片づけをしてくるわ。解君はのんびりしててね。」
「分かった。」
解は麗を見送り、静かな居間で一人ぼんやりしていた。すると、ふっと思い出したことがあった。
「帰りたい場所に帰ってこれた、か…。」
解は透矢が話したことを思い出していた。
うつ状態の時は頭痛と頭重感で思考力が低下していたが、興味深いことに記憶はちゃんと残っていた。ろくに返事もしない解に透矢が話した内容が帰る場所、帰りたい場所の話だった。解にとって帰りたい場所は真と生きたこの家や友人のいる愛情研究会だった。そして帰る場所も同じだった。解は今の自分が恵まれていて、そんな環境にいたことがどれだけ幸福だったかを知った。
その分、愛理のことを思い出すと解は息が苦しくなった。彼女は一緒に暮らすから来いと言った。それは依頼でも願いでもなく、命令だった。帰る場所が帰りたい場所と違うことは恐ろしいことだと今ならよく分かる。しかし、彼女はどうして今更一緒に住めと言いに来たのだろう…?
「う…。」
頭全体に不快感が出始めたので、解は頭を軽く振って考えることを止めた。まだ本調子ではないのだ。悪化した原因のことを考えるのはまだ早かった。
「お茶でも淹れるか。」
解は気を取りなおして椅子を立ち、茶の用意を始めた。麗への労いにもなりちょうどいいだろう。のったりと動き、湯を沸かし始めたところで片付けをしていた麗が居間に戻ってきた。
「あー。解君、のんびりしてねって言ったのに。お茶くらい私が淹れるわ。」
「いいんだ。迷惑をかけたお詫びだ。」
「ならなおさら駄目よ。私、迷惑なんてかけられてないもの。でも、ありがとうならいいわ。」
「…そうだな。いつもありがとう、麗さん。日々の感謝の気持ちとして、俺にさせてくれ。」
「ふふ、分かったわ。でも、久しぶりだから一緒にしましょう。」
「…ああ。」
二人でお茶の用意をして、お湯が沸くまで待った。二人でする意味はないが、穏やかな時間だった。少しすると湯沸かし器からしゅしゅしゅ…と音がしてきた。
「湧いたな。じゃあ…。」
解は動こうとしたが、動けなかった。麗が後ろから抱きついていたからだった。
「麗さん…?」
解が肩越しに振り返ろうとした。しかし、麗の力が存外強く簡単には動けなかった。解は少しの間じっとしていたが、麗の手がわずかに震えていることに気づいた。
「大丈夫か?何か困ったことでも…。」
「お帰りなさい。帰ってこれてよかったわ。」
「…ああ。麗さんや透矢達のお陰だ。」
自分自身はぼーっとしていただけなので、本当にそう思う。本当にありがたい話だ。
「違うわ。私がちゃんと解君を守っていたら入院なんてしなくて済んだの。本当にごめんなさい。」
麗の手に一層力がこもった。きっと解が入院してから今まで、ずっと自分を責めていたのだろう。そう考えると解は胸が痛くなった。
「麗さんが謝る必要はない。麗さんは入院する前から俺に気を配ってくれていた。だから感謝こそすれ、責めるなんてありえない。生きていたら真も『お前に非はない』と言うはずだ。」
「でも…。」
麗の力が少し緩んだので、解は麗から離れてくるりと回り麗と向き合うと、少し屈んで麗と目線を合わせた。
「でも、じゃない。断言するが、麗さんは何も悪くない。誰にも言わせない。」
「…。」
「…麗さん。ついさっき『迷惑なんてかけられてない。ありがとうならいい。』と言っただろ。俺も同じことだ。だから本当に気にしなくていい。」
解は俯き加減の麗と目を合わせ、真剣な態度で伝えた。と言っても、解にとってはただの事実なので、特に工夫なく力強く話すだけだったが。
「…そうね。ごめんなさい、じゃないわね。…ありがとう解君、帰ってきてくれて、それに話してくれて。」
「ああ。」
解の一生懸命さが伝わったのか、麗はぎこちないながらも少しだけ笑った。元気になってくれたと手放しに喜ぶことはできないが、それでも麗が笑ってくれたことを喜び、解も微かに笑った。
(あ…。)
麗は解の微笑を見てふっと小さなころの解を思い出していた。解は今も表情を変えることは少ないが、小さな時はもっと表情に乏しかった。けれど稀に、一緒に笑ってくれる時があった。他者を想う解の笑顔は美しく、どこか大人びて見えた。思えばそんな解の笑顔を見たのが恋愛の始まりだったのかもしれない。
「麗さん?どうしたんだ?ぼーっとして。」
不思議そうに解が麗の顔を覗き込んでいた。いつの間にか解は麗よりも大きくなり、心身共に立派に成長した。しかし、まだ解の心は脆く、傷は残ったままだ。これ以上傷つけさせてたまるものか。
(次は絶対に守るから。だから、あなたに一番ができるまでは一緒にいさせてね。)
「大丈夫よ。解君の言葉が嬉しかっただけ。さ、お茶にしましょう。」
麗は笑顔で解に答えた。その笑顔は優しく、わずかに悲しみも含まれていた。
解が退院して翌日経過した。まだ解は自宅療養中だが、体調が悪化することはなかった。そのため、始音や瀬奈達愛情研究会の全員は解の家にお見舞いに来てよいと麗に言われ、早速お見舞いに来たのだった。
「先輩!!」
「おっ…と。」
七海は玄関で解を見るといきなり解に抱きついた。ただ解も慣れたもので、飛び込んできた七海が危なくないようにうまく抱き止めた。
「やっと会えました!お帰りなさい、先輩!また会えて嬉しいです!」
胸に頭を擦りつけてくる七海を支えながら、解は懐かしさを感じていた。まだ高校を休んで三週間も経っていないのだが、普通に通学していた時が随分前のようだ。
「久しぶりだな。七海は、いや全員変わりないか?」
解は七海とその後ろにいる瀬奈達に落ち着いた様子で声をかけた。七海のせいで出鼻をくじかれた瀬奈や始音だったが、解がいつも通りの様子だったので安心していた。元気がないようなら七海を抑えるつもりだったが、その必要はないようだ。そのため七海は元気いっぱいのままで解に答えた。
「みんな元気です!帰ってきた先輩に元気のない姿は見せられないので!」
「って、七海ちゃん。いくら何でも元気良すぎ。解君が疲れちゃうよ。」
「は!す、すみません…!」
「独り占めは駄目よ、七海ちゃん。私達もお見舞いに来てるんだから。ってことで、久しぶりね、解君。ちゃんと休んでる?」
瀬奈が七海につっこんでいる間に始音が笑顔で解に話しかけた。病み上がりの人を気遣いつつも普段通りに振る舞う高等技法だ。お陰で解は気負わず自然な様子で答えられた。
「ああ、休み過ぎて少し暇なくらいだ。瀬奈も久しぶりだな。」
「うん。久しぶりだね。」
「手紙ありがとう。書くのは大変だったと思うが、皆の近況がよく分かった。何より瀬奈の優しさが伝わってきて助けられた。」
「そ、そう?そう言ってもらえると書いた甲斐があったというか、嬉しいな。…あはは。な、なんか照れるね…。」
瀬奈は解にお礼を言われて照れ笑いを浮かべた。そして、そんな瀬奈が羨ましかったのか、七海が解の服を引っ張りながら尋ねた。
「先輩、私も手紙を書いたんですけど、どうでした?」
「七海の手紙はお前の気持ちが素直に表現されていて、穏やかな気持ちで読むことができた。七海もありがとう。」
「えへへ。先輩が穏やかでいられるよう願いを込めました!」
「始音は文章が固かったな。それでも教師として、始音個人として心配してくれているのがよく分かった。始音もありがとう。」
「ええ。何にせよ退院できて良かったわ。」
さすがに始音は大人なので解の言葉を聞いても落ち着いていたが、始音は嬉しそうだった。教師なので解への愛情は基本的に隠す必要があるが、今回の嬉しさは隠さなくてよいので気持ちよく喜べた。
解はその場の全員と話を簡単にしたのだが、瀬奈達の後ろを確認してから改めて尋ねた。
「透矢はどうしたんだ?あいつにもお礼を言いたかったんだが。」
「え?」
「えっと…。」
「茅野君はどうしても外せない用事があるらしくて、30分くらい遅れて来るみたいよ。遅くなって悪いって言ってたわ。」
七海と瀬奈は一瞬戸惑った様子を見せたが、始音がすぐに答え七海達の違和感をかき消した。いつもの解なら違和感に気づいただろうが、今の解は始音の言葉を違和感なく受け入れた。
「そうか。まあ透矢なら心配ないか。…ああ、ずっと玄関に留めて悪かった。中で待っててくれ。麗さんもじきに仕事から戻るはずだ。」
瀬奈達が解の家で待っていると、30分ほど経過したところで麗が帰って来て、その後すぐ透矢がやって来た。それから全員で夕食をとり、それほど時間をかけずに解散となった。また、家の中での会話もそれほど騒々しくない、穏やかな調子だった。退院したとはいえ、まだ解に無理をさせてはいけないという配慮からだった。
「今日は来てくれてありがとう。久しぶりにお前達の声を聞いて、少し安心した。」
「ならよかったわ。学校のことはひとまず気にしないようにね。勉強の遅れなんて解君なら何とでもできるわ。まずは解君が苦痛ない生活。それだけを考えてね。」
「そうだよ、解君。たまには人のことなんて気にせずのんびりしてね。」
「また手紙も書きますし、会いに来ますので!」
解は玄関で瀬奈達を見送り、居間に戻った。居間では麗が片づけをしていた。
「麗さん、俺も手伝うぞ。」
「駄目。もっと元気になったらやってもらうから、今日は私がするわ。」
「そう言われてもな…。」
「みんな来てくれて嬉しかっただろうけど、さすがに疲れたでしょ。それくらい分かるわ。」
解が今日したことは仲間達と話をしたくらいなのだが、それにしては妙に疲れていた。入院していたので話をする時間が減り、体力も落ちたからだろう。これでは麗を手伝っても邪魔なだけかもしれない。
「…分かった。じゃあ、先に風呂に入る。」
「ええ、いってらっしゃい。」
いつもと変わらない、優しい麗の笑顔だった。
「ふう…。」
解は体を洗うとゆっくり肩まで湯船につかった。お湯の温度はちょうどよく、疲れがお湯に溶けていくようだ。
(麗さんに何もかも頼りきりだな…。)
入院中も毎日麗は病院に来てくれた。そして退院してまだ2日目ではあるが、ほぼすべての家事を麗がしてくれていた。解はありがたいと同時に申し訳なかった。
(早く元の性能を取り戻さないとな。)
具体的にはどこが不調なのか。まずは体力。これは運動だ。小さな頃のように銭湯で運動をしよう。次に精神だ。元々強くはないが、少なくとも入院前のことを思い出しただけで不調になるようでは弱すぎる。痛みなし、とはいかなくても不調にならないくらいにはなりたい。
また、不調ではないが入院前後で自分の精神に変化を感じていた。今日は七海も瀬奈も始音も距離が近かった。麗も退院してからはすぐ側にいることが多い。最近は彼女達女性が近づくと緊張していたが、入院後は全く動じなくなっていた。お風呂同伴事件以降、自分が女性に抱く感覚は性愛(性的欲求の方が正しいかもしれないが)と理解しているが、性愛が入院後は弱まったということか。うつ病の症状に性欲減退があることを考えれば、瀬奈達を再度意識する=うつ状態の改善、と言えるのかもしれない。
(とにかく、早く良くなって皆を安心させてやらないとな。)
ついさっき人のために動かないようにと言われたばかりなのだが、解はそこに思い至ることはなかった。
「解君?お風呂長いけど大丈夫?」
つらつら考えているうちに長風呂になっていたらしく、麗が風呂場のドアからひょいと顔を出した。…結局、麗を心配させてしまった。解は軽くため息をついて浴槽から出るのだった。
(そういえば…)
早めにベッドに横になった解はふと夕食後のある出来事を思い出した。
偶然トイレに立った時、居間の外で麗と透矢が話をしていた。それだけなら見過ごしただろうが、透矢は数枚のレポート用紙を麗に渡し、麗は会話しながら真剣な目で用紙を見ていた。こちらに気付くとさっと紙をポケットにしまい笑顔で話を続けていたが、あれは何の話をしていたのだろう?二人の様子からはただの雑談ではない、真面目な話だったように見えた。
「もし俺のことを話しているなら…。」
これ以上迷惑をかけないためにも、俺も話を聞かせてもらわなければならない。ただ、そのためには調子を元に戻す必要が…。
「…。」
考えているうちに解は眠ってしまった。やはり疲れていたのだろう、布団はかけておらず、部屋の電気も着いたままだった。
解が寝て二時間ほど経った時、小さくドアをノックする音がした。しかし、解は気付かず寝たままだった。
「解君?そろそろ寝た方がいいわよ。って、あ…。」
ドアをノックしたのは麗だった。解を見た麗は音を立てずに電気を暗くするとベッドに向かい、解の枕元にしゃがんだ。
「…よく寝てる。いくら大切な友達でも、久しぶりに話すと疲れるのね。」
麗は優しく解の頭を撫でた。普段の解なら起きてしまうところだが、起きる様子はなかった。そのため麗は解の頭をゆっくりと撫で続け、寝顔を見つめた。解は穏やかな顔で眠っていて、見ていると本当に愛おしかった。だからこそ、入院時の解を思い出すと辛く、解を苦しめた愛理が許せなかった。
『知らないことが解の幸せだと?』
解に二度とあんな思いをさせない。そのためには愛理について知った方がよいと考え、透矢の行動を容認した。ただ愛理のことを解に伝える気はなく、愛理をいずれ排除すべき存在、解にとっての害悪と考えていた。しかし、夕食後に聞いた透矢の言葉が妙に引っかかっていた。
『臭いものに蓋をするのは一つの手です。確かに何も見ない、何も知らない方が幸せですからね。』
『茅野君はそんな生き方が許せない?』
『まさか。見ざる聞かざる言わざるは幸福な生き方ですよ、間違いなく。だが中には幸福の定義が違う、あるいはそもそも幸福を求めてない人間もいます。俺はそんな馬鹿の方が好きですね。』
『…解君はそんな馬鹿の一人だって言うの?』
『さあ、分かりません。選ぶのは解ですから。俺は解が選べる選択肢を複数用意しておくだけです。』
「選ぶのは解君…。」
選ぶことすら解には苦痛を伴う行為だ。麗は解から全ての苦痛を遠ざけたいが、透矢はたとえ解が苦しんでも解が決めたことを見届けるつもりだろう。麗には透矢が正しいとは思えなかったが、透矢の言葉を切って捨てることはできなかった。なぜなら、解は真の子供だからだ。
真は愛情、感情を持たなかったため、知ることを躊躇う人間性も持たなかった。一方解は真に比べればはるかに感情豊かだが、真と同じく愛情を理解するために努力している。また解が真を慕っていたためか、解と真は実の親子ではないがよく似ている。つまり、解なら真のように無知でいることを選ばず、自身が苦しむ選択をするかもしれない。
麗は自分の優先すべきことを考えていた。解が苦しむ全てを取り除くなら、解に選ぶことすらさせてはならない。しかし、麗が本当に望むのは解が自由に幸福に生きることである。その「自由と幸福」の内容は解が決めることであり、麗が押し付けるものでは決してない。なら、麗の解を守ろうとする行為は果たして解にとってよいことなのか、害なのか…。
「…。」
答えが出ないまま麗はもう一度解の頭を撫で、静かに部屋を出て行った。部屋に残された解は麗が来たことも悩んでいたことも気付かず、暗くなった部屋の中で寝息も立てずに眠り続けた。
自宅に帰った後も解は症状が悪化せず、発作も起こさなかった。行う家事を少しずつ増やし、日々訪れる瀬奈達と会話することで元の日常に慣らした結果、退院後一週間ほどで学校に行くことになった。再び愛理が高校に来る可能性は否定できないが、それを気にしては解が永遠に外に出られない。結局、今現在唯一愛理とつながりがある透矢の「問題ない」という言葉が決定打となった(透矢が愛理とつながっていることは解には伏せられたが)。とにかく、解は三週間ぶりに高校に戻ってきた。
「お、黒条がいる。」
「ああ、おはよう。」
「あ、おはよう!黒条君。」
「おはよう。」
「おっ、久しぶりー。」
「ああ、久しぶりだな。」
解はなんとなく早めに学校に来ていたが、登校したクラスメイトが次々と解に話しかけた。当然解はその都度挨拶を返したが、クラスメイト達は挨拶で終わらず久しぶりに会った解を囲み色々尋ね始めた。
「病欠って聞いたけど、体はもういいの?」
「ああ。とりあえずはな。」
「入院したってほんとか?」
「ああ。」
「入院前は元気そうだったのに、急に悪くなったんだね。」
「まあ、そうだな。」
クラスメイト達は単純に興味本位で質問しているだけだが、答える解は困っていた。うつ病、PTSDといった精神疾患はただの病気なのだから、別にクラスメイトに話しても問題はない。しかし、人によってはまだ偏見があるかもしれないし、聞いたクラスメイトも返答に困るかもしれない。なにより解は自分が入院したことを恥じていた。病気そのものは恥ずかしくないが、肉親が原因で精神を病んでしまったのは自分の心の弱さが原因ではないか。心がもっと強ければ入院することなどなかったのではないか、と。
そんな理由で解がクラスメイトへにどう答えようか考えていたところ、教室の戸ががらりと開いた。
「解君⁉もう来てたの?」
「早めに来たつもりだったのにな。」
瀬奈と透矢が一緒に登校してきた。クラスメイトには悪いが、解は二人を見てほっとしてしまった。そんな解を余所にクラスメイトが二人に話しかけた。
「おはよ、瀬奈。愛しの黒条君が来たよ!」
「っていうか、二人とも黒条が来るのを知ってたのか。さすが、仲がいいな。」
「もう、そういうのはいいから!でも解君、ごめんね。皆で先に来て待つつもりだったんだけど。」
「いや、謝らなくていい。俺が言わなかったのが悪いんだ。」
「どっちも悪くないだろ。とりあえず無事で何よりだ。」
透矢は話しながらクラスメイトをかき分け席に座った。さり気なく瀬奈が通る道を作ることも忘れない。
「おいおい茅野、その言い方じゃ俺達が危険みたいじゃん。」
「最近まで入院してた奴を質問攻めにしてたんじゃないか?気配りができない奴はもてないぞ。」
透矢はクラスメイトの抗議ににやりと笑い答えた。まるで見ていたかのような透矢の言葉に、解を取り囲んでいたクラスメイト達はばつが悪そうな顔をした。
「そ、そうだな。悪いな、色々聞いて。」
「いや、大丈夫だ。心配してくれてありがとう。」
「うん。じゃあね、黒条君。瀬奈も頑張れ!」
「だから~…。」
散っていくクラスメイトを透矢は無表情に見ていたが、いるのが自分達だけになると解に向き直った。透矢にしては珍しく苛ついた様子だった。
「おい解。お前、あいつらに囲まれてた時に困った顔をしてたろ。」
「ん…まあ、そうだな。」
「病気になった自分が恥ずかしかったのか?」
「それは…。」
透矢の指摘は相変わらず正確だった。図星であったため解が言い淀んでいると、瀬奈が二人の話に割って入った。
「ちょっと茅野君。別にいいでしょ、それくらい…。」
「霧谷は黙ってろ。いいか解。お前の方がよく知ってるだろうが、病気の原因はお前じゃない。お前が弱いから病気になったんでもない。非のないお前が恥ずかしいと思う必要は全くない。胸を張れ、いいか?」
「…ああ。ありがとう、透矢。」
「はっ。俺は何も悪くない奴が割を食うのが気に入らないだけだ。」
透矢が怒っていたものは解を取り巻いている現実だった。理不尽な現実のせいで、非のない解が割を食うのが許せないだけだった。そんな透矢に解は心から礼を言った。瀬奈も安心したようで、大きく息を吐き笑顔を見せた。
「結局解君のために怒ってたのか。心配して損しちゃった。」
「解じゃなくても同じことを言うがな。何より俺は自己満足のために好き勝手言ってるだけだ。」
「別にいいんじゃない?最終的には友達の利益になってるんだから。」
瀬奈に切り返された透矢は無言でやれやれと肩を竦めた。いい人扱いされるのは不本意だが、わざわざそんなつまらないことを議論するほど物好きでもなかった。
そんなやり取りをしている間に時間が経ったのか、七海も解を心配して教室にやって来た。当然朝のホームルームで始音も来たので、愛情研究会は朝から全員が揃うことになった。それは解が友人達から愛されている証だったが、解自身は自分が愛されていることには気付かず、元の生活にまた一歩近づいたことを純粋に実感していた。
解が復学して一週間ほど経過したが、何事もなく時が過ぎていった。解の病状は悪化せず、生活強度を徐々に増やしても特に変わりなかった。そうした結果、現在の解は銭湯でのアルバイトも再開し、入院前とほとんど同じ生活ができるようになっていた。そして、解が復調したという事実は再びことが動き始める合図でもあった。
放課後、解はリハビリも兼ねた愛情研究会の活動をしていた。もちろん瀬奈や始音、七海と透矢も一緒だ。
「…だから、俺の場合はPTSDという基礎疾患が元になった急性の抑うつ状態とも、うつ病を併発したとも考えられる。ただ、症状も治療も基本的には同じだ。気分の落ち込みといった症状が強いなら抗うつ薬を使い、個々の状態に合わせて薬を変えていく。これが基本だ。」
愛情研究会、本日の活動は「解が自分の病気について話す」だった。解が提案した企画だが、最初は病気が悪化するのではと瀬奈が反対した。しかし、病気になった自分を肯定的に見るために周囲の理解は欠かせないという結論に至った。そして、この結論には透矢が先に言ったことが大いに関係していた。
「はい、先輩!」
解が一旦言葉を区切ると、七海が元気に手を上げた。といっても七海は久しぶりに解の髪の毛を切っていたので、解からは七海の手を上げた姿は見えなかった。
「何だ?」
「先輩、というか患者さんの家族が気をつけること、した方がいいことって何かあるんですか?」
「ああ。基本的にうつは精神的なのエネルギーが減っている状態だから、頑張れなどの応援はしたら駄目だ。他には良いこともストレスになり得るから、ストレス解消のためでも無理に連れ回さない方がいい。した方がいいことは詳しくないが、いつも通りいるのが一番だろうな。あまり気を遣われても申し訳ない。」
「ふむふむ…。ありがとうございます。では、続きをしますね。」
七海はスマホにメモを残してから再び解の髪を切り始めた。解の話は透矢の話と一致していたので、解も透矢もすごいなあと感心していた。
「私も聞いていい?解君。」
「ああ、勿論。何だ?」
七海の次に瀬奈がおずおずと手を上げた。まだ解に聞いていいのか迷っているようだ。そのため、解は瀬奈が安心して質問できるようになるべく優しく返事をした。その甲斐あって、瀬奈は緊張が少し解けたようだ。
「じゃあ…。うつ病とかって、治るものなの?それとも一生付き合っていかないといけないの?」
「症状が落ち着いたままなら治癒したといえるかもな。ただ、同じ症状がまた出ることは多い。その際、二度目の病気なのか、一度目の病気が再燃したのかは分からない。」
「そっか。治ったかどうかの判断は難しいってことだね、なら、薬はずっと飲まないと駄目?」
「そんなことはないぞ。状態によって増減するから、人によっては薬を飲まなくてよくなることもある。治癒の証明が難しいから治療が長期化しやすいかもしれないがな。」
「へえー…。」
瀬奈が解から話を聞いて納得していると、始音が教師然とした顔で付け加えた。
「結局、完治したかどうかはさして問題じゃないってことね。大事なのは症状が落ち着いてるか、本人が困ってないか、薬の量が適切か、そのあたりね?」
「ああ。さすが教師、うまくまとめたな。」
「ふふん、そうでしょそうでしょ?もっと尊敬してくれていいのよ?」
始音のまとめに解が感心し、解に褒められた始音が得意気になり、嬉しそうな始音を見て瀬奈が少し呆れつつ苦笑した。解の頭上からははさみの音が鳴り、かすかに七海の鼻歌も聞こえる。そんな穏やかな空気のおかげで、解は病気の話をしても落ち着いていられた。不良扱いだった時から今まで、発作や入院した姿を見ても変わらず一緒にいてくれる仲間達には本当に感謝しかなかった。
しかし、周りに感謝する解の頭にぷかぷかと疑問が浮いてきた。瀬奈達はどうして傍にいてくれるのか。友愛や恋愛、兄弟愛等の愛情があるためだが、愛情は変質したり消えたりすることがある。迷惑ばかりで何も返せていない自分に向いた愛情などすぐに消え失せてしまいそうだが、現実は今のところ違う。単純に皆の人がいいだけという可能性はあるが、その結論は嫌だった。今まで自分なりに彼等を見てきたが、それぞれに抱えているものがあった。当然、まだ知らない部分もあるはずだ。そんな彼等の在り方、優しさをはじめとする精神性を「人がいい」の一言で済ませてしまうのは失礼だと思った。結局、なぜ皆は自分を愛してくれるのか。なぜ自分は置いていかれないのか。いつか分かる自分になり、分かる時が来るのだろうか…?
「…寝たみたいだな。」
「え?」
透矢がぽつりと呟いた言葉に反応し、全員が透矢とその視線先にいた解を見た。透矢の言う通り、解はいつの間にか静かに眠っていた。
「本当だ…。よく寝てる。」
「結構解君って不意に寝るわよね。疲れてるのかしら?」
「退院したばかりなのに仕事も勉強もしてますから。大丈夫かな、発作とか…。」
解の発作を心配する瀬奈は静かに解の顔を覗き込んだ。解は以前眠った後に発作を起こしたが、とりあえず今は穏やかな顔で眠っていた。
「よく寝てますね。とっても可愛いです…。」
「そういえば七海ちゃん、散髪はもう終わったの?」
「はい。実はもう終わってて、後は片付けするだけなんです。」
七海はいたずらっぽい笑顔で軽く下を出した。最近は解と触れ合えなかったので、美容師の役得ということで解の髪を堪能していた。始音はそんな七海を少し渋い顔で見た。私は自重してるのに抜け駆けするな!とでも思っているのだろう。
「はあ…。まあいいけど、七海ちゃんは着席ね。解君は寝かしてあげましょう。でも瀬奈ちゃんが言うように発作のことがあるから、しばらく待って起きないなら起こしてあげましょう。」
「それがいいですね。…それなら、俺が話をしてもいいか?」
「え?」
今まで静かにしていた透矢が急に話をしたいと言い出した。解の退院日もそうだったが、透矢は既に何度も愛理に会っているはずなので、透矢の話を推測した始音は慌てて透矢に近づいた。
「ちょっと、解君がいるのよ⁉」
「別に具体的な話はしませんよ。ほら、霧谷と川野辺も来い。」
「は、はあ…。」「はい…?」
透矢の手招きを受けて、瀬奈は複雑な顔で、七海はぽかんとした顔で透矢の近くに行った。瀬奈は解を気にしながら、七海は流れがよく分かっていない様子だ。
「変なこと言わないでね?離れるのも心配だから仕方ないけど…。」
瀬奈は小声で透矢に念を押した。元々透矢は解の近くに座っているので、集まった所は解のすぐ側だった。発作が起きた時にすぐ対処できるのは良いが、話が聞こえてしまいそうだ。
「まあ聞けって。それに解も大分落ち着いてきただろ。自分で病気のことを話せるくらいだからな。もちろん過大評価しないよう気をつけて、だが。」
透矢は一度言葉を区切り瀬奈達を見た。とりあえず反論がないので続けることにした。ちなみに透矢の声量は普通より少し小さい程度だ。解に聞かれても問題ないことしか言わないので、起こさない程度で十分と判断していた。
「大体話はできた。過去の行動、現在の事情、今後予想される展開、そして人間性。それくらいか?が、ある程度分かった。」
「あんなのの?」
始音は小さな声だが思わず声が出てしまい、慌てて口を押さえながら解を見た。…良かった、すやすや寝ていた。解の血縁を陰で悪く言うのはやはり良くなかった。透矢はくくっと笑い、心を落ち着けた始音に答えた。
「まあまあ堤先生。気持ちはよく分かりますけど、そう言わずに。」
「ごめんなさい、次から気をつけるわ。で?話は報告だけなの?」
「いやいや。で、事情はまだ伏せるが解が知る価値はあると俺は思う。だから、近々解に聞くか聞かないか確認したい。」
「え…。本気ですか?大丈夫ですか?」
七海が透矢の言葉に一番に反応した。解の具合がまた悪くならないか、とにかくその一点が心配だった。瀬奈、始音も同様らしく、懐疑的な視線だ。
「まあ心配だよな。だが麗さんには全て話してて、許可をもらったぞ。『思うようにしていい』ってな。それと話す時はお前等も一緒にな。」
「麗さんから…⁉」
透矢の言葉に瀬奈達全員が驚いた。あっさり言ったが、愛理の話で麗の許可を得るのはかなり難しいはずだ。しかも後半の言葉も意外な内容だった。
「私達も?聞いていいの?」
「恋人候補のくせに何を今更…。」
「こっ…!」
瀬奈は思わず立ち上がり声が出そうになったが、何とか堪えて座り直した。
「真面目な話なのに茶化さないでよ。」
「悪い悪い。ただそんなに心配するなって。お前等は十分解の支えになってる。だから、他人だろうと話を聞いていいはずだ。」
「…。」
瀬奈は言うことがなくなり黙った。ただ、どう言われても心配なものは心配だった。七海も不安そうだ。そんな中、俯いていた始音が顔を上げた。
「…具体的にはいつ話すつもり?」
「解が変わりないなら次の金曜日、放課後で。全員が暇な時がいいと思います。それに遅くなると少々不都合があって。」
「不都合、ねえ…。」
始音は唸る様に呟いた。透矢が言うことには必ず理由がある。だから本当に「遅くならない方がいい」のだろう。ただやはり解が心配だ。また具合が悪くなったら?自殺という最悪の言葉も頭によぎった。
「でも、…⁉」
透矢がいきなり始音の目の前に手を出した。驚いて言葉が止まった始音を余所に、透矢は立ち上がり解に近づいた。
「よう、起きたか?」
「…ああ…。悪い、寝てたんだな。」
解は目をこすりながらぼんやりした声を出した。体は大きいが小さな子供のようだ。
「あ、先輩。じっとしてて下さい。髪の毛払いますので!」
「分かった…。」
「ふふ。先輩、子供みたいですよ。可愛いです。」
「そうか…?」
まだ眠たいのか、解は目を閉じたまま返事をした。七海は眠たそうな解の邪魔をしないようにしつつ、笑顔で片づけを始めた。
「解くーん、また寝ちゃった?」
「いや、起きてるぞ…。」
解がまた寝ないように瀬奈が声をかけていた。同級生と後輩に世話される解を眺めながら、始音は透矢に小声で言った。
「茅野君。さっきのこと、一応分かったわ。でもせめて解君の調子が悪化しないと思ったら、にして。」
「それはもちろん。精神科医じゃないんで絶対とは言えませんがね。」
透矢は口調とは違い真面目な顔だった。思えば態度こそ分かりにくいが、透矢はいつも解という友人を大事にしていた。さっき解の目が覚めたことを最初に気づいたのは透矢で、入院前に解を最初に見つけたのも透矢だ。そして、ただ裏表があるだけの男を解が信頼するはずがない。こんな透矢だからこそ麗から許可を得たのだろう。なら自分も信じてみよう、そう始音は思っていた。
淡々と日々は過ぎ、予告の金曜日になった。解は特に問題なく生活できていた。それはつまり透矢が話をする可能性が高いという意味だった。
「…で、俺はどうして囲まれているんだ?」
その日、放課後の愛情研究会はいつもと違った。椅子に座る解の両隣は瀬奈と七海が、真後ろには始音が座っていた。そして解の正面には透矢が座っていた。
「今日は何の話なんだ?何かの実験か?」
「ああ。実験じゃないが大事な話だ。全員で聞いてもらおうと思ってな。」
「なるほど。それで、何の話だ?」
「お前の母親の話だ。」
「…俺の?」
解は少し溜めてから声を出した。ショックを受けたのではなく、じっくり考えて答えた結果だった。解としては複雑な思いはあったが忌避感や嫌悪感は少なかった。
「どうしてあの人がお前のところに来たのか、考えたことがないか?」
「…ある。…まさか、知ってるのか?」
「ああ。お前が入院した時に連絡先を聞いて、その後何度か会って話を聞いたんだ。」
「そうか…。」
解は一旦話を止めてよく考えた。透矢は他人が思う以上に物事をよく見て、よく考えている。そのため単なる興味本位では動かない。とすると、透矢は彼女…愛理に何かしらを感じて話をする価値があると判断したのだろう。
「…透矢、ありがとう。その…大変だっただろう?」
愛理が学校に来た時と同じ調子なら普通に話すだけで一苦労、事情を聞くならさらに苦労しそうだ。
「それなりにな。まあ俺のことは気にするな。あくまでお前の問題で、母親の事情を聞くか、聞かないかだ。先に言っておくと、お前が聞く意味はある。価値はお前が判断するしかないが、俺は価値もあると思う。そして…お前を自分の都合で振り回した人間のことだ、決してきれいな話とは言えないものだ。」
「…。」
解は迷っていた。愛理がどんな人であれ、彼女は自分を生み出した人だ。愛情を学ぶという点において、愛理の話を聞くことは意味も価値もきっとあるはずだ。…だが恐ろしい。透矢の忠告がなくても、愛理の話を聞くのは怖い。単純にいらないから捨てた。利用できるから連れて帰る。道具としてしか見ていない。…愛してなどいない。話を聞けばそんな言葉を聞く可能性がある。逆に話を聞かなければ愛理が自分をどう思っているかを確定させずにすむ。決まっていなければ、ごくわずかな可能性を夢見ることもできる。
「…ああ、そうか。」
「えっ、どうしたの?」
「先輩?」
「解君、大丈夫?」
解が不意にぽつりと呟いたので女性陣が心配そうに声をかけた。
「ん、いや…。」
解は曖昧に返事をしたが、まだ考え事をしているようだった。透矢は冷静な目で解を観察していたが、口を開いた。
「何か新しい発見でもあったか?」
「…ああ。少し、な。」
解は少し躊躇いがちに答えた。
解が気付いたことはやはり愛情に関係していた。今まで愛理のことは事実のみを考え、好き嫌いはない・興味はないと思っていた。事実、つい先程も愛理の話にどう意味と価値があるかをまず考えた。しかし、自身が恐れることは「愛理が自分を愛してないとはっきりすること」だ。今も自分が母親を好きなのか嫌いなのかは分からないが、一方で自分は母親に愛されたかったらしい。「好きかどうか分からない相手に愛されたい」なんて、自分勝手なものだ。なら…。
「透矢。母親の話、聞いてもいいか?」
「え…!」
瀬奈達が解の言葉を聞いて息を呑む中、透矢は冷たさすら感じさせる声で言った。
「…そうか。いいのか?」
「ああ。正直恐怖はある。あるが、母親が俺をどう見て何を考えていたか、何を求めて来たのかを知りたい。それに、俺にも母親に聞きたいこと、伝えたいことがある。」
「直接会う気なのか?」
「…ああ。…少し、怖いけれど、な。」
解の体はわずかに震えていて、解は震えを抑えるため拳を握りしめた。本当は「少し」ではなく怖いのだろうが、何とか恐怖を乗り越えようとしていた。そして、ここが仲間達の出番だった。
「解君、怖くても心配いらないわよ。」
「始音?」
解が後ろからの声に反応すると、ふわりと柔らかいものが体を包んだ。
「わ…。」「わあ…。」
小さく漏れた声を聞きながら、解は始音に抱きしめられていた。始音の胸元に当たった耳から彼女の心音と体温が伝わってきた。
(…緊張はしないな。むしろ安心する…。)
これまでの話で解はかなり緊張していたが、始音に抱きしめられて肩の力が抜けて楽になった気がした。始音は解をしっかり支えながら、解の体から固さが取れたことを確認して笑った。
「そうそう。こんな風に誰かに支えてもらうのも普通。解君は好きなことをしたらいいわ。怖くても落ち込んでも私達が支えてあげるわ。」
「…それじゃあ皆に迷惑だ。自分勝手は駄目だろう。…むぐ。」
解は始音から少し体を離して返事をした。反対意見を出す以上甘えたままでは駄目だと思ったのだが、始音は明るく笑うと再び解の頭を抱きかかえた。
「今まで色々と人助けしてきたんだから、時には自分勝手でもいいんじゃない?それに、私は解君なら甘えてもらって全然問題ないわよ。」
「…そんなものか?」
「そんなものよ。ね?七海ちゃん、瀬奈ちゃん?」
「はい!先輩ならいくらでも甘えてもらって OKです!」
「…うん、友達だもんね。いくらでも頼ったらいいよ。相談しやすいんでしょ?」
始音に加え、瀬奈と七海のはっきりした声が聞こえた。見えなかったが、不思議と皆が笑顔で話してくれている気がした。
透矢は解達の様子を苦笑しながら見ていた。
「堤先生の言う通りだな。今まで頑張ってきた奴には自由と報酬が与えられる。当たり前のことだな。」
透矢は不謹慎ながら面白いと思った。愛情を理解できない男が愛をもらえなかった子供を育て、その子供は多くの人に愛される。よくある三文芝居だが、現実の話になると人間一人一人の輝きがあって美しく興味深い。
「そら、お前等もくっつけ。」
「え、ちょっ…!」「きゃっ…。」
透矢は座っている瀬奈と七海の背中を押して、解に密着させた。戸惑う二人、目を丸くした解と始音を余所に、透矢は素早くスマホでかしゃりと写真を撮った。
「いい記念になったな。後でお前等にも送るから安心してくれ。」
「び、びっくりしました…。」
「うー…。ごめんね、解君。大丈夫?」
「あ、ああ。というか、始音もありがとう。」
「ええ。リラックスできたみたいで良かったわ。」
瀬奈達はそれぞれごそごそと動いて元の位置に戻った。女性陣が離れた後で、解は今更ながら恥ずかしくなった。
(かなり格好悪いところを見せてしまった気がする…。)
とはいえそれほど後悔はなかった。皆の言葉のお陰だろう。程よく力が抜けた解に、透矢は笑顔から一変、真面目な顔となり言った。
「冗談を絡めたが、そうやって支えてもらえるのはお前が善く生きた結果だ。お前が大切に思う友人はお前自身の力だと思えよ。」
「ああ。」
解が頷くと、片手が七海に握られた。七海の元気な笑顔が解の目に映った。もう片方の手は始音に取られ、瀬奈に渡された。瀬奈は少し照れつつも解の手を両手で包み膝の上に置いた。…何というか、本当に甘えてしまっているな、と解は思った。透矢は満足そうに数回頷いた。
「…よし、じゃあ俺が黒条愛理から聞いたことを話すぞ。まず…。」
がやがやがやがや…。
(随分人が多いな。)
まだ日中でも寒い時期、解は何県も離れた場所にある駅にいた。県の一番大きな駅なので、当然のことだが大変混んでいた。しかも今日は休日なので尚更だった。大勢の人々が行き交う中、解は駅の出入口で立ち尽くしていた。
「この人だかりは慣れないか?」
透矢がにやりと笑いつつ解に話しかけた。すると、解の脇で気配を消していた影がひょいと出てきた。
「解君は遠出しないものね。大丈夫?ちょっと休む?」
麗が心配して解の顔に手を伸ばした。が、解は心配ないというように一度頷くとそっと麗の手を取った。
「大丈夫だ。別に人混みが嫌なわけじゃない。 何というか、こんなに多くの人達がそれぞれに生きてるんだな、と思ったんだ。」
そして解は麗の手をゆっくりと彼女の元に戻した。妙に紳士的な動きだが、きっと麗が教えたのだろう。透矢は面白おかしく指摘してやろうかと思ったが、止めた。
解、透矢、麗という珍しい組み合わせだが、彼等の目的地は愛理のところだ。今日は解と愛理がもう一度会う日…恐らく、解が望んで愛理と会う最初で最後の日だった。
来たメンバーには理由があった。解は当然として、場を用意した透矢も潤滑油として必要だ。始音、瀬奈、七海も一緒に行きたがったが、透矢が辞退させた。愛理は一人なので、数が多いと身構えてしまうからだ。ではなぜ麗がいるかというと、愛理が麗を知っていること、解と麗がほぼ家族に近い関係であること、透矢と同じく物事に冷静に対処できること等が理由だった。
「市民病院までお願いします。」
三人でタクシーを拾い、透矢が目的地を運転手に告げた。運転手はすぐに了解し、車が動き始めた。
「病院にいるんだな。」
タクシーが進む中、解が呟いた。思わず、という様子だ。
「ああ。三日前に入院したらしい。話はできるそうだ。」
「そうか…。」
解は透矢の言葉を聞いて、ぼんやりと窓の外を眺めた。曇り空の下、車の中で揺られている自分はどこか現実感のない、ふわふわした存在のように感じた。空一面の雲の方がよほど現実感を持っていた。そんな不思議な感覚の中で、解は透矢の話を思い出していた。
透矢から聞いた愛理の事情は、自分勝手ではあるものの切実な話だった。
愛理は病気を患っていて、病名は子宮頚癌のⅢc1期だそうだ。治療したものの根治せず再燃してしまい、再燃後は治療の効果なく、現在は緩和治療のみしている段階らしい。自宅で療養していると透矢は言っていたが、入院したとなると痛みや出血などで状態が悪化したのだろう。
つまり、愛理はそう遠くなく死ぬということだ。死を実感した時に、自分の側に誰もいないことが耐えられなくなった。しかし、恋人も友人もおらず、連絡できる肉親すら既に他界していた。そんな孤独の中で、愛理は解のことを思い出したらしい。生きていれば兄の真が育てているのではないか、そう思い調べたところ解の生存と居場所が確認された。自分で捨てておいて勝手な話とは分かっていたが、それでも記憶上の解なら付き従ってくれると考えた。そして、一連の行動に至る、ということだった。
(まあ、自分勝手ではあるな…。)
愛理は結局のところ自分の都合しか見ていない。しかし、だからといって愛理を責める気にはならなかった。孤独は一度知ってしまうと、何事もない日々においても苦しいものだ。まして死が近くまで来ているなら尚更辛く苦しいはずで、誰かに一緒にいてほしいと願うことは自然なものだろう。解自身、家で真や麗が、学校で透矢達がいなかったらと思うとぞっとする。
責める代わりに解が愛理の話を聞いて抱いた感情は「虚しさ」だった。自分の前から消えた時、愛理には愛する男がいたはずだ。顔も名も知らぬ父親とも、新しい男とも別れ、信頼できる友人もおらず、最後に残ったのは昔捨てた息子だけ。愛理が何のために生きていたのかは分からないが、もし何らかの愛情を求めていたのならその結末はあまりに救いがないと思ってしまった。解は愛理ではなく人生経験も少ないため、愛理を見下すことも同情することもできなかった。しかし、きっと幸せになるために解を捨てた愛理が、結局一人になって再び解を求めるとは、愛理への痛烈な皮肉だった。
また、誰にも言わず永久に胸にしまっておくことだが、解の心にはほんのわずか、母に求められたことへの喜びがあった。別に愛理と仲良くなりたいわけでも死までの時を一緒に過ごしたいわけでもなく、愛理との関係は解が置いていかれた日にすでに終わっていた。しかし、小さな頃から一度も愛理に必要とされなかった解にとって、今回の求めは解と愛理の間に残った最後のつながりだ。そして、解が愛理に忘れられていなかったこと、解が愛理に残った最後の存在だということ。それらは解の心に昏い喜びを与えていた。
(俺にもこんな思いがあったんだな…。)
以前児童虐待について調べた時、被虐待児は必ずしも親を嫌ってはおらず、親と離された後も愛している場合があるとされていた。この報告がどこまで正しいのか疑問だったが、今は少し納得している自分がいた。
「着きましたよ。」
解は窓の外を見ながら考え事をしていたが、タクシー運転手の声ではっと我に返った。見るとちょうど麗がスマホ決済をするところだった。
「(着いたんだな。)どうも。」
解は運転手に挨拶して車外に出た。外は変わらず曇り空で肌寒かった。
愛理が入院している市民病院は病床数500床ほどの綺麗な病院だった。受付には患者が多数座っていて、多くの人が行き来していた。
「こっちだ。」
先を行く透矢は解と麗に声をかけ、二人を連れてエレベーターに入った。そして自分達しかいないことを確認し、普段の調子で口を開いた。
「四階の個室に行くぞ。で、新幹線でも言ったが、あっちには午前中に麗さんと解を連れてくると説明してる。事情を解と麗さんに教えたことも言ってあるからな。」
「コロナもあるのに、面会は自由なの?」
「本当はあるんですけどね。お願いして話ができるようにセッティングしました。」
「相変わらずすごい奴だな。」
「まあ、それくらいはな。邪魔が入らず自由に話ができるよう、俺に出来ることはしておいたつもりだ。」
病院のエレベーターは基本ゆっくりだ。そのため一階から四階に上がるまでに話は終わった。そしてアナウンスとともに戸が開き、解達は四階病棟に着いた。
四階につくと透矢は一直線にナースステーションに向かい、看護師に声をかけた。
「すいません、403号の黒条愛理さんに面会したいんですが。」
「あ、はい。お名前よろしいですか?」
「茅野透矢です。こっちは黒条解と姫宮麗です。」
「分かりました。少し待っていて下さい。」
看護師はどこかに去っていった。麗は働く看護師を眺めつつ、簡単に身なりを整えた。
「そういえば、今日は私服なのにロックじゃ ないんだな。」
「最初はつけていたんだが、麗さんが今日はいらないと言ってきたんだ。」
「だって今日は真剣な話だもの。」
正確には「麗の影響を解が受けていることが表に出ないようにする」ためだが。
「そんなものか?」
「そうよ。それにしても、話して喧嘩にならないよう気をつけないと。」
以前愛理が銭湯に来た時、麗は冷静ではいたが怒って追い返してしまった。今回は仲違いしないよう肝に銘じなければならない。
「大丈夫だと思いますよ。何度か話すうちにだいぶ落ち着いてましたから。それに今は入院して元気がないんじゃないかと。」
透矢が言い終わったところで先程の看護師が戻ってきた。どうやら面会について愛理に確認していたらしい。受付を通され、解達は403号室に向かった。
部屋の前に立ち、解が入口の取手に手をかけた。この向こうに愛理がいる。そう思うと解は緊張を隠せず、手が震えた。目を閉じて深呼吸した。その時、不意に手に柔らかいものが触れ、解は目を開けた。麗が自分の手を解の手に乗せていた。
「大丈夫よ、解君。私も茅野君も、ここにいない皆もいるわ。」
「そうだぞ。何かあれば俺達が支えてやる。だから気楽に、好きにやれよ。」
麗と透矢が解は一人ではないと改めて教えてくれた。ゆっくり麗の手が離れ、解は一度強く手を握り、広げた。手の震えは収まっていた。
解がゆっくり戸を開けると、個室内には誰もいなかった。いや、誰か(愛理に決まっているのだが)ベッドで横になっていた。
「…あの。」
解は近づいて声をかけたが、それ以上は声を出さなかった。愛理は眠っていたのだ。
「寝てるわね。それにしても…。」
「体調は良くなさそうですね。」
「…。」
解が愛理と会ったのは数週間前だが、愛理の様子は明らかに変化していた。顔色は青白く、目には隈ができていた。服は病衣となり体は全体にやせ、頬は少しこけた印象だ。前腕には点滴がついていて、ゆっくりと液体が落ちていた。
「本当に病気なんだな…。」
「そうだな。病人を起こすのもあれだし、待つしかないな。」
「そうね、少し待ちましょう。解君も座ったら?」
透矢と麗は窓際に椅子と座れる場所があったので座ったが、解は座ろうとはしなかった。解は立ったまま無言で愛理を見つめていた。解の無表情な顔を見ても、解が何を思い感じているのかは分からなかった。
小一時間ほど経った時、愛理が動いた。
「う…ん。」
「あ…。」
解が思わず声を漏らすと、声に気づいたのか愛理はゆっくり目を開けた。そしてベッドサイドにいた解と目が合った。
「誰…⁉って…ええと、解…?」
「…。」
解は無言で頭を下げた。愛理は少し驚いていて、状況確認のため半身を起こし周囲を見回した。
「茅野君と麗…。ああ、来るって言ってたわね。悪かったわね、寝てて。」
愛理は頭を軽く振って言った。…愛理の口から謝罪の言葉が出るとは思わなかった。解が内心驚いていると、透矢が座ったまま愛理に話しかけた。
「愛理おばさんは調子が悪そうですけど、話せますか?」
「私を舐めないでよね。あとおばさんは止めてくれない?まだ40前なの。」
愛理は透矢をじろりと睨んだ。しかし、体からは活気が失われており、力強さは微塵もなかった。
「そう言われても解の母親なんでね。呼び捨てタメ口よりはましでしょう?」
「…まあいいわ。麗、どう?私の姿。嫌いな相手がこんな姿だと嬉しいんじゃない?」
「いいえ。断っておきますが、私が嫌うのは愛理さんの行動です。愛理さんそのものは昔から好きでも嫌いでもないですよ。」
からかうような愛理に対し、麗は笑顔を見せつつも真面目に答えた。聞く限りかなり手厳しい内容だったが、愛理は何故か気に入ったらしく笑い出した。
「あはは、麗らしいわ。あなた、真以外にまるで興味なかったものね。で、今の対象は解ってわけね。」
それだけ言うと愛理は笑うのを止めて解を見た。今までは軽い挨拶で、これからが愛理にとって、そして解にとっても本題だった。
「解。聞いたと思うけど私、先がないの。幸い金はいくらかあるんだけど、残念だけど世話してくれる人も看取ってくれる人もいないのよ。あなたに頼みたいんだけど、してくれる?」
愛理の言い方は強いが、一方的に命令する以前のようなものではなかった。そのため解も委縮して言葉が出ない、とはならなかった。ただ負担がないわけではなく、解は心の中で深呼吸をしてから臍に力を込め、口を開いた。
「…その、そもそも先がないっていうのは本当なのか?」
「ええ。今は痛み止めとかで誤魔化してる状態よ。今回は出血で入院したけど、いずれ輸血も止めるって聞いたわ。」
「…。」
愛理は病状をあっけらかんとした様子で説明した。自身の死を恐れていないのだろうか。もし死が怖くないならなぜ解を求めているのだろうか。
「ドラマとかじゃ余命何ヶ月とか言うけど、実際は言わないことも多いらしいわよ。まあ、なるようにしかならないからどうでもいいけど。」
「…もう一つ聞くが、あなたの願いを俺が受けると思うのか?断るとは考えないのか?」
「私は自分を最優先する悪人よ。だからあなたがどう思うかなんて考えないの。あなたを置いていった時も同じよ。」
話を聞いていた麗の顔が少し険しくなった。しかし、解は麗が心配するほどショックを受けていなかった。愛理の言動や思考をある程度知って慣れたことに加え、愛理が責め立てるように言ってこないことも大きかった。
「…そうか。答えてくれてありがとう。」
「どういたしまして。…で?私の質問の答えはどうなの?あなたの質問に答えるのもいいけど、私にも答えてくれないと。」
「そ、そうだな。悪い。」
「別にいいわ、責めてるわけじゃないから。」
目で促してくる愛理に答えるため、解はまずゆっくり深呼吸をした。ちらりと麗と透を見ると、二人と目が合った。部屋に入る前に聞いた二人の言葉を思い出し、解は自らの思いを伝えるため愛理に向き直った。
「悪いが、あなたの希望には応えられない。俺の帰りたいところはあなたじゃない。」
愛理は黙って解を見つめていた。その顔は無表情で、感情を読み取ることはできなかった。そのため、解は嫌われること、愛されないことへの恐怖に耐え待った。一分にも満たない時間、だが解にとっては苦しく長い時間が過ぎたところで、愛理が口を開いた。
「…ねえ。解にとって帰りたいところって何?真に…兄さんによく似たあなたにそんなものがあるの?」
愛理に怒ったり悲しんだりする様子はなかった。ただ理解できないから尋ねた、そんな様子だった。そのため解は動揺しないように落ち着くよう努めながら答えた。
「俺の帰りたいところは麗さんがいる真の家で、透矢や瀬奈、七海や始音がいる学校だ。俺が愛してる人達が俺の居場所なんだ。」
「…愛してる人が居場所、か。…人形のようだったあなたがそんなことを言うなんてね…。」
「…おかしいか?」
「いいえ、別に。…解、あなたが兄さんに似てるって言ったけど、取り消すわ。あいつは愛なんて欠片も分からなかったもの。」
愛理がこの会話で初めて負の感情を見せ、吐き捨てるように言った。真は愛理の兄だが、愛理は真に複雑な思いがあるようだった。
「…とにかく、あなたの言い分は分かったわ。昔のあなたならと思ったけど、諦めるわ。」
「…本当にいいのか?」
「そこまではっきり言われたら仕方ないわ。好き勝手生きた責任を取って、一人で死ぬわ。解、あなたは今日みたいに無理して来なくていいし、私が死んだ時も来なくていいわ。葬式もいらない。何か言われても『私とは縁が切れてる』って言いなさい。」
「…。」
解は意外だった。愛理はわざわざ解の所在を調べ、会いに来た。その上一度は無理矢理にでも自分の元に連れて行こうとした。それなのに、今は一度断られただけで納得してしまった。それに、今の言い方には解への三行半や嫌味といった意味はなく、純粋に解への配慮が込められていた。
「…思い通りにならなくていいのか?もっと強く言ってくると思ったんだが…。」
思わず解は愛理に尋ねていた。それだけ愛理の心変わりは不思議だった。加えて、愛理は確かに解を捨てた母親だが、一人病気で弱っていく女性をこのままにすることはできなかった。そして、聞かれた愛理は特に怒る様子はなく、むしろ穏やかに笑っていた。
「そんなこと聞いてどうするの?そもそもあなた、私と話すだけで苦痛でしょ?無理しなくていいわよ。」
「…そうかもしれない。だが、それでも気になったことを無視はできない。」
「そう…。まあいいわ、どうせ暇だから話してあげる。私が強く出ない理由は、あなたが私の知るあなたじゃないからよ。そこの茅野君からの話と今までの話でよく分かったわ。」
「?」
解が昔と違うと愛理にとってどんな意味があるのか、解には分からなかった。ただ、愛理の表情からは否定的なものは感じられず、変わらず穏やかなものだった。
「さっきも言ったけど、昔のあなたは何をしても反応しない子供だったわ。まるで兄さんみたいにね。」
愛理は小さい頃の解を思い出していた。真とよく似た、笑ったり泣いたりしない子供。異常でしかない、恐ろしくて気持ち悪い、そしてかわいそうな子。それが愛理の知る我が子だった。
「兄さんが育てたんだから、あなたは兄さんそっくりになってるだろうと思ってたわ。実際、学校では一目で分かったし。」
「…俺が真に似ているから強く出たのか?」
「違うわよ。学校の時は邪魔されていらいらしてたし、体調も良くなかったわ。…そうね、そこは悪かったわ。私のせいで入院したんだから、ごめんなさい。」
「え…。あ、いや、ああ…。」
殊勝な態度で愛理が謝ったので、解は驚いて言葉が出なかった。どんなことであれ愛理が謝るとは思わなかった。
「…話を戻すわよ。兄さんそっくりなあなたはどうせ愛情も感情もない空っぽの人間だろうから、私が本気で頼めば私についてくると思ってたわ。」
「…。」
解は真を肯定的に見ているが、それでも愛理の言うことは一理あると思った。真は多くの人から「感情がない、何を考えているか分からない、虚ろで怖い」と評価されていた。愛理が同じように思っても何も不思議ではない。そして、もし自分が「空っぽの人間」だったなら、確かに愛理の言う通りに従う気がした。愛理はそんなことを考える解を何とも言えない顔で見ながら話を続けた。
「でもあなたは兄さんとは違った。色々あったらしいけど、私も話して納得したわ。あなたは、黒条解は私の知るあなたじゃない。黒条真とも違う。なら、私があなたにどうこう言う資格はないわ。お願いするのがせいぜいね。…これがあなたにごちゃごちゃ言わない理由よ。」
話し疲れたのか、愛理は目を閉じて俯いた。そんな愛理を見た解は思わず数歩近づき声が出た。
「別に起きてなくていい。横になったらどうだ?」
「…そうね。そうさせてもらうわ。」
愛理が完全に横になるまで待ち、解は質問のために口を開いた。愛理の体調を考えると最後の質問にした方がよいだろう。
「最後に教えてくれ。あなたは真のことが嫌いなのか?」
「…嫌いよ。あんな、人の好意を理解できない奴。何でもできて、親には同情してもらえて、麗には好かれて。あんなに恵まれてたのに空っぽなままだった人のことなんて、好きになれる?なれるわけないわ。しかも…!」
愛理は解から目を逸らし、思いを吐き出すように語った。愛情・嫉妬・嫌悪。様々な感情が愛理の言葉にはあった。
小さな頃は兄が怖かったが仲良くしようとした。けれど、何をしても兄は私を愛してくれなかった。しかも、兄は何も変わらない癖に人には愛された。だから私は兄に嫉妬し、兄を嫌い、兄より幸せになってやろうと思った。だから恋もして、結婚して、子供もつくった。…けれど、誰も幸せにできず、幸せになれなかった。結局、異常者と言われた兄に私が勝るものは何もなかった。
解達は黙って愛理の話を聞いていた。愛理は最後の言葉を言わなかったが、透矢と麗には何を言いたかったのか分かった。「私を愛してくれなかった私の子供まで真を愛した」と言いたいのだろう。言葉に出さなかったのは解への配慮か、それとも自尊心からか。その答えは分からないが、真が愛理の心に強く影響していることは明らかだった。
そして、「私の子供」である解は愛理の答えを聞いて、しばらく俯いたまま無言だった。しかし顔を上げ、しっかりと愛理を見て言った。
「あなたが真を嫌いでも、真は大切な父親だった。本当の親か、異常かどうかなんて関係ない。真は愛情がなくても最期まで父親でいてくれた。…あなたとは違った。」
愛理は解が話す途中で目を逸らすのを止めて解を見た。解の目には怯えが見られたが、それでも最後まで愛理から目を逸らさなかった。
「……そうね。あなたの言う通りね。」
愛理は小さく呟き、それ以上は何も言わなかった。
こうして親子の会話は終わった。透矢と麗はほとんど話さなかったが、麗は愛理に、
「近いうちにまた来ます。」
とだけ伝えた。愛理は何も言わなかった。
帰り際に愛理の主治医が家族(解)に経過と今後の説明をしたいと言ってきたが、麗が固辞した。代わりに麗は自分の連絡先を伝え、解達は病院を後にした。
「ふう…。」
解はゆっくりと息を吐いた。病院の外は来た時と同じ曇り空で、少しだけ雨が降っていた。普通なら憂うつになりそうなものだが、解は真と歩いた雨の日を思い出し、かすかに笑った。そこで笑顔の透矢が軽く解の背中を叩いた。
「お疲れさん。よく頑張ったな。」
「ありがとう。透矢も麗さんもいてくれて、本当に助かった。情けない話だが、一人では話せなかった。」
「力になれたのなら良かったわ。でも、今日の話は解君が頑張ったからできたことよ。」
「麗さんの言う通りだぞ。自分の努力とその結果は正当に評価してやれよ。」
「ああ、分かった。」
透矢は解の返事を聞いてにやりと笑った。本当に分かってるのか怪しいものだ。
「本当に大丈夫か?まあ、大して動いてない俺が偉そうに言うことじゃないんだがな。」
透矢はくくく、と笑った。相変わらず自らにも容赦なかったが、麗は透矢に笑顔を向けた。今回透矢には感謝しなければならなかった。
「そんなことないわ。ねえ、解君?」
「ああ。あの人があんなに落ち着いていたのはお前が何度も話をしてくれたからだ。透矢がいなかったら話すらできてなかったはずだ。本当にありがとう。」
「私もお礼を言わないと。茅野君のお陰で解君が今を選択できたわ。私じゃこんな道は作れなかったから、本当にありがとう。」
「いやいや、俺はできることをしただけですから。解も気にするな、というか、体がかゆくなるからもう言うなよ。」
透矢は頭を乱暴に掻きながら苦笑した。こう丁寧に礼を言われるとさすがに参ってしまう。しかも、解に謙遜するなと言った割に自分が謙遜するのでは説得力がなくなってしまう。なので、話を終わりにしてしまうのがベストだった。
「ああ。分かった。」
解は微かに笑って透矢に頷いた。
愛理と話す前にはどうなるか想像もしていなかったが、三人の帰り道は穏やかなものだった。解は改めて感謝した。
解達が最寄り駅まで帰ってきた時、時刻は午後四時を大分過ぎていた。タクシーで帰る手もあったが、愛理がいた県とは違い雨が降っていなかったので、歩いて帰ることにした。透矢も途中まで道が同じなので、解の家まで一緒に帰ることになった。
三人はぼつぼつと話し歩き、30分弱ほどかけて解の家につながる道まで来た。いつも通りの道なのだが、何故か玄関には先客がいた。
「先輩!お帰りなさい!」
「解君!」
「大丈夫だった?」
解と一緒に行けなかった瀬奈、七海、始音が待っていた。三人は解に気付くと駆け寄ってきて、三種三様の声が解にかけられた。
「お疲れ様です!先輩!」
「っと。三人とも、どうしてここに?」
解は七海を受け止めながら瀬奈に聞いた。三人には無事を伝えたかったが、解は携帯電話を持たないので連絡を諦めていた。
「茅野君に聞いたの。で、行けなかった分、帰りは皆で待とうって話になってね。」
瀬奈の話を聞いた解が透矢を見ると、透矢はスマホを軽く振ってにやりとした。
「一応連絡しておいたんだ。まあ待ってるとは思わなかったがな。」
「サプライズでいいでしょ。それに、無事と言われても会って確かめたいものよ。」
「そうか。心配かけて悪かった。俺はこの通り大丈夫だ。心配してくれてありがとう。」
解は謝罪と感謝の思いで頭を下げた。その途端、腕にくっついていた七海が声を上げた。
「頭なんて下げないで下さい!私達が好きでしてることですから。」
「そうだね。解君は気にしなくていいよ。」
「二人の言う通りね。解君は言うんだったら『ありがとう』だけで十分よ。」
「…分かった。ありがとう。」
解はかすかに笑った。やはりごめんなさいよりありがとうなんだな、と思った。
麗は解とその友人達を温かく見守っていた。愛理との話といい、解の成長は本当に嬉しいことだ。そして、解を助けてくれた透矢達には感謝しかなかった。そこで、麗は手を叩いて声を上げた。
「ほら!解君も疲れてるんだから、この辺で一旦終わり。続きは解君の家でしたらどう?せっかくだからご飯でも頼んで皆で食べましょうか。」
麗がいきなり出してきた提案に、まず七海が元気よく手を上げた。
「はい!私賛成です!」
「私もいいですけど、解君はいいの?」
「ああ。俺は構わない。」
「じゃあ私も参加で。茅野君はどう?」
「男が解一人じゃ大変ですから、俺も行きますよ。」
「決まりね。」
「ふふ。さ、行きましょう。」
始音と麗の言葉を締めに、全員で解の家に向かって歩き出した。
七海がついて来て、始音が手を引き、透矢が笑い、瀬奈が支え、麗が見守る。解はそんな愛情と共に生きよう、生きたいと思った。まだ愛情はよく分からない。始音の愛情には返事ができず、瀬奈や七海の自分への愛情が何なのかは分からず、麗の愛情には甘えてしまっている。それでも真が求めた愛情の片鱗は自分にあるのだから、いつか理解できるはずだ。だから、これからも愛情について考えていこう。大切な、愛する人達と共に。
解はそんなことを考えながら歩いていた。その時。
ぽたっ。
解の背中に雨粒が一滴落ちた。解は空を見上げた。背中を押された感じがした。空は白い雲で覆われていたが、雨は降りそうになかった。
「解君、どうしたの?」
呆けたように空を見る解に瀬奈が声をかけた。全員が立ち止まり、解を振り返った。…誰も解を置いていかなかった。先程の雨粒はきっと励ましてくれたのだ。これからは彼等が一緒だから大丈夫。行ってらっしゃい、と。
「…ずっと言わなかったんだが、話してもいいか?」
全員で顔を見合わせて言った。もちろん。
「俺は元々『解』じゃない、違う名前だった。既に知ってると思うが、言わせてくれ。…俺は元々『愛斗』だった。量りきれない沢山の愛を、という意味らしい。」
…。
「『愛斗』は愛情が分からず、母に置いていかれた。けれど真が俺を『解』にしてくれた。少し、愛情が分かるようになった。」
…(静かに頷く)。
「俺は『愛斗』だが『解』として皆と生きていきたい。…こんな俺だけど、これからもよろしくお願いします。」
こちらこそ、これからもよろしく。
無題
夏、突然妹から電話があった。自宅に息子を置いたままだから様子を見てほしいという内容だった。既に子供を一人にして3日経過していた。子供は死んでいる可能性があり警察に任せる選択肢もあったが、頼まれたことをしない理由もないため、自ら妹の家に向かった。
最初見た時、子供は死んでいると思ったが、
まだ生きていた。とはいえもう一日放置すれば死んでいただろう。子供の周りにはごみが溜まり、糞尿の匂いがした。どうやら部屋から一歩も出ずに食事と排泄をしていたようだ。子供にとって部屋に留まること、あるいは部屋を出ることに何らかの意味があったようだ。
発見時、子供はまだ意識があり、「お母さん」と呟いた。何の感情もない言葉だったが、母親に捨てられた子供が母親を呼ぶとは意外だった。子供が妹をどう思っているかは分からないが、どうあれ子供にとって今回の出来事は人生に関わる重要なものだろう。
子供の一言が理由ではないが、子供は俺が引き取ることになった。調べると保育園と児童相談所の怠慢が認められ、俺以外に誰も子供を引き取ろうとしなかった。俺自身も精神障害、未婚など問題はあったが、子供を引き取ることに反対するものはいなかった。
子供は保育園で見る他の子供とは違った。常に無表情で、自分から話すことはほぼない。笑うことも怒ることもない。いつもは泣くこともない。PTSDによる発作症状が出た時だけ泣く。それだけだった。
子供は妹から常々虐待を受けていた。子供の現状は先天的なものなのか、虐待による後天的なものなのかは分からない。先天的ならば俺のような存在と言えるだろうが、それでは俺と同じく愛情を理解できないままとなる可能性が高い。ならば、虐待による影響の方がまだ変化し得る未来があるかもしれない。
親となった以上、できる限り親らしい振る舞いをして子供を成長させる義務がある。愛情がないため子供を愛することはできないが、愛情以外の金銭、知識、経験、俺の持つものは与えるつもりだ。そして、親として願い目指すべきは子供の幸せなのだろうが、俺は幸せよりも多くを理解するべきだと考える。なぜ生まれたか、なぜ生きているのか、自分の幸福とは何か。この子供は誰にも望まれていないのだから、それらを理解して自らの存在を証明しなければならない。しかし上記ができるならば、たとえ幸福が得られずとも生きていけるだろう。幸福が得られるのなら問題はないが、生まれた初期より困難を与えられたこの子供には幸福が理解できない可能性がある。そのため、幸福の有無に関わらない生き方が必要と考える。
子を愛さない親がどこまでできるのかは不明だが、できる限りのことはする予定だ。今後自分の行動を評価考察するため、記録を残していくこととする。
「日記」フォルダ内
隠しファイル「愛斗」より
黒条真 記




