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捨てた初恋は、遠き約束の彼方で

作者: 相内 充希

今作は「帰郷~つま先立ちの恋をした場所~」の舞台を洋風から和風に変更し、手直しをしたものです。内容はほぼ同じですのでご注意ください。

 吹き抜ける冷たい風にぶるっと体を震わせた寿々香は、急に静かになったなと思い、手をつないでいる息子を見下ろした。さっきまでピョンピョンと跳ねていたのに、今は眠そうに目がとろんとしている。


(はしゃぎすぎて疲れたのね)


想士(そうし)、抱っこする?」

「ん」


 手を差し伸べると素直に両手を挙げた息子を抱き上げ、骨盤の左側に乗せるようにして安定させる。同じ年頃の子に比べて小柄とはいえ、二歳も半ばになった子供はずしりと重く感じる。それでも眠いせいかホカホカとした体温が伝わるのが愛おしくてぎゅっと抱きしめると、ふくふくのほっぺに一度頬ずりをしてから顔をあげた。


「想士、寒くない?」


 赤くなった頬を人差し指の背で撫でてやると、息子は父親譲りの灰色の目を細め、「そうちゃん、ちゃむくない」とにっこり笑った。


「そう? 寒くないの?」

「うん! ねえねえ。ばしゃ、まだぁ?」


 視線が高くなったことで目が覚めたのか、想士は鉄道馬車の線路のほうへ首を伸ばした。


「そうねえ、まだみたい。疲れたならお家で待とうか?」


 予定より遅れている待ち人を、ぜったい鉄道馬車の駅舎まで迎えに行くと言って聞かなかったのは想士だが、春とはいえ今日は曇っていて寒い。しかしそう聞いた寿々香に想士は、ぷいっとそっぽを向いてしまった。


「おうち帰ゆ、()っ!」


 舌足らずに反抗し、寿々香にぎゅっと抱き着く想士を見た義母がクスクスと笑った。


「あらあら、帰るのは嫌なの? 想ちゃんったら、ずいぶんおはなしが上手になったわね」


 そう言って穏やかな笑みを義母から向けられ、寿々香は「そうですね」と頷き返した。



 ああ。こんな穏やかな時間が来るなんて、あの頃誰が考えただろう。

 はたから見れば寿々香達三人は、仲の良い祖母と母と孫に見えるに違いない。


 そう考えると寿々香は、胸の奥からふつふつと笑いがこみあげてくる気がする。


 なぜなら二年前に亡くなった夫一臣の母である義母しゅうとめと、一臣の子である想士、そして彼の母である寿々香。この三人は全く血のつながりがないのだ。

 しかも義母と寿々香はと言えば、ほんの数年前まで、こんな風に笑みを交わすなんて考えられない関係だった。

 一時はすべてを失ったと絶望していた寿々香はもちろん、長年心を閉ざしていた美しい義母の笑い声を聞く日がくるなんて、あのころは想像すらできなかったのだから。


 そこへ、少し離れたところから駅員が寿々香を呼ぶ声が聞こえた。


「緋ノ原寿々香様、いらっしゃいますか?」


 ここにいると寿々香が片手をあげると、駅員はじっと見つめてくる想士に微笑みつつ、簡単な問答をした後「電報です」と白い紙を手渡した。寿々香が受け取りサインをすると、「事故があったようで、あと二時間ほど馬車の到着が遅れそうです」と言い仕事に戻っていく。


「寿々香さん、どなたから?」


 寿々香が電報を受け取れるよう、かわりに想士を抱っこした義母が手元を覗き込む。


「あら。統馬さんですわ」


 待ち人が送ってきたそれは、もちろん彼の直筆ではない。

 しかし、ここで待っている三人が心配しないようにだろう。


「ゴメン オクレル。 シタイシ トーマ」


 わざわざメッセージを送ってくれた人を想い、寿々香はクスッと笑った。


   ◆


 寿々香が緋ノ原一臣と結婚したのは今から七年前。十六歳の時だ。

 中央高等学園の五年生で、卒業まであと一年という時だった。

 いわゆる政略結婚だ。


 この時代の女学生ならば、縁談が決まり次第退学、即結婚という流れは珍しくない。貴族はもちろん、平民であっても恋愛結婚をするものはまれで、たいてい父親が持ってきた相手に嫁ぐものなだから。

 平民でも裕福なものには許嫁がいて、時間をかけて嫁入りの準備をするものもいる。


 しかし寿々香の場合、両親が恋愛結婚だったからだろう。彼らは娘に許嫁は設けず、いずれ自分の想う人いと添い遂げるよう言い続けていた。

 だから寿々香も、いつか誰かと恋をして、その人と結婚をするのだと――幼いころからそう信じていた。そしてそれは、十三歳で出会った四歳年上の統馬だと、寿々香は疑いもしなかったのだ。


 振り返ればあまりにも子供だったと思う。


 学園は男子学部と女子学部に分かれていたが、交流がないわけではない。学生にも兄弟姉妹はいたし、彼らを通じて男女を超えて友人になることもある。

 まれに恋人になるものもいるが、それはもともと親が決めた許嫁で、出会いを演出されただけという場合が多いのだ。寿々香の父が言うには、親が決めた相手であっても、息子や娘に青春を楽しませたい親心というものらしい。


「まあ、親としても、子供が幸せになれると信じて縁を結んでるわけだしな」


 そう言ってニカッと白い歯を見せた父は、自分には結んでくれないのかと不思議がる寿々香の頭を大きな手でぐりぐりと撫でた。


「俺たちが結ばなくても、おまえがいい縁を結ぶはずだよ。俺みたいないい男を見つけてこい」

「はいっ、お父様! 期待してて!」


 迷いなく返事をした寿々香の頭を、父はもう一度クシャっと撫でてくれた。


 とはいえ、父のようないい男を見つけるのは難しいかもしれない――。

 そう思っていたのはたしかだった。


 なぜなら寿々香にとって同じ年頃の男の子はみんな子供に見えたし、先生方はおじさんに見えた。先輩に黄色い声をあげる友達もいたけれど、どうもピンとこない。そんなんだからもちろん後輩も論外だ。


(お父様の方がお母様より年下なのに、子供には見えなかったのかしら?)


 そう。母は父より一歳年上なのだ。

 しかし二人が出会ったとき、母は雷に打たれたような衝撃を受けたと言っていた。父のほうは、可憐な母に見とれて盛大にこけて恥ずかしかったらしい。おかげでしばらくの間まったく素直になれず、ぶっきらぼうな態度をとってしまったそうだ。

 それでも運命の糸が切れることはなく、二人は結ばれ幸せな家庭を築いた。


 そんな出会いが自分にもあるのだろうか。


(う~ん。……まあ、今はまだなくてもいいかな?)


 勉学は楽しかったし、友達と遊ぶのも楽しかった。無理やり恋をする必要なんてないだろう。そもそも運命の人が近くにいないなら仕方ない。だったら大人になってから見つければいい。


 本気でそう思っていたのに、すべてが変わったのは他とは違う人――――統馬を見てからだ。



 第一印象は最悪だ。


 統馬は教師の助手として職員室で仕事をしていた。まだ十七歳なのにだ。


 十五歳で天涯孤独になった彼は、本当だったら学園をやめざるを得なかったという。

 しかし彼は群を抜いて成績優秀だったため、教師の助手をすることを条件に学び続けることを許されたらしい。


 しかし、それを面白くないと思う者もいたのだろう。

 主席だった少年を、男手一つで育ててくれた親が亡くなったことで、こいつは格下だと思うようになった同級生に絡まれているのに、寿々香は偶然出くわした。


 自分がバカにされたわけではないが思わずカッとした。

 何も言い返さない少年が誰かも分かっていなかったのに、一緒にいた友人が止める間もなく飛びだしてしまった。飛び出したからといって何ができるわけでもないのに。


 しかし突然飛び出してきた寿々香に唖然とした年上の少年たちは、一瞬怪訝そうな顔をした後、背後で寿々香を不安そうに見つめる友人の珠緒を見てコロッと態度を変えた。

 珠緒は烏の濡れ羽色の髪と涼やかな目元が大変美しい少女で、学園長の孫でもある。同性で友人の寿々香でも、その美しさに時折ハッとすることがあるのだ。彼らも彼女にかっこ悪いところを見られまいと思ったのだろう。


 毛を逆立てた猫のようにフーフー言う寿々香を尻目に、少年たちは髪を撫でたり意味不明なことを言いつつ、何やらかっこをつけながら去っていく。その姿が見えなくなってから胸に飛び込んできた珠緒を受け止め、改めて散らばった荷物を拾っていた統馬を見た寿々香の胸に、最初に広がったのは怒りだった。


「あなたね! あんなことをされて、どうして何も言い返さないのっ」


(やっぱり男の子なんて幼稚なやつばっかり!)


 肩をすくめるだけの少年にぎりっと歯ぎしりをしながらも、少し離れたところに転がっていた教材を拾って、小言の一つでも言おうかと思いながら彼に渡す。


「ああ、ありがとう」


 しかしそう言って顔を上げた統馬と目が合った瞬間、寿々香はパチクリと目を瞬いた。なぜか理屈ではなく、探してたものをやっと見つけたような気がしたのだ。


 ツンツンと立った短い髪は堅そうで、近くで見ると黒ではなく濃い茶色だと分かる。色素が薄いのか、目は墨を流したような灰色。目と眉の位置が近く、凛々しい印象を与える。

 少しまくられた袖から覗く腕はたくましく、胸板も厚いことが分かる。

 男子学生らと同じくらいの年なのに、成熟した印象に呆然とした。


 間違っても幼稚になんて見えなかった。

 彼のほうがずっと大人だから、子供である男子学生たちを相手にしなかっただけなのだ。


 落ちた荷物をすべて拾ったことを確認した彼が、少し怪訝そうにしながらも軽く会釈して去っていくのを、寿々香は呆然と見送った。

 胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて声が出ない。


「すず? どうしたの?」


 珠緒が袖を引っ張るが、ようやく出た寿々香の声は「見つけた……」だった。


「えっ? 何を?」

「彼、わたしの運命の人だわ。絶対そう」


 どうしてそこまで確信が持てたのか分からない。互いの名前さえ知らない相手。しかも彼からは変な子供だと思われていたから。

 ――そう、十七歳から見た十三歳の女の子なんて、完全に子供なのだ。


 でも寿々香は統馬に猛烈にアタックした。

 彼を守れるのは自分なのだと思い込んだ。いや、正確にはそうありたいと心から望んだだけ。


 彼の立場や成績を知り、勉強を教えてほしいと言って困らせもした。頼ってくる人を無下にできない統馬が渋々でも応えてくれるから。


 孤独な先輩になつく後輩に見えたのか、教師も寿々香達を見て微笑ましいような顔をするので、遠慮をすることなんて思いもしなかった。


 統馬は口数の少ない少年だったが、勉強を教えるのが上手で、他の男の子と違って美人の友達と差をつけない。徐々におしゃべりに付き合ってくれるようになったし、不謹慎だとは思ったが、働きながら学んでる彼の卒業が少し遅くなることも嬉しかった。

 男女で校舎が違うとはいえ、全寮制の学園だ。卒業されたらなかなか顔を見ることも難しくなるから。


 少しずつ仲良くなり、寿々香は「変わった後輩」から徐々に「女の子」に変わっていった。統馬が十九歳で卒業したときには、三年後に寿々香が卒業したら恋人になる約束もできた。もちろん結婚を前提にしたお付き合いだ。


 それまでにしっかり自分の立場を作ってくると、統馬は西へと旅立った。彼の論文が認められ、大学へ特待生として学費免除の入学が認められのだ。

 とはいえ、簡単に行き来できる距離ではない。山も海も超えた先は、寿々香にとっては外国にも等しい。それでも寿々香は、卒業後に学園の正式な教師になることが約束された彼のことが誇らしかった。


   ◆


 しかし、寿々香は彼を待つことができなかった。


 大好きだった父が事故で亡くなり、母が病に倒れた。商売を立て直すために援助を申し出てくれたのが緋ノ原一臣だ。


 寿々香よりずっと年上だということしか情報がない状態だったが、今まで支えてくれた従業員を路頭に迷わせるわけにはいかない。

 統馬には別れの手紙を出した。一方的でひどい内容だった。

 返事は読まずに捨ててもらった。彼の字を見てしまったら、それが罵りであっても決意が揺らぐから。


 心は切り裂かれたように痛んだけれど、最後まで反対していた母を説得し、泣きながら頭を下げられ、寿々香は名前しか知らない夫のもとに嫁いだ。



 一臣は大柄な男だった。

 いかにもモテそうな甘い顔立ちは軽薄そうだと思ったが、事実そうだった。


 三十を過ぎても結婚はしたことがなく、かわりに複数愛人がいる。豊満な大人の女が好みで、嫁いだ時にはサトという女性に入れ込んでいた。

 なぜ知っているかと言えば、サトは頻繁に夫に会いに来たからだ。


 愛人なりのけじめだったのか、サトが緋ノ原家に泊まることはなかったが、夫は彼女のもとに入り浸った。しかしサトを妻にしなかったのは、彼女が下層民の出身だったからだ。


 寿々香も平民だが、実家は古い家系だ。

 その名前があれば、一臣はさらに商売を広げることができた。そのためだけの結婚だった。


 だから祝言も形だけ。

 一臣にとって、まだ十六歳のほっそりした少女は完全に対象外らしい。祝言の間でさえ、ちらっと視線を投げた以外、寿々香は名前ひとつ呼ばれることはなかった。名前自体覚えていなかったのかもしれない。

 夜は寝室で一人夫を待ったが、彼は愛人のもとから三日間帰らなかった。


 一臣の父親も、愛人を持っていたという。

 夫の母親は美しいが幽霊か人形のようで、生気のない女性だった。すべてに無関心で反応がなく、寿々香もやがて声をかけることをあきらめた。


 ただ仕事はやりがいがあったので頑張った。

 夫は寿々香を妻として扱うことはないものの、仕事に携わることには反対しなかった。むしろ女だからと侮ることもせず、こちらが聞いたことに対して面倒がることもなく教えてくれたし、仕事を通してだけだったならいい関係だと言えたかもしれない。


 がむしゃらに働いた。

 故郷の母と従業員の為という気持ちもあったが、仕事に集中していれば、寂しさを、そして恋を忘れられた。


 とはいえ、愛人たちの家に入り浸る夫との間に、当然子などできるわけがない。


 しかし名ばかりの夫が初めて寝室に訪れたのは、結婚してから四年後。寿々香の二十歳の誕生日だった。

 酔っぱらった夫は、相変わらずほっそりとした寿々香をつまらなそうに見たが、最近お気に入りの愛人の体調が悪く相手にしてくれないらしい。そのイライラをぶつけるように数日間、寿々香で欲を発散したのだ。


 つらくて不快でしかなかった夫婦の営みだったが、寿々香の腹に新たな命が宿った。夫は少しだけ機嫌がよくなったし、ほんの束の間夫婦らしい穏やかな時間もあった。


 しかし――


「チッ。本当に役に立たないな」


 三日がかりの出産。しかし生まれても産声を上げなかった我が子。

 打ちのめされる寿々香に追い打ちをかけた一臣はしかし、目の色も知らない我が子の葬儀の五日後、一人の赤ん坊を寿々香に押し付けた。


 それが愛人が生んだ子であることはすぐにわかった。葬儀の前、一臣が寿々香に暴言を吐いた後、「サトは息子をちゃんと生んだのに」と呟いたのをしっかり聞いていたからだ。


 しかし、なぜ連れてきたのかを考える余裕はなかった。

 か細く泣き、お腹を空かせて口をパクパクさせながら懸命に乳を探す赤子を見て、自分の中にあったことも知らなかった母性が顔を出した。


 飲ませる子もいないのに張る胸。泣きながら絞って捨てていたそれを求める赤子に、飲ませない選択などなかった。


 初めてで不器用に乳をあたえた。不思議な感じがした。

 誰の子でも関係ない。この小さい命を救えるのは自分だけなのだと、守らなくてはいけないと思った。


 少しして、サトが病で亡くなったのを知った。感染力は低いらしいが、まもなく夫も同じ病で亡くなった。


 葬儀の間も義母に悲しむ気配はなかった。



「あれは、私の子じゃなかったもの……」


 そう言ってはじめて、一臣が亡くなった義父の愛人が生んだ子だったことを知った。

 彼女も男児を生んだが、今は亡き一臣の父によって、愛人の子である一臣がすでに跡継ぎに決められていたのだ。


 それでも息子の命の危険を察した義母は、信用できる使用人夫婦に我が子を託した。表向き、子がいない夫婦に養子に出したことになっている。今も所在がわからないのは、子供の安全のためだった。


 義母は想士を養子に出そうかと提案したが、寿々香はそれを断った。


「この子は、私が育てます」


 自分の命を分け与えた子に情が移っただけ。

 そう分かってはいた。けれど想士の目の色は、夫より初恋の人の目の色に似ていた。少し珍しい灰色の目。


「内緒ですよ?」


 女の子の内緒話だと打ち明けた寿々香に目を丸くした義母は、あらためて想士の目を覗き込み、「まあ」と、驚いたように息を呑んだ。


「わたしの息子も、こんな目をしていたわ。顔も少し似ている気がする」


 叔父と甥にあたるのだから似ていてもおかしくはない。

 しかし、はるか昔に別れた息子を重ね合わせたのだろう。義母が想士を孫として可愛がるようになったのと同時に、寿々香の提案で消息の分からなくなった息子を探し始めた。



 息子の安全のためだったとはいえ、消息を絶った使用人夫婦がどのように隠れたのかを探すのは困難だった。


 やがて使用人夫婦の妻が亡くなり、夫が男手一つで息子を育てたところまでわかる。


 まもなくその彼も亡くなっていたことがわかり一時は絶望したが、ひょんなことから息子の消息が分かった。訪ねてきた寿々香の母が持ってきた手紙がきっかけだった。


「寿々香さん。白石統馬……というのは、お友達、なの?」


 母から渡された手紙の束の中で目が留まったのだろう。懐かしい名にドキリとする。

 義母の震える声に不貞を疑われたのかと思ったのだ。


 事実、心は裏切っていたので否定できない。

 十年間ずっと好きだった。会えなくなっても忘れることができなかった。


 つま先立ちをしたような幼い恋だった。

 なのに、ただの初恋だとしまいきることができなかった想いが今もあふれ出しそうになる。それを必死でせき止めた寿々香はなんでもない顔で、「学園の先輩です」と答えた。

 まさかそれが、義母の息子だとは夢にも思わずに。




 母に促され、しぶしぶ統馬の手紙をあらためた寿々香は、その内容に目を見開いた。なんと結婚の申し込みだったのだ。


「どうして……」


 消印はつい一月前のものだ。昔彼に送った別れの手紙の返事ではない。

 驚く娘に母は、さらに衝撃の事実を話した。


 統馬は大学で学位を取ったあと教師にはならず、そのままそこで会社を立ち上げていたという。そして寿々香には内緒で母の事業を影から支えてくれていた。母自身、そのことを知ったのはつい最近なのだそうだ。


 統馬は驚くほど寿々香の近況を知っていた。

 無理もない。寿々香がそうと知らず取引をしていた会社の責任者が彼だったのだ。


 しかも義母に聞かれるまま彼の話をしたところ、統馬こそが一臣の異母兄弟で、本当だったら緋ノ原家の正式な跡取りだったことがわかった。

 統馬に会いに行った義母が確認し、そのまま彼を連れ帰ってきたのだ。


 わだかまりもあっただろうが、邪魔の入らない地で色々話し合ったのが良かったらしい。二人並ぶ姿は普通の母子で、寿々香は胸が熱くなった。


 当たり前だが、統馬は大人の男になっていた。

 もともと大人っぽい人だったが、責任ある立場で経験を積んだ、すこぶるいい男だ。

 呼吸を忘れるほど見つめた。涙をこらえるのが大変なくらい、せき止めていた気持ちがあふれて止まらなかった。


 あのころと変わらないくらい大好きで大好きで大好きで、どうしようもないくらい大好きで……。



 しかし正式な後継ぎが帰ってきたとなれば、寿々香と想士は邪魔になる。

 そう伝え、息子を連れて実家に帰ろうとした寿々香に義母はオロオロし、統馬は呆れたようにため息をついた。


「なあ、寿々香。俺はフラれたってことなのか?」

「え………」

「そういや、求婚の返事をまだもらっていなかったな」

「本気なの?」


 寿々香は想士を手放す気はない。

 そう言うと、昼寝から覚めた想士を当たり前のように抱き上げた統馬は、

「想士、おまえの父さんだぞ」

と言うので驚いた。


「え、ちょっと」

「寿々香が母さんなら、俺が父さんでいいだろ。というか、想士が俺の子だって言って疑うやついなくないか? こいつ、生まれてくる腹を間違えたとしか思えないだろ」


(本当によく似ている……)


 同じ色の髪、同じ色の目をした二人を見比べ、義母がハラハラと涙を流す。


 義母も想士とは血の繋がりはないが、寿々香共々実の家族だと思って接してきたのだ。そこに統馬がスルッと入ることによって、ごく自然に本物に変わる。

 そのことに寿々香も気づき、ゴクリと喉を鳴らした。


 でも寿々香は彼以外の男の妻だった。

 陽の光を見ることはなかったが、子供を産んだ。そのため、もう子供は望めないと言われている。


 絞り出すように「わたしは、あなたの妻になる資格がない」と伝えた寿々香を引き寄せ、統馬はそれを否定した。


「君の一方的な別れに怒らなかったと言えば嘘になる。怒りに任せてがむしゃらに学んだし、復讐のつもりでこの事業も立ち上げた」


 その告白に当然だと頷く。

 求婚も復讐なのだとしたら、むしろ寿々香はそれを受け入れるべきなのかもしれないと。


 しかし統馬はそんな寿々香におでこをぶつけてきたので驚いた。軽いとはいえ結構痛くて涙が出ると、無意識に「何するのよっ」と怒った声が出てしまった。父が亡くなって以来、一度も出したことがないような子供っぽい顔と声で。


 すると統馬が笑い出し「よかった」と言った。

「君の中にはまだ昔の君がいた」――――と。


「ずっと君への怒りと戦っているつもりだった。でも違った。君の立場がなんであれ、俺は君の力になりたいだけだって気づいてしまった。あの時俺に君を救う力があれば、こんな目に合わせずに済んだんだと悔しくて、そんな自分に怒ってたんだよ」

「でもわたしはひどいことをしたもの」


 怒って当然だと言う寿々香に、彼は肩をすくめた。


「まあ、あの手紙はどこの悪女かってくらいひどかったな。でも思い出したんだよ。あれ、君が好きだった小説の真似だろ?」


 図星を指され赤くなった寿々香に統馬は、

「立派な悪女だったよ」

 と、いたずらっぽい笑みを見せる。


 すっかり大人なのに、その笑みは出会った頃よりもずっと少年のようで、寿々香の心にすとんと甘いものが落ちる。


(ああ。わたしはこの人を愛してるんだ)


 どうしてこの手を離したのだろう。

 なぜ、一度も相談をしなかったのだろう。


 正しいことをしたという自信はある。寿々香の行動で救えた人はいると自負している。あのときは、他に方法がなかった。気持ちを優先させることはできなかった。


 でも苦しかった。会いたかった。

 同じ苦労をするなら、彼と一緒がよかった。


「俺は寿々香以外を妻にはしたくないんだ。遠くからずっと見てたよ。どれだけ頑張ってきたか、俺は知ってる。全部知ってるんだ。むしろ資格が必要なのは俺の方だろう。君は、俺を夫にするのは……いや、君と共に俺も、この子の親になるのは嫌か?」


 その真剣な声に震える。


 そこに想士がきょとんと首をかしげ、

「とーしゃ?」

 と言ってにっこり笑った。


 寿々香の心臓が大きく胸を打つ。

 

「おう、そうだぞ。俺が父さんだ。お母さんにそうだと教えてやってくれ」


 資格はできただろ? と、いたずらっぽく笑う統馬に、寿々香は泣きながら頷いた。


  ◆


 統馬は会社の整理をするため、一度西に戻った。手紙や電報のやりとりをし、今日ようやく帰ってくる。

 来月には結婚式を挙げるのだ。


「かあしゃん、おうまさん、来た!」


 息子の指さす方を見ると、線路の向こうに駅馬車の姿が見える。

 すべてがあるべきところに帰るまで、あと少し。

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何度読んでも「良かった〜!。゜(゜´Д`゜)゜。」しか出てこない!(笑)
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