表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛情の研究者  作者: けつ
10/11

No.10

「黒条先輩、好きです!私と付き合って下さい!」

「…伝えてくれてありがとう。ただ、悪いが今は誰かと付き合う気はないんだ。だから、付き合うことはできない。」

体育館裏ではないが、校舎の隅で放課後、上級生が下級生に告白されていた。上級生の黒条解はすまなそうに、だがはっきりと断った。断られた下級生はしゅんと悲しそうな顔をした。

「…やっぱり私じゃ駄目ですよね。先輩の周りには川野辺さんとか、きれいな人がいっぱいですもんね…。」

「…?」

きれいな人がいると告白する際に何か不都合なのだろうか。恋愛を理解しているとは到底いえない解には分からなかった。

「でも、駄目でもはっきり言えて良かったです。話を聞いて下さってありがとうございました!」

「…ああ。重ねてありがとう。」

やや作った笑顔ではあったが下級生はお辞儀をして小走りに去っていった。解は下級生を見送っていたが、相手の背中が見えなくなると小さくため息を吐き、校舎に戻った。


「あ!おかえりなさい、先輩!」

解が教室に入ると一人の下級生がすぐさま椅子から立ち上がり解に寄ってきた。いつものことながら、まるで飼い犬のようだ。

「遅れて悪かった。」

下級生、川野辺七海はにこにこ笑いながら解の手を引いて椅子に戻り、解はその隣に座った。座ったのだが、手は七海に握られたままだった。

「で、全員気にしてるからいっそ聞くが、呼び出しは何だったんだ?」

解と同級生である茅野透矢がにやりと笑いながら尋ねた。途端に部屋の中に不思議な緊張が走ったが、そんな中でも解は落ち着いた顔で答えた。

「一年の女子だった。内容はともかく、用事はもう済んだ。」

「語るに落ちるわね。こういう時は嘘をついていいのよ。」

担任にして顧問の堤始音が苦笑しつつ解にアドバイスした。しかし、解は助言を受けても渋い顔だ。

「嘘は吐きたくないんだ。」

「真面目ねえ…。」

話が途切れたところで部屋の中にいる最後の一人、解と同級生の霧谷瀬奈が声を上げた。

「そろそろ始めよっか。ほら七海ちゃん、司会しないと。」

「あ、そうでした!」

七海は慌てて解の手を離して立ち上がった。一応同好会の会長なので、基本的に七海が司会役をしているのだ。

「じゃあ今日の愛情研究会はみんなで話をする、なんですけど…。」

「じゃあ俺が話してもいいか?」

解が挙手して発言したので、全員が解に注目した。

 解達は愛情研究会という同好会に所属していた。解が愛情を理解するために七海が発足させたもので、恋愛、友愛といった愛情全般について考えることが目的だ。

「議論というか聞きたいだけなんだが、失恋をして新しく恋をするのは精神的にどんな機序、いや感じなんだ?」

「失恋の話かあ…。」

「駄目か?」

解の提案に瀬奈は悩ましい顔をした。解は少し心配になったが、瀬奈は解に笑顔を向けた。どうやら解に反対、というわけではないらしい。

「あ、ううん、駄目じゃないよ。駄目じゃないけど…誰か、この中で失恋した経験のある人、いる?」

「…。」

「…。」

瀬奈が複雑な表情で尋ねると、全員が顔を見合わせた。どうやら誰も経験してないらしい。

「おいおい、誰も振られたことがないのか?先生は?」

「振った経験しかないわ。七海ちゃんは結構積極的だと思うんだけど?」

「ええ⁉わ、私は失恋も何も、そもそも恋が初めてなので…。」

堂々とした始音に対して七海は恥ずかしそうに小声で答え、ちらっと解を見た。解は七海の視線に気付かなかったが、以前七海が恋をしているとは聞いていたので、「そうか、初恋だったのか」と呑気に考えていた。

「無理して言わなくていいぞ。しかし、誰も経験がないなら他の話をするか。」

「別に失恋の話でいいだろ。新しい恋をする機序、だよな?機序も何も、失恋なんて失敗体験はさっさと忘れて、新しい楽しみを見つけてるだけじゃないか?恋も感情も消費されるものだからな。」

「茅野先輩が言うような人もいるとは思うんですけど、本気で好きだったら簡単には割り切れませんよ。落ち込んじゃいます。」

「とはいえ新しく恋はするだろ?次の恋をしない奴なんてまずいないんだからな。」

「それはそうですけど…。こう、好きが好きだったになるというか、思い出にするというか…。」

「まあ、好きだったことを消したくはないよね。浮気とかがあったらそうもいかないだろうけど…。」

瀬奈は苦笑いを浮かべた。思わず略奪愛的な小説を思い出してしまったが、瀬奈自身も理想は七海に賛成だった。が、そこに始音が割り込んだ。

「でも理想は地に堕ちて汚れちゃうのよねー。七海ちゃんの意見は綺麗過ぎかもよ。失恋の痛みも喉元過ぎれば忘れるし、より早く忘れるために次の恋を探す。現実はそんな感じだと思うわ。」

「始音先生までネガティブな発言を…。」

いつもは中庸の発言をする始音の否定的な言葉を受けやや意外そうな七海だった。

「待て待て、俺は別にネガティブな訳じゃないぞ。人間に期待してないだけだ。」

「十分ネガティブだから。じゃあ私が話すね。失恋は確かに失敗体験だけど、皆が皆すっきり忘れることはないよ。かといって皆が七海ちゃんみたいとも思えないから、記憶には上らないけど次の恋のために経験として生かされるんじゃないかな。それと、恋っていつの間にかしてるものだと思うの。だから新しい恋も失恋とは関係なく偶然成立するんだと思う。」

「お、なんか上手くまとめたな。」

「思ったことを言っただけだから。」

「ふーん。なーんか解君に口ぶりが似てきてない?」

「いやいやいや、そんなことないですから!」

透矢と始音に瀬奈がからかわれて慌てていた。その様子を見ていた解は無表情だったが、自分に似ていることをそんなに強く否定しなくても…と若干もやもやしていた。そして、そんな解に七海が無邪気に尋ねた。

「あの、先輩。私達の意見を聞いて、先輩の意見はどうでしょうか?」

「ん、そうだな…。」

解は手元のタブレットに打ち込んだ文を読みながら顎を指で触り、答えた。

愛情研究会の議論は全員が意見を出して、解が意見をまとめるのがいつもの流れだ。解を中心とした集まりなので、解の意思・意見が重要とされるのは当たり前だが、解は時々突拍子もないことを言うのでみな解の話を楽しみにしている節もあった。

「まだ意見はないんだが、俺は瀬奈が言った恋愛の起こりが気になったな。皆は気付いたら恋していたのか?」

「え、ええ?」

無邪気な子供のように質問してくる解に瀬奈は思わずたじろいだ。本音を話すべきか悩む瀬奈の横で始音が笑いながら言った。

「まず私が言うわね。私はいくつかのきっかけと時間で好きになったわ。いつの間にか、じゃないわね。」

始音は意味ありげな笑みを浮かべて解に流し目を送った。視線の意味を分かっている解は少し困った顔をした。夏休みに始音に告白されてもう3ヶ月で、解の事情を知る始音の厚意で返事を保留してもらっていた。なので、好きなことをアピールされると申し訳ない気持ちだった。

「わ、私はいつの間にか、って感じかな。元々楽しくわいわいやってたら、そういえばそうかも、って。」

瀬奈は本音を言うことにした。解と始音の一件を解から聞いていたので、始音への対抗心を持っている自分がいた。

「えっと、私は恋愛がどうとかは気付いてなかったんですけど、私の気持ちが恋愛だって教えてもらいました。」

一方七海は始音や瀬奈の事情を全く知らなかったので、特に競争心などを感じないまま少し恥ずかしそうな笑顔で答えた。

「女三人が話したんなら俺も話すか。俺は恋をしたことがない。というか、俺の在り方じゃできそうにないな。」

「妹さんがいるんでしょ?茅野君を本気で好きな。」

瀬奈につっこまれても透矢は肩を竦めるだけだった。やはり透矢はこの程度で動揺することはないようだ。

「真弓が俺をどう思ったところで俺があいつをどう思うかは別だからな。まあ俺は特殊例だから除外しておいてくれ。代わりに意見を出すからな。でだ、麗さんは確実に失恋してるだろ?真さんと恋人関係にならなかったんだからな。麗さんに聞けばいいんだよ。」

「…そういえば。」

解は今思い出したという顔をした。それくらい麗のことはすっかり忘れていた。麗なら透矢の言う通り失恋の経験がある上、本気で頼めば経験を話してくれそうだ。

「確かにそうね。麗さんなら笑顔で失恋話もしてくれそう。」

「私はちょっと聞いたことがあるけど、解君に話してくれるのかな…?」

始音の言葉に瀬奈が懐疑的な声を上げた。現在の意中の相手である解に麗が詳しいことを話すだろうか。少なくとも自分なら話さないが…。瀬奈が考えていると、空気を読めなかった解が瀬奈に言った。

「話せる内容なら瀬奈が話してくれればいいんだが。」

「…人の失恋話なんて絶対言わないからね。」

瀬奈はぷいっと顔を横に向けた。いくら「話せる内容なら」と前置きしても失礼なものは失礼だ。むしろ話せるとしても話してやるものか、という気になった。

「おやおや。うちの姫様はご機嫌斜めだな。今日はもう帰るか。」

「いや、瀬奈が…。」

「大丈夫だ。明日になったら元に戻ってるから。」

「本当か…?」

「…。」

その通りだとは思うが、目の前で言われると微妙な気持ちになる瀬奈だった。しかし、何も言わないままなのも解がかわいそうに思えてきた。

「…別に怒ってないから、そんな顔しないで。麗さんによろしくね。」

「あ、ああ。」

解は戸惑った声を上げながら曖昧に頷いた。麗のことを瀬奈に聞いたことが悪かったのは理解していたが、謝ってもいないのに明日機嫌が良くなってくれるのかどうかは分からず若干不安だった。しかし、変に食い下がると余計事態が悪化する気配を感じたので我慢した。

「じゃ、じゃあ今日はこれで終わりですね。明日は先輩の報告を聞くということで。」

「オッケー。」「はーい。」「ああ。」「了解。」

七海の締めに全員が返事をして、その日はお開きになった。


 曇り空の中、解は一人で銭湯へ帰る道を歩いていた。思い出すのはやはり最近の出来事だ。

 校則の話がひと段落して生徒会と関わることがなくなってしまっていたが、告白されてから聖とは数回顔を合わせることができた。解が話す限り、聖は落ち込んだり解を嫌ったりする様子はなく、むしろ落ち着きのない解を気遣ってくれた。

『私は大丈夫だから、心配しないの。私が好きになった人なんだから、しっかりしなさい!』

強がりにせよ何にせよ、聖は解よりもずっと大人だった。とにかく、聖を心配する必要、いや資格は解にはなかった。

 聖のお陰で聖への申し訳なさは一応の区切りを迎えたが、解自身の内面的問題は依然継続していた。それはこれまで誰かのためにしてきた行動は自身の保身のためでしかなかったのでは、という疑念だった。今でこそ違うがつい最近まで解の生活は他人とほぼ接点がなかったので、好かれたり嫌われたりとは無縁だった。しかし、告白を断るという明確に相手を傷つける行為をしたことで、「嫌われたくない」という思いに初めて気づいた。嫌われたくないのは誰しも同じだろうが、身勝手な思いを相手に押しつけている気がして、解は自分がとても浅ましく思えた。この自分への嫌悪感をなんとかしたいのだが、方法は見当もつかなかった。

「自分を卑下しない、か…。」

好いてくれる人のためにも自分を卑下しない方がいいと教えられ以降そう努めてきたが、ここにきて卑下どころか嫌悪感に至るとは…。解は歩きながら空をちらりと見上げた。雨は降りそうで降ってくれそうにない。降らない雨と太陽を隠したままの空は解につれなかった。



「はあ、自分で用意しておいていいお湯ね~。季節的にもお風呂でゆっくり温まるのにいいタイミングよね。」

「それはそうなんだが…。」

「解君、そんな端っこにいないでこっちに来たら?広くて気持ちいいわよ?」

「いや、俺はいいんだが、麗さんは嫌じゃないか?タオルも何もつけてないんだから。」

「えー?裸なんて今までに数えきれないくらい見られてるのに。」

「それは小さい時だ。」

解は銭湯の男湯で温まりながら呆れたような声を出した。はす向かいの位置には麗が一糸まとわぬ姿でお風呂に入っていて、気持ちよさそうに首までつかりながらお湯の中で手足を伸ばしていた。

(どうしてこんなことになったのか…)

麗を見つめないようにしながら解はつい先ほどのやりとりを思い返していた。


「麗さん、作業しながらでいいから、聞いてもらっていいか?」

閉店した銭湯の受付で解と麗が掃除をしていた時、解がふいに麗に尋ねた。

「何?」

「麗さんは失恋したことがあるか?」

「あるけど、どうしたの?」

麗は何の躊躇いもなく答えた。麗にとって自分のことを話すのは別に恥ずかしいことでも嫌なことでもなかった。

「愛情研究会で失恋と新しい恋への転換について話したんだ。」

「あ、そういうことね。私は真さんに振られてるから、確実に失恋話はできるものね。」

「そんなところだ。」

相変わらず麗は理解が早かった。解としては答えつつもこんなに簡単でいいのかと疑問に思うほどだった。

「話すのはいいんだけど、私からのお願いも聞いてもらえる?」

「勿論。俺にできることならだが。」

麗は笑顔だが口調は少し真面目だったので、解は二つ返事で同意した。もっとも、麗が真面目な態度をとるなら、たとえ何であってもきちんと向かい合うつもりだ。

「最近ずっと悩んでるでしょ。困ったことがあるなら相談してほしいわ。ああ、でも強制じゃないの。良かったら教えて、だからね。」

「…心配してくれてありがとう。俺も話せる範囲で言うことにする。」

麗には解の悩みは筒抜けだったようだ。そうだろうとは思っていたが、ばれているならばれているでいっそ相談してしまうことにした。

「どういたしまして。さ、それじゃあ行きましょ?」

「は?どこにだ?」

首を傾げる解に麗はいたずらっぽい笑みを浮かべた。…これは少し困るやつだな、と解はすぐに理解した。

「ちょっと恥ずかしい話だし、長くなるかもしれないから、お風呂で話すのがいいと思うの。久しぶりに一緒に入りましょ?」


「この年で麗さんと風呂に入るとはな…。」

「どうしたの解君、何か言った?」

「いや、何も。」

解は誤魔化して、話をするために気を取り直した。麗への礼儀として、まずは自分の悩みを話すことにした。なので、まずは麗の裸を見ないようにしながら少し接近した。

「まずは俺のことを話そうか。詳しくは言えないが、少し前から女子に好きだと言われることがあるんだ。」

「あらあら。解君も女泣かせね。」

麗はのんびりした口調で笑顔だった。…ひと言目から言葉が的確で頭が痛かった。

「…まあ、そうだな。だが恋愛をよく分かってないんだから断るしかないだろ。」

「そうね。解君は相手を好きじゃないんだから。それで、断るしかできない自分が嫌なの?それとも、相手に嫌われないか心配?」

「…そんなに分かるなら、俺が相談する必要すらないんじゃないか?」

話さずとも麗が概ね解の悩みを推測してしまったので、解は渋い顔をしてぼそぼそと言った。そんな解を麗は優しく見守っていた。

「話を聞いたから予想できるのよ。それに何より、私は解君の姉代わり、母親代わりだから。」

「はあ…。」

麗からすればまだまだ自分は子供、と言うことらしい。解は小さくため息を吐いたが、人生の先輩に相談を続けた。

「相手の好意を否定するんだから嫌われても仕方ないのに、怖いんだ。嫌われること、嫌われたかもと思うことも。」

「相手の愛情を否定する気がして苦痛なのね。大抵はそこまで深く考えないか割り切って衝撃を軽くするけど、解君は深く考えちゃうのね。…他人と会話する経験が乏しかったからかしら。真さんはその手のことは教えられないし…。」

「ああ、真は悪くない。俺の知識と経験が足りないことが問題なんだ。」

解は暗い気持ちで風呂の水面を眺めていた。折角広い浴槽に入っているのに気分は暗く狭い中にいるようだった。

「元気出して。解君は何も悪くないわ。それに会話の経験ならともかく、恋愛の経験はそんなになくていいわ。だって、いい相手が見つからないってことでしょ?」

水面が妙に波立ったので解は顔を上げた。いつの間にかすぐ近くに麗がいた。解が少し目線を下げれば裸が見える距離な上、麗が解に手を伸ばしてきたので、解は驚いて思わずざざざっ…!と水音を立て麗から遠ざかった。

「近づき過ぎだ。適切な距離を保ってくれ。」

「あら?解君でも女性の裸を見るのは緊張するの?」

くすくす笑う麗の濡れた肌が妙に目につくので、解は体ごと背けて麗を見ないようにした。

「女性の体を凝視するなと教えたのは麗さんだろ。」

「まあそうだけど、それは相手が嫌がるからよ。私は解君なら嫌じゃないわ。小さい時から何度も見られてるもの。」

「俺はもう高校生だぞ。」

「そうね。解君はちゃんと成長してる。人と触れ合えばお互いに傷つくこともあるって分かったでしょ?」

「…。」

「親子でも兄弟でもうまくいかないことはあるわ。元が他人の友達や恋人なら尚更ね。どう頑張っても駄目なことはある、これは経験して受け入れるしかないわ。」

解は相変わらず余所を向いていたが、麗は気にせず優しく話を続けた。

「人と接するのが不安なのは誰でも同じよ。嫌われたくないし、傷つけたくもない。…でも解君は嫌なのよね。良い方法はなかったのかとか、相手に自分の思いを押しつけているんじゃないかとか、つい考えてちゃう。」

「…ああ。」

相変わらず心を読んでいるかのような麗の洞察力だった。しかし、少し麗はからかってくる時もあるが、基本的にいつも適切な意見をくれた。麗はそれだけ解から信頼されていた。だからこそ解の言葉は瀬奈への相談以上に愚痴っぽくなった。

「傷つけておいてまず心配したのは自分が嫌われないかだなんて、身勝手だろ。」

「…解君は真面目で優しいわね。」

「!」

いきなり濡れた頭を撫でられて解は肩が跳ねるほど驚いた。解が反射的に向き直ると目の前、手の届く位置に麗がいて、解の心臓はどくんと一際大きく鼓動を打った。

 麗の顔は上気して少し赤く、お湯から出ている首や胸元の肌は濡れ光っていた。お湯が透明なせいで隠れていない体は曖昧だが美しい曲線を描いており、愛情・性欲に疎い解ですら見とれてしまった。麗はそんな魅惑的な姿なのに、母親のような温かい笑顔で優しく解の頭を撫でた。

「解君の悩みは多分生きてる限り消えないと思うわ。解君には悩みを忘れる割り切りの良さも受け入れる器用さもないから。」

つつっ…と麗の指が髪の毛から下に下がり頬に触れた。触られた解は体をぴくっとさせたが、麗の雰囲気にのまれ動けなかった。緊張と共によく分からない高揚感があった。

「…でも、私はそんな解君が好きよ。きっと解君を好きな他の子もそう。だから、解君はそのままでいいの。傷ついて、自分でどうしようもなくても、誰かに癒やしてもらったらいいわ。相手がいないなら私が慰めてあげる。」

不思議と動けないままの解を麗は抱きしめた。日常やフラッシュバックの際に麗に抱きしめられることは度々あったが、当然お互い裸なわけがなく服を着ていた。雰囲気も家族間という穏やかなものであり、これほど妖艶なものではなかった。つまり、解自身は説明できないが今回はこれまでのものとは違う気がした。というより、麗の雰囲気と直接当たる肌の柔らかい感触に解は内心かなり動揺していた。

「あら、解君…。」

「え、え?」

足が何かに触れた麗は目を丸くして水面、ではなくその下を見ていた。麗につられて解が下に意識を向けると、果たしてそこには勝手に反応した自分の体があった。

「あ、あ…。」

「解君もやっぱり男の子なのね。ちょっと安心したわ。」

麗は解と密着したまま解の顔を覗き込みくすりと笑った。と、笑顔のお陰で我に返ったのか、解は赤い顔で慌てて麗から離れた。

「うわっ!」

「きゃっ。」

「あ、わ、悪い…。」

勢いでよろけた麗に声をかけはしたが、解に麗を気遣う心の余裕はなかった。とはいえ麗は一瞬驚いただけで、動揺しているのは解だけだった。

「麗さん、もう大丈夫だ。だからもういい。」

「えー?慰めてあげるのはこれからよ。だって、まだ部分的に元気になっただけじゃない。」

「は⁉いや、これは…。悪いが、ちょっと出てくる!夕飯は気にしないでくれ!」

麗に指摘されて初めて解は慌てた様子で他をるを使って前を隠すとそのまま駆けだし、男湯から出て行ってしまった。一人取り残された麗は目を丸くしながら、焦ることなく再び肩までお湯につかった。

「…元気になってくれればいいけど、新しい悩みができちゃったかしら?」

麗は困ったように笑い、少し申し訳なく思った。そして今日はもう帰って来ないだろうな、とのんびり考えていた。


「それで、麗さんですか、その人が体を張って癒そうとしてくれたのに、黒条さんは下半身を元気にしただけで据え膳に手を出さず逃げ出したと。」

「はあ…。」

何ともいえない表情で解は声を出した。今彼は透矢の住むマンションにいた。解は麗から逃げ出した後、気持ちが鎮まった後にやることなく町を歩いていた。すると、偶然透矢と真弓の茅野兄妹に出会い、話を聞いた透矢によって家に迎えられたのだ。真弓の手厳しい言葉に透矢が苦笑した。

「おいおい、言い過ぎじゃないか?」

「だって、その麗さんはそこまでしたのに黒条さんに逃げられちゃったんですよ。女に恥をかかせたら駄目です。」

「俺も恥ずかしかったんだが。」

「無駄なところでジェンダーレスを訴えないで下さい。今そこは関係ないですからね。黒条さんがへたれなことは事実なんですから。」

「…俺が情けないのは分かったが、そもそも麗さんは真を好きなはずで…。」

「真が誰かは知りませんけど、プロや援助交際でもないと好きでもない人に裸を見せるなんてしませんよ。」

真弓につっこまれている解はいつもより弱々しい雰囲気だった。真弓の少々強いもの言いも原因だろうが、それ以上に自分の体の反応や真弓の意見に戸惑っているようだ。透矢はそんな解の胸の内を多少なりとも理解しているので、真弓に解説してやることにした。

「真さんは解の義理の親父さんだ。それと麗さんは解の姉かつ母代わりで、かなりのくせ者だ。お前が思う普通の女性とは違うぞ。」

「だとしても黒条さんを好きなのは同じですよ、絶対。」

真弓のトーンが少し落ちたので、解はおずおずと手を上げた。

「小さい頃は麗さんと一緒に風呂に入ることもあったんだ。だから今回も麗さんに性的な意図はなくて、厚意に勝手に反応した俺が悪いだけ、と思うんだが…。」

「…。」

話しているうちに真弓の視線が厳しくなっていくのに気付き、解の声は段々と小さくなっていった。一方、解の意見を聞いて真弓はため息を吐いた。夏休みの時は頼りになったが、今は見る影もないほど弱々しい。何だか可哀想な気がしてきたので、後を任せるつもりで兄を見た。透矢は真弓の視線に内心やれやれと思いながらも口を開いた。

「本心は誰にも分からないが、お前の考えは半分正解、半分間違いだろうな。そもそも、麗さんのお前への愛情って何だと思う?」

「家族愛に近い友情。」

「…と一緒に恋愛もだ。」

「…いやいや。まさか。」

「まあそう思うんだろうがな、諦めろ。大体麗さんは真さんに振られたんだろ。なら次に誰を好きになろうが自由だ。」

「…いや、まあ、それはそうだが。でも、俺への接し方はずっと変わらないぞ。」

「表に出す人じゃないだろ。しかも徐々に変化したらお前じゃ分からないぞ。」

「…そう、なのか…。」

余程衝撃的だったのか、解は信じられないといった様子だった。真弓はそんな解を訝しげに見ながら問いかけた。

「そんなにショックですか?幼馴染みのお姉さんに恋愛感情を向けられるのが。」

「いや、元々麗さんを女性として扱うよう言われてたから、そこは問題ない。」

「え?じゃあ、何がショックなんですか?」

「…麗さんはずっと真を好きだと思っていたが、違ったんだな、と。…今の麗さんは真をどう見てるんだ?真はもう過去の存在なのか?」

自問自答するような解の言い方に透矢は苦笑した。どうやら解は麗が真のことを忘れてしまったのかと思っているようだ。

「俺達に分かるかよ。大体、分からないから聞く手筈にしたんだからな。」

「…もしかして、麗さんの気持ちも考えての提案だったのか?」

「まあな。失恋から新しい恋愛に至る例として最適だとは思ってたぞ。他の奴も分かってるはずだ。」

「分かってないのはまた俺一人か…。」

解は無表情に床を見ていた。真がもう愛されていないかもしれない、麗に対してどう行動すべきか等、次々に疑問が浮かんだ。そもそもまだ透矢達の話を完全には信じられない自分がいた。

(まあ、親を愛していた人間が自分を好きだなんて、にわかに信じがたいか。)

透矢は解の困惑を理解していた。とはいえ、このままうじうじされても面白くない。解も含めて人間をクソ扱いする透矢にとって、解達の成長を見るのは娯楽であり希望だった。自分のためにも解には頑張ってもらいたかった。ということで、透矢は彼なりに解を導くことにした。

「まあ、麗さんとは腰を据えて話をしろよ。元々そうする予定だったんだからな。それより、まずは自分自身を理解したらどうだ?女を意識したのは初めてなんだろ?」

「あ、ああ…。成人漫画を読んだ時もキスされた時も、何とも思わなかった。」

「若干変な単語が出ましたけど…とにかく、今回は特別だったんですね。シチュエーションがつぼにはまったのかも?」

「お互い裸だったから性差が強調されたんだろうな。で、だ。本題なんだが、お前はどうしたいんだ?」

「どう…とは、麗さんの愛情を知った上でどんな関係を望むか、ということか?」

「ああ。今まで通りがいいとか、恋人関係になりたいとかだな。」

透矢の言葉を受けて、真面目な解の顔がますます悩まし気になった。

「真がいない今、麗さんは恐らく俺が一番信頼している人だ。ただ、そこには恋愛は含まれてないと思うんだが…。」

「そんなの言われなくても分かりますよ。」

真弓は解の言葉に即反応した。煮え切らない解にやきもきしているようだ。

「両想いで始まる恋人達なんて案外少ないんじゃないですか?黒条さんの好きかどうかは置いておいて、麗さんが黒条さんの恋人になるのはありなんですか?それとも駄目ですか?」

「…駄目ではないな。」

まずは付き合ってみてそれから相性をみるということもあるらしい。ただ、それを自分に適応すると失敗しそうな気がする。…失恋はよくある事象だとしたら、失敗しても別に問題ないのだろうか。しかし麗との関係が悪化するのは絶対に嫌だ。

色々考えるが、まだ零か一かの考え方が基本である解には難しい話だった。そして、解が答えた後にできた一瞬の空白に透矢が滑り込んだ。

「次に確認なんだが、堤先生と生徒会長にも好き云々言われたんだろ?そっちはどう答えたんだ?」

「な、何で知ってるんだ⁉」

不意打ち気味にずばりと指摘され、解は思わず大きな声を出した。プライバシーもあるので瀬奈以外には誰にも話してないはずだ。むしろ生徒会長の聖に至っては瀬奈にも話していない。

「くくっ。何も聞いてなくても見てれば分かるもんだ。」

「さすが兄さんですね。それにしても、複数人に告白されてるのにそんな様子じゃ、とんだプレイボーイですね。」

「真弓は解を困らせるなよ。で、どうなんだ?」

「…始音は返事待ち、聖は断った。」

「あれ?同じじゃないんですね。なんだ、黒条さんにも好みがあるんですね。」

真弓が意外そうに言った。解には好き嫌いがないのだろうかと思ったが、そうでもないらしい。しかし、解は一人納得した真弓に申し訳なさそうに言った。

「…といっても、どうして違いが出たのか自分でも分からない。」

「ええ⁉自分で分かってないんですか⁉」

真弓が驚きと怒りを込めて叫んだ。すると、隣の透矢がため息を吐きながら真弓の頭を小突いた。

「ややこしいから黙ってろ。解、理由が分からなくてもいいがな、お前の中に人間の序列があるってことは諦めて受け入れろ。それと、序列があっても悪くない。これも今は黙って飲み込め。」

「…分かった。」

透矢の言い方は優しくはないが端的で分かりやすかった。解が下手に迷わないよう意図して話しているのだろう。透矢なりの気遣いがありがたい解だった。

「で、麗さんを恋人にするか、しないのか、それとも誤魔化すか。黒条さんはどうするんですか?」

「…一緒に住んでる相手を断るのは難しくないか?」

「私は気にしませんよ。断られても何度も攻めるだけですから。」

「そりゃお前だけだ。まあ、あの人は恋人にはならないと言われたところで何も変わらないだろうがな。」

胸を張って主張する真弓に透矢はため息で応えた。その間にも解は悩み深い顔でずっと考えていたが、やがてぽつりと言った。

「保留は駄目だ。もう十分始音に甘えているのに、これ以上甘えるわけにはいかない。」

「そうですよ。始音さんにもちゃんと返事して下さいね。」

「…そうだな。」

全くもって真弓の言う通りだ。解は始音を思い出して凹んでいた。透矢は妹と解の会話に苦笑しつつ、時間はあるので無駄話でもすることにした。

「ぴんと来ないだろうが、お試しで付き合うのもいいんだぞ。どう転んでも得られるものがあるからな。」

「相手に悪いだろ。」

「そんなことないですよ。告白した側からしたら、付き合ってくれるなら何でもいいんです。後から好きにさせることもできますからね。」

「そんなものなのか?」

「はい。思うに黒条さんは潔癖すぎです。誰だってずるい時もあれば妥協する時もあるんです。告白して来た相手は聖人じゃない、人間ですよ。」

「…。」

ぴんとはこないものの、相手が聖人ではないという意見は考えさせるものがあった。当然だが相手も色々考えて行動している。そして、行動の理由は純粋に善意のみのこともあれば打算的なこともあるだろう。一概に疑うのは論外だが、相手に自分の価値観をあてがうのもまた悪なのかもしれない。

「とはいえ、恋愛は理解したいが恋人が欲しいわけじゃないしな…。」

「兄さん、黒条さんが一人違う世界に行ってますけど。」

真弓はぶつぶつ言う解を訝しげに眺めていた。本音では、せっかく兄のところに遊びに来たのだから、邪魔者はさっさと帰ってもらい、兄と二人きりになりたかった。まして解は透矢が最も気に入っている人間だ。端的に言うと、兄と仲が良い解が妬ましかった。

「考えるのが癖みたいな奴だからな。一人で考える時間も必要だから放っておいてやれ。ちゃんと戻ってくる。」

「じゃあ、その間に私と一緒にお風呂に…。」

「先に一人で入れよ。俺は後でいい。それと今日は解を泊めるからな。寝込みを襲おうとしても無駄だぞ。」

「ええ⁉せっかくのお泊まりなのに…。ならせめてスキンシップを…。」

「調子に乗るなよ。ったく…。」

透矢は抱きつこうとした真弓をするりと避け距離を取りながら考えていた。。

真弓はいつも冷静なのだが、兄が絡むと恐ろしいほど積極的かつ短絡的になる。夏以降、透矢は真弓の愛情をある程度許容することにした。はっきり言ってしまえば、このまま真弓が兄への愛情を貫くなら一緒に生きていくつもりだった。これだけでも人を嫌っている透矢としては相当な譲歩であり真弓も聞いた時に喜んでいたが、まだ一緒に「どう」生きるかは言っていない。真弓のためにはいずれ他人、兄、恋人、どの透矢として側にいるか考えなければならない。

(俺自身、解に偉そうなことは言えないか。)

考え事をしながらも真弓を避け続ける透矢に真弓は大変不満顔だった。

「ちょっと兄さん、せっかく夏休みの一件があったんだから仲良くしようよ!あと、黒条さんがいても気にせず一緒の布団で寝るのは?」

「だから調子に乗るな。解が来てくれなかったら出て行くつもりだったんだ、俺がいるだけましと思え。」

「えーっ!」

「…え?何かあったのか?」

真弓が叫んだところでようやく解は思索の世界から戻ってきたのだった。



 そんなこんなで透矢のマンションで一泊お世話になった解は朝方見送られ(真弓には睨まれ)ながらマンションを後にした。この時間ならまだ麗は仕事に行っておらず、話す時間は十分あるはずだ。無断外泊をとがめられるかもしれないが、心配をかけたくはないので、解は気合を入れつつもそっと自宅の玄関を開け居間に向かった。

 解が音をたてないように居間のドアを開けると、麗の後ろ姿が見えた。朝食の片づけでもしているのだろう。解はいつもの風景に少しほっとしつつ、何となく麗を観察していた。

 麗は背こそ低いものの、纏う雰囲気と背丈を除いた容姿のために昔から大人びて見えた。初めて会った時も高校生の麗が随分大人に見えたものだ。一方で初対面からもう10年以上経つのに全く老けることがなく、むしろ可愛らしさすら残していた。そんな麗が真ではなく自分に対して恋愛を向けているとは解にはまだ信じられなかった。

(風呂に入ったのも純粋に俺を元気づけようとしただけかもしれないからな。)

と、考えているうちに視覚情報も思い出してしまい、解は頭を振って画像と雑念をかき消した。

「…解君?」

その時、気配を感じたのか麗が振り返り解を見て呟いた。そして次の瞬間には笑顔で解に飛びついていた。

「解君、お帰りなさい!帰ってこないから心配したのよ。」

「あ、ああ。悪かった。心配かけて申し訳ない。」

解は麗に密着されて、今まで以上に戸惑っていた。例えるなら、今までが親の干渉を嫌がる子供、今が仲の良い友人を恋愛的な意味で意識してしまった学生という感じだ。麗はそんな解の戸惑いを知ってか知らずか、解から離れないまま柔らかく笑っていた。

「無事ならそれでいいの。でもできれば次は連絡してくれると嬉しいわ。そうだ、朝ご飯はもう食べた?まだなら作るけど。」

麗はいつも通りの反応で、昨日のことは幻だったのではと思いたくなるほどだった。だが、誤魔化してはいけない。解は誘惑に負けず、麗に向き合った。

「食事は済ませてきたから大丈夫だ。…それより、仕事に行く前に少し話をしてもいいか?」

「?もちろんいいけど、どうしたの?急に改まって。」

解は麗を椅子に座らせ、コーヒーを二人分淹れた。緊張しているのが自分でも分かったので、話をする前に体を動かしたかったのだ。麗と自分の前にカップを置き、解も席についた。そして軽く呼吸をして、口を開いた。

「ええと、まず、昨日は麗さんを置いて出て行って悪かった。それでその、確認なんだが、麗さんはなんで俺と一緒に風呂に入ろうと思ったんだ?」

「解君が最近元気なかったから、元気出してもらおうと思っただけよ?」

「そこはありがとうなんだが、どうして二人で風呂に入ると元気になるんだ?」

「裸の付き合いって本音を言いやすいでしょ?私の体も使えるしね。」

「…体を使う…。」

麗があまりにあっけらかんと言うのでさすがの解も絶句してしまった。恋愛でも家族愛でも、もっと自分を大切にしてほしい。

「あの、それはいわゆる、性的な意味で…?」

「ええ。そもそも解君、そういう経験がないでしょ?だから前々から私を使って経験してもらえば勉強になるかなって思ってたの。もちろん解君がよければ、が大前提だけど。」

「…嫌じゃないのか?」

「まさか。大好きな解君のためだもの。嫌なはずないわ。むしろ嬉しいくらいよ。」

「…ええと、その、確認なんだが、麗さんの『大好き』は家族としてなのか?それとも、恋愛や性愛としてか?」

「全部よ。私は母親やお姉さんのように解君を愛してるけど、女性としても解君を好きよ。愛情研究会風に言うと、家族愛、友愛、恋愛、全てあるってことね。」

「そ、そう、か…。」

麗の返事を聞いて解の顔が若干赤くなった。透矢や真弓は正しかったようだ。解は動揺しながらも透矢達の理解度に感心していた。

ところで、目の前の解とは対照的に麗は恥じらう様子はなく、笑顔ではっきりと答えたが、同時に真のことを思い出していた。

(やっぱり解君と真さんは全然違うのね。)

二人は表面こそ似ているが、中身が違う。愛情を理解できないがそれ故に感情も、苦痛さえなかった真と、愛情への理解が進むほどに痛みも理解してしまう解。真と解、どちらが幸福なのだろうか。そして、真を幸せにできなかった者に解を幸せにすることができるのだろうか。…浮かんだ疑問を頭の端に追いやり、麗は笑顔で解に尋ねた。

「解君は嫌だった?」

「それはない。驚いただけだ。…むしろ、あの高揚感は新鮮だった、ような…?」

解は言いながら首を傾げていたが、少なくとも銭湯での一件は嫌なものではなかったらしい。予想していたことだが、麗は解の感想を改めて確認し、心の中で安堵した。

「嫌じゃないならよかった。ふふ…なら続き、したい?」

麗は蠱惑的な様子で解を見た。いわゆる流し目というものだが、解はどきりとさせられた。

「いやいやいや。それはともかく、その…麗さんは真を愛してたんじゃないのか?」

「そうね、今も真さんはとても大切な人よ。恋人になる可能性はないって言われたから、恋愛とは違うけどね。」

「可能性はない?振られたってことか?」

「ええ。言われた時は悲しかったけど、今となっては懐かしい、大切な思い出よ。」

「?」

麗は昔を懐かしみつつコーヒーを飲んだ。振られたのに悪い思い出ではないらしい。麗の話の中に七海の意見に通じるものを感じながら、まずは麗の話を聞くことにした。

「真さんはずっと自分に関わるなって言ってたんだけど、『私といれば愛情が分かるかも』って私が説得したの。…私は真さんを愛してたから一緒にいるだけで幸せだったけど、結局真さんに愛情を教えてあげられなかった。むしろ、私がいたせいで真さんを苦しめたかもしれないわ。」

「…真は苦しむような人間じゃないだろ。」

「そうね。でも、だからこそ申し訳なく思う時もあるけどね。」

「…じゃあ次に、なんで俺なんだ?」

「それは…。話せるんだけど、今から話すとちょっと長いわね。続きは仕事の後にしましょうか?」

解が時計を見ると、予想以上に時間が経っていた。確かに、これ以上長話をすると仕事に遅れてしまう。

「分かった。じゃあ一旦終わりだな。」

「あ、解君がしたいなら、また一緒にお風呂で話す?」

「いやいや…。」

麗は困り果てた顔をする解を愛でつつ、落ち着いた様子でコーヒーを口に運んだ。



(麗さんの誘いは断ったが…。)

仕事中でも解はもやもやとしていた。断ったが、何なんだろう。安心したのか残念なのか。色々と思い出しそうになり、解は慌てて頭から雑念を追い出した。

「おーい!」

「おっ。」

いきなり至近距離で声をかけられたので解は驚いて声を出した。気付くと私服の始音と瀬奈がいた。二人とも不思議そうな顔だ。

「始音と瀬奈か。何だ?」

「何だ、じゃないわよ。むしろこっちが聞きたいわよ。」

「どうしたの、解君?何か考えてたみたいだけど。」

「いや、なんでもない。ぼんやりしていただけだ。それより風呂だな。」

「ちょっと、誤魔化さなくてもいいでしょ。せっかく美人二人が心配してるのに。」

「始音先生。自分でいいます?それ。」

「…。」

瀬奈が始音につっこむ中、解は美人という言葉に反応していた。

始音も瀬奈も、客観的に見るとかなり綺麗だ。性格も良いと思う。そんな二人において、始音には好きと言われ、瀬奈にも嫌われてはいない。この場にはいないが七海も優しくて可愛らしい後輩で、自分を慕ってくれている。今更気付いたが、すごい女性達に囲まれ生活しているのではないだろうか。この事実に気付いた自分は今まで通りやっていけるのだろうか…。

「解君?聞こえてる?」

「え?」

再び現実に引き戻された解は思わず声を上げた。始音と瀬奈はそんな解を見てますます不思議そう、いや不審そうだ。

「どうしたの?ほんとになんか変だよ?」

「何でもない。客が来たから後でな。」

「う、うん。」

「せっかく瀬奈ちゃんと約束して来たのに、つれないわねー。」

誤魔化すような解の言葉に不可解さを感じながらも二人は風呂場へ向かい、解は二人が戻ってこないのを確認してから小さくため息を吐くのだった。


 大分冷えてきたからか、休みの銭湯にはそこそこ客が来た。そのため、始音と瀬奈が風呂から上がっても解には二人と長話をする時間がなかった。そして、昼になった頃に始音が交代で番台にやって来た。

「解君、交代しましょ。」

「ああ。特に変わりないから。」

「了解。じゃあ休憩室に行ってあげてね。」

「…?分かった。」

麗の言い回しを不思議に思いながら解は休憩室に向かった。

(始音と瀬奈には悪いことをしたな。)

二人がただ風呂に入るためにここに来ているのではないことくらいは解にも分かっていた。そして、自分との会話が目的の一つであることは解にとって光栄なことだった。学校で詫びようと考えながら、解は休憩室のドアを開けた。

「いらっしゃーい。」

「お、お疲れ様…。」

「…。」

休憩室には始音と瀬奈が待っていた。いつもはこの程度では動じない解だが、今日は目を丸くして言葉が出なかった。始音はそんな解を冷静に観察していた。

「まあ解君、座って座って。麗さんの卵焼きとおにぎりがあるわよ。」

始音と瀬奈は簡易ベッドに並んで座っていて、始音は自分の隣を叩きながら言った。二人の間に座れ、ということらしい。

「あ、ああ。」

解は少し緊張した様子で座った。両隣からふわりといい匂いがしたが、無視することにした。

解が黙々と食事をしている間、瀬奈も始音も割と大人しく待っていた。しかし始音が静かだったのは最初だけで、しばらくすると我慢できずに解を突っつき始めた。

「で?結局何があってぼんやりしてるの?いい加減話したらどう?」

「大したことはない。昨日は透矢の家に泊まったから眠りが浅かったんだろう。」

「え?そんなことしてたの?解君は外泊とかしなさそうなのに、意外だね。」

「まあ、時にはな。」

解は手元のおにぎりを見つめながら曖昧に答えた。瀬奈達と目を合わせると色々と白状させられる気がした。

「どうして泊まることになったの?男だけで相談事でもあったの?」

「まあ色々、だな。経験にもなるしな。」

自分でも苦しいと思うが、泊まったことを話した以上は押し切るしかなかった。そんな解の様子を見ていた始音は不満そうに鼻を鳴らした。

「ふーん、そう…。」

始音は言葉を区切ると一転して意地悪そうな笑顔を浮かべ、解側に体を寄せた。

「なら今度は私の家に泊まる?二人っきりでゆっくり話ができるわよ。」

「いや、しないからな。」

解は目を閉じて始音に答えた。よほど目を合わせたくないらしい。理由は分からないが今日の解はいつもより感情的で可愛らしく見え、始音はさらにからかってやろうと思った。が、始音の気持ちに気付いたのか、瀬奈は渋い顔で始音をたしなめた。

「始音先生、いくら私達しかいないからって調子に乗り過ぎですよ。」

「いいじゃない、こんな時しか素になれないんだから。ね、解君?」

そう言って始音は解の腕に自分の腕を絡めた。…始音は細身なのに柔らかい。しかもほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。以前始音にキスされた時はただ戸惑ったのみだったが、今は腕にくっつかれただけで動揺していた。麗が悪いとは微塵も思わないが、昨日の出来事が自身に大きな影響を及ぼしたことを思い知った。

(こうして見ると本当に綺麗なんだな…。)

「…解君?何の反応もなく見つめられるとさすがに照れるんだけど。」

「あっ、悪い。」

解に見つめられたせいか、からかっていた始音は困ったような笑顔をしていた。指摘された解は慌てて始音の腕から抜け出して明後日の方向を向いた。

「悪い意味で見たんじゃないからな。綺麗だと思っただけだ。」

「「え?」」

解がぼそぼそと言った内容に二人はしっかりと反応した。どちらも驚いていたが、始音は嬉しさで顔がにやけていた。

「ど、どうしたの?いきなり褒めるにしても、らしくないわね。」

「そうか?」

「そうだよ。真顔で褒めることはあっても、思わず褒めるなんて今まで一度もなかったよ。」

「男子三日会わざれば刮目して見よ、とか言うだろ。」

「…全然説得力がないよ。」

解はいつもの調子で答えるよう努めていたが、目が泳いでおり全くいつも通りではなかった。そして、解の挙動があまりに変なためか、瀬奈が解を見る目は今や心配に加え不安の色も混ざっていた。始音はそんな瀬奈に同情してため息を吐いた。

「はあ…。解君、いい加減話したらどう?こんなに心配してる瀬奈ちゃんがかわいそうでしょ。」

「う…。」

始音の言う通り、瀬奈は本気で心配しているようだ。始音も同じく心配なのか、若干教師オーラを出していた。こうなると解も黙っているのが辛くなってきた。

「二人の言う通り、昨日は…その、麗さんと色々あってな。人、いや女性との接触に戸惑いがあるんだ。」

「戸惑い?」

「困るというか、何というか…。上手く言えないな。とにかく、接し方を改めて考えてるだけだから、心配するな。…あと、悪いが二人ともちょっと離れてくれ。俺が落ち着けない。」

「あ、うん。」

瀬奈は少しだけ離れた後、まじまじと解を見た。解はずっと緊張した様子だったが、今は瀬奈と始音が離れたお陰か少し力が抜けたようだ。

「離れたけどつまんない。もう一回くっついていい?」

「悪いが、いや何も悪くないな。始音は先生なんだから自重してくれ。」

「えー?」

「…。」

結局解がどうして変なのかは分からないが、昨日解は麗と話をしたはずだ。なら、解と麗に何かあったに違いない。そして、麗が関係するから解も細かく話せないのだろう。ならこれ以上無理に聞き出すとかわいそうだ。

(それにしても…。)

女性が近くにいると落ち着かないなんて、思春期の中学生みたいだ。解らしくはないが、なんだか可愛らしい。それに、少し恥ずかしいが解に女性として見られるのは瀬奈には嬉しいことではある。なので、ひとまず様子を見ることにした瀬奈は始音にからかわれる解をのんびり眺めていた。



「はあ…。」

解は今日一日で何度目になるか分からないため息を吐いた。始音と瀬奈が帰った後も結局ずっとぼんやりしてしまった。そのせいでちょっとしたミスをしては自己嫌悪するというサイクルを繰り返していた。

 今は解の家、夕食後だ。麗が流しで作業する一方、解は机に頬杖をついて休憩中だった。麗の手伝いをする元気が出ず、解は視界の中で唯一動く麗を見ていた。

 5歳の時から見ている麗の背中は昔と何も変わらない。「無」であった真のお陰で解は穏やかな日々を過ごすことができたが、その中で麗は解に優しさ、温かさを教えてくれた。それは幼い解には非常に重要なもので、だからこそ麗は解にとって姉・母の代わりだった。

(俺が麗さんに愛情を持っているのは確かなんだろうが…。)

麗を見るとどこか安心することからも分かる。ただ、恋愛的な意味なのかどうかはやはり分からなかった。

 解がじいっと麗の背中を見ていると、麗がくるりと振り返った。解がわずかに驚く中、麗は少し照れたような笑顔を浮かべていた。

「解君、そんなに見られたら少し恥ずかしいわ。」

「あ、いや。そんなに見てたか?」

「背中越しでも感じるくらいには、ね。」

「…悪かった。デリカシーがなかった。」

「いいの。嫌だなんて言ってないでしょ?」

ごく自然に湯呑みが置かれ、解は導かれるようにお茶をすすった。…普通の緑茶のはずだがいつもより美味しく感じられた。

「疲れてるみたいだけど、朝の続き、聞く?」

「…ああ。頼む。」

麗に優しく問われた解ははっきりと答え居住まいを正した。お茶を飲んだお陰で少し頭がすっきりした。

「分かったわ。じゃあ話しましょうか。私の恋愛がどう変わっていったか、よね?」

「言いたくなかったら言わなくていいぞ。」

「別に大丈夫よ。誰かを愛することは恥ずかしいことじゃないんだから。まあ、多少の照れはあるけどね。」

麗は照れがあると言いながら、恥ずかしそうな様子は全くなかった。さっきは無理するなと言った解だったが、麗は迷いのない方がらしいなと感じていた。

「はっきり覚えてないけど、真さんとは3歳くらいからの付き合いね。最初から真さんに懐いてたらしいわ。」

「よく真に懐いたな。」

さすがに真は優しいお兄さんではなかった。

「3歳の私がどう思ったかは分からないけど、私にとっては真さんも普通の人よ。」

「真が普通…?」

出会ってから死ぬまでずっと無表情だった真が普通?

「ええ。真さんは標準偏差から外れてただけよ。そして、愛情が分からないことにずっと向き合っただけ。でも、自分の欠点を正面から受け止めて変えようとする人間なんて少ないから、真さんは本当にすごい人よね。」

麗は歌うように滑らかに語った。愛した人のことだと饒舌になるのだろうか。解は聞いていて少し嬉しくなった。

「普通」から逸脱したものを異常というなら、真は確かに異常だった。しかし、この世に完璧な「普通」の人間がどれだけいるだろうか。実はそれなりの人が大小の差はあれ異常を持ちつつ生きているのではないか。麗の意見で考えれば、確かに真も普通なのかもしれない。…まあ、麗の考え方自体が異常だという疑いを除けばだが。

 麗は考え事をする解を笑顔で眺めていた。解と同じ場所、同じ時間で過ごすのが好きだった。

「真さんに好きですって伝えたのは9歳くらいね。理由は今話したことも含めて色々だけど、一番は繊細なところね。」

「繊細?」

また真に似つかわしくない表現が出たので、解は首を傾げた。真は細かくはあったが細く弱々しくはなかったと思う。

「真さんね、『自己愛がないから自信はない。自分の存在、その意味も分かっていない』って。」

「…俺も近いことを考えたことがある。」

解には初耳だった。解は真の強さばかり見ていたので、弱さにつながり得るところは知らなかった。真も見せなかった。自分と麗では立ち位置が違い、自分が知らない真の一面もあるのだと思い知らされた。

「真さんは恐れや迷いがなかったから、自信がないって思ってても分かりにくいわよね。でも、私はそんな弱さ、脆さを持つ真さんが好きだったわ。私が守りたいと思ったの。それは振られた後でも同じ。」

「…なら、どうして俺を、その、恋愛の意味で好きに?」

「あっ!解君ったら、照れてるの?もう、可愛いんだから。」

麗は言い淀んだ解に本当に楽しそうな笑顔で言った。解は言い返そうとしたが、麗があまりにいい顔だったので、結局何も言わなかった。

「ふふ、ごめんなさい。感情的な解君が可愛くてつい。解君の話の前に、真さんに振られた時の話をするわね。」

麗は謝罪した後に一度咳ばらいをした。笑っていてもいいが、いい加減な話はできないので、笑顔のまま気持ちだけは引き締めた

「解君を引き取った頃に真さんに話をされたの。私は真さんを諦める、真さんは愛情を理解するために頑張らないって。」

「…よく意味が分からないぞ。」

麗が言った二つの条件は内容が全く違うので、取引になっているのかどうか分からない。しかも取引をする経緯もさっぱりだ。

「そう?真さんが『俺がお前を愛する可能性はない、もっと適した相手を見つけろ』なんて言うから、私が諦めるための条件を出しただけよ。」

麗はあっけらかんと言ったが、詳細は意図的に話さなかった。さすがの麗も現在恋している相手にその義父とセックスしたことを話す気にはならなかった。

「私の恋はそこで一旦終わり。でも真さんが大切な存在なのは変わらなかったから、付き合いはずっとあったの。当然今も真さんのことは大好きよ。好きの中身が変わっただけ。」

「…そうか。」

麗の話を聞いて、解は少し安心した。麗は真を忘れたのでも過去にしたのでもなかった。冷静に考えれば、麗が今でも真を大切にしていることは分かっていたが、言葉にされるとはっきり安心できた。そして、麗は解を穏やかな目で見ながら話を続けた。

「それから、解君を好きになったのは…解君が中学生の頃?だったかしら。多分。」

「多分?きっかけはないのか?」

「特にないわ。真さんを目標に頑張る姿とか、銭湯で働く様子を見てたらいつの間にか。」

「…俺のどこがいいんだ?」

「全部。真さんとは違って解君は色んな面があるわよね。優しくて頼りになるところとか、時々面白いこととか。どれも解君で、全部好きよ。」

「…。」

解は自分の頬が少し熱くなっているのが分かった。愛情を伝えることは一般に照れること、気恥ずかしいそうで、恋愛なら尚更らしい。しかし、解は好きと言われても言っても恥ずかしくなかった。愛情を持つこと、伝えることに何も問題がないのだから、恥も躊躇いも不要だと思っていたからだ。…しかし、今回解は好きと言われて恥ずかしくなった。今までの自分との違いは、初めてはっきりと女性を意識したことだ。今までは相手がいると頭で分かっていても、愛情(特に性愛)の点で相手を意識していなかったのだろう。ただ、相手を意識するとなぜ恥ずかしいのかはよく分からない。せいぜい分かるのは不快ではないことくらいだ。そんな自分とは対照的に、麗の様子はいつもと何も変わらなかった。そんな麗に尊敬の念すら抱くほどだ。まあ、動揺する麗というのも想像できないのだが。

「…随分はっきり好きだと言うんだな。」

解は目を逸らしながらぼそぼそと言った。恥ずかしさで麗を直視しにくかった。そして、麗はそんな解を見るのが楽しかった。

「言いにくい人もいるわね。私は自分に興味がないから平気だけど。」

「…?自分が嫌いなのか?」

麗の言葉が気になった解はすぐに聞き返した。自分に興味がないとは、自分のことなどどうでもいいということだろうか。もし自分への嫌悪があっての言葉なら黙っていられなかった。

「あ、大丈夫よ。別に悪い意味じゃないの。」

麗は解を安心させるように落ち着いた様子で笑い、話を続けた。

「単に優先順位の話よ。私は真さんや解君が何より大事で、私を含めた他は全て二の次なの。解君が他の誰かと幸せになれるならそれでいい。もし必要ないと言われたら出て行くわ。」

「…そんなこと、絶対言わないからな。」

「ふふっ、ありがとう。とにかく、私は大切な人のためにいるだけだから、解君が気にする必要はないわ。私の好きに返事はしなくていいからね。」

「えっ。」

どうしようかと悩んでいた部分にずばり切り込まれ、解は一瞬息が止まる思いだった。とはいえ無理矢理心を落ち着けておずおずと口を開いた。

「…いいのか?そんな適当で。」

「大丈夫よ。解君は今愛情を勉強中で、私が勝手に解君を好きなだけなんだから。私のことは忘れていいわ。」

「…でも、そんな提案を受け入れる俺は麗さんとしては嫌じゃないか?」

「そんなことないわ。私への返事なんて小さなことよ。解君は今まで通りで大丈夫。そんな解君を私は愛してるの。そして、なにがあっても私は解君の味方よ。嫌うことなんてないわ。」

「…ありがとう。」

解は少し恥ずかしそうだがそれでもちゃんと麗の目を見て言った。麗は目を細めて解を見ていたが、不意に艶のある笑みを解に向けた。

「何でも言ってね。何だってしてあげるから。」

「い、いや、大丈夫だ。話してくれてありがとう。後は自分で考えてみるから。」

解はそれだけ言って逃げるように居間を出て行った。解を見送った麗は目を閉じてくすりと笑った後、二人分の湯呑みを片付けるために立ち上がった。



「…聞いた話をまとめると、こんなところだな。」

解はふうっと息を吐いて話を終えた。

 今は休み明けの放課後である。いつも通り愛情研究会は同好会室に集まり、解が麗から聞いた話を報告していたのだった。

「はいっ、先輩!」

解の話が終わり一呼吸経過して、司会役の七海が手を上げた。

「何だ?」

「真さんは麗さんを嫌いじゃなかったのなら、試しに付き合ってみたらよかったのにと思うんですけど。」

「愛情が分からないままだったから、敢えて恋人関係になる理由がなかったんだろう。」

「かもしれないけど、違うかもよ?」

解の意見に瀬奈が割って入った。

「真さんにとって麗さんはある意味親以上に自分に寄り添ってくれた相手でしょ。少しは麗さんに思うところがあったんじゃないかな。」

「真に思うところ、か…。」

解が覚えている限り、真が麗を特別思いやる素振りはなかったが、真あるいは真と麗だけが分かる何かがあったのかもしれない。

「俺には何とも言えないが、そうだな。そうだったらいいと思う。」

真が愛情にわずかでも指をかけていたことを願う解だった。

 解の言葉で空気が少ししんみりしてしまったが、それを払うように部屋の端にいた始音が声を上げた。

「麗さんの恋がそんな感じで終わったのは分かったわ。で?次の恋については聞いてないの?議題は次の恋愛に移行する流れ、みたいなやつだったでしょ?」

「う…。ああ、そうだな…。」

解は思わず呻くような声を漏らし、顎に手を当てて考える素振りを見せた。

解は今回の報告で自分に関することは意図的に省いていた。具体的には、麗と風呂に入り迫られたこと、麗に恋愛の意味で好きだと言われたこと、返事をしなくていいと言われたこと、である。言わなかった理由で一番は麗のプライバシーを守るべきと考えたからだが、女性陣の前で話すことに抵抗があったのも事実だった。

「先輩、大丈夫ですか?何だか…。」

七海が心配そうに解を見上げ、顔を覗き込んだ。七海の目は純粋そのものだったが、純粋故に責められているように解は感じていた。

「だ、大丈夫だ。それより、ちょっと近くないか?」

「そうですか?」

解が椅子をずらして離れるのを七海は不思議そうに見ていた。いつも腕や体にくっついても何も言わないのに。そういえば、今日はお昼休みにも距離があった気がする。…色々考えてもやもやしてきた七海は無言で解が座る椅子に自分の椅子を寄せ、解の腕にくっついた。

「お、おい、七海?」

「いつもこれくらいですよ?」

七海は戸惑う解の横ですました顔で座っていた。解の反応は少し不思議だったが、くっついて満足した七海はそれ以上追及しなかった。

 解と七海の様子を瀬奈と始音はじっと見つめていた。そして二人のじゃれ合いが終わった時、タイミングよく始音が切り込んだ。

「で、結局麗さんと何があったの?いい加減白状しなさいよ。」

「いや、大したことは別に…。」

「銭湯の時もだけど、全然誤魔化せてないわよ。妙に私達、というか女性?を気にしてるでしょ。証拠はあがってるんだから、さっさと吐いて楽になりなさい!」

「始音先生。ちょっと言い過ぎじゃないですか?」

「そ、そうですよ。そんなに言ったらかわいそうですよ。」

瀬奈と七海が解に助け船を出したが、始音は腕を組んで不満そうだった。

「あー、二人とも気になるくせにいい子ぶるんだから。ぶーぶー。」

「急に子供にならないで下さい。それに、解君だって言いにくいこともありますよ。」

「解君は首輪をつけて引っ張ってあげるくらいがちょうどいいのよ。でないとふらっと逃げられちゃうわよー。」

「に、逃げられるって何ですか⁉」

「ま、まあまあ。瀬奈先輩も始音先生も…。」

騒がしくなった部屋の中、ずっと黙っていた透矢は首を竦めて軽くため息を吐いた。

「やれやれ…。解、お前が嫌じゃないなら話したらどうだ?どうせ麗さんは怒らないだろ。それに、今後もずっと誤魔化したままにできるのか?」

「…そうだな。」

透矢が言うことはもっともだった。始音にはすでに半分ばれている上、聞かないだけで瀬奈と七海も気にはなっているようだ。

「…分かった。詳しく話そう。」

一同の視線が集まる中、解は話す覚悟を決めたのだった。



 始音は生徒の進路希望を一枚ずつ確認していた。高校二年生の年末はそろそろ進路を本気で考える頃なので、担任としても生徒にしっかり向き合っていく必要があった。

「お疲れ様です、堤先生。」

「あ、お疲れ様です。」

「進路希望ですか。先生のクラスは色々大変でしょうが、無理しないで下さい。では、お先に失礼します。」

残っていた教師が帰り、部屋は始音一人だけになった。黙々と仕事をしていた始音の手があるページで止まった。

 解の進路希望だった。紙には「希望は進学、希望大学と学部は未定」とあった。

「ふぅ…。」

始音は息を吐いてすっかり冷めたコーヒーを一口飲んだ。机の上に重ねられた書類を探り、解の情報が書かれた紙を取り出した。

 解の成績は何の問題もない。よほど難関大学でなければ医学部でも十分合格圏内だ。内申はお世辞にも良いとは言えないが、推薦でもなければ大きな問題にはならないだろう。まだ進路を決め切れてはいないが、ちゃんと相談していけば大丈夫なはずだ。

「解君か…。」

始音は目を閉じて想い人のことを考えた。色々なものを抱えながら頑張る男の子。変なところは可愛くて、真摯なところは格好よく、再会してより一層好きになった。恋愛対象としてだけでなく、自分の人生を色あるものにしてくれた恩人でもあり、再会できて本当によかった。だが、会って恋して終わるつもりはない。

…麗は恋愛の意味で好きだと解に伝えたらしい。まさか麗が自分の体で性教育を教えようとするとは思わなかったが、恋人云々は解に任せるとのことらしい。とはいえ、事があって以降の解は明らかに女性を意識している。やはり麗は解の在り様に大きく関与する人だった。

始音が告白に対して解の返事を待っているのは解を思ってのことだが、待てる女をアピールする打算もあった。しかし、周囲が動く時は始音も動くつもりだ。始音は麗や七海とは違い、解に選ばれなくてもいいとは思えなかった。自分を愛してほしかった。

「私も頑張らないとね。」

愛は戦いだ。好かれないことを恐れる自分と戦い、自分を見ていない相手と戦い、同じ相手を好きになった者と戦う。逃げずに正々堂々立ち向かうことで自身の愛を証明し、自らの幸福を目指す。その結果相手の愛を得る。これが親の愛を力で得て、さして面白くもない子供時代に得た教訓だった。

(とりあえず、銭湯が閉まる前に仕事を終わらせないとね。)

そうして始音は再び仕事に戻るのだった。



 七海は自宅で勉強中だった。相変わらず分からないことが多く、何とか頑張っていたものの、ついに机に突っ伏してしまった。

「…先輩がいてくれたらなあ…。」

解がいれば優しく教えてもらえるし、やる気も出るのに。

「…駄目駄目。先輩に呆れられちゃう。」

七海はかぶりを振り深呼吸してから再度机に向かった。

自身の解への愛情に恋愛が含まれていると分かってから、七海の心にも変化があった。それまでは単純に解に甘えていただけだったが、今は解に甘えてばかり、もらってばかりではいけない、しっかりしようと思っていた。そのため、最近は美容師と関係ない分野でも努力するようにしていた。

「でも、今日は先輩変だったな。」

七海はふと放課後を思い出して呟いた。いつもは抱きついても冷静な解だが、今日は嫌がって、いや恥ずかしがっていた。今回の一件で女性を意識しているとのことだが、瀬奈や始音、麗ならともかく、自分も?

「…そっか。先輩からしたら私も女性なんだ。あ、でも…。」

女性扱いしてもらえることは嬉しいが、解に距離をとられる(物理的に)は寂しい。解に相応しい女性になる努力はするが、まだまだ解に優しくされたい今日この頃だった。

そうして、まだ恋人云々に疎い七海は恋愛のような、兄妹愛のような愛情の狭間で思い悩み、結果勉強がはかどらないのだった。



 一方、瀬奈は銭湯で温まっていた。

「はぁー…。」

力を抜いて大きく息を吐くと、頭にかかったもやもやが少し晴れた気がした。頭がすっきりしたので、瀬奈はもやもやの原因について考えることにした。

「直接聞いてたから知ってたけど…。それにしても、一緒にお風呂…。」

麗は解の見守り役に留まると思ったが、まさか予想のはるか斜め上をいくとは思わなかった。

(私はどうしたいんだろう…。)

自分が解を好きなのかよく分からない…いや、違う。客観的に見れば、透矢が指摘したように恋はしているのだろう。解といると楽しいと同時にどきどきする、解が七海や始音といちゃつくといらっとすることは気持ちの表れだ。他の男子の視線は正直不快なのに解に見られても不快ではない点も、解を特別視している証だろう。

しかし、それでも自分の恋愛感情を認め難いのは、怖いからだろう。また何かの理由で離ればなれになったら、そもそも嫌われたら。友人と深いつながりを持てず、いつしか持とうともしなくなった自分には、一歩踏み出すことは非常に勇気がいることだった。

「…でも…。」

逃げてばかりでは駄目とは分かる。解は環境や偏見に負けず、知り合った後も逃げずに色々なことと関わっているのだから、逃げてばかりの自分では好きになる資格すらないように思う。恋愛は抜きにしても、解が信頼してくれる「私」になって、彼に並びたてるようになりたい。

そんな小難しいことを考えたせいか、瀬奈は珍しくのぼせ気味に風呂を出るのだった。




 愛情(希望)と未来

 明日を楽しみにする、今日一日の不幸を嘆くためには明日へ希望がなければならない。明日に今日と同じ価値しか見い出せなければ、明日は今日の惰性でしかなく、読み飽きた本のページをめくるに等しい。

 明日への希望とは、よりよい明日を好むことであり、即ち未来を愛することである。つまり、愛情(あるいは愛情を理解すること)は自身の未来を描くことにつながり、ひいては自身の幸福への原動力になる。

 自分には未来への展望はない。できることは自分の能力を正しく測定し、自身の生存に有益な選択をすることだけだ。しかし、生存したとして、楽しみも幸せも分からない。楽しい、嬉しいという感情は犬や猫、猿など多くの種も分かるのだから、つまり自分は人間でありながら彼等より精神活動が劣ると言える。

話が逸れてしまったが、明日への希望を持つには明日への愛情が必要になる。明日への愛情を持つには毎日を生きる己を肯定する自己愛が必要であり、日々生活する場所である仕事場や学校で会う人間に対する隣人愛や友愛が必要であり、精神の拠り所であり安定につながる家族や恋人といった共に生きるものへの家族愛や恋愛が必要になる。即ち、明日への希望には安定した自身と周囲、即ち多くの愛情が必要になると言える。

        □年〇月△日 真 記載

              一部抜粋




 麗による通称「お風呂同伴事件」から少し経ち、進路相談をするための三者面談が行われていた。三者とはいっても、解の通う高校では二年は三学期のみ保護者必須であり、二学期では生徒だけでもよかった。とはいえ大抵の保護者は来ているのだが、今日の放課後は少し様子が違っていた。

「なあ解、今日は麗さんが来るのか?」

「いや。俺一人で十分だと思ってから、面談のことは少ししか話してないな。」

「大丈夫?後で怒られない?」

「相槌はしていたから、大丈夫…だと思う。」

「あはは…。」

左から瀬奈、解、透矢と並んで椅子に座りながら、三人は他愛のない雑談をしていた。何の偶然か、三人が同じ日に連続して面談することになったので、廊下で順番を待っていた。ちなみに、並んでいるが椅子は少し離れているので、解としてもゆとりを持って瀬奈と話ができた。

 少し落ち着いたが、解はまだ瀬奈達との距離感を測りかねていた。七海が抱きついてきたり始音がくっついてきたりした時に逃げ出すことはないが、やはり女性を意識してしまう。表面上は誤魔化せるようになったが、よそよそしいと相手に失礼なので解としては以前の冷静さを取り戻したかった。また、女性陣は解の反応をどうも楽しんでいる節があり、何が楽しいのかさっぱり分からない解だった。

 さて、少し話が逸れたが解達の雑談は続いていた。

「霧谷も一人なんだな。」

「お母さんが来るって。さっきも連絡来たからそろそろだと思うけど…あ。」

瀬奈が不意に廊下の奥を見て止まったので、解と透矢もつられて瀬奈の視線を追いかけた。視線の先には瀬奈の母親が急ぎ足で近づいてくる姿があった。

「お母さん、ぎりぎりだよ。」

「ごめんね。ちょっと迷っちゃって…あら?」

瀬奈の母は瀬奈と話しながら両脇の男子二人に会釈したが、一人が解だと気付いたらしく、急に楽しそうに笑った。

「解君じゃない!変わらず瀬奈ちゃんと仲良くしてくれてるようで、ありがとう。」

「あ、いえ。大したことは何も…。」

「この子が楽しそうだから大丈夫!これからも瀬奈ちゃんをお願いね。」

「は、はい。」

「止めてよ、お母さん!あ、前の人が出てきたから行くよ、ほら!」

「はーい。それじゃあ解君、また。」

瀬奈の母は瀬奈に手を引かれ教室に入った。入る間際、解に笑顔で手を振り瀬奈に注意されていた。

 瀬奈とその母親が見えなくなると、透矢が呆れたような声を出した。

「霧谷に快活さを上乗せしたような母親だったな。ま、あれなら国際結婚も余裕だろうし、お前も簡単に受け入れられるな。」

「確かにそうだな。」

「それにしても、いつの間に顔見知りになったんだ?」

「二学期初期に一度。父親も一緒に会った。」

「気に入られたのか。くっくっ、親公認とはな。そういえば、川野辺の親とも知り合いなんだろ?」

「ああ。」

「全く、引く手数多だな。」

透矢はくくくっとひとしきり笑った後、ふと何かを感じて廊下の奥に視線を向けた。そしてぼうっとしていた解に話しかけた。

「へえ。解、保護者だぞ。」

「何?」

ぱっと顔を上げ解が見ると、そこには自然な様子で歩いてくる麗がいた。

「お待たせ、解君。まだ大丈夫でしょ?」

「そうなんだが、なんで来たんだ?」

「むっ。私が来たら駄目な理由でもあるの?」

「ない。」

「ならいいでしょ。一緒に話を聞いても。」

「…分かった。」

麗の言う通り、麗に聞かれて問題はない。わざわざ来てもらって悪いというだけだ。しかも了承されて麗が嬉しそうなので、解としては何も文句はなかった。

「うんうん。あ、茅野君もお久しぶりね。」

「どうも。くく、相変わらず年上に弱いな。」

「麗さんが強いんだ。」

「解君?」

麗からのプレッシャーを感じ、解はすぐさま黙ったのだった。

「それにしても、流石の麗さんも面談では正装なんですね。」

透矢が思い出したように言った。実は最初から気になっていたのだ。麗は珍しくロックな私服ではなく、柔らかめのスーツ姿だった。

「流石にね。この手の服はいつも着ないから、こういう時くらいは着てあげないと。」

「一応気を遣ってるんだな。」

「一応って何よー。」

口を尖らせながらも麗は上機嫌だ。以前来た時も楽しそうだったが、解と一緒に学校生活をしている気分なのだろう。

ところで、解は会話しつつも麗をちらちらと横目で見ていた。自他の性を実感し始めた解にはスーツ姿の麗は気になる存在のようだ。そして麗は解に見られていることを承知で、かつ楽しんでいるのだろう。透矢は話をする解と麗を冷静に観察していた。

(この二人はこれからどうなるかね。)

 家族のようで他人、姉弟のようで男と女。解は麗を他人としつつも家族愛を、家族の距離で解と接する麗は家族愛と恋愛を相手に向けていた。今まで解はお互いの愛情のずれを分かっていなかったが、お風呂同伴事件によってようやく気付いた(気付かされたが正しいが)。これで二人の関係も変化するだろう。変化・成長があってこそ面白みのある人生であり、透矢が興味を持てるのだ。

(しかし、麗さんはどう動くもんかな。)

 透矢は、人は愛されたいから愛するのだと考えていた。「卵が先か鶏が先か」のようだが、承認欲求がないなら他者を必要とせず、求めないだろう。結局透矢にとっては愛情とは利己的なものだ(それが悪いとは言わない)が、何と麗は解に愛されなくて構わないらしい。対価を求めない愛があるとは思っていなかったが、麗はそんな愛を持つからこそ透矢が予想できない行動をとれるのかもしれない。

(…まあいい。どうあれ興味深いからな。)

与えるだけの愛が存在するのかも含め、今後解の周りがどうなるだろうか。透矢は友人として手助けしつつ、他人として冷静に観察していた。そんな自分に嫌悪感を抱いたまま。


「「失礼しました。」」

少しして瀬奈母娘が教室から出てきた。瀬奈の母親は次に待つ解と麗に声をかけようと解の方を向いた。

「次は解君ね…って、え?お、お姉さん?」

「始めまして。解君の保護者の麗です。瀬奈ちゃんには解君がお世話になってます。」

「あっ、こちらこそどうも。瀬奈の母です。」

麗と瀬奈の母親はお互いに頭を下げた。瀬奈の母親は最初こそ麗の若さに驚いていたが、落ち着くと麗と瀬奈をしみじみと見比べた。

「はー…これじゃあ瀬奈ちゃんも大変ねえ。」

「何の話⁉もう帰るよ、お母さん!じゃあみんな、さよなら!」

「待ってよ瀬奈ちゃん!すみませんが、お先に失礼します。」

「どうもー。」

瀬奈の母親は瀬奈に手を引かれながらも麗と笑顔で別れの挨拶をして去っていった。後には笑顔の麗と今ひとつ話についていけなかった解、そして冷静な透矢が残された。そして懇談は解達の番だった。

「よし。じゃあ解君、行きましょうか。」

「ん…。ああ。」

麗に促され、解は少し瀬奈を気にしながらも麗に続いた。

「「失礼します。」」

「はーい。よろしくお願いします。」

解と麗は机を挟んで麗の前に座った。外の音が聞こえていたのだろう、始音は麗が登場しても驚かず、いきなり本題に入った。解も麗も良く知った仲であり、性格上前振りも不要な二人だったからだ。

「では黒条君、麗さん。早速ですけど進路の話をしますね。黒条君は進学希望なのね?まずはそれでいいんだけど、志望の学部や大学はある?」

「大学は近場でいいかと。学部は…まあ、医学部、かなと。まだ好きなこと、したいことがないので、今の知識を使えるところにしておくのが適切だと思っています。」

「ふんふん。まあ、目標を難しいところに設定しておけば変更しやすいから、別にいいけどね。」

始音が真面目な調子だったので、解も倣うことにした。が、そこに麗が割り込んできた。

「解君、銭湯は何か希望はないの?自分が経営したいとか、更地にしたいとか。」

「ん…。特に、希望はないな。敢えて言うなら麗さんの希望に沿いたい。」

「私も特に希望はないわ。解君の思い出と居場所を守ってるだけだから。」

「…ありがとう。ただ、そんなに俺に気を遣わなくていいからな。」

「それは無理よ。私にとっては解君が何より大事なんだから。」

「そ、そうか…。」

麗の言葉で解の方がたじろいでいた。麗と話をして以後、解は自分に好意を向けられると少し動揺するようになっていた。

「はい!じゃあ黒条君は銭湯に就職する気は今のところなくて、銭湯は現状維持ってことね。」

始音は解と麗の代わりに話をまとめた。話を進める必要がある上、目の前で二人だけの話をされて面白くなかった。

「まあ、黒条君は成績には何の問題もないから、医学部も大丈夫でしょう。…ただ、これ以上喧嘩とか問題は避けてね。推薦じゃないから内申はほとんど関係ないけど、悪すぎると分からないから。」

「確かにそうだな。今後は気をつけます。」

「えーっ?解君は解君らしく自由に生きたらいいわよ。内申を気にするなんて解君の体に良くないわ。」

麗はあからさまに不満を表に出して言った。冗談ではなく本気で言っているらしい。しかし、始音も教師である以上黙ってはいられなかった。

「麗さん、黒条君の将来のことですから。黒条君に非はないのは知ってますけど、内申なんてつまらないことで足元をすくわれてほしくないんです。」

「それなら内申にちゃんと説明を書いたらどうでしょうか。正当防衛だったとか。」

「もちろんちゃんと書いてます。私も大切な教え子の前途を守りたいですから。でも暴力沙汰になったとか、停学になったとかは誤魔化しようがないじゃないですか。だから言ってるんです。」

「周囲のろくでもない人達のせいで解君が我慢する必要なんてないです!」

「別に我慢しろなんて言ってません!」

「ちょっと、ちょっと待て、二人とも。」

麗も始音もヒートアップしてきたので、解は無理矢理議論を中断させた。どちらも解を心配してのことなので有り難い話だが、二人が険悪になってしまうのは御免だった。

「麗さん。始音、いや堤先生の言う通り、揉め事はない方がいい。『正当防衛も暴力だから使い時を考えろ』と真も言ってたぞ。」

「…むぅ。」

「堤先生も、麗さんは俺の昔や発作のことを知っているから心配してるだけだ。文句を言いたいわけじゃない。」

「分かってるわよ。…麗さん、すみませんでした。」

「こっちこそごめんなさい。解君のことになるとつい…。しーちゃんは解君のために話してくれたのに。」

「ん?しーちゃん?」

今は割と真面目な話なのだが、解は聞き慣れない言葉につい反応してしまった。と、ほぼ同時に机の下で足を小突かれた。始音だ。

「麗さんとは夏休みから個人的な付き合いがあるの。だから食いつかないの。」

「分かった。…。」

「え、何?どうかしたの?」

不意に解が何事か考え始めたので、始音は気になって声をかけた。違うとは思うが、蹴られて痛かったり怒ったりしただろうか。

「ああ。…いや、変わったなと思ったんだ。」

解に怒っている様子はなく、むしろ穏やかな雰囲気で、少し笑っているようにも見えた。

「去年は進路なんて他人事で、麗さんに相談する気すらなかった。それが今は友人がいて、こうやって話ができる。俺自身も時には相談するようになった。良いことかどうかは分からないが、とにかく自分の変化を実感したんだ。」

「それは良いことよ。だって、真さんができなかったことができるようになったんだから。」

「そうよ。仲間をつくる、仲間を頼るって大事なことよ。解君一人で何でもできるわけじゃないんだから。」

麗は優しく、始音は力強く解に答えた。そう言ってもらえることが嬉しく、嬉しいと思えることが嬉しかった。


「…やれやれ。いつまでかかるんだか。」

透矢は教室内の話を盗み聞きしながら苦笑していた。下劣で何も変わらない自分を鼻で笑っていた。





   妹について

 意味のない記録と考察だが、もし解が自分の過去を知ろうとするならば必要かもしれないため残しておく。

 妹は幼い時は私を恐れ、成長してからは嫌っていた。いつしか両親とも距離を置くようになり、高校を卒業すると同時に上京し、両親と連絡を絶った。

 私は妹を嫌うことはないが、妹に何の愛情も持たない。そんな私が最後に妹と会ったのは両親の死後だった。誰も連絡する術がない妹だったが偶然両親の死を知ったらしく、遺産相続のために帰って来たと言っていた。妹は最初「兄さんが一人で相続する気か」と言っていたが、元から遺産を折半する用意ができていたことを知ると「兄さんは相変わらず、動いてる死体と同レベル」という言葉と連絡先を残し、再度消えていった。

 何故妹は私を恐れ嫌悪したのか。推測だが、私の在り様が理由だろう。私は家族といわず全てに愛情を示さず、精神障害とされていた。妹は私を「何考えてるのか分からない」、「無表情で気持ち悪い」と評していたので、この推測は大きく間違ってはいないだろう。

 しかし、他にも疑問点はある。妹が高校二年生ごろだったか、「兄さんはいいよね」と口にしたことがあった。そして再会時も「私と違って恵まれているくせに」と言っていた。言葉から推察すると妹は私に何かの点で劣等感を持っていたと思われるが、その内容は不明だ。私が妹より勝るとしたら学業を始めとした知能と体力だろう。いずれも私には無価値だが、妹はそれらに価値を見出したのかもしれない。あるいは私では理解できない面を妹が羨んだ可能性もある。その場合考察は不可能であり、直に尋ねるしかない。

 また、妹は解の存在を全く口にしなかった。後々考えると早期に帰ったのは解がいたからだろう。解のことを言わなかったのは説明する意義を感じなかったのか、介入される危険性を考えたか、それとも所有物としての独占欲からか。結局、私では解けない疑問である。妹と会うことは二度とないと思われるため、疑問は解決されないまま漂うのだろう。

     …年…月…日 真 記載

     閲覧禁止ファイル

パスワード ××××××


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ